菊花賞のホームストレッチ・中団。初っ端から大逃げで飛ばすセイウンスカイ・ドロップスティアーの二人により、ウマ娘達はペースを乱されていた。
レースというのは最終的には末脚勝負であり、どんなウマ娘もレースの最初は控える。最初から全力全開で走ったウマ娘は最後には脚を使い切り、マラソンでバテた様にスローダウンして惨敗する。
先頭に立って何十バ身と差を付けても、普通なら最後に自滅。それは中央のレースに出るウマ娘なら、殊更GⅠに出る様な猛者であれば語る常識ですら無い。
道中のペース管理はレースにおける最重要事項――だからこそ、今。走るウマ娘達は、困惑の中にあった。
(どういうペースで逃げてんのよ、アンタら!)
(保つ訳無いでしょ、ここ京都なのよ!?)
先行するウマ娘というのは、逃げをペースメーカーとして速度を七・八割程に合わせて走るのがセオリーだ。比較的長い脚を使える先行脚質は、最後のポジション取りで内を取る事を考えて前寄りに位置する。
後ろから来る差しの末脚の鋭さに対し、先行は前が塞がれない内側の経済コースで対抗する。その上で前残りのスローペースを狙う逃げに、ペースを落とさせない様に追い立てる。
しかし、菊花賞という長距離レースで最初から後ろをガン無視し、大逃げで先頭を闇雲に奪い合っている様なセイウンスカイとドロップスティアーを見て、先行のウマ娘達は脚を抑えざるを得なかった。
(あの変なのが作ったペースに引っ張られたらダメだ……!)
(あの変なの、この土壇場でまた変な事やりやがって……!)
誰もが思う”変なの”。レースにおいて有り得ない、良く言えばオンリーワンの、率直に評価すれば極まった変人であるウマ娘、ドロップスティアー。
このウマ娘の驚異は、狙ってレース展開を荒らす事だ。彼女が出るレースで一着を取れた一番人気のウマ娘は、”黄金世代”のみ。世間の大多数に何を言われようが、恥知らずの異端戦術を続ける彼女は、
これまで変則的な追込策によってレースを荒らしてきた彼女は、今度はこの菊花賞という大一番で大逃げをかました。逃げと大逃げの違いなど、いつも先行のポジションで走るウマ娘はすぐに気付く。
そして、揃って思った。
((セイウンスカイの京都大賞典に引きずられてる……!))
それがこの菊花賞で今、ウマ娘達が共通して確信している考えだった。
ドロップスティアーはどういうつもりか知らないが、今回逃げた。そしてそれからセイウンスカイは先頭を取ろうと、そして第四コーナーで奪う為に競りかけ続けた。
その上で、二人はホームストレッチに入っても落ちてこない。完全な逃げ合戦、超ハイスピードの消耗戦。それを見たどのウマ娘もが、セイウンスカイの京都大賞典を想起させられる。
だがあのレースは2400メートルで、セイウンスカイがメジロブライトに勝ったのもギリギリのクビ差だった。最初の二十バ身という差を考えれば、どれだけ大逃げという戦法が脚を使うハイリスクな戦術か、それが強い印象として残っている。
これはセイウンスカイのトリックの思い通りではあったが、ともかくとして。二人の大逃げ合戦に付き合っていられない、そう考えた他のウマ娘達はペースを抑えていた。
(――ドロップスティアーさんが何考えてるのかはともかく……このまま走ってたら最後まで保たないのは確か、でしょうね)
そして中団のおよそ七番手。キングヘイローもまた、似た認識で走っていた。
彼女は一度、セイウンスカイと逃げで戦っている。そしてそれ故に、自ら末脚切れを起こしてしまったのも忘れられない記憶の一つだ。セイウンスカイと逃げで戦うという不利を一番知っているのは自分だ、そうキングヘイローは考えている。
ドロップスティアーの奇策とセイウンスカイの
(差し勝負なら、スペシャルウィークさんに捉えられる)
自分の自慢である末脚。しかし京都新聞杯では、それを後ろから差される形で打ち破られた。
少なくともこの京都のミドルディスタンス以上では、スペシャルウィークの末脚の長さと鋭さに勝てない。だからこうして彼女より前を取って走り、最後のポジショニングに備えて優位をキープし続ける必要がある。
(まだレースは1000メートル、今は無理する所じゃ無いわ。……二周目の坂からが、本当の勝負よ……!)
キングヘイローは先頭を走る二人から目を切る。あの二人の思惑に付き合っていては、身が保たない。それはレースでも日常でも全く変わらない事実である。
迷わない。迷えば、脚が乱れる。乱れれば、勝てない。神戸新聞杯で勝った時と同じ様に、自分は自分の走りに徹すれば良い。レースにおいて信じるべきは、己のみ。
今度こそ勝つ。絶対に負けない。勝つのは、このキングヘイローだ。
(――速い……いや、速すぎる……!)
一方、スペシャルウィークは十一番手の辺りで控えつつ、前方の様子を観察していた。
現状のバ群は、いつも以上に縦長に伸びている。前方を走るウマ娘達は全員が前に出たり後ろに控えたりと、まるで横に広がっていない。長距離レースは縦長の展開になりやすいモノだが、今回はその比では無いとスペシャルウィークの視点からは見えていた。
ここからでは最早見えない程遠くで、セイウンスカイとドロップスティアーが競い合っている。未だ自分が見える中団まで彼女が落ちてこない事から、その事実だけは確信出来た。
(揺れちゃダメだ……じっと、じっと溜める……!)
焦りで前へ行きたがる心を抑え、その分だけ脚に熱を溜める。最後の最後、全てを抜き去る為に。
自分の憧れはサイレンススズカだ。だがその憧れは大逃げという戦法ではなく、走る在り方にある。それはつまり、自分の走りを迷わず信じて最後まで貫き通すという姿勢。
自分は自分のままでいい。先頭の二人も、キングヘイローも、他のウマ娘も。周囲の状況をあるがままに受け入れ、感じたまま走る。それが自分だ。
(――……)
大逃げという作戦に思う所はある。先頭で競り合う二人の思惑も気になる。前を走るキングヘイローへの警戒もしなければならない。
その上で、スペシャルウィークは何も考えない。あのダービーの時、確かに見出した自らの限界の境地。あれに辿り着く事を理想とし、スペシャルウィークは息を吸って無我となった。
◆ ◆ ◆
(――完っ全に、コピーされてるなぁ……)
第一コーナー。他のウマ娘達の思惑を完全に無視し、セイウンスカイは自分の作戦の通り、楽に
大逃げから溜め逃げへの移行。坂でやらない分、このペースダウンは更に巧妙に出来る。事実、後続のウマ娘達は自分の走りに合わせ、距離を詰めてこない。既にペースは、通常の逃げぐらいには落ちているにも関わらず。
この策は、京都3000メートルというレースの正しいペースが誰にも分からない事から成立している。完全に同条件のレースはシニア級にある万葉ステークスのみ、近い条件のレースは天皇賞・春。故に誰もが、このレースの正確な走り方を知らない。
そういう前提があったからセイウンスカイは、最初の大逃げによって全体のペースを更に困惑させられる――筈だった。
(随分こっちを信頼してくれちゃってまぁ……ちょっとぐらいこっちが間違ってるとか思わないのかね、全く)
しかしこのレースにおいて、たった一人だけが正しいペースを確信して走っている。
それは先頭を走るセイウンスカイではない。京都大賞典を作戦勝ちしたセイウンスカイとて、初めての二度の淀の坂越えは怖いし、自分のペースで最後まで保つのかという迷いはある。
故に今、完全に走るペースが正しいと信じているのは、セイウンスカイというペースメーカーを一切疑わず信じて追走している、ドロップスティアーただ一人である。
(その上で、インの攻め方は向こうのが上、か……どういうトレーニングしたら、ここまで別人になるんだか……!)
コーナーを走る間なら、斜め後ろに顔を向けると背後のドロップスティアーの様子が見える。そこには、自分よりも内ラチギリギリを走るドロップスティアーの姿があった。
逸走癖の追込ウマ娘とはなんだったのか。一ヶ月半前の神戸新聞杯ではそれまでと同じ走りだったのに、このコーナリングの練度は豹変という次元ですら無い。
なんでずっと逃げで走っている自分よりコーナーが上手いのか。ピッチ走法だからといって、これだけ変わるものなのか。その疑問に対しても、楽に走れている今のセイウンスカイは自ら答えを出した。
(重バ場でやってたアレか)
退化ピッチ走法。キングヘイローを一度破った、彼女の常軌を逸した最内突き。
キングヘイローの情報を集めていた時に見たアレは、重バ場だからこそ出来た技術だった。だが今、何らかのトレーニングを積んだ事で、それが普通に出来る様になった。そう考えるべきだろう。
(……その程度で私に勝てる、なんて思ってないよねぇ?)
だが、それは小手先の技術だ。そもそも今、先頭の内側を走っているのは自分の方である。
確かにコーナーは内側を走る程有利に働くが、どちらも内を走っている以上、これにより発生する走行距離の差は限りなくゼロに近い。どれだけインを攻めようが、逃げ同士の場合それだけでは優位とならない。
序盤の逃げ――二つ目のコーナー終わりまで先頭を取られ続けたのは確かに痛い。最初のみの大逃げという策に対し、ヤマ勘ブロックという見せ札が外側を走らせるという、こちらの誤算に繋がったのは事実だ。
しかし今、先頭を取っているのは自分であり、ペースを握っているのも自分だ。同じ策を取っている以上、どこかで追い抜きにかかるのは確かである。そしてそのタイミングは、
(狙いは最終コーナーでしょ)
冷静に頭を回しながら、そのままセイウンスカイは悠々と第二コーナーも抜けていく。後ろにぴたりと付きつつも、向こうにとっては走りやすいだろう一バ身弱の間隔を取られている状態。ここでセイウンスカイは、彼女が言う所の”勝負所”を想定した。
セイウンスカイとドロップスティアー、この二人の差異。自分達の能力を客観的に考えた時、三つの部分においてセイウンスカイは彼女に劣っていると考えている。
一つ、坂の強さ。二つ、末脚の長さ。三つ、最終コーナー。特にこの三つ目こそが、最大の狙い目であるとセイウンスカイは睨んでいた。
坂で強いからと言って、逃げのペースのまま上りで追い抜きにかかる事は厳しい。向正面中間から始まる淀の坂からゴールまで、およそ1200メートル弱。こんな所から仕掛けて保たせられるのは、かつて伝説的な追込によって三冠を取ったウマ娘、ミスターシービーぐらいのモノだ。
同じ逃げ・同じペースならば、最終直線で負けない自信はある。差を付けるなら、最終コーナー――鋭角コーナリングによる追い抜きだ。
(アレはいつも大外からやってる分……インからならもっと鋭くなる、よねぇ)
彼女の最大の武器・鋭角コーナリング。これは大外捲りの為の技ではあるが、イン側から使えない道理は無い。
鋭角コーナリングによる追い抜き。こればかりは、セイウンスカイには止めようが無い。簡単に対処出来る代物では無いからこそ、あの技は武器として成立してきたのだ。
鋭角コーナリングを事前に防ぐ方法は二つ。直線まで何もしない事か、最初からコーナーで大外に出ておく事。だが、これはあくまで大外捲りで使われる事を前提にした対策であり、セイウンスカイ一人しか壁が無い様なこの状態ではどちらも無意味な仮定だ。
京都外回りの最終直線・400メートルという長さも踏まえれば、最終コーナー終わり際でスパートをかけながら鋭角コーナリングで追い抜くのが、最も効率的な末脚の使い方だろう。そうセイウンスカイは予測した。
(……結局地力勝負、か……どこまで脚を温存出来るか、だね)
最終コーナーで抜かれると仮定すれば、こちらの勝ち筋は最終直線である。
逃げながら末脚を残すという勝ち筋は、間違いなく自分の方が慣れている。末脚の長さはともかく、トップスピードでドロップスティアーに負ける気は全くしない。
強いて言えば自分のダービーでの負けに繋がった、震山脚とか呼んでいるあの技は怖い。しかし一応対策は考えてある。それは、
バスケで言う所のブザービーター。自分の末脚のフルスピードをゴール直前に振り絞り、彼女の技を受けても問題無い勢いのまま差し切る事。
向こうはこちらの作戦に相乗りし、邪魔をしてこない。ならば自分は、末脚を好きに残せる。スペシャルウィークとキングヘイロー、この二人に勝てるだけのリードと末脚を最後まで持ってきて、ドロップスティアーを差せる様に上手く使い切る。
(二周目――さて、気合入れないと、な……!)
マークが厳しくなる事も無く、セイウンスカイはそのまま向正面を走っていく。この時点で後続は思い通り、大逃げしていると思っている自分達から大きく距離を取っていた。
しかし、後ろが静か過ぎて怖い。ドロップスティアーという最恐のマーク屋がそこに居るのに、自分は今何も走りに影響を受けていない。しかしいつ仕掛けられるとも分からない、楽に走れている今の内に、淀の坂に備えて息を入れるべきだ。
そう考え、上り坂に入る前の平地でセイウンスカイが息を入れようと――
《おっと、ここで
「――はぁっ!?」
思わず斜め後ろを見る。
バカな。こっちの作戦に乗って、こっちのペースで走るつもりじゃなかったのか。淀の坂手前、残り1200メートル。この状況で自分という風除けから外れて、一人分横に出ている。
こんな地点で仕掛ける意味など無い。いくら坂に強く末脚が長いからといって、逃げのペースで脚を使いながらロングスパートが出来る訳が無い。
スタミナが有り余ってるから、ここから仕掛けていいと判断した? 坂を上る事を苦に思わないから、この時点で先頭を取り返しに来た? セイウンスカイの思考が、錯綜する。
だが、ここで先頭を取り返すのは
《セイウンスカイのすぐ斜め後ろに付きましたドロップスティアー、しかし前には出切れない! セイウンスカイ、先頭を譲りません!》
(当たり前だってーの……!)
少しずつ位置を押し上げてくるドロップスティアーに対し、セイウンスカイは完全に不意を突かれたが、自分のペースを守りながらでも先頭を走り続けていた。
そもそも斜行というルールが存在する以上、直線を走る最中に前に立って追い抜くには、二バ身以上のリードを取らなければならない。その上、背後から横へと出れば、風除けを失い相対的に失速する。
セイウンスカイは現在ペースを落としているとはいえ、それでも逃げは逃げだ。このペースの最中に速度を上げても、先頭は取り切れずに第三コーナー以降で外を回らざるを得ない。
マークで追い立てない、風除けも捨てる、自分からペースを上げる。これまでの作戦をいきなり捨てる様な暴挙にセイウンスカイは目を取られ――
◆ ◆ ◆
「――かかったな? セイウンスカイ」
「へっ?」
「ハッ、分かるワケが無いよなぁ、
「……何を言っている、名入トレーナー?」
「さっきの答えを教えてやるよ。アンタらも見抜けないだろうっつった”罠”だが……正確に言えば、
「ど、どういう事なのさ……?」
向正面中間、セイウンスカイの斜め後ろにドロップスティアーが出た瞬間。名入は頬を吊り上げ、独り言ちた。
トウカイテイオーとシンボリルドルフは、ドロップスティアーの動きの意味が分からなかった。さっきの名入の説明では、彼女はセイウンスカイを風除けのペースメーカーとし、逃げながらスタミナを温存するという策を取っていた筈だ。
にも関わらず今、余りにも早く横へ出て仕掛けた。いかにスタミナがあって坂に強いと言えど、ここから仕掛ける事はロスにしかならない。
「さっき言ったな? アイツはミホノブルボンとは本質的に違うウマ娘だ、って。……なら、中央から見て。アイツに一番近い
「なに……?」
「中央最強のマーク屋。それはこの淀の坂っつー険しいコースを越え、
「……ブルボンとマックイーンに勝った、マーク屋……」
今のドロップスティアーは、セイウンスカイの斜め後ろに付いている。風除けを失い、
名入の言葉を聞き、シンボリルドルフとトウカイテイオーはその形勢を見て。そして、これと同じマークの形を取ったウマ娘の走りと存在を思い出した。
「――
「そうだよ、皇帝サマ。アイツは育ちはミホノブルボン・性質はライスシャワー。俺がかつて理想としたウマ娘二人を足して二で割った様な、そういうウマ娘だったのさ」
”黒い刺客”・ライスシャワー。菊花賞と天皇賞・春――つまり、この京都レース場で幾度もの死闘を制したステイヤーにして、本命に張り付いて差し切るマーク戦法を使うウマ娘。
そしてドロップスティアーは、相手を脅迫する程追い詰める究極のマーク屋だ。坂を走る力と、マーク技能。その二つが、ドロップスティアーというウマ娘が”黄金世代”に対抗出来る個性。
そして、その二人とも違う”ドロップスティアー”というウマ娘だからこそ
「……レースは最終直線が本番、そりゃそうだ。だがよ、セイウンスカイ。
◇ ◇ ◇
「――ところで、トレーナーさん。その作戦なんですけど、ちょっと言いたい事あるんですが」
「あん? なんだ、また新しい変な事閃いたのか? この作戦でいつもお前が言うバカ発想は計算外だぞ」
「いえ、そうじゃないんですけど……この作戦、こういう事も出来ません?」
「は?」
それは、菊花賞での名入の全ての作戦説明が終わった直後の事。ドロップスティアーはこの作戦を遂行する上で、一つ追加出来る策があると考えていた。
ペンを名入から取ったドロップスティアーは、ホワイトボード上の京都レース場の向正面地点にペン先を向けた。
「この作戦、最初に大逃げペースでセイちゃんさんの前取るじゃないですか」
「ああ。出来ねえとは言わせねえぞ、上りはお前の専売特許だろ」
「高低差4メートルだろうが200メートルだろうが、坂なら負けませんよ。……そうじゃなくて、菊花賞ってコースを一周半回るレースですよね? ここスタートで」
名入が最初に描いたスタート地点の線。そこにドロップスティアーはペンを置く。
プランSは最初に大逃げをするセイウンスカイよりも速く、第三コーナーへの上りを駆け上がる事を前提とした作戦だ。ドロップスティアーとしても、このスタートから第三コーナーまでの間だけならば、シンボリルドルフやサイレンススズカにも勝てるという自負がある。そしてその後ボコボコにされるまでがセットだろう。
それはどうでもいいが、この
「トレーナーさん。ずっと昔にやってた戦法あるじゃないですか。プランAとB」
「……ん? あぁ、東京の1800と2000限定の作戦か。アレがどうした」
プランA・B。それはドロップスティアーがダービーに到るまで勝つ為に考えた、逸走策を用いた立地限定の作戦である。
これを使えるのは、東京レース場の最初のコーナーがその二種の距離・立地において近かったからだ。実際、青葉賞・ダービー・神戸新聞杯と、普通のレースであれば使えなかった。そういう、前提からして走る場所に左右される作戦だった。
「プランB。確かアレ、最初のコーナーを最初に抜けて、自分のパワーでバ場を荒らす、ってヤツでしたよね」
「……? それがどうしたよ」
「で、で。自分の跳ねるピッチ走法自体は、まだ残ってるんですよね?」
「ああ。アレはお前の習性みたいなモンだからな、坂とか最終直線とかなら自然に出るだろ、ロスが減ってるだけで」
プランB・超速攻戦法。誰よりも速く最初のコーナーに突っ込み、鋭角コーナリングで最内を踏み荒らし、ついでに向正面の入りも潰すという戦法。
これは彼女のピッチ走法の有り余るパワーだけが成せる、相手より劣る分だけ自分の有利な消耗戦に持ち込む作戦なのだが――
「これ、使えません?」
「あん?」
「この向正面の坂。自分が突っ走ったここ、
ドロップスティアーはスタート地点から第三コーナー、向正面途中から始まる淀の坂の直線部分にびーっと線を引く。
上り坂でのスタートダッシュであれば、誰にも負けない。それこそ絶対に、セイウンスカイより速く先頭を奪いながら坂を駆け上がれる自信がある。
「どんだけ良バ場でも、菊花賞は後半開催で、ここ二回通るんでしょ? ……そんなイン側を自分が走ったら、
◇ ◇ ◇
「うげぇっ……!?」
斜め後ろに付いたドロップスティアー。それに一瞬注意が取られたセイウンスカイは、淀の坂を上り始めると同時に、その異常事態に気付いた。
露骨に凹凸が激しいターフに、セイウンスカイの脚が取られ始めた。
(ひっどい荒れ方……! こりゃダメだ、横に逃げなきゃ――)
セイウンスカイはこれがドロップスティアーの、誰よりも歩数とパワーがある彼女の足跡による被害であると一発で見抜く。そして、この足跡の上を走るべきでは無いと判断した。
淀の坂は400メートル近く続くのだ。そんな長く厳しい坂で、こんな滅茶苦茶な状態の場所なんて走っていられない。皐月賞では芝状態の良さを見切って勝ったセイウンスカイにとって、その判断は当然であり――
(――
今、ドロップスティアーは自分の斜め後ろに付いている。この状況で自分が内から横へ逃れようと動けば、彼女と衝突する。基本的に斜行とは、直線を走る最中ですぐ横に居る相手へ迫る事で取られる反則だ。
この淀の坂の最内は、彼女のピッチ走法で荒れに荒らされ尽くしている。狭い歩幅の傷跡がどこまでも続き、異常な脚力で芝はぐちゃぐちゃ。これではダートを走る方がまだマシだという程に、自分の走る道筋が潰されてしまっている。
しかしそこから逃げようとすれば、ドロップスティアーへの斜行となる。
この相手に不利を押し付ける手法は、レースの常識外の手口は――
(
◇ ◇ ◇
ドロップスティアーの走りの副産物。ターフを抉り、相手のコーナリングを妨害する程にバ場を荒らす、無駄なパワー。
本来これはコーナーを荒らす為に使われてきた訳だが、ドロップスティアーが全力で走るなら
しかし、長距離レースは
「まぁセイちゃんさんなら見りゃすぐ気付くでしょうし、避けようって思うでしょうけど……
「……お前が横につけば、セイウンスカイを
それは、相手が動く瞬間を狙う強制斜行とは逆の発想。
ドロップスティアーの足跡が深く刻み込まれた淀の坂という、最長最悪のインコース。それは二周目にして訪れる、
ドロップスティアーが道を荒らした事に気付くのは、その後ろを走るウマ娘のみ。つまり外から大逃げで先頭を取ろうとするセイウンスカイは、一周目に仕掛けられるこの罠を見る事が出来ない。
だが、この仕掛けには二つの問題があった。
「……確かに悪い考えじゃねーが、分かってんのか? これ、運ゲーだぞ」
「まぁ、無いよりマシじゃないです? 出来なきゃ出来ないで良いですし」
まず一つ目の問題として、この作戦は運が良くなければ成立しない。具体的には、セイウンスカイより内側の枠を引かなければならない。
流石のドロップスティアーと言えど、大逃げ上等で走るセイウンスカイの前を外側から横切りつつ、最内に辿り着いて踏み荒らす事は厳しい。極端な例を挙げれば、この策は自分が十八番・セイウンスカイが一番の枠を引いた時点で不可能となる。
あくまで元々の作戦にプラスアルファを付け足すだけであり、出来ないならそれまで。それはドロップスティアーも分かっていた。
「……面白ぇ。けど、それやんなら別のトレーニングが要るなー……どうすっか」
二つ目の問題は、ドロップスティアーには
彼女は確かに脅迫マークという異常極まったマーク技術を得意とするが、
なので、これを可能とすべく相手の横に付くマークを覚える必要があるのだが――
「ふふん、そう言うと思いましたよ。自分にいい考えがあります」
「あん?」
それに対する解決策として、ドロップスティアーは自慢げに自分の
一体何を見せるつもりだ。名入がそう思い、その画面を見ると。
「……マジ?」
「いやまぁ、自分でもダメ元とは思ってますけど」
そこには、一つの連絡先が映っていた。表示名は、”
ドロップスティアーはライスシャワーのレース運びを知っている。レースにおけるマークの経験においては、中央でも上から数えた方が早いだろう一流のウマ娘。そんな彼女直々に教えてもらおう、というのがこの策のトレーニング法だった。
「あのー、もしもし、ライスさん? そのー、えーと……すっごい迷惑ってわかってるんですけど……菊花賞までのトレーニングで、教えて欲しい事があって……出来れば、ホンット出来ればで良いんですけど、それまで併走とかお願い出来ませんかねー……なーんて……」
『えっ? ……うん、良いよ?』
「――ふえっ?」
『ライスにとっても、菊花賞は思い入れがあるレースだから。……それにライス、前に言ったよ? 出来る事があるなら力になる、って』
「……ラ゛イ゛ス゛さ゛ん゛っ゛……」
『どこから声出してるのそれ!?』
そしてダメ元でライスシャワーへ連絡してみれば、二つ返事で受け入れられ。
こうしてドロップスティアーはライスシャワーへの信仰値を天空の上までぶち上げながら、彼女のマーク技術を直々に教えてもらう事になった。
◇ ◇ ◇
「――アイツにとって、ライスシャワーとの併走は最高の効果だった。アイツやたらライスシャワー神格化してるからモチベ常時高かったし、元々背面マークとかいう難しい方のやり方を覚えてた分、技術の吸収も早かった」
セイウンスカイが淀の坂に苦戦する様子を見ながら、名入は当時を語る。シンボリルドルフとトウカイテイオーは、ある意味彼女らしい発想の”罠”の効力をまざまざと見せつけられていた。
この関係者席からだと、バ場状態はハッキリとは見えない。しかし、セイウンスカイの脚色が露骨に乱れているのは分かった。
そしてこの形は風除けを失ってこそいるが、
「……コーナーじゃなく直線を走る分には、内も外も距離差は無い」
「で、インを走らされてるセイウンスカイの方は、ティアが作った悪路で脚を消耗する、ってコトかー」
「その通り。で、この坂上り終えてコーナー入りゃ、アイツは再びセイウンスカイの後ろに付く。ついでに言えば、今アイツらはペースを落としてる筈だ。空気抵抗の影響もちっとは少ないだろ」
「そこまで計算しての作戦だと言うのか……!?」
「いやそこは偶然だな。大分マシになったとはいえ、アイツそこまでレース的な事考えらんねぇ。”相手に不利押し付ける”っつー、アイツの悪知恵がたまたまいい感じに噛み合っただけだ」
その名入の答えに、思わず帝コンビはずっこけかける。ここまで何もかも計算ずくの作戦だったが為に、ここで単なる偶然と断言されるのは予想外であった。
だが、意図的に作った悪路を走らせて消耗させるというこの二周目限定の仕掛けは、確かに凶悪な”罠”だった。ただでさえ疲労が蓄積している中訪れる二度目の淀の坂で、一人だけ重バ場を走らされる様な理不尽。文字通り足を掬う、通常のレースでは発生し得ない状況。
「……これは、セイウンスカイには効くだろうな」
「アイツの細けぇ足跡をストライド走法で躱す事は出来ねー。そして計算通り走らせてくれるかと思いきや、警戒してた後ろのバカじゃなく
「キミ、それやらせてる張本人じゃなかったっけ?」
「勝つ為だからしゃーない。……さぁて、セイウンスカイ。ライスシャワー直伝の姿を見せるマーク、その圧力は本人からのお墨付きだ。逃げてる所悪いが、お前に逃げ場はねーぞー?」
ドロップスティアーのみが仕掛けられる、二周する長距離レース限定の罠。それはライスシャワーという一流のウマ娘の献身的な手ほどきによって、悪辣な地雷へと昇華した。
この関係者席という場所からは絶対に分からず、実際に走る者にしか見えない罠。自分の同類たるセイウンスカイの気分を他人事として想像しながら、名入はにやけてその様を見物した。
◆ ◆ ◆
(サイッアクだよっ……!)
セイウンスカイは本来理想とされる最内のラインを走りながらも、最悪の気分だった。
ただでさえ二回目の淀の坂という、誰よりも前を走らなければならない逃げウマ娘にとっては辛さしか無い場所で、一方的に荒れ果てた場所を走らされている。
その上、すぐ斜め後ろ――嫌でも視界に映り意識させてくる、そんな際どい位置をドロップスティアーは走り続けている。このライスシャワー式マークはここまでのレース運びとは全くの真逆の、存在感で圧をかける為のマークだ。
作戦通りに走らせてくれるかと思えば、いきなりコレ。予想の上というか、自分の足下からこんな悪巧みを仕掛けてくるとは思わなかった。
「いい性格、してるよ、ホントッ……!」
「あははっ、ありがとーございます!」
「褒めてないっつのっ!」
”天敵”。その認識の通り、彼女はこのレースにおいてセイウンスカイの予想を常に裏切り続けていた。
どれだけ走るのが嫌だと思っていても、坂は長く続く。第三コーナー、上り終えるまでの距離がひたすらに遠い。そう感じさせる程、自分の脚が取られてしまっている。
一方でドロップスティアーは一人だけ、ピッチ走法の強みを生かして悠々と坂を上りながら自分にプレッシャーをかけてきている。それで掛かる事はしない、だがとにかく鬱陶しい。
作戦ではこの坂を上り終えた所、第三コーナーの下りからペースを上げ、リードを守りつつ加速して逃げ切るつもりだった。だが、そこに至るまでの道程が重く、長い。
(くそっ……! コレ、
セイウンスカイは自分の脚が取られる感覚の中、このドロップスティアーの仕掛けが
今セイウンスカイが走っている最内と、そして斜め後ろに付いた一人分外側の位置。最内と内の二人分のスペースに、ドロップスティアーは自分の足跡を刻み込んでいる。
逃げという前方策を取っている以上、ドロップスティアーが作った罠は誰もが後から通る羽目になる。そして本来は有利になる筈のイン側が荒らされている事に、通りがかった瞬間に気付く。そして気付いた時には、既にその足は罠に喰い付かれてしまっているのだ。
完全に無謀に見えたドロップスティアーのぶっつけ本番での逃げは、セイウンスカイの存在を差し引いても、この菊花賞において極めて正着と言える作戦だった。
(……いい加減、割り切らないとな……)
セイウンスカイは諦めた。それは即ち、このレースにおける読みの勝ち負けについて。
逃げという先手でぶつかり合いながら、実際の思考は何もかも後手。こちらが考えてきた作戦は、何もかも読まれてしまっている。完全に利用されながら、こんな常識外の罠にもかかってしまった。
形勢は不利である。”トリックスター”として甚だ腹立たしいが、作戦では向こうの方が完全に上だ。その事実は認めよう。
――だからといって。
(それで……レースに勝った訳じゃ、ないでしょうがッ!)
割り切って、諦めて。その上で、全てを反骨心に変える。
この天敵を打ち破る、叩き潰す、捻じ伏せる。これまでの人生の中で、かつて無いと断言出来る程の敵意と闘志が、心底から込み上げてくる。
だが、掛かりはしない。ウマ娘の本能的な情動を、心に秘めて溜め込む。そしてそれを全て、最後の最後に速さという形で放つ。そういう決意を、セイウンスカイは固めた。
負けられない。こいつにだけは、負けたくない。強制的に疲弊させられる脚を動かし、すぐ近くで圧をかけている
(こんな事で――負けられるかァッ!)
歯を食いしばり、最悪の荒れた坂を上り終える。二度目の第三コーナー、淀の坂の下り始め。
心に業火の種を灯したセイウンスカイは、しれっと自分の背後に戻るドロップスティアーを確認し、落としていたペースを微加速させながら坂を下り始めた。
普通に走るだけの罠
ただ相手を真似て終わりなんて行儀良いヤツじゃないです。