◇ ◇ ◇
「……に、逃げ、ですか……?」
「あぁ。菊花賞本番、お前には逃げで挑んでもらう」
「正気で言ってます?」
「お前に正気を疑われちゃ終わりだぜ」
菊花賞を前にしての作戦会議。トレーナー室で名入と向き合うドロップスティアーは、心底有り得ないだろう話の出だしに対して、本気で名入の頭を心配した。
逃げ。トゥインクル・シリーズにおいては追込に次いで数少なく、そして追込と真逆の作戦。こと自分にとって、それ程合わない作戦は無いだろうとドロップスティアーは自覚していた。
「いや、いやいやいや。ムリがあるでしょ、なんでよりにもよって逃げなんですか。自分が出来るワケ無いでしょそんなん」
「なんでだよ」
「なんでって……自分が追込以外出来ないってのは、トレーナーさんが一番分かってるでしょ?」
最初から最後まで前方を走り続ける逃げという作戦は、単純明快にしてやり切る事は難しい。
まず真っ先に、スタミナの問題が立ち塞がる。『コースを回ってよーいドン』なんて揶揄する言葉がある程に、レースにおける一般的な戦術は最終直線の末脚勝負であり、その分のスタミナを残す様に道中で脚を温存する事がレースの基本中の基本だ。
誰に合わせるまでもなく自分から先頭に立つ逃げは、空気抵抗もあって最もスタミナを使う作戦である。それを考えると、超短距離のスプリント勝負ならともかく、ドロップスティアーの欠陥ピッチ走法は逃げ切りを狙うのには燃費が悪過ぎる代物だ。
「確かにお前は、超絶ヘタクソな走りでこれまで戦ってきた。模擬レースん時から今まで、お前が勝つ道は小細工を弄した追込にしか無かった。いやマジでお前には苦労させられっぱだぜ俺」
「あはっ、喧嘩ですか? やめて下さいよね、自分が本気になったらトレーナーさんが勝てるワケ無いでしょ」
「すぐ
「すぐ人に喧嘩売る癖を止めたらフツーに考えますよ」
いつも通りの口プロレスを、ドロップスティアーはスッと脚を上げる事で早々に強制終了させる。こんな所で話の腰を一々折っていては、作戦会議もへったくれも無い。
ただ、名入があまりの勝機の薄さにヤケになって、現実を理解せずに切り出した話では無い事だけは確かめられた。
「だがよ。俺が一度でも、
「…………言ってませんでしたっけ?」
「言ってねえんだな、これが」
しかし名入は、極めて意外な事実を言い出した。これまで名入は、ドロップスティアーの歪んだピッチ走法でも勝つべく、鋭角コーナリングを代表とした追込大外捲りのトレーニングのみに努めてきた。
そんな方針で一年以上やって来ていたのだが、名入はドロップスティアーに対し『追込以外は不可能だ』と、極めて現実的な事を指摘した事はこれまで一度も無かったのだ。
「ミホノブルボンの話。覚えてるか?」
「へっ? あぁ、病院で言ってた……そりゃ覚えてますよ、あん時トレーナーさんめっちゃテンション高々で語ってたじゃ無いですか」
「そのミホノブルボンが、元々はどういうウマ娘で、どうトレーニングしたかは?」
「元はスプリンターだったけど、坂路一杯走り込んでスタミナ付けたんでしょう?」
「その通りだ。……この話、どっかのウマ娘に似てると思わねぇか?」
「どっかの、ウマ娘?」
謎掛けの様な名入の問いに対し、ドロップスティアーは口元に手を添えながら記憶を辿る。
ミホノブルボンというウマ娘は、極めて異例なウマ娘だ。本来アスリート達は適正を見極めて長所を伸ばし、自身の力が十分に発揮される距離のレースを選ぶ。しかし彼女は、目標の為に自分の適正その物を捻じ曲げてクラシック三冠に挑んだ。
だからこそミホノブルボンの無敗のクラシックロードは今でも語り草の一つとされているし、今に至るまでも類例は存在しない。
「だあほ。
「へ?」
元来スプリンターとしての脚を持ちながら、クラシック三冠に挑むレベルにまで距離延長。そんな生まれの適正という”絶対”に対して限界まで立ち向かったウマ娘は、トゥインクル・シリーズの歴史に存在しない。
だが、
「山の峠道っつー坂路施設を超える道を毎日走り込み、誰よりもピッチ走法――スプリント向きの走りを極めたウマ娘。俺がお前の担当についた直後にその経歴を聞いた時、俺は真っ先に
ドロップスティアー。中央に存在しない、前例が存在しないウマ娘。しかしその経歴は、名入にとっては極めて既視感を感じさせる物であった。
実態はレースをまるで知らない・超絶的な逸走癖・スタミナを無駄遣いする欠陥走法・直線を走った経験がろくに無い・まるで意味の分からない武器を思いつく。この様に枚挙に暇が無い生態だらけの癖ウマ娘だったワケだが、ともかく彼女はこの中央において
だから名入は、ミホノブルボンが歩んだ道程を
「ミホノブルボンは速く、後天的に坂でスタミナを手に入れた。だがお前は遅く、先天的に坂でスタミナを鍛え終えていた。だから俺はお前に対し、
ミホノブルボンはスプリンターとしての速さを持ち、必要なスタミナを坂路によって得た。
ドロップスティアーは坂路で得られるスタミナを持ち、必要な速さを持っていなかった。
故に名入は、ドロップスティアーの持つ弱みを一つずつ潰す事とした。強引に曲がれるコーナリング技術、直線を走る経験不足、フォームの効率化。その結果、彼女は遅々とした歩みではあったが、重賞ウマ娘としての脚を手に入れたのである。
しかし、その名入の育成方針には一つ、最大の障害があった。
「……あのー、自分がミホノブルボンさんと共通点があるってのは分かりましたけど……走り方、全然違いません?」
「ああ。お前の”跳ねるピッチ走法”とかいう、超スーパーウルトラ欠陥走法。コイツは難題中の難題だった、なんせ最初っから坂を走る為だけに得た走行フォームだからな。ミホノブルボンは平地用の走りを坂路で磨いた訳だが、その点お前は根底から真逆だった」
跳ねるピッチ走法。険しすぎる坂路を走る為に半生をかけて習得してしまった、推進力が上方側へ勝手に向いてしまう走り。ドロップスティアーの走りを前例無きモノとした、悪い方向に唯一無二の特徴。
険しい坂路を走り込んだパワーのせいでコーナーで逸走し、速く走ればスタミナを浪費してしまうこの走法は、レースではまるで本領を発揮出来ない。原則平地でスピードを競う純粋な勝負の場で、この走り方は追込の位置を取って中盤戦までスタミナを温存し、最後にロングスパートをかける以外の事が出来なかった。
「だが、その問題は
「はい?」
「お前はもう
「……はいっ?」
さらりと、何の気も無しに。ドロップスティアー自身が信じられない事を、名入は断言した。
普通に曲がれる。そんなバカな。自分の事を言われている筈にも関わらず、ドロップスティアーは本気で間抜けな顔を浮かべ呆けた声を漏らしてしまった。
「い、いやいや、そんな事無いでしょ? だってちょっと前の神戸新聞杯だって、いつも通りにしか曲がれなかったじゃないですか」
「
「へ?」
「お前、あん時のレース展開思い出してみろよ。お前はあのレースで、
「……いや、そんなん当たり前――」
神戸新聞杯・キングヘイローと戦った時。ドロップスティアーは『不足している』と言われたまま、ほぼいつも通りの戦略を取って挑む事になった。
最初から第三コーナーに至るまでヤマ勘ブロックを続け、キングヘイローの後方から追い上げた。そして外を自分から回るというキングヘイローの実力による対策を受け、やむなく最終コーナーの半ばから仕掛けて鋭角コーナリングを使い――
「――あれ?」
だがあの時、神戸新聞杯において。唯一の勝算としてドロップスティアーはキングヘイローを外から追い抜き、そこからすぐ鋭角コーナリングで追い上げ、それから最終直線で敗北した。
ドロップスティアーはあの時、
「やっぱ気付いてなかったな。いやー、助かったぜ。これで
「……ご、”誤解”……」
聞き覚えのあるその単語に、ドロップスティアーは顔を歪める。
あの神戸新聞杯において、ドロップスティアーは意図的に間違った作戦をやらされ、その結果負けた。本来味方であるトレーナー本人が故意に、作戦の誤解をしれっと与えた事によって。
しかし、
「夏合宿、俺は肩の入れ方と砂浜の走り方を教えた。コーナリングとプッシュアウトの意識を完全に刷り込んだ。そうしてお前はあの合宿で、
「は、はい……?」
「言っただろ、『合宿で走りは完成する』って。俺がお前に合宿でやらせたのは、
「ま、待った! 待って下さいよ、トレーナーさん! ちょっと、ちょっと整理させて下さい」
夏合宿・砂浜トレーニング。ドロップスティアーは自分にとって最悪レベルに相性の悪い立地での走り方を教えられた。
確かに砂浜を上手く走れる様にはなったし、言われた通り右コーナーを曲がる為のコツも掴んだ自覚はある。だが、『本当の意味でピッチ走法を極めた』・『最後の仕上げ』という名入の二つの言葉には、理解が及ばずにいた。
「あの合宿……ちょっと言いたかないですけど、自分って最初の一ヶ月ぐらいムダにしちゃってましたよね? っていうかあの時教えたのって、”砂浜専用の走り”って言ってたじゃないですか。あの一ヶ月で、何が変わったってんです?」
「だあほ、
「? ……???」
なんもかんも意味不明。そう感じたドロップスティアーはトレーナー室の天井を見て、その先の宇宙を幻視した。
自分はあの夏合宿の二ヶ月の間、一ヶ月を砂浜スキップの習得に費やし、まともに走れる様になったのは後半の一ヶ月のみだった。しかもそれから新たに覚えたのは、トレーニング効率を上げる為の砂浜専用走法だけ。
だから夏合宿という大事な期間において、ドロップスティアーが本格的に効率良くトレーニング出来たのは一ヶ月だけだった筈だ。だが名入は、『一年かけた』と言い切った。
「年始から始めた地獄マラソン。あれで俺がなんでポリトラックコースを走らせたか、その理由を考えて挙げてみろ」
「……脚部負担が少ない場所だから、フォームの矯正が長い間集中して出来る。ついでに言えば距離的にも東京レース場に近くて、左回りの練習が出来るから、じゃないんです?」
地獄マラソン。ドロップスティアーの身体と尊厳を散々破壊寸前にまで追い詰めてきた、まともなウマ娘であれば普通に虐待として訴えれるレベルの超長距離トレーニング。
このトレーニングの主目的は、ドロップスティアーの走行フォームの矯正――ミッドフットの習得にあった。天候に左右されず安定して脚部負担の低いポリトラックコースを走り続け、偏った足裏の使い方を徹底的に矯正する。
フォームの改善だけならば、定点を走り続けるトレッドミルでも良かった。それをしなかったのは、坂の有無はあれどポリトラックコースの一周の距離が東京レース場に近く、同時に左回りの練習が出来たから。これによりミッドフットとパーマー式走法を覚えながら、ダービーの仮想練習にもなっていた。
「それは
「あー……そういやトレーナーさん、そんな事言ってましたっけ」
そう言われてドロップスティアーは、名入の過去の発言を思い出した。
『あのマラソンにはミッドフットとパーマー式走法を覚える以外の別の狙いがあった』。しかしその際、パーマー式走法という特徴的なフォームを覚える事に集中する為にそれを伏せた、と。
そして、その伏せていた事こそが
「合宿当初、砂浜でお前が足取られて、ろくに走れなかったのは覚えてるな?」
「覚えてるに決まってるじゃないですか、そのせいで自分一ヶ月スキップさせられたんですから」
「で。何でお前は、あんなマヌケに足取られたんだったか?」
「やっぱ喧嘩売ってるでしょトレーナーさん。……砂浜は足場が不安定で、
「そう、反発力。それがお前の
「は?」
合宿での無様さをストレートに思い出させてくる名入に、普通にドロップスティアーは額に青筋を立てそうになった。だが、その怒りが発露するよりも先に名入は言葉を続けた。
ドロップスティアーが砂浜で上手く走れなかったのは、不安定な砂浜を脚力が崩すから。反発力のまるで無い地面が、走る力を殺すから。
しかしそのドロップスティアーのエピソードには、
「
「……確信?」
「お前は重バ場じゃ誰よりも上手く走れる。つまり、
退化ピッチ走法。彼女の欠点から転じて習得した、重バ場限定技術。
その理屈は、荒れた重バ場というクッションを踏み締める事で、ドロップスティアーのパワーが相殺され、まともな走りとなる事。彼女特有のその異常に、名入は目をつけた。
「普通のコースは芝が根を張る関係で、状態が良い程踏ん張りが利いてスピードが出しやすい。だが速度が出しやすいっつーのは、つまり
ドロップスティアーの跳ねるピッチ走法による逸走は、スピードを上げた際のコーナーで生じてきた。
最も速度が出るのは、乾いて良好な芝のコースだ。そして中央の芝レース場・及びトレーニング用コースは、ウマ娘達が走りやすい様になるべく良い状態に整備される。
本来ウマ娘達の走りを有利に働かせるその反発力こそが、ドロップスティアーの跳ねるピッチ走法の上方へ働く性質を際立たせてしまっていた。
「ポリトラックコースは違う。アレの脚部負担の少なさは、
「……そ、そんな狙いあったんです、アレ……?」
「まぁ結局、お前パワーあり過ぎて、ダービーにゃ間に合わんかったが……だが、あのマラソンのおかげでお前の逸走がマシになったのは、
青葉賞。名入とトウカイテイオーが並んで観戦した、ダービー前哨戦。
あの時の最終コーナーで、トウカイテイオーはドロップスティアーの早仕掛け――出会った時よりも数段速いと思わせたスピードレンジで、ギリギリ逸走していない事を見抜いていた。
オールウェザー・ポリトラックコース。晴れだろうが雨だろうが、クッション性が毎日変わらず有るコースの上を、名入は素のスタミナだけなら無尽蔵レベルのドロップスティアーを、体力切れに陥らせるまで走らせ続けてきた。
その限界状態で反発性の低いコースを走らされる内に、彼女の身体は最も最適な足捌き――
「ポリトラックコースで走りまくりゃ、お前の最大の欠点であるパワーの超過は改善される。俺はこの仮説に基づいてトレーニングし、実際に集めた走行データは嘘をつかなかった。そして夏合宿において、お前はようやく砂浜という場所でもちゃんと走れる安定した下半身の使い方を――有り余ったパワーの
「――……」
「つまり、俺が目指したお前の”走りの完成形”は。あらゆる坂に適応しながら鋭角コーナリングっつー曲芸を可能にする極端な走法と、レース用に最適化された正当な走法。その
「……うそぉ……」
名入はこれまで、ドロップスティアーが選抜レースで自分で見出した唯一の勝ち筋――追込の大外捲りの切れ味を伸ばすトレーニングをやらせてきた。その上で、
坂路で鍛えられるパワーとスタミナは最初から持っている。だが、スピードとコーナリング技術が壊滅的だった。そんなウマ娘に対し、ひたすらコツコツ、バレない様に。表向きは『大外捲りをより強くする為に』とそれらしい名目を掲げながら、
直線の走り方を叩き込んだ。足の使い方を教えた。メジロパーマーという、上体を安定させて効率的に走るウマ娘の走りを模倣させた。そして夏合宿の砂浜という場で、下半身の安定化と曲がる意識を教えて仕上げた。
そうしてドロップスティアーは、
「そして俺はその上で、神戸新聞杯という菊花賞に出る誰もが見るだろうトライアルレースで、
「……ぜ、
「第一・第二コーナーを、ブロックによって控えさせた。第三コーナーでは減速させて抜かせ、最終コーナーではいつもの鋭角コーナリングをさせた。鋭角コーナリングは、
しかし名入の陰謀にはたった一つ、最大の懸念点があった。菊花賞直前のリハーサルとして選んだ、神戸新聞杯である。
一年をかけて全身に叩き込んだ、レース用のピッチ走法。あの時点でドロップスティアーは既に普通に曲がって勝負出来る様になっていたのだが、そうすれば菊花賞で逃げを打つという作戦の奇襲性が薄れる。
だから名入は神戸新聞杯において、
実際はキングヘイローという想定外の相手がやってきて、少々レース展開はズレたのだが。『普通に走れる事がバレる』という
「お前が普通に走れる様になった事は、お前自身すら気付かなかった。他の連中も神戸新聞杯を見て、『右回りの大外追込を鍛えてきた』と判断する。だからこそ菊花賞という大一番、たった一度だけ。
名入はたった一度、一レース。菊花賞という勝負で確実に自分の策を通したかった。
ミホノブルボンに近い育ちでありながら、しかし限りなく遠い存在であるドロップスティアー。そんなウマ娘の歪みを少しずつ正し、そして彼女は今ようやく
坂路施設すら物ともせず、どんなレース場にも有り得ない急傾斜の山道を鼻歌混じりに走り抜けられる、世代屈指のスタミナ。本来消耗の激しいピッチ走法をカバー出来る、その地力を。
「そして。お前が逃げる事によって、
「なんか自分がとんでもなく悪い事するみたいな言い方なんですけど。……誰です?」
「いっつも悪い戦法ばっかやってんじゃんお前。……決まってんだろ」
これまで名入は本人を含め、あらゆる全員に『ドロップスティアーは追込策のウマ娘である』と誤解を徹底的に刷り込んできた。
そしてこの誤解から成る奇策――戦法の逆転が成功した時。
「
◇ ◇ ◇
「んなッ……!?」
菊花賞・最初のコーナー。セイウンスカイは、自分の目を疑った。
有り得ない。彼女はとんでもない逸走癖を持ち、デビューからずっと追込策を取っていたウマ娘だった。にも関わらず、たった今。ドロップスティアーはイン側を目一杯に締めつつ、高速でコーナーを走り続けている。
(ウッソでしょ、ティアちゃんさんやっ……!?)
セイウンスカイにとって、ドロップスティアーは最優先の警戒対象だった。何せ彼女はスタートダッシュだけなら世代一であり、それを使った先行策殺しの技術を用いる。
ヤマ勘ブロック。彼女の異常技術の一つたるその技の脅威は、
あの時、ドロップスティアーはキングヘイローの頭を抑え、そのまま第三コーナーまで先行を一切許さなかった。そんな技を逃げウマ娘たる自分が喰らえば、先頭を取ってペースを握るという策が完全に破綻する。
だからこそセイウンスカイはスタートから全力で坂を駆け上がり、ブロックを最初のコーナーで外から躱せるだけのスピードを出していた。
――にも関わらず。
(全然落ちてこない……! マジで逃げるつもりかっ!)
ドロップスティアーは速度を下げない。ほぼ斜め後ろを追従するセイウンスカイを無視し、最内を走り続けている。
間違い無い。いつからかは分からないが、彼女は自分の弱点を克服していた。そしてそれを誰にも気付かせないままこの場に立ち、そして今とんでもない作戦に出ている。
この菊花賞という大舞台で初めて逃げるという、追込オンリーだったウマ娘が絶対やる訳無いだろう、そんな作戦に。
「――ははっ」
セイウンスカイは笑った。こんな事は、完全に想定外だ。自分も、恐らく他の誰も見抜けなかった、”絶対”有り得ない奇策。
だが、”絶対”など誰が決めた。そんなモノなど、このウマ娘にはまるで当て嵌まらないだろう。常日頃からメチャクチャで、彼女しか出来ない技ばかりやらかして、これまでのレースの常識をことごとく無視してきた存在。
彼女の考えは自分でも読み切れないと、あの夏に思った筈だ。常に予想の斜め上だったり下だったり、そういう所ばかり走るのが、ドロップスティアーというウマ娘なのだ。
――だからこそ。
「……その
世代最強の逃げウマ娘。”黄金世代”のトリックスター・セイウンスカイ。
この大一番で、よりにもよって逃げという自分の土俵に堂々上がってきた相手へ、彼女は外から並びかけつつ強気に予告してみせる。
それに対し、ドロップスティアーは――
「あはっ。……出来るもんなら、やってみて下さいよッ!」
先頭を譲らず、笑いながら喧嘩を売り返した。
各馬場のクッション値参考(JRA公式サイト参照)
人工芝:18
良馬場(乾燥気味):12以上
不良馬場(湿潤気味):7以下
ポリトラックコース:7
コンクリート(≒ダスト舗装):63
策士 VS 詐欺師
ここからが真の勝負のスタートラインです。