「――ちったぁ落ち着いたか、だあほ」
「……はい」
ドロップスティアーは、泣き腫らした目で名入と向き合い直す。その名入も、徹夜の看病で目の隈が酷い。揃って酷い目元コンビであった。
今まで泣けなかった分を、全部吐き出した。溜め込んでいたダムが一気に決壊した様に、ドロップスティアーは何年分もの涙と嗚咽を流した。
おかーさん達を失い、おかーさん達に会えなくなって、死ねない”ヤマ娘”となって。それからずっと溜め込んでいた涙を、全てまとめて出した。そんな気分だった。
彼女が泣いた日は、いつだって最悪だった。だけど今日に限って、気分はむしろ爽快だった。
「……お前の怪我は軽症だ。退院して手のヒビが治り次第、つーか俺の謹慎が解け次第、フツーにトレーニングする。お前は幻のダービーウマ娘らしく、しばらくはゆっくり休んどけ」
「”幻のダービーウマ娘”って、響きだけなら凄いカッコイイですね」
「肝心の中身が最悪だけどな」
「違いないです。……ケータイ、貸してください」
「ほらよ」
あはっ。ドロップスティアーは、本当に素直な笑顔で名入に笑いかけ、自分の携帯を求めた。当然理由は、スペシャルウィークらへの連絡。
光栄な事に、ドロップスティアーは”黄金世代”らのグループLANEに参加させてもらっている。まぁ向こうは色んなグループを持っている内の一つでしか無い、自分は”同期組”として参加してるだけの存在ではあるのだが。
とにかく、全員に伝える。『起きました。ダービー台無しにしてごめんなさい』。これだけは、絶対に伝えるべき素直な気持ちだった。
「……菊花賞。マジで行くんです?」
「大マジだよ、だあほ。
「……まぁ、
菊花賞・クラシックの最後の冠にして最終点。バカみたいに大量の映像を見せられた事で、ドロップスティアーの頭はそのレースの特徴と問題点を良く理解している。
まず、京都レース場の外回りに存在する”淀の坂”。スタートからすぐに坂に入り、そこから高低差4.3メートルの坂に入る。
跳ねるピッチ走法の使い手であるドロップスティアーにとって、坂はそれだけで有利要素だ。急坂であればある程効果を発揮するこの歪んだ走りは、勾配のキツい中山・坂が長く高い京都レース場に向いている。
しかし、問題は距離。スタミナを浪費する自分の走りでは、3000メートルという長距離をミドルペースで走り切るのは、限りなく不可能に近い。
「菊花賞は何はともかく、淀の坂が全てだ。ぶっちゃけ、あの丘みてーなトコ以外、何の特徴も無ぇ。なんかコーナー六回回って、二回坂上り下りして、はい終わり、だ」
「いや全然『はい終わり』じゃないから皆困ってんですけど」
「その辺の攻略は、お前の走りを完成させてから教えてやる。ともかく、東京レース場よかお前向けのコースだ。だから、走りを完成させりゃ
「……?」
菊花賞はとにかく長い。クラシックシニア混合のステイヤーズステークス・中山3600メートルとかいうまさに地獄の耐久レースを除けば、クラシック最長レースだ。
しかし、コースの起伏はほぼ淀の坂のみ。シンプルな地力を問われるとされる東京レース場ですら、向正面の上りから第三コーナーまでの下り、最終直線の急坂など、複数の起伏が存在した。ダービーが行われた第一・第二コーナーなどは下りっぱなしで、そこでハイペースの競り合いが起きる。
一方京都レース場には、淀の坂しか見る所が無いとすら言って良い平坦な立地だ。その坂の高低差と長さが、コース二周という長距離を走るにあたり大問題なのだが。
この問題もあって実際にレースする時、様々な駆け引きが生まれる。だが、コース構造その物は単純である事をドロップスティアーは良く知っている。しかし、名入の言葉に違和感があった。
「……自分が出るレース。作戦、立てられないんじゃなかったんでしたっけ?」
「お前の走りを完成させた場合、
ドロップスティアーの出るレースは荒れる。荒れすぎて誰もコントロールし切れない。ダービーでキングヘイローが逃げに出た、あの時の様な普通起こり得ない事が発生する。
故に名入はダービーで作戦放棄を選ばざるを得なかった。中央に存在しない走りとして不確定要素を齎しすぎる、彼女の存在その物が作戦立案の邪魔になるから。
しかし名入には、ある確信があった。
「ま、ともかく。考えはある、だがトレーニング次第だ。この夏、合宿で
「……なんか、トレーナーさんがそういう不確定要素を先に言うの、すっごい違和感ありますね。そういうの、嫌いなんじゃないんです?」
「データ的に高確率でイケる話だから安心しろ。ダメだったら……まぁお前が弱いのが悪い」
「なんですかそれー!」
『弱いのが悪い』。名入のいつもの、しかし他愛無い悪口にドロップスティアーは怒りながらむしろ安心していた。
こういう口喧嘩が無ければ、自分達では無い。シンプルに言いたい罵倒を言い合って、後腐れ無し。それがいつもの、自分達最低コンビなのだから。
そう考えていると、携帯が
「うわっ!? ……あ、スペさん達か」
LANEの着信音が、とんでもなく連続してやってきた。病院なのに消音モードに切り替えていなかった事に反省し、変えてから画面を映す。
グループLANEは、なんかとんでもない事になっていた。時系列的にぐちゃぐちゃになっているので、とにかくゆっくり一言一言のアイコンを見て、頭の中で誰がどう発言したかを整理する。
『大丈夫!?』
『起きてる!?』
『すぐ行くからね!』
『人参何本いる!?』
これがスペシャルウィーク。
『寝過ぎなのよおばか!』
『心配かけ過ぎなのよもう!』
『退院したら山ほど説教あるから楽しみにしてなさい!』
これがキングヘイロー。
『セイちゃんを越える程の居眠りとは余裕ですなー』
『良かったよ ホントに もう起きないかと思っちゃったんだから』
これがセイウンスカイ。
『起きましたか!!??』
『良かったデス!!!』
『ホンットーに!!!!!』
これがエルコンドルパサー。
『ティアちゃん』
『大丈夫ですか? 動けますか?』
『動ける様になったら、
これがグラスワンダー。
……最後だけ。何故か、とてつもない嫌な予感がした。
文章越しに、
「…………」
「心配されてるようで何よりだ。あんだけの事やらかしといて、よくお前恨まれてねーな。スペシャルウィークにはぶん殴られても文句言えねーんだぞお前」
「……いや……ちょっと、スペさんにはまた別で謝りますしそれは良いんですけど……グラスさんには、ころされるかもしれません……」
「あぁ?」
”怪物”、グラスワンダー。彼女はエルコンドルパサーが調子に乗って、乗り過ぎた時に、凄まじく静かな圧力で黙らせる事があった。
彼女は気性は穏やかなのだが、内面が
怒る時には語調を荒くして口数を増やすキングヘイローとは真逆に、グラスワンダーが怒った時は凄まじく口数が少なくなる。そして、鋭く端的な言葉のみで相手を圧倒するのだ。
ヤバい。この恐怖より逃げるべきか。いやしかし、グラスワンダーという掛け替えの無い友人の頼みを無下にする訳にはいかない。
行くしか無い。そして死のう。想像した未来へと募る恐怖だけで言えば、ダービーのラスト以上に恐ろしかった。
「……そういえば。昔話をしたついでに、自分も聞きたい事あるんですけど」
「なんだよ」
「トレーナーさんの昔話というか。なんであんな言い方までして、自分を庇うんです?」
一旦グラスワンダーの元へと向かう問題は先送りにして。ドロップスティアーは以前より気になっていた疑問を、ついでに解決する事にした。
青葉賞の時も、今回のダービーの時も。名入はドロップスティアーがやった行為について、『全て自分が悪い』と思わせるよう露悪的に振る舞ってみせた。
確かにトレーナーとしては模範的な行動ではあるのだが、日常的に口プロレスをギャーギャーやらかしている程度には、自分と名入は平等な立場である。にも関わらず、レースに係わる問題については徹底的に自分を庇ってきた。
名入は口も性格も悪く、私情を挟まない。その人間性には嫌という程付き合ってきた訳だが、その一点だけは妙に立派なトレーナーをやっている。
「青葉賞の時はまだマシな口振りでしたけど、今回はガチでいつもの小悪党喋り解禁してまで庇ってたじゃないですか」
「おいコラ誰が小悪党だはっ倒すぞ」
「そういう口振りがそうなんですけど。……あの言い方は、言い過ぎです。トレーナーさんはバッジ剥奪されてないのが不思議なぐらいですよ」
「俺もガチで剥奪覚悟だったんだがな。お優しい皇帝サマが、お前の事情を考えて俺のクビも皮一枚残った。クビ差で負けたお前とお揃いだぜ」
「……青葉賞のインタビューの後の、答え。それを聞きたいです」
ドロップスティアーは自分が言いたくなかった、向き合いたくなかった、そんな過去を掘り下げられた。結果的には色々スッキリしたのだが、嫌な思いはした。
なら今度は名入の番である。自分の過去は『普通の事』と言い捨てたが、他人から見れば重すぎる話という自覚はあった。
こっちがそれだけの話をしたのだ。名入の不可解な行動原理――自分のトレーナー資格を捨てるレベルで庇った程の、その
トレーナーがウマ娘の過去にまで触れて来たのなら、こちらにも同じ権利はある。自分達は、上下関係を口喧嘩で取り合う事で平等を保つ凸凹コンビなのだから。
「……お前の過去に比べりゃ、マジで些細な事だ。だから、さっくり教えてやるよ」
そう言って、名入は自分の分の天然水のペットボトルを一呷りする。中身はドロップスティアーの昔話をしている間、静聴に回っている時に殆ど飲んでいた。それが最後の一飲みである。
本当に、大した事は無い。このウマ娘の過去に比べれば、
「『”絶対”が嫌いだ』、俺はそう腐るほど言ってきたな?」
「? ええ、それで自分を担当したんですよね」
「ああ。……俺の”絶対”嫌いは、
名入は自嘲する様に、その言葉を吐く。ドロップスティアーの様に、長々と大層な回想を挟むまでも無い。
子供の頃からずっと、ずっと思っていた事。子供の頃に抱いた、ある
「ヒーロー物の朝番組とか、今でもずっとやってるだろ。俺が子供の頃、ある戦隊物の番組がクラスで流行ってた」
名入はココアシガレットを二つ取り出し、一つをドロップスティアーに投げ渡す。
ドロップスティアーは習性により、ほぼ無意識レベルで流れる様にそれを口に運んだ。なんか餌付けされてる様ではあったが、おいしいから大丈夫だった。
そんなバカ娘の習性を呆れて眺めつつも、名入は話を続ける。
「俺は毎回毎回、似たような展開になるのがつまらなかった。悪役が出てきて、ヒーロー側が出てきて、なんやかんや一悶着挟んで、最後には結局ヒーローが勝つ。そんな流れを見飽きた」
「ほむほむ」
「一回ぐらい、その”絶対”を覆すのを見たかった。つまり、悪役側がガチで全力であちこちと結託して、罠張って、ヒーロー側の家族とか全員人質に取って。その上で各個撃破してブチのめす、そういう絶対を覆す展開が見たかった」
「フツーに最低ですね」
「うるせーだあほ」
名入は、クラスで流行っていた番組が毎回似た展開になるのが嫌いだった。話を合わせる為に見ていたが、内心では飽き飽きしていた。
即ち、
これが、名入の”絶対”嫌いの原風景である。
「時が経って、俺は”絶対は無い”と呼ばれるレースの世界を知った。嬉しかったぜ、なんせレースはどのウマ娘が勝つかマジで全然わかんなかった。一番勝てそうなヤツが、フツーにあっさり負ける。そういうのがじゃんじゃんあった」
朝番組に飽きて、話を合わせるのも飽きて。その後に見始めたのが、トゥインクル・シリーズの番組であった。
そこには”絶対”が無かった。全員が主役で、誰が勝つか分からない。きっと今日はこっちが勝つのだろう、そう事前に言われていたウマ娘も一つのミスでうっかり負けるのを何度も見た。
「んで、ドハマリした俺はトレーナーになる事を決めてめっちゃ勉強した。中央の資格はアホみたいにムズかったが、まぁ三回目――三年かけてギリ受かった。ありゃヤバかったな」
「……そんな難しい試験に通っておいて、その資格を捨てようとしたんですか?」
「ああ。だが安心しろ、コレは別にお前の為じゃなく、俺の為にやった事でしか無ぇ」
「……?」
そして名入は、滅茶苦茶に難しい試験に四苦八苦しつつも、なんとか中央のトレーナー資格を得た。サブトレーナーから始め、ハマっていた世界の中の
ここには”絶対”は無い。誰が勝つか負けるか分からない、そういう未知に溢れた世界だ。そんな光景を楽しみにして、やってきて。
「サブトレに回ってから、俺は自分から上司にデータ収集の仕事を練習させて欲しいと頼んだ。それが一番ウマ娘のレースを見れる立場だったからな、趣味と実益がカンペキに一致する素晴らしいアイデアだ」
「いやそれ趣味百パーでしょ絶対」
「うるせえ黙れ。……問題は、そこに
名入はサブトレーナー時代から、他のウマ娘達やレースに関する情報収集を進んで行った。他の雑務も当然やっていたが、ともかくメインはそこだった。
しかし、そこには自分が想像していたよりも、遥かに残酷な現実が大量に転がっていた。自分が最も嫌いな、”絶対”が。
「中央に折角来ても、上手く実力を出せずに未勝利のまま学園を去るウマ娘達の姿を大量に見た。どれだけレース前にトレーニングを詰めても、本番でアガったり掛かったりして負けて、自分に失望してまた負ける。そんな負のスパイラルが大量にあった」
中央でデビューした後、一勝クラスに到れるのはおよそ三割強。つまり、
そういったウマ娘達を、大量に見た。データとしてまとめる内に、勝つウマ娘はわからないまでも、
三人に一人しか、メイクデビューと未勝利戦を勝てない。そしてそこから残酷な事に、オープンクラス――誰もが夢見るGⅠレースに挑戦出来るウマ娘は、およそ三パーセントにまで激減する。
誰もが三冠を夢見た。トリプルティアラを夢見た。マイル覇者を、スプリンターの頂点を目指した。しかし、
「……
「…………」
名入は”絶対”が嫌いだ。口癖の様に、聞き飽きた言葉。それを覆す為に、ドロップスティアーという極限レベルの癖ウマ娘の担当にまでなった。
ドロップスティアーもまた、中央で全く勝てないウマ娘達がいる事は知っている。というか、自分は最も強い相手をマークし、勝てる筈だったウマ娘を倒すスタンスである。
罪悪感は感じるが、勝負とはそういう物だ。負ける時は負ける、それが勝負。ドロップスティアーは『肝心な時だけ勝てばいい』というオヤジ直伝の割り切りによって、敗北しても然程ダメージが無い。全てを賭けて想定外の負け方をしたダービーが、例外中の例外だっただけで。
しかし、他のウマ娘達にとって、敗北は極めて重い事象だと知った。これまでレースで走ってきて、一着のウイニングランを後ろから心底悔しそうに――恨めしそうに眺めるウマ娘を見てきた。
名入は、
「……だから俺にとっちゃ重賞レース――つーか、GⅠを見るのが清涼剤みてーな感じだった。GⅠに集まる連中はどいつも強者ばっかで、一つのボタンの掛け違いで注目してねえヤツでも勝ったりする。俺が好きな”絶対”の無い世界は、そこに集中していた」
結局、名入が憧れたレースの世界――”絶対の無い”世界とは、上の方にばかり集中していた。未勝利戦は、データを集めれば集める程絶望的な差が転がっていたから。
GⅠに出走するウマ娘達は、実力と自信と調子、大体全てを高水準で兼ね備えている。たった一つの頂点にある冠を奪い合う、”絶対”の無いレース。名入の夢は、常にそこにあった。そこにしか無かったのだ。
「――青葉賞の時。俺は、ライスシャワーの話をしたな」
「へ? あぁ、はい。ライスさんその物が答えって、よくわからん事言ってましたね」
「あの世代は最高だった。なんせ、ミホノブルボンとライスシャワー、あのどっちも”絶対”じゃなかったからな」
「……?」
トレーナーになる前・なった後。数ある世代の中で一番名入が熱狂的に追ったのは、ミホノブルボンとライスシャワーの二人が走っていたクラシック期だった。
”サイボーグ”・ミホノブルボン。無敗の二冠ウマ娘で、菊花賞は惜しくも二着。しかし同じ無敗二冠でも、彼女はトウカイテイオーの様な天才性は無かった。
「ミホノブルボンはスプリンターだった。俺から見ても瞬発力が抜群で、マイル路線で無双すんじゃね? って思うぐらいの速いウマ娘だったんだが……恐ろしい事に、とんでもねートレーニング積んで三冠路線を行って、マジで無敗でダービー取った。ありゃ痺れたね」
名入はミホノブルボンの異常性を極めて高く評価していた。彼女のメイクデビューは1000メートルから始まり、そこからひたすら距離延長。
2000メートルもキツい、そこが限界。誰もがそう思っていたが、彼女は並のウマ娘が余裕で故障しまくるレベルのハードトレーニングによって、スプリンターの脚を維持したままスタミナを伸ばすという力業を試みた。
そして実際、彼女は本気で一流スプリンターの素質を持ったまま、ミドルディスタンス以上しか無い三冠路線へと突入。2400メートルもあるダービーですら逃げ切りで勝利するという異次元のスタミナ増強に、名入は心底震えた。
「無理無茶無謀。皐月賞すら限界とか言われてたのに、そんな常識知らんとばかりに逃げで皐月獲ってダービーまで獲りやがった。逃げは一番スタミナを使う、そんな戦法でスプリンターが無敗二冠。あの走りを”才能”なんて生温い言葉で片付けるにゃ、ミホノブルボンに失礼だ」
ミホノブルボンは”絶対”では無かった。しかし、結果だけ見ればかつての”絶対”を思わせる圧巻の無敗二冠。
実際のトレーニングを見てみれば、延々と坂路トレーニングをする地獄巡り。並のウマ娘が絶対に投げ出すだろう、しかしミホノブルボンは投げ出さずに険しい
なおこの後、そんな地獄の坂路トレーニングを『走りやすいですねー』とか抜かし、単なる直線施設として走る謎の生命体が名入の手元に来た訳だが、それは単なるバグである。
「世間も俺もミホノブルボンに熱狂する中。そこに更に上乗せする形で、ライスシャワーっつー
「……ライスさんが理想ぉ? 見た目のタイプですか? ライスさんに手を出したら、ズドンかましますよズドン」
「はっ倒すぞボケ、だあほ」
これまで散々ミホノブルボンを褒めちぎった中で、唐突にライスシャワーの名前が出る。
ドロップスティアーにとってライスシャワーは神の代わりに崇拝している大天使であり、名入の悪の手が伸びる様ならば全霊で
しかし、他ならぬライスシャワーの話題が来た事で、ドロップスティアーの聞く気はぐぐぐーんと跳ね上がった。彼女は自分の崇拝対象であり、青葉賞後には”答えその物”とすら称された先輩なのだ。
「ライスシャワーの戦績は、当時微妙だった。いやオープンクラスで微妙っつーのは完全にミホノブルボンの無敗二冠に毒されてんだが、浮き沈みが激しいウマ娘だった」
ライスシャワーは、皐月賞・ダービー・菊花賞の三冠レース全てに出走していたオープンウマ娘だ。力量は確かにある、しかし安定性に欠けていた。
本人の気性の問題か、当時のライスシャワーの成績は決して芳しいとは言えなかった。名入の目から見ても、レース運びがイマイチ安定していないな、という思う感じであった。
ミホノブルボンとの対戦経験は多いのだが、スプリングステークスでは掲示板入りしつつもブルボンとの差は九バ身差。そして衝撃の皐月賞では後ろに沈んで八着。この時点で、ライスシャワーはミホノブルボンの影に完全に隠れていた。
「そんなパッとしないオープンウマ娘だったんだが、当時のダービーでアイツは二着を取った。異常なミホノブルボンの逃げに対し、ダービーでは二番手で必死で追い続けて、そのまま二着。当時ライスシャワーが十六番人気だったって言や、どんだけアイツが頑張ったかわかるだろ」
「ライスさんはいつでも頑張ってるでしょ。負けたのは、たまたまその時の世界とか星の巡りとかが悪かっただけでしょ。知りませんけど」
「んなワケねーだろ盲目の余り世界の法則にケンカ売んな。……ともかく。ミホノブルボンがダービー獲ったのと同じぐらい、ライスシャワーの二着は俺の目を疑わせた」
ライスシャワーは確かに三冠路線を行ったが、ミホノブルボンと比べれば遥かに調子の波があるウマ娘だった。だが、ダービー前後から明らかに彼女は変わった。
かつて九バ身差で大敗していたにも関わらず、ダービーでは無敗二冠を獲った相手の影で二着。ダービー時の着差は四バ身もあったが、それでもダービーで二着というのはライスシャワーの秘めていた実力を証明してみせた。
その後、セントライト記念・京都新聞杯というGⅡレースでも二着。しかも京都新聞杯に至っては、同時に出走していたミホノブルボンと一バ身半まで詰めていた。
九バ身という限りなく大差に近いその差が、半年かけて一バ身半にまで迫っていた。名入はこの二人の行方に対し、常に期待でニコニコウキウキであった。
「ミホノブルボンはスプリンターでありながら、長距離レースでも無敗を貫いた。ライスシャワーはそんなヤツと、初対戦でとんでもねぇ差を付けられていながら、確実にその差を埋めていった。わかるか? あの当時の、俺の気分がよ」
「……まぁ、くっっっそ饒舌になってる辺り、すんごい興奮してたんだろーなってのはわかりますよ。今もなんか、顔色良くなってますし」
名入にとって、その二人は全く予測不可能の、まさしく”絶対が無い”最高の存在だった。
かたや二冠を獲った上で長距離まで突っ走るスプリンター。かたやいきなりダービーで台頭してきて二着・大差よりその背中へと追いついて来た影の実力者。
ミホノブルボンが菊花賞を走り切れるのか。ライスシャワーが菊花賞で追い付くのか。当時の名入はそれを予想する事すら野暮に感じる程、その二人の行方に熱狂していたのである。
「――だが。そんな二人が完全決着に臨んだ肝心の菊花賞。俺は心底失望した。
そう言いながら、名入は自分の携帯を操作して画面を向けてくる。
それは、あるウイニングライブの映像。ライスシャワーが初めてGⅠのセンターを取った、菊花賞でのステージだった。
「うおー、当時もやっぱかわいいですねー、ライスさん! ……んん? なんか、
「……ミホノブルボンは、マジで無敗だった。”無敗三冠”っつーのは、シンボリルドルフしか存在しない、そんな特別な存在だった。だが、菊花賞で勝ったのはライスシャワーだった」
センターに立ったライスシャワーに、笑顔は無かった。
苦しそうに、それでもなんとか義務感の様に。震えた声で歌い、たどたどしく踊り。終わっても尚、苦しそうな顔であった。
「観客どもは、血反吐吐く想いでようやく菊花賞まで辿り着いたミホノブルボンを”新たな無敗三冠”って称号でしか見てなかった。だから勝ったライスシャワーに対して、拍手の一つも贈らなかった。……当時ライスシャワーは、レコード勝ちをしたにも関わらずに、だぞ?」
「――あ゛ぁ゛?」
「おいなんかエグい声出たぞ今。お前過去話してる時もそんな雰囲気じゃなかったろうが」
菊花賞の勝者は、ライスシャワーだった。見事ミホノブルボンの努力と大差に追いつき、その上でレコード勝ち。誰がどう見ても最高の勝ち方。
しかし、当時のトゥインクル・シリーズのファン達は全くそうは思わなかった。スプリンター出身でありながら、レコードペースの菊花賞でも二着を取ったミホノブルボンに対し、”無敗三冠”が消えた事だけを惜しんだ。ライスシャワーが邪魔者だった、そう言わんばかりのシンとした雰囲気が観客席を包んでいた。
勝者は夢見た勝利を祝福されず。敗者は努力の中身を認められず。その光景を現地で見た名入は、
『なんで……なんでどいつも黙ってやがるッ! レコードだぞレコード! ライスシャワーは歴代で一番速かった! ミホノブルボンも最後まで粘った! スゲエって思わねぇのか! 最高のレースだったろうがッ! アイツらに拍手しろッ! なんとか……なんとか、言いやがれェーッ!!』
当時名入は、近場で『無敗三冠が見たかったなー』と独り言を呟き深い溜息をついた観客と、周囲の反応のあまりの薄さに対し、そう叫んで暴れた。暴れた結果、レース場から強制的退場させられる羽目になった。
だが、そんな事はどうでも良かった。あの最高のレースと、”絶対”を揃って覆したあの二人に対し、なんの拍手も無かった。溜息すらあった。その事に対する怒りで、はらわたが煮えくり返っていた。
菊花賞のウイニングライブを後からテレビで見た時。悲痛な表情を浮かべてセンターに立つライスシャワーを見た時、激昂して手元のリモコンを全力で壁にぶん投げ、粉々に壊した程に。
「……ライスシャワーは当時、ミホノブルボンに初めて、ようやく勝った。それも菊花賞という最高峰の舞台で、レコードで勝って。だが、その誰もが健闘を称えるべきレースは、観客が勝手に見てた”無敗三冠”とかいう、アイツらの中身をなんにも見てねえ認識で台無しにされた。結局、三冠を邪魔したって事でライスシャワーは悪者扱いだ」
「――今なら自分は、震脚でこの病院を三分で平らに出来そうな気分です」
「やめろ。……と言いたいトコだが、気持ちは良く分かる」
「よし」
「『やれ』とは一言も言ってねー! やめろ! 今やめろっつった!」
ドロップスティアーは漆黒の殺意を全身より立ち昇らせ、本気でベッドの上から降りようとしていた。耳は限界まで後ろへ絞られ、本気で震脚を撃つ気だった。
ガチギレだった。あんな可愛らしく真摯で親切で天使の様な彼女に、そんな事があったなどとドロップスティアーは知らなかった。故に、ドロップスティアーは闇よりもなお
「ステイステイ! 色々あってライスシャワーの戦いはもう見直されてる! もうアイツをそういうヒデー目で見るヤツなんざいねーから! ストップだ!」
「……当時の観客どもはまだ生きてるんでしょう?」
「こえーんだよ! お前死生観バグってるからって命に関わる言葉を軽々しく放つんじゃねぇ!」
許すまじ。ドロップスティアーは本気で、その当時の観客達にまとめて震脚をお見舞いしたい気持ちでいっぱいだった。流石に脚を直接ぶち込む程に良識はぶっ飛んでいなかったが、自らの全力で”死の恐怖”を味わわせたいとは思った。
ダブル鋭角コーナリングはレースでは二度と使えない大問題の技だが、
それをなんとか名入が宥めすかす。結局、ライスシャワー過激派たるドロップスティアーが落ち着くのには、まるまる三分かかった。
「――つーワケで、だ。俺はライスシャワーやミホノブルボンみてーな、”絶対”を覆したウマ娘が正しく評価されない事に本気でキレた」
「自分もそう思います」
「『レースに絶対は無い』とか言いながら、”絶対”のある所にキレた。実際に”絶対”を覆してみれば、溜息をつかれた事にキレた。俺は本気で、
名入は元々”絶対”が嫌いだった。しかし、このトゥインクル・シリーズの現実を見て、それが更に加速した。
”絶対”に厳しい世界の中で、”絶対”を必死に覆してみせたウマ娘が、何故称賛を受けられないのか。主役たる走者達が、何故こんな目に遭わなければならないのか。何度も何度も、それに対してキレた。
だから名入は、”絶対”に逆らう事を決めた。そしてそれを成す為の存在である、ドロップスティアーが悪く扱われる事を避けたかった。
「だから俺は、お前を庇う。お前は確かにルールの線を上から踏んづけて走ってきて、今回はそのラインを超えちまった。だが、良く言えばルールに誰よりも向き合った奴とも言える。”レースに絶対は無い”を実際にやっただけで批判する、そんな権利が誰にあるってんだよ、ボケが」
ドロップスティアーは確かに、ルールの穴を散々に突いてきた存在だ。事前に決められているルールのギリギリを通り、そして今回は”アスリート”としてのラインを超えた。しかし、それその物を観客やメディアから悪く扱われるのは、筋が通らない。
ルールの上で戦ったなら、それは正当だ。ダブル鋭角コーナリングやヘッドスライディングは、ルールがどうだろうが反スポーツ的な危険行為と見做され、失格処分にも値する事だったかもしれない。しかし、止めるルールを事前に作っておかないのは、公式の不手際だ。
しかし、トゥインクル・シリーズの主役たる走者の努力その物を第三者が非難し、必死の行為を悪く言われる事だけは、あってはならない。
真剣にレースへ挑んだウマ娘とその努力。それらに対する侮辱を名入は許せなかった。
「俺は、
「……トレーナーさん……」
「確かにお前は救い難いバカでアホだが、限られたルール内で技を考えた。バカ極まる技でも、歴史に無い事を成し遂げた点だけは褒められるべきだ。マジで”だけ”だが」
「ちょっと待って下さい。その流れでなんで褒められるべき自分は罵倒されてんですか」
名入は、ライスシャワーを高く評価している。しかしライスシャワーの成した功績に対し、溜息やイチャモンをつける様な連中が大嫌いだった。
”絶対”に立ち向かい頑張った者は、”絶対”褒められるべきだ。ただただ、それだけが名入の芯である。その為なら、トレーナーバッジなどというちゃっちい物も惜しくはない。
あの時”絶対”を覆したライスシャワーとミホノブルボン。あの二人が受けた扱いを考えれば、こんなアクセサリーの価値など軽い。だから名入は、ドロップスティアーも庇う。
「……理由は、たったそんだけだ。人でなしの極悪トレーナーらしく、お前の都合なんぞ知らん。俺は俺の為に、お前を勝手に庇うだけだ」
「…………」
名入を突き動かすのは、”絶対”への嫌悪である。
それに喧嘩を売るべく、ドロップスティアーを鍛えた。
卑怯に見える行為をしようが、彼女はルールと戦ってきた。
”絶対は無い”事がレースの醍醐味ならば、彼女の無茶苦茶ながらも”絶対”無かった戦術は、むしろウマ娘の新しい可能性として褒められるべきではないのか。
名入は心底、そう思っていた。
「……お互い、長い話になりましたね」
「全くだ。ライスシャワーが良いウマ娘だったのが悪い。いや、良い事だった」
「それは全くもって同感ですね。……ライスさんがそんな目に遭ったのは、菊花賞ですね?」
「ああ」
「俄然やる気が出てきました。負けませんよ自分は」
「お前現金過ぎねーか? お前自身のモチベはどこだよ」
ドロップスティアーは『まけないで』の一言で何でもやらかすウマ娘だ。しかし狙った勝負所で負けたくないだけで、勝利する欲求は湧いてこないウマ娘である。
だが、自分の友人や尊敬する先輩の為であれば、自分の事は三の次ぐらいに考えて行動に移せる。こうしてドロップスティアーは、なんか無関係な所で菊花賞への想いを一つ募らせた。
「……トレーナーさん」
「なんだよ」
「ありがとうございました」
「……やめろ、調子が狂う。喋り過ぎで喉が乾いた、ジュース買ってくる」
「さっきのと同じヤツ頼みます」
「分かった、炭酸ジュースにしてやらぁ」
それだけ言って、名入はその場を再び去った。
なんやかんやと言葉を挙げ連ねて、『自分の為』だと結論付けたが。名入はドロップスティアーの為に、全ての汚名を被ろうとしてくれたのは事実だ。
――『菊花賞で勝つ』。唐突に提示された、しかし勝算があるという目標。勝てるという根拠も提示されてしまった。
「……上等じゃないですか。やってやりますよ……」
勝機が薄い勝負など、それこそ今更だ。しかし、薄いという事は
”黄金世代”、”三強”。そう謳われる、最高の友人達。彼女達に、まだ勝ち目がある。それなら、挑んでやる。
誰も挑めない、険しい高い山を登るのは、自分の得意分野なのだから。
「――……あれ?」
『まけないで』。自分を”勝負”に立ち向かわせる為の、母の
心の深層にまで刻まれた、全ての勝負で必ず連想してきたその言葉。自分の原点。
ドロップスティアーにとっては最も大切なその言葉を、何故か
「天国に行けない」相手とのセット運用です。
多数派はいつだって変わらない、緩やかな停滞を望みます。
変わらない事は、”絶対”と同義です。しかし、”レースに絶対は無い”んです。
長々な回想編で申し訳ありませんでした。話書いた作者もメンタル自爆状態です。
明日で第五・零部の両方に対し、決着をつけます。