ヤマ娘 ~Crazy Derby~   作:灰の熊猫

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『神戸新聞杯/王道』

(や、ヤバいヤバいヤバい……!)

 

 第四コーナー時点で、集団の大外を並行して走るキングヘイローを見て、ドロップスティアーは心底焦っていた。

 鋭角コーナリングの攻略法の一つに、最終直線まで何もせずに控えるという物がある。コーナー終わりに飛び出ず、直線で横に出る。そうすれば鋭角コーナリングの仕掛け所は存在せず、事前に予防出来る。

 ()()()()()()()()()。ベストな仕掛けを捨てて、距離的に大損しながらコーナーを回っている。

 直線まで何もしないという攻略法。()()()()()()()()()()()()()

 

(そこまでせんでも良いでしょうに……っ!)

 

 キングヘイローがわざわざロスを背負ってまで自分の作戦を潰しに来た事に、ドロップスティアーは苦い顔を浮かべた。

 こうなると、ドロップスティアーの立ち回りは極めて難しい。マーク相手が内から外に出る瞬間に当てて脚を鈍らせるのがこちらの狙いなのに、最初から外に出ている相手に対しては内に押し込みようも無い。

 大回りをする阪神レース場のコーナーで、さらに大外を最初から回って走る。それによる走る距離の増加は、決して無視出来る物ではない。しかし実際に今、それを無視されている。

 

(――考えろ)

 

 マーク相手がマーク出来なくなった、そんな状態の中でドロップスティアーは逆に冷静になった。

 第四コーナー終わりまでの時間に、キングヘイローへの対処を考える。最初から外に出ている相手に、鋭角コーナリングの内に封じ込める効力は発揮出来ない。このままコーナーが終われば、そのポジションのまま真っ直ぐ走られるだけ。強制斜行も仕掛けられない。

 事前の作戦は既に破綻した。なら、()()()()()()()()しか無い。

 

(考えろ、考えろ)

 

 阪神レース場の第四コーナーは長い。それが終わるよりも早く、速く、永く。思考を回転させる。

 大外を回ったキングヘイローが自滅する可能性を考える。()()()()()。そもそも第三コーナーでの減速(しかけ)を読んだ上で動いてきたのだ、最後まで脚が保つと確信してやっていると考えるべきだろう。楽観的な思考を、切り捨てる。

 強制斜行は既に使えない。鋭角コーナリングで内に抑える事も狙えない。そして普通の末脚勝負で、キングヘイローに勝てる訳が無い。

 全ての武器が使えない。届かない。言われた通りに――予想通りに、負ける。

 

(……まだ、終わってない……!)

 

 今更別の手口は無い。しかしまだ最終コーナーも終わっていないのに勝負を投げるなど、死んでもやりたくない。

 相手は大損覚悟でこちらに対応してきたのだ。ならば、()()()()()()()()。思惑通りに、やられてたまるか。

 ドロップスティアーは、()()()()()()()()()()()

 

《おっと第四コーナー、ドロップスティアーが大外から上がってきた! 速い速い、一気に前に出てくる!》

 

 長いコーナーの終わりを待たず、ドロップスティアーは仕掛ける。直線で勝てないなら、コーナーで勝つしか無い。単純明快にして、消去法的な勝負に出た。

 キングヘイローと自分との違いは、末脚の長さだ。鈍いとはいえ、こちらは散々にロングスパートで勝負してきた身である。大損の大外を回ってきた経験も、こちらの方が多い。

 なので、直線に入る前にリードを稼ぐ。想定されていた仕掛け所――最終コーナーの終わり際よりももっと早く、先行集団に迫る。キングヘイローの背後へと、一気に追い上げていく。

 

「どけェッ!!!」

 

 そして迫りながら大声を――山彦砲を真っ直ぐ放つ。これにより、キングヘイローと近くのウマ娘は僅かに体を跳ねさせ、萎縮した。

 瞬間、トップスピードで追い抜く。本来この技は鋭角コーナリングの軌道へ向けて放つ技だが、大外捲りの仕掛けが出来ない今、その用途で使えない。なので今回は、単に追い抜きしやすい様にアシストとして使う。

 長い第四コーナーの半ば、大外からキングヘイローを追い抜き、強引に位置を押し上げて。

 

「――ッ!!」

 

 そしてスパートの勢いが完全に乗った所で、前に居るウマ娘達に向けて鋭角コーナリングで向かっていく。大外から抜けてきた直後のこの状態では、内から飛び出るウマ娘――抑え込む相手はいない。

 しかし、()()()()()()()()()()()。阪神レース場の外回り・第四コーナーは、ゴールまで800メートル地点に作られている。それの半ばという事は、現在位置は残り600メートル程の筈だ。

 レイアウトは異なれど、距離その物は東京レース場で完全にスパートをかけてきた距離とほぼ等しい。故にここから、末脚勝負となる直線より前に先頭に出て、十分なリードを取る。

 完全に加速をし終えたドロップスティアーは、一気に内側へと迫りながら最初から先行していたウマ娘達に迫り、三番手まで上がってきていた。

 

《ドロップスティアー曲がった! スパートしながら鋭く曲がって、最終コーナー! ハナに立ったのはドロップスティアー!》

 

 そして一・二番手のウマ娘の横を掠める様なギリギリの軌道で、二度目の鋭角コーナリングを使い、コーナーを誰よりも速く抜け出す。

 長い最終直線の始まりで、ドロップスティアーは先頭に躍り出た。

 

(このまま、走り切るっ……!)

 

 なだらかな下りの最終直線。足の回転数を限界まで引き上げて、ドロップスティアーはゴールを目指す。

 足は回る。速度は出ている。合宿で鍛えた効果か、これまでよりも自分の末脚は伸びている、そんな自覚はある。

 二番手のウマ娘の外を横切る様にラインを取ったドロップスティアーは、ラチから二人分程離れた位置で走っている。これはつまり、外から上手くイン側へと曲がってきた相手を震山脚の範囲に入れられる、そういうポジションだ。

 絶対は無い。自分は速くなっている、武器も残っている。上手くいけば、負けない。そう考え、必死でスパートを維持して――

 

  ◆  ◆  ◆

 

(……本当に。本当にあなたは、強くなったと思ってるわ)

 

 ――レースの世界において。特に重要視されているのは、ゴール直前・上がりのタイムだ。

 互いの速度の差にもよるが、一バ身の差はタイムにしておよそ0.15~0.2秒程の違いとして表れるとされている。

 

(だから、見せてあげる。一流の……いや)

 

 故に、仮に。上がりのタイムが、()()()()()

 

(――キング(わたし)の走りをッ!!)

 

 ――()()()()の差が出る事になる。

 

  ◆  ◆  ◆

 

《――いや、大外ッ! 大外キングヘイロー、キングヘイローが一気にやってきた!》

 

 全身の産毛全てが逆立つ。()()()()()()()()が、迫ってくる。

 ドロップスティアーの()が届かない、完全な大外。そこからキングヘイローが、一気に追い上げてきていた。

 

(は、やっ……!?)

 

 第四コーナーの半ば、誰よりも早いスパートで置いていった。大損の大外を回っていた。そんな相手が、誰よりも速く自分の後ろから迫りくる気配をビリビリと感じ取る。

 キングヘイローが序盤のブロックを甘んじて受けたのは、()()()()()()()()からだ。先行に付こうが後方に付こうが、()()()()()()から。

 先んじてコーナーで大外を回っていたのは、()()()を消す為だ。最後の最後、自分の進路を塞がれない為にやっただけ。

 たとえどれだけ邪魔されようと、不要な距離を走らされようと、関係無い。

 レースの()()の戦法は差し――最終直線での、末脚勝負なのだから。

 

「はッ、あぁぁぁーーーッ!!」

 

 キングヘイローは、()()()()()()()()()脚を解放する。先行を取れなかった代わりに、後方で()()()に控えて溜めていた分の力を、この最終直線で。

 スタートから第三コーナーまで、レースの大半の区間でずっとキングヘイローは()()()()()()()。精密過ぎるブロックという盾の後ろで控え、中盤の終わりまでを流して走ってきた。

 ()()()()()()()()()()()()()。本来先行の位置取りという争いで消耗する分を、第四コーナー以降に当てた。

 そして、何にも邪魔されなければ。

 

《キングヘイロー、跳んできた、跳んできた! 大外から一気に抜けてくる!》

 

 キングヘイロー最大の武器、世代でも屈指の末脚が発揮される。最終コーナーで大外を回った分のロスなど、この直線に入って数秒で消し飛ぶ程の速度が。

 長い直線。前に壁は無い。死角も無い。眼前にあるは、自分の為に拓かれた王道だけ。

 

《キングヘイローがドロップスティアーに――()()()()! 並ばない、並ばない! 外から一気に、キングヘイロー先頭ッ!!》

 

 残り一ハロン。そこでキングヘイローは、()()()()()()()()()()に到達した。

 最終コーナーを捨て、直線で加速を始めた。この最後の二ハロン半までに、十全の脚を持ってきて。そして今、キングヘイローは誰よりも速く駆け抜けていく。

 戦略も戦術も思考も。これまでの過程の全てを、速度だけで捩じ伏せて。

 

(――届か、ない)

 

 抜かれた直後にドロップスティアーは、完全に理解した。打つ手は、もう無い。

 距離はまだ一バ身程だが、少しずつ離されている。ロングスパートで得たリードは、完全にひっくり返された。大外(とおく)に居る相手に、震山脚は届かない。

 競れない、並べない、追いつけない。……絶対に。

 

(――……ッ)

 

 分かっていた事だ。今日のレースは、最初から負け戦だった。

 自分にとって不利な要素しか無い。相手が有利な場所だった。このレースは勝負所でもなく、なけなしの作戦は捩じ伏せられ、自分は力不足の役者不足。

 勝てる訳が、無かった。

 

「――あぁあぁあーッ!!」

 

 何故か意味もない、考えもない大声を上げて。蹴り潰すように、地を踏み締めて。

 ――ドロップスティアーは、後続のウマ娘達に呑まれていった。

 

《キングヘイロー、キングヘイロー! キングヘイローが大外から撫で切ったーッ!!》

 

 そのまま追い縋る他者の追従を許さず、キングヘイローは一着でゴールする。

 ドロップスティアーは早仕掛けが祟り、末脚を温存していた他のウマ娘達にも差されて六着。いかに末脚が長いと言えど、元々大外を回っていたキングヘイローを更に大回りで抜く形になった想定外のロスが、余りにも大きすぎた。

 それにより、末脚がゴール前になって完全に尽きてしまった。

 

「――はぁっ、はぁっ、はぁっ……! ……よしっ……!」

 

 キングヘイローは一着でゴールを駆け抜け、ゆっくりと脚を緩めて止まる。そして振り返った先、電光掲示板の一番上を確認する。

 六番。間違いなく、自分の胸に付けられたゼッケンの番号。自分は今度こそ間違いなく、勝利した。

 思えば、キングヘイローが勝利したのはラジオたんぱ杯――昨年の終わり以来だ。”三強”と謳われてこそいたが、それからのレースでは弥生賞・皐月賞・ダービーと、どれも先着を許してきた。

 それから今まで、自分をひたすら鍛え直してきた。届かないかもしれない、届かなかった。同期だけでなく、そんなこれまでの自分に打ち克つ為に。

 

「――おーっほっほっほ! これが、キングの実力よーっ!」

 

 そして、高笑いを上げてみせる。苦渋を呑んできたこの一年弱、勝利を掴めず上げられなかった、自分の勝鬨。

 これだ、これが自分だ、キングヘイローだ。他の誰にでもない、自分自身に誇れるキング(わたし)だ。今回のレースで、その確信に至った。その為の走りが出来た。

 だが、まだだ。まだ何も終わっていない。今日だけじゃなく、次も、その次も、これからも。自分に誇れる走りをし続ける。それこそが”キング”である証明なのだと、確信出来たから。

 

(……そういえば。ドロップスティアーさんの姿が見えないわね)

 

 勝利の余韻に浸り終え、キングヘイローは辺りを見回す。電光掲示板に彼女の番号が見当たらないあたり、ラスト一ハロンで抜いた後に彼女は沈んだのだろう。

 無理も無い。こちらも最終直線に全てを賭け、大損覚悟で大外を回っていたのだ。直線勝負で勝てないと弁えてリードを取ろうとしたのだろうが、ただでさえ長いコーナーの大外から無理に追い抜いて保つ訳が無い。

 しかしそれにしても、いつもなら『うへぇ、キングさん強すぎでしょ。ちょっとぐらい手加減して下さいよー』と、呆けた負け台詞の一つでも吐きにやってくる所なのだが。

 

「……?」

 

 斜め後ろまで振り向き、ようやくドロップスティアーの姿を見つける。

 だが、その場に突っ立っているだけだ。こちらに寄ってくる気配も、声をかける様子も無く、ただじっとこちらを見つめてきているのみ。

 一体どうしたというのか。レース前の様子といい、やはり何か自覚も出来ない所に不調でも抱え込んでいるのではないのか。いつもと違うその様子に対し、声をかけようとして。

 

「――ッ!」

 

 その瞬間、ドロップスティアーは逃げ出す様に地下バ道へと駆けて行った。

 

「……ドロップスティアーさん?」

 

 その背を見送るキングヘイローは、大きくまばたきをした。

 この場から去る直前、ドロップスティアーの()()が、あまりに珍しかったから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「かー、やられたなぁオイ。よっぽど実力に自信ねーと、あんなリスキーな事出来ねーだろうに。さっすが”三強”サマだわ」

「…………」

 

 ドロップスティアーの控室。いつもの様にクールダウンを挟みながら、名入は心底呆れた様な称賛で今日のレースを振り返っていた。

 ヤマ勘ブロックを諦めて受け入れる事で、逆に有利を取られた。こちらの唯一と言って良い勝ち筋である二つの武器を、そもそも使わせない様に立ち回ってきた。

 名入の見立てでは、別に鋭角コーナリングを受けようがキングヘイローは十分に一着を狙えると思っていた。にも関わらず、わざわざセオリーを崩してまでこちらの作戦を潰しに来るとは。

 下手すればドロップスティアー一人を警戒したせいで、末脚が残らず他のウマ娘に先着される。そんなリスクを背負ってでも対策してきて、その上で完勝。

 今日のキングヘイローは予想通りに、そして想定以上に強かった。そうとしか言いようが無い。

 

「お手上げだぜ、全く。今日のキングヘイローは百回やって九十九回は負けるレベルで仕上がってやがった。お前がいなきゃ、もっと二着(うしろ)と差ぁ付けてたかもしれねーな。ったく、だから()りたくなかったってのに……」

「…………」

 

 わざわざ最終コーナーで大損して、直線にのみ勝負をかけてこの勝利。まさしく豪脚、”三強”と呼ばれる所以の末脚をフルに発揮した王道の差し切り。

 今回はドロップスティアーのブロックにより強制的に後方に回された形だったが、最初から後方策を自分から選んで自分のレースをしていれば、このレースはもっと差が付いていただろう。そう確信出来る。

 一方でこちらは、そんな格上に対策されたせいで仕掛け所が完全に失われた。作戦が丸潰れとなって自分の走りが出来ず、結果掲示板にも入れなかった。むしろ六着で済んだだけまだマシとすら言える、そのレベルの完敗だった。

 

「とはいえ、一応欲しいデータは取れた。こっからは菊花賞に向けて――っつーかオイ。なんだお前、戻ってきてから一言も喋ってねえけど。どっか痛めたか? 腹とか」

「…………」

「……わざわざツッコミどころ用意してやったのに、マジでどうした。脚は問題ねーだろが」

 

 そして名入は、控室に戻ってきてから一言たりとも言葉を発していないドロップスティアーの様子にいい加減触れる事にした。

 帰ってきた時は、苦笑も疲弊も見えない完全に無表情だった。てっきり想定外の展開から無理に仕掛けた鋭角コーナリングで、ほんの少しでも痛めたのかと思ってアイシングと触診をした。しかし、特に痛がる様子も無し。

 何を考えてるのか分からないから、とりあえずいつも通りレースの振り返りをしたが、その間も全くの無言。いつもなら『いやあんなん勝てませんって』『ちゃんと作戦考えてくださいよ』だとか、一言二言返事が返ってくる物なのだが。

 

「……トレーナーさん。自分、言われたんですよ」

「あん?」

「退院した後。キングさんに、『ライバルが弱気だと張り合いが無い』って」

 

 平坦な語調で、ドロップスティアーが語り出す。それは、全く今日のレースと関係の無い話だった。

 藪から棒にどうした、名入はそう思った。が、いつもとは違う低い声色を受け、耳を傾ける事にした。

 

「最後に抜かれた瞬間に、『届かない』って思ったんです。……実際、どれだけがんばっても、届きませんでした」

「ま、今日のキングヘイローに届くヤツ実際居なかったしな。ラスト一ハロン、ぶっちぎりのヤベータイムだったぜ、マジで」

「そうじゃ、ないんです。……ライバルなんて、言ってくれたのに。全然、全然届かなかった。勝てる気が、しなかったんです」

 

 ドロップスティアーが俯き、独白を続ける。()()()()()()()()()()のを感じながら。

 

「……皆、皆がちゃんと自分の事を意識してくれてるのに。『勝ちます』って、言ったのに。……こんなザマで、ホントに菊花賞、勝てるんですかね……」

 

 心のままに、湧き上がる言葉が口から零れていく。

 こんな事を言っても仕方ないのに。負けたなら、反省なり次に繋がる事を考える方が良いのに。それが分かっているにも関わらず、何の得にもならない弱音が勝手に口を衝いて出てくる。

 何で自分はこんな無駄な事をしているのか。無駄な言葉を話しているのか。何で――

 

「なんだ、珍しいな。お前、()()()()()んのか?」

「――へ?」

「つーか初めてじゃねーのか、お前がそういう事言うの? どうせ負けるレースって分かってただろーに。明日、蹄鉄でも降るんじゃねーか?」

「……悔、しい?」

 

 名入が口にした単語が、心にすとんと落ちる。ドロップスティアーはその時、()()()()()

 自分は、勝負所だけ勝ってきた。それ以外の所で負けたり失敗しても、何も思う所は無かった。あのダービーですら、スペシャルウィークを初めとする友人達への多大な罪悪感こそあったが、それ以外の事は思わなかった。

 

「……自分、()()()()()()()?」

「はぁ?」

 

 更に、それ以前からも。ドロップスティアーは、()()()()()()()()()()()()()

 子供の時に両親を失い、常識的な感性も失われた。今の父親に”勝負所”について教えられる前、授業やテストで少しでも間違え、”負け”と思った時。その時あったのは、()()()()()だった。

 『まけないで』という母の遺言。それが唯一にして最大の生きる理由であり、それを守れなかった事に対して母に謝るだけだった。自分にとって、()()()()でしか無かった。

 ”勝負所”を教えてもらい、それ以外は許容出来る様になった。しかし、神経質に気にする必要が無いと教わっただけであり、根本的な所は変わっていない。

 ――ドロップスティアーは。()()()()()()()()()()

 

「……こんなの……こんなの、初めてですッ! 負けるって、負けるって分かってたのに! 全然、全然受け入れられないんです! 絶対勝てないって、思ってたくせにッ!!」

「……お前……」

「勝負所でも無いのに、絶対勝たなきゃいけないレースでも無いのにッ! もっと、もっと上手く走れたんじゃないかってッ! そんな事、全然無いのにッ!!」

 

 そして自覚した初めての感情のままに、激情的に声を上げる。駄々をこねる様に、大声で。

 キングヘイローの視界から去った時、ドロップスティアーが見せた顔は()()だった。自分の無力さに打ちひしがれ、キングヘイローの強さを素直に褒める事が出来なかった。顔を合わせられず、逃げ出した。

 今日、ドロップスティアーは初めて、()()()()()()()()()

 

「……悔しい……悔しいです、トレーナーさん……」

「…………」

 

 ドロップスティアーの初めて見せる嘆きに、名入は言葉を返せなかった。

 このウマ娘は、自分と同じだと思っていた。負ける時は負け、勝つべき時は勝つ。その理由と理屈を考え、勝負を割り切れる。敗北はそのまま素直に受け入れられる、余計な感情を理性で排して思考出来る性格なのだと。

 これまではそう見えていたが、実態は異なっていた。彼女は割り切っていたのではなく、()()()()()()()()()()だけだったのだ。

 そしてダービーでの敗北からこれまで、何らかのきっかけによってその欠落が埋められたのだろう。それが今日初めて見られた、変調の理由だった。

 

「……すみません……反省会、別の日で良いですか……? ちょっと、今日はゆっくり休みたいです……」

「……分かった。が、いつまでも引きずってウジウジすんなよ」

「……わかってます」

 

 それだけ言って、ドロップスティアーは控室をとぼとぼと出てシャワー室へと向かっていった。

 残された名入はココアシガレットを取り出し、一口放り込んで噛み砕く。これは完全に、想定外の出来事だった。

 

(こんだけバカとは流石に思わなかったぞ)

 

 思ったより重症だった。名入からすれば、その一言に尽きる。

 ドロップスティアーの過去にまつわる、後遺症と言っていい一面。彼女は”悔しい”という当然の感情すら、両親の死と共に喪ってしまっていた。

 母親の遺言という彼女の生きる理由は、敗北への忌避感であり罪悪感でもあった。その大きすぎる二つの要因によって、彼女は真っ当な感情すら塗り潰されていた。そして今、何らかの理由によってそれが変わった。

 こればかりは自分にはどうしようも無い。名入はあくまでレースで勝つ為にプランを立てるのが仕事であり、カウンセリングなど出来はしない。

 

「……考えてもしゃーねえな」

 

 出来もしない事は考えない。名入は一瞬にして、自分に出来る事は無いと割り切った。

 自分はウマ娘でも無ければ、彼女の気持ちが分かる訳でも無い。せいぜい話を聞くのが限界であり、勝つ為のトレーニングや作戦を考えるぐらいしか能が無いと思っている。

 ドロップスティアーはこれまで”悔しい”という概念すら知らなかった。そして今日、それを知った。それにより、これから先どう転ぶかは全く分からない。

 目先の勝負(こと)を割り切って挑める安定感こそが彼女の長所の一つだったが、それは今日失われた。そういう意味では、今回のレースはマイナスと言える。

 

(とはいえ)

 

 しかし、()()はあった。

 今のドロップスティアーに、”三強”に勝つ為のモノが不足している事は紛れもない事実である。しかし、それは()()()()に限った話だ。

 名入は感情論に頼る気は全く無く、データだけを信用している。そして今回、菊花賞で勝つ為に必要なモノは得られた。()()()()に。

 

「……『ホントに菊花賞勝てるんですかね』、ね」

 

 ドロップスティアーが零した、心の底から力の差を弁えた、現実的な弱音。

 名入はその質問に答える事が出来なかった。悔しいという感情を知らない、その事実の判明によって返答するタイミングを逃したから。

 だから、答えてはいなかった。

 

()()()()()んだろが、だあほが」

 

 可能か不可能か。そんな事など、議論に値しない。

 名入は一人そう零し、今日のレースの映像とデータをパソコンでまとめていった。

 




強化パッチ済キングヘイロー・完全体

これから菊花賞までちょっと色々イベントが挟まります。
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