ヤマ娘 ~Crazy Derby~   作:灰の熊猫

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『バカモノ』

 ウマ娘の身体能力は、人間とは比較にならない程高い。特に走る力、速力に関して言えば次元が違うと言っても過言ではないだろう。

 人間の短距離走――百メートル走で、速めの人間が十二秒ほど。平均時速にして30キロメートル、達する最高時速は35キロメートル。

 一方、速いウマ娘の基準は上がり三ハロンを三十三秒台で走れる事とされている。これはラストスパートで、時速64キロメートル弱が出ている計算だ。

 何十倍もの距離を走りつつ、二倍弱の時速を出せる。だがしかし、全ての身体能力が倍という訳では無い。あくまで人間に近い形で、走る力に特化した種族というだけなのだ。

 結論から言って。五メートル強――二階建ての家の屋根先にも近い高さを、ぴょーんと軽々飛び越えられる訳では無い。

 

「――しゃああいっ!!」

 

 なので、ドロップスティアーは高さを()()した。

 ドロップスティアーが跳んだ石壁は、土砂崩れを防ぐ間知ブロックの擁壁。凹凸のある長方形のコンクリートを布積み――地面から並行となる様に積み込まれたモノだった。

 山肌に埋め込まれたブロックは極めて険しいが、全くの垂直ではなく僅かだが斜面となっている。その斜面をドロップスティアーは壁面ブロックの中間、凹凸の部分に足を引っ掛けて強引に壁を登り切ろうとしていた。

 

(バカげているッ!)

 

 シンボリルドルフは素直にコーナーを曲がる態勢に入りながらも、ドロップスティアーの狂った行為に注視した。

 階段を昇るのとは訳が違う。いかに敷き詰められたブロックに凹凸があろうが、そこには爪先を引っ掛けられる程の幅しか存在しない。

 一歩・一瞬・一センチ。少しでもズレれば、壁から足は滑落・コンクリートの道路に体勢を崩した状態で落下して叩き付けられるだろう。

 そもそも速度を付けた状態で壁を走ろうとする事自体、足首より下の部位全てに集中して負担がかかる。速力の反動を受けた足は、それだけで骨折しかねない。

 

「あっはっはっ、はーっ!」

 

 そんな(リスク)など知らない、そんな風に笑い声を大きく上げながら。

 爪先・足裏・踵。凹凸のあるブロックに対し、ドロップスティアーはその全ての角度と位置を噛み合わせ。神業的な足運びで、コンクリートの壁を駆け上がる。

 何も賭けていない、負けても失う物も無い、初対面のウマ娘との勝負(かけっこ)。それだけの事に、ドロップスティアーはウマ娘の(いのち)を賭けていた。

 

()()()に何があるのかわかっているのかッ!」

 

 登っている。登れていた。五メートルを越えるコンクリートの壁を二足で、ノーブレーキの高速で登り切った。

 だが壁を走って登る、それだけでこのショートカットは終わりじゃない。林や山肌の代わりにコンクリートの壁が設けられているという事は、加えてもう一つの物体が付随する。

 ()()()()()()。車が崖の落下を防ぐ為に道に設けられているそれが、ドロップスティアーの登り切った先を阻む様に低く立っていた。

 勢い任せに登った所で、険しい壁を登り切った時には既に跳躍力は放出し終わっている。それどころかドロップスティアーは、壁走りの最後の一歩で壁上の道に手を付き、腕の力で体を引き上げる事で登り終えていた。

 するとどうなるか。前への勢い(ベクトル)は残っているのに、本人は道に脚を付けていない。上半身を崖上に出しているだけで、ガードレールを越えるジャンプが出来る姿勢にないのだ。

 

「こうすんですよぉっ!」

 

 ドロップスティアーは、跳ばなかった。

 ()()()()

 

「は、あっ……!?」

 

 コーナーを曲がりながらも、シンボリルドルフはドロップスティアーの様子を見ていた。滑落して大怪我をすれば、すぐに助けに入れるように。

 だが、ドロップスティアーはガードレールに衝突しなかった。まるでゲート下をくぐる様に、隙間に体を横に転がす事で滑り抜けた。

 聳える壁の高さ、ブロック上の薄い凹凸、ガードレールの高さ、その支柱の隙間。全ての猶予ギリギリを通す、山道(ここ)でしか使えない極めて高度で、そして無駄な神業。

 だが、それでも怪我のリスクはある。全身を転がしているのだ、肘でも頭でも、どこにでも傷を負う可能性がある。いや、怪我をする可能性の方が高い。

 ――普通ならば。

 

「しゃーっ、せいこーうっ!」

 

 壁の上へ消えたドロップスティアーの姿は、シンボリルドルフにはもう見えない。しかし、そこから聞こえるハイな叫びに痛苦の色は一つも無かった。

 ()()()()()()。シンボリルドルフは人生で感じた事が無い、別種の畏怖を覚えた。

 

「く、そっ!」

 

 勝負は続いている。シンボリルドルフは右コーナーを曲がり終え、二十メートルほどの短距離を経てまた逆の左コーナーに入る。

 このS字を描く二つのコーナーと直線の組み合わせは、それ程厳しい勾配には出来ていない。先程まで見ていたライン取りを見様見真似で、自分なりに走る。それだけでシンボリルドルフは楽に区間を走り抜けられた。

 ()()()()なのだ。他所者のシンボリルドルフですら楽に走れる、そんなポイント。たったそれだけの区間をショートカットする為だけに、ドロップスティアーはあんな危険行為に及んだのだ。

 

(そこまで、する必要は無いだろう……!?)

 

 コーナーを抜けた先、今度は一ハロン程のまともな直線がやってくる。その果て、大差としか言いようの無い距離の先でドロップスティアーは普通に走り、次のコーナーに入っていた。

 まずシンボリルドルフは彼女が無事である事に安堵した。全てのウマ娘を思いやる精神は、シンボリルドルフにとって他の何よりも優先される。

 だが、次いで別の疑問が浮かぶ。ドロップスティアーはこれまで通りのスピードを出して走っていた。()()()()()()()

 

(……あそこまで、速度を戻せるモノか……?)

 

 転がりながらガードレールを抜けた以上、彼女の体は道路にうつ伏せになるなり、倒れた体勢となっていた筈だ。

 しかしシンボリルドルフの視界の先を行くドロップスティアーは、倒れて速度を失った状態から立ち上がって再加速したとは思えない、平常な速度を出せている。何故だ。

 ――()()()()から、立ち上がり?

 

「……()()()()()()()()()()かっ!」

 

 シンボリルドルフは直線で距離を詰める最中、ドロップスティアーが転がっただろう跡がある地点をちらりと見る。そこには、地面を蹴った足跡より先、()()()()()()()が薄らと残っていた。

 最後までスタミナを保たせなければならないウマ娘のレースでは使われない――というか、公平性を保つべくレース規則で禁止されている――、超短距離専用のスタート技術だ。

 最も速度が出る走り方とは重心を前に出す、地を這う様な超前傾姿勢。故に、スタート地点で最初から全身を前傾させるクラウチングスタートは、最速のスタートダッシュを可能とさせる。

 だが、この技術には実際のレースで禁止されている以外に、もう一つのデメリットがある。

 

(ゴールが近い、そう考えるしかない……!)

 

 シンボリルドルフは歯噛みし、抑えていた脚力を再び上げ始めた。

 クラウチングスタート、つまり超前傾姿勢は爆発的な速度を生み出す。その一方で、ゼロから強引に全開速度を引き出す以上、スタミナも大きく消耗するのだ。

 速く走れば肺の酸素が一気に燃える。酸欠状態で走れば、走行フォームを維持するバランス感覚が乱れる。そして酸素(スタミナ)が脳から尽きれば、そのまま転倒してしまう。

 故に極端な前傾姿勢を取る時は、スタミナを一気に消費しても最後まで保たせられる――ゴールが近い時だけだ。

 

「……く、くくっ……くっ」

 

 上がる。シンボリルドルフの速度が、体温が、鼓動が。魂が、燃え上がる。

 今日出会った生徒達が言っていた事を思い出す。『一番のアホで、最強のバカ』。

 怪物ではない、化物(バケモノ)でもない。これは、()()()()だ。こんな、こんな下らない一時の勝負の為に命懸けの行為に及んで、あろうことかそれを全力で楽しんでいる。

 シンボリルドルフは、こんな勝負で負けても失う物はない。してやられた、こんなウマ娘がいるのか、こんな走りが存在するのか。むしろ知らない世界を知らされ、感心で満たされていると言っても良い。

 ――だが。

 

「――そんな走りを、認められるかッ!」

 

 シンボリルドルフは、本気を出した。この山道の中では長いと言っていいこの一ハロンで、走りのギアを十分に引き上げた。

 冠前絶後と称えるレベルの神業だった。だが、それを見たシンボリルドルフは()()()()()

 ドロップスティアーは、間違いなく才能のあるウマ娘だ。山を走るスペシャリストという中央に存在し得ない、特異なオンリーワンの才能を磨きに磨き上げたウマ娘。

 そんなウマ娘が、軽々と身投げに等しい愚行と蛮行に及んでいる。一度でも失敗すれば将来二度と走れなくなるかもしれない、そんな危険を平然と犯している。

 誰がなんと言おうと、本人が望んでいようと。全てのウマ娘の幸福を望む、その理想を貫こうとするシンボリルドルフにとって。ドロップスティアーの走りは、到底認められない物だった。

 

(負けられないッ……! 負けてやる、ものかッ!)

 

 怒髪衝天。その一心でシンボリルドルフは”領域(ゾーン)”に近い集中状態へ入った。

 直線からコーナーへ、アウトインアウト。コーナーの角度が分からない、終わり際が分からない。そんな些細な事など、今のシンボリルドルフにはまるで関係無かった。

 全力の集中状態である”皇帝”のレースセンスが、遠心力で振られる体からラインのミスを悟り、即座に修正する。間違った歩幅は無意識に最適化され、コーナーを抜けると同時にスピードを全開にして立ち上がる。

 慣れない山道、厳しい坂道は確実にシンボリルドルフを消耗させている。だが、それでも温存していたシンボリルドルフなら少なくともこの勝負の間だけは脚が保つ、いや保たせると決めた。

 

(負かす……! 負かして、あの走りを止めさせるッ!)

 

 そうしなければ、ドロップスティアーはあの破滅的な走りを止めない。

 自分を自ら壊す半歩寸前、狂気の沙汰。あれを止めるには、実力でねじ伏せるしか無い。

 そんな走り方をしてはダメなんだぞ。そう諭すには、実際に勝たなければならない。

 負かす。負かして、叱る。その為だけに、シンボリルドルフの全身から蒼雷(オーラ)が迸った。

 

「……見えたッ……!」

 

 振り回す左右の連続コーナー、ヘアピンカーブ、急坂。その全てをシンボリルドルフは全能を駆使して突破し。ついに、離されて完全に見失っていたドロップスティアーの背中が直線の先に見えた。

 さらに近道(ショートカット)をやってのけたのだろう。滅茶苦茶な、道とも言えない道を通ったのだろう。シンボリルドルフが遠目で見るだけでも判る程に、ドロップスティアーの体は泥の汚れまみれ・草木まみれの有様だった。

 ぷちっ。誰かを思いやるシンボリルドルフの気質(やさしさ)が、その瞬間完全に反転した。

 

「――何をッ、しているのだッ、君はァァーーッ!」

「うぇぇっ!?」

 

 ドン。アスファルトを割るが如き轟音を立て、シンボリルドルフは驚異的に加速した。

 ドロップスティアーは完全に振り切った筈の存在から発する脚音を、圧力を、怒気を。それら全てを突如背中に叩きつけられ、この勝負の中で初めて本気でビビった。

 一ハロン弱・緩い坂・僅かな右曲がりのほぼ直線。道路の左側を走るドロップスティアーとの差は優に四十メートル、約十六バ身という大差が開いている。

 ()()()()()()()

 

「往くぞッ――!」

 

 それがどうした、私は”皇帝”だぞ。本来絶望的と言える大差など、全開のシンボリルドルフにとっては誤差だ。

 猛進。七冠を奪い取った末脚が地を穿ち、前方のウマ娘に一気に迫っていく。

 しかしシンボリルドルフは考えなしに末脚を繰り出した訳では無かった。緩い直線の先には、坂が見えない。代わりに綺麗に整えられた木の柵と、それに囲まれて拓けた広場が見えている。

 あれがゴールだ。この直線で終わりだ。この直線で、終わりにしてやる。

 

「うっそ、はっや……!?」

 

 大差。十バ身、九バ身、八バ身。全力のシンボリルドルフが脚を回す度に、驚異的な速度が彼我の距離を消滅させていく。

 慌ててドロップスティアーも加速するが、今のシンボリルドルフに比べれば遥かに遅い。近道で無理をし続けたツケにより、ドロップスティアーの末脚は鈍り切っている。

 風の壁すら打ち破る抜きん出た加速。中央の頂に座する脚が、まるで大人げなく中等部のウマ娘へと襲いかかった。

 

「逃がさんッ……! 勝つのは、私だッ!」

「ひっ、ひゃぁーっ!?」

 

 七・六・五・四バ身。”絶対”の脚が、圧が、力が。それまで付けた大差を蹂躙する。

 追われるドロップスティアーは、生まれて初めて感じる異次元のプレッシャーと、そこに感じられる怒りを肌から心の底まで感じ取っていた。本気で悲鳴を上げて、逃げていた。

 そして。ドロップスティアーの体が、左側にヨレた。

 

(捉えたッ!)

 

 勝機。シンボリルドルフは速度はそのまま、位置をドロップスティアーの右側へスライドする。

 この勝負では接触によるブロックすら認められる。ならば、そんな猶予を与えなければいい。

 速度で圧倒している今、半バ身も横に幅を取れば自分がブロックされる事は無い。これまで培ってきた経験の全てが、シンボリルドルフに予知じみた確信を与えた。

 三・ニ・一。それまで捉えられなかった影を踏み締め、さらに前へと。

 目算、残り五十メートル。二分の一バ身差、ドロップスティアーの右側面。シンボリルドルフの脚は残っている。

 ――勝った!

 

「あー、あっぶなかったー」

 

 すいっ。ドロップスティアーが、減速して左に旋回した。

 

「――はっ?」

 

 シンボリルドルフがドロップスティアーを抜かした――というより、抜いたと思った瞬間にドロップスティアーは途中で道路の左へ逸れていった。

 シンボリルドルフは末脚の勢いのまま突き進む。直線の終わりまで三十、二十、十。急に走るのを止めたドロップスティアーに困惑して、シンボリルドルフも少しずつ脚を緩めていった。

 距離、ゼロ。シンボリルドルフが広場に辿り着く。

 ()()()()()()()()

 

「……えっ」

 

 そこにあるのは、休憩用に建てられた東屋と複数の固定式望遠鏡、そして夕焼けに染まった麓に広がる街の景色。

 シンボリルドルフは、()()()にいた。

 

「ルナさーん、こっちですよー」

 

 五十メートル後ろ、ドロップスティアーの声が聞こえて振り向く。

 ()()()()()()。僅かだが右側に曲がっていた最終直線、その途中。左脇へ鋭角に曲がる形で、こぢんまりとした駄菓子屋とその駐車場へ繋がる道があった。

 

「……あっ」

 

 シンボリルドルフは気付かなかった。過度の集中状態で狭まった視野と、スパートをかけて直線を抜けるだけというレースの常識が、脇道があるという可能性を思考から消していた。

 シンボリルドルフは思い出した。二つ目のルール、()()()にある駐車場がゴールという言葉を。

 シンボリルドルフは気付いた。()()()()まで行く必要は無かった、と。

 

「……は、ははっ。……ははっ、はぁ……」

 

 シンボリルドルフは、笑った。笑うしかなかった。ドッと疲労が――徒労感が、肩から全身へと一気に伸し掛かってくる。

 シンボリルドルフはこの日。ある意味、完膚なきまでの敗北を味わわされた。

 




レースに絶対は無いが、そのウマには絶対がある。
……しかしこれは、そもそもレースじゃなかった。
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