ヤマ娘 ~Crazy Derby~   作:灰の熊猫

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『菊花賞/力』

「――超軼絶塵、最内突きとは。確かに、彼女のコーナリングにはピタリと合う」

「……今、ホントにイン空いてたの……? ボクでも見えなかったよ……?」

 

 消えるエッジイン。ドロップスティアーが使った、最終コーナーでの最内突き。それを関係者席で俯瞰しながら見せられたシンボリルドルフ達は、静かながらも驚愕していた。そして、大きく戦慄していた。

 シンボリルドルフはトゥインクル・シリーズの歴史に詳しい。この技を知らなかったトウカイテイオーよりも納得と理解がいき、表面上は平静さを保っている。だが、内心ではトウカイテイオーと同じく、目の当たりにした光景を信じられず動揺の中にあった。

 本当に見えなかったのだ。セイウンスカイの影と最終コーナーのラチが無くなる場所。刹那にも満たないだろう一時に空いたその間隙(かんげき)を、ドロップスティアーは全速力で突き抜けた。

 理屈は分かる。だが、アレは”絶対”に他の誰も出来ない。

 

「アンタらは知らねーだろうが、俺はアイツに歴代菊花賞の記録映像を全部見せた。全部、だ。スーパークリークだけじゃねえ。ありとあらゆる菊花賞を見せられ、アイツはずっとあの一瞬を待っていた。……一年待ってたんだ、出来て当然だぜ」

 

 完璧以上に決まった自分の最大最強の(わざ)を見て、名入はほくそ笑む。そこに心配や動揺は何も無い。出来て当然という信用をドロップスティアーに与えたのは、他ならぬ自分だ。

 菊花賞の専門家。たった一度、クラシック期に訪れるこの一レース、最終コーナーに顕れる一筋の道。”勝負所”を必ず成功させる彼女が、これを失敗する訳が無い。それこそ”絶対”に、だ。

 最内突きは極めて強力である。角度の険しいコーナーで膨らんで横に広がりやすい京都の最終直線において、一人だけ最速最短の直線軌道でスパートを始められる。単にインを突くだけではなく、誰よりも速くストレートに内ラチ側を走り始めたからこそ、かつてのスーパークリークは二着に五バ身という圧巻の差を付けて勝利した。

 

「ま、スーパークリークはコーナー曲がり切って、バ群から抜ける為にやったが。アイツのは正真正銘、()()()()()()()をブチ抜く。発想は同じでもアレは実質、アイツの専用技(オリジナル)だぜ」

 

 だが、この技の本家本元たるスーパークリークは、これを最終コーナーを曲がり切った後に使った。全員がコーナーを抜けた後の慣性で膨らんだ、その瞬間先団の中から前に出る。それが本来の最内突きである。

 しかしドロップスティアーは違う。曲がる直前、()()()()()に最短距離をフル加速でコーナーのギリギリを切り裂くあの技は、鋭角コーナリングと彼女の観察眼・勝負勘・度胸、どれか一つでも欠ければ使えない代物だ。

 この技は名入にとって、”五つの武器”などという曲芸を超えた、真の切り札だった。

 

「もうゴチャゴチャ考える事は無ぇ。あとはアイツと、”三強”の戦いだ。……セイウンスカイの策が鈍ったせいか、それともアイツらが強ぇだけか。あの二人、もうスパートかけてやがる」

 

 最内を貫いて、先頭を奪い返しながら全開で加速しきったドロップスティアー。

 一手遅れながらも、咄嗟に最良の判断で最善のラインを取ったセイウンスカイ。

 控えている先団よりも一足先に前に出て、コーナーの内を抜けたキングヘイロー。

 下りで一気にペースを上げ、最終直線より前にスパートしたスペシャルウィーク。

 他のウマ娘は、セイウンスカイの幻惑(さくせん)に惑わされたまま坂を抑えて下っていた。しかし、脚が残る様に逃げていた先頭の二人を捉えるには、既にもう距離が付き過ぎている。

 このレースの行方は、四人に委ねられた。

 

「……俺の手札はこれで全部だ。勝てよ、ドロップスティアー」

 

 名入は誰にも聞こえない程の小声で、珍しく。祈りの様に、そう呟いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「こんのぉぉぉーーーッ!」

 

 セイウンスカイは、意地と意志を振り絞り全力で脚を回していた。

 坂で加速は得られた。しかし鋭角コーナリングで外に膨らまされ、走るべきラインを奪われた。作戦その物は狂っていない、しかし序盤と最終局面で外を回らされた分のロスが大きい。

 脚が重い。作戦の上で走る筈だった最短距離よりも、さらに長い距離と重いバ場を走らされた。菊花賞というこの大勝負において、”天敵”が作ったこの想定外の負担が響いている。

 ――だからと言って。

 

(負けない、負けらんない、負けるもんかぁッ!)

 

 作戦で負けようが、策にハメられようが、予想を上回られようが。それでも、勝負はゴールするまで続いている。

 最終直線は400メートルもある。コーナーを最短で抜けながらトップスピードに達したドロップスティアーの背は遠いが、しかし離されもしない。

 差が付かない。負けてない。()()()()()()

 

「やれると、思うなぁーーーッ!!」

 

 近付く。少しずつ、近付けている。ここからゴールまで二十秒強はかかる、それまでに届かせれば良い。

 レースには近道が無い。だから自分はこの最終局面をベストの状態で迎えるべく、作戦を練ってきた。自分の作戦で、ここまで逃げてきた。

 ()()()()()()()()()。一発目の逃げなどという奇策に、本家本元の逃げウマ娘である自分が負ける訳にはいかない。その敵対心にも近い反骨心が、セイウンスカイの心を一気に燃やした。

 

「――はぁぁぁーーーッ!!」

 

 そう考えてドロップスティアーを追っていれば、後ろからキングヘイローの声が聞こえてくる。

 どうやら、自分の作戦は全てを騙し切れはしなかったらしい。普通に仕掛けるには早すぎる、そんなタイミングで後ろから彼女の圧力がびりびりと迫ってきていた。

 ドロップスティアーへの距離は、少しずつ詰められてはいる。だが、想定以上にキングヘイローが来るのが早い。目をやる余裕も無いが、彼女の末脚が自分より遅いなどという事は無いだろう。

 来る。絶対に来る。追って追われる、最悪の展開。いつもなら有り得ない状況で――()()()()()()()()()()()

 

「――やあああーーーッ!!」

 

 スペシャルウィークの声がさらに後ろ、大外側から聞こえる。外に膨らむというリスクを背負ってでも、彼女もまた直線前に早仕掛けに及んでいた。

 セイウンスカイは極限まで追い込まれていた。今先頭争いをする中で、最も余裕が無いのは間違いなく自分だ。見せかけの大逃げで稼いだリードは大きく、後ろの二人はまだ遠い。

 だが、彼女達なら届き得る。どれだけのリードがあろうが、レースにおける真の力――最終直線での末脚を、この世代トップクラスで備えている彼女達相手に、途中までのリードなど何バ身あろうが安心出来るものでは無い。

 それでも。

 

(勝つ、勝つ、勝つんだッ! ここまでやって、負けたくないッ!)

 

 重い脚を、地面で蹴り飛ばす。地面を脚で蹴るのでは無い、疲労した脚を地面で弾く様に走る。

 菊花賞の逃げは厳しい、そんな事は最初から分かりきっていた。余裕なんてある訳が無い、脚が保つ訳も無い。それでも、そんな道を選んだのは自分だ。自分が選んだ作戦(みち)なのだ。

 後ろからキングヘイロー達の足音が迫ってくる。向こうの方が速い。だが、途中に開いたリードも残っている。逃げ切るには十分だ、逃げ切れる筈だ。自己暗示の様に、走り続ける。

 

(……届くッ……!)

 

 迫る後ろを意識はする。しかしセイウンスカイは、前だけを見て走っていた。残した余力全てを注ぎ込んで、前へと突き進んでいる。

 だから、迫っていた。ドロップスティアー、自分が打ち倒すべき天敵。最終コーナーで意表を突かれ、付けられた差が、あと少しの所まで迫っている。

 ドロップスティアーの手によって極限にまで追い詰められたセイウンスカイは今、現状の自分のポテンシャルの限界を引き出していた。

 ”三強”。この世代最強の逃げウマ娘。常に作戦と技術で戦ってきた彼女の、周囲と比較する事で自覚出来なかった非凡な才能が、この限界状況において表出し――

 

「――勝つんだよッ!!」

 

 セイウンスカイの脚が、更に加速した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(ホンット、キツいわねッ……!)

 

 キングヘイローはセイウンスカイの背を追いつつも、自分の脚に限界が近い事を察していた。

 元々自分の脚は瞬発力に長けており、最後の短距離で鋭く伸びるという性質を自覚している。故にこの菊花賞というレースが、どれだけ自分の脚を摩耗させるものかは最初から分かっていた。

 それでも勝ちたかった。向いていないと理解していながら、最後の冠だけは譲りたくなかった。何度も何度も追い続けて届かなかった冠に、この脚で辿り着きたかった。

 

(私は、”キングヘイロー”なのよ!)

 

 厳しい・難しい・諦めろ。そんな幻聴が、頭と脚から聴こえてくる。

 母の声が聴こえてくる。脚の悲鳴が聴こえてくる。だが、心は屈しない。

 厳しいのも難しいのも諦めるのも、何もかも今更だ。それら全てを呑み込んだ上で、走ると決めたのは自分なのだ。何度負けても、何を言われても、何と思われようとも。それでも”キングヘイロー”が言っているのだ。

 勝つ、と。勝て、と。自分(キング)が誰よりも強く、自分自身へと命じているのだ。

 ――ならば。

 

(諦めないわ……絶対にッ!)

 

 脚に力を入れ直す。油断すれば膝から崩れ落ちそうになっている重い脚に、意志を叩き込む。

 ”一流”とはなんなのか。それを認めさせるにはどうすればいいのか。常々思っている疑問など、挟む余計な余地は現在(いま)に無い。

 ただ自分は、このレースに勝ちたいと思っている。それだけで今は十分だ。今この瞬間こそが、全てだ。

 

「負けられない、のよ……ッ!」

 

 それは誰へ言ったものか分からなかった。未だ前を走る二人にか、後ろから猛然と近付いてくる彼女にか、それとも自分自身にか。

 ただ、心が勝手にそう叫んだ。そう言いたかったから、口が動いて。そして、その叫びに呼応した脚から力が込み上げてきて。

 

「――勝つのよッ!!」

 

 キングヘイローの意地が、限界を超えさせた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(速い)

 

 スペシャルウィークは、純粋にそう思っていた。自分の脚は、確かに全速で回っている。

 届くと思った。届かないとも思った。速度では勝っている、しかし差が遠い。この感覚は、皐月賞で抱いた諦観に近いモノがあった。

 あの時、自分は不安だった。確かに全力を出しているのに、離されている様な不安を抱えたままに走り、セイウンスカイとキングヘイローに負けた。今抱いている感覚は、それに限りなく近い。

 その時と、唯一違うのは。

 

(――皆、速い)

 

 それをただ、あるがまま受け入れている事。確かに前方の三人より速く走っている自覚はある、だがゴールまでには届かないかもしれない。

 レースは甘くない。速く走れば良いだけじゃない事を、皐月賞で知った。そして勝てば良いだけじゃない事を、ダービーで知った。なら、この菊花賞で自分は何を知るべきなのか。

 ()()()()()()

 

(勝ちたい)

 

 すとんと、全てがその一心に落ちる。速く走る、目の前の三人よりも、誰よりも、これまでの自分よりも――全てよりも、速く。

 勝つ為に走れば、自然とそうなる。そうあるべきなのだと、心が言っている。何一つ考える必要は無い。この400メートルを、この数十秒を、限りなく短いレースという瞬間(いま)を。此処を走る為に、自分は在る。

 

(……勝つんだ)

 

 視界が完全に固定される。自分の前で、藍と白と緑がターフを走っている。自分の前方で、三色の星々が新緑の上を駆け抜けている。

 ならば、自分も星になればいい。あの三つを追い越せる様な、星と成ればいい。

 例えどれだけ遠く感じようと。今この瞬間、たった数百メートル。自分達は、同じ場所を走っている。同じ時を過ごしている。同じレースで競っている。

 それなら、出来る筈だ。

 

「勝つんだっ」

 

 脚に力が籠もる。心の熱が込み上げてくる。

 芝を踏み締める。自分に走れと言っている。

 三人に追いつけと。今の自分を追い越せと。何もかもを超えて――勝利へと。

 

「――勝ちますッ!!」

 

 スペシャルウィークが風を突き抜け、流星と化した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(あー……なーんか、負けそうですねー)

 

 ドロップスティアーは、笑顔を引っ込めていた。ヤマ勘が、これまでで最も強く働いている。

 逃れられぬ恐怖、三つ。最内突きという、名入と自分の真の切り札を使い、あのセイウンスカイすら超えた筈だった。それでも尚、この最終直線は長い。

 残り200メートル、まだ自分は先頭を走れている。だが十秒以上もかかるこの一ハロンがいかに長いかと言うことを、レースを知った今の自分は良く知っている。

 自分は”勝負”しか知らなかった。”レース”を知らなかった。だから、この世代で最もレースに強いだろう彼女達を相手に、純粋な競走という場所(ルール)で勝てない。今まではただ、僅かな余地に小細工を入れてどうにかしてきただけだ。

 

(負ける、のかなぁ)

 

 セイウンスカイがじわじわと迫っている。同じ逃げで、完全に不意を突いて抜いた筈なのに、それでも自分に追いつこうとしている。

 キングヘイローがやってきている。自分達の策に引っかかっていた筈なのに、それを踏み越えて自分に届こうとしている。

 スペシャルウィークが外から飛んできている。今このレースを走る誰よりも速く、”日本一”の脚が自分へと飛んできている。

 皆、皆、皆。全員、自分より速い。全力は出している、しかしそれでも届かれる。段々と大きくなる恐怖感は、それを確信してしまった。

 ――だけど。

 

(……なんで、笑えないんだろ?)

 

 ダービーの時。スペシャルウィークに差されると思ったあの時、嬉しくて仕方なかった。自分の全てを使って、それでも尚負けると確信した時、ただ素直に凄いと思った。

 楽しくて仕方なかった。ああいう勝負がしたくてトゥインクル・シリーズに来たんだと思えた。心が高鳴って、絶対に負けるという、死ぬ程の圧倒的な恐怖を覚えた。

 だが、誰よりもそんな勝負を望んでいた筈の自分が。何で今は、笑えていないのだろう。

 

『まけないで』

 

 胸に取り付けたシオンの首飾りの感触が、それを思い出させる。自分の始まり、人生と勝負の原動力。

 そうだ。自分は負けてはいけないのだ。おかーさんに言われたから、勝負所で負けちゃダメなんだ。少なくとも全てを賭けて臨んだ今、負けていい訳が無い。

 負けない。負けちゃいけない。負けたらダメだ。まけ――

 

()()()()()()()

 

 記憶が、逆走した。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇

 

 限りなく、時が遅れて引き伸ばされている様な。そんな不思議な錯覚があった。

 視界は京都レース場の最終直線を確かに捉えている。残り一ハロンの地点を切って、追いつこうとしている三人の圧力も感じている。

 なのに、自分を含む全てが何故か遅く見える。目に映る世界の全てが限界までスローに流れ行く中、自分の記憶だけが脳裏で等速に再生されていた。

 

『ホントにそう? ホントに、ホントにそれだけ?』

 

 夏に出会った、ミスターシービーからの問い。当時分からなかったその言葉がフラッシュバックする。

 負けたらダメだと言われた。負けてはいけなかったから、そうした。それ以外に、何の理由も無いでしょう?

 

『でもキミ、笑わなかったじゃん』

 

 当時と同じ言葉と答えが、自分の中でループする。こんな事を思い出している場合では無い。目の前の勝負に集中しなければいけないのに、負けないようにしなければならないのに。

 ドロップスティアーは例え絶不調だろうが、常に全く変わらず同じ走りが出来る。何を思っていても、今レースで全力を尽くして走っている事に変わりはない。

 そして、自分よりも速い三人に後ろから詰められている現実(いま)も。全く、変わりはない。

 

『前に会って、アタシが最後に言った事。覚えてる?』

 

 あの時、分からなかったままはぐらかされた質問。思い出せず、真意も分からなかった質問。あれは一体何だったのだろうか。

 ”間違い無く大事な事”だと、あの時は何故だか確信していた。あの時自分は何を聞かれて、何を忘れていたのか。全力で走っているのに全ての時間が遅く過ぎる今、勝手に自分の記憶が連鎖的に遡っていく。

 

『また走ろうね。いつでもどこでも、どんな形でも。自由に走って、遊んで、楽しもう』

 

 嵐の中、互いに顔も見せず、レースではなくただ遊んだだけの勝負。その最後にミスターシービーが告げた言葉。

 自由に走って、遊んで、楽しむ。そんな事を今思い出させて、何になるっていうんですか。自分が自由に走って楽しめる場所は、レース(ここ)じゃないんですよ。

 普通に走れば、負けるのに。今まさに迫られて、負けると自分の勘が告げているのに。

 もう既に背後にまでセイウンスカイが来ている。キングヘイローとスペシャルウィークが、それを超える速度で迫ってきている。最終コーナーで差を付けてそのままリードを守る、唯一の勝ち筋が”絶対”の速さによって叩き潰されようとしている。

 最終コーナーの最内突きが、最後の策だった。使える武器は、既に尽きている。

 

『――でも、何があっても、諦めちゃったらダメだよ?』

 

 あ、ライスさんだ。うわぁ記憶の中でもかわいい。唐突な自分の記憶の移行に対し、ドロップスティアーは凄まじく呑気な感想を抱いた。

 とはいえ、今自分が負けを確信しているのは事実で、諦めそうになっているのは確かだ。そんな現状において、かつて百人力となった彼女からの激励を思い出すのは自然であると、移り変わった記憶を瞬時に受け入れた。

 

『諦めないでいいんだよ。追いつこうって、思っていいんだよ』

 

 そう言われましても。たった今、追いつかれそうになっているのは自分ですよ。

 当然、それはただの比喩である。今、劣っているのは自分だ。この最終局面、速度で負けているのは自分だ。どんな小手先の技を使おうと、このまま行けば自分はあの三人の背中を見送って、追いつけない所まで置いて行かれるだろう。

 少しずつ、少しずつ時間(レース)が進んでいく。残り約150メートル。全く自分の脚は前へ進まず、後ろからの差ばかりが着実に迫る感覚がある。

 どうしてこんなに自分は遅いのか。どうして自分は追いつけないのか。どうして自分はいつも、いつもいつも、いつもいつもいつも。肝心な所でばかり、無力なのか。

 

『……だから、何があって、どんなに辛くて、どう思っても。足を止めちゃうのだけは、ダメなんだって思うんだ』

 

 足は止めていない。全力は出している。それでも及んでいないのが現実だ。このまま追いつかれるのが”絶対”の現実なのだ。

 辛い。負けるのは、悔しい。負けたくない。負ける訳にはいかない。残り、100メートル。

 ――セイウンスカイが、並んだ。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇

 

(捉えたッ――!!)

 

 セイウンスカイは、追いついた。このギリギリの瀬戸際、残り約100メートル地点。

 最悪まで計算を鈍らせてきた天敵を捻じ伏せる、その一心がむしろ今まで以上に自分の走りに磨きをかけている気がした。

 追いついた。自分の方が速い。勝てる。

 ――彼女だけならば。

 

「まだ、よッ!!」

 

 ドロップスティアーとセイウンスカイの間、開いた一バ身のスペースへ向けて、キングヘイローが突っ込んできていた。

 最終直線の競り合いを潰す技、震山脚。その対策の一つは、ゴール直前に差し切る事。そのまま脚が保てば、キングヘイローの位置と速度は自然とその形となろうとしている。

 キングヘイロー自身はドロップスティアーの技にそこまでの考察はしていなかった。だが、どちらにせよドロップスティアーというウマ娘への最大の対策は、純粋な実力だ。

 届かせる。彼女達より速い。勝てる。

 ――この二人だけならば。

 

「うああぁぁーーーッ!!」

 

 セイウンスカイよりも更に外側、スペシャルウィークが全力で駆け込んでくる。

 大外一気。コーナーで外に振られる遠心力を逆に速度に転じた事で、彼女は誰よりも速いスピードで追い上げてきていた。

 最早追い付く・追い越すという思考すら抜け落ちている。まだ前にいる、まだゴールに着いていない、まだ終わってない。ならば全力で走る以外にやる事があるのか。

 あとたった数秒でゴールだ。だが一秒もあれば六バ身の差が付く、そんな刹那(レース)の世界において。この最後の数秒は、何よりも永い物である。

 自分は今、この中の誰よりも速い。

 ――だが。誰よりも先頭まで遠い。

 

(負けてたまるかッ、届かれてたまるかッ!!)

 

 セイウンスカイが限界に近い脚を回し続ける。キングヘイローやスペシャルウィークに速度で負けるのは仕方ない、だがあとほんの少しリードを守れば勝てるのだ。

 自分の作戦は、確かにこの二人を相手にこれまでリードを取っていたのだ。そしてこの最終局面でもまだ、リードは残っている。もう少し、後少しだけ走れば、それで勝てるのだ。

 皐月賞の時と同じだ。あと少しの間だけ逃げ切れば良い。もうすぐ、もう少しで、この勝負で勝てる。

 更に力を振り絞り、セイウンスカイは並んだドロップスティアーより前へと出て――

 ――()()()()()()

 

  ◆  ◇  ◆  ◇

 

『一個だけ。教えてあげるよ。ボクの技を』

 

 セイウンスカイに抜かれた瞬間、終わったと感じた瞬間。ドロップスティアーの記憶は、限りなく最近の時点にまで戻ってきた。

 トウカイテイオー。菊花賞直前、尊敬する先輩から教えられた技。それはその時、全く意味の分からない技だった。

 何せ、()()()()()()()()のだから。

 

『これは()()()()()()()()()()()()()()()技なんだよ』

 

 ドロップスティアーには、トウカイテイオーの技や走りを一切覚える事が出来ない。天与の肉体と天賦の才による彼女の走りは、真似すら出来ない。

 それをトウカイテイオーは良く理解していた。だからこの後輩に教えるべき”技”は、たった一つしか無いと思っていた。

 

『辛くて、苦しくて、挫けそうな時。そんな時だけにしか、この技は使えないんだ』

 

 そう言ってトウカイテイオーは横に座っている後輩の胸元に――()()()()()()()()に向けて、人差し指を突き立てる。

 ドロップスティアーというウマ娘は、全てを奪われていた。それは大事な肉親だとか、まともな環境だとか、一般的な育ちだとか。()()()()()()()()()()喪失を、話を聞いたトウカイテイオーは見抜いた。

 だから、不公平だと思ったのだ。他のウマ娘に出来て、彼女だけが出来ない技。そして、()()()()()()

 

『……そんな気持ちになった時にね。こう言うんだ』

 

 そう言いながら、トウカイテイオーは微笑んで。

 

  ◆  ◇  ◆  ◇

 

「――()()()()()()()()

 

 セイウンスカイは、見た。()()()()()()()()()()()()()()

 ゴールまで残り数秒という、その時に。()()()()()()()()

 

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