「――ぬ゛、ぅうぁあぁあ……」
「……やっぱ、ダメだなこりゃ。アプローチ変えるか」
ドロップスティアーは砂浜の熱を背中に受けながら、青天を見上げる。実に清々しい夏空であった。ぷるぷる震えまくって海水で冷やす最中の、自分の無様な両脚にさえ目を瞑れば。
夏合宿の砂浜コーナートレーニング。小休止を挟んでは毎日取り組んでいたそれであったが、三日目にして名入は割と真面目に失望していた。
全くトレーニングに適応出来ない。真剣に取り組めば取り組む程に泥沼。異常にして過剰なパワーは、全てその日の内に筋肉痛という反動となって返ってくる。
たかが筋肉痛、されど筋肉痛。レースまで引きずればコズミという歩調の乱れとなり、これが重なり続ければスクミと呼ばれる筋繊維と血液性の異常という故障に繋がりかねない。
「基礎トレする為の基礎すら足りてねえ。計画変更だ、トレーニングのレベルを下げるぞ。お前のそのザマに合わせてな」
「……むぐぐ……」
想像以上にして想定以下のトレーニング不適合者っぷりを見せられた名入は、昨日の時点で既に別のトレーニングを急遽調べていた。
ドロップスティアーの脚の耐久力は高い。死にたくても死ねないとすら吐き捨てた彼女は、恐らく名入が分析するよりも自分の
だが、いかに故障しないと言っても、限界ギリギリのままトレーニングもろくに出来ないとなれば、時間の無駄遣いにしかならない。お話にならない。
「お前、
「……ス、スキップゥ……?」
「正確には、スキップで一歩ずつ脚を止める感じだ」
スキップ。言わずと知れた、リズミカルに軽々と跳んで行く走法――というか、遊びの様なものである。
当然だが、スキップは速い走りでは無い。それこそドロップスティアーの跳ねる走法よりも高く跳び、そしてリズムを重視してとんとんとーんと進んでいくこの走りは、レースの技能には何一つ直結しない。
ただし、
「コイツが手本だ。腿上げた時に、ピタッと意識的に止める」
「……あれ、
「基礎の基礎ってなると、もうそういうトコから始めるっきゃねーんだよ」
名入は手持ちのタブレットを操作し、全く別の場所の砂浜の上をスキップで走る人間達のトレーニング映像を見せる。
中央のトレーニングは、基本的に前例に基づく。つまり、ウマ娘のトレーニングには過去のウマ娘を参考にするのが通例だ。積み重ねられてきた中央とレースの歴史は、それだけトレーニングとして最適化されている。
だが、それはあくまで”中央”であるからだ。
「ピッチ走法を使うウマ娘だって、ここまでビーチランニングがヘタクソなヤツは歴史上存在しねえ。いやマジで存在しねえ。だから、それ以外の基礎トレを必死こいて探してきた」
「コレホントにトレーニングになるんです? 遊んでません?」
「本来は人間の陸上競技でもウォームアップに含まれるが、お前のこの場における
砂浜において、ドロップスティアーの走りは信じられない程適合していない。潤沢なスタミナは活かせず、効率の良い筈の走行フォームも機能しない。
いくらなんでもヘタクソ過ぎる。そう考えた名入はビーチランニングの効用をひたすら調べまくり、その中で初歩中の初歩、人間レベルでの所からトレーニングを考え直した。
「上体を起こして走るのが効率が良い、っつー話はもう耳タコだろうが。お前の場合、
「……というと?」
「初日、お前がスタートダッシュの一歩目でバカみたいにすっ転んだ時。脚の感触はどんな感じだったか覚えてるか?」
「一言余計だっつってんでしょ。んー……なんかこう、ずりっと滑った、っていうか」
「足で
「……いや、フツーじゃないです?」
地面を足で押す。それは本来、当然の事である。
前への推進力を得る為には、後ろに蹴って反発力を得る必要がある。足が後ろに流れるというロスがあろうと、ストライド走法のウマ娘が前傾姿勢で大きく歩幅を取る理由は、それだけ地面を後方に蹴り飛ばす力が生まれるからだ。
だが、砂浜で芝レースと同様のペースやフォームで走ろうとすれば、どんなウマ娘も上手く走れない。そこに、ある意味ドロップスティアーが
「砂浜は柔らかく、足が取られる。だから
「いや、やってんですけど」
「砂浜の上でお前のパワーじゃ、更に極端に意識しねーと適応出来ねー。
ミッドフット。ドロップスティアーが死ぬ事も出来ない地獄のマラソンの中で散々っぱら叩き込まれた、足裏を広く使う走り方。中央では常識のこの足捌きを、ドロップスティアーは今ではちゃんと体得している。
しかし、過剰なパワーが地面を易々と抉ってしまうというこの
「まずスキップで足裏を
「……わかってますよぅ……」
ドロップスティアーは心底ローテンションで海辺より立ち上がる。子鹿化していた自分の脚の震えは既に収まっていた。
既に全力ダッシュするだけの余力は脚に残っていない。だが、スキップするだけなら流石に出来る。基礎より以前、初歩の手前。トレーニングするレベルにまで至っていないとまで言われても、拗ねている場合では無い。
”黄金世代”相手にも負けない様に、厳しいトレーニングをこなす覚悟はしていた。が、今回のトレーニングはとびっきり緩い。というか、今までのトレーニングが常識の次元から外れていただけだが。
自分の現状のレベルとはその程度なのだと改めて思い知った以上、ドロップスティアーはどんな事だろうが真面目にトレーニングに全力で取り組む事にした。
「――ト、トレーナーさん、これっ、まぁまぁキツくないですかっ……!?」
「……先が思いやられるぜ……」
そしてスキップするだけの、そんな簡単過ぎる事にもドロップスティアーは苦心した。
辛い・痛い・苦しい。人生レベルでそういった事のみに特化したウマ娘である彼女にとって、この合宿で求められる正当にして真っ当なトレーニングは、本当に”最難関”な事であった。
◆ ◆ ◆
「……これ、ホントに大丈夫なんですかね……」
結局丸一日、砂浜でのスキップとクールダウンに費やした日の夜。ジャージ姿に着替えたドロップスティアーは、夜の海に黄昏れに来た。
堤防に腰を下ろし、月明かりだけが浮かぶ暗い海を眺める。合宿所から離れたこの場所には、緩やかな波が浜に押し寄せ浚う音だけしか聞こえない。考え事をするには丁度良い静けさだ。
合宿開始からの数日の事を思い返し、溜息をつく。自分が中央において異端のウマ娘である事は重々承知ではあったのだが、まさか基礎トレすらろくにこなせないとは思わなかった。
他の同期のウマ娘達が苦心しながらも、ちゃんと砂浜で走っている姿を昼間見て、ドロップスティアーは割とガチめに凹んでいた。本気で危機感を覚えていた。
菊花賞で勝つ為の
(……?)
しかし、そんな凹んでいる自分自信に対し、客観的な
自分自身への不安・不信。
ドロップスティアーは”今日”だけを見る信念を持っている。それはつまり目標さえあれば、どれだけ途中で失敗しようがそこまで深く考えない、竹を割った性格という事である。
最後だけなんとかする、その為にやる。極めて単純化された思考は、どんな無茶振りトレーニングにもぶーぶー文句を垂れ流しながら従順にこなしてきた。そうしなければ負けるから。
勝負までの過程に迷いを抱かないのが自分の強みなのに、
(……『勝つ』とか、柄にも無い事言っちゃったからかなぁ……)
思い返してみて、これまでとの自分の違いと言えばそれぐらいの事しか思い付かない。
勢い任せの
ウソは嫌いだ。一度ウソをついてしまえば、悪い事をしてしまえば、天国のおとーさんやおかーさんに顔向け出来ない。ちなみに散々他人からズルと思われてきた事は
うーんうーん。仮説を立てて考えてみてもどうにもしっくりこないまま、唸り続ける。夜の潮風と波音だけしか無い場所で、自問自答を――
「――あれ。
「うわっ。……え、なんでわかったの? アタシ、音とか立ててないよね?」
「Cさんレベルなら見るまでもなく分かりますよ。勘で」
「あっはっは。相変わらず変わってるね、キミ」
ヤマ勘は一度覚えた気配は忘れない。集中さえすれば学園内のキングヘイローの気配をピンポイントに察知し、そして永遠に逃げ続けられる精度を持つセンサーは、この静かな夜では意識すら必要とせず強者の気配を感じ取れる。
台風の時以来だなぁ。ドロップスティアーは振り向きもせず、音もなく忍び寄ってきた彼女の存在を確信し、そして実際その隠れ鬼最強スキルと言える勘は的中していた。
「Cさんはなんでここに? ここ、学園から遠いでしょ?」
「ウマ娘が合宿所に来るなら、合宿に来たって考えるべきじゃない?」
「あはっ。ルドルフさんクラスのウマ娘が、今更
「ヒドいなー。アタシだって、本気で鍛えに来たって可能性はあるでしょ?」
「それに、Cさんは好きな所を好きに走りたい。そうでしょ?」
「……良くわかってくれるよねぇ、ホント」
振り向かないまま、問答する。ドロップスティアーは、Cさんが合宿などという目的でここに来たなどと欠片も思っていなかった。何故なら、
Cさんの素性は知らないままだが、シンボリルドルフ級の強さを持ったウマ娘が合宿所で鍛え直す事は考え辛い。そしてCさんの性格は自分に近い所がある。必要が無い場所に来る、その理由を自分の身で考えれば答えは一つ。
「まぁでも、それはちょっとだけ違うかな。流石に気分だけで来るには、ココは遠すぎるし」
「ありゃ? 意外ですね、それでもCさんなら”走りたいから”で来そうと思ったんですけど」
「そうだね。潮風の吹く砂浜の上を走るのも、ターフとは全然違うから好きだよ」
が、その想像と推理が外れていると言われて、ドロップスティアーは首を傾げた。
この砂浜は自分を筆頭に、どんなウマ娘達に厳しいトレーニング場と言える場所だ。だがそれは”走る”時に限り、”遊ぶ”分には然程気にする事でも無い。
走る様に遊ぶ、遊ぶ様に走る。台風のあの日、一緒に走った時互いが共有した意識はそういう感覚だ。それを思えば、好きな所を好きな様に走る事に楽しみを覚えるだろうCさんがやってくる理由は、それだけだと思っていた。
「キミに会いに来た、って言ったら驚いてくれるかな?」
「へ?」
完全に想定外の答えに、思わずドロップスティアーは振り向く。
ドロップスティアーは、トゥインクル・シリーズに疎い。しかしそれは中央に来てから暫くの間、概ねジュニア級の頃に限られる。ダービー一本道へ至るにあたり、様々な知識を得てきた。
そしてその知識は、菊花賞に偏っている。世代で最も菊花賞を観てきて、正しく強い走り方を目に焼き付けながら、『どんな走りで勝ったか』『どういう考えで仕掛けたか』『どういうウマ娘だったか』など、歴代勝者達へ名入が補足説明をしてきた。
――故に。かつては”謎”でしか無かった、
「あの時はお互い見なかった事にしたから、”初めまして”になるのかな? アタシは謎のウマ娘Cさんこと――」
「――
「ありゃ。なんだ、知ってたの?」
かつてシンザンが立てた”クラシック三冠”という伝説を、現代に取り戻した存在。当時の誰もを魅せつけた、天衣無縫のウマ娘。
誰もが知る、三冠ウマ娘。そのウマ娘の名を、ミスターシービーといった。
◆ ◆ ◆
「あっはっはっ! なーんだ、ホントにあの時アタシの事知らなかったんだねー! 良かった良かった、実は遠慮されてたとかだったらちょっとショックだからねー!」
「いやぁ、流石にミスターシービーさんと分かってれば自分だって少しは遠慮しますってー」
「”シーさん”で良いよ。アタシの事をそんな風に呼ぶのは、同期でも居なかったからね。新鮮だし、それにキミからはそう呼ばれた方がしっくり来る」
「えー、良いんです? シーさん、天下の三冠ウマ娘じゃないですかー」
「あはは、もう呼んでるじゃん。いやー、ホントこんな扱いされるの初めてだよ」
ミスターシービーとドロップスティアー。本来天地程の差がある二人は、堤防の上で横に並んで和気藹々と雑談していた。
当然だが、ミスターシービーは偉大なスターウマ娘である。中央最大の恥知らずにして
立場の差を知らない訳では無い。だがドロップスティアーは、知らずに出会った嵐の日と応対を敢えて変えなかった。ミスターシービー本人が変な特別扱いを望まないだろう、そんな事を言われるまでも無く感覚的に察していたから。
「というか、シーさんって忙しかったりしないんです? 三冠ウマ娘とか、あちこちで引っ張りだこになったりしそうなモンですけど」
「そんなのに縛られて好きに走れないなんてゴメンだよ。さっきキミが言ったじゃないか、好きな所を好きに走る。それが”アタシ”なんだから」
「そりゃそーですね」
中央トレセン学園に居る三冠ウマ娘は、ミスターシービー・シンボリルドルフ・ナリタブライアンの三人のみ。当然彼女達は絶大な人気を持ち、各種メディアにも呼ばれる事は多い。
とはいえ、生徒会長として学園をまとめる事に主眼を置くシンボリルドルフ、性格的に人やメディアを好まないナリタブライアンの様に、原則として強く有名なウマ娘ほど自由な行動と意志を尊重される。
そしてミスターシービーは元より”自由”を好むウマ娘であり、誰にも行方を告げぬままふらっと何処かへ姿を消す事もあるウマ娘である。故に彼女の居る場所は、彼女のみしか決められない。
「それで。『自分に会いに来た』っていうのは、ホントです?」
「ホントだよ? まぁ海を見たかったのもあるけどね」
「いやー、光栄ですね。……なんでです?」
「なんでだと思う?」
「見当もつかないんで教えて下さい!」
「キミ、正直だねぇ」
そんな誰からも気まぐれで掴みどころの無いとされる、ミスターシービーというウマ娘。それが自分という個人に会いに来た理由など、ドロップスティアーには皆目見当が付かない。
理由があっても、行動は不明。そういった点において類似した二人ではあったが、あくまで気持ちが分かるだけで詳細まで見抜ける訳では無い。
分からなければ聞けば良い。ドロップスティアーは即座に考察を諦め、相手の言葉を待つ事にした。
「見たよ、キミのダービー」
「……うへぇ……」
あー、そっちかー。それもそっかー。ドロップスティアーはミスターシービーの簡素な一言にげんなりとしながらも、同時に深く納得を得た。
ダービーはクラシック三冠・最高峰のレースであり、注目度はトゥインクル・シリーズの中でもトップクラスだ。どっかの山暮らしでレースも知らなかった様なイレギュラーを除けば、結果を知らないという者は居ない程である。
その上、ミスターシービーは三冠ウマ娘の一人であり、その冠の懸かったレースに興味が無い訳が無い。となれば、歴史上最も狂ったあのレースを知らない筈も無かった。
怒られるんだろうなぁ。それだけの事をやったという事は幾らでも承知しているのだが、近しい人に責められるのは正直辛い。というか辛かった。主にグラスワンダーとキングヘイローとか。
「あぁ、別にそんなに嫌そうな顔しなくて良いよ? 別に文句とか、そういうの言うつもりで来た訳じゃないし」
「……ホントです?」
「走るレースは、走る本人達の世界。あのダービーでも、キミは自分の思った通りに走った。そうでしょ?」
「まぁ、そうですけど」
「なら、部外者のアタシがどうこう言う事は無いよ。そういうのはルドルフの仕事だ」
が、その予想に反してミスターシービーは特に怒気などを持たず、フラットな表情のまま見つめてきた。
ミスターシービーにとって、大事なのは”自由”である。誰にも縛られず己の思うがままに走る事、それがレースの本質。周囲がなんと言おうが、ウマ娘の
どんな走りをしようが、責める気は起きない。だから目的は、別にあった。
「アタシはただ、あんな走りをした理由が聞きたいだけだよ」
「理由、ですか?」
「そ。アタシの菊花賞が当時なんて呼ばれたか、知ってる?」
「あー。二度目の坂の上りからスパートかけて、『タブーを犯した』なんて言われたヤツでしたっけ?」
「大袈裟だよねぇ。アタシがイケると思ったから行っただけなのにさ」
ミスターシービーの菊花賞は、歴史でも類を見ない劇的な勝ち方だった。
淀の坂を二度上り下りする長距離レースにおいて、余りにも早い仕掛け。ゴールまで約1000メートルはある、それも二度目の坂の上りという最も厳しい場所からのスパート。
レースの世界で最も見られる脚質は差しである。それは最後の最後、自分の
京都レース場・特に菊花賞において、最高最長たる淀の坂では脚を残す為にゆっくり上ってゆっくり下るべき。一般的なレースですらセオリーと言える温存策を、当時のミスターシービーはしなかった。
最後方からの追込一気、常識外れの超ロングスパート。それ故に、彼女の菊花賞は一つの伝説として語り継がれている。
「でも”タブー”ってだけじゃ、キミの方がよっぽどでしょ?」
「……ハイ」
タブーとは、成功した前例が無い故に人が作るものである。普通なら出来ない、だから
しかし、前例が無く誰も出来ない事をやるというだけなら、ドロップスティアーの走りはタブーだらけである。命の後先も考えない狂気と、レースを知らない非常識。全く褒められる事では無いが、タブーを犯すという一点だけは誰にも劣らない。
避けるべき禁止では無く、踏み込めない禁忌。誰もやらないのではなく、誰も出来ない。その断絶的な差こそが、ミスターシービーとドロップスティアーの”タブー”を分ける最大の違いである。
「だから気になったんだよね。アタシはイケると思ったから走ったワケだけど……キミのダービーのスパート、アレは
「まー、やってから『あっ死んだかな』って思いましたね」
「怖いねー、キミ」
そしてドロップスティアーは、出来るかどうか――ゴールした後に生きているかどうか、一考だにせず転倒疾走という最大の禁忌・愚行に出た。思いついたからやった。
かつて斜行・押圧をしても降着されなかった時代があった様に、行き過ぎた自由は制限される。ドロップスティアーのそれは、自由を超えていた。常識どころか自身すら鑑みない、そんな走りだった。
ミスターシービーは自由を重んじる。だが、命すら棄てる程の走りをした理由、それだけに興味があった。
「うーん……長々と話すのもなんですし、簡単に説明すると。負けたくなかっただけなんですよね」
「ふーん?」
「自分、子供の頃におかーさんが死んで。その時の遺言が、『まけないで』だったんですよ。だから負けたくなかった、シンプルな事ですよ」
ドロップスティアーは極めて端的に、最も重要な点のみをミスターシービーに伝えた。
母の遺言、負けない事。たったそれだけが、ドロップスティアーの心の原点である。その果てに抱いてしまった狂気が、自棄的な生き方と
「
「……へ?」
「ホントに。ホントに、それだけ?」
ミスターシービーの澄んだ瞳が、真っ直ぐに合わせられる。表情を変えないまま、問いかけ直された。
本当にそれだけなのか。そう言われて、ドロップスティアーは困惑する。そもそも自分は難しい事を考えず、思うままに走るウマ娘だ。思うままに走ったからこそ、あんな行動に出た。
自分がそういうウマ娘である事を、ミスターシービーは知っている筈だ。実際、負けたくないからそうした。何が疑問に思われているのか、ドロップスティアーは逆に困惑した。
「いや……それ以外何かあるんです……?」
「でもキミ、
「え?」
「結果。出た時、キミはこの世の終わりみたいな顔して叫んで、気絶した」
「そりゃ、まぁ……絶対負けたくないのに負けたんですし……普通、ショックでしょう……?」
ドロップスティアーはあまり思い出したくは無い当時の自分を思い返し、顔を歪める。
負けたくないから走って、それで予想外の負け方をして、ショックを受けた。そんな状態で、笑える筈も無い。
自分の場合、その程度が誰よりも重度であったが。負けて笑えないというのは、誰だって当たり前の事では無いのか。
「うーん……そういう事じゃなくて……キミは、思った通りに走ったんだよね?」
「そりゃまぁ、そうですけど」
「……ダメだなー。やっぱこういうのは、アタシには向いてないや」
ドロップスティアーがどう返答しようと、ミスターシービーはいまいち納得が行かない様子を見せる。納得を見せないまま質問を止めて、うんうんと唸り始めた。
一体何が聞きたいのだろうか。本来波長が近い筈のミスターシービーの意図が、いまいち読めないでいる。負けたくないから走ったし、だから負けた時にショックだった。それ以外に何があるというのだろうか。
自分自身ですらそれ以外に思う所が無いのに、ミスターシービーは
「――よし! やっぱり、こういう時やる事なんて一つだよね!」
「へっ?」
「一緒に走ろうよ。……いや、
「はい?」
ミスターシービーは一切前置き無しに、唐突に勝負を申し出た。
ドロップスティアーにとって、そして恐らく誰にとっても全く意味不明の言動。当の本人たるミスターシービーは、微笑みながら堤防から砂浜へと飛び降りた。
「あの時と同じ。どんな風に走るか、どう勝負するかはキミに任せるよ。どう?」
「どう? と言われても……うーん……」
”あの時”、初対面の嵐の日。二人が顔も知らないまま出会った時の様に、ミスターシービーはドロップスティアーへ、どう走るか・どう勝負するかを委ねる。
なんの許可も無く、一切の意図も明かさず、意味も分からない勝負。その上、ここは砂浜――ドロップスティアーにとって、走るには最悪の立地である。そして相手は、伝説の三冠ウマ娘。
この勝負には勝ち目も無ければ、受ける理由も全く無い。
「良いですよ、自分が決めていいんですよね?」
ミスターシービーの考える事はさっぱり分からないが、何かの意図があるのだろう。それに、相手がどれだけ強かろうが、一度は自分から決めた
「そう来なくっちゃ。さーて、今度はどんな勝負をするのかな?」
「チキンラン、ってのはどうです?」
「……何それ?」
「あっちの海に向かって、先に止まったほうが負けってルールです。最近知り合った先輩が教えてくれました」
「度胸試しって事? ふふっ、良いねー」
だが当然、普通に走りを競い合うだけで勝てる相手では無い。なので今回も例によって、速さとは無関係の勝負形式を提案する事にした。
チキンラン、或いはチキンレース。元はナカヤマフェスタより教わった、度胸試し。海に向かって突っ走り、濡れる事を嫌って脚を止めた方が負け。ここに速さは全く介在する余地は無い。
現在、ドロップスティアーの服装はジャージ。一方でミスターシービーは普通にトレセン学園の制服を着ている。ある程度濡れても良い服装という点だけを見れば、有利なのはドロップスティアーの方であった。
「靴とソックスは脱いでいいよね? ジャマだし」
「はい。自分も濡れたらヤですし、そうします」
しかし、ミスターシービーは濡れるのを嫌って脚を止める様なウマ娘では無い。そもそも雨の中で散歩して服がずぶ濡れになろうが何一つ思わず、むしろ愉快に思う性格である。
本来のチキンランは、事前に超えてはいけないゴールラインを決める勝負だ。だがドロップスティアーは、それを提示しなかった。それはつまり、
なのでミスターシービーは、この勝負においてブレーキをかける気は全くゼロだった。
これはどこで脚を止められるかではなく、
「よーし。それじゃ早速行こっか。速さは合わせてあげるよ」
「……助かります。正直、ここ自分走りにくくって……」
「わかるわかる。足取られるからねー、ここ」
「自分の場合そういう次元じゃないんですけど……」
チキンランは元々車やバイクなどを用いた、つまり等速・等条件で行うからこその勝負である。そもそも圧倒的に実力差がある上、速度も効率もガタ落ちの砂浜を走るドロップスティアーは速度を合わせてもらう必要がある。
併走で実力差がある相手にミスターシービーが合わせられない訳も無い。速さでは無く度胸を比べるのだから、そこにはハンデも何も無い。
この場において天を駆ける者と地の底を這う者が、強制的に平等とされるスタートラインで横に並び、夜の海に向かって構えた。
「合図はどうする?」
「スマホでタイマーかけるんで、鳴った瞬間スタートで。五秒にしときますね」
「あ、そっか。濡れると良くないし、アタシもちょっと置いておこっか」
「あはっ、ちゃんとギリギリでブレーキかければ濡れなくて済みますよ?」
「白々しいなぁ、わかってるくせに」
「なんの事かわかりませんねー」
ドロップスティアーはジャージのポケットからスマートフォンを取り出し、時計アプリでタイマーを設定する。それを言われたミスターシービーも、自分のスカートのポケットからスマートフォンや財布などの所持品をぽいぽいと砂浜に捨て置いた。
この勝負に止まるべきゴールラインは無い。最悪
流石のミスターシービーと言えど、制服のまま水泳などやった事が無い。そういう意味で、この勝負はやる前からまるで先が読めないモノだった。
「そいじゃー、タイマー押しますよー。ぽいっと」
ドロップスティアーがミスターシービーへ見える様に画面のタイマーをタップし、そして横の砂浜に投げ捨てる。
四・三・二・一。レースとは全く異なる、スタートの緊張感。始まってしまえば止まる事が許されない、滅茶苦茶な勝負。その合図が――
「ごーっ!」
零を告げる電子音が鳴る。それと共に、どんなレースよりもぬるいスタートダッシュで二人は海に向かって駆け出した。
合宿用に開けた砂浜とはいえ、波打ち際までは50メートルも無く到達する、そんな場所を二人は真っ直ぐ並んで駆け抜けていく。そしてミスターシービーの予想通り、ドロップスティアーは前だけを見て加速し続けている。
度胸比べとは良く言った物だ。まともな
さぁ、自分はどこまで泳げるのかな。彼女はどこまで泳げるのかな。ミスターシービーは止まる気配も無い相手に合わせて加速しながら、このまま海に飛び込んで泳ぐ事だけを考え、二人揃って足を踏み入れ――
「だりゃーーっ!!」
「うわぁーーっ!?」
◆ ◆ ◆
「……あっはっは! ひっどい! ヒドイなーホント! そんな手で勝つかなー普通!」
「勝ったのは自分の足でしょ? ふふん、コレで一勝一敗ですね、シーさん?」
震脚・改め震海脚。海辺で放たれた脚力の水柱により、ミスターシービーは見事に横へバランスを崩し、
ある程度まで海に足を踏み入れた所で全力で踏み込み、相手を人工的な波で吹っ飛ばす。その上でドロップスティアーは、
「あー、ホント面白いなぁ。最初っからコレで勝つつもりだったなら、海に飛び込む必要無かったじゃない」
「あはっ。
波打ち際で互いに服の裾を絞りながら――裾を絞った所で全身余す所無くずぶ濡れなので、殆ど意味が無いが――、二人は語り合う。
ドロップスティアーの震脚による水柱は、当然だが自分を中心に発生する。なのでこの技を撃てば、
「……うん。あんまり、心配する必要無かったかな」
「え?」
「
チキンランに見せかけた、やる前から勝ち筋が決まっていた自分有利の滅茶苦茶な勝負。それに対し、ミスターシービーは恨み言一つ零さず、むしろ微笑んでいた。
「前に会って、アタシが最後に言った事。覚えてる?」
「え? ……えーと……なんでしたっけ?」
「まぁ、覚えてなくてもいいよ。
「え、いや、えっ? いやちょっと、結局どういう事なんです?」
ミスターシービーはスマートフォンと財布を拾い、踵を返して去ろうとしていた。しかし素直に帰られても、ドロップスティアーとしては困る。
結局何が言いたくて、何を聞きたくて、何の意図があったのか。出会ってから勝負が終わった今も、ミスターシービーの考える事の全てが分からないままである。恐らくは大事な――
呼び止める声を上げても、ミスターシービーはそのまま歩いて行く。いきなり現れて、気まぐれに去ろうとして。
「
最後の最後、ミスターシービーはその一言を残して走っていった。
一人残されたドロップスティアーは、その謎掛けの様な言葉に頭をこてんと横に落とすしかなかった。『キミのままで良い』とは、一体どういう事なのか。
ミスターシービーは自分のダービーの走りを見て、ここに来た。責める様な色は無かったが、あの自分の間違った走りに対して思う所があったのは間違いない筈なのだ。
にも関わらず、『そのままで良い』と結論付けられる。自分が思う通りに走ったあの走りがダメだったからこそ、自分は負けたのに。二度と許されない事をしたと、深く胸に刻んだのに。
「……うーん……」
行動と言葉の乖離。そこに対して、まるで正しい答えが出せない。
近しい性質を持つと言えど、ミスターシービーは中央でも天上クラスのウマ娘である。自分に無い強さを持つ者の座位でしか見えない、そういう話なのかもしれない。ひとまずそう結論付け、ドロップスティアーは悩むのを止めた。
素直に帰ろう。思わぬ人物に再会出来た事は喜ばしかったが、変に悩みを持ち越すのも良くない。そう考え、ドロップスティアーは合宿所へ戻ろうとして――
「あーゴメーン! 合宿所お邪魔して良いー!? 流石にお風呂ぐらい入りたいからー!」
「この流れで戻ってくんです!? 同感ですけど!」
普通にとんぼ返りして来たミスターシービーと一緒に、ずぶ濡れコンビはそのまま合宿所への風呂へと直行した。
尚、その後ドロップスティアーが先程の言葉の真意を何度聞いてもミスターシービーがまともに答えてくれる事は無かった。
隠しボス撃破ルート(バグ使用)
この話をのんびり書いてる途中にシービー実装決定しててビビりました。