「――ふーむ……フツーにしてりゃ、違和感は無いですね……」
ドロップスティアー・勢い任せの宣誓から数日後。彼女は自分の自分の掌に本当に異常があるのかを疑問に思っていた。
有鈎骨骨折はゴルフやテニスをし続けるだけでも発生し得る、つまり比較的軽症の骨折である。ドロップスティアーは極まった生存本能によるバカげた受け身を成功させ、スパートでの転倒という致死行為をしてもギプス固定無し・自然快復待ちで良いという信じられない軽症で済んだ。
手に負担のかかるトレーニングのみ禁止。軽いジョギングなら許される――どころか、普通に走れる。痛み止めさえあれば普通に日常生活に制限は無いと言われているが、そもそもドロップスティアーは痛みに強い。べらぼうに強い。
「……こうか……なるほどー、うん、こうしたらダメな感じですね」
なのでドロップスティアーは今日朝起きて、痛み止めを飲まないまま骨折しているだろう両手首を少しずつ回し、危険域のチェックをしていた。
体を粗末にする訳ではなく、むしろ逆。『どうしたら痛いか』『どこまでが痛いか』を自分で把握し、これからの手首付近の負担を減らす。そして少しでも早く復帰出来る様に考えていた。
ドロップスティアーは痛みに鈍いという訳では無く、むしろ鋭敏である。散々傷まみれのボロボロになった事で、どんな重傷だろうが痛みを細かく分析出来るというだけだ。
この特技――というか怪我に対する感性も、山道の近道を突き詰める早期でよくあった、失敗と滑落の過程で得た副産物の一つだった。
「……よし。んじゃ、ちょっと走りますか」
名入の謹慎ともども、本格的なトレーニングは出来ないだけで、体が鈍らない様に手を使わないトレーニングをする事はむしろ推奨・許可されている。
動かしてはいけないラインの見極めを終えたドロップスティアーは朝の痛み止めを飲み、今日も軽くランニングするべくジャージに着替えた。
◆ ◆ ◆
「……しっかし。なんか、随分走りやすくなった気分ですねぇ……」
ドロップスティアーはそう言いながら、何も考えずにローペースで行く宛もなく道路のウマ娘用レーンを走っていく。
元々スタミナだけは潤沢である彼女は、平地で流す様に走るだけならほぼ消耗が無い。なので水分補給さえ気をつければ、ほぼ無限に走れる様な錯覚すら持っている。だが、最近はそこに速度が加わった。
何十万メートルと走らされながら神経を逆撫でしてくる名入の
ピッチ走法は元々、歩数によるペース把握が得意だ。山道を効率的に走る為に鍛えた彼女のペース管理は、レースというハイスピードな場所でさえなければ間違える事は無い。
足のペースは同じ。しかし
『お前の走りが完成すれば前提が変わる』
間違いなく速くなっている。その自覚と共に、名入の言葉を思い出す。
『前提が変わる』、そんな大仰な言葉。確かに、自分は中央に来た直後に比べれば遥かに速くなったのは間違いないのだが、しかしそれで”黄金世代”相手に”前提”が変わる程強くなっていると思えはしない。
だが、そんな相手にあんな啖呵を切っておいて――半分は言わされた形だったが――、今更退く訳にもいかない。出来る事はなんでもやる。オーバーな自主トレをする気は無いが、トレーニングに対するモチベーションは前よりも上がっていた。
「――ありゃ? どこですかね、ここ」
そんな考え事をしながら走っていたドロップスティアーは、自分が知らない場所まで走ってきた事に今更気付く。
彼女の元来の悪癖の一つに、自分の身の安全も考えず山のあちこちを走り回る所がある。一度滑落して完全に死にそうになった後、『アレに比べれば全部マシ』として、彼女はとにかくどこにでも走る様になった。
そう、どこにでも、無軌道に走る。実家の山中は限られたスペースの上、土地勘により彷徨っても最後には家に着けた。しかし、この中央という別地方では
あちゃー、またやっちゃった。そう思い、携帯電話で地図マップを開く。幸い、然程離れた場所では無かった。今居る場所は――
「――へぇ? なんともまぁ、有名なお方が来たもんだな」
「へ?」
あちこちがスプレー缶で
地図にも正式名が乗っていない、実質的な不認可地帯。名を、
「貴方は?」
「ナカヤマフェスタだ。中央の高等部に属してる、一応アンタの先輩だよ。ドロップスティアー」
「ほえー。……自分の名前、なんで知ってるんですか? えーと、ナカヤマフェスタ先輩」
「ナカヤマでいい、そっちのが聞き慣れてる。……重賞ウマ娘が、しかも
「はい?」
ニット帽から耳を出した、セミロングの鹿毛。白パーカーと灰色のジャケットを着た、ボーイッシュなファッションのウマ娘。
中央の生徒が居るという事はまぁ然程悪い所じゃないのだろう。あー良かった、そう安堵しながらもドロップスティアーはナカヤマフェスタからの言葉に小首を傾げた。
「公式レースで、しかもダービーで。あんな文字通り命懸けの走りやらかしたヤツ。他のトコじゃともかく、このフリースタイル・レース場じゃある種の英雄扱いだぜ、お前」
「ふりーすたいる?」
「……どんな場所かも知らずに来たのか、アンタは?」
「絶賛迷子中でして。でも中央の生徒さんが居るって事は、そんなに遠いトコじゃないんですねココ。いやー、今回はラッキーでした!」
「……なんつーか、レース中と全然雰囲気違うな」
日本ダービーという大舞台。そこで争ったスペシャルウィークとドロップスティアーの扱いは、当然だが様々な話題を呼んでいる。
歴史でも類を見ない程の驚異の追い上げからダービーを勝利したスペシャルウィーク。自殺行為に及んでまで勝とうとして、色んな意味で類を見ない程の驚異を見せたドロップスティアー。この二人の評価は、天地程にはっきりと分かれている。
基本的にドロップスティアーの世間の評価は、その走りのスタンス――相手を蹴落とす様なマーク戦術と彼女専用とすら言える程のレース技能によって、クリーンで王道な強さを好むレースファンからは否定的な意見が多い。
ダブル鋭角コーナリングという紛れもない自爆特攻技を受けて尚、最後方から中央突破・一着を取るという卓越した走りを見せつけたスペシャルウィーク。あの姿こそ理想のダービーウマ娘であった。それが一般的な認識であり、ドロップスティアーもそこに賛同している。というか、やらかした張本人でありながら割と大声で『そうだそうだー!』とか叫んでいる始末だ。
しかし、確かに少数派ではあるが、彼女の戦法やレースを高く評価している層も存在する。
「ここはフツーのレース場と違って、走りたいヤツが好き勝手に集まって自由に走る、ルール無用の無法地帯だよ。……ここのアウトローな連中からは、アンタの走りは『元々ここ出身なんじゃねーのか』『いいぞもっとやれ』って言われて、大評判だぜ?」
「へー。面白そうなトコですねー!」
「……ホントにお前、
「ティアで良いですよ、ナカヤマ先輩。……自分はいつでも、普通に笑ってるつもりなんですけどねぇ……」
ドロップスティアーがあどけない顔で無邪気な対応を取る事に、ナカヤマフェスタは心底あのダービーを突っ切って突っ走った
フリースタイル・レース場は、中央も地方も、極端に言えば老若男女関係無く走れる場所だ。学園内や公式レースで走れば必ず残る煩わしい評判も成績も、ここでは刹那的に消費されていくコンテンツでしか無い。
適当に敷き詰められた芝同様、
「……まぁ、何でも良いか。あん時の転倒で怪我したって聞いたんだが、もう走れんのか?」
「普通に日常生活エンジョイしてますよ? ちょっと手を痛めてるだけなんで」
「なんで手なんだよ。アレでイカれるなら背中か脚だろフツー」
「いやぁ、がんばったので」
普通死ぬだろ、なんでもうピンピンしてんだよ。そんな疑問を『がんばった』で済ませる辺りで、レースで見て受けた印象は異なるものの、やはりコイツはあの頭のネジがすっ飛んだドロップスティアー本人である事を理解した。
ナカヤマフェスタは本格化が遅く、まだ未デビューの身である。だが、ドロップスティアーのその刹那的が過ぎる生き方・走り方には強い共感を覚えていた。
中央の公式レースという場で、ルールも周囲の評判も知らんとばかりに、自他共に恐れる者知らずのリスキーな走りとえげつない戦法に及ぶ。真に勝利のみを追求している”勝負師”。
『負けたくない以外に理由要るんです?』。青葉賞の後、記者に囲まれて自分のやり方に追求された時に、当然の様に言った姿勢。中央のアスリートにあるまじきその姿は、いっそ見ていて清々しい程だった。
「……で? ティア、アンタどうすんだ?」
「え? どうする、って?」
「非公式でアウトローな連中が集うこんな所をのんびり観光するか、厄介事になる前にさっさと逃げて帰るか。どっちにするか、って事だよ」
「いや、見ていきますよ? ナカヤマ先輩が居るって事は別に『中央の生徒は立ち入り禁止』なんてルールも無いんでしょ? 折角来たのに観ないとか損じゃないですか」
「――ハハッ。そりゃあそうだ。未知の
ナカヤマフェスタは軽い警告の意味も込めて、ドロップスティアーにこの場に対しての二択を迫る。だが、元々寄り道して新しい道や景色を探るのが好みであるドロップスティアーに、選択肢など最初から無かった。
フリースタイル・レース場は単に誰もが自由に集まり走る場というだけで、別に中央の生徒だろうが誰だろうが来る者拒まずの場所だ。その反面、
ここにドロップスティアーを恨む者などが居れば、悪意を以て接される可能性がある。中央という庇護から離れたこの場所には、表面化していない厄介事の
だからここを敬遠する中央の生徒はそれなりに居る。しかしドロップスティアーはここを『たまたま来れた観光地』気分でしか認識していないし、仮にその
元々レースのレの字も無い所からやってきたこのウマ娘は、アウトローとアマチュアが集うこの無法地帯に極めて向いた存在であった。
「どうせだ、先輩らしく案内してやんよ。そこそこ出入りしてる身だ、こっちは顔が利く。公式じゃやんねー組み合わせだとか、
「おおっ! ありがとうございます、ナカヤマ先輩! めっちゃ親切ですね!」
「この場所に対してアンタがどう思うか、興味があるだけだ。ここは本当に、なんでもアリな場所なんだからな」
ナカヤマフェスタは親切心ではなく、純粋な興味から案内をしてやる事にした。
自分の見てきた中で最も無謀な走りをして、その上で”生きている”彼女。そんなウマ娘が、
◆ ◆ ◆
「――っしゃー! 久々の勝負ですー!!」
「なんでもうエントリーしてんだ!? 怪我してんじゃねーのかよアンタ!?」
「え。いや、普通に走る事は出来ますし……『誰でも走って良い』って案内したの、ナカヤマ先輩じゃないですか」
『ここでは相手が誰であろうが、いつでも自由に走って良い』。フリースタイルにして、フリーエントリーのこの場所をそう案内した時、ドロップスティアーは『じゃあやってみます』とさらりと真っ先に飛び入り参加した。
ドロップスティアーの行動原理の一つは、『どんな所でも走ってみなければ分からない』という恐れ知らずの好奇心である。その先で危険を察したらギリギリ止まって避けるだけで、口で案内されるよりこちらの方が手っ取り早い。そう考えた瞬間には、既に行動は終了している。
その判断と行動速度は、ナカヤマフェスタをして想定外のスピードだった。『走って良い』と言ったと思ったら即時エントリー。は? と声に出す間も与えぬまま、彼女はなんかこの場所へと踏み込んでいた。
《おーっと、ここで思わぬ新顔! 現在トゥインクル・シリーズを荒らしに荒らしている暴れウマ、ドロップスティアーが参戦だーっ!》
「……あ、暴れウマ……いやまぁ、確かにダービーではやり過ぎたとは自覚してますけど……」
テンション高めでフリースタイル・レース場の実況のマイクが響き、周囲がざわつく。『ヤマ娘』『バカ娘』『バカ』『アホ』『だあほ』に次ぐ別称に対し、ドロップスティアーはちょっと複雑な心境になった。
ドロップスティアーは良くも悪くも有名人である。問題のダービー以前より大量の賛否を集めているウマ娘であり、そんな状況で何故この場に来たのか、というかなんでももう退院してるんだとすら思われている、意味不明な存在である。
やっぱりダービーは良くなかったなぁ。そう反省する――それしか思っていない彼女の頭の中には、他のレースでやらかしてきた事について思う事は何一つ無い。ダービー以外はルール違反してないので。
「クックック……まさか、幻のダービーウマ娘サマとやらがこのアマチュアの場の頂点まで取りに来た、ってか……? 随分とまぁ、強欲な事で――」
「ダービーウマ娘はスペさんでしょうがッ! 訂正しろォーッ!」
「キレるポイントはそこなのか!?」
中央トレセン学園には通わないまま、このフリースタイル・レースでは実力者たる大柄なウマ娘。それがドロップスティアーの参戦を見てエントリーして来たが、”幻のダービーウマ娘”という単語に即ギレされて威圧された。
ドロップスティアーにとって、誰がどう言おうがあのダービーの勝者はスペシャルウィークであり、ダービーウマ娘の座もスペシャルウィークである。名入に言われたからが半分・スペシャルウィークの為が半分。そんな気持ちで菊花賞に挑むと決めた――結果、周囲から認識のズレを徹底的に叩き直されたが――、そういう相手を間接的に貶められるその称号を、ドロップスティアーは認めなくなった。
なのでキレた。一瞬で沸騰した。例え”幻”と”正”のダービーウマ娘が両立して存在するとしても、その単語は全てを賭けた自分を負かした友人と、自分に真の意味で”レース”を教えてくれたあの大勝負。その二つへの侮辱であると捉える様になった。
「自分を”幻の”とか言うヤツは全員今の内に名乗り出て下さい。まとめてキレますので」
「「「…………」」」
そう毅然と言い張るドロップスティアーは、周囲から見て極めて異常であった。
遠回しに良い扱いを受けておいてブチ切れる。それもGⅠ・日本ダービーの勝者だっただろうという、このアマチュアレースの対極の先にあるだろう、最大級の賛辞に対し。
やっぱなんかコイツおかしい。ナカヤマフェスタ含め、全員がそう思った。
「……よし、居ないみたいですね。ならこれで後は貴方を倒せば、スペさんが完全な勝者って訳です……この勝負、負けませんよ……」
「……お、おう……」
どういう理屈だ。そう対戦相手のウマ娘は、困惑していた。ちょっとした一言で、しかもどちらかと言えば称賛に近いニュアンスで放った一言で、重賞クラスのウマ娘が本物の怒気を纏ったのだから。
中央のクラシック戦線で大怪我をした――様にしか見えなかっただけだが――彼女は、このアマチュアの集う場所に冷やかしか気分転換かにでも来たのだろう。そう認識していたのだが、一瞬にしてその想像は破壊された。
絶対負けん。そしてダービーで自分が負けた事を認めさせてやる。ドロップスティアーは極めて矛盾的な、しかし自分にとっては一本筋の通った
「……ルールは?」
「こ、こっからスタートして、一周した方が勝ちだ。コース内は芝だの泥だの混じってるが……」
「オーケーです。……全力で相手させてもらいます、覚悟して下さい……」
「…………」
アマチュア相手の気分転換どころか、まるで本番の公式レースかの如き声色で静かに深く呼吸をし始めたドロップスティアーに対し、大柄のウマ娘は自分そこまで悪い事言った? という気分で目一杯であった。
フリースタイルレース場は、大きな空き地に竹柵を取り付けただけの、簡素極まりない場所だ。公式レース場の様に駆け引きやペース配分を問われる勾配は殆ど無いが、計算もされていないコーナーや整備状態も悪い土地と無軌道に削られた芝により、平地でありながら極めて走りにくいバ場である。
上がり三ハロンだとか全体のペースだとか何も考えず、とにかく好きに走る場所。今回ドロップスティアーが走るのは、ホーム・バックストレッチ・各コーナー、その全てが計算されていないおよそ400メートル前後の、大体1600メートルのコースである。
シンプルな一周勝負、右回り・未経験のコース。土地は対戦相手に完全に味方している。
「……言っとくが、こっちも面子ってモンがあるからな。そう簡単に負けるつもりはねーぞ?」
「は? 何言ってんですか、そっちのホームグラウンドで。挑んでんのはコッチですよ、だから”全力で相手”って言ってんじゃないですか。そんな口車で油断しませんよこっちゃ」
「そ、そうか……」
なんだコイツ。スライディング無しでもダービーで二着だっただろう現役のプロとは思えない、油断も隙も思い上がりも欠片たりとも無く、むしろ『お前の方が強いだろ』と断言するその態度。対戦するウマ娘は、最早冷や汗すらかいていた。
事実、ドロップスティアーはダービー一直線という偏った一年のトレーニング・レース過程によって、右回りのレースは選抜レース以来である。つまり、純粋に経験不足だ。
加えて彼女程”ホーム”の優位を知っている中央の生徒は居ない。彼女は”ホームであればなんでも出来る”と、自分が考えついた全ての手口を使って山道で無敗を貫いてきた。
対戦相手はこちらの力量を踏まえてやってきた。つまり、
全力を尽くさねば惨めに敗北するのみ。ドロップスティアーはそう認識していた。
「……まぁ、ともかく……ゲートに入って構えろ、うん……」
「了解です。やりましょう」
公式レースでは存在する、スタート位置とゴール板の距離差。このフリースタイル・レースにおいて、そんな大層なモノは存在しない。
合図と共にゲートを開き、一周した方が勝ち。走者はドロップスティアーを含め、元々フリースタイル・レースをホームとする六人。つまり、
負ける目は大きい。そう考えたドロップスティアーは、久々に
《そ、それでは、思わぬ飛び入りとなりましたが……全員、ゲート入り完了。さぁ、ある種世紀の一戦、今――》
――ドロップスティアーは、ナカヤマフェスタより事前に聞いた。『自由に走る、
つまり、
ドロップスティアーはゲートに入り、スタートする前。
《スタ》
スタート。その言葉を聞き切る前、
ドロップスティアーは、
《――ットォォォ!?》
ドロップスティアーは、パワーだけであれば世代一である。過剰過ぎて持て余している。
故にそんな彼女が全力で容赦無くゲートに蹴りを放てば、
結果。ドロップスティアーの前のゲートは吹っ飛ばされ、他のウマ娘達全員は
「っしゃぁぁーーーッ!!」
そしてドロップスティアーは何事も無かった様に、ヤクザキックの勢いのままスタートダッシュ。周囲が状況を欠片も把握出来ない状態のまま、彼女は単独で第一コーナーへと突っ走っていった。
「――ふっ、ざけんなぁーーーッ!?」
《ド、ドロップスティアー、
ゲートの振動が落ち着いて、ようやく他の出走者達が走り出す。しかし完全に予想外の、前代未聞の
ドロップスティアーは”五つの武器”の考案の際に、明らかにルール違反だろう手口も思いついてはボツにしていった。それがこの震脚バリエーションの一つ、”
即ち、
《あっはっは! ドロップスティアー、そのまま最内で第一コーナーを回る! これが中央最大の暴れウマ、ドロップスティアーだ! 何であのウマ娘は、あんな事をしておいて平気な顔して走ってられるんだー!?》
「ク、ククッ――アーッハッハッハ! そりゃ無ぇだろ! バカか、バカなのかアイツ!」
実況も観客も、当然その中にいるナカヤマフェスタも。全員がプロのアスリートにあるまじきその異常行動から、何ら思う事も無い様に平然と突っ走るドロップスティアーの姿に爆笑していた。
ドロップスティアーのスタート勘・というより音への反応速度は随一だ。集中して最初から行動を定めていれば、ゲートの動き・スタートの合図と同時に静止する物体を蹴り飛ばすなど容易である。
『いやー流石に無いわー』。本人ですらそう考え、かつて完全に闇に葬った筈の技は、”自由”に競うこの場所において”勝手”によって放たれた。
「待てやオラァァァ!」
「何してんのよォォォ!」
《ド、ドロップスティアー、第二コーナーに入りながらゆっくり減速。後続も追いついてきました、全員凄まじい形相をしています!》
ゲートを粉砕し、スタートを粉砕し、
スタートのハナ争いだとか駆け引きだとか、そういった常識と前提をゲートごと破壊する恥知らずの行為。なぁに、ゲートを破壊した後の弁償など終わってからでいい。いいから勝負だ。
「うぎっ……!」
「ちょ、ちょ、前っ、ジャマっ……!」
ドロップスティアーはじまりの基本戦術・逸走策。内側を取りながら外へと微妙なライン移動でスローダウンし、自分を壁として内を走る相手を外へ回させる技。
本来第一コーナーの先頭争いで使われるこの技だが、先頭にさえ付ければこの技はどこでも使える。戒めの為に見直した日本ダービーのレース映像で、キングヘイローがコレを第二コーナーでセイウンスカイに当てていたのは見た。
そしてこちらは本家本元・逸走のプロである。本来何一つ誇れる事では無いのだが、ともかく逸走に関しては同世代で右に並ぶ者は居ないだろうと思っている。
怒りのまま外から回ろうとする二番手側へと逸走し、後続の三番手の脚を鈍らせる。そして、
二番手と三番手には外を回らせて抜かせた。
「こ、このっ……!」
「うぐっ……!」
内・外・内・外。だらだらうろうろとローペースでラインを変えながら落ちてくるドロップスティアーに対し、後続は躱すしか出来ない。
少数しか走っていないこの状況であれば、ラインを外へ流しっぱなしにする必要も無い。そしてこちらは先んじてのんびりペースダウンをしているだけで、相手は簡単に躱せる。なのでこの技は、相手の走りを妨害する
そんな中、最後尾のウマ娘だけが妙に前に来ない事を察する。追込としてこちらを警戒しているのかと判断し、ドロップスティアーはそちらからは目を切った。
(……んん……?)
第二コーナー終わり、散々に序盤戦を荒らし尽くして向正面・五番手の後方についたドロップスティアーは、違和感に気付く。
脅迫マークを仕掛けるつもりは無いのに、勝手に前に追いつきそうになる。自分の
ペースダウンのやり返しだろうか。
「くっ……!」
抜いた四番手が歯噛みしているのを横目に見て、作戦を外されて悔しがっていると判断した。正直、ヤマ勘ブロックの使い手としては、自分も落ちる覚悟でブロックからのペースダウンを食らうのは痛手であるとこれ以上無く理解している。
右回りで不慣れな立地と距離ではあるが、1600メートル前後という事は東京1800メートルと同じぐらいのペースで走ればいいだろう。ちょっと外へとロスさせられたが、200メートル分のロスにはならない筈だ。
そして、向正面が終わるより前に三番手に
(……オーバースピードなのかなぁ……うーん……)
慣れない右回りで芝状況は劣悪だが、自分の走りは悪路に強い。そこで有利になっている可能性はあるが、スタミナとペースに余裕を保たせて抑えているつもりでも
妙な状況だ。抑えてても追い付くし、初めて向正面で外側を回らされたし、どうにもやりにくい。そう考えながら第三コーナーの入りを見て。
三番手以降が、
《ドロップスティアー、三番手のすぐ後ろまで上がってきた! しかし目の前には
この日の直前、フリースタイル・レース場には雨が降っていた。その時の名残が、抉られて未整備の部分であるコーナー内側には今日も残り続けていた。
パッと先を見ると、先頭の一・二番手も水たまりによって外側を回っているらしい。先に外回りしている相手に対し、大外からの追い上げはしにくい。
《おっとドロップスティアー、そのまま
「あっはっはっ、お先にしつれーいっ!」
《何事も無く突っ走っているー! 全然足取りが乱れていないぞあのウマ娘ー!》
「ウソでしょっ!?」
足が取られる。
ドロップスティアーの代名詞は、鋭角コーナリングによる大外捲りであり、殆どのレースでそうやって追い上げてきた。故に観客や出走者は、彼女の
芝だの泥だの、全てが自分の足を
《ドロップスティアー、あの最悪のインを上がっていって、三番手! というか、普通に曲がれたのかお前ー!》
(いやまぁ普通には曲がれないんですけど)
彼女が第三コーナー以降を外で回らないレースは殆ど無い。その上、内側は劣悪な芝状態であり、走るには適さない。
なので三番手のウマ娘はインの芝状態の悪さもあって外側を回っていた訳だが、しれっと内側を完璧なライン取りで加速していくドロップスティアーに驚愕し、見送る事しか出来なかった。
(大外捲り警戒かぁ。コレちょっとまずかったかもなぁ)
内を走ってペースを上げながら、ドロップスティアーは思考を巡らせる。
脚の余裕はある、しかし失策を悟った。こういったロス覚悟で大外捲りを事前に封じられた場合、公式レースでは致命傷だっただろう。それこそ自分のやる逸走策をやり返される様な形になってしまう。
たまたま自分に有利な状況が来ただけ。そう思い、この状況を反省した。
(帰ったらトレーナーさんにこういう時の対応聞いてみようかな)
中央のウマ娘は基本的に自分のレース運びをを守る――つまり、外を走るロスを終盤まで無くして内を取り続け、最終コーナーからラストスパートを意識してラインを取る。それ以前に仕掛けるのがドロップスティアーのスタンスな訳だが、この様な形でマークされると不利・いや負けに直結すると考察した。
今回だけのラッキー。そう考えつつ、がっらがらの最内を少しずつペースアップしながら追い上げていく。右回りでどこから仕掛ければいいのかは分からないが、内側を突いている分スタミナには余裕が出来ている筈だ。
一・二番手は第四コーナーに入っているも、外側を露骨に回っている。この調子なら第四コーナーの入りで仕掛ければ良いだろう――と考えた所で。
(――
ドロップスティアーは、
《おーっとドロップスティアー仕掛けた! いや、早い! 殆どスパートだ、早すぎる! 掛かってしまったのかー!?》
本来彼女のスタンスは、第三コーナーから緩々と速度を上げ、第四コーナーの序・中盤からのロングスパートをかける事である。
しかし、
判断が遅かった、間に合うか。内側の不良バ場のがら空き状態は続いているし、前方もろくに内を締める気配が無い。よって、最内を突き続ければ距離的には問題が無い。
これだからホーム外での勝負は怖いんだ。そう思ってドロップスティアーは事前の加速を挟まない早仕掛けで二番手を抜きながら、一番手を――レース前に挑発紛いの事をしてきた大柄のウマ娘を見据える。そんな彼女は、最内を平然とまともに走ってくるドロップスティアーに驚いていた。
「逃がさぁぁぁんッ!」
「何でそんな必死なんだテメェ!?」
最悪の筈のインを泥を跳ね上げながら爆走し、本番レースさながらの迫力・全力でドロップスティアーは追い上げていく。
間違いない。この相手は自分の弱点――東京レース場でしか強くない事を看破し、早めに第四コーナーを前目に付けたのだ。絶対そうだ。そうに違いない。自分がそう判断した。
ドロップスティアーは本気でそう思っていたのだが、一番手のウマ娘は全くそんな事を考えていない。むしろなんで重賞ウマ娘がこんな必死にスパートをかけてきているのか、まるで分からなかった。
分からないし怖いから、とにかく逃げた。しかし本来末脚が長い上にまともなピッチ走法を使え、全速を出せるドロップスティアーは、本当の本気で距離を詰めていく。
ともかく一番手のウマ娘は何も考えず、遮二無二この最終コーナーで速度を上げた。
(――……ッ!!)
がら空きのインをまともに曲がれる。一番手にはもう少しで追いつけるだろうが、相手はコーナーを既に抜けようとしている。
最終直線が短い以上、末脚の鋭さでは敵わないのだろう。だが、コーナー終わりのインは空いている。
ならば、
《おっとドロップスティアー、あの泥沼の中で更に加速! あれだけ脚を取られておいて、最後までスパートは続くのかー!?》
(
ドロップスティアーはそれこそ強制斜行を狙う時並の刹那的な加速で、外側に付いている一番手と最終コーナーの終わり際・最内で並ぶ。
まともなピッチ走法で速く曲がれると言っても、足を取られながらコーナーを曲がっている以上、自分の最高速度には最終直線に入らなければ到達出来ない。そして
だから、
「あっはぁーーーっ!!」
《ここで十八番の鋭角コーナリングが炸裂ー! このウマ娘、まるで容赦が無ーいッ!》
本来は大外から相手を掠める軌道で使う、鋭角コーナリング。これをドロップスティアーは、最内のラチと一番手のウマ娘の間を直線的にブチ抜いた後、相手が走るだろう最終直線のラインへ向けて放った。
ゴールまでのストレートはざっと残り300メートル程。末脚を残しているだろう相手よりも速く最内から一つラインを外した所へと飛び出し、相手の理想のラインを奪う。
ロングスパートで速度が上回っている今しか、この最内突きからのライン取りは出来ない。相手は先行策だ、せいぜい脚は一ハロン分しか残ってはいまい。
末脚負けをする前に、相手に最終直線で一人分外回りさせる。そして並ばれた瞬間、震山脚でトドメを刺してやる。ドロップスティアーは、今の自分に出来る全力全開・ガチガチの作戦で相手を倒す算段を立てていた。
「負けるかーーーッ!」
負ける訳にはいかない。その一心でドロップスティアーは、今まで経験してきたレースの中で最も短い直線を爆走する。
判断は遅れたが、先頭は取れた。末脚負けで並ばれるなら震山脚を使う、しかしそれを悟られて二バ身分ラインを外されれば地力勝負でしかない。
地力勝負は苦手だ。名入の作戦も無しに、下準備も無しに、しかも相手のホームで。そんな状況で、それでも全力を出し尽くし――
《ドロップスティアー、
「――……あれっ?」
最終直線で、誰も並んでこなかった。鋭角コーナリングでブチ抜いた相手も、後ろに控えていただろう他の相手も。なんか来ないまま、なんか勝った。
ゆっくりと速度を緩め、後ろを見る。同じレースで走った全員が一様に消耗し切り、引き攣った顔と疲弊した脚色で遅れてゴールしてきていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……マ、マジで、ここまで全力でやるかフツー!?」
「い、いらなかったでしょっ、絶対、最初のゲートのヤツっ……!」
「……いや、無かったら自分負けてたんじゃ……?」
「イヤミかテメェーッ!」
遅れてやってきた五人のウマ娘達は、純粋な疑問を浮かべるドロップスティアーの態度を、謙虚を通り越した嫌味にしか取れなかった。
ぶっちゃけ、当然の結果だった。スタートよりも前に仕掛けられるという想定外の
そんな最悪のロスを極められた状況で、普通に脚が保たなかったのである。
「……はぁー……まぁ、そんだけまぼろ――じゃなかった、現役プロ様がこっちをナメずに本気で来てくれたのは良いんだが……いや全然良くねーよ。ゲートどうしてくれんだよコレ。見ろよこの無惨な散り様」
「え? ……もしかして物凄く高級品でした? 最初から弁償する気だったんですけど……」
「そうじゃねーよ何か他にコメントねーのかって話だよ!」
「……
「「「――……」」」
絶句。フリースタイル・レースでも前代未聞の反則技――最早技とすら言えないモノだったが――をかましておきながら、ドロップスティアーは本気で不思議そうな顔をしていた。
誰もが言葉を失った。しかしそれはダービー直後のお通夜の様な空気ではなく、むしろ逆。
少しずつ、観客達の声が上がってくる。
「クッ、クックック……無ぇなぁ! 確かにそんなルールは無ぇよ、なんせ”フリースタイル”なんだからな! ハハハハッ!」
最初に笑い出したのは、ナカヤマフェスタだった。確かに自分は彼女に説明した、ルール無用の無法地帯だと。
普通はやらない。しかし、ここは”フリー”なのだ。好きに走り、好きにやる事が肯定される場所なのだ。
笑うしか無い。彼女は確かに勝負に拘る、その点で言えば自分と同じ。しかし、
「そうだそうだー! 確かにここにルールは無ーい!」
「勝ちは勝ちだー! でもちょっとぐらい悪びれろー!」
《ゲート直す金は出せバカーッ! 金無いんだこっちはーッ!》
やいのやいの。観客達は一斉に騒ぎ出す。ここは確かに公式から離れた、自由を尊重すべき場所である。別に誰かを怪我させた訳でも無いのだ、彼女がやった事に文句は付けられない。
単なる一周勝負。過程や方法などどうでも良い。トゥインクル・シリーズですら滅茶苦茶やっている彼女は、フリースタイル・レースではもっと滅茶苦茶をやらかした。しかしそれは、観る分には公式で有り得ないエンターテインメントであった。
それはそれとして、フリースタイル・レース場を運営しているウマ娘は修理費を請求する為にマイクで叫んでいたが。
「ハッハッハッ! ゴルシに付き纏ってるだけはあるなぁ、マジで! アーッハッハッハ!」
ナカヤマフェスタは腹を抱えて、見せつけられた自分との相違点がおかしくって仕方なかった。
自分も彼女も、”勝負”に拘る。しかしナカヤマフェスタは、強い相手に対して、運を天に任せて博打をしてでも挑む事――”挑戦”こそが勝負の本質であると思っている。
しかしドロップスティアーの走りには、そういう拘りその物が存在しない。相手がアマチュアだろうが、常識を破壊して確実に勝ちに行った。スタートでゲートを粉砕するという、誰も考え付かなかった完全なる反則を使ってでも。
最近ゴールドシップから、『姐さん』呼びしてくる面白い後輩が出来たとは聞いていた。だが、これはあまりにも面白すぎた。
バカ過ぎる。ゴールドシップとはまた違う方向性の、常識外れのバカだ。
「……ふぅ……あー、危なかった……負けるかと思いました……」
「どこがだァーーーッ!!」
心底安堵の声を漏らすドロップスティアーに対し、大差負けさせられた大柄のウマ娘は絶叫した。
フリースタイル・レース場には、公式のルールが存在しない。誰もが自由に走る場所だ。事実上、誰もが勝ち負けも然程気にせず楽しむ為の場である。
しかし、”レース”ではあった。いかにフリーを謳えど、その基盤にはレースのルールが根ざしており、真の意味での
そしてドロップスティアーは、”フリースタイル”で負けた事が殆ど無い。負けを認めさせられたのは、謎のウマ娘Cさんにのみである。
故に彼女はある意味、このレース場で無敵の存在だった。自由過ぎて”敵”という概念がそもそも存在しない、そういう
(――しっかし。なーんか、えらい……違和感のあるレースだったなぁ)
出走者からは非難轟々、観客からは大爆笑。そんな声を無視して――ぶっちゃけ勝負が確定した時点で、省みる必要は無いと思っている――、ドロップスティアーは今のレースで感じた何とも言えない違和感に頭を悩ませていた。
事前の作戦など無い、現場対応。しかしダービーの時とはまるで違う、自分の有利要因が
ドロップスティアーは自分の大差勝ちに対し、どうしても違和感が拭えなかった。ちなみに破門脚という蛮行に関しては、別になんとも思っていなかった。
◆ ◆ ◆
「短距離なら負けない! 勝負よ!」
「あっはっはっ、はぁーっ!!」
《あーっとドロップスティアー、
「バ……バカもーんッ……! 通るワケないでしょッ……! こんなの……!」
「通ります……! 右回りのレースとして、
「アーッハッハッハ! バカだ! マジでバカ過ぎるだろアイツ!」
その後。ナカヤマフェスタの誘いによって、暇な時にドロップスティアーは時々フリースタイル・レース場で走るようになった。
その度にトゥインクル・シリーズの比でない程、フリースタイル・レース場は荒らしに荒らし尽くされたという。
ティア「フリースタイルでしょ? ごめんなさいとは思ってますけど」
運営「ごめんで済んだらニューヨークポリスデパートメントはいらねえんだよ!」
バカは死ぬまで治りません。そして死ぬ事もしなくなったので、バカだけが残りました。