――十一月二十九日。この日は、特別な日だった。
ジャパンカップ。日本初の国際GⅠであり、”八大競走”――日本でも特に格式が高いとされるGⅠレースにも並ぶ価値を持つ、そんなレースの日であるからだ。
日本開催、即ちホームグラウンドと言えるこのレース。しかしジャパンカップの初開催から計十七回に及ぶ歴史の中、日本のウマ娘が勝ったのは五回のみ。
欧米での主要GⅠが終わったオフシーズンに施行される事もあり、このレースには各国から刺客の如く世界中の名ウマ娘達が戴冠を望んでやってくる。
そして、今年のジャパンカップにおいて。海外のウマ娘を迎え撃つに足るだろうと言われる日本の有力ウマ娘は、三人。
「――ここに立つと、昨年の無念を思い出すな。
光差すターフへと繋がる境界線、東京レース場の地下バ道にて。鹿毛をボブカットに整え、鮮やかな青と黄が目立つ勝負服を纏ったウマ娘が訪れた。
エアグルーヴ。オークスと天皇賞・秋というGⅠレースに加え、数々の重賞を制し”女帝”の異名で呼ばれるウマ娘。彼女は去年、このジャパンカップで敗れていた。
その確かな実績と厳格ながら面倒見も良い人柄から、誰からも中央トレセン学園の生徒会・副会長として認められ、羨望と期待を集めるウマ娘。それだけに、昨年のジャパンカップでの敗走はエアグルーヴにとって、忘れ得ぬ屈辱の一つだと思っていた。
残り一ハロンから末脚で差を付けられ、詰め切れずクビ差の負け。周囲からは『あと一歩だった』『良く頑張った』とよく言われたものの、敗北という事実の前には何の慰めにもならない。
あの時から自分は、この府中を走っていない。故に、この場・このレースに立つというだけで、口に砂利を噛む様な錯覚を覚えてしまった。
「走れなかったスズカの分――とは言わんが。ここでキッチリと精算させて貰うぞ、私自身の過去をな」
今回のジャパンカップにおいて、開催前に最有力候補と挙げられていたのは、自身の友人たるサイレンススズカであった。
年間無敗。宝塚記念で共に走った自分を制し、今年度最強と謳われたウマ娘。しかし彼女は今、天皇賞・秋での骨折によって退院時期すら不明の状態にある。
心配して見舞いに行った時には、重度の骨折をした身でありながら、存外その顔色は明るかった。『私の事より、エアグルーヴの方は大丈夫なの?』などといつもの天然をかます程に、彼女の精神状態は平常通りであった。
自分より遥かに苦難の中にある友人に心配される様では”女帝”の名折れである。この場に立てなかったサイレンススズカが背負う筈だった、日本の悲願。それを自分は、自分自身のためにもここで叶えねばならない。
――そう考えていた途中の事だった。
「ヘイ、エアグルーヴ先輩! 少し表情が固いデスよ、ファン達の前ではもっと笑顔を向けるべきデース!」
「……エルコンドルパサーか。随分と余裕ではないか、クラシック級の小娘でありながら」
「レース前から殺気立ってても仕方無い、って事デスよ。そういうのは、ターフの上でまとめて出すモノデス」
「正鵠を射てはいる……が、良く知った口を利く。緊張は無いのか?」
今年の有力候補の一名。クラシック級でありながらジャパンカップ制覇を掲げ、”世界最強”を示すと豪語したウマ娘。エルコンドルパサーがやってきて、フランクに話しかけてきた。
マイルカップを完勝した彼女は、距離や経験の壁など無視するとばかりにこのジャパンカップへとやってきた。彼女の戦績や能力を考えるなら、マイルチャンピオンシップに挑むのが正着と世間一般的には言われているにも関わらず。
そちらにはそちらで、現状最強マイラーと言われているタイキシャトルが出ていたのだが、それを回避してジャパンカップに出るという選択肢は通常有り得ない。
このジャパンカップを制したクラシック級のウマ娘は、一人も居ない。その前例と歴史を無視し、彼女はこの場に来たのだから。
「あるに決まってるじゃないデスか。……しかーし! エルは”世界最強”のウマ娘! そういったモノもまとめて呑み込んで、その上で勝つ! それこそが、アタシの”最強”への第一歩なのデス!」
「……このジャパンカップで、そして私の眼前でそれを言うとは。良い覚悟とは認めよう」
いつもの調子のまま腰に両手を当て、胸を張るエルコンドルパサーの無礼とも取れる態度に対し、エアグルーヴはいっそ感心した。
このジャパンカップは、クラシック三冠レースやトリプルティアラ以上に注目度の高いレースだ。海外のウマ娘という紛れもない強者達を相手に、出走するウマ娘達は国の威信を背負って勝利を望まれる立場となる。
一度の敗着があったからとはいえ、戒めなければ自分でもアガってしまいそうな空気の中で、エルコンドルパサーは”平常”を保っている。それも緊張を自覚した上で、”
「……それに。エアグルーヴ先輩も分かってますよね? 今日の
「……甚だ心外ではあるがな。まさか、
しかし、エルコンドルパサーの調子以上に。エアグルーヴは今回のジャパンカップにおける、
このジャパンカップ前に、確かな実績は積んできた。前走であるエリザベス女王杯では後輩であるメジロドーベルの成長を前に後塵を拝したが、それでも上がり三ハロンで三十三秒台を出すなど、良く調整出来たという自信はある。
だが、このレースの一番人気は逃した。今回のジャパンカップで、エアグルーヴは二番人気・エルコンドルパサーは三番人気。しかし一番人気は、海外のウマ娘ではなく国内のウマ娘である。
――それが。
「エルちゃん、エアグルーヴさん! 今日は、よろしくお願いします!」
スペシャルウィーク。今年のダービーウマ娘。地下バ道の奥からぱたぱたとやってきた彼女は、エルコンドルパサーとエアグルーヴに対してぺこりと大きく頭を下げた。
皐月賞・ダービー・菊花賞。その三冠レース全てで一番人気を背負ってきた、そんなウマ娘。彼女こそ今回、このレースで最も期待されているウマ娘だった。
”三強”の一角にして、世代屈指の末脚の持ち主。ウマ娘が周囲に居ない地方よりやってきた出自を誰もが忘れているだろう、今年の世代屈指の強者の一人である。
この府中をダービーで制したウマ娘であるという事を差し引いても、彼女の末脚は明らかにクラシック級より逸出した力を秘めている事は、最早疑いようの無い事実であった。
「スペシャルウィーク。スズカから話は良く聞いている。……まさか、こんなにも早くレースで相見えるとは思わなかったがな」
「スズカさんが私の話をしてたんですか? わぁ、嬉しいなぁ……あっ! スズカさん、変な事とか言ってませんでしたか!? いつも一杯ご飯食べすぎてて不安だー、とか!」
「自分を慕ってくれる可愛い後輩とは聞いているが……自己の体調管理には、ゆめ気を付ける事だ」
「うっ……す、すみませーん……」
ころころと表情と声色を変えるスペシャルウィーク。そんな彼女にも、このジャパンカップに臨む寸前の余計な緊張は感じられなかった。完全な自然体であった。
サイレンススズカのルームメイトとして、そしてダービーで抜きん出た勝ち方をした事で、彼女についての話は聞いている。そして、聞いた話とほぼ同じな今の印象と、これまでのレースの実績が全く合致しないな、と思った。
素直で素朴で明朗。その上で、”三強”として今年のクラシック戦線の主役を張り続けてきた、紛れもない強者。その才能に関しては、自分のみでなくシンボリルドルフすら認める程であった。
「正直、エルもここでスペちゃんと戦う事になるとは思ってなかったデスよ。……菊花賞の疲れは大丈夫なんデスか?」
「うん! しっかり食べて、いっぱい寝たから大丈夫だよ! えへへ、昨日から今日のレース、ずっと楽しみにしてたんだー!」
「……このレースの前で、よくもその調子でいられるものだな、貴様ら」
ジャパンカップの出走直前にして、クラシック級とは思えない落ち着き――むしろ落ち着きが無いのか――で、エルコンドルパサーとスペシャルウィークは和気藹々としている。
この陽気さは見習うべきかと思う反面、本当に国の期待を背負っているという自覚があるのかという不安が湧き上がってくる。自然体である事は望ましいが、かつて自分が負けたレースをあまり軽い気持ちで挑んで欲しくないという気持ちはある。
クラシック級とはいえ、二人は両方ともGⅠウマ娘だ。過度な心配は不要だろうが、念の為釘は刺しておこう。そう思い、エアグルーヴは口を開く。
「分かっているとは思うが、ジャパンカップは軽い気持ちで穫れるレースでは無い。……海外のウマ娘のみならず、私を相手にいつまでも余裕など。そう保ち続けられると思うなよ」
分かりやすく、分かる様に圧力をかける。叩き付ける。
ジャパンカップというレースは、ファン達からは日本対海外という構図で見られやすいし、実際そういった側面がある。しかし、それ以前にこれは”レース”なのだ。
勝者はただ一人、他は全て敗者。同じレースに出る以上、全てが敵。仲良しこよしをする場では決して無い。
少なくとも此処には、お前らが勝つべき相手が一人居る。お前らを打ち倒す存在が居る。それを改めて教えてやる。
「――そんな事なんて。百も承知デスよ、エアグルーヴ先輩」
瞬間、エルコンドルパサーの雰囲気が変わった。
笑みが消え、こちらの圧力に対して睨み返してくる。マスク越しの瞳が透き通り、瞼が細まる。
威圧感は無い。ただ、空気が凪いでいる。エアグルーヴの圧を、意にも介さず。
「クラシック級でこのレースを制したウマ娘は未だ居ません。それを分かっていて尚、エルは去年にこのレースを穫ると宣言しました。……分かりますか、この意味が?」
揺るがない。目の前のウマ娘――”女帝”は紛れもなく強いウマ娘だ。そんな事など、直近のレースやこれまでの実績を見れば一目瞭然である。
だが、エルコンドルパサーは昨年末から決めていたのだ。このジャパンカップに勝つと、皆の前で宣誓したのだ。それがどういう事か、分かっていないのはエアグルーヴの方だ。
このレースは、
「誰が来ようが、誰が相手だろうが――
関係が無い。誰が来ようと、自分は最初からこのレースに勝つ事を決めていた。
相手が
引き下がれないレースだった。戻るつもりは無かった。
「知ってますか? ワタシの同期には、デビュー前からダービーに出ると決めて、出走するレース自体を全部練習に費やした、なんて娘が居たんデスよ?」
「……知っている」
エアグルーヴはそのウマ娘を知っている。その異常者については、エルコンドルパサーより以前から知っていた。
シンボリルドルフ自らが地方からスカウトしてきて、どんな原石かと思えば唯一無二の弱者。選抜レースですら絶対に勝てない、そう思わせておきながらデビュー戦も重賞も勝ち、最後には菊花賞まで獲ったイレギュラー。
そして彼女が辿ってきた道筋は、執念以外が存在出来ない一本道だった事もシンボリルドルフから聞かされた。大きな勝負だというだけで、思い入れも無くダービー・及び類似レースだけに出走を絞るという、完全に手段と目的が逆転した経緯。
レースの世界で強いウマ娘と言えばどれだけでも居る。しかし、そんなレースに対する価値観の違いから、この
「エルはそれを後から聞かされて、まだ自分の考えや在り方が甘かった事を思い知らされました。それからワタシは、真の意味でこのジャパンカップの勝利を望んで鍛えてきたんデス」
エルコンドルパサーはその道程を後からグラスワンダーより聞かされ、年末に誓った自分の目標に対しての在り方を考え直させられる事になった。
彼女自身にはそんな気は無かっただろう。だが、彼女の様に石に齧り付く様な強い想いで、自分はこのジャパンカップを目指せていただろうか。自分の誓いは、彼女の意志より強かっただろうか。
それをこの場・このレースでの勝利でそれを示すつもりだった。その為にやってきた。
――だから。
「
エルコンドルパサーは、
今のエルコンドルパサーの姿勢はエアグルーヴの言う様な余裕ではなく、
自分の親友が言う所の、”不退転”の覚悟を以て。
「今日のエルは、負けませんよ。誰にも、デス」
「……ほう」
エアグルーヴは自分の目の前で宣戦布告するエルコンドルパサーに、静かにしながらも内心で驚かされていた。
今のエルコンドルパサーは、強い。速さだとかそういう所ではない、もっと深い所――精神が強固である。未だクラシック級の過程にいるウマ娘とは思えない程に安定したまま、このレースに挑まんとしている。
迷いが無い。先輩である自分を相手に不遜とすら言える程、自信が漲っている。シニア級でもGⅠレースという大舞台を前に緊張する・体調を崩すなどして全力を出し切れないウマ娘は多い。しかし今のエルコンドルパサーにそれは無い。
彼女は全力で、本気で。自分に勝ってレースを制すると、真っ向から断言してみせたのだ。
「――そうはいかないよ、エルちゃん」
「……スペちゃん?」
それに対し、横から割り込む様に。スペシャルウィークがエルコンドルパサーへ声をかけた。
顔を引き締めるエルコンドルパサーとは対照的に、穏やかに微笑みながら。
「ねえ、エルちゃん。私達の夢って、似てると思わない?」
「……”最強”と”日本一”、デスか?」
「うん」
スペシャルウィークとエルコンドルパサー。この二人が日々掲げている大目標は、極めて類似している。
片や”日本一のウマ娘”、片や”世界最強のウマ娘”。言い方や規模こそ違えど、ウマ娘の中で頂点を目指すという方向性はどちらも同じであった。
年末に言い合った宣言、互いの夢のカタチ。しかし、スペシャルウィークはこれまで走ってきたレースと、この前の菊花賞から。ある一つの
「でも、違うんだ。すっごく、違った。エルちゃんの目指す所と、私が目指している所は。全然違ったんだよ」
「……どういう意味デスか、スペちゃん?」
エルコンドルパサーの目標は、単純にして極めて遠大である。何を以て”世界最強”とするかは、誰にも分からない。
誰よりもGⅠを勝てば良いのか。最も誉れあるレースとされる凱旋門賞に勝てば良いのか。本当に”世界で一番強い事”を証明するなら、極論世界の全てのウマ娘と競い合い、最後の一人になるまで勝ち続けなければならない。定義的には、そんな悪魔の証明染みた夢なのである。
しかし確かなのは、少なくとも日本で最強にならなければ世界でも最強とは言えない事だ。その為に”日本一”は、避けては通れない道である。
しかし。
「……このレースにスズカさんが出てたら、一番人気はスズカさんだったのかな。いや、多分スズカさんだったんだ。少なくとも私は、一番じゃなかったんだと思う」
「……まさか貴様、『スズカの代わりに勝つ』等という寝言を抜かすつもりでは無いだろうな。そんな無礼を――」
「違います、エアグルーヴさん。私がこの場に居る事は、スズカさんとは関係無いです」
サイレンススズカ。スペシャルウィークの憧れ。本当ならばこの場を走る筈だった、そしてスペシャルウィークも共に走るべくこの場にやってきたのだろう。そんなエアグルーヴが考えた”もしも”に対して、スペシャルウィークははっきりと否定した。
憧れの先輩と一緒にジャパンカップと走れなかった事は、極めて残念な事だ。一緒に走りたかったかと言われれば、迷わずそうだと断言する。しかし今回、スペシャルウィークがジャパンカップに出走するのは、サイレンススズカの幻影を追ってきた訳では無かった。
「ねえ、エルちゃん。私は、エルちゃんより負けてきたんだ。皐月賞で負けて、ダービーでもギリギリで、菊花賞も負けた。……でも、それでも。今日、私は一番人気を貰ってるんだ」
スペシャルウィークはこれまでのクラシック級のレースの結果を思い返す。今回一番人気を貰った理由は、今年のダービーウマ娘である事が最大の理由である。
エアグルーヴは前走・エリザベス女王杯より中一週という負担を不安視された。エルコンドルパサーは力量は申し分無いが、距離的な問題を疑問視されている。それを鑑みると、今年のダービーで異次元の末脚を発揮したスペシャルウィークは両方の問題を解決している。
しかしそれでも、スペシャルウィークは今の自分の実力が”異次元”とされた憧れの先輩に届いているかどうかは疑問だった。疑問の上で、しかし今回一番人気だった。
「私は今日、ファンの人達に”一番”に思われてる。皆が私に、期待してくれてる。……多分きっと、こういう事なんだと思う」
「どういう事、デスか?」
「”日本一”って事」
本来この
その彼女は不幸な事故によりこの場に立てず、入れ替わりの様に自分が一番人気を貰った。だが、
サイレンススズカが勝ってくれる、そう信じているサイレンススズカのファンがそのままスペシャルウィークに人気を渡した訳では無い。スペシャルウィークは、スペシャルウィーク自身のファン達によってこの
ダービーウマ娘の力を見せてくれと。あの時の末脚を見せて欲しいと。”スペシャルウィーク”を見たいと。そしてそれこそが、自分が求める夢に限りなく近い事であると考えていた。
「私は、日本で一番強いんじゃない。だけど、皆が一番期待してくれてる。……だから私は、応えなきゃいけないんだ」
スペシャルウィークは”日本一”を目指している。しかしそれは、決して無敵の存在ではなかった。
”三強”と呼ばれ始めた頃、自分は皐月賞でセイウンスカイとキングヘイローに負けた。”日本一”の第一歩で躓き、一度は自分の夢を疑った。それでも尚、自分は期待された。
この世代で”三強”と呼ばれる、突出したライバル達の中であっても。『スペシャルウィークなら勝ってくれる』、そう思われ続けてきたのだ。
――だから。
「私は、”日本一”になる。日本で一番、期待を背負えるウマ娘になる。
それが今、スペシャルウィークが辿り着いていた結論だった。
自分は”最強”ではない。しかしそれでも、”日本一”になる事は出来る。日本で最も強いのではなく、日本で一番
サイレンススズカが今回出ていれば、今日の”日本一”は彼女だった。だが、
そして、
「だから今日、私が勝つ。私だけじゃない、皆がかけてくれた夢の為に――
朗らかに、何時もの様に笑いながら。スペシャルウィークは、そう断言してみせた。
その様子はエルコンドルパサーとは真逆だった。このレースの為に全てを賭けて臨んできたエルコンドルパサーに対し、スペシャルウィークは
菊花賞の後、負けても清々しい気持ちになれた。自分の走りが出来て、自分の限界にまで至れて、その境地で友人達と競い合えて。当然悔しさはあった、しかしそれ以上のモノを得られたと思っていた。
勝つだけが全てでは無い。負け続けて良い訳では無い、しかしレースの勝敗とは自分の夢にとって目的ではなく、
だからこそ勝つ。”日本一”と誰からも信じられて、自分自身で”日本一”と胸を張れる様に。このジャパンカップは、その一歩なのだ。
「だから。勝負だよ、エルちゃん」
「……良いデスよ、スペちゃん。”ダービーウマ娘”、それを倒さない限りどちらにせよエルは”最強”と言えません。……勝つのは私デスよ、”日本一”」
穏やかに笑いかけ、好戦的に笑い返す。そうしてスペシャルウィークとエルコンドルパサーは、地下バ道より二人揃ってターフへと向かった。
それをエアグルーヴは黙って見送る。完全に二人の世界を形成していた、あの会話の中に余計な言葉を挟もうとは思わなかった。何を言っても野暮で陳腐となるだろう、そんな感じがしたから。
二人共GⅠウマ娘である、過度な心配は要らない。話の前はそうとだけ思っていたが――
「……最早、クラシック級の小娘達とは言えんな、アレは」
心配の余地など、最初から無かった。エアグルーヴはそれを逆に教えられる羽目となった。
クラシック級でジャパンカップを制したウマ娘は居ない。そんな歴史など一切関係無く、彼女達は自分の夢の為に此処にやってきていた。その覚悟を目の前で聞かされ、杞憂も良い所だとエアグルーヴは自省する。
こちらの圧力にもまるで動じず、己を貫く精神の完成度。それはレースの実力だけでは身につかない、確かな経験の積み重ねでしか得られないモノだ。それを二人は、シニア級の重賞ウマ娘達にも引けを取らない程に持ち合わせていた。
「会長も言っていたが……実に、面白い世代ではないか」
あの”皇帝”シンボリルドルフすら認める、この世代。ジャパンカップという大舞台において、確たる
今のシニア級でもあれ程のウマ娘は早々居ない。既に彼女達の器は、クラシックという枠組みを超えているだろう。あの二人を見て、”女帝”の眼はそう見極めた。
面白い。実に、実に面白い。柄にも無く心が高揚し、口角が上がっている自覚がある。エアグルーヴはあの二人を、このレースにおける確かな好敵手として認めた。
「『私が勝つ』、か。私を目の前に良くぞ言ってくれたモノだな。……それなら、見せて貰おうではないか」
エアグルーヴが地下バ道からターフへと向かう。この”女帝”を前に、疑わず自分達が勝つと言い切った二人。
その覚悟と実力が本物か、自らの瞳と脚で見極めさせて貰おう。ここで私を負かせられない様であれば、どんな高い目標にも届かない。私を納得させられないのであれば、どんな遠い夢にも至れない。
勝つのは私だ。”女帝”として、私が勝つ。それを覆せるモノならば、覆してみせろ。そう強く想いを固め直し、エアグルーヴはレースへと向かった。
――そして。
◆ ◆ ◆
「――ぅぅううあああーーーッ!!」
「……うああああぁぁーーーッ!!」
最終直線、レースの最終局面。エアグルーヴは、二つの背を見た。
自らと並び、空を飛ぶ様に突き放した翼の如き赤いマント。
後ろより飛来し、ターフを貫く様に駆けて行く白紫の流星。
彼女達は、速かった。未だクラシック級である事も、海外の強豪達が居る事すら忘れさせる程。自分よりも速く、誰よりも速く、ゴールまでの道筋を走り抜けていった。
そして、
◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆
――時は少し流れ、同年・十二月二十七日。一ヶ月前、ジャパンカップを日本ウマ娘三人が上位独占するという快挙の熱狂もようやく収まり、この年最後のGⅠレースの日が訪れた。
有馬記念。中央レースの一年を締め括るGⅠにして、夢の祭典。ファンからの投票によって上位を得たウマ娘――つまる所、確かな実力と人気によって認められたウマ娘だけが立つ事を許される、選ばれし舞台である。
上半期の宝塚記念、下半期の有馬記念。クラシック・シニアという垣根の存在しない、ファン達が望んだウマ娘達が集い走り合うトゥインクル・シリーズの二大祭。そこに、
「……まさか、こっちに来るとは思ってなかったわよ、グラスさん?」
「ふふっ。いえいえ、マイル路線を走るだけでは皆と走れませんからね~。私、ずっと皆と走りたかったんですよ~?」
「うえー、グラスちゃんまでこっちの路線来ちゃったかー。こーりゃ逃げるのも一苦労だわー」
キングヘイロー・グラスワンダー・セイウンスカイ。この年のクラシックの主役と言われてきた彼女達は、返しウマを行う前にターフの上で互いに対面していた。
今年の三冠レース、即ちミドルディスタンス以上で常に好成績を収めてきたセイウンスカイとキングヘイローがこの場に立つ事は自然である。彼女達は皐月賞の一・二着であり、2500メートルとはいえ中山レース場で行われるこのレースにおいて、好走が期待される事は自然な事だった。
しかし意外なのは、ファンからの人気が高いとはいえ、生粋のマイラーと見られていたグラスワンダーがこの場にやってきていた事だった。
「実は、正直に言うとですね。私は元々、エルやスペちゃんとジャパンカップで競える様に、調整していたんですよね~」
「あー。それで前走はアルゼンチン共和国杯だったんだねー」
エルコンドルパサーと並ぶ世代屈指のマイラーと見られていたグラスワンダー。しかし彼女は当初、
彼女はマイルカップを逃し、毎日王冠でもサイレンススズカにより共に敗れ去ったエルコンドルパサーと、ダービーウマ娘たるスペシャルウィークが同時に出るジャパンカップでの対決を考えていた。そして自らの距離不安と脚部負担を考え、慎重にステップを踏んでいたのである。
アルゼンチン共和国杯、東京2500メートル。マイラーとしての彼女にとっては長いとされ、シニア級のウマ娘も揃うレースで、グラスワンダーは五着止まり。そしてその結果と脚の調子を見て、ジャパンカップは回避した。
――だが。
「ジャパンカップでエル達と走れなかったのは少し心残りですが~……その無念。今日は此方で、存分に晴らさせて頂きますね?」
「うわー、こっわぁ……すっごい綺麗な笑顔で怖い事言うよねー、グラスちゃんはさぁ」
「……良い気迫ね、グラスさん。それなら、このキングに挑戦する権利をあげるわ! おーっほっほっほ!」
誰もが振り向くだろう華やぐ様な笑顔で、グラスワンダーは宣戦布告する。
グラスワンダーは
今この場に居るのは、ジュニア最強と謳われた”怪物”・グラスワンダーだ。その自負と自信を持ち、彼女はこのレースに臨んでいた。
「……そして……」
「……まぁ……来たねぇ……」
「……はい……」
そして今年の世代の中央に居続けた三人は、視線を揃える。
揃えた先に居るのは、一人のウマ娘。有馬記念にはあらゆるウマ娘達が集う、よって出走するのは主に現シニア級の強者達である。
ジャパンカップで三着を獲りつつこの場にも来たエアグルーヴ。シニア最強ステイヤーと言われるメジロブライト。”女帝”にエリザベス女王杯で土を付けたメジロドーベル。他にもトゥインクル・シリーズ最強クラスの相手が、この場には揃い踏みとなっている。
しかし、彼女達が揃って見ているウマ娘は、その誰とも違っていた。
「キングさーん、セイちゃんさーん、グラスさーん。がんばってくださいねー」
異端の象徴、ドロップスティアー。三人は彼女に視線を寄せていた。
――
「――な、ん、でっ! なんで、あなたは、他人事みたいに言ってるのよぉぉぉ!」
「え、いや……なんでって言われましても……キングさん達三人を応援するのに理由とかいります……? あとキングさんのそのツッコミが欲しくって、つい……」
「あっはっはっ。スゴいや、皐月賞と全く掛け合いのテンポが変わってないじゃん二人ともー」
「……ふふっ」
トゥインクル・シリーズ、年末の祭典。全ウマ娘・レースファンが注目する最後のGⅠ、有馬記念。それにドロップスティアーは出走しに来ていた。
彼女はこの世代において、”三強”を相手に菊花賞を獲ったウマ娘である。”最も強いウマ娘”を決めるレースを制した彼女には、十分有馬の舞台に上がる権利を持つ。
そして実際に上がってきた。しかしそれはそれとして、友人三人を応援する気持ちも両立しているというだけであった。
「あなたねぇ! 有馬記念は年に一度なのよ!? 出走してるのになんで他人事みたいに一歩引いた感じでこっち応援してるのよ!」
「一年に一度のキングさん達のレースをターフ上の絶好の位置で応援する――そんな絶好の機会、たった一度だけでしょう……!?」
「あははは! ホントに皐月賞の時と同じ事言ってらー! ……立ち位置は変わってるけど、さ」
「い、以前もこんな調子だったのですね~……」
かつて重賞を獲っておきながら、三冠レースの一角たる皐月賞を『絶対勝てないから』と堂々回避した伏兵。そんなドロップスティアーはその時とは打って変わって、この強者が揃う年末のGⅠレースに出走登録していた。
勝ち目のある大勝負を狙うだけの筈の彼女が、格上ばかりが揃うこの場所に。
「……失礼と思われるやもしれませんが~……ティアちゃんがこのレースに出るのは、意外でした」
「そだよねー。皐月賞じゃ『勝ち目あると思います?』とか言って、最初から蹴ったくせにさー」
これに関して言えば、グラスワンダーとセイウンスカイは揃って意外と思っていた。
彼女は自分の実力を弁え、出走レースの時点より予定を絞り、奇策を以て大勝負の細い勝ち筋を通すウマ娘である。しかし彼女は菊花賞からレースに出ていない――つまり、中山レース場を走った経験が無い。
ダービーの予習の為に一年をかけたり、菊花賞でハメる為に神戸新聞杯に出る様な、そういういつもの手口を一切介さず。彼女はこの有馬記念という大舞台に上がってきたのだ。
「こちらからすれば良いリベンジの機会とはいえ……確かに、貴女の柄じゃ無いと私も思うわね。どういうつもりかしら?」
「……キングさん。
「アレ?」
「
「「「――!」」」
ドロップスティアーの返答に、その場の三人が瞠目した。
菊花賞のラスト。完全に差し切られたと誰もが思った瞬間、爆発的な加速によって刹那的に差し返した、ドロップスティアーの”爆ぜるピッチ走法”。あの走りを使える様になった、そう言われて一瞬にして緊張が張り詰める。
彼女の菊花賞での勝利の最大の要因は、消えるエッジインという立地限定の技によるリードだった。しかし最後の決め手は、あの”末”という言葉を体現した様な爆発的加速。あの時の彼女は、刹那的ではあったがスペシャルウィークの速度すらも上回り、絶対的な敗北を覆してみせた。
最後の最後、逆転勝利をもぎ取った技。実際に負かされたセイウンスカイとキングヘイローにとって、それが自在に使える様になったと言われれば、警戒しない方が無理があった。
――の、だが。
「……はぁあぁあぁ……あれからメッッッチャ、メチャクチャ、死ぬ程辛かったんですよぅ……うぅぅ……」
「ど、どうしたのですか~? いきなり、その、憔悴し切った様相となっていますが……」
その場の警戒度がマックスに達した瞬間、風船から空気が抜けた様にドロップスティアーの顔から生気が失われる。玉手箱を開いて老化したんじゃないか、そういうレベルで彼女の雰囲気が弛緩して爛れた。
どうした急に。三人揃ってドロップスティアーの様子の急変を怪訝に思い、その思考を代弁する様にグラスワンダーが問いかけた。
「……話長くなるんで言いませんけどぉ……アレ覚えるまで、泣きたくなるぐらい苦労したんですよぉ……」
◇ ◇ ◇
「だあほー! いつものズブ脚じゃねーか! 全然あん時のノビが出てねーぞー!」
「うっさいですよぉー! こっちは記憶手探り状態で必死にやってんですよぉー!」
爆ぜるピッチ走法。菊花賞の疲労が抜けた後、名入は徹底的にこの技の使い方をドロップスティアーに思い出させようとしていた。
しかし彼女の真の走りは、半生以上も死んだ様に眠っていたモノが、”三強”という最大級の危機によって叩き起こされたに等しい形で発揮された。そんな特殊な経緯で生まれた走法が故に、全く再現出来なかったのである。
これは名入にとって、完全にお手上げな問題だった。名入はデータ的なトレーニングやレース予測しか出来ないトレーナーであり、ウマ娘の本能に関わるモノなどどうアプローチすれば良いのか、完全に理解不能であった。
どうすりゃこいつアレ思い出すんだよ。そう名入が愚痴りながら、夜霧の中で空の雲を掴むに等しい手がかりゼロと言える反復練習の最中にて。
「ねえねえ、キミキミ! アレ、アレ! 菊花賞の最後のあの走り、もっかい見せてよ!」
「あっ、シーさん」
「……はぁ!? ミスターシービー!?」
とんでもないサプライズエンカウント。三冠ウマ娘・ミスターシービーが目を輝かせながら、唐突にドロップスティアー達の前に現れた。
彼女も当時、菊花賞を観戦していた。そしてレースの行方を最初から最後まで存分に楽しみ、そして興味を持った。
前例の無い差し返しによる逆転劇、爆発としか言いようが無い異常な加速。最後の最後、真のラストスパート。あの走りを生でもっかい見てみたい、そんな目新しい新商品を見つけてデパートに来たぐらいのノリで、彼女は来訪してきたのである。
「いやー、それが申し訳無いんですけど……アレ、もう出来ないんですよー……」
「えっ? 出来ないって……なんで?」
「あの走りをした時は全然余裕無くって、ギッリギリまで追い詰められてたから、なんか出ちゃっただけで……やり方、完全に忘れちゃったんですよ……」
すみませんそれ今売り切れてるんですよ。ミスターシービーの期待をそんな風に裏切る形で、渋々ドロップスティアーは自分の無能を告白せざるを得なかった。
菊花賞のラストにおいて、ドロップスティアーが自分の本当の走りを見出したのは様々な要因が絡んでいた。極限まで追い詰められた状況、生まれて初めて掛かるという本能の発露、積み重ねていた記憶の想起、力と技の完全な融合。
彼女の真の走りは、一つや二つで済まない数多くの要素が全て噛み合い、ようやく一瞬だけ発現にまで至った代物である。それ故に名入もドロップスティアー本人も、どうやれば良いのかまるで分からない状態にあった。
「なーんだ。それなら簡単じゃない。一瞬心配しちゃったよ」
「え?」
が、ミスターシービーは本気で申し訳無くしょぼくれているドロップスティアーに対し、『そんな事かー』ぐらいの軽い態度で返した。
簡単とはどういう事か。もしやミスターシービーには、あの走りのやり方が分かるというのか。いや、分かっていても全くおかしくない。
そもそもあの最終局面・極限状態において、ドロップスティアーの再起の切っ掛けとなったのは、ミスターシービーの問いかけだった。彼女は誰よりも早く、ドロップスティアーの内側にあった
「じ、自分、出来るんですか、アレ!?」
「出来る出来る、安心してよ。全く、ヘンに複雑に考えなくて良いんだよ、こういうのは」
屈託なく笑いながら、ミスターシービーは断言する。自分ですらどうやれば良いのか分からない、そんな走りが簡単に出来ると。
流石はシーさんだ。自分が提案した
ドロップスティアーは目を輝かせながら、ミスターシービーに質問した。
「どうすればいいんですか!? アレが出来るんなら、なんでもしますよ自分っ!」
「簡単簡単。キミ、ギリギリまで追い詰められたから、あの走り出来たんでしょ?」
「はい!」
「なら、
「……はい?」
そう言いつつ、ミスターシービーはウインクし。
「アタシがキミを追い詰めてあげるよ。アレが出るまで、徹底的にね」
――地獄が、始まった。
◆ ◆ ◆
「あっはっは、ダメダメ、全っ然ダメだよー! ほら、もう一回もう一回! 立って立って!」
「お、ぉあ゛ぁあ゛ぁあ゛……」
「うーん、コレでもまだ足りないのかな。……しょうがない、もう少し本気出さないとダメか」
「ひ、ひぃぃぃ……ッ!」
それからミスターシービーはドロップスティアーに対し、併走と言う名のシゴキを始めた。
全ては自分の興味の為。あの走りを間近で見たい為に、ミスターシービーは自分の全力を以てドロップスティアーを追い立て回し、本気の圧力をかけて追い詰め続ける。
名入はこれに対し、完全に傍観に回った。自分では理解不能の分野のトレーニングにおいて、かの三冠ウマ娘が手解きをしてくれるのだ。自分が出来る事は、まぁせいぜい壊れないように監視するぐらいだろう。
そう思っていると、這々の体でドロップスティアーが名入の元へとやってきた。”這々”という名の通り、本当に四つん這いの無駄に高速なハイハイ歩きで。
「た、たすけっ、たすけろ下さいばかトレーナーさん! やめて下さいよシーさんが本気になったら自分が敵うハズないでしょうが! 泣きますよ終いにゃ!」
「知るかだあほ、勝手に泣いてろ。つーかお前がさっさとあの走り出来りゃシービーも満足して円満解決だろ、さっさとやれ」
「だから出来たら苦労してないんですってぇぇぇ!」
「なーんだ、まだまだ元気一杯じゃない。傷付くなぁ、アタシも頑張ってキミを追い詰めてるつもりなのに……まだあの走りを出す程、本気になってくれないんだ」
「うあ、あぁぁっ……! お、おたすけっ、たすけてぇっ……!」
菊花賞を獲ったウマ娘とは思えない程に情けない姿勢で名入の足元に逃げ込むドロップスティアーの後ろで、ミスターシービーは仁王立ちしながら笑いかける。しかしその目はまるで笑っていなかった。
ミスターシービーの洞察は正しい。掛かる事をトリガーとして生まれた走法であるならば、掛からせれば良い。そして掛からせるならば、圧力をかけ続けてやれば良い。
並のウマ娘であれば、ミスターシービーという圧倒的強者に常に迫られ続け、一度も掛からないなどという事は無い。しかしドロップスティアーというウマ娘は、トラウマを克服した事で死を目前としても掛からない、ウマ娘の本能を完全に閉じ込める程の理性の持ち主だった。
故に掛からない。掛かれない。様々な要因が重なった菊花賞が例外だっただけで、散々ビビり散らかしている彼女を掛からせるのは、ミスターシービーであっても困難であった。
「いやぁ、こんなの初めてだなぁ。欲しいモノがすぐそこにあるのに、それを持ってる人が見せてくれすらしないんだ。……俄然、やる気出ちゃうよねぇ」
「ひぃんっ……! ち、ちがうんです、必死なんですコレでもぉ……!」
その事実に、ミスターシービーは嫉妬を覚えた。何せそれは、
自他共に認める気分屋のミスターシービーは、一つ処に留まり続けるという事は基本しない。今日はそういう日じゃなかった、じゃあ別の日にでも来よう。そういう竹を割った様な精神を持ち、そしてその決めた事をその日の内に別の目的にすり替える程の気まぐれさを持つ。
しかし、今の目的はすぐ目の前にあるのだ。たった一回本気で走ってくれるだけで良い、そしてそれは自分が一緒に走るだけで達成し得る。にも関わらず、相手はその
それがミスターシービーの移ろう心を固定させた。なんとしても、このウマ娘を手づから本気にさせてやる。それをモチベーションに、ミスターシービーは今この場に固執していた。
「別に難しいコトじゃないってば、一回見せてくれるだけで良いんだってさー。だからさ――そろそろ、全力でやりなよ」
「た、たーいむっ! タイムアウトです! ちょっと、ちょっと相談をさせて下さいっ!」
「ん?」
ミスターシービーが更にプレッシャーのギアを上げた瞬間、ドロップスティアーは両手でTの字を作り、一時中断を申し出る。
相談と言われても、何も相談する事は無い。なんと言われてもミスターシービーはドロップスティアーを掛からせるべく追い立てるつもりだし、トレーナーもそれを止める気配が無い。それはドロップスティアーも良く分かっているだろうに、何を言おうとしているのか。
「トレーナーさん! スマホ! 自分のスマホ貸して下さい! 可及的速やかに! はりーあっぷ!」
「あん? ……ほらよ」
だがドロップスティアーが相談したいのは、この場の二人では無かった。
この場に突破口は無い、ならば別の抜け穴を探す。追い詰められたドロップスティアーは、そういういつもの思考に至って、そして思い付いた。
この状況を打開し得る一手。自分にとって、救世の神を呼び出す事を。
「も、もしもしっ、ライスさん!? ライスさんっ、ちょっ……すぅーっ。ちょっと、相談をさせて頂きたくっ!」
◆ ◆ ◆
「……な、なるほど……大変な事になっちゃってるね……」
「ライスさん……ライスさぁん……うおぉおぉん……」
尋常でない
出来なくなった末脚の出し方。どれだけトレーニングしても思い出せず、その結果ミスターシービーというレジェンドウマ娘に手解きを受けて――というか、圧伏に近しい状況に陥っている事。
自分の脚に縋り泣き付く――涙は鋼の理性が止めていたが――ドロップスティアーに対し、ライスシャワーは複雑な表情を浮かべ、この状況について思案した。
即ち、自分はこの後輩に何が出来るか。この後輩に対し、どうすれば力となれるのか。
「変なジャマはしないでよねー? これはティアとアタシの問題だし、間違いなくティアの為になる事なんだからさー」
ミスターシービーの言う事は半分だけ本当だった。このトレーニングが上手くいけばドロップスティアーの為になるのは紛れもない事実なのだが、その根底にあるのはミスターシービーの純粋なる興味だけである。
しかしそんな意識に関わらず、絶対に役に立つという側面から考えると、この三冠パワーのシゴキを止めさせる事は不可能である。というか、普通のウマ娘であれば金を払ってでも受けたい併走なのだ。
だが、ドロップスティアーがそれに音を上げ始めているのもまた事実。誰かに愚痴を吐く事すら頭に無かった、精神的な孤独。ライスシャワーにも覚えのあるその心根を密かに抱えるこの後輩が、形振り構わずこちらに頼ってきた。これは余程の事である。
なのでライスシャワーは、これまでの自分の経験と記憶をフル動員させ、どうすべきかを考え――そして、思い当たった。
「……あのっ、ミスターシービーさんっ! もしかしたら、なんですけど……状況が良くないのかも、しれないです」
「え、状況? ……どういう事?」
「ティアちゃんの菊花賞は、ライスも見てたんですけど……単に、追い詰められてたってだけじゃなくって。すっごい強い友達の皆に迫られるっていう、いつも以上の状況があって。だからいつも以上の力が出せたんじゃないかな、って……昔のライスも、そうだったから」
ライスシャワーは数多くのGⅠに出走してきた、中央でも上澄みの強者である。しかし実の所、GⅠを穫れたのは極めて限定的な状況でだけで、GⅡ以下でも中々勝ち切れない事が多かった。
それは彼女の性質に所以している。中央屈指のマーク屋である彼女は、そのレース中に最も強いウマ娘を最初に見極め、ペースを合わせて最後に差し切るのが彼女の最も得意とする走りだ。
そしてライスシャワーの代表的なレースと言えば、ミホノブルボンを相手にした菊花賞と、メジロマックイーンを相手にした天皇賞・春。この圧倒的強者に挑んだレースにおいて、ライスシャワーは当時のレコードを出す程に自分の全力の走りを発揮出来た。
ならば、ドロップスティアーもそういう性質を持っているのではないか。
「ミスターシービーさん一人に迫られるだけじゃ、あの菊花賞の時みたいな感じになれなくて。だから、ティアちゃんは上手く走れないんじゃないかな……って、ライスの勝手な考えなんですけど! その、ミスターシービーさんを悪い風に言うつもりは無くって!」
「いや、分かる分かる。なるほどねー、アタシもそういうのあるからなー。エースとかルドルフとかマルゼンと走る時は、すっごいやる気出るし」
それを聞いたミスターシービーも、納得に至った。ドロップスティアーの冬眠状態だった本能が掛かったのは、純粋な圧力だけではなく相手と状況が関わっている。
確たる目標では無く、その日の気分や相手によって力量が大きくブレるミスターシービーにとっても、それは分かりやすい説明だった。そこら辺の知らない相手と併走しろと頭ごなしに言われても、自分はやる気が出せない。今自分がやる気を出しているのは、ドロップスティアーの走りに興味があるからだ。
それを逆に考えると、ドロップスティアーの今の状況はあまり宜しくない。ビビる事で全力を出してはいるが、菊花賞とは状況が異なるせいで本気にはなりきれていない。そう考えると、ちょっとだけ申し訳なくなった。
でもそれはそれとして、本気にはなって欲しい。これまで見た事も無い様な面白い
「じゃ、どうすればいいと思う?」
「えと、えと。……近い状況を
「『作る』?」
「ライスにとってブルボンさんや、マックイーンさんと走った時みたいに。本気を出せた時に近い、そういう形で走れば。少しはやりやすくなると思うんです」
「さっすがライスさん! ……でも、どうすればあんな状況を再現出来るんです?」
流石はライスさんだ。自分が迷う中で救いの手を差し伸べ、慈母や聖人の如き精神性を持ち、当時最強ステイヤーと謳われたウマ娘。その視野は自分如きでは想像も出来ない程広いのだろう。
ドロップスティアーは目を輝かせながら、ライスシャワーに質問した。
「……ちょっと、気が引けるけど……
「……はい?」
そう言いつつ、ライスシャワーはぐっと両拳を構え。
「あの走りが出来るまで、頑張ってライスがついてくね!」
――地獄から、逃げられなくなった。
◆ ◆ ◆
「あっはっはっは! ほらほらー! まーだ足りないのかなー!?」
「ついてく、ついてくっ……!」
「おあ゛ぁあ゛ぁあ゛ッ……!」
それからライスシャワーはドロップスティアーに対し、併走という名のマークを始めた。
菊花賞の状況の再現。それはつまり、自分より強い相手に囲まれた状況で、複数の圧力を間近で感じながら限界まで追い込まれる事。その為にライスシャワーは、必死で走るドロップスティアーに対して、ピタリと張り付く様に走り始めた。
その日よりドロップスティアーの受ける圧力は倍加した。下手に並のウマ娘より遥かに強固な理性を持ってしまった彼女を掛からせるには、やはり追い詰めるしか方法が無い。
極限まで削ぎ落とした体に鬼が宿る。そう語り継がれる程のハードトレーニングを経験した事があるライスシャワーは、複数の走りと別種の圧力を当てるという、自分がかつて経験した負荷に近い精神へのハードトレーニングによる更なる荒療治に出た。
「むー、これだけやっても、まだ本気になれないかー。なんにも考えず、頭空っぽにして楽しく走るだけでしょ? 何がそんなに難しいのさー」
「楽しめますかこんな状況ぉっ! シーさんとライスさんに本気で追い立てられて自分が敵うハズないでしょう! 泣きますよ終いにゃ!」
「う、うぅん……でも、まだあの時みたいな感覚にはなれてないんだよね……?」
「……まぁ、ハイ。そうです」
「じゃあやっぱり、頑張るしか無いよ。ね、もうちょっとだけ、頑張ろ? ……おー!」
「……お、お゛ぉぉぅ……」
ライスシャワーの洞察は正しい。複数人の圧力を受け、限界まで消耗して迫られて掛かったのならば、より多くの人数で圧力をかければ良い。
なのでライスシャワーは菊花賞の状況を思い出し、ミスターシービーに全力の追込を頼み、自分は間近でマークしていつでも抜かす寸前のマークをし続ける。これはスペシャルウィークやセイウンスカイに迫られた時に酷似した形であった。
だが、それでも掛かれない。掛かりたいのに掛かれない。現状は死よりも遥かに恐ろしい、そうヤマ勘はオーバーレブを起こしているのだが、最後の一線を超えられない。
死ぬ。死なないまま、何かが死ぬ。そんな矛盾を、自分の勘が感じ始めた頃に――
「……なんか、変わった集まりだね。何してんの、ティア?」
「テ……テイオー、先輩ッ! へ、へるぷ! へーるぷ、ですっ!」
最強の助っ人が、光景の物珍しさに釣られてやってきた。
◆ ◆ ◆
「……そっか。アレ、出来なくなっちゃったか。で、今も出来ない、と」
「そーなんですよぉ! 自分、これでも必死でやってんですってぇ! でも、どんだけ怖くてもアレ出来ないんですよぉ! なんとかなりませんか、テイオー先輩!?」
トウカイテイオーはこれまでの経緯を、涙無く泣き喚くドロップスティアーより聞いた。それは半分ぐらいは予想通りで、半分は予想外であった。
彼女にトウカイテイオーが授けた言葉は、ただのおまじないである。最後のピースとして噛み合ったのは間違い無いが、結局それはまぐれで出来ただけという域は脱し得ない。
しかし、ミスターシービーやライスシャワーの圧力を受け続けても掛からないというのは、最早一つの異常事態だ。三冠ウマ娘と黒い刺客、その二人がかりで迫られてもウマ娘としての本能が眠りこけている。肝心の本人はビビり散らかしているが、その心の内側にある理性の殻は凄まじく堅く閉じられている。
一度レースの中で本能が発露した以上、その殻に罅は入っている。そんな後輩の無様極まりない叫喚っぷりを流し見しながら――トウカイテイオーは、
「……殻、か……そっか、成程。アレに似てるんだ、今の状況」
「え、え? な、なんか分かったんですかテイオー先輩?」
「多分だけどね。……ねぇシービー、ライス。今のこれ、アレに近いって思わない?」
「アレ? えーなになに、なんか分かったの?」
「”
「……”ぞーん”? なんですソレ?」
”
そこに至るウマ娘は時代を作る、そう称される走りの極致。心・技・体、その全てを極めて尚届かず、それらの限界を超えてようやく一時的に入れるとされる、超過集中状態。
当然だが、ドロップスティアーというウマ娘は”領域”などという境地からは程遠い存在だ。何せ、最近になって初めて自分が最も速く走れるスタイルを見つけたという、競走者としては論外レベルの出遅れをかましているウマ娘なのだから。
だが、
「めっちゃくちゃ簡単に言うと、レース中にすっごい集中して、限界を超えた走りを出来る状態になる事だよ。自分自身ですら知らない”限界の先の先”、カイチョーはそう表現してたっけ」
「ほえー……で、そのなんかめっちゃスゴそーな技の、何が似てるんです?」
「キミのあの走りは”領域”って訳じゃないけど、今まで出来なかった走りだ。自分でも分からない程の一時的な速さと、やろうとしても中々出来ない事。この二つは、”領域”に足を踏み入れる前のウマ娘と似てるんだよね」
ドロップスティアーの”爆ぜるピッチ走法”。これは彼女の真の走り方であり、自分の本気であり、自身の限界である。しかし彼女には競走者としての致命的な欠落故に、これまでは全力で走っている
限界の先の先である”領域”から見て、言わば
そういう相対的な位置において、ドロップスティアーの現状は”領域”の手前に居る一流ウマ娘に近い状況であると、トウカイテイオーは看破した。
「”領域”はウマ娘の走りの極みみたいなモノだし、キミはそのレベルじゃない。だけど、逆に言えば”領域”なワケじゃない以上、もう一回出来れば十分やり方を思い出せると思う」
「……それが出来れば苦労してないんですってぇ……」
「大丈夫、任せてよ。良い考えがあるから、ボクも協力してあげる」
「テイオー先輩自らが!?」
流石はテイオー先輩だ。この中央で自分を最初に導き、菊花賞前にはその慧眼から
「――”領域”ってさ。要は、心と体が完全に自分が思う通り動かせる状態なんだよ」
「……テイオー、先輩?」
でも、どうするんですか? そんな三回目の天丼をかまそうとした所で、トウカイテイオーの雰囲気が変わる。
「三回骨折して、今までの走りが出来なくなったって言われて。ボクもそれからどう走るか、色々考えてさ。……で、思ったんだよね。それなら、今の自分に出来る走りの
トウカイテイオー。彼女は、”天才”と呼ばれている。それも、レースの世界で頂点を極めるこの中央トレセン学園の中において、誰もがそう認める程の才の持ち主だった。
そして彼女は、時代を創った。無敗の三冠を誰からも期待され、三度の骨折という絶望すら乗り越えて有馬記念を獲り、そして今も走り続けている。
自分の脚はまた骨折するかもしれない、そう言われてはいる。だからトウカイテイオーは、今の自分に出来る事を考えた。
「ボクはキミに
トウカイテイオーは、真の意味で”天才”だった。”領域”に入り、体感し、理解した。
”領域”にはそう易々と入れない。限界の先の先、レースを走る極限の集中下において、唐突にその扉は開かれる。同じ走りや心境であっても、己の限界の先にしか存在しないその
……
「
――地獄が、絶対と化した。
◆ ◆ ◆
「――ふう。まぁ、コレで七割ぐらい、かなぁ……?」
「へー、やるもんだねえ。流石、ルドルフのお気に入りなだけあるなぁ」
「ティ、ティアちゃん。大丈夫……?」
「……う……あ……ぁ゛……」
数分後。練習場には、かつてドロップスティアーだったモノが転がっていた。
トウカイテイオーは併走に参加し、そして
ウマ娘の限界の先にある”領域”とは、極限の集中状態。だからこそ易々とは入れず、その中で走る事は体力を大きく削る。しかしトウカイテイオーはその性質を、完全に無視していた。
レースでも無い日常の中、任意で”領域”に入り込む。極限の集中という自分の心身を最大に把握出来る状態を逆用し、
”領域”の完全制御。そんな奥義の
「これが”領域”だよ、ティア。まぁホントはレースの中で全力出す為に使うから、今やってるのは殆ど威圧みたいなモンだけど……」
「……これで、全力じゃないんですか……? 走るって気力、全部奪われんじゃないかなってぐらい、ビビらされたんですけど……」
「ゴメンねー、流石に影響までは加減出来ないからさー。でも、コレなら手本としては十二分でしょ? ……足りないとか、言わせないよ」
「ほ、げぇえぇえ……」
”帝王”の真価、”絶対”を己のモノとする力。間近でその本当の力を受ける羽目になったドロップスティアーは、もう掛かるどころでは無かった。
初めて浴びる”領域”の圧力は、警鐘を慣らしすぎた勘が麻痺する程の恐怖であった。こんな次元の違いがあるのか。仮にも”三強”に勝って菊花賞を獲ったウマ娘でありながら、ドロップスティアーは完全なる格の違いを叩き込まれて、ハートがギザギザに刻み付けられていた。
「忠告だけど。ちょっと危機感持った方が良いよ? シービーだっていつ興味失ってどこ行くか分かんないし、ライスに時間取ってもらうのも限界あるだろうし……あと、ボクに
「ひ、ひぃぃぃ……ッ!」
”領域”の後に残存する獣性から、トウカイテイオーは残酷な事実を通告する。
その洞察は正しい。ミスターシービーは現状を見込みナシと見なし、一度でも退屈だと感じてしまえば、関心を失ってこの場を去ってしまうだろう。
ライスシャワーも自分のトレーニングの傍ら、百パーセントの善意で付き合ってくれているだけであり、スケジュールに限界はある。
そしてトウカイテイオーは、ドロップスティアーを
このドリームトリオとの練習は、いつ終わってもおかしくはないのだ。ドロップスティアーにとっては悪夢でしか無いのだが、ともかく今が極めて贅沢な時間である事は間違い無い。
なのでドロップスティアーは、一刻も早く目的を達しなければならない――自分の走りを再現しなければいけない状況下にあった。
「うーん、面白くなってきたー! よーし、アタシもソレちょっと挑戦してみよっかなー! レース外で”領域”入るなんて、考えた事も無かったや!」
「ティアちゃん、大丈夫? ほら、お水飲んで……うん、呼吸は整ってきてるね。じゃあライスももう一回、頑張ってついてくから!」
「言っとくけど、コレそんな簡単じゃないよ? ボクもレース外で完璧に制御するのはまだ難しいし。……ティア、ボクがうっかりやり過ぎちゃっても、
「……お……おぁっ……」
意気を上げるミスターシービー。優しく再起を促すライスシャワー。再び”領域”に入ろうとするトウカイテイオー。
間近で膨れ上がる恐怖。鳥肌が真っ直ぐ逆立つ。”最強”の地獄が、眼前に広がっている。
逃げられない。逃げる事は許されない。逃れられない恐怖の渦中に、自分は居る。
「じゃ、再開しよっかー。よーし、次こそ本気になってもらうよー?」
「ティアちゃん、一緒に頑張ろ? ライスも頑張るから。……ねっ?」
「ふぅー……よし、
「う……あ……ぁっ……」
◆ ◆ ◆
「あっはは、まだダメかー! ――いい加減さ。アタシの事、ちゃんと見てくれない?」
◆ ◆ ◆
「ティアちゃん、精神は肉体を超越するんだよ。ね、頑張ろ? もっと、もっと――もっと」
◆ ◆ ◆
「……ねぇ、やる気ある? そんなのでボクの相手するなんて――ちょっと
◆ ◆ ◆
「あぁ、ドロップスティアー君。例のスパートの練習をするなら、あのスーツも着用してくれないかい? 君のあの走りはどう考えても脚に悪い代物だ、つまりスズカ君が避けるべき走りのデータとして記録出来る。……では、さっさと余計な
◆ ◆ ◆
「うおー! このゴルシちゃんを無視して、なに面白そうな事やってんだー! 焼きそば食ってる場合じゃねえ、アタシも混ぜろよー! アタシが作った焼きそばだけど!」
◆ ◇ ◆ ◇
◇ ◆ ◇ ◆
「う」
圧力。恐怖。圧力。恐怖。あと羞恥。
度重なる重圧が、勘へと訴えかける。
「あ」
死ぬ。死ぬ、死ぬ。
彼女は身体的な危機には滅法強い。しかし、内に抱える精神その物は脆かった。
狂った精神が崩壊しない様に、彼女は強固な理性という殻を作り上げたのだから。
「あ゛」
ヤマ勘、共感覚。それは精神に対し、直接危機を訴えかける感性である。
それは元々生存本能が変性した代物であり、二つは半端に混在していた。
故に彼女は掛かれなかった。”死ぬよりマシ”、そう現実を単純に受容していたせいで。
「あッ――」
だが、違った。ただ死ぬより怖い事など、この中央にはいくらでもあったのだ。
心が折れれば、二度と走れなくなる。そうなれば、”ウマ娘”でなくなってしまう。
ウマ娘の本能は、走る事を求める。走れなくなる事は、ウマ娘にとって死に等しい。
――だから。
「――ぁぁぁあああ゛ーーーッ!!!」
あかんやばいこれしぬほんとにしぬやばいやばいやばいやだやだやだ。
心が壊れる寸前でようやく、そんな風にドロップスティアーは掛かり。
自身が置かれている危機的状況から、死に物狂いの走りで抜け出した。
◇ ◆ ◇ ◆
◆ ◇ ◆ ◇
◇ ◇ ◇
「――ほんと……ほんっっっと、泣きそうです……泣かなかった自分を褒めてあげたいです……」
「……全然よくわかんないけど……なんか、そっちが色々あったってのは察したよ……」
時は戻り、有馬記念の返しウマの前にて。ドロップスティアーは菊花賞の後から今までにあった、長い様で短く苦しい戦いの記憶を思い出すだけで憔悴し切っていた。
言葉にするまでもなく伝わってくる苦労の片鱗に対し、セイウンスカイはドン引きする。一体何があったら有馬という大舞台で、レースする前からここまで精神を削れるのか。ドロップスティアーが語った”常に今日”という理念から程遠い姿に、セイウンスカイは本気で困惑していた。
「まぁ、それでですね……いつもながら勝ち目薄いなりにも、自分も血反吐ホントちょっとぐらい出たんじゃないです? ってぐらい頑張って来たんで……ちょっとは良い勝負出来るんじゃないかなぁ、ってのが……まぁ、半分ぐらい……」
「……その有様で”良い勝負”と言われても、全く説得力が無いのだけれど」
どう見てもGⅠの、しかもトゥインクル・シリーズ中でも最大級のレースに挑む調子では無いだろう。率直にキングヘイローは、グダグダと歯切れ悪く喋るドロップスティアーの精神を不安視していた。
とはいえ、このウマ娘は色んな意味で常識に当てはまらない。彼女の言う『勝ち目は薄い』という発言は、『
ある意味、いつも通りのドロップスティアー。だがその発言の中には一つ、気にかかる単語があった。
「……”半分”とはどういう意味ですか、ティアちゃん?」
「あー……グラスさん。ほら、その……自分が退院した後、皆を集めた時の事。あれ、覚えてます……?」
「……? ええ、あの広場での話、ですよね?」
ドロップスティアーの退院後、彼女がグラスワンダーら五人を噴水広場に呼んだ事。それはこの場の全員にとって忘れられない、ターニングポイントであった。
『負けたくない』しか言わない歪んだ彼女が、『菊花賞で勝つ』と確かな根拠も無く宣戦布告した出来事。彼女の思想や視野の狭さが露見し、歪みを正した上での宣誓。そして彼女は、その誓いを確かに達成してみせた。
しかし、それが一体どうしたというのか。
「……あー……あの時自分、『菊花賞で皆に勝ちます』って言ったじゃないですか。めっちゃ身の程知らずって思いながら、殆ど言わされた様なもんでしたけどー……」
「それが、何か?」
「でもアレ、
『菊花賞で皆に勝つ』。確かにドロップスティアーは、菊花賞で勝った。
誓いは守った。しかし、それは
「スペさん、キングさん、セイちゃんさん。三人にはギッリギリ一回だけ勝てましたけど……
「……え?」
「
『菊花賞で勝つ』、それは守った。しかし、『皆に勝つ』。その部分が欠けている。
あの宣誓の場で、自分は
「……まぁ、ハイ……という事で、でして……今日は、
「――……」
自信の欠片も感じられない、尻すぼみな語調で。ドロップスティアーは、しょぼくれながらとんでもない言葉を零してみせた。
彼女はこの有馬記念という舞台に、
彼女は負ける勝負は捨てて、有利を取ってから大勝負に挑むという、保守的な性格だった。負ける事のみを見て、勝負所で負けなければ良いという狭い視野の中で完結していた。
「……ねー。それ、セイちゃんとかは眼中に無い、だとか言わないよねー?」
「あはっ。セイちゃんさん達を無視出来るウマ娘とか、居たら見てみたいですよ。つまんない冗談はカンベンですよ、自分の勘が一瞬バチクソに反応しちゃったじゃないですか。泣きますよ? 泣けませんけど」
「へえ……このキングにも勝つ、と?」
「だから、
そして、その目にはちゃんとセイウンスカイやキングヘイロー――他のライバル達の存在も映っている。”負けない”のではなく”勝つ”、彼女の意識は確かに前を向いていた。かなり俯いた形ではあったが。
セイウンスカイやキングヘイローから一瞬圧を受けて、ビビりまくって。そんな有様でありながら、それでも彼女はこの場で
「……ふふっ。それなら、ずっと前に言ってた事は嘘だったのですか~? 以前私が一緒に走りたいと言った時は、絶対イヤだと跳ね除けたような覚えが有るのですが?」
「いや全然ウソじゃないです。エルさんやグラスさんが自分狙って来たなら、ガチで出走回避も視野に入れるレベルです。……でも、今回は
それは、誰から見ても屁理屈でしかなかった。同じレースに来るのであれば出走回避したい相手に対し、自分から出向きに行くから前言とは当て嵌まらないという矛盾。
その言葉の滅茶苦茶さに、グラスワンダーは微笑んだ。やる前から負けるのが分かってるから勝負はしない、そう尻尾を巻いて仕舞い込んで逃げていた彼女が、自分と共に走ろうと思いやってきてくれたのだ。
その小さくも大きな意識の変化が、何よりも好ましく思えた。
「……ティアちゃん。まず言っておきますが、貴女に怪我を指摘されてから私は自分の身体を上手く調整する事を目指しました。……毎日王冠の時の様には、行きませんよ?」
「知ってますって、勘で分かりますもん。今のグラスさんは、自分より絶対強いってメッチャ感じてますって。……でも、グラスさん。知ってます?」
毎日王冠の後、ドロップスティアーに骨膜炎を指摘されてから、グラスワンダーは自分を無理に追い込む事を止めた。自分に課すトレーニングには数ではなく、質を求める様になった。
ジャパンカップでエルコンドルパサーが示した様に、距離適性など問題にはならない。そう示すべく、この有馬記念で自分の全力を出せる様に調整してきた。
今の自分は強い、グラスワンダーにはそういう自信を持っている。そういった脅威を、人一倍どころか百倍は過敏に感じ取れるドロップスティアーもまた、それは感じ取れていた。
――だが。
「
「――ふふっ。それは……実に、胸が躍りますね」
ドロップスティアーはその言葉を、軽い調子でグラスワンダーへ伝えた。
”絶対”は無い。速さや強さとは関わらない場所で、それを体現し続けてきたウマ娘が、他人事の様にそれを語る。それが可笑しくって、グラスワンダーは笑った。
そして、
「”絶対”、ですか。……であるなら、今日は――それを、撫で切らせて頂きますね?」
「ちょーい、ちょいちょい。二人で勝手に盛り上がらないでよねー? 今日こそセイちゃん作戦負けしないって決めてんだからさー。……二度と、負けるもんか」
「待ちなさい。そこのおばかに最初に煮え湯を飲まされたのは、このキングなのよ。……私の獲物も、勝利も。誰にも譲らないわよ」
グラスワンダー・セイウンスカイ・キングヘイロー。この世代において、そして歴史上でも屈指の強者達が、それぞれ纏う空気を変える。
ドロップスティアーの勘が言っている。これは、
トウカイテイオー曰く、”領域”は狙って至れるモノでは無い――完全に制御している本人が言っても全く説得力は無かった――。才能のあるウマ娘が、様々な経験を積んだ上で偶然入れる、そんな世界だと聞いた。
それでも、彼女達の脚はいつかそんな場所にすら至るのだろう。散々その世界の空気を味わわされたドロップスティアーは、そう確信出来た。
だが、
「……うん。そんじゃー、皆さん! いっちょ、楽しい勝負を……いや」
気分を切り替える。相手がどんなに強かろうが、そんなのはいつもの事だ。
自分がちょっと強くなって、でも相手ももっと強くなる。きっとそれは、ずっと繰り返される。
”絶対”に挑み続けなければならない。それはいつも通りの事で、何も変わる事は無い。
――その中で、ただ一つ。”いつも”から、変わった事があるとするなら。
「――楽しい
ドロップスティアー。かつて”勝負”をするだけだった、そんな”ヤマ娘”。
それが、笑って”レース”をする”ウマ娘”になった。それだけの変化だった。
◆ ◆ ◆
◇ ◇ ◇
波乱と動乱。類を見ない力を持つウマ娘達が、一つの世代に集う。
それは様々な”強さ”がぶつかり合う、そんな稀有な世代であり。
――人々はそれを、”黄金世代”と呼んでいた。
◇ ◇ ◇
◆ ◆ ◆
これにて、当小説の本編はエンディングです。
シニア級以降のレースについては書きません。この小説の目的はレース以外の所にあったので。
随分遠回りしましたが、何とか執筆当初に考えていた構想通りに終わりを迎えられました。
実はドロップスティアーにはまだやるべき事があるので、エピローグとしてあと一話は書きますが、そちらはほぼオマケです。
今回が事実上の最終回なので、この場でこれまで全ての感謝を述べさせて頂きます。
王道より外れた小説でしたが、最後まで読んで下さり、多くの感想も寄せてもらい有難うございました。ちょっと途中で軽く心折れて体調不良で病院行く羽目にすらなりましたが、なんとか書き終えられてホッとしております。
未熟な作者が曲がりなりにも完結まで続けられたのは、読者の皆さんに多くの感想を貰えたからに他なりません。
最後に、当たり前の事を以て〆させて頂きます。
これまで数々のお気に入り登録・感想・評価・誤字脱字報告・挿絵などなど。
長い間本当に、本当に有難うございました。