「…………」
当時のドロップスティアーの心情は、再び最悪にまで落ち込んだ。
二度と両親に会えない。自分から会いに行く事も出来ない。そして神様は両親を一度たりとて連れ戻す事も、自分を連れて行く事もしてくれない。
『
出来る事は全てした。車へのトラウマも殆ど無くなった。一人称こそ変わったが、生来持っていた明るい性格が戻りつつあった。
その矢先に、彼女は文字通り致命的な矛盾を抱えてしまったのだ。強すぎる希死念慮と同等の生存本能という、毒物の様な化学反応を齎す水と油。これに対し、今度こそ義父は手が思い付かなくなった。
(……
彼女の一人称は、口頭では”自分”を守っていた。だが、精神は”わたし”に戻っていた。
神様が本当に良い存在なら、なんで両親を奪ったのか。なんで事故を起こした運転手は生きているのか。なんで自分だけが生き残って、こんな苦しんでいるのか。
様々な思考がグチャグチャになって、ドロップスティアーは再び生気を失った。義父はそれに対し、言葉が何の慰めにならない事を察し、血が出る程本気で壁を殴った。
出来る事は、子供騙しの駄菓子を仕入れ、温かいご飯を作って待つだけ。ドロップスティアーは小学生にして、ただ息をしているだけという無気力状態にまで陥ってしまった。
「……ここ……どこだろ……」
小学校からの帰り道、いつもの山道。だが、考え事をしている内に道路を外れてしまっていた。
木々の僅かな隙間や、山肌の斜面を歩いている事にも気付かなかった。何もかもどうでも良かった。最終的に帰りさえすれば、オヤジはちゃんと無言でご飯を出してくれるから。
しかし、この場所は全く知らない。周囲は似たような木々に囲まれている。山肌の表面は、昼まで降っていた雨でぬかるんだ泥になっている。
歩きにくい。だから、引き返す。泥の山肌を歩いてきたというなら、自分の足跡を戻れば山道まで戻れる。そう思ったから、くるりと引き返し。
「え」
山道は、険しい。道路でさえ厳しい傾斜がかかっている、誰も拓いていない単なる山肌はさらに険しい勾配が――とてつもない斜面となっている。
そこから、足を滑らせた。結果、起きる事は一つ。
「――やぁあああーーーっ!?」
悲鳴を上げた後、迫る景色がスローモーションの様に思える。視界が白み始め、そして
(し、ぬ)
死ぬ。死んでしまう。ゆっくり流れる景色の中で、
どうせ自分の力では天国に行けないのだ。そもそも神様がいるなら、少しでも優しさを持っているなら、両親は死なずに自分は幸せに暮らせていた。このまま生きるよりも、死んだ方がマシだ。
そう、理性的な絶望を抱きながら――
「ぎッ――」
滑落のスピードが完全に乗り切る前に、周囲の木に腕をぶつけて軌道を逸らす。
それで僅かに減速させながら、足裏を真横に向けつつ角度を咄嗟に変え、スキーの様にブレーキを試みる。
山肌に埋まる小石を土踏まずで捉え、さらに僅かに減速を加える。眼前に迫る木々に対し、体を傾けて背中で受け、ピンボールの様に体を僅かに横方向に弾く。
「あ゛、ぐっ、ぅあ゛ッ、がぁッ――」
何も考えない。何も考えていない。しかしそれでも、彼女の体にトラウマと共に刻み込まれた死への忌避感――生存本能の強い勘が、最適解を導いてしまう。
両脚の膝を曲げながら山肌へと傾き、重心を抑えて転倒を防ぐ。途中途中で木々を掴み、”掴みすぎれば勢いで手か腕が壊れる”という判断が即座に手を離させ、微減速に済ませる。
山肌の先に、
ドロップスティアーは、体を
「ぅう゛ぅあぁあ゛ぁーーーッ!!」
全身が痛い。山肌に転がる小石や雑草など、その全てが自分の服と体を削っていく。
だが、
死にたい・死にたくない・死にたい・死にたくない。心と体はちぐはぐなまま、ドロップスティアーは崖へ向かって滑り落ちていく。彼女の人生の様に、苦難と激痛の中で命が運ばれていく。
一度落ちれば、二度と戻れない崖淵。そこへ向かって、彼女は滑り落ちていき――
「――ッハァッ! はぁっ、はぁっ、はぁっ……! うあ、あ、ああっ……」
――崖の寸前で、彼女の
それと同時に。
「――……あ、は」
彼女は、再度の発狂を迎えた後、再び笑えなくなった。二度と笑えない程の、それだけの深い絶望の崖へと突き落とされた。
天国に行けない。二度と両親に会えない。神様も自分を見捨てた。ただ生きて、生きるだけの、叔父に迷惑をかけるだけの。なんで生きているのか、何の為に生きているのか。
そんな彼女は、あと数メートルもすれば落ちて死ぬ、この崖際で。
「あはっ……あははっ……」
笑い出した。かつての天真爛漫だった頃の、生来の彼女の笑い。
しかし、決定的に
表情も、声色も、何もかも。全てが当時と同じであったが。
「あはっ、あははっ――あーっ、っはっはっはっは!!」
それを今回の滑落事故で、そして両親の交通事故で。完全に思い知った。
今自分がやった行為に、優しいとか言われている神サマは関与しなかった。体が勝手に反応し、激痛を伴うたった一つの命綱を手繰り寄せる曲芸。女神の優しさなど欠片も感じられない、痛みだけしか感じられない延命。
そんな事に、笑うしか出来なかった。あれだけ死にたいと、両親の元に行きたいと、生きたくないと。そう願っているのに、自分は
――この時より。ドロップスティアーは、
◆ ◆ ◆
「……おかえ――なんだお前、そのカッコ!? おい、大丈夫か!?」
「……オヤジ……」
「救急車、救急車呼ぶから座ってろ! あぁいや、骨! 痛い所無いか! どこが痛い、折れてないか!?」
「大丈夫。大丈夫だよ、オヤジ」
「――え」
山肌の滑落から、ドロップスティアーはなんとかあちこちを探り回り、山道へと戻った。
自分でも恐ろしい事に、自分の体は普通に動いていた。全身は打ち身だらけで痛いし、泥まみれの全身は服があちこち破けて血が出ている。どう考えても重傷者のそれ。
しかし、ドロップスティアーは自覚していた。
「死んでないよ。死なない。自分は、
「……お前、何を……」
「救急車は、要ると思う。歩いてはこれたけど、走るのはちょっと辛かった。ゴメン、また入院すると思う。また、お金かかっちゃうね、こんなちっちゃい駄菓子屋なのに」
「……ティア……?」
ドロップスティアーはずっと前から、『スティア』呼びされる事を強く嫌う様になっていた。それは育ての父である叔父であっても例外では無い。その呼び方は、母の最期を思い出させるから。
義父もそれを理解して、なるべく彼女を『ティア』という近しい愛称でもなく、『お前』『バカ娘』と呼ぶ様にしていた。しかしそれを忘れさせる程に、今のドロップスティアーの様子は尋常では無かった。
全身傷だらけ・泥だらけ・血だらけ。その上で
「――あはっ。笑っちゃうよ、オヤジ。自分、これでも平気なんだよ?」
「……どうしたんだよ、おい……」
「山の中で迷い込んで、そこから滑って転んだ。あとちょっとで、崖から
「…………」
すぐにでも救急車を呼ぶべき、その状況で。義理ではあるが、誰よりも大事な自分の娘の平坦な語調に。義父は、完全に思考を停止させられていた。
昨日までは、喋る事すら億劫になっていた。起きて学校に行って寝る、たったそれだけだった。にも関わらず、重傷を負って今にも死にそうな見た目のこの娘は。ここ最近で、最も元気な声色をしていた。
「オヤジ。自分は、もう大丈夫だよ。もう死なないって
「……ティア……」
「救急車、呼んで? ……痛いから、ちょっと休む」
「わ、わかった……」
そして義父は、言われるがままに救急車を呼ぶ。到着するまでの間、寝転がる彼女の全身をタオルで拭き、泥と血を落としていく。
間違いなく重傷だ。早く搬送すべきだ。素人だろうが、それはわかる。
――しかし。
「――おかーさん、ほめて……? わたし、
眠り込んだ自分の娘は、笑いながらそんな寝言を漏らした。
その瞬間、義父は。自分の娘が、
◆ ◆ ◆
「――バカ娘ェーーーッ! まーた
「ぎゃぁあーっす!!」
それからしばらくして。ある光景が山頂の駄菓子屋では日常的に行われる様になった。
ドロップスティアーは、生来の明るさを取り戻した。しかし、その代償として
彼女には、
しかし当然、その結果は姿に表れる。傷だらけになって戻ってきたり、服のあちこちが破れたり、打撲痕を残したり。しかし必ず決まって、
「い、いやいや! ちょっと待って、聞いてよオヤジ! すごいの思いついたんだって!
「もうその響きだけでナシだボケェーーーッ! 出来るかそんなもーんッ!!」
「いやゆっくりなら行けるんだって! その内
「『もん』じゃねーぞバカ娘ェーーーッ!!」
「ぎゃぁぁあーーっす!!」
義父とドロップスティアーの関係は、一見して元に戻った。ドロップスティアーは笑顔を取り戻し、トラウマを完全に払拭した。しかし、彼女は
誰にも出来ないだろう自殺行為を追求しながらも、『出来ない』と判断したら即やめる。命を大事にしながら、命を粗末にする。そんな近道を探しに探し、毎日の様に全身は草と泥と傷まみれとなる。
しかし、
希死念慮と生存本能の中間。
(――ダメだ……止める手段が思い付かねえ……)
義父は毎日の様に制裁を加えながらも、この娘が狂った状態で定まった事を察した。
自分に出来る事は全てやったつもりだったが、彼女の心の傷はあまりに深すぎて、誰かの手が届かない所までヒビが入り、そして壊れた。それが最終的に、命知らずの近道の追求という最悪の趣味に結実してしまったのだ。
ドロップスティアーは近道で大怪我を負わない。『ちょっと今日はムリだった』と言って、近道をせずに帰ってくる時もある。つまり、自分の身の安全をある程度は守っている。
しかし、一歩間違えれば間違いなく死ぬ。そんな近道を追求しているだろう事を、義父は知っている。知った上で、
何もかもを笑い飛ばしながらも、この娘は心の奥底では
「そんなんやらかしたらメシ抜きにすんぞバカ!」
「うえぇぇ!? やだよ勘弁してよオヤジ! ご飯無くなったらそれこそ死んじゃうよ自分! ウマ娘がオヤジの何倍おなか空かせてると思ってるのさ、殺す気!?」
「死ぬ気なのはお前の方だろがァーーーッ!」
「うぎゃーーーっ!!」
それから義父は、父として本気でドロップスティアーへ制裁と叱責を下す様になった。ドロップスティアーもまた、自分がそれだけの事をやっている自覚はある。なので、受け入れる。
だが、それでもドロップスティアーは止めなかった。どうせ死なないのだ、
”ヤマ娘”・ドロップスティアーの運命は、この瞬間に決まった。”ウマ娘”として走りに楽しみを得る事では無く、死に望んで臨む事に楽しみを得ようと思った。
――そうして。
◇ ◇ ◇
「――こんなトコですかね。ま、良くある話でしょ?」
「…………」
「両親が死んで、遺された子供。誰だって、似たような感じになるでしょーよ」
ドロップスティアーの病室。連連と、平坦に自分の過去の話を終えた彼女は、起き上がってペットボトルの天然水を呷った。
彼女の異常性は、強い希死念慮から来ている。いつ死んでも構わない、それどころか自分が死ぬ事が望ましい。そう思っているから、彼女はどんな無茶でも笑ってやってこれた。
そしてもう一つ、名入は気付いた。彼女は『負けたくない』とは良く言うのだが、『
彼女は勝利したいのでは無く、敗北したくないだけ。彼女の母親が遺した『まけないで』という最期の想い・願い・支え。それらを根源・核として心を形成している。故に勝負に拘りながらも、『勝ちたい』とは言わない。
掛からない事。闘争心の欠如。それは、
「……オヤジの狙いは、多分
彼女の父親の願いは、大事な一人娘の心根にあるこの最悪の歪みが、レースという真っ当な世界に触れる事で治る事。ただ一つ、それだけだった。
”ヤマ娘”などと呼ばれる程、地元で下手に力を得てしまった彼女は、
本当は、トレセン学園に最初から通わせてやりたかった。そこで真っ当な走りの喜びを得て欲しかった。だが、地方だろうがトレセン学園はトレセン学園だ。
将来の不確定さを考えて、そして
育てられる貯蓄はあるが、それはあくまで一般人が社会に出るまでの物。トレセン学園へ通う経費などを加味すると、
父親は、出来得る限りの事を尽くした。”おとーさん”と”おかーさん”の代わりに彼女を育て、トラウマに寄り添い、ベストを尽くした。しかし、最後の最後で力が及ばなかったのだ。
「『悪夢から覚めろ』って言うのは、そういう事です。……オヤジは、頑張って自分の悪癖を直そうとしてました。だけど、無理だった。……
ドロップスティアーが立ち直れた理由は、
しかし、死んだ様に生きるよりは遥かにマシだった。結果だけを見れば、彼女は明るさを取り戻した。大きな怪我も負わずに生きてきた。幼少期に両親の死を目の前で見せられる、そんな極大のトラウマを克服して。
その代償が、
このまま”ヤマ娘”として、いつ死ぬかも分からない生活を続ける。そう父親が諦めかけていた時に、シンボリルドルフが偶然に訪れて。そして彼女は、道を得た。
真っ当な”ウマ娘”に成り得る――しかし、歪んだ走り故に真っ直ぐ走れない、そんな
「昔話はこれで終わりです。……あーあ、終わりですよ終わり。ぜーんぶ終わりです」
「……そうか」
「一年かけてのダービーは負け、トレーナーさんの信用は地の底。こんだけやって勝てない以上、皆への勝ち目はゼロ。自分の勝負は、ぜーんぶ終わりました」
ドロップスティアーはそう言って、飲み干したペットボトルを床に捨てて、ばたーんとベッドの上に大の字となった。
彼女は負けた。”黄金世代”と呼ばれる彼女達の才覚に対し、一年と一命の全てを賭けても尚負けた。最早これ以降、彼女達に勝ち目は無い。
一度勝てば良かった、絶対勝つべきだった”でっかい勝負”で負けた以上、ドロップスティアーに走る理由は無い。彼女の頭には、ダービーで負けない事しか無かった。その為にデビューした以上、他のレースに興味は無い。
”黄金世代”を避けて戦えば、負けないかもしれない。しかし、”でっかい勝負”以外に彼女は価値を見出せない。ダービーは二度と来ない、それ以外に出たいと思えるレースも無い。だからもう、全部終わりだ。
「――まだ終わってねーよ、だあほ」
「……はぁ?」
そう自暴自棄になって吐き捨てていたドロップスティアーに対し、聞き役にのみ回っていた名入が自分の意見を発する。
「あはっ、何言ってんですかね。自称・超有能なデータキャラさんの言うセリフじゃないでしょ。自分、一年かけて負けたんですよ? 言っときますけど、ダービー以外の勝負に興味なんか無いですよ、どーでもいい」
「だろうな。だけど、まだあるだろ。
「はい? 何を――」
「
「――……はぁぁ?」
ドロップスティアーは名入の言葉に、心底腹が立った。
確かに、クラシックは終わっていない。自分の怪我は日常生活を普通に送れるレベルの軽症であり、足を骨折したグラスワンダーよりももっと早く復帰出来る。
しかし菊花賞は、クラシック三冠の終着点だ。”三冠”と名がつく通り、その価値は皐月賞・東京優駿にも決して劣らない、歴史に残る大レースである。だが、
「らしくないですね、ホント。一年東京走り込んで、それで勝てなかったんですよ? 菊花賞は大体五ヶ月後、自分の怪我の完治を含めりゃ猶予は残り三ヶ月ぐらい。……スペさん達は、絶対菊花賞来るでしょ?」
「当たり前だ。”三強”なんて言われてるアイツらが来ない訳が無い。”最も強いウマ娘”を決める、最後の冠。アイツらは本気でやってくるだろうぜ」
「――ッ! だったら、勝てないってわかってるでしょうがッ! あれだけやったダービーで負けた! 使える武器は全部使った! それでも、自分は負けたんですよッ!?」
「そうだな」
ドロップスティアーは、弱い。弱かったが故に一年を費やし、まとめてやってきた”三強”相手にたった一回だけ、互角に戦える様になった。
GⅡを獲れたのも、そこが東京レース場だったからだ。経験が多かったからこそ彼女は勝てた。全力を出し切れた。一年越しの作戦だったからこそ、彼女は相応の力を得たのだ。
だから別のレースで、しかも最後の三冠レースで。”黄金世代”に、勝ち目など無い。
「だけどお前は、肝心な所を忘れてんだよ」
「……肝心な、所?」
「確かにお前は、ダービーまでに出来る事を全部やった。一年かけて力も技も、速さも手に入れた。出来る事は全部やって、それで負けた」
「……ッ」
名入の再確認に、心底ドロップスティアーは自分の無力と名入の現実逃避とすら言える発言に苛立った。
これだけやって勝てない相手に、猶予は実質三ヶ月。名入がどんな事を考えていようが、実力の差があり過ぎる。レースの強さとは速さであり、そこで勝てないから土台で勝とうとした。
菊花賞には、何の土台も持ち込めない。”最も強いウマ娘”を決めるなどという、自分に最も相応しくない言葉のレースで、勝ち目は――
「だが、
「――は?」
名入は、さらりと。”絶対”有り得ない筈の言葉を発した。
思わずドロップスティアーは、無力だった体を僅かに起こし、名入の顔を見た。
真剣な、嘘を感じさせない表情をしていた。
「……そもそも。俺はデビュー直後から、お前が
名入は、信用という名のデータに生きる。『信じているから大丈夫』などと、根拠の無い感情論は絶対に言わない。だからドロップスティアーがダービーに一年をかけると聞いても、予定に間に合せられるかは微妙だと思っていた。
”黄金世代”の全員の成長曲線を完璧に予想は出来なかった。一年かけて集中して、どれだけ地力が伸びるかもあまりに不明瞭だった。だから、純粋な当時の能力差とレース結果からある程度計算を続け、それでも尚及ばないと思っていた。
しかし、ドロップスティアーもまた
「”クレイジーなダービーウマ娘”。そんな風な呼び方すら、今のお前には付いてる。実際、ヘッドスライディング無しでもせいぜいスペシャルウィークとは半バ身ちょいって差だったろうよ。今のお前には、
「……それは、自分が東京ばっか走り込んでたからってだけで……」
「
ドロップスティアーは中央に来てからの成長速度だけを見れば、”黄金世代”にも匹敵している。大元が模擬レース全敗スタートで、曲がり方も知らなかったレースのド素人。
しかし彼女は、地力だけはあった。山道を走り込む中で得た歪んだ走法と共に、それを強引に補えるスタミナやパワーを元々持っていた。そしてそれは、年始からの本格的なトレーニングによって確実な”速さ”に繋がってる。
単なる奇策と下準備だけでは”黄金世代”に並べない。彼女は、真っ当な強さも積み上げてきた。
その上で。名入には
「――第四十五回。菊花賞の勝者は?」
「……は? んなん、ルドルフさんに決まってんでしょ」
「第五十三回は?」
「ライスさんですよ。超絶一般常識じゃないですか」
「第四十九回」
「スーパークリークさんでしたね。凄いですよねアレ」
「第五十一回」
「メジロマックイーンさんでしょ。なんですこのクイズ?」
「第五十五回」
「それこそ皆知ってますよ、ナリタブライアンさんです」
菊花賞の歴代勝者。それを名入は矢継早に、ランダムに出題する。ドロップスティアーは
ドロップスティアーは、トゥインクル・シリーズに疎い。ある程度マシになったとは言え、元よりレース外の出身なのだ。『歴代三冠ウマ娘を答えろ』と言われても、そこそこの時間頭を悩ませるレベルで疎い。
にも関わらず、彼女は
「……なんでお前は、そんなに菊花賞に詳しい」
「バッカじゃないですかトレーナーさん。
年始より始めた、地獄マラソン。そこでミッドフットを体得すべく、ドロップスティアーのフォームは徹底的に叩き直された。何十万メートルも走り、数え切れない程指摘されてきた。
そして同時に、ピッチ走法のスタミナ消費を補うべく。最もスタミナ効率の良い走りを、名入は徹底的に座学として教え込んできた。
――
「確かに、菊花賞の勝者は有名だ。だが、
「……んん?」
「お前は、東京レース場の下調べで一年使った。そしてその過程で、
「――はっ?」
”最も強いウマ娘”を決めるレース・菊花賞。そこに出られるウマ娘達の走行フォームは、整っている。完成度が高く、スタミナの消費を抑えられる。だからこそ名入は、ダービー前までひたすら菊花賞の走りを教えてきた。
だが。
「お前は東京レース場を最も走ったウマ娘であり。
「――――」
その言葉に、ドロップスティアーは絶句した。
名入は、ダービーに間に合うか微妙と最初から思っていた。その上で、時間の限りあらゆるトレーニングを積ませてきた。その過程で、”最も強い”走りを教えた。
「そして、お前はもう一つ忘れている。俺は契約時に、こう言った筈だ。『お前のその走りを完成させる道がある』と」
「いや、それは――」
「だがこれまで俺は一度も、
「――は……はぁっ!?」
その言葉を聞いて、本気でドロップスティアーは跳ね起きた。
確かに名入はダービー前、『自分の想像を超えた』と断言した。それはつまり、名入の考えた以上の力を得た――走りを完成させたという事ではないのか。
「下手な慰めなんて……!」
「俺が慰めるのが上手にも下手にも見えんのか?」
「――……」
全く思わない。名入は、生粋のデータ信者である。
ことレースに関しては根拠の無い慰めは言わない。『絶対勝てんから負けてこい』などと、平然と何度も抜かしてきたトレーナーなのだ。真顔で告げてきた名入に、際立った感情は見られない。
名入は鍛えるだけ鍛え、激励や応援などまるでしないトレーナーなのだ。
「『俺の想像を超えた』って、確かに言ったじゃないですか」
「”五つの武器”は完全に俺の想像外の代物だ。プラスして、年始からのモーションキャプチャースーツのトレーニング。アレの効率が、異常に良かった。体には左回りが染み付いてるだろうが、
「…………」
ドロップスティアー・五つの武器。ダブル鋭角コーナリングはもう二度と使わせないとしても、あれらによって彼女は名入が想像していたよりも遥かに好走する技能を得た。
名入は、ダービーまでに出来る事は全てやった。
名入は根拠の無い信頼をしない。ダービーはノープランで挑ませなければならなかった。だが、
――名入は。
「俺はお前がダービーに勝てるかどうか、半信半疑だった。だから悪いが、
「……ウソでしょ……」
「俺はド悪党トレーナーだからな、お前の目標なんぞ知らん。ま、当然ダービーでも勝つのが理想だったが……負けたモンはしゃーない」
名入は最初から、
当然、ダービーで勝つ為の事は全力でやってきた。だがそれは、”最も強いウマ娘”を育てる過程と両立が出来た。東京レース場に特化させた事の矯正こそ要るが、その辺りはあまり問題では無いと確信している。
「あえてもっかい言っとく。俺の中では、
「……」
「そして、お前は
「……っ」
「……ダービーにだけ一年を費やした、ダービー専用ウマ娘? だっはっは、
「……ト、トレーナー、さん……」
ダービーという大勝負の為に、ドロップスティアーは全てを捨ててきた。
しかし名入は、
この事をドロップスティアーに伝える事はしなかった。彼女は、嘘がつけないから。
そして名入は必要とあらば、大嘘で誰かを騙す事に一切の罪悪感を持たない。
「……俺らしくない事を言うぞ。
「――……」
「朝日杯、グラスワンダーが勝った後の帰りの新幹線で言った筈だ。『
「……ッ……」
ドロップスティアーは、名入が嘘つきである事を知っている。だが、レースに関して誤魔化した事が無い事も知っている。
信じろと言われて。ドロップスティアーは、俯いた。
「……走りをっ。完成、させられるっ……そんな保証が、どこにっ……」
「
「…………」
声が揺れる。平時の、”今日”が保てない。
ドロップスティアーの耳が、ばらばらに動く。ウマ娘の耳が揃わない時、それは不安感を抱いている時だ。いつも”今日”の彼女は、そういった様子をこれまで一度も見せた事が無かった。
「完成させた後。走って勝てるかどうかは、お前の仕事だ。……だが、俺はあえて、今日だけ。信条を捻じ曲げて、こう言ってやる」
「……なにを……」
「次の菊花賞は、
「ッ!!」
ドロップスティアーはその言葉に、堪え切れずベッドに倒れ込んだ。前に倒れ、顔を伏せた。
大嘘だ。一年もかけて負けた相手に、”絶対”勝つ保証なんて無い。このトレーナーは自分と違って、必要なら平気で嘘を付くド悪党トレーナーだ。
――だけど。
「……ぅ……ぁ……ぁあっ……」
――ドロップスティアーは、泣けない。子供の頃に受けたトラウマが深すぎて、壊れて”ヤマ娘”となってから。それからドロップスティアーは、一切泣かなくなった。
”皇帝”にライブ偽装で脅されても泣かなかった。エルコンドルパサーを相手に絶不調で縋り付いた時も、泣きそうに愚痴っただけだった。グラスワンダーからレースしてみたいと言われて、『泣きますよ。泣けませんけど』と断言していた。
彼女の心は、あの時から動いていなかった。”わたし”が死んだ時に、涙は涸れ果てた。
――筈、なのに。
「うあ、あっ――あぁあぁあっ……!!」
今は、今だけは。”わたし”の時とは違う、涙が溢れて止まらなかった。
ドロップスティアーはこの日。
いっぱいの涙。
――
こいつの正式名がDrop Stairという呪い混じりの事実は変わりません。
しかし「呪い」は「お
これで主な伏線は回収し終えました。まだもうちょいありますが。