《毎日王冠、今――スタートしました! まず先頭争い、サイレンススズカが行く!》
ドロップスティアーがこれまでに無かった程の恐怖に打ち震え、それがようやく収まり。気が付けばパドックと返しウマが終わってしまっていた、そんな錯覚の中で世紀の一戦が幕を開く。
スタート自体はほぼ全員横並びの形。しかし開幕数秒にして、一気にバ群からサイレンススズカが抜け出て、最初のコーナー時点で一バ身以上の差を付けて先頭に立った。
「スズカさーん、行けー!」
(……エルさんが前に出てる。グラスさんは……中団か)
スペシャルウィークが大声で応援する横で、ドロップスティアーは声も忘れて状況を見る。
サイレンススズカが加速をし続け、その後ろに固まったバ群が続く。そのバ群から頭一つ前に出る形で二番手にエルコンドルパサー、中央の六番手にグラスワンダー。
東京レース場の先頭争いがハイペースとなるのは、阪神の最終直線と同様に最初から向正面の中央まで緩く下っている形状に起因する。つまり、全員が最初から速い初動を取れるという性質があった。
エルコンドルパサーはその性質を利用し、早期に加速して二番手に。グラスワンダーはあくまで自分のレースをする為に、バ群中央に付いている。
(そう簡単に、逃さないデスよ……!)
エルコンドルパサーは、サイレンススズカがこの1800メートルで垂れる事など期待していない。故に、なんとしてでも食らいつく事を考えていた。
逃げという戦法を取るウマ娘は、概ね何らかの癖が強い傾向がある。周囲に合わせられず自分のペースでしか走れない、バ群に囲まれれば走りが乱れる、先頭争いで掛かりやすい等々。
サイレンススズカは確かに強いウマ娘である。しかし、その強さの反面にある
(……く、うっ……!)
快調に逃げるサイレンススズカは下りの向正面で差を広げていく。エルコンドルパサーはこの時点で、脚を僅かに緩めて三番手に下がった。
サイレンススズカは確かに今年無敗のウマ娘ではあったが、昨年には特徴的な敗北を幾つか喫している。特に前年度の日本ダービーで、別の逃げウマに外から並びかけられて掛かり、最後には失速したというモノが最も有名な負け方だった。
即ち、
サイレンススズカを倒すには、迫ってリズムを崩す。異次元へと逃げる前に、同じ次元で勝負する。それが考えられ得る、最大の対策――
(……厳しい、デス……!)
そう分かっていながらも、エルコンドルパサーは下がっていた。
スピードの出る最初の下りで加速して並びかけるか、あるいは千切られない程度にその背に追走出来れば。以前のダービーと同様に、サイレンススズカが自ら崩れる可能性があった。
しかし、エルコンドルパサーは共同通信杯・ニュージーランドトロフィー・マイルカップなど、三度この東京レース場で走っている。その経験が、
《向正面に入り、現在サイレンススズカのリードは約二バ身。エルコンドルパサー、ここは控えて三番手に下がります》
「……スズカさんが、リードを取れてない……?」
「いや、全員が速いだけですねアレ。……よっぽど警戒されてるんだなぁ」
金鯱賞での圧倒的な大逃げを知っているスペシャルウィークは、序盤で然程サイレンススズカが差が付けられていない事に違和感を覚える。が、東京レース場の形状を熟知しているドロップスティアーには、この序盤戦が異様にハイペースである事が一目で分かった。
この
最初だけ早く、最後に余力を残す。それが基本となるコースで、明確にすっ飛ばしている先頭に対して同じペースで迫り続ける事など、愚行である。
《サイレンススズカ、どんどん差を広げていく! 二番手とは四バ身ぐらいか、いやまだ伸びていく!》
「うわぁ、やっぱりスズカさん速い……!」
「……あの辺、そこそこ坂になってるのに普通にぶっ飛ばしてますねー……」
そんなセオリーなど関係無いとばかりに、サイレンススズカは向正面の上りに差し掛かってもペースダウンの様相を見せない。この時点で、サイレンススズカは食い下がる後続を完全に振り切った。
緩い下りから厳しい上りに転換する向正面の中央地点は、誰もがブレーキをかけてしまう。最後の末脚勝負となる東京レース場で最も脚を使ってしまうポイントが、この100メートル弱・上り1.5メートルの坂だ。
何も考えずに走れば、最終直線の坂以上に消耗する中盤戦の入りのポイント。実際サイレンススズカ以外は控えて走っており、それがそのまま現在の四バ身というリードに繋がった。
《ここで第三コーナーに入り……外からグラスワンダー!? グラスワンダーが早めに上がってきた、大ケヤキの向こう側!》
「え、グラスちゃん!?」
「仕掛けが早いっ……!」
そして第三コーナーに入ってすぐ、
それまで中団で控えていたグラスワンダーが、エルコンドルパサーを含むバ群の外を回ってサイレンススズカへ向かい伸びていく。それを観た二人は驚いたが、同時にドロップスティアーは
「グラスちゃん、いつもなら直線まで待つのに、どうして……!?」
「
「えっ?」
「向正面終わり際から第三コーナーの半ばまでは、緩く下ってます。四コーナーに入れば、あとは上るだけ。一番速度が出せるポイントが、あそこなんです」
東京レース場を熟知しているドロップスティアーは、グラスワンダーの狙いを一足飛びに理解した。
そもそも、ドロップスティアーは青葉賞でもダービーでも、最終コーナーより以前に位置取りを上げてきていた。それが出来たのは、
最高速が劣るドロップスティアーが、もっともまともに加速出来る下りの区間。それによりロングスパートの助走と速度を強引に作れる、傍からは大ケヤキで遮られて見えない東京レース場のポイント。
そこでグラスワンダーは、サイレンススズカに並べる速度を得て迫っていった。
「サイレンススズカさんが垂れないなら、並ぶしかない。並ぶなら、加速するしかない。……多分第四コーナー、最終直線前に捕まえて競り掛ける筈です」
「……す、すごいね、ティアちゃん。セイちゃんみたいだよ」
「…………」
東京レース場を熟知した事によるドロップスティアーの分析と予測に対し、スペシャルウィークは感嘆する。元々天性の感覚でレースを走る彼女には、それらの思考と展開を読み切れなかった。
しかし、褒められた当のドロップスティアー本人は難しい顔を浮かべていた。格上の大逃げに対し、並んで競り掛けてリズムを崩すポイントは、確かに第三コーナーでの加速からしか存在し得ないだろう。
理解は出来る。しかし、他ならない自分こそが良く知っていた。
(
――アレは、
◆ ◆ ◆
《サイレンススズカに迫ってきたグラスワンダー、一気に二番手! その後ろ、エルコンドルパサー! 外を回ってやってくる!》
最終コーナー、必死の形相でグラスワンダーは一気に先頭のサイレンススズカへと迫っていく。
サイレンススズカの大逃げの弱点は、グラスワンダー陣営も当然熟知している。だからこそ、この東京レース場で彼女を捉えられるポイントは
一つ目は、エルコンドルパサーが仕掛けた最初の向正面。そしてもう一つが、第三コーナー。この二点に存在する下りでのみ、異次元の逃げと言われるサイレンススズカに匹敵するだけの速度が得られる。
(とは、いえっ……!)
グラスワンダーは正統派たる、ラストの末脚勝負を得意とするウマ娘だ。故に、第三コーナーから位置を押し上げるこの仕掛けが、自分にとってはあまりにも早いという自覚はあった。
最後まで保たせる為には脚を残さなければならない、しかし加速が緩すぎればサイレンススズカに追いつけない。スパートの半歩手前、最後まで走り切れるだけの速度を見極めて迫らなければ、この早仕掛けは成立しない。
だが、勝ち筋はこれのみ。そしてこの仕掛けには、
(ティアちゃんは、最後まで保たせてきた……! ならば、私もっ……!)
ドロップスティアー。東京レース場に一年の全てを賭けていた彼女が最も得意とする、ロングスパート。それは必ず、第三コーナーから加速し始めて最終直線での坂で先頭に立つという流れを取ってきた。
普通にやれば勝てない相手に――つまり、自分より速く走る相手に対して。唯一並んで追い抜ける、超早仕掛け。それをグラスワンダーは、やらなければならなかった。
サイレンススズカが自ら崩れるという、限りなくゼロに近い楽観的な可能性を排除した場合。どれだけ脚の消耗があろうが、この地点で仕掛けざるを得なかった。
《最終コーナー、サイレンススズカにグラスワンダーが詰め寄ってきた! このまま並ぶか!?》
(――届く、届かせるッ……!)
自滅的な博打である事は分かっている。コーナーでサイレンススズカに届いた所で、その後には高低差二メートルの坂を備えた500メートル超えの最終直線が待っている。
しかし、勝つと決めた。自分の親友にも、今最強と言われている先輩にも。その為にはここで競りかけ、最終直線で自分の最も得意とする末脚勝負で勝つしか無い。
そう、グラスワンダーは必死に考えて――
《最終コーナー回って、
(――ッ!?)
確かに、グラスワンダーは並べていた。
その上で。サイレンススズカは、
《直線に入って、サイレンススズカ逃げる! それを追ってグラスワンダー、後ろにはエルコンドルパサーが控えている!》
「……まだッ……!」
長い府中の最終直線。コーナーの内外に存在する僅かにして絶対的な差により、コーナーで並んで崩すという目論見は破算した。
だが、それでもレースはまだ500メートルも残っている。元々一ハロンもあればそれまであった差の全てがひっくり返るこの世界で、この二ハロン半は果てしなく長い。
まだ何も終わっていない。ハイペースの大逃げで、脚が消耗しない訳が無い。そしてこの長い直線は、元々末脚勝負の区間なのだ。だから、グラスワンダーは脚を回し――
《グラスワンダーと
(……何故っ……!?)
――大逃げとは。最初から最後まで、限りなくスパートに近い速度で走る事を指す。これはある意味誰もが出来て、そして誰も最後まで走り切れない。自滅的にして破滅的な作戦である。
だが、
メジロパーマー。彼女は自分でも”爆逃げ”と称している大逃げを取るものの、名家の出身らしくレース勘は優れている。そんな彼女が大逃げでいくつもの重賞を獲ってきたのは、
即ち、
例え大逃げであっても、
サイレンススズカには、それが
(……どうして、追いつけないッ……!)
サイレンススズカの大逃げには、
本人にはそんな自覚は全く無い。『ただ思い切り走りたい』という気持ちのままに走り、
そして、息を入れれば。
《サイレンススズカ、
十分な呼吸から、十全な末脚が出せる。最初からスパートをかけて、最後にスパートをかける。そんな誰もが夢見る走りが可能となる。
「――行かせませんッ!!」
しかし、このレースにはもう一人の”怪物”が居た。
エルコンドルパサー。彼女は向正面で並べないと控えた後、この時点まで千切られない程度の差をキープ続け、そして今グラスワンダーの背後から飛んできた。
グラスワンダーがコーナーで勝負を仕掛けたのとは対照的に、向正面で追いつけなかったエルコンドルパサーは直線で勝負を仕掛ける算段を立てていたのである。
並んで崩すのが不可能なら、最後に勝つしか無い。この最終直線に自分の全てを出し切れる様に、彼女は自分が届くだろう差で、全力が出し切れる様に脚をここまで保ってきた。
最後の最後に、”最強”の”全力”を引き出す。マイルカップでやった様に、エルコンドルパサーは先頭を走るサイレンススズカに向かって猛追を始めた。
《グラスワンダーを躱して、外からエルコンドルパサー上がってきた! 200の標識を通過して、エルコンドルパサー二番手!》
残り一ハロン。グラスワンダーの博打が失敗に終わり、代わる形でエルコンドルパサーが前へと出る。
坂を越え加速して、エルコンドルパサーの末脚は紛れもない全速力に達していた。少しずつ少しずつ、サイレンススズカとの距離が詰まっていく。
例え先輩だろうと、今”最強”と言われているウマ娘だろうと。それでも、『世界最強』は自分だ。自分こそがそうあるべきなのだ。そう思い、エルコンドルパサーはその背を追い――
《しかし
(……そん、なッ……!)
エルコンドルパサーは、確かに自分の全力が出せている実感があった。マイルカップを制した、”最強”の名に恥じない末脚は確かに発揮されている。事実、サイレンススズカの背は少しずつ近付いている。
大逃げを取っている筈なのに。最初から最後まで、ずっと前を走っている筈なのに。この一ハロンで詰められるのは、”少しずつ”という限りなく錯覚に近い差だけ。
そして、その錯覚が確かな実を結ぶ前に。
《サイレンススズカ、今ゴールイン! 二番手エルコンドルパサー、その差は約二バ身半! ”異次元の逃亡者”が、”怪物”と”怪鳥”を退けました!》
その脚が届くより先に、レースは終わる。最初に作り、最後にも作ったリードを守り。サイレンススズカは涼しい顔をして、先頭を駆け抜け終えた。
そこに遅れてエルコンドルパサー、後続のウマ娘の集団、そしてグラスワンダーと続く。早仕掛けが祟ったグラスワンダーは、末脚が最後まで保たずに五着止まりだった。
グラスワンダーの策も、エルコンドルパサーの力も。その全てが届かない異次元まで、サイレンススズカは逃げ切った。
「――はぁっ、はぁっ、はぁっ……! う、くぅぅっ……!」
「……ッ……はっ……はっ……」
ゴール直後にエルコンドルパサーとグラスワンダーは、すぐに脚を緩めて止まり、膝に手を付く。トゥインクル・シリーズにおいて無敗だった二人が味わう、完全なる敗北。
視線を上げれば、微笑みながら向こうのコーナーまでウイニングランをしているサイレンススズカの姿があった。それはそのまま、
並べなかった。影も踏めなかった。全力を尽くし、限界まで力を振り絞って。肩で息をしながら苦渋の表情を浮かべる二人を余所に、サイレンススズカは
”異次元”。彼女の呼び名のその意味を、怪物二人はどうしようも無いほどに思い知らされた。
◆ ◆ ◆
「うわぁ……! やっぱり、スズカさんは凄いや……!」
そのレースを食い入る様に見ていたスペシャルウィークは、純粋に感動していた。
グラスワンダーの仕掛けを物ともしなかった。エルコンドルパサーの末脚に影すら踏ませなかった。友達として、そしてライバルとしてあの二人の強さを知っている分、憧れの先輩が強さが本当に良くわかった。
余裕を持ってウイニングランをするサイレンススズカの微笑みが、眩しく見える。ああなりたい、いや
スペシャルウィークは胸で拳を握り、改めてその決意を固めた。
「ねぇねぇ、どうだったティアちゃん!? スズカさん、言った通り凄かったで――しょ……?」
それはそれとして、純粋に今のレースの感動を分かち合いたい。その一心でスペシャルウィークは、隣で一部始終を観戦していたドロップスティアーにも声をかける。
グラスワンダーの策を早期に見極める程にレースをしっかりと観ていた彼女なら、サイレンススズカの凄さが自分と同じか、あるいはそれ以上に理解出来ていた筈だ。感動した筈だ。そう考えて、横を見れば――
「――なんっ……でっ……」
「……ティア、ちゃん?」
目に見える程の汗が浮かび、寒さを凌ぐかの様に自分を両腕で抱き締め、顔色を真っ青にしている。スペシャルウィークは、そんなドロップスティアーの姿を一度も見たことが無かった。
彼女が自分より強い相手に対し、オーバーなリアクションをするのは日常茶飯事だ。しかし、今の様子はいくらなんでもおかしい。おかし過ぎる。
「だ、大丈夫、ティアちゃん? 体調悪いのなら、学校に帰れば……」
「
そんなドロップスティアーに心配の声をかければ、彼女はスペシャルウィークに目をやる事もなく、一点に目をやっていた。
スペシャルウィークは知らなかった。彼女の一人称が”自分”から崩れる程の、異常事態。彼女が心の底から震えて恐怖する、反射的な行動。
「なんで、ですかっ……
◆ ◆ ◆
「――どうしましたか、ティアちゃん? いきなり、話をしたいなんて」
「…………」
毎日王冠が終わった後の夜。グラスワンダー個人のLANEに『二人で話がしたい』と言って、学園構内の人気の無い一角にまで呼んだドロップスティアーは、それまで見せた事の無い表情で向き合っていた。
彼女は、グラスワンダーを
「……グラスさん」
「は、はい。どうか、しましたか~?」
「
「――はい?」
「なんで、ウソなんてついたんですかッ!」
怒号。唐突にドロップスティアーは、グラスワンダーに対して怒りの声を上げた。
グラスワンダーは今、自分が何を言われているのか分からなかった。穏やかで明るい彼女が怒る程の嘘など、吐いた覚えも無ければ吐くつもりも無い。しかし現実として、ドロップスティアーは激怒と言っていい程に自分を責めてきている。
何も嘘などついていない。何をそんなに怒っているのか。理不尽なその言葉の真意を問い質そうと、グラスワンダーが口を開きかけ――
「脚!
「――……」
ドロップスティアーの大声に遮られ、喉奥で言葉が詰まった。
「誤魔化そうったってムダです! あのレースの時、最後のトコ!
「……ティアちゃん」
「実際! 改めてレースの記録を見ても、上がりが遅すぎました! 本当に脚が治ってるんなら、グラスさんならもっと速く走れたハズです! 違いますかッ!」
最終直線。サイレンススズカに並ぶ為に早く仕掛けたグラスワンダーは、確かにその仕掛けの早さによって末脚を十分には発揮出来なかった。
ドロップスティアーが自身の勘を鋭く鍛えたのは、元を辿ればグラスワンダーの骨折の件があったからである。故に、
「……脚は。治っていますよ」
「しらばっくれようったってッ――」
「本当です。……
「――えっ?」
勘だけで確信にまで至っている彼女を誤魔化す事は出来ない。そう考えたグラスワンダーは、真実を告げる事にした。
グラスワンダーの骨折は、右脚の軽度なヒビだった。それは間違いなく春季の休養によって治っており、夏合宿で十分に調子を戻したのは事実である。
だが、それとは全く別の
「ティアちゃんが思っているのとは、少し違います。……私は、
「ひ、左、ですか……?」
「ええ。普通に走る分には問題無い、軽度の
骨膜炎。繰り返し激しく走る事で脛の部分に発生する、文字通り骨の表面にダメージが残る症状。それがグラスワンダーが今抱えている、左脚の不調の正体だった。
確かに右脚の骨折は治った。しかし、春季をまとめて棒に振る程の挫折に対し、グラスワンダーは無意識に右脚を庇う癖が出来てしまった。そして、気付かぬ内に逆の左脚に負担が蓄積していたのだ。
それに気付いたのは、夏頃。夏合宿という負担をかける場において、筋肉痛などの痛みは日常茶飯事だ。骨折と違い、軽度の骨膜炎は安静にしている分には痛みは全く出ない。だから発覚したのは、夏が終わってトレセン学園に戻って少しした後の事であった。
「言い訳にも成りません。確かに怪我ではありますが、レースに挑めない程では無かった。事実、トレーニングでは前と同じ程までは調子が戻せていましたが……やはり現実は甘く無かった、というだけです」
グラスワンダーは視線を軽く横に逸らし、自分の左脚に手を添えた。
確かに走れば脚は痛むが、それは違和感にも等しい物である。初期の骨膜炎の場合、走っている最中でも痛みが消える程の影響しか発生せず、事実グラスワンダーはレース前のトレーニングでも自分の走りが取り戻せていた。
しかし、それでも最後の最後。早仕掛けによって負担がかかった左脚は、最終直線での必死の猛追の際に傷んだ。それがドロップスティアーが見抜いた、上がりの遅さに繋がったのである。
「……エルには、言わないで下さいね。私はあの時確かに勝つ為に出走し、全力を尽くしました。体調管理も満足に出来なかった、私の負けです」
「グラスさん……」
視線を真っ直ぐに戻し、グラスワンダーは微笑む。しかしその顔に僅かながら翳りがあるのを、ドロップスティアーは見抜けてしまった。
それもそうだろう。エルコンドルパサーにとってグラスワンダーと走る事が悲願だった様に、グラスワンダーも同じ想いを抱いていたのは、容易に想像が出来る。
マイルカップでどちらが上か、決着を付けたかった。だからこそ今回、現在”最強”と謳われるサイレンススズカを相手に、真の”最強”を決めようとした。
右脚が治り、それが叶うと思った。しかし今度は、代わりに左脚を痛めた。そのせいで全力が出し切れずに負けたなどと、誰よりも認めたくは無いのはグラスワンダー自身だ。
「しかし……本当に、分かるものなのですね。普通であれば、早仕掛けで勝手に落ちたものだとばかり思うでしょうに」
「誰にも分かりゃしないですよ。……本当に大事な物が失われるんじゃないか、って。あの、最悪の感覚は」
「……ティアちゃん?」
グラスワンダー本人ですらただの筋肉痛と勘違いしていた、レースでも入着出来る程には軽度の怪我。それすら見抜くドロップスティアーの勘の鋭さを、グラスワンダーはむしろ称賛した。
だが、本人からすれば二度と感じたく無い感覚だった。”悪勘”はそもそも、目の前で両親を喪失するというトラウマに直接起因する代物だ。
トラウマは克服出来ても、記憶は深奥にまで刻み込まれている。散々命の危機と恐怖に向き合ってきたドロップスティアーは、自分の事であれば耐えられるが、他者の事に対しては全く耐性が無い。
再び目の前で失われるのではないか。そう思ってしまえば、あの時の記憶と恐怖は蘇る。そんな心の傷痕に根ざす感覚など、誰にも理解出来る筈も無かった。
「……怪我。ホントのホントに、軽いんですよね? 信じて良いんですよね?」
「ええ。医師の方からも、ストレッチやマッサージを増やせば問題無いと診察を受けました」
「ホントにですか? 今度こそウソ、言ってないですよね?」
「本当ですよ。……信用出来ませんか?」
「……正直な所、出来ません。心配で、怖くて、どうにかなりそうです」
あまりに正直な答えに、グラスワンダーはむしろ苦笑した。冬での骨折と異なり、今回の怪我は本当に軽度なのだ。これ以上無く誠実に答えているにも関わらず、目の前の彼女は自分以上に怪我を重く見ている。
ドロップスティアーの勘は、極めて曖昧な主観でありながら、本能的には絶対と感じてしまう代物だ。事実、骨折の時は本当に何の前兆も無い時点から未来予知的に働いていた。
骨折などの怪我は、そのままレース人生という限りなく命に関わる事態である。それを良く知ってしまった今では、心配のし過ぎという事は無いと思っていた。
「……それなら、尚更気をつけないといけませんね。私が心配をかけたせいでスペちゃん達に勝てなかった、なんて。こちらも聞きたくはありませんから~」
「いやいくらなんでもそんな事は言いませんよ! 自分が負けるなら自分のせいです! ……間違えました、トレーナーさんのせいでした」
「……そ、そこは譲らないのですね~……」
そんなドロップスティアーを見て、グラスワンダーはそれまで以上に体調管理に気をつけようと思った。なんだかんだ説教をした身でありながら、結局二度も心配をかけてしまったのは自分の不徳でしかない。
自分よりも他人を異常に心配してしまうこの友人に、そう何度も心労をかける訳にはいかない。軽症でこれだけ心配されてしまうなら、おちおち怪我などしていられない。
表情から完全に影を落としたグラスワンダーは、相変わらず自分のトレーナーに全責任をおっ被せようとする彼女のスタンスに再び苦笑する羽目になった。
◆ ◆ ◆
《――京都大賞典、勝ったのはセイウンスカイ! セイウンスカイが、メジロブライトを押し切ったー!》
「……はぁー。マジかよー、ホントさー。マジでバケモンしかいねーのか、この世代はよー」
グラスワンダーとドロップスティアーが話していた、その一方で。名入は自分のトレーナー室で、今日偵察しに行った京都大賞典の結果と映像を再度見直していた。
京都大賞典の本命は、メジロブライト。前走である宝塚記念を除く十四戦全てで入着し、天皇賞・春も含めた重賞で四連勝を収めていた、現シニアトップのステイヤーである。
が、セイウンスカイはそんな強豪に対し、なんと
「あー。マージで、あのだあほとセイウンスカイ交換してくんねーかなー」
あくまでスペシャルウィーク達を回避しての勝負かと思いきや、ここに来て新しい引き出しを見せてGⅠウマ娘を破ったセイウンスカイ。それを見て名入は、もう何度言ったか分からないその台詞を零した。
”トリックスター”。逃げウマでありながら冷静さを保ち、そして今回は大胆に。”黄金世代”の他の四人に比べ、技巧派なレース運びをする彼女についた異名は、奇しくも名入がドロップスティアーのスカウト時に言った単語と同じだった。
セイウンスカイの強さは、最早疑うまでもなく本物だ。皐月賞を獲っているのだから強いのは当然なのだが、王道の末脚勝負を重視するトゥインクル・シリーズで逃げという作戦は不安定というのが定説である。
そんな定説など覆す様に、今度は大逃げというリスキーな策でメジロブライトを倒した。これは名入も想像しなかった結果だった。
「……大逃げ、ねぇ」
大逃げ。レースにおける最大のロマン戦法であり、不安定な逃げを更に先鋭化させた作戦。
基本的に大逃げは、辛勝か大敗かの二択に分かれる。メジロパーマーが制した宝塚記念など、全員が上がり三ハロンにおいて四十秒近い歴史的な超泥仕合の体を成していた。
最近は”逃げて差す”とか言われている、完全なイレギュラー大逃げウマ娘がシニアレースを荒らしているのだが。そんな自分達とは全く関係の無い事からは目を背け、名入は今回のレース映像を何度も巻き戻していた。
(――……)
何度も何度も、巻き戻して見直し続ける。”黄金世代”の、この世代の最強の逃げ。これに加え、バカげた末脚でバ群をブチ抜いてダービーを獲ったスペシャルウィークと、つい最近完璧にぶっ飛ばされて負けたキングヘイロー。
この格上三人を相手に、菊花賞でどう勝つか。いくら考えても、考えすぎるという事は無い。来週には京都新聞杯・スペシャルウィーク対キングヘイローという最後のデータが揃う。
――その上で。
「
名入は、菊花賞の作戦を
台詞描写の無いスズカさんというラスボス(先頭の事しか考えてない)
まるでウマ娘小説の様な真っ当なレース描写に作者は困惑しています。