「……テイオー。君は、信じていたのかい?」
「何が? カイチョー」
「ティア君があそこから差し返す事だ。……いくら君でも、あの勝利はそう見切れないだろう」
「まぁね」
力無い足取りのままのろのろとターフを後にするドロップスティアー――キングヘイローとスペシャルウィークが手を貸してなんとか歩いていたレベル――を見送った後、シンボリルドルフは横にいるトウカイテイオーへ尋ねた。
トウカイテイオーの眼差しは真っ直ぐレース場を見下ろしている。シンボリルドルフと名入が決着も分からず動揺していた中で、一人だけ揺るがずドロップスティアーの勝ちを断言してみせた。
彼女の直観、即ち頭ではなく感覚で状況を把握する力は天才的である。しかし、完全にレースが終わる寸前にドロップスティアーが一瞬だけ再加速するなど、予想出来る筈が無い。
ゴールまでの距離が100メートルもあれば差し返す事は有り得る、しかしあの決着の瞬間で差し返す猶予は絶対に有り得なかった。彼女の異常なパワーでなければ出来ない、一瞬だけの爆発的な加速。それだけでしか勝ち得ない、前例の無い逆転劇。
ゴールまでもう数秒という所でセイウンスカイに追い抜かれても、トウカイテイオーは最後までドロップスティアーから目を切る事はしなかった。そんな事など、何かしらの確信が無ければ出来はしない。
「菊花賞の前、ティアの過去を詳しく聞かせてもらってね。……それで、思ったんだ。ティアは掛からないんじゃなくて、
「……掛かれない?」
「ティアはトレセン学園とかレースとか、そういうのとは無縁の所で走ってた。おっきなトラウマとずっと向き合ってて、誰かと走るって事もろくに知らなかった。だからああなったんだ、って」
ドロップスティアーの過去、義父に引き取られて学校に行き始めた後の話。車という死に限りなく近いトラウマに、幼少期の時点から立ち向かい続けた事で得た精神性。
それは彼女の心に根源的な孤独を生んだ。今を走る喜びも知らないまま、ただ一人過去と戦う人生が与えられた。山道勝負などというモノをやっていても、それ以前より彼女は独りだった。
だから彼女は掛かれなかった。彼女の走りの中には他者は存在せず、自分が負けない為だけに彼女の走りはある。
「そんなの、不公平じゃない? ボク達は一杯ライバルに囲まれて、一緒に走り合う”レース”を知ってる。でもあの娘だけ、独りきりの”勝負”しか知らなかった。だから教えてあげたんだよ」
「何をだい」
「”絶対はボクだ”、ってね。単なるレースのおまじないだよ、誰にでも出来る」
「……成程。君らしいな」
シンボリルドルフはその単純な一言のアドバイスと、そこに込められた万感の想いを理解した。
三度目の骨折、前走から一年を空けての有馬記念。誰もが”絶対”に無理だと思ったレースで、彼女は自分こそが”絶対”だと叫んで、当時最強クラスのウマ娘達が揃ったレースを制した。
どれだけ精神が強くなろうと、脚が速くなる訳では無い。誰よりも強く勝ちたいと祈ったり願ったりした所で勝てる程、レースは甘い世界ではない。
しかし、
レースにおいて誰かを意識して掛かる事は、ペースを乱すマイナスのイメージが強い。しかし、その本能的な心身の乱れの中で力が上振れる時こそが、真の”全力”なのだ。
「……”絶対は無い”、か。一徹短慮、どうにも私はまだ視野が狭かったらしい」
「狭かったのはティアの方でしょ。ボクはちょっときっかけを与えただけで、あの娘がそれでどうなるかまでは分かんなかったし。……でもさ、カイチョー」
レースに絶対は無い。この世界では何度も語られ、実際にそれを覆される事を何度も見せつけられて尚、シンボリルドルフは自分がそれを信じ切れていなかった事を恥じた。
が、トウカイテイオーはただ一言おまじないを教えただけで、その程度でレースの結果が大きく変わる事は無いと思っていた。自分がやったのは、どう転ぶか分からない不確定要素を混ぜただけである。
自分の一言にレースの大勢を変える程の力は無い。あそこで差し返せたのは、限りなくまぐれに等しかった。
――ただ、
「終わった後のティアの顔。すっごい楽しそうだったでしょ? このレースの意味なんて、あの顔だけで十分じゃない?」
「……それも、そうかもしれないな」
レースの内容も、作戦の読み合いも、果ての勝敗も、何もかも。そんな事よりも大事な事があると、あらゆる挫折を超えてきたトウカイテイオーは思っている。
今回の菊花賞は、あの笑顔の為にあった。”ウマ娘”としての個人的な観点として、二人はそう思えた。
「おめでとう、名入トレーナー。君達の勝利だ。いいレースだった――よ?」
「……いなくない? あの人」
「……いないな」
シンボリルドルフがこのレースのもう一人の立役者たる名入の方へ目を向ければ、先程までそこに居た筈の名入は既に姿を消していた。
レースが終わった以上、関係者席ではなく自分達の控室に戻ったと考えられる。それにしたって、去る前に一言ぐらいは残していっても良いだろうに。
担当ウマ娘もトレーナーも、その場にやってきては嵐の様に荒らして去る、実にマイペースなコンビである。ドロップスティアーを中央へと連れてきた張本人として、彼女をGⅠウマ娘にまで引き上げた事に謝意と祝辞を言わせて貰いたかったのだが。
「やれやれ、だ。……テイオー」
「なに?」
「実に面白いな、今年の世代は」
「そうだねー」
”皇帝”と”帝王”が肩を並べ、静かに微笑み合う。
”黄金世代”と呼ばれる今年のウマ娘達。彼女達は確かにその力を、遺憾無く揃って示してみせた。
まだまだ彼女達は伸びるだろう。歴代最強とすら呼ばれている、この世代に対し――
「……いずれ相対する時が、愉しみになったよ」
「絶対はボクだけどね。……カイチョーも含めて、だよ」
――いずれは自分達に届き得る”敵”と認めた。
◆ ◆ ◆
「ふいー……あ゛ぁー……づっ、がれだぁ……クールダウン頼んますトレーナーさん……」
「……ああ」
ドロップスティアーの控室。いつも通り、いつも以上に満身創痍で力無く座り込んだ脚に対し、名入は言葉少なに自分の仕事をこなしていく。
脚全体を冷やし、膝から下をゆっくりと左右前後に曲げ伸ばしする。怪我はしていない、しかし籠もっている熱はダブル鋭角コーナリングを使った後にも匹敵する程のモノだった。
足首より下に異常な慣性エネルギーがかかる鋭角コーナリングと、下半身全体をフル活用する爆ぜるピッチ走法では、負担の掛かり方は全く異なる。ただ、三回の鋭角コーナリングなどという曲芸に匹敵する程の熱量が一瞬で生じていた。
その事実を客観的に確かめつつも、名入は必要な事を聞く。
「……お前。あの最後のアレ、前々から思い付いててやったとかじゃねーよな?」
「いや、むしろなんも考えてませんでした。なんか現実感も無かったですし……テイオー先輩のアドバイスに従った瞬間に、なんか出来ました」
「トウカイテイオーのアドバイス?」
「『絶対はボクだ』って言う事。それが技だ、って」
「…………技か? それ」
「出来ちゃったし、技なんじゃないんです?」
名入が心底からの疑問符を浮かべるのに対し、最後の記憶が半ばすっ飛んでいるドロップスティアーには、他人事の様にしか報告出来なかった。
そんな言葉一つで”技”になるんなら、トレセン学園の義務教育にとっくに加わっている。全くもって論理的ではない、そういった全くロジカルでない事には無信全疑である名入は、理解を放棄した。
ただ、このウマ娘はその言葉をきっかけに勝った。それだけは事実である。
「……全然理解できねー……お前、あんな末脚出せんだったら、もっと前からやっとけっての、全く……」
「自分だってテイオー先輩の言う事良く分かってませんでしたし……っていうか、自分でもどう最後どうやったのか、覚えてないんですよ」
「……はぁ!? おいコラ! ちょっと待て、何バカな事言ってんだ! そんな貴重な
「仕方ないじゃないですかぁー! 分かんないもんは分かんないんですもーんっ!」
ぎゃーすかぎゃーすか。いつも通り、控室に騒乱が満ちる。
爆ぜるピッチ走法。”黄金世代”を一瞬だが凌駕して勝利に繋げた技。しかし限界まで追い込まれた状況下、全ての力と技を本能が無意識で組み合わせたそれは、ドロップスティアーにとって『なんか出来た』程度のうろ覚えに成り下がっていた。
折角まともに速く走れる様になったかと思えばコレ。どこまでもコイツ癖しか無え。名入は普通に、いつも通り頭を抱えたくなった。
「はぁー……まぁこの際それは良い。全然良くないけど、良いって事にする。お前のバカっぷりはもう今更だし」
「バカとは何ですかもー! 勝ったのになんで自分怒られなきゃなんないんですか、ばかトレーナーさん!」
「……それもそうだな。悪かった、スマン」
「へ?」
もう震脚を撃つ分のパワーゲージを使い果たしたドロップスティアーは、名入に対し言葉を返すしか出来ない。なので永遠に不毛な無限レスバ編になりかねない、そう思ってた矢先に名入の方から譲歩された。
なんか急にしおらしくなったぞコイツ。名入が自分から『悪かった』と非を認めたのはダービーの一件のみであり、平時の口喧嘩で互いに意見を譲る事はあまり無い。最終的にドロップスティアーが
にも関わらず、今回名入は普通に謝ってきた。ドロップスティアーはそれに対し、瞼を何度もまばたかせ。
「……明日、蹄鉄でも降るんじゃないんですー? トレーナーさんがレスバ途中で謝るとか、有り得ないでしょ」
「俺をなんだと思ってんだ。……病院で話した、ライスシャワーとミホノブルボンの菊花賞についての事。覚えてるな?」
「またそれですか。あの二人にどんだけ拘ってんです?」
「ああ、何と言われようが俺は拘る。アレは
ドロップスティアーはいつもバカにされてる分、ここぞとばかりにバカにし返すつもりで、以前言われた言葉をお歳暮感覚で押し付けてみた。
が、そんな露骨な嫌味を受けても名入は全く挑発に乗ってこなかった。クールダウンを終え、念の為ライブ前まで脚の負担を抑える為のテーピングをしておく。
脚のダメージは、ただのとんでもない疲労止まりだった。ライブ時にテーピングを外しても問題は無いだろう、それを確認し終えた名入は、自分の態度の理由について語る事にした。
「俺はあの菊花賞で、”絶対”を潰す事をハッキリ目的に定めた。あの二人の最高の勝負にケチを付けやがった、そんな”絶対”を。……ハッキリ言おう、俺は
名入というトレーナーは、中央においても異端のトレーナーだった。
ウマ娘との信頼を求めない。勝つ為にあらゆる手口を考える。トゥインクル・シリーズの輝かしい部分ではなく、そこに生まれる影ばかりを見てトレーナーを務めていた。
怒りを静かに抱いたまま、憎しみを原動力としてトレーナーとしての能力を積み重ねた。その根源にあったのは、ライスシャワー達の菊花賞である。
「あの時、ライスシャワーとミホノブルボンの両者を貶めた菊花賞で勝つのは、俺の悲願だった。生きてる間に一回でも菊花賞に勝てりゃそれでいい、そんぐらい思ってた」
あの時の連中に吠え面をかかせてやる。どんな手を使ってでも菊花賞に勝ってやる。そんな深黒色に近い欲望こそが、名入の行動の支柱だった。
金も名誉も称号も、何もかもどうでもいい。思い出すだけで煮えくり返るあの時の憎悪こそ、名入の全てだった。静かな黒い執念を抱いて、積み重ね続け、その果てに”菊花賞に勝つ”という歪んだ復讐を目標としていた。
結局、ドロップスティアーとは同じ穴の狢だったのだ。目的すら選ばず勝負という手段に拘りダービーに挑んだウマ娘と、目的に拘り続け手段を選ばなかったトレーナー。それらは真反対の在り方のようで、どちらも一念を正反対に歪めたモノだった。
「……だから、だ。……正直、感謝してんだよ。よりにもよってこの”黄金世代”相手に、お前は菊花賞で勝ってくれた。俺の作戦通りに、そして想像を超えてみせた。”絶対”を破ってくれた」
名入は利己的な人間である。自分自身の為にトレーナーを志し、トレーナーをやってきた。
そしてドロップスティアーは、その自分の理想に辿り着いた。”絶対”に負けると思われたレースに勝った。最後の最後まで勝負の行方がわからない、そんな番狂わせを見せて、この菊花賞を制してみせた。
だからドロップスティアーが勝ったと分かった時、胸の奥底から憑き物が取れた様な気分になった。自分の感情が整理出来ず、シンボリルドルフ達から逃げる様に無言でその場を去った。
嬉しいという感情すら湧かず、どういう対応をすればいいのか分からなかったのだ。今の気持ちを言葉にする事が出来ないと思い、言及される前にそそくさと控室まで戻ってきた。
「……ありがとよ、ドロップスティアー。お前が相棒で良かったよ」
そして今、全てを話し、全てが終わり、感情に整理がついて。名入は、心からそう言った。
トレーナー業を始めてから最も清々しい気分にさせてくれた、そんなウマ娘を褒めた。散々苦労させられて、しかし二人三脚でやってきた相棒。それに対し、優しく笑いかけ――
「気持ち悪いですぅぅぅっ!! 過去イチでトレーナーさんが気持ち悪いですぅっ! なんですかその笑顔!? 今までの人生でこんな恐怖は無かったんですけどぉっ!?」
「人がホンットに素直に褒めたってのに、なんだその態度は、だあほぉぉぉっ!!」
全力で鳥肌を立てながら拒絶され、震撼された。名入はキレた。
ドロップスティアーというウマ娘は怪我や事故などの脅威に対する恐怖に対しては人十倍ほどの耐性があるのだが、知ってる人間の性格がいきなり別人にメタモルフォーゼするなどという、そんな異種の恐怖は生まれて初めてだったのだ。
結局どこまで行っても、この二人は噛み合い切れない凸凹コンビであった。
「……ったく! もー二度とテメェの事は褒めねー! もう知らんわバーカ、処置も終わったし俺ぁライブまでその辺ダラダラしてくる! 疲れのあまり寝るんじゃねーぞ!」
「はー!? 悲願を達成したGⅠウマ娘に対する扱いじゃないんですがー!? たまには自分を優しく褒めて伸ばして下さいよ、散々っぱら叩かれる事で鍛えられてきたんですよこちとら!」
「うるせぇだあほー! 帰ったらあの末脚の出し方思い出すまで、また徹底的にトレーニング叩き込んでやるわ、覚悟しとけ!」
完全にガチギレした名入は、言う事を言ってその場を後にしようとする。
ホントマジでこいつマジで。名入は自分のいつもの態度に非があるという事実を、怒りのあまり完全に忘れて――覚えていても絶対反省しないのだが――、そのまま控室の扉へ大股で向かった。
そして、控室の扉を開こうとした所で。
「……あ、トレーナーさん。こっちも言いたい事、一個あるんですけど」
「んだよ。今の俺は機嫌が全力フォールダウンしてんだ、簡潔にまとめやがれ」
「じゃあ、二言だけ。トレーナーさんはこのレース前、『セイちゃんさんの事を迷わず信じろ』って言ってましたよね?」
「ああ。それがどしたよ」
ドロップスティアーから声がかけられる。内容は、今日の作戦の事について。
プランS。セイウンスカイを信じ抜く事によって、三人まとめて倒す漁夫の利作戦。
正直セイウンスカイが強すぎてレコードペースの逃げとなり、爆ぜるピッチ走法というイレギュラーが無ければ――名入の予想の通りだったならば負けていた、今回の作戦。
この勝ちは、セイウンスカイの実力と技量を一瞬でも疑っていれば無かった。そういう意味で今回のレースでは、セイウンスカイを迷わず信じる事だけが求められていた――の、だが。
「自分、
「――……だあほ」
さらりと言われた二言目を背に受け、名入は控室から出る。
ドロップスティアーは名入とは真逆に、感情に素直である。初めて出会った時は印象最悪、それから利害関係に等しい契約を結び、何度と無く機嫌が悪くなる程衝突してきた。
だが、それでも。単なる能力への信用だけで、ここまで付いてきてはいなかった。性格は最悪だが、ここまで導いてくれた事に対する信頼があった。信頼していなければ、これまでの一年半のどこかしらで契約を打ち切り、この菊花賞でも百パーセント作戦をやり切る事は出来なかった。
だからドロップスティアーは、名入が
「……こっちもだよ、バーカ」
控室を出てから、その場を足早に去りつつ。
名入は取り出したココアシガレットを一本手から落としながら、虚空へ呟いた。
◆ ◆ ◆
「……全く、ばかトレーナーさんなんですから。こんなに可愛い愛バに向かって、ド失礼もいいトコですよ全く」
控室に取り残されたドロップスティアーは愚痴りながら、椅子に座りながらスマホをチェックする。その理由は当然、ウイニングライブの振り付けの確認の為だ。
何せ、三冠レースの一角だ。ダービーで勝つと決めた時から”Winning the soul”の練習は全く欠かしていなかったが、万が一にもミスすれば死を覚悟しなければならない。まず間違いなく、”皇帝”・”帝王”・”王”の三人が敵に回るだろう。この世の終わりみたいなトリオである。
万人の前で踊る緊張も、その恐怖に比べればゼロに等しい。そう思いながら、トウカイテイオーのライブ映像を見ていた。イメージするならば彼女以上の手本は無いだろう。
あーやっぱテイオー先輩かっこいー。これから自分が踊るライブであるという自覚も半ば忘れ、普通にライブ映像を楽しんでいると――
「……んんっ?」
いきなり着信が入った。画面に表示されている名前は、”
なんじゃらほい。一瞬そんな呑気な事を思ったが、冷静に考えればあのオヤジが菊花賞なんて大レースを見てない筈も無かった。
よくよく考えると、これはチャンスだ。名入の次ぐらいに自分を散々バカにしてきた存在に対して今、ついに見返す時が来たのだ。
よーしちょっとGⅠウマ娘マウント取っちゃうぞー。そう思い、スピーカー通話をオンにした。
『よう、家出娘』
「家出? ……あ。そういえばそんな設定だった」
『初手からバカな返しだなぁ、お前。一年半経ってもバカは変わんなかったかー』
「な、にゃにをー!?」
父親からの第一声に対して、ドロップスティアーは自分がなんで中央にやってきたかという表の理由を今更思い出した。そして即座に、予想通りとばかりにツッコミ返された。
ドロップスティアーは、シンボリルドルフと父親の会話を盗み聞きし、その思惑の裏をかこうと――即バレしたが――無言の家出をかまし、中央にやってきた。一応そういう体である。
が、そんな形骸的な動機は本人ですら忘れていた。言われて思い出したレベルであった。
「そんなバカバカ言ってて大丈夫なのかなー!? 自分、GⅠウマ娘だよー!? 超有名人になっちゃったんだよー!?」
『お前
「ぐぬぅっ……!」
GⅠウマ娘という新たに得た称号を振り翳してみるも、そもそもシンボリルドルフの事すら知らなかったレベルのドロップスティアーに対し、父親の方はレースの世界についての知識は人並み程度には持っていた。
なので、今更語るまでも無いのである。中央でデビューした事も、そこで何度も勝った事も、GⅠウマ娘になった――菊花賞で勝ったという、その意味も。全て。
『お前がバレバレの家出かまして、一年半か』
「バレバレは余計だよ! もー、なんでこんな時にまで――」
『……たった、一年半で。菊花賞で、勝てる様になったんだな、お前』
「――オヤジ?」
バカにしてからかう様だった口調が、変化する。少しずつ穏やかに、落ち着いていく。
明らかに雰囲気が変わった。そう感じたドロップスティアーは、口を閉じた。
『……中央は、甘くなかったろ』
「え? いやまぁ、めっちゃバケモノしかいないよココ。勝負だってのに、全然近道とか無いし。皆強いせいで、あれこれいっぱい考えるハメになっちゃったよ」
『トレーニング、
「へーんだ、オヤジが考えてるだろう百倍は過酷なトレーニングやってきたっての。トレーナーさんへの愚痴込みで、一時間は余裕で語れる自信あるね」
父から唐突に質問されて、その声色の変化に少し戸惑いながらも返答していく。
自分が有利な近道はルールで禁止されていた。模擬レースでボコボコにされ、その後は同期に更にボコボコにされた。次にトレーナーに心身をボコボコに鍛えられた。実戦ではヤマを張って、細い勝ち筋を通す事だけ考えてきた。
地元の山道では死一歩手前の無茶を通してきたが、未知の恐怖と苦難という点であれば、中央に来てからの方が余程キツい思いをしてきたのは間違いないと断言出来る。
『……』
「ちょっとオヤジ、何言いたいのさ。電話したのオヤジじゃん、さっさと本題言いなよー」
『……何を言っていいのかわからん』
「えぇ?」
『別に俺は、お前が勝てなくても良かった。中央に行ってお前の中で何かが変わりゃ、それだけで俺は良かった。ぶっちゃけ、期待してなかったと言っても過言じゃない』
「ヒドくない!? 実の父親が言う事かなぁそれ! トレーナーさんといい、なんで自分の周りこんなんばっかなの!?」
名入に続き、父親からもぞんざいな扱いを受け、ドロップスティアーはキレそうであった。元々自分を怒らせる
よし、キレよう。キレ散らかそう。今の自分にはそれだけの権利があるだろう。そうドロップスティアーが電話越しに山彦砲を撃とうと深呼吸を始めた所で――
『けど、お前は勝った。しかも菊花賞なんて大レースに、だ』
「あーそうですよーだ、期待してなかったバカ娘が勝ってどんな気持ちー?」
『最高だよ』
「――へっ?」
すっと。父親から、思わぬ答えが返ってきた。
『俺はお前に、親らしい事なんて何も出来なかった。兄貴――お前の”おとーさん”みたいに、上手く育ててなんてやれなかった。そのせいでお前は歪んじまった。……俺は親失格だよ』
「……な、何言ってんのさ、オヤジ? らしくないって」
『ちげーよ。俺は、本当にお前に何も教えてやれなかった。なんとか育てるだけで、お前の無茶を止められなかった。お前が負った傷に、何も出来なかった』
「ら、らしくないって言ってるじゃんか! オヤジが自分の為にどんだけ頑張ってきたかなんて、自分が一番知ってるよ! そんな事言わないでよ!」
語調はいつも通り。しかし口にする言葉は、いつもの父らしからぬネガティブな事ばかりだった。
”オヤジ”は”おとーさん”とは全く違う父だったが、それでも自分の人生を投げ捨てる程献身的に自分を育ててくれた事を知っている。ぶっきらぼうで大雑把でいつも怒りながらも、自分を心配する親としての優しさは常に感じていた。
自分が”ヤマ娘”として滅茶苦茶をやってきたのは、決して父のせいではない。あれは自分が望んだ道で、勝手に臨んで遊んで、あわよくばそのまま死のうとしていた。それを父は、いつもいつも止めようとしてくれていたのだ。
なのに何故、父が自分に謝るのか。普通逆だろう。そう心底ドロップスティアーは思い、大声を出して反論した。
『黙って聞け。俺はそんなバカオヤジだが……一応、お前の父親役として。絶対にコレだけは言っておかなきゃなんねえって、そう思ってこの電話をかけたんだよ』
「な、何さ……?」
『……よく頑張ったな、
「ッ!!」
父の言葉を聞いたその瞬間、自分の記憶が遥か昔にまで遡った。
”よくがんばったね、スティア”。それは、自分の本当の父親が良く言ってくれた言葉だった。自分が少しでも頑張った時、大きな掌で撫でてくれながら、優しい顔でそう褒めてくれた。
両親が死んだ後、オヤジは自分を”スティア”と一度も呼んだ事は無い。それはドロップスティアーの両親にのみ許された呼び名と考え、『自分は本当の父になどなれはしない』と弁える為に意識的にそうしてきたからだ。
今まで、そうだったのに。今までずっと、そうしてきたのに。どうして今になって、今、今。
「オ、オヤッ、おやじっ」
『ああ』
「わた、わたしっ、ほんと、がんばってっ……がんばって、がんばって……!」
『……分かってるよ』
「たぶん、おとーさんやおかーさんに、おこられる事、いっぱいやって……!」
『兄貴達はあんなんじゃ怒らねーよ。心配はするだろうが』
「でもっ、今日、今日は……わたし、
『ああ。……お前は、勝ったよ』
「う、あっ、あぁぁっ……! うわ、あ、あぁあぁん……!」
”オヤジ”に褒められ、”おとーさん”を思い出して。急に理性が保てなくなった。
意味もなく涙が出てくる。悲しくもないのに、辛くもないのに、何故か涙が溢れて声が揺れ始める。一度病院で思い出した泣き方に近い、自分でも制御出来ない涙。
『まけないで』という遺言を、これまでずっと守ろうとしてきた。それを今回忘れてしまって、悪い事もしてきたと思ってたのに。いつもみたいに怒られると思ったのに、急に褒められて。昔みたいに、褒められて。
何もかも、よく分からなくなって。子供みたいに、泣き出した。
「おとーさんっ……おかーさぁんっ……おやじっ……う、うぅぅっ……!」
『楽しかったか? レース』
「っ、うんっ……! すごい、すっごい、たのしかったよ……!」
『そっか。良かったな』
「うん、うんっ……!」
何を言って良いのかわからない。それを察しての事か、父親が導く様に質問をしてくる。
大した言葉も考えられず、返せない。それでも、ちゃんと父は穏やかな語調で聞いてくれた。その声色が忘れかけていた”おとーさん”に近くて、また泣いた。
ドロップスティアーは真の意味で、”わたし”に戻っていた。心が壊れるよりももっと以前の、両親に育てられていた幼少期の頃の自分。”負けない”という歪んだ支柱を得る前の自分に。
「ゴメン、なみだ、とまんない……! これ、どうしたらいいの……!?」
『目一杯泣いとけ。もう、我慢しなくて良い。お前は、頑張ったんだからな』
「う゛、うぅうぅっ……! うあっ、ぁぁぁ……!」
なんとか涙を止めようとしたら、泣く事まで許されて。全部を許された気分にさせられて、余計に涙が出てきてしまった。
何も考えられない。頭の中がぐちゃぐちゃになって、どういう顔をすればいいのか、何を話すべきなのか。いつでも変わらず考え続けられる筈の頭が回らなくて、泣く事しか出来なくなった。
もっと他に、言いたい事はある筈なのに。言うべき事がある筈だ。
「……おやっ、じ……! ごめんっ、ごめん、ごめん……!」
『バカ娘。何謝ってんだ、勝ったのに謝る事なんかあるかよ』
「そうじゃ、なくっでぇ……! いままで、いままでっ……!」
『分かってるよ。……分かってるから、なんも言わなくて良い』
「う、ぅうううっ……!!」
今まで苦労ばかりさせてごめん。心配かけてごめん。無茶してきてごめん。そう言いたくて、でも全部上手く言葉に出来なくて。
しかしそんな言葉足らずの気持ちなど、言われるまでもなく父は分かっていた。この娘がどんな気持ちで今まで生きてきたのか、それを誰よりも間近で見てきたのは、自分なのだから。
それがドロップスティアーには辛くて、余計に泣いた。歯止めが、何一つ利かなくなった。
『……悪いって思ってんなら。一つ、言う事聞け』
「ぐすっ……な、なに……?」
『この後のライブ、完璧にやれ。……お前の”おとーさん”と”おかーさん”にも見える様にな』
「……知らないと思うけど。ライブ、難しいんだよ? 踊って歌うの、むずかしいんだよ?」
『歌うのはずっと昔から得意だろが。踊れなかったら、歌え。空の上まで響かせろや』
「ばっ、ばかおやじっ、ばか、ばか……! できるわけっ、ないでしょ……!」
『出来るだろ、お前なら』
根拠も無く断言され、ドロップスティアーは口を噤んだ。
かつて東スポ杯で、キングヘイローという”絶対”を破り、初めて重賞を獲った時。沢山の観客を前にして、ドロップスティアーは少しだけ思ってしまった事があった。
『おとーさん達が居たら、どんな風に見てくれたかな』。そう思い、しかしそんな事は有り得ないと分かっていて。だから空まで、天国まで届く様にと。そう思って、強く歌い上げた。
天国に自分は行けない、だから歌だけでも届けよう。そんな風に思って、ライブをした。
「……うん、やる。がんばるね」
『おう。……見てるぞ』
「っ、うん」
これから自分は見届ける。お前の両親もきっと見ているだろう。不器用で言葉少なな一言から、ドロップスティアーは父の言わんとする二つの意図が伝わってきた。
自分の父はそう言うだろう事を、自分が一番知っているから。伝わると勝手に信じて、そう言っているのだろうと知っているから。
それなら、応えよう。たまには、言う事を聞こう。
わたしは、この人の娘なんだから。
「見ててよね」
『ああ』
ぷつりと、通話が切れる。これ以上は必要無いだろうと、勝手に向こうが切った。
勝手だ。いつもオヤジは、勝手だった。勝手に育てるのが面倒な自分を引き取って、勝手に自分の店まで畳んで、勝手に駄菓子屋なんて作って。挙句に、勝手に
いつだって勝手に――わたしの事ばっかり考えて、育ててくれた。
「――……」
◆ ◆ ◆
「セイちゃんさん、スペさん。お願いがあります」
「ん? どしたの、改まって――ん?」
「わっ!? ティアちゃん目元真っ赤だよ、大丈夫!?」
「それはどうでも良いんです」
ドロップスティアー・セイウンスカイ・スペシャルウィーク。ライブ用衣装に着替えた三人が、舞台裏に集う。
明らかに目元を赤くしたままのドロップスティアーを見て、スペシャルウィークは心配し、セイウンスカイは意外に思った。正直、彼女が嬉し泣きだとかそういう事をする性格じゃないだろうと考えていた為に。
だがその事以上に、二人はドロップスティアーの笑み一つ浮かべていない真剣な表情に意識がいった。
「この後のライブ、完璧にやりたいんです。絶対、完璧に」
「……へぇ? なんか、キングみたいな事言うじゃん」
「ライブは頑張るつもりだけど……いきなりどうしたの?」
「絶対に、聴かせたい人達がいるんです。でも、ここじゃない遠い所にその人達はいて。だから、その人達の所まで届く様に。すっごいライブにしたいんです」
「「……」」
これまでで一番と言っていい程に、真剣な眼差しと真摯さを持ってドロップスティアーはそう語った。
自分の都合で、自分の勝手で友人に頼み込んでいるという自覚はある。だけど、どうしてもこのライブだけは譲れなかった。自分の生涯で、一番のライブにしたいと思った。
だから、協力して欲しかった。この二人の力も借りて、天国にまで届くだろう最高のライブにしたかった。
「良く分かんないけどさ。三冠ライブで手抜くとか、流石のセイちゃんでもしないよ?」
「ティアちゃんがそんなに言うんだったら、よっぽどの事情があるんだよね?」
「はい。一生のお願いです」
「……はー。そこまで言われちゃ、仕方無いなぁ。んじゃ、最高に盛り上がるライブにしてあげますかねー、っと」
「ありがとうございます」
セイウンスカイがわざとらしくやれやれと形だけのポーズを取るのに対し、ドロップスティアーは深々と頭を下げてみせる。それを見て、どうにも今回は本当に”特別”なのだろうとセイウンスカイは察した。
ドロップスティアーはいつも”今日”のウマ娘だ。トゥインクル・シリーズでレースをしてきた理由も”勝負”がしたかっただけであり、三冠レースの記念ライブだとしてもそれ程に強い思い入れは無い筈である。
にも関わらず、こんな見え見えのポーズを見てすら頭を下げてまで頼む辺り、余程の事情があるらしい。それなら、失敗は出来ないだろう。セイウンスカイは首を一回転させ、気分を軽く一新させた。
「スペさん」
「うん。……ライブ、頑張ろうね!」
「はい。……やりましょう」
スペシャルウィークもまた同じ気持ちだった。ドロップスティアーがここまで真剣な顔を見せるのは、今までに一度も無い事であったが為に。
そもそも、自分もこのライブは本気でやるつもりであった。最後の三冠ライブ、僅かに一歩及ばなかった勝負。限りなく同じ、しかし遠い差を付けてレースに勝った彼女に相応しいモノにしようと。
その上、ここまで強く頼み込まれては手を抜く道理など無い。全力のレースをしたのだから、全力のライブをしよう。彼女にも自分にも、悔いの残らないモノにしよう。
そうスペシャルウィークは一切の雑念無く、ライブに臨む事にした。
「……っていうかさ。こっちは皐月賞ウマ娘とダービーウマ娘だよー? そっちこそ食われない様に、キッチリやんなよー?」
「あはっ。心配しなくていいですよ、セイちゃんさん」
というか、”Winning the soul”というライブにおいて、二人はセンター経験者である。そんな自分達を差し置いてセンターを踊るのだから、どちらかと言えば心配なのはドロップスティアーの方である。
元々ダービー一点狙いだった上、キングヘイローにライブの重要性を教え込まれた彼女がライブをしくじるとは思えない。ただ、半端な出来であればこっちに存在感で負けてしまうだろう。
そんな憂慮に対し、ドロップスティアーは――
「今日は、自分が一番ですから」
「……中々言うじゃんか」
「ふふっ。よーし、けっぱるべー!」
微笑みながら、しかし大胆不敵にそう断言してみせた。
そこまで言うのなら、お手並拝見と行こう。”完璧なライブ”にしてやろう。セイウンスカイはどうも今日は熱が入ってるなと自分自身を分析しながらも、悪い気分では無かった。
スペシャルウィークはある意味いつも通り、しかしいつも以上に気合を入れて両拳を握る。絶対に良いライブになるだろう、そんな確信を持てた。
《――それでは、本日のメインライブ! 皆様、拍手でお迎え下さい!》
「行きましょっか」
「ほいほーい」
「うんっ!」
いつになく気を引き締めた三人が、ステージへと上がっていく。
このライブは”特別”だ。GⅠレースだとか、最後の冠のライブであるとか、多くの観客が注目しているだとか。そんな事よりもずっとずっと、特別なモノだった。
ステージが始まるライトアップ前に、ドロップスティアーは空を眺める。空の上へと目を向ける。天を仰ぐ。
「……あははっ」
笑う。いつもいつも、心が壊れる以前にやっていた様に、純粋な気持ちで。
今、わたしはこんな顔をしているよ。もう、
だから、見守ってて欲しい。そう空の向こうへと願った。
《菊花賞出走ウマ娘の皆様で、センターはドロップスティアー! ご清聴下さい、”Winning the soul”!》
――そうして臨んだライブで。ドロップスティアーは宣言通り、完璧な出来のライブをやってのけた。
一分の乱れもなく踊り、一音のズレも無く歌い上げ。普段の彼女を知る者なら誰もが目を疑う程の真剣な表情で、凛々しくセンターを飾った。
ただ。
「――ッ、――ッ♪」
それは、一際大きな歌声だった。
それは、一際大きな振付だった。
そして、それらを何一つ揺るがす事無く。彼女は一筋の涙を流し続けて。
「――あ、はっ」
最後に空を見上げ、涙交じりの優しい微笑みを捧げる。
そうして彼女は、今年のクラシック戦線の幕を下ろした。
ようやく「今」が変えられたし、「今」を走る様になりました。
Winning the soulのライブたまに見ると、やっぱ最高だなってなります。