「……えー。今から、菊花賞の作戦を説明すんぞー」
「……はぁ。なんですか、その気の抜けた出だしは」
少し日が経ち、名入のトレーナー室にて。ここ一年で最も重要と言える話題にも関わらず、入りの時点で名入のテンションはすこぶる低かった。
菊花賞の作戦は、京都大賞典の時点で概ね立て終えていた。そしてそれから一週間後、今から見て昨日開催された京都新聞杯を見て。そして名入は、なんかもう頭を抱えるのも面倒なぐらいにはこの世代の強さを実感させられていた。
「知っての通り、昨日は京都新聞杯があった。結果は知ってるな?」
「スペさんがキングさんにギリ勝ったヤツですよね?」
「ああ……マジかよって感じだよ、ホントさぁ……」
愚痴る様に零しながら、名入はトレーナー室のモニターに京都新聞杯の映像を映す。
名入はそのレース結果を――より正確にはラスト一ハロンの展開を見て、正直勘弁して欲しいとすら思った。
『ッ、はぁぁぁーーッ!!』
『うあああーーーッ!!』
《キングヘイローかスペシャルウィークか、二人のデッドヒート! キングヘイローか、スペシャルウィークかっ――そのまま並んでゴールイン! 勝ったのは……スペシャルウィークーッ!》
京都新聞杯は、最終的には二人のマッチレースに等しい展開になった。京都レース場の最終コーナーの終わり際、キングヘイローとスペシャルウィークは揃って一気に外から前に出た。
コーナーを出て先頭を取ったのはキングヘイロー、遅れてスペシャルウィーク。二人は最終直線、残り一ハロン時点ではキングヘイローが一バ身程のリードを得ていた。
が、そこからスペシャルウィークはダービーでも見せた勝負根性を発揮。二人はほぼ同時に末脚のピークに達しながらも、少しずつスペシャルウィークが差を縮めていった。
全く互角に見えた末脚勝負において、神戸新聞杯でも見せた抜群の末脚を発揮したキングヘイローに少しずつ詰め寄り、粘る彼女をギリギリのクビ差で差し切る。
最後の一秒までどちらが勝つか分からない、GⅠレースにも劣らぬまさしく大勝負だった。
「……前の神戸新聞杯で改めて思い知ったと思うが、キングヘイローはお前より格上の存在だ。そんなキングヘイローを、スペシャルウィークはギリギリとはいえ差し切った」
「いやぁ……ほんっと、強いですよねぇ……」
「それだけじゃねえ。これより前の京都大賞典じゃ、セイウンスカイが勝ってる。現役最強ステイヤーとすら言われてる、メジロブライトを破ってな」
名入は手元を操作し、今度は京都大賞典のレース映像に切り替える。そこには、セイウンスカイの新戦法――向正面時点で数えるのもバカバカしい程の差を付けて、最終直線で一気に詰めてきたメジロブライトに対しクビ差で逃げ切るセイウンスカイの大逃げが映されていた。
金鯱賞でサイレンススズカが見せた、十バ身超のリードの大逃げ。その倍ほどに極端な差を付けてみせた、紛れもない大逃げ。この勝利によりセイウンスカイは、”黄金世代”がシニア級のウマ娘にも全く劣らない事を証明した。
「ほげぇ……なんですこのリード……毎日王冠で見たサイレンススズカさんよりえげつねーんですけど……」
「誰もセイウンスカイがここまでかっ飛ばすとは思ってなかったからな。散々警戒されてたサイレンススズカより、そりゃ逃げやすいに決まってる。最後まで保つとは誰も思ってなかったから、控えられてただけだ」
”大”という名の通りの圧巻の逃げを見せられ、ドロップスティアーは顔を引き攣らせる。大逃げについては良く知っていたつもりだったが、セイウンスカイの逃げはそれこそ異次元的な差を付けていた。
当然、それだけ前半に脚を使っておいて最後まで楽に走り切れる訳も無い。向正面で二十バ身近くあった筈の差が、ゴール時にはハナ差にまで迫られた。しかしそれでも、勝ったのはセイウンスカイの方である。
「お前の策を真っ向から実力でぶっ飛ばしたキングヘイロー。それを差し切ったスペシャルウィーク。春天を制したウマ娘からも逃げ切ったセイウンスカイ。菊花賞では見事に、この三人が揃い踏みとなる訳だ」
「……ヤバくないです?」
「超ヤベーわ。なんなんだよこの世代、ガチで歴代最強なんじゃね?」
映像を一旦切り、名入はドロップスティアーに向き合う。はっきり言って、現状は絶望的としか言いようが無い。
京都新聞杯ではスペシャルウィークが勝った。しかし二着のキングヘイローとは僅かクビ差であり、この二人は限りなく互角だった。
しかし互角と言っても結果だけ見れば、神戸新聞杯でドロップスティアーが完敗したキングヘイローと同等以上の力を、今のスペシャルウィークは持っているのだ。
そして”三強”のラストであるセイウンスカイは、なんか別の所で最強ステイヤーを倒していた。当然だがこんな真似など、ドロップスティアーに出来る訳も無い。
「京都新聞杯はマジでキングヘイローイケんじゃねーかな、とか思ってたらコレだぜ。やっぱスペシャルウィークヤベーわ」
「あっはっは、皆強すぎて笑っちゃいますよねー。……それじゃあ自分は……こんな皆と……どうやって戦えば良いんですか!」
ドロップスティアーの心からの叫びが狭いトレーナー室で木霊する。このウマ娘の無駄にデカい声量を散々に思い知っていた名入は、事前に耳を塞いでガードした。
神戸新聞杯で自分に圧勝したキングヘイロー、それを差し切ったスペシャルウィーク、シニア級GⅠウマ娘にも勝ったセイウンスカイ。この三人は”三強”の名に恥じぬ、圧倒的な実力を証明している。
ザ・絶望。神戸新聞杯の敗北で深いショックを受けただけに、ドロップスティアーの感じる物はシンプルにそれだけであった。
「あー、ったくうっせーなー。アイツらが強ぇ事なんてデビュー当時から分かってた事だろがよ」
「いやいやいや、これホントマズいですって。ガチで勝ち目見えないんですけど。ホントになんか作戦とかあるんです、こんなレベルの相手に?」
自分より現状に危機感を抱いて焦るドロップスティアーを見て、名入は冷静さを取り戻す。なまじ神戸新聞杯でキングヘイローの実力を見た分、京都新聞杯でのスペシャルウィークの勝ちには名入も頭を抱えたくなった。
ちなみに名入の知らぬ事ではあるが、この時のスペシャルウィークは絶好調も絶好調だった。一週間前の毎日王冠で見たサイレンススズカの走りをモチベーションに、彼女は最高の気分で挑んでいた。それが最後の伸びにも繋がっていたのだが、そんな事は重要では無い。
どんな形であれ、スペシャルウィークは今のキングヘイローを上回れる。それだけは紛れもない事実なのだから。
「当然、作戦はある。それも、とっておきのな」
「……正直、トレーナーさんの”とっておき”ってあんまいい印象無いんですけど」
「うっせーよ。前に言っただろうが、”プランは立てた”って」
割と真面目にドロップスティアーは半信半疑で、名入をジト目で睨む。ぶっちゃけ名入が”とっておき”と言ってきたモノは、全くまともでは無い事ばかりだった。
重バ場限定の退化ピッチ走法、土壇場での作戦放棄。確かにそれらは格上破りの
隔絶した実力は、戦術を寄せ付けない。無敗の怪物コンビが毎日王冠で敗れるという形でそれを目の当たりにし、正直ドロップスティアーこの力量差を詰められる策などあるのかと、本気でネガティブ思考に陥っていた。
「まず最初に言っておくが。この作戦は、
「……?」
その前置きに、ドロップスティアーは小首を傾げる。
”この菊花賞でしか使えない”。そもそもドロップスティアーの走りは最初から奇策ありきであり、これまで使ってきたレース運びも、ほぼその場限りの限定的な戦法ばかりだった。
やっぱり今回もそういう、意表を突く形で挑むだろうというのは理解出来る。だが名入はいつも以上に、強いイントネーションを置いて話している様に聞こえた。
「名付けて、
「トレーナーさんってたまにとんでもなく頭の悪い事言いますよね」
「お前が言うなや」
不敵に断言する名入に対し、ドロップスティアーは限りない塩対応で応えた。
プランA・B・Xと来て、今度はS。散々勿体ぶった上で安直極まりないそのネーミングセンスに、いい加減慣れてしまったのである。
とはいえ『”三強”を倒す為
「『だけ』、ってなんです?」
「言った通りだ。この作戦は、
「……そんなんあんですか?」
「あんだよ。だから”とっておき”なんだ」
顔色一つ変えず、名入は言い切る。よりにもよって歴代でも最強クラスのウマ娘が三人もいる、この菊花賞でしか出来ない作戦。ここ以外では出来ないという、”とっておき”。
普通に考えれば、強い相手を倒せる走りが出来るなら、それより下の相手も倒せるのが道理である。しかし名入の言い方には、
まるで意味がわからない。ハテナマークを頭の上で五回は浮かべて頭を左右に捻っているドロップスティアーを無視し、名入はその作戦の内容を伝える事にした。
「今日からするトレーニングは、そのプラン専用のモノになる。耳かっぽじって聞けよ」
「はぁ」
半信半疑どころか、九割ぐらい疑いの眼差しでドロップスティアーは名入を見る。
そんな自分の担当ウマ娘に対し、名入は珍しくホワイトボードの前でペンを取り、自分の作戦の全容を伝える事にした。
――この一年半の、
◆ ◆ ◆
「――以上だ。どうよ、このカンペキな作戦は」
「……マジですか、トレーナーさん……?」
「大マジだよ。やれるな?」
「……やれるんです?」
「やれ」
名入の作戦の一部始終を聞かされたドロップスティアーは、半ば絶句して絞り出す様に質問し直していた。
ダービー前に作戦放棄という
プランS。その内容を知らされたドロップスティアーは、確かにこの作戦が”三強”を相手にした今回の菊花賞限定の戦略であると知った。知らされた。
そして、理解と同時に。
「……神戸新聞杯。アレ、
「コースのレイアウトを覚えるってのは嘘じゃねー。だが、
「……やっぱ、トレーナーさんって性格悪いです……」
前走・神戸新聞杯。そのレースにあった
ほぼ負けると分かっていて、それでも菊花賞の予習代わりとして出走し、そして全力で打ちのめされたレース。
そして、
「これで分かっただろ。これまでお前にやらせてきた事の、
「……ホンットーに、トレーナーさん。ずっと菊花賞狙ってたんですねー……」
「ガチで一年ダービーの為に費やしたお前にゃ負けるがな」
ドロップスティアーはダービーの為に一年を、そして名入は菊花賞の為に一年を費やした。それも、
今回の作戦は、これまでで最も無茶なモノだった。限りなく無理に近い、そういう作戦。しかしその”無理”を”無茶”に変える為に、名入はこれまでドロップスティアーを鍛え続けていた。
結局の所、同じ穴の
「……いいでしょう、有り難く思って下さい。その作戦、やってあげますよ」
だからこそ、面白かった。その”無茶”に乗ってやろうと思った。
名入は”絶対”を嫌う。だからこそ今の最強世代という”絶対”に対し、それを覆すだけの下積みを重ねてきた。その
この作戦で勝てるかどうかは、結局出たトコ勝負だ。しかし、それで良い。
レースに、”絶対”は無いのだから。
「……ところで、トレーナーさん。その作戦なんですけど、ちょっと言いたい事あるんですが」
「あん? なんだ、また新しい変な事閃いたのか? この作戦でいつもお前が言うバカ発想は計算外だぞ」
「いえ、そうじゃないんですけど……この作戦、こういう事も出来ません?」
「は?」
一通り納得を終えた所で、今度はドロップスティアーが名入の所までやってきて、持っていたペンをひったくる。
そして今回の作戦が書かれているホワイトボードに、一つ
「――ってな考えなんですけど、どうです? いかにもトレーナーさんが好きそうな事だと思うんですけど」
「……確かに悪い考えじゃねーが、分かってんのか? これ、
「まぁ、無いよりマシじゃないです? 出来なきゃ出来ないで良いですし」
「……面白ぇ。けど、それやんなら別のトレーニングが要るなー……どうすっか」
「ふふん、そう言うと思いましたよ。自分にいい考えがあります」
「あん?」
名入の作戦に対する、ドロップスティアーが追加した提案。確かにそれは名入好みの、上手くハマれば勝率が上がる想定外の策だった。
しかし、想定外だからこそその策を練習出来る手段が無い。どうするべきかと一瞬名入が頭を悩ませた所で、ドロップスティアーは
「……マジ?」
「いやまぁ、自分でもダメ元とは思ってますけど……」
「……ま、ダメ元でもやってみる価値はあるか」
運が良ければ出来る、そしてダメ元じゃないと練習出来ない、追加の奇策。
まぁ、出来ずとも作戦の本筋には関わらない。そう考えた名入は、ドロップスティアーの提案を一旦受け入れてみる事にした。
「――おおっ! 喜んで下さいトレーナーさん、
「マジか」
そしてすぐに、そのダメ元だった策の
◆ ◆ ◆
「――へ? エルさん、暫くレース出ないんですか?」
「はい。そう決めたんデス」
本格的に菊花賞に勝つ作戦のトレーニングが始まった後日。昼食時にドロップスティアーはカフェテリアで偶然出会ったエルコンドルパサーと、ちょっとした雑談をしていた。
しかしその中で、ちょっと驚く事をエルコンドルパサーは言った。エルコンドルパサーはこれからジャパンカップまでの丸一ヶ月以上、レースに出ないと言ったのである。
「ほえー、なんか意外ですねー。エルさんならいくらでも出れるレースがあるでしょうに……やっぱ距離の問題ですか?」
「それもありますが……一番の理由は、スズカ先輩デス」
「サイレンススズカさん、ですか?」
エルコンドルパサーが顔を顰めながら言った人物の名に、ドロップスティアーが意味不明状態に陥る。
エルコンドルパサーの目標は、あくまで今年のジャパンカップの勝利だ。そしてジャパンカップは東京2400メートル、マイルを主戦場としていた彼女にとってこの距離は長い。
距離延長の為にこれからじっくりとトレーニングするのは分かるが、そこで何故サイレンススズカの名前が出るのか。それ程、毎日王冠での初敗北を気にしているのだろうか。
「あ、エルちゃん、ティアちゃん! 席、座ってもいい?」
「スペさん? ええ、良いですけど――なんですその……ハンバーグ、ですか……?」
「にんじんハンバーグ・スーパーデラックスだよ! 京都新聞杯も終わったから、久々に思いっきり食べれるんだー!」
話の途中で、スペシャルウィーク
視界に映っているのは、超極厚・極広の三段重ねハンバーグに、串とばかりに上から突き刺さる極太にんじん。そしてそれを乗せる大皿の根本には、大量のポテトとナポリタンが土台とばかりに敷き詰められていた。
それはランチというにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、高く、そして大雑把過ぎた。それはまさに、カロリーの塊だった。その建造物の影に隠れて、スペシャルウィークの姿が見えないのである。
「あ、相変わらず、凄い量デスね、スペちゃん……」
「うんっ! こないだのレース前まではちょっと制限されてたから、その分食べようと思って!」
「……見てるだけでおなかいっぱいになりそうです……」
ドン。本当にそんな音が鳴る程にスーパーヘビー級の皿をテーブルに置き、スペシャルウィークは満面の笑みを浮かべる。
フードファイター顔負けのブツを持ってきておきながら、まるでその顔に迷いは無かった。食べれて当然という、絶対的な自信がそこにはあった。
見るだけで胸焼けする様な圧倒的な物量と、天真爛漫な明るい笑顔。あまりに不釣り合いな二つが並ぶその光景に、エルコンドルパサーとドロップスティアーは揃って顔を歪めざるを得なかった。
「二人共、さっきスズカさんの話してなかった?」
「え、聞こえてたんです?」
「本当にちょっとだけ名前が聞こえたってだけだよ。それで、スズカさんがどうしたの?」
「スペちゃんなら知ってるんじゃないデス? スズカ先輩の、これからの出走予定」
「……あー! そっかー!」
ぱくぱくもぐもぐ。会話の合間、刹那に等しい間隙にハンバーグを切り取っては食べつつ、スペシャルウィークは普通に話をしていた。なんでこのスピードで食事しながら会話出来るんだと思ったぐらいだった。
それはともかくとして、同室であるスペシャルウィークは確かにサイレンススズカのこれからの出走予定を聞いている。それはエルコンドルパサーにとって、
「スズカさん、次は天皇賞・秋で走るんだけど。その結果次第で、
「……ジャ、ジャパンカップ……」
「……そういう事デス、ティア」
サイレンススズカは性格的に、出走するレースの予定を隠す気が無い。なので、これからの展望についてはメディアにも堂々と言い切っていた。
まず距離・コース的にも毎日王冠と条件がほぼ変わらない天皇賞・秋。そこから距離延長の挑戦としてジャパンカップを経て、来年にはアメリカへと遠征する。そういうスケジュールを、フルオープンで明かしている。
そう。エルコンドルパサーが獲ると宣言した今年のジャパンカップで、サイレンススズカと再戦する事がほぼ確定してしまっているのだ。
「毎日王冠で負けて、思い知ったんデス。悔しいけどエルはまだ、スズカ先輩に勝てません。だから十分なトレーニングを経て、ジャパンカップに備えなければならないんデス」
「サイレンススズカさん、ハチャメチャに強かったですもんねー……」
「そりゃそうだよ、スズカさんだもん! ……あ、エルちゃんを応援してないとかそんな事無いよ!? どっちも応援してるからね!?」
「わかってますよ、スペちゃん。……外国のウマ娘はともかく、今の日本最強は間違いなくスズカ先輩デス。ジャパンカップに勝つには、スズカ先輩を超えなきゃいけません」
毎日王冠は、マイルカップから緩いコーナーを一つ足した様な立地のレースだった。つまりエルコンドルパサーはあのレース、自分の最も得意とする土俵で完全に打ち負かされたのである。
純粋な地力で劣っている。そしてジャパンカップは、エルコンドルパサーにとって未知の2400メートルのレース。この状況では他のレースで足踏みをしている余裕など、欠片も無い。
ジャパンカップを制する為、そしてサイレンススズカに勝つ為のスタミナとスピード。そういった基本的な所から鍛え直さなければならないと、毎日王冠で分からされたのだ。
「エルちゃんとスズカさんが出るジャパンカップかー……すっごい楽しみだなー……!」
「スズカ先輩と同期のエアグルーヴ先輩も出る、なんて噂もあるんデス。……間違いなく今回の”日本総大将”は、あの二人のどちらかになると言われています」
「”日本総大将”、かー。すげえデカい単語ですねぇ」
”日本総大将”。大半において外国のウマ娘が制してきた国際レースであるジャパンカップにおいて、それを迎え撃つ日本代表として期待を背負うウマ娘の名称である。
そしてそのレースには、かの”女帝”エアグルーヴも出走するという噂も立っていた。何せ彼女は、前年度のジャパンカップに出走し、クビ差の二着という限りなく勝利に近い所まで迫っていたのだ。
エアグルーヴもまた、現シニア最強クラスのウマ娘である。メディアに散々付け回されて不調で挑み十着となった秋華賞を除き、全レースで全て三着以内。重賞に十三回も出ながら安定した成績を残し続ける、中央屈指の強者だ。
「……それでも。今年のジャパンカップ、勝つのはエルデス。昨年に言った言葉を撤回する気はありません。絶対に、勝ちます」
「あの、ご飯の時ぐらいはそのプレッシャーやめません? なんか最近、皆気軽に”圧”発するじゃないですか。それ受ける身にもなって下さいよ、ほら」
「……す、すごい鳥肌立ってるね、ティアちゃん……」
「そ、それもそうデスね……ごめんなさいデス、ティア」
意気込みを新たにするエルコンドルパサーの気迫に対し、例によってドロップスティアーの体は勝手に反応してビビる。セイウンスカイの時と同様、目に見えるレベルで立っている鳥肌という形で表れたそれを見て、エルコンドルパサーはちょっと申し訳ない気持ちになった。
彼女のセンサー染みた勘は尋常では無い。ヤマ勘ブロックの第一被害者であるエルコンドルパサーは、本当にそれ日常に支障を来さないのかと心配する程それを良く知っている。
実際、今はのどかにランチを楽しむ時間であり、一ヶ月半以上も先のレースについて考えていてもしょうがない。エルコンドルパサーは素直に、手元の皿に意識を戻した。
「天皇賞かー。確か、菊花賞の一週間前なんだよね。うーん、その時だけお休み取れないかなー……」
「スペさん、ホントにスズカさんの事好きなんですねー」
「当たり前だよ! 前のレースでも思ったんだ、やっぱりスズカさんは凄くって、私もそうなりたい――いや、
今度の天皇賞・秋は、十一月の一日。八日に開催される菊花賞の、ほぼ直前にあるレースだ。最もトレーニングに集中すべきその時に、観戦などする余裕は本来無い。
だがスペシャルウィークにとって、サイレンススズカは特別な存在だ。部屋を同じとし、何度も世話になって、そして憧れの存在。毎日王冠において、グラスワンダーやエルコンドルパサー相手にも完勝した姿を見た事で、その憧れの形は少し変容した。
超えたい。超えて、”日本一”になりたい。今の日本最強がスズカさんなら、自分が”日本一”になる為の目標もまたスズカさんである。エルコンドルパサーにも等しいそんな思考を、今のスペシャルウィークは抱いていた。
「……やっぱり私、スズカさんの天皇賞観に行くよ! 観に行って、それから菊花賞に挑む! それで、絶対勝つんだ!」
そしてそのモチベーションは、ともすれば並のトレーニングよりも効果的だ。ウマ娘にとっての本能たる、誰よりも速く走りたいという想い。それを今のスペシャルウィークは、サイレンススズカに対して抱いている。
先のダービーにおいて、”日本一”の夢に更に渇望を加えた今のスペシャルウィークは、それをバネに京都新聞杯に勝ったと思っていた。実際あのレース、最後の数秒までキングヘイローは自分の前を走り続けていたのだ。
今”日本一”に限りなく近いのはサイレンススズカだ。だから次の天皇賞を観る事は、間違いなく自分の糧となる。そう思い席を思い切り立ったスペシャルウィークは、何気にエルコンドルパサーやドロップスティアーよりも速くカロリーの塊を完食していた。
「エルちゃんやティアちゃんはどう? 一緒に観に行かない?」
「確かに興味はありますけど、流石に余裕は無いデスね……アタシは後でレース映像を見るだけにします」
サイレンススズカがどれだけの力を見せるのか、それは確かに興味がある。しかし実際にジャパンカップで当たるだろうエルコンドルパサーに、時間的な余裕は無い。
折角の誘いであるし、観に行きたい気持ちは確かにある。だがそれ以上に今大事な事は、ジャパンカップで勝つ為のトレーニングだ。レースその物はいくらでもテレビで後から見れるし、感想を言い合うならそれでも構わないだろう。
ドロップスティアーも、明確に格上三人が出る菊花賞直前に、ほぼ無関係な先輩のレースを観に行く理由は無い。サイレンススズカの走りは異次元過ぎて参考にならないし、菊花賞用の作戦のトレーニングもある。なので――
「
「えっ、ホント!? やったー、ティアちゃんが来てくれるなら助かるよー! ティアちゃん、東京のレース詳しいもん!」
「――……え゛っ? え、今、自分、行くって言いました? マジで?」
「? 何言ってるんデスかティア、即答だったじゃないデスか」
まさか承諾されるとは思ってなかったスペシャルウィークは喜んだ。何せ、ドロップスティアーは東京レース場に関しては専門家染みており、先の毎日王冠でも展開の予測と解説をしてくれた。今回もそうしてくれるのならば、スペシャルウィークとしては助かる。
が、即答した筈のドロップスティアーは、何故か口に出した後に自分の言葉を疑っていた。まるで自分が発した言葉が記憶に無かったかの如く、露骨に焦って狼狽えている。それを見たエルコンドルパサーは、妙に思った。
様子も変なら、スタンスも変だ。彼女は自分の勝負に拘るウマ娘であり、毎日王冠でも休みが重なったから自分とグラスワンダーを応援しに来たと言っていた。だが、今回の天皇賞ではそれらの動機が一切存在しない。
ドロップスティアーは自分より間違いなく余裕が無い。にも関わらず、菊花賞の直前という一番大事な時に観戦に向かう。今までの行動原理からは考えられないその即答は、彼女らしからぬ事だった。
「ティア、トレーニング大丈夫なんデス? 菊花賞のすぐ前デスよ?」
「いや……えーと……大丈夫じゃない、筈なんです、けど……」
改めて聞き直してみても、とんでもなく歯切れの悪い答えが返ってくる。
自分で言った言葉を、自分自身が疑問に思っている。そう表現せざるを得ない、妙な様子。
エルコンドルパサーは、そんなドロップスティアーを見た事が無かった。
「よーし! そうと決まれば、頑張るぞー! 先、トレーニング行ってるねー!」
「……は、はぁ」
「……ティア、大丈夫デス?
「あ、あれぇー……?」
今から既に期待を高めたスペシャルウィークは、空になった大皿を持ち返却口へと駆け出し、そのままカフェテリアを後にする。残されたエルコンドルパサーは、さっきから明らかに調子がおかしいドロップスティアーの姿を心配していた。
ドロップスティアーもまた、自分に何が起きているか分からなかった。勝手に動く口、何故か反応する体。自分のこの症状には、明確に覚えがある。
「……スペさん、怪我してるとかそんな事無いですよね?」
「えっ? そりゃそうデスよ、だってスペちゃんデスよ? おなかいっぱいで動けないとかはあっても、いっつも元気でそんなの無縁の娘じゃないデスか」
エルコンドルパサーは毎日王冠において負けこそしたが、グラスワンダーと違い十分な実力を発揮していた。レースに出ないのは距離延長の為であり、怪我などの問題は関わっていない。
スペシャルウィークは健康第一という言葉が最も似合うウマ娘である。主な悩みが食事と体重の増減であり、毎日元気いっぱいの彼女は、怪我とは無縁の存在だ。
グラスワンダーの時の様に、何の兆候も無い内から勘が働く事もある以上、絶対とは言い切れない。しかしスペシャルウィークが去った後も、僅かだが
「……すみません、ちょっと自分も先にトレーニング行きますね。エルさん、頑張ってください」
「ノーデスよ、ティア! そこは、”一緒に頑張りましょう”、デス!」
「そう、ですね」
ドロップスティアーも早々に席を立つ。しかしそれはトレーニングに行く為ではなく、
皿を返却口に戻し、カフェテリアを去り、そして十分に距離を取る。だが、
エルコンドルパサーに何らかの怪我の兆候を感じたなら、この時点で悪勘は終了する筈なのだ。グラスワンダーの骨折の際、この最悪の直感は距離が離れれば消え失せた。だが、今は違う。
今感じる悪勘は、
(……スペさんやエルさんが交通事故にでも遭う、とか……?)
ぞっとする仮説が頭を過る。そもそも自分の悪勘は、誰かの身の危険へのサインだ。
この勘が働いたのは、グラスワンダーの脚に怪我やその可能性が埋まっている時だった。しかし、それ以外の事態に対しても働く可能性が無いとは言い切れない。
自分のトラウマたる交通事故。これが親しい二人に迫っているとなれば、確かに自分が恐れる最悪の事態である。本人の体に無関係な事の以上、距離を置いても不安という形で付き纏う事は十分考えられる。
自分の勘は、未来予知でもなんでも無い。滅茶苦茶に恐怖を伴う虫の知らせというだけであり、起こり得る事を予測も出来なければ詳細も知れない。残念な事にその事は、グラスワンダーの骨膜炎の時にハッキリした。
(……一応、LANEに送っときますか)
まるで未来は分からない。自分も菊花賞で勝つ為のトレーニングで忙しい以上、あの二人の動向に常に注意するなどというストーキング行為は出来ない。
『車に気をつけて下さいね』。限りなく杞憂に近い思いつきのまま、グループLANEに一応そんな言葉を送ってみる。
『どうしたの急に』『意味わかんないわよおばか』『いやオカンかーい』『何故唐突にそんな事を?』『よく分かんないけどありがとデース!』と、”黄金世代”全員から当然の総ツッコミで返された。
(ですよねー)
我ながら確かに唐突が過ぎる心配だとは思う。しかし、もう誰かの事故や怪我を見るのは本当に嫌なのだ。ほんの少しでも可能性があって、それを予防出来るのであれば、どんなバカな事でも言おう。
なお、いつもはもっとバカな事を言っているので、五人からはそこを不思議がられている。
「……何があるってんですか、”わたし”」
薄く弱く、しかし確かに続いている”わたし”の悪勘。
自分自身でも分からないこの感覚を振り切る様に、ドロップスティアーはひとまず今日のトレーニングに集中する事にした。
次回、天皇賞・秋
史実の時間軸的にこのまま行くと、アニメ以上にスペちゃんがヤバいです。