十一月一日、天皇賞・秋。当日、スペシャルウィークはウキウキで、ドロップスティアーは半ばホッとしながら東京レース場までやって来ていた。
ドロップスティアーが約二週間前に感じた悪勘はあれから何も働いていないし、幸いな事に自分の友人・知人はここまで何の怪我も負ってなければ、事故にも遭っていない。
今度こそ、自分のバカな勘は外れてくれた。こんな勘なんぞ、未来永劫無くていい。ドロップスティアーは今回の天皇賞の観戦を、純粋な気分転換としてやって来ていた。
「うわー……! 前の毎日王冠より、ずっと人多いねー……!」
「まー、なんてったって天皇賞ですからねー。しかもサイレンススズカさん、ぶっちぎりの一番人気じゃないですか」
天皇賞・秋。かつては八大競走の一つであり、GⅠの中でも特別なレースとして見られているこのレースは、例によって満員御礼の体を成していた。
観客席の最前列まで来るのも一苦労。牽制としてノーゲージ版震脚でもかまして強引に道でも開こうとしたのを、既の所でスペシャルウィークが止めるという一幕があったが、ともかくドロップスティアーらは時間をかけて位置取り押し上げ、ここまで来ていた。
「もう殆ど皆スズカさんが勝つって思ってるんだね……」
「二番人気の方は……メジロブライトさんですか。確かステイヤーの方って聞いてますし、しかもちょっと前にはサイレンススズカさんと同じ戦法でセイちゃんさんに負けたんですよねぇ」
今回のレースの本命中の本命はサイレンススズカ、二番人気はメジロブライト。しかしメジロブライトは直近の京都大賞典において、セイウンスカイの大逃げの前に敗れている。
しかも天皇賞・春を制した通り、彼女は生粋のステイヤー気質のウマ娘であり、更に言えばサイレンススズカが勝った宝塚記念で一度敗北している。実力は間違いないのだが、あらゆる要素において逆風なのは否めない。
「――スペちゃん。今日も、来てくれたのね」
「あっ、スズカさんっ! はい、応援しに来ましたっ!」
「ふふっ、今日も元気ね。……横の娘は、友達?」
「あっはい。ドロップスティアーです、ティアって呼んで下さい」
「ティアちゃん、ね。スペちゃんが迷惑かけてないかしら?」
「ちょっとスズカさん、どういう事ですかー!」
返しウマの最中、スペシャルウィークの姿を見たサイレンススズカがこちらへとやってくる。そこでドロップスティアーは、初めてサイレンススズカと相対する事になった。
強い。どう見ても強い。自然体でありながら強いと伝わるこの感覚は、シンボリルドルフやトウカイテイオーにも近い。その明確に感じられる強さに反して、本人の人柄は随分と柔らかい印象だった。
スペシャルウィークと笑い合うその姿に、GⅠ出走直前という気負いは全く見られない。レースに気負いも緊張もしないという点においてはドロップスティアーも大概なのだが、中央所属のウマ娘としては珍しい気質だと思った。
「サイレンススズカさん――すみません。先輩は、緊張とかしてないんです?」
「無理に言い直さなくても良いわよ? 緊張って言っても……私は、いつも通り走るだけだから」
「前みたいに、『ゴールしてたのに気付かなかったわ……』なんて言わないで下さいよー?」
「……覚えておくわ」
「えっ」
毎日王冠。実の所サイレンススズカはウイニングランの最中、
あの日、先頭の景色を最後まで満喫していた彼女は、どこまでも走れそうな気分でいっぱいだった。涼しい顔で余裕のウイニングランをしているようで、
あの怪物二人を相手に、どういう認識で走っていたのだこの先輩は。ドロップスティアーは心底、このウマ娘が当代最強と言われている所以の一つを思い知らされた。
尚サイレンススズカは純粋に走るのが楽しかっただけであり、別に他のウマ娘を蔑ろにする気持ちは一切抱いていない。純粋過ぎるが故に残酷な事もあるというだけだった。
「いつも通り、思いっきり走っちゃって下さいね! レース、楽しみにしてます!」
「ありがとう、スペちゃん。頑張るわ」
ニッコニコで応援するスペシャルウィーク、微笑み返すサイレンススズカ。そこにドロップスティアーは余計な言葉を挟まなかった。
気兼ね無く和気藹々と付き合える先輩後輩というこの二人に対し、スペシャルウィークの付き添いで来ただけの自分が言える言葉も無い。初対面の自分からの野暮な言葉など不要だ。
本当に仲が良いんだなー。それだけを思う観客Aとして、その場を去るサイレンススズカの背を見送った。
「……ズバリ、解説のティアちゃん! 今回のレースの見所、どこになると思いますか!」
「最初のコーナーで全部決まるんじゃないですかね? あそこのゲート直後は最初下りになってないんで、最初からかっ飛ばすサイレンススズカさんを捉えられないと思います」
サイレンススズカと会話出来てノリノリの調子になったスペシャルウィークが、東京レース場限定解説役のドロップスティアーに質問を飛ばす。
天皇賞・秋。東京2000メートルのこの立地は、1800メートル以上に初動勝負だ。開幕130メートルの先頭争いから、キツいコーナー。序盤戦で内側・先行有利となるこの立地は、逃げウマにとってはなんとしてでもハナを取って少しでも内を取りたい。
ここで外枠に回されたウマ娘は天皇賞で勝てない、そう言われる程のスタート勝負。しかし今回、その性質は全てがサイレンススズカに味方している。
何せ今回のサイレンススズカは、一枠一番という超理想的な引きをしているのだから。
「グラスさんとエルさんが下りアリで捕まえられなかったのに、平地でサイレンススズカさんと並ぶのはまず無理でしょ。で、最内でコーナーに入っちゃえば、あとは向正面中間までずっと下るだけ。……サイレンススズカさん、抑える事とかしないんでしょ?」
「間違いなく今日も全力で走る筈だよ! 昨日の夜も絶好調って言ってたし!」
「出遅れずにコーナー先頭で抜ければ、向正面の下りで死ぬ程差を付けてぶっ飛ばして終了ですよ。エルさんが届かなかったのに、ラストで誰が追いつけるってんですか」
凄まじく雑な言い方で、しかし容易に展開をドロップスティアーは予測する。ここの内枠の有利・外枠の不利を一番知っているのは自分だ。
超有利の内枠に、超強い大逃げウマ娘。グラスワンダーの早仕掛けすら届かず、エルコンドルパサーの全力とほぼ同レベルの末脚。シニア級の事情は知らないが、この二人が勝てなかったサイレンススズカが負ける未来が全く見えない。
それだけドロップスティアーはあの二人の事を信頼しているし、毎日王冠でのサイレンススズカの走りを信用している。
「サイレンススズカさんの負け筋は、ゲートの出遅れ・第一コーナーでスピード出しすぎて膨れる事・最初に斜行される事の三つぐらいです。それが無く一番に向正面に入っちゃえば、もう勝ちですよ」
「そっか……そっかぁ!」
ドロップスティアーからの太鼓判に対し、スペシャルウィークは無邪気に喜ぶ。
誰よりも走る事に、先頭を取る事に集中しているサイレンススズカがゲートで遅れを取るとは思えない。どれだけキツくても、コーナーで曲がる事をしくじる事は考えられない。平地である最初のコーナー前に競り合えるかどうかも怪しい。
毎日王冠で見せたドロップスティアーの観察眼は信頼出来るし、言う事にも説得力がある。最初のコーナーを先頭で抜ければ勝てる、その言葉をスペシャルウィークは全面的に信じた。
「あ、そろそろ始まるね! ……出遅れませんように、出遅れませんように……!」
「あっはっは、大丈夫ですって。あれだけ気負ってない人が、出遅れるワケが――」
出走ウマ娘達がゲートへ次々入っていく。一番内側のサイレンススズカの背中に、スペシャルウィークは両手を握って何度も呟く。
ドロップスティアーはそんな杞憂にも近い祈りを捧げるスペシャルウィークに対して苦笑し――
「――――」
「……スペさん。レース、最後まで観ます、よね?」
「え? そりゃそうだよ、まばたき一つしたくないぐらいだよ!」
思わずドロップスティアーは、唐突に異常な質問をする。
何でこのタイミングで、この悪寒がやってくる。スペシャルウィークはここにいる。他の友人や知人はここにいない。有り得ない筈の警鐘が、ぶわりと吹き出る汗という形でやってくる。
体が震える。汗が止まらない。それこそ”絶対”有り得ない、自分の最悪の勘が働いている。
そもそも――自分はこのレースを、
「――レ、レースッ! レース、止めて下さい! いますぐッ!!」
「ティ、ティアちゃん!? どうしたの!?」
全ウマ娘がゲート入りし、スタートまで秒読みとなり。瞬間、
しかしその叫びは、一斉にゲートが開く音によって掻き消えた。
「……ッ!!」
「え!? ど、どこ行くの、ティアちゃーん!?」
直感と悪勘のままに、ドロップスティアーはレース開始直後、人混みを強引に掻き分けてその場を全力で離れた。
いきなりの、そして有り得ないタイミングでの行動。スペシャルウィークはあまりの事に呆然とし、その場に置いていかれた。
「ど、どうしたんだろ……」
さっきまでは冷静にレースの予測・解説をしていて、一緒にレースを観る姿勢を取っていた。にも関わらず、レースが開始して――より正確には、レース直前に様子を豹変させた。
その理由は分からないし、あまりの変貌に心配にもなった。しかし、サイレンススズカのレースは既に始まっている。急に去ったドロップスティアーの行方と、サイレンススズカが走り始めたレース。その両方に視線をやった後、スペシャルウィークは結局レースの方に視線を戻した。
「うわぁ、スズカさん、もう差を付けちゃってる……」
最初のコーナー。ドロップスティアーが睨んだ唯一にして最大のポイントで、サイレンススズカは既に後続を振り切る勢いで先頭を突っ走っていた。
聞いた通り、平地である最初のコーナーまでの直線では誰もサイレンススズカに並べなかった。抜群のスタートを切った上にガンガン加速して逃げるサイレンススズカに追いつける者は、誰も居ない。
そしてコーナーに入ってからの下りによって、そのスピードは更に上乗せされて。
《サイレンススズカ、早くも八バ身か――いや、それ以上に差を付けている! 今日も快調に逃げる、サイレンススズカ!》
「すごい……」
ドロップスティアーが言った『向正面の下りで死ぬ程差を付ける』。その予言にすら思える予測の通りに、サイレンススズカは凄まじいスピードのまま、先頭を走っていた。
当代最強の逃げ。スパート並のスピードでひたすら前を駆けていくサイレンススズカに、誰も追いつこうとはしていない。後続のウマ娘達が考えるのは、大逃げとして最後に垂れる事。極めて現実的にして、限りなく祈りに等しい負け筋。
しかしこれだけの差を付けられて、誰があれに追いつけると信じられるだろうか。傍から見れば、完全なる単騎行。既にサイレンススズカは、”異次元”へと達している。
《縦長の展開のまま、残り1000メートルを通過! 現在五十七秒ぐらいか、先頭はサイレンススズカ! リードは約十バ身!》
上がり三ハロンで三十五秒を出すよりも速い、破滅的なハイペース。その勢いのまま、気持ち良くサイレンススズカは誰も居ない空間を駆け抜けていく。
1000メートルを切り、第三コーナーに入る。二番手とは十バ身・三番手とは十五バ身以上の差が既に付いている。こんなもの、例え最終直線でどれだけバテても届く訳が無い。
スペシャルウィークは言葉も忘れ、圧倒的に逃げ続けるサイレンススズカを目で追い続けた。
(行ける……絶対、勝てる……!)
レース前に説明された数少ない負け筋は三つ、その三つは最初のコーナーで全て解決している。このまま行けば、絶対に勝つ。ああなったサイレンススズカが垂れる事など、考えられない。
祈る必要も無くしたスペシャルウィークは、ただ笑顔でそのレースの行方を眺める。どれだけの差を付けてしまうのか、周囲の期待と同様の期待を抱き始めて――
《――えっ?》
――大ケヤキを超え。サイレンススズカが第三コーナーを抜けようとした所で。
誰もが見てわかる程、サイレンススズカのフォームが崩れていた。
「……スズカ、さん……?」
それまで見せていたスピードが、急激に落ちている。まるでブレーキが外からかけられた様に、どんどんと失速していく。
完全に振り切った筈の、十バ身オーバーの差が一気に詰まっていく。まるでサイレンススズカの時間だけが、遅くなっていく様に。
《こ、
実況と観客が、悲鳴じみた声を上げている。あれだけ他を圧倒していたサイレンススズカが、他のウマ娘達に呑まれて沈んでいく。
誰よりも走りを楽しみ、走る事だけに集中している筈の、あのサイレンススズカが。
「――スズカさんッ! スズカさん、スズカさんッ!」
実況よりも遥かに遅く、スペシャルウィークはその異常――故障という現実に気付いた。
コーナーである事も分からない様に、まっすぐ外ラチに向かっていく姿。絶対有り得ない光景に、身をせり出し声を上げて呼びかける事しか出来ない。
しかし、スペシャルウィークがどれだけ声を上げても、周囲の観客達の声に紛れて届かない。サイレンススズカが俯きながら、前のめりに、失速して。
そして。ぐらりと、前に転んだ。
「……あ……」
何故、なんで、どうして。レースが続いているにも関わらず、スペシャルウィークの頭は真っ白になった。
さっきまであんなに速く走っていたのに。何で今、スズカさんは転んでいる? 止まっている? 失速した? 余りの事態に対して、思考が逆走を始める。
なまじ見入っていただけに、スペシャルウィークは目の前の光景に対して、完全に混乱して。ターフに臥しているサイレンススズカの姿を、観客席の縁に掴まり眺める事しか出来ず――
「――どけェッッッ!!!」
◇ ◇ ◇
「お願いします、お願いします! 十分、いや五分だけでいいんで! これ借ります!」
「ちょ、ちょっとキミ! いきなり何を!」
「借りるだけです、すぐ返します! 不要だったら!!」
レース開始直後。ドロップスティアーが向かったのは、レース場の救護室だった。
東京レース場に何度も来たドロップスティアーは、ここにある設備や部屋の位置を完全に知り尽くしている。だからスペシャルウィークと別れた後、ノータイムでこの場所へとやってきた。
「いやいやいや! 借りるったって、
「だぁッ!!」
「うわぁっ!?」
救護スタッフの眼前で、問答無用の震脚をかます。名入以外の人間に向けた事が無い、脅迫行為。それを使う事に、ドロップスティアーはなんの躊躇いも無かった。
このレースに来ると言った切っ掛けは、スペシャルウィークに誘われたからだった。そこで悪勘が働いたが、その場にいたスペシャルウィークやエルコンドルパサーに今怪我や事故は無い。
その上で、
「ホント失礼します! ホント失礼しました! では!!」
「キ、キミ! ちょっと、ちょっとー!」
毎日王冠・スペシャルウィークの誘い・今日のレース。これら三つの悪勘は、たった一つの極めて薄い
そして自分が覚えた感覚は、
(サイレンススズカさんが、デカい怪我をする)
自分の勘は、未来予知でもなんでもない。何が起こるかなど、分からない。
だから、
だから担架を借りた――というか、半ば奪った。レース中に負うだろうおおよその、そして最大の怪我に対しても、適切な対応が出来るモノ。
不要に終わればすぐに返せば良い。勘が外れた後にはどんな処罰でも受けよう。菊花賞直前でありながら、ドロップスティアーは何一つ先を考えない愚行に出て。
「――……ッ!!」
外から聞こえる大きなざわめきに、自分の勘が当たってしまった事を悟った。
◇ ◇ ◇
「スペさんッ! 付いてきてくださいッ!」
「えっ……?」
「早くッ!!」
サイレンススズカが倒れた直後。畳んだ担架を右肩に担いだドロップスティアーは、どよめく観客達を山彦砲で怯ませて道を開かせ、その先にいるスペシャルウィークに声をかける。そしてそのまま観客席から、自分の跳躍力によって外ラチを一発で飛び越えた。
最終コーナーの大外、サイレンススズカが倒れている。
即死じゃない。だが、
加速力。”黄金世代”にも勝るそれを全開にし、ドロップスティアーはサイレンススズカのいる場所へと最短最速で到達した。
「サイレンススズカさん! 返事! 返事して下さい!」
状況を確認する。肩を軽く叩き、声をかける。反応が返ってこない。
意識が、無い。恐怖のままに、倒れている背に手を添える。体は上下している、微弱だが呼吸はある。心臓も動いている。
全ての”最悪”を消去法的に確かめる為、全身を見回す。頭・首・上体・下半身。
「うッ……!」
思わず自分の記憶の最奥、ひしゃげた車内の光景が想起される。しかしこれは、ウマ娘の脚だ。生きている脚だ。
コレだ。自分が察知した悪勘。いつでも目の前で失うばかりで、何の役にも立たない、限りなく無能の”わたし”。それが警告していたのは、この事についてだったのだ。
「……これ以上、奪うなッ……!」
わたしから奪うな。
サイレンススズカは、自分とはついさっき自己紹介したばかりの、顔見知りなだけの先輩だ。だが、スペシャルウィークという大事な友人の、かけがえのない存在なのだ。
奪うな。あんな笑顔が似合う友達に、何かを失わせるな。あの娘を、
「スズカさんッ、ティアちゃんッ!」
「担架に乗せます! スペさん、上体を持ってください!」
「う、うんっ!」
サイレンススズカの状態を確認し終え、傍に担架を開いた辺りでスペシャルウィークが遅れてやってくる。そこで有無を言わさず、ドロップスティアーは命令した。
左脚をなるべく動かさない様に手を添え、二人がかりで慎重に横の担架の上へ転がす形で仰向けにする。苦痛で歪んでいるサイレンススズカの顔が露わとなった。
その顔色と左脚を見て、スペシャルウィークが絶句する。
「救急車ッ! 呼んで下さいッ!
スペシャルウィークの思考が現実から逃避するよりも早く、ドロップスティアーは全力の大声を
今のスペシャルウィークに、救急車を呼んで事情を説明させる程の冷静さは求められない。だから、
一人で良い。誰か一人でも声に応えて救急へ通報してくれれば、全ての対応が速くなる。更にその大声は、呆然としかけたスペシャルウィークの気付けにもなった。
「スペさん、前持って! 救護室に運びます、なるべく速く!」
「えっ、あっ、あっ」
「スピードは合わせます! 急いで!」
「う、うんっ……! ス、スズカさんっ……!」
「
担架を持ち上げる際に、スペシャルウィークに前を向かせる。今のサイレンススズカの姿を見せる事は、なんのプラスにも働かない。
親しい者が目の前で大怪我をして苦しんでいる、そんな光景を見れば思考は迷走する。見続ければ、冷静さが失われる。
だからドロップスティアーは、スペシャルウィークに一つの事のみに集中させる様に命令した。今最も大事な事は、スピードだ。
「くっ、うっ……!」
「もっとスピード上げてください!」
「で、でも、揺れちゃう……!」
「
スペシャルウィークの走りは、担架を揺らしてしまう事による恐怖から緩い。その遠慮を、
ドロップスティアーのマーク技術――即ち、誰かに合わせて走るという技能は、センチ単位でのコントロールを可能とする。その精密さを一番知っているのは、擦過マークという極限レベルの技を受けたスペシャルウィークだ。
スペシャルウィークは言われた通り、少しずつ加速する。
「地下バ道の入口! そこから真っ直ぐ行って、角で曲がって下さい! その先が救護室です!」
「……っ、うん!」
レース場を駆けながら、スペシャルウィークにこれからやる事・走る道を全てナビゲートする。ただ一つの事に思考が誘導される事によって、スペシャルウィークはようやく正しい判断力を取り戻した。
スズカさんを助ける。最も重要な一点を、一番に考えて動く。出来る最良で最善の事を、やらなければならない。サイレンススズカの故障という現実に混乱していた頭が、今の自分の行動の正しさを自覚する。
早く、速く、救護室に送り届けるんだ。それ以外に考えるべき事など、何も無い。
《……え、ええと……サ、サイレンススズカ、救護室に、運ばれた模様、です……》
レースの結果を読み上げ終えた実況が、サイレンススズカの故障という異常事態を上書きした、更なる異常事態をようやく呑み込んでそう零す。
転倒直後に文字通り飛んできたドロップスティアー、スペシャルウィークと合わせてのスピード救護。レーススタッフも待たずやってきて、既にターフを去っていった二人。
嵐の様な展開を見せられ、実況も現実を飲み込めず声を失いかけていた。
「――そうですっ、救急車をっ……! 天皇賞で、スズカさんが、転倒してっ……!」
◆ ◆ ◆
――サイレンススズカの転倒。理由は、走行中の左脚の粉砕骨折。
幸いにして、直前の減速により転倒その物の怪我は軽微。しかしアスリートにおける一般的な骨折と言われるヒビとは異なり、それは正真正銘の
迅速な救護と救急の到着もあって、緊急手術は無事に成功。しかし担当医師は、再びレースに出る程の快復は難しいだろうとコメントした。
「……スズカさん……スズカさぁん……」
「…………」
緊急手術が終わった後の夜。サイレンススズカが未だ眠る病室で、スペシャルウィークがベッドに縋り付いて啜り泣いている。ドロップスティアーは、背後に立ってそれを眺めていた。
同じだ。このままでは、何も変わらない。両親を喪失した哀しみで全てが狂った自分、今のスペシャルウィーク。かつて自分が辿った道筋が、近い形でまた表れている。
最善は尽くした。しかし、サイレンススズカというアスリートの死が訪れようとしている。大切な人を失うという哀しみが、すぐそこにあるのだ。
――
「……スペさん」
「…………」
「一つ。
「――えっ?」
自分は医者でも無い。神サマでも無い。サイレンススズカの骨折を、無かった事には出来ない。
だが。この現状をどうにか出来るかもしれない、
レース以外の方が使える技が多い主人公
史実補正とイレギュラーが相殺し合い、最悪から少しマシ程度の状況になりました。
なので、もう一枚の伏せ札を使ってなんとかしようと思います。