セイウンスカイにとって、ドロップスティアーというウマ娘は天敵である。それは思想や姿勢の違いだとか、そういう個人的に思う所によるモノだけでは無い。
まず、スタートダッシュで勝てない。扉に衝突するという恐怖を一切抱かず、ピッチ走法の全開加速で音と同時に飛び出すゲート技術。これはどれだけ練習しても、セイウンスカイですら習得出来なかった。
そして先手を奪われて使われる、先行殺しの専用技術――逸走策とヤマ勘ブロック。これらに捕まれば、先頭に立ってペースを握るというセイウンスカイの基幹戦法が完全に潰される。
だからこそセイウンスカイは、逸走策もブロックも許さない速度を最初に出して横へ並び、一気にコーナーで先頭を奪うという対策を考えていた。
必ず追込の位置までペースを落とす、そんな彼女をコーナーで追い抜く事は容易い。しかし今回に限り、
《三コーナー回って先頭はなんとドロップスティアー、すぐ横にセイウンスカイが並びかけています。後続との差は二・三バ身ぐらいか、キングヘイローは外で抑えて六番手、スペシャルウィークは中団辺りか》
ドロップスティアーの逃げ。セイウンスカイはストライドを伸ばして並びかけてこそいたが、彼女から先頭を奪う事は
菊花賞・京都3000メートルのスタート位置は、淀の坂の始め――
そして逸走という弱点を克服してインを完璧に走っている彼女を、外から抜き去る事は出来ない。コーナーでラチから一メートル離れれば走る距離は十メートル伸びる、そんな物理的な常識が邪魔をして前に出切れないからだ。
(マジで最悪の相手になっちゃって、まぁ……!)
かといって、二番手に控える――ドロップスティアーの後ろに付くのは
今はセイウンスカイと同速でインを走っているが、こちらがペースダウンすれば
菊花賞の3000メートルという長期戦においてたった今、一人分とはいえセイウンスカイは外側を回らされている。この序盤の主導権を、完全に握られているのだ。
(何考えてきたかと思えば……とんでもない事するわね、あなた!)
(ティアちゃんが先頭っ……!? どうしてっ……!?)
そしてドロップスティアーの逃げという奇策には他のウマ娘達も――後続のキングヘイローやスペシャルウィークも当然驚いていた。
それもそうだろう。逸走という悪癖をカバーしながら、相手を揺さぶる大外捲りを得意とする追込ウマ娘。そんな印象と実績を完全に棄てた彼女の先行と完璧なコーナリングは、異常事態と言っても過言では無かった。
キングヘイローはダービーで、セイウンスカイと逃げで競り合った経験がある。そしてその慣れないレース運びの結果、自分は末脚切れを起こしてしまった。
だからこそ、ドロップスティアーが掛かった様な先行策を取った事に心底驚いたし、無謀とも思った。
――しかし。
《ドロップスティアーとセイウンスカイが先頭を取り合ったまま、第四コーナーに入ります。両者とも掛かってしまっているのでしょうか?》
(それでも、やり切るつもりでしょう!)
(ティアちゃんが、掛かる訳が無いっ!)
俯瞰的に判断する実況や動揺する他のウマ娘をよそに、キングヘイローとスペシャルウィークは一つの信頼を置いていた。ドロップスティアーは、出来ない事はやらない。掛かって自分からミスをする事など、有り得ない。
セイウンスカイ相手に、本気で逃げで挑んでいる。そして実際、セイウンスカイは先頭を取り切れていない。
”三強”は揃って、ドロップスティアーの逃げという異常事態を早々に受け入れた。
「あはぁっ……!」
「こんのっ……!」
並ぶ。並んで競りかける。逃げと逃げがぶつかり合った時に起こる、
逃げが理想とする展開は単騎行だ。最初に先頭を取って先団の頭を抑え、ギリギリまでスローペースに走り、最後まで脚を残す。故に逃げ同士が序盤でハイペースで競り合えば、最終直線で沈んでしまう。
今回の菊花賞におけるセイウンスカイの
(確かに面白い策と思うけどさぁ……
逃げ同士の序盤の競り合いで、外から並びかける。これはセイウンスカイにとっては、手慣れた揺さぶりだった。
逃げというのはただでさえペース配分を間違え、自滅しやすい。最初から最後まで全力疾走を保たせるなど、短距離のスプリント戦でもそう見られない。そして逃げウマ娘は競り合われると、自分のペースが乱れてしまう。
ドロップスティアーは今、外から並びかけるセイウンスカイから先頭を譲っていない。
(初めての逃げ、予想外の奇策上等……! けど、
セイウンスカイには、ドロップスティアーの逃げには一つ
確かに予想外で想定外の、面白い作戦である。だが彼女は、逃げるどころか先行の位置で走った事も無い。その経験不足は、
ドロップスティアーは神戸新聞杯に出走した。アレは阪神レース場のレイアウトが、京都レース場に酷似しているからだとセイウンスカイは看破している。その上で、京都と阪神のコースには
第四コーナーが終わる直前。セイウンスカイは外側で、
《第四コーナー、ドロップスティアー未だ先頭――いや、
(ここだッ!!)
外を回る第四コーナーからホームストレッチに差し掛かるこの一瞬。最内を走っていたドロップスティアーは、
その
(
セイウンスカイはドロップスティアーをインから追い抜いた後、ほくそ笑む。
確かにドロップスティアーは、この菊花賞前に逸走癖を克服して、普通に曲がれる様になったのだろう。だが、彼女は逃げを知らない。京都レース場を走った事が無い。
故に京都レース場の
(これで
京都レース場・第四コーナー。坂を下った直後に訪れるこのコーナーを曲がる事は、角度以上に難しい。
”淀の坂はゆっくり上り、ゆっくり下る”。そう呼ばれるセオリーは、第三コーナーからの坂を下り強制的にスピードが上がり、キツい第四コーナーの終わりで遠心力により外へと振られる事から言われている。
確かにドロップスティアーは前走、阪神レース場で外回りの第四コーナーを予習した。だが、
逃げ同士の競り合い・ペースの取り合い。先頭を走り続けるなら、速度を上げなければならない。それを利用してセイウンスカイは外から並びかけ続け、
わざと高速で坂を下らせ、未経験の第四コーナーで膨らませる。例の鋭角コーナリングでも使わなければ、この速度で曲がれはしない。そのセイウンスカイの読みは、的中した。
「さぁて……いつも通り、逃げるとしますかっ!」
そしてセイウンスカイは、
◆ ◆ ◆
「先頭を奪われたか……!」
「やられたね……こればっかりは、経験の差としか言いようが無いや……」
ドロップスティアー・そして名入による、一年越しの乾坤一擲の奇策、菊花賞での逃げ。それはセイウンスカイの知恵と慧眼により、二つ目のコーナーで瓦解した。
鋭角コーナリングを使えば曲がれただろうが、あれは脚に負担を強いる技術だ。前例が存在しないからどれだけのモノかは想像するしか無いが、負担があるという事は脚を消耗するという事と同義である。
菊花賞の3000メートルは、三分以上も走り続ける長く険しい道程だ。ただでさえスタミナを最も使う逃げという作戦の中、あの技を最初に使う事は出来ない。そうシンボリルドルフとトウカイテイオーは、抜かれたという結果から分析していた。
《第四コーナー、セイウンスカイが内から抜いて一番手に上がる。ドロップスティアー、上手く立て直して後ろに付きました》
「……大分ハイペースだ。カイチョー、あれ不味いよ」
「ああ。セイウンスカイが競りかけたせいで、
トウカイテイオーは実況の読み上げを必要とせず、現時点でのタイムをざっくりと目算する。それを受けてシンボリルドルフも、ドロップスティアーの作戦にヒビが入ったと感じた。
名入はミホノブルボンを想定して、ドロップスティアーを鍛えた。そしてミホノブルボンの逃げといえば、彼女の代名詞たるラップ走法。精密機械の如く、最初から最後までほぼペースを誤差無く維持し、先頭を走り続けるという走りだ。
しかし、ミホノブルボンはその走りを菊花賞で発揮出来なかった。それはキョウエイボーガンという自分より速く逃げる相手に対し、先頭を取れずに自分のペースが崩された事に起因している。
今のこの状況は、その焼き増しだ。
「名入トレーナー。キミがミホノブルボンを評価していたのは分かるが、相手が悪かった。これではラップ走法にならない」
「あぁそうだ、全く以てその通りだぜ。これで
「――えっ?」
ミホノブルボンの再来を鍛えた。そうレース直前に言って、しかし今ミホノブルボンの
ハイペースで競り合われ、経験不足から先頭を奪われ、自分が前に立たなければ使えないラップ走法は崩れた。そんな状況でありながら、名入は
「アンタら、なんか勘違いしてねーか? アイツがミホノブルボンの走りなんて、
「……な、に?」
だが直後に言われた名入の言葉に、シンボリルドルフは一瞬瞠目した。
確かに名入はレース直前、ドロップスティアーがミホノブルボンに共通点があると二人に仄めかした。そして実際、走行フォームと逸走癖を直し、菊花賞において逃げを取れる様に前日まで専用の、まともに走るトレーニングを積ませた。
だが、『
「ミホノブルボンの研ぎ澄ました体内時計が無きゃ、コンマ単位でズレ無く走るラップ走法なんざムリだ。アイツは確かにペースを管理しやすいピッチ走法を使うが、何千メートルも同じ速度で走るなんぞ、ぶっつけ本番一発目の逃げで出来るワケねぇよ」
ドロップスティアーは短距離向けのピッチ走法でも長く走れるスタミナがある。そしてピッチ走法はストライド走法と違い、スピードのブレが起こりにくい。
だが等速逃げという完璧なペース管理で勝つ事は、膨大な経験と固有のセンスを持つミホノブルボンにしか出来ない。土壇場の逃げ一回目のドロップスティアーに、そんな大それた芸当は最初から出来なかった。
「……抜かれるのは想定の内、という事か?」
「想定どころか
「え、えぇ? ティアを逃げさせたの、キミだよね? 抜かれちゃってるのに、どこが計算通りなのさ」
「抜かれた? ちげーよ、
「――へっ?」
スピードが出て膨らみやすい第四コーナーで、ドロップスティアーは膨らんだ。そうなる様に誘導したセイウンスカイがインを突き、先頭を奪った。そこからドロップスティアーはなんとか立て直し、二番手に回らされた。どう考えても逃げをしくじった、そんな展開。
しかし名入の言葉を聞いたトウカイテイオーは、その一連の光景をもう一度頭の中で思い返す。そして”帝王”の歴戦の直観は、一手遅れだが
「――
「……テイオー?」
「カイチョー! 今の
トウカイテイオーは思い返し、見抜いた。ドロップスティアーがコーナーで膨らんでから直線で立て直すまでの流れが、
逸走その物は、どう見ても坂の下りでスピードが乗り過ぎたモノだった。だがその後、セイウンスカイに抜かれてからホームストレッチに軌道を戻す、その過程が
逸走して先頭を奪われた時の動揺が無い。足取りのブレや迷いが無い。コーナーで膨らんだ時間よりも、立て直すまでの時間の方が短い。
「アイツは中央の誰よりも逸走したバカで、
逸走。ドロップスティアーの悪い方向での代名詞の一つであり、
”相手ごと狙って逸走する”などという手口を使う位には、ドロップスティアーは自分を逸走させるのが上手い。そしてコーナリングに長けたピッチ走法の足捌きを正しく覚えた事で、どんな逸走からでも瞬時に立て直せる様になった。
事実、その技術の片鱗はダービー後の
曲がって膨らんだ直後に走りを戻す、変則的なコーナー技能。ピッチ走法の横への移動速度を利用した
――しかし。それでも、納得は出来ない。
「……だが、何故だ。何故今、そんな仕掛けをしてまでセイウンスカイに先頭を譲った? 逃げるならば、内を締めて良いポジションを取り続けた方が良いだろう」
「そんなもん、見りゃわかるだろ」
彼女の特技を活かし、逸走と見せかけながら余計な消耗をせず走りを戻した。しかしそんな事をして、何の得になるのか。シンボリルドルフには分からなかった。
名入は『抜かせた』と言った。この第四コーナーでセイウンスカイに、わざわざ逃げとして有利な先頭と内側を譲る、それが作戦の範疇だと。
逃げウマ娘としては、先頭の最内というポジションは何に替えても欲しい場所である。特に菊花賞という長丁場において、最内というロスの無い経済コースの恩恵は絶大だ。
それを理解した上で、名入は告げた。
「
「「は?」」
◇ ◇ ◇
「――さて。お前が逃げる事が出来るっつーのは、俺の遠大なる計画を聞いて理解出来たと思うが……ぶっちゃけ、お前は逃げじゃ勝てん」
「何言ってんですかねこの人」
時は再び遡り、名入の菊花賞作戦会議に戻る。ドロップスティアーが逃げる事が出来る様になった、だから逃げる。そう言った直後に、名入は前言撤回する様な事をぶっちゃけた。
一年をかけた一発限りの奇襲をする。そう言っておきながら、その
そんなドロップスティアーに構わず、名入はホワイトボードにペンで歪んだ楕円――京都レース場の大まかな形状を描いていく。
「菊花賞のスタート地点はココ、向正面・淀の坂の根っこだ。お前の跳ねるピッチ走法は、どんな傾斜だろうが無意識に適応する。だからお前はスタートでミスらなきゃ、百パー先頭を奪える」
きゅきゅっと、京都レース場のスタート地点――第三コーナー手前・208メートルの場所に名入が線を引く。
ドロップスティアーの跳ねるピッチ走法は坂に強い。山道という傾斜が何度も変化する坂道へのカウンターであるこの走りは、淀の坂でも中山の急坂でも坂路施設でも、勝手に最適な足の使い方を導き出す。
欠陥だらけのこの走法の数少ない強みを見込んで、名入は跳ねるピッチ走法その物は無理に矯正せず残し、その上で正当なピッチ走法を体得させていた。
「菊花賞の長丁場、いくら良いポジションが欲しかろうが一度目の坂で誰も無理はしたかねー。そして先頭を取ったお前は、全員を騙くらかしてフツーに最初のコーナーを曲がる訳だが……ここでセイウンスカイは
「――『間違いなく』? 『そう予想出来る』、とかじゃなく?」
「レースに絶対は無い。だが、
「……根拠、あるんですよね?」
「たりめーだ。俺は超有能なデータキャラだって事、忘れてねーか?」
「あはっ。直近で皆の出走するレース予想を二回も外したの、ド忘れしちゃってませんー?」
「がああああ!!」
断定。確率ではなく”絶対”として、セイウンスカイが仕掛けてくるだろう。そう展開を言い切った名入に対し、ドロップスティアーはつい最近の名入のとんでもない計算違い・読み間違いという事実でカウンターをかます。効果は抜群だった。
仕方ねーだろキングヘイローがどっちも出るとか思わねーだろ。セイウンスカイがメジロブライト相手にやり合うとか誰が予想出来るかよ。自分の
が、そんな名入のプライドや言葉の正確性は超どうでも良い。ドロップスティアーはただ根拠を知りたかった。ちゃんと
「……話を戻す。さっき見せたセイウンスカイの京都大賞典、そこに答えがある」
「はい?」
京都大賞典。セイウンスカイがシニア屈指のステイヤーたるメジロブライトに勝ったレース。
この作戦会議をする直前に見せられた、セイウンスカイの衝撃的な新戦法――大逃げによる勝利。しかし名入はこのレースに、
「ウマ娘が逃げるのは、大体が気性か性格に問題があってそうなる。周囲を囲まれると窮屈に思っちまう・先頭を走らなきゃ集中出来ない・レース本番で仕掛け所が分からなくなる、
「え。あぁはい、ヤバかったです。めっちゃ怖かったです、勝てる気がしません」
「確かに今のサイレンススズカはマジで異次元に強い。だが、アイツは気性的に逃げしか出来ない代表例みたいなモンだ。事実サイレンススズカは前年度のダービー、最初のハナ争いで控えちまった結果、九着で負けてる」
同日に東京で行われた毎日王冠。グラスワンダーとエルコンドルパサーをまとめて倒した、最強の大逃げウマ娘・サイレンススズカ。しかし彼女は大逃げ
前年度・弥生賞では出遅れて八着。ダービーでは先頭を奪われ先行気味に走って九着。今年に入っては完全覚醒・最強無敵状態といったサイレンススズカだったが、逃げウマ娘特有の弱点――先頭を取れなければ力を出し切れないという気性から、大逃げに転向したのである。
逃げという作戦の不安定さはスタミナ問題のみならず、そういったウマ娘の性格と気性が大きく影響してしまうという事情もあった。
「逃げウマ娘はそういう風に、別の戦法が向いてないから・やりたくないから逃げる、っつーのが一般的だ。ミホノブルボンも同様に、先頭でラップ走法やるから逃げで勝ち続けられた」
「ほえー。皆、色々あんですねー」
ドロップスティアーはそんな解説に対し、ふーんとしか思えなかった。
何せ彼女には、走り方に対する頓着や好みが欠片も無い。これまでは勝ち筋がそれしか無かったから追込の位置取りを取っていただけであり、最終的に負けなければどんな手でも使うという別方面の気性難を抱えたウマ娘である。
つまり、ドロップスティアーには
だから『逃げウマ娘は逃げなければ勝てない』という説明が、どうにもピンと来なかった。
「だが、
「……セイちゃんさんが、例外?」
そんなピンと来ない横に逸れた話から、セイウンスカイというこれまで名前が頻出している友人の話題へと戻ってきた。
曰く、自分が逃げると甚大な被害を受ける。曰く、最初のコーナーで絶対に仕掛けてくる。曰く、京都大賞典に答えがある。さっきからどうにも名入は、セイウンスカイを中心に話を展開し続けていた。
「超が付く程の大逃げ。コレでセイウンスカイは京都大賞典を勝った訳だが……俺はなんでセイウンスカイが大逃げをしたのか、その狙いを百二十パーセント見抜いてやった」
「またデッカく出ましたね……そんな自信満々にセイちゃんさんの
”トリックスター”・セイウンスカイ。彼女の逃げは、極めて巧妙だ。
”黄金世代”の他の四人は、分かりやすい強さ――最終直線での末脚の鋭さを持っている。なので彼女達は尽く模範的な差し・先行の戦法を得意としている訳だが、それに対しセイウンスカイは逃げという少数派の戦術で肩を並べていた。
かつて名入は『純粋な強さが無ければ成立しない』と称してこそいたが、ただの強さだけでは逃げという戦法で”三強”として呼ばれず、皐月の冠は手に入れられない。
相手の作戦を読み、自分の作戦を読ませず、勝つ為の道筋を創り出して走る。それが他者に無いセイウンスカイの強さであると、ドロップスティアーですら分かっていた。
「読めちまうんだよ。アイツは京都大賞典で、
「何言ってんですかねこの人」
天丼となる台詞と視線をドロップスティアーは名入に投げつける。しかし名入は意にも介さず、むしろ自信満々の笑みを浮かべて返してみせた。
『大ミスをやらかした』と言ったが、セイウンスカイは見事に京都大賞典というシニア級の強者達が集まった格上挑戦で勝ってみせた。単にスペシャルウィークやキングヘイローを回避して出るには、あまりにもシビアな重賞を獲っている。
それのどこにミスがあると言うのか、むしろ完全な大成功じゃないのか。あとついでに名入とセイウンスカイは全然共通点が無い。名入という超性格が悪い人間と誰かを比べるのは、その誰かに失礼が過ぎる。
ドロップスティアーとしては友人の名誉の為、訴訟も辞さない考えであった。
「コイツを見な。京都大賞典を含めた、セイウンスカイのこれまでの戦績だ」
「んー……?」
そう言って名入は自前のノートパソコンを操作し、くるりとドロップスティアーの方へ画面を向けて見せる。
ずらりと並べられた、レースでの着順とタイムを含むセイウンスカイの戦績。それは弥生賞とダービー以外、全部一着という物だった。
普通にドン引きするぐらいえげつない戦績である。この世代において最強の逃げウマ娘と呼ばれているのは、全く伊達では無い。
強いのは強い。もうそうとしか言いようが無い、そんなレベルの戦績。自分との格の違いを見せつける様な、この絶望感溢れるこの戦績を自分に見せて、名入は何を言いたいのか――
「――んっ? ……ん、んんっ?」
「……気付いたかよ」
「いや、いやいやいや! おかしいですよトレーナーさん! ここ、ここ! このデータ、絶対間違ってるでしょ!」
「合ってるよ。データは嘘つかねーっつってんだろ」
何を言いたいのか、そう問い質す一歩手前。ドロップスティアーは
だが、名入はそんなドロップスティアーの訴えを聞かない。データは正しい、ドロップスティアーがおかしいと言った所はおかしくない。その一点こそが、今回の話の要だった。
「京都大賞典! セイちゃんさんの上がり、
「その通り。アイツは皐月賞でもダービーでもなく、京都大賞典が一番速かった。大逃げをしたにも関わらず、だぜ?」
京都大賞典での最終局面。大逃げをした筈のセイウンスカイは、上がり三ハロンにおいてこれまでのレースで最も速いタイムを叩き出していた。
いくらなんでもおかしい。大逃げはスタミナ消費を度外視して序盤からすっ飛ばし、相手を撹乱して逃げ切る作戦だ。事実セイウンスカイは、向正面で二十バ身は差を付けていたのをレース映像で確認している。
どれだけ夏合宿で鍛えたからといって、大逃げで消耗した脚で過去最速のタイムを叩き出すなど有り得ない。しかしセイウンスカイは京都大賞典において、最終局面を過去最速で走り抜けたのだと
「その上で、もっかいセイウンスカイの京都大賞典を見てもらう。……ちょいスタートから飛ばすぞ」
モニターに再び京都大賞典の映像が映される。序盤ですっ飛ばしてとんでもない差をつける、その部分を名入は早送りで飛ばし、向正面の半ば辺りから再生速度を等速に戻した。
ドロップスティアーは目を見開き、モニターを食い入る様に見る。名入が何を考え、セイウンスカイが何をしたのか。その正しい答えを見極める為に、まばたき一つせず。
そして、見た。
「よく見ろ。この辺、淀の坂辺りのコイツの走りだ」
「……お……
「そう。コイツ、
そしてその答えは、しっかりと見れば一目瞭然だった。淀の坂の上り、終わり際。
最長たる淀の上り坂を走っている最中、セイウンスカイは
「このペースダウンによって、セイウンスカイがつけた二十バ身とかいう差は一瞬で詰まった。だがここでじっくり
「……とんでもない事しますね、セイちゃんさん……」
「マジでトンデモ度胸だと俺も思う。これで分かったろ、アイツは気性で逃げてるんじゃなくて、勝つ為の手段として逃げを選んでんだ。こんなんに一発勝負で逃げ切れるワケねーよ」
”トリックスター”の最大の
大逃げの極意は、途中で息を入れる事である。セイウンスカイのやった事は確かにそれに近しいが、それはあくまで平地のコーナーや向正面などで最小限の減速に留めながらやる事であり、脚を緩めて深呼吸する事とはまるで違う。それでは、折角の大逃げにブレーキがかかる。
坂を走りながら息を入れる事は難しい。走る事で脚に負担がかかっている状態で呼吸をすれば、肺に力が行く。そうすれば自然と、足取りが異常に遅くなる。だからセイウンスカイは大逃げで稼いだ分の距離を、第三コーナー以降に凄まじい速度で詰められてしまった。
しかしそれでも先頭を維持し切った事で、セイウンスカイは大逃げのリードで勝ったという
「『超大差をつけて途中バテました、でもなんとか頑張って逃げ切りました』。セイウンスカイはそんな風に、自分は大逃げが出来るとアピールした訳だが……コイツの大逃げには、二つの意図があると睨んでる」
「……二つの、意図?」
「一つ目。『菊花賞でもしかしたら自分は大逃げするかもしれません、ご注意下さい』って周りに主張する事。実際にメジロブライトに勝ってる以上、このメッセージ性は絶大だ」
セイウンスカイの大逃げ。彼女らしいと言えばらしい、しかし彼女らしからぬパワープレイに対し、名入は当時ひたすらこのレースを見返し、過去の記録も見て、分析を重ねた。
大逃げという作戦は、とっておきのジョーカーだ。今回の作戦であるドロップスティアーの逃げに等しい、一度目に絶大な効果を発揮する隠し球。しかしセイウンスカイは、京都大賞典でメジロブライトに勝つ為にそれを使ってきた。
通常の逃げでも『まぁ分が悪い』程度までにはメジロブライトに拮抗出来るだろう彼女が、大逃げという策を使った。その意図を名入は、
「二つ目は、
「はい?」
「アイツ、お前の事意識してんだろ? ダービーでもお前のブロック、結構大袈裟に加速して躱してたからな」
そして名入は閃いた。この大逃げは、
ダービーの時、セイウンスカイはドロップスティアーのヤマ勘ブロックのフェイント――実態は無思考状態で『コレどうですかね』と動き、途中でやめただけ――に対し、早めに加速して逃れた。
対策を考えていたから、ハメられる前に躱した。それはつまり、ドロップスティアーの技を意識的に危険視している、という事である。
「さっきも言ったが、菊花賞のスタート位置は坂から始まる。このスタートから坂を上り切るコーナーまでの間だけ、お前は間違いなく無敵だ。……じゃあ、どうやってお前のあの悪質ブロックを回避すりゃ良いよ?」
「スッと流れる様に自分の事ディスるのやめましょうよ。んなモン、スピード上げて追い抜きゃ良いじゃないですか。セイちゃんさんに速く走られたら、自分もブロックなんて出来ません」
「
「――あっ」
ドロップスティアーは自分の技を、特に”五つの武器”の弱点を良く理解している。悪知恵によってレースの場に落とし込んでるだけで、これらは何のデメリットも無い必殺技では無い。
ヤマ勘ブロックの弱点は、される前に避ける事。スタートからブロックまでのレーン移動の間、自分と同速以上で走る相手に対して使えば、普通に斜行として取られる技である。
この技は先行策を潰す技でありながら、最初から自分より速く逃げる相手には届かず、当ててもたった一人のマーク相手しか落とせないという、重大な欠陥と弱点があった。
とはいえ、スタートダッシュが速いドロップスティアーに対して初っ端で並びかけるのは、それだけで序盤に脚を無駄に使う。それを割り切れるのは、
「お前のこれまでの戦法は、ハナ取ってから追込までペースダウン。その過程で決めたマーク相手にちょっかい出して、序盤のどっかを荒らす。そうセイウンスカイは予想してる、だから
そして菊花賞の展開を想定した時、ドロップスティアーは極めて厄介な存在と化す。誰よりも菊花賞のスタート地点で強いウマ娘が、先行策殺しの手札を握っている。逃げウマ娘であるセイウンスカイは、それを何よりも警戒しなければならない。
スペシャルウィークやキングヘイローにマークしてくれればそれで良い。しかし希望的観測はレースにおいて最もやってはいけない事だ。常に最悪の事態を想定しなければ、相手の動きを読み切れない。
「コレを京都大賞典で試して俺に見せた事が、アイツの最大のミスだ。……菊花賞当日、セイウンスカイは大逃げのスピードで最初のコーナー取って、お前のマークをスペシャルウィークかキングヘイローに
「……そこまで断言しちゃって大丈夫なんです? これで当日読み大ハズレしちゃったら、トレーナーさんすっごいマヌケですよ? 未来永劫ばかトレーナーさんって言いますからね?」
「だあほ、言っただろが。セイウンスカイと俺には共通点があるから、考えが読めるって」
当日のレース展開を未来予知でもする様に、自信満々に言い出す名入。その自信溢れる姿は、ドロップスティアーには死亡フラグをぽこじゃか生やしている様にしか見えなかった。
名入の読みはデータ的な予測であり、絶対では無い。直近ではキングヘイローとセイウンスカイが出走するレースを読み間違えるという超大ポカをやらかしたし、ダービーでも展開の予測が出来ず無手無策の勝負になった。
言ってる事の大体は信用出来るが、肝心な所で読み違える。そういう割とマイナス気味のイメージを担当から抱かれている事も知らず、名入は”共通点”を根拠として主張していた。
「そこまで言う”共通点”ってなんです? セイちゃんさんが相手調べて作戦立てて走ってるのは分かりますけど……トレーナーさん、セイちゃんさんが京都大賞典に出るのも読めなかったじゃないですか。もう勝負付いちゃってますよ」
「うるせー何度も痛い過去を掘り返すなやぁー! ……俺とアイツの共通点はそういうのより、もっと根本的なトコだ」
「はぁ」
何言ってんですかねこの人。二度言った事を三度言うのはめんどくさかったドロップスティアーは、心の中でボヤくに留めた。
作戦を考えてレースに挑む思考力。一見してそれぐらいしか、名入とセイウンスカイを繋げる所は無い。名入は性格が悪く、可愛げが無く、穏やかさが無い。凄まじく似てない。
やっぱりセイちゃんさんへの名誉毀損で訴えよっかな。そう思うレベルでドロップスティアーは名入の言い分に疑問を抱いていた。
――しかし。
「俺らのダービー前の作戦会議の事は覚えてるか?」
「また藪から棒に話をすっ飛ばしてきましたね……。レース当日はノープランとかいう、トレーナーさんのばかトレーナーさんっぷりが発揮された時の事です?」
「……言い方は気に食わねぇが、全く反論出来ねぇ……いや、それは良い。あの時、俺はこう言った。『お前が居るせいで予想が出来ん』って」
「あー、そんなん言ってましたね。あっはっは、アレめっちゃウケましたよ」
唐突に話題が明後日の方向へぶっ飛んだ。ダービーの作戦・プランXという、名入最大の汚点。最悪の作戦だったと自省しているが故に、名入は罵倒を仕方なく受け入れた。
だが、今回名入が言及したかったのはそんな作戦ミスの事ではなく、
「バカみたいな事ばっかやるお前の走りは予想出来ん。つまりお前は
「あの、仮にも自分トレーナーさんの担当ウマ娘ですよ? なんで敵扱いするんです?」
「そこは置いとけ。……だが今言った通り、セイウンスカイはお前が居るだけで作戦が大きく制限される。つまりセイウンスカイにとっても、お前は最悪の天敵として見られてる訳だ」
「え゛っ。普通にイヤなんですけどそれ、何ですかその認識」
”天敵”。ドロップスティアーというウマ娘は、データに無い事をやらかす。前例の無い技を使う。即ち、どう走るのか一切合切予想が出来ない。
純粋な強さで捻じ伏せられるならばそれで良いし、キングヘイローは実際そうした。しかしセイウンスカイには、キングヘイローの末脚が無い。一度ドロップスティアーの妨害の的となれば、まずスペシャルウィークとキングヘイローのどちらかに負けてしまう。それはダービーにおいて証明されてしまっていた。
故にセイウンスカイはドロップスティアーを天敵と思い――名入もまた、このウマ娘の事を自分の天敵と思っている。
「分かるか? お前は、
「……あの。”達”、って……?」
「俺とセイウンスカイに決まってんだろ」
「マジでおかしくないです? なんで担当そっちのけでセイちゃんさんの味方みたいな口ぶりしてんです? いかに穏やかな自分でも、怒りによってなんかが目覚めますよ?」
ドロップスティアーが天敵であるという認識。それこそが二人の”共通点”だった。
実戦で何するか全然読めない。読めない以上、目の前にある判断材料で考えるしかない。そして放置すると、作戦の邪魔になる。強い弱いでは無く、純粋に相性が悪い。
そういう意識を、名入とセイウンスカイは揃ってドロップスティアーに抱いている。
そして、だからこそ。
「お前は俺の天敵で、同時にセイウンスカイの天敵だ。つまり、俺は
「え、えぇー……?」
「俺はお前と契約する時、『スカウト出来なかったらセイウンスカイにするつもりだった』って言っただろ? 俺はこの”黄金世代”の中で、セイウンスカイを一番評価してんだよ」
それは、一つの事実。名入は契約当初、セイウンスカイが欲しかった。
逃げという戦法を”しなければならない”では無く、”選んでいる”という冷静さと思考力。レースの末脚勝負という一般的なセオリーを、逃げで破れる実力と策略。
実際名入は、朝日杯でグラスワンダーのレコード勝ちを見た後にも『セイウンスカイと交換してほしい』と、担当の目の前でド失礼にぶっちゃけていた。それ程までにセイウンスカイというウマ娘は、この世代の中では最も名入の理想に近いウマ娘なのだ。
「俺はセイウンスカイの考えが読める、つまり
「ウマ娘権侵害で訴えて良いです? めっちゃヒドい事言ってる自覚あります? パワハラですか、トレハラですか?」
「勝てりゃ官軍で、勝った方が正義だ。……お前、勝ちたいんだろ?」
「……そりゃ、はい」
「んじゃ勝つぞ。
”トリックスター”・セイウンスカイ。世代最強の逃げウマ娘。
ドロップスティアーは純粋な能力では劣る、しかし相性では勝る。そしてレースの読み合いにおいて、鏡写しの様な存在である名入という手品師――というか、詐欺師がここにいた。
故に、セイウンスカイの
「俺がセイウンスカイの立場で、作戦通りスタートでもつれ合った展開になれば、次にこう思う。『コイツは阪神で予習したけど、京都第四コーナーは未経験。不慣れな逃げで突っ走れば、下りの速度で膨らむ。それが隙になる』」
「超具体的な読みですね……」
「セイウンスカイはお前を
名入はこのレース、セイウンスカイの思考を詰将棋の様に読む事が出来る。ドロップスティアーがまともに走れる事になった事で、
ドロップスティアーの走法の完成により、
セイウンスカイの強さは、レースにおける思考力だ。だがそれはつまり、
「一旦まとめるぞ。レース開始直後、第一フェイズ。まず絶対にアイツの大逃げより速く坂上って、インを完璧に締めろ。そして第二フェイズ、セイウンスカイの並走に付き合って、下り終わった直後のコーナーで
「は?」
「お前は普通に走れる様になったが、セイウンスカイを相手に逃げ切るにゃ地力が足らん。逃げ対逃げは、グーの硬さを競うジャンケンぐらい不毛だからな。だから二つ目のコーナー終わりでイン空けて、
「え゛。いやそれ、どうやって勝つんです? セイちゃんさんに一回前取られたら、勝てる気しないんですけど」
最初に先頭を奪い、しかし二つ目のコーナーでは逸走してセイウンスカイに先頭を奪わせる。一見して逃げの作戦とは思えない、正気を疑う事を名入は指示した。
だがしかし、これこそが
「この第二フェイズ、セイウンスカイがお前の前に立った時。その瞬間、ようやく”三強”に勝つ為に考えついた俺の秘策、
「――……はえっ?」
そう言って名入は、
え、今までのこの長話、全然本題じゃなかったんですか。そんな本音も口に出せず呆けるドロップスティアーへ、名入は悪党面全開の笑みを浮かべる。
セイウンスカイ相手に逃げでは勝てない。その上で、スペシャルウィークとキングヘイローにも勝たなければならない。
この超難問を解決して勝つ為の秘策。それを、名入は説明し始める。
「良いか、よく聞けよ。”三強”に勝つ作戦ってのはな――」
◇ ◇ ◇
同じ
敵に回しても味方に回しても厄介なのが、この主人公です。