オリウマ娘はダイスと選択肢に導かれるようです 作:F.C.F.
【投票結果】
マイルチャンピオンシップ
「と聞いてはみましたが、まぁ今は正直それ一択でしょうね」
サナリモリブデンの返答を受けて郷谷は頷く。
必然と言って良い選択である。
サナリモリブデンにとって避けては通れないレースだった。
京都レース場、1600メートル。
マイルチャンピオンシップ。
その名の通り、マイルの王座を決するG1の大舞台である。
春のマイル王決定戦である安田記念を制したマッキラ。
それを打ち倒したサナリモリブデンは当然、この秋のマイル王決定戦に出走するものとファンからは期待の目を向けられている。
「うん。求められているなら応えたい」
自身に注ぐ数多の視線を、サナリモリブデンは裏切ろうとは思わなかった。
それにもうひとつ。
「それに。マッキラに挑みたいというのは私のわがままだった。叶えてくれて、勝たせてくれたトレーナーに返したい。G1の、最高の冠で」
情報を表示し続けるタブレットから、サナリモリブデンは顔を上げた。
視線はまっすぐに郷谷の瞳へと向かう。
「ふむ。……サナリさん」
「ん」
「ちょっと頭をこちらに」
「こう?」
それを受けて郷谷は手招きして要望した。
サナリモリブデンは素直に従う。
警戒や疑問などひとかけらもなく、前傾になって白い頭を差し出した。
そこに、ポンと郷谷の手が乗る。
「サナリさんはトレーナー殺しですねぇ……」
なでりなでりとその手が優しく頭を撫でた。
撫でられる側はといえば気持ちよさそうに目を細めてされるがままだ。
トレーナー冥利に尽きるというものだろう。
日々重いトレーニングを課し、時に厳しい言葉を投げかけ、しかしそれでも感謝と信頼を常に持ち続けてくれる。
しかも指導には従順で教えた事をしっかり飲み込んでもくれる。
そして、こうして2人で掴み取った成果の価値を最高の宝として、無二の武器として大事にしてくれる。
これほどトレーナーという人種を溶かしやすい性質のウマ娘はそうそういない。
もちろん郷谷とてデロデロにならずにはいられなかった。
そんな彼女にとって「あなたのために勝ちたい」という言葉がどれほど刺さったかは言うまでもない。
溶かされた分だけ、やってやろうという気持ちが郷谷の中に湧き立ってくる。
「よし、次走はマイルチャンピオンシップです。日程に合わせてキッチリ仕上げていきますよ。サナリさんも夜更かしなどには注意して、体調を崩さないように気を付けましょうね」
「ん、任せて。寝付きの良さには自信がある」
郷谷が請け負い、サナリモリブデンがしっかり頷く。
互いに気合は十分。
連勝の勢いに乗ったまま、G1の栄誉を勝ち取ろうと意志を交わし合ったのだった。
と。
そこまでで終われば良かったのだが。
「……さて、では次のお話です。いやー、ちょっと私達にこの後お呼び出しがかかってましてね」
郷谷の眉がへにょりと下がる。
困ったような苦笑を浮かべて、言った。
「サナリさん。一緒に理事長室に行きましょうか」
【閑話/余波、あるいは前震】
「失礼します」
「……失礼します」
退室の挨拶がふたつ。
次いで、重い扉が閉まる音。
理事長室へ呼び出されての話はそう時間がかからずに終わった。
特に長々と対話を行う事もなく、少しの聞き取りの後、決定事項を伝えられただけだったためだ。
内容は……毎日王冠で実行した策についてである。
限界を超えた内傾姿勢。
ほんの一歩未満の瑕疵で死に至りかねない危険極まりない走法。
アクシデントではなく、自らの手で故意に引き起こされる狂気のコーナリング。
これが流石に目に余ったらしい。
もし本当に転倒が起こったならばとURAは当然考えた。
実行者はまず間違いなく競走生命を終えるだろう。
しかも話はそこでとどまらない。
もしその時後方から迫る者があれば、巻き添えが発生する恐れは小さくなかった。
最悪の場合は転倒が次々と連鎖する事となる。
レース史上に類を見ない規模の大惨事さえ予想された。
となればどうなるかと言えば、当然……。
「……とても残念。だけど、仕方ない」
ルールの改定だ。
転倒しかねない異常姿勢での走行を禁じる一文が今後ルールブックに追加される事となったのだ。
普通に考えてそのような走り方をする者が居ないために空いていたルールの穴である。
それに先立って当事者にまず通達を、という用件だったわけだ。
しょんぼりと耳を伏せてサナリモリブデンが俯く。
その横で、はぁ、とため息が漏れた。
「まぁ……罰則がなかっただけいいんじゃないですか」
続いてどこか投げやりな言葉が吐き出される。
郷谷、ではない。
彼女はまだ理事長からの話があるらしく室内に残ったままだ。
ここに居るのはサナリモリブデンと。
「そもそも妥当もいいところです。……なんなんですかあなた。あんなもの、考えついても誰もやらないんですよ普通は」
サナリモリブデン以外に同じ事を実行した、スローモーションである。
彼女もまた、同時に呼び出されお叱りを受けていたのだ。
スローモーションはじっとりとサナリモリブデンを睨んだ。
長い黒鹿毛の前髪の向こうから、隙間を通して冷たい視線が突き刺さる。
「……そういうスローモーションも、やった」
「…………あなたがしたからです。道があるならアレだけとは思っていましたが、まさか本当にやるなんて」
「む」
サナリモリブデンが反論するも、籠る力は弱弱しかった。
跳ね返ってきたスローモーションの声に何も言えなくなる。
「……ごめん。巻き込んだ」
それどころか、耳が垂れるのに加えて肩まで落ちた。
模倣しただけだと言われ素直に受け取り、自分のせいでスローモーションまでが呼び出され苦言を呈される事になったとサナリモリブデンは責任を背負い込む。
端的に言って、サナリモリブデンは少し弱っていた。
彼女は先述の通り素直で従順な性質だ。
いわゆる良い子の見本であり、叱責を受けた経験は人生でそう多くはない。
理事長の声に含まれていた感情が怒りではなく心配だった点も、落ち込みを大きくしている。
闘志のぶつけ合いにはすこぶる強くとも、筋の通ったお説教には弱い。
それがサナリモリブデンだ。
「…………はぁ」
対し、スローモーションはまた溜め息を吐いた。
頭痛をこらえるような仕草で額を押さえ、ゆるゆると頭を横に振る。
「……別に、あなたに責任はありません。きっかけはどうであれ、私自身がやると決めてやった事です」
睨む視線はその過程で逸らされた。
どこかバツが悪そうにボソボソと言葉が続く。
「それに、得るものもありました。同じ事はもう出来なくとも応用は効きます。今回磨き得たコーナリング技術に関しては私……と、あなたに並ぶ敵はシニア級を含めて見渡してもいないでしょう。挑んだ甲斐は、まぁある経験でした」
そうしてスローモーションはサナリモリブデンに背を向けた。
それでは、と呟くように言って踵を返し廊下の先へと消えていこうとする。
「待って欲しい」
と、その背をサナリモリブデンは呼び止めた。
たたっと数歩を駆けるように進んで隣に並び、同じ速度で歩みながら言う。
「…………何か? こちらはさっき言った通りあなたを責める気も責任を転嫁する気もありません。話は終わったはずですが」
「ん、こっちもそこを蒸し返すつもりはない」
眉を顰めてわずかに早足になるスローモーション。
サナリモリブデンも足を早める。
その耳はまだ折れ気味だったが先程までよりは幾分立ち上がっていた。
スローモーションの言葉には気遣いの気配はあったが、嘘はなかったようにサナリモリブデンには聞こえた。
ならば「でも」と引きずるのはかえってスローモーションを貶める事になる。
そう判断してしまえば切り替えられるのが彼女であった。
つまり、用は全く別件だ。
「何度も一緒に走ったのに、挨拶もした事がないと思って」
「は?」
「時間があるなら、少し話がしたかった」
「こっちから誘ったんだから奢る」
チャリンと五百円硬貨が投入される。
ディスプレイ下のボタンが点灯し、省エネモードから復帰した自動販売機が全体の光量を上げて存在を主張し始めた。
場所は学園の購買付近。
飯時はとうに過ぎたが午後のトレーニングが終わるにも遠い隙間の時間帯だ。
辺りに人気はほとんどなく、落ち着いて話をするにはちょうどいい。
「……あなたのオススメは?」
「麦茶。クセがなくて飲み終わっても後を引かない。口の中がサッパリするから話をする時にはこれが一番」
「そうですか」
スローモーションの手が伸びて、ボタンを押した。
ガコンとペットボトルが吐き出される。
カフェオレだった。
世の中に流通する銘柄のうち、最も売り上げの多いポピュラーなものだ。
「…………うん。好きなものを飲むのが良いと思う」
「えぇ、もちろん。好きにさせてもらいます」
なお、サナリモリブデンが薦めた麦茶のひとつ隣の商品であった。
「それで、話というのは?」
自販機近くの壁に寄りかかり、スローモーションが口を開く。
チビチビと舐めるようにカフェオレを飲みながらだ。
その表情はいかにも不機嫌そうで、味を楽しんでいるようには見えない。
というよりも、ハッキリ不味そうに歪んでいた。
「……カフェオレ、嫌いなの?」
「えぇ、そのようです。初めて飲みましたが泥水の方がマシですね。嫌いな味です。無駄に甘い上にしつこく残って……」
「私の麦茶と交換する?」
「やめてください。冗談でもお断りです」
スローモーションの顔はどんどん歪んでいく。
鼻際の皮膚がピクリと震えていた。
前髪を掻き分ければ眉間に寄った見事な皺も観察できるだろう。
「ん……じゃあ、逆に好きな味は? 飲み物じゃなくてもいい」
「……リンゴ、桃、ブドウ。後は酸味が強すぎなければベリー類は大体」
「リンゴは私も好き。実家にいた頃は良くパイを焼いた」
「そうですか、私は嫌いです。焼いたリンゴは甘過ぎる。その上パイなんて、カケラが落ちて食べにくい。最悪の食べ物ですね」
「…………む」
「ああ、あなたが好きな分にはどうぞご勝手に。あくまで私の好みの話です。あなたの味覚や嗜好にケチをつける気はありませんよ」
なんというか、取り付く島もなかった。
スローモーションは明らかにさっさとこの時間を切り上げようとしている。
話題を広げようとも膨らませようともせずバッサリだ。
「それで」
どころか。
「話があるなら早く済ませて下さい。長々と付き合うつもりはありません」
ストレートに言い放つ。
当然のように目線も合わない。
「……特にない」
「は?」
「理事長室の前で言った通り。今まで機会がなかったから、一度くらいはと思って」
これに困ったのはサナリモリブデンだ。
何しろ本当に用件らしい用件は無かったのだ。
まるで避けられているかのようにこれまでは接点がなかったが、折角こうして近付く機会がきたのだからと。
それだけの事で呼び止めたに過ぎない。
はぁ、と。
もう何度目かのスローモーションの溜め息。
「サナリモリブデン」
「うん」
「私とあなたは敵同士です」
「うん」
「交流も馴れ合いも不要です」
「ん……。分かった。残念だけど、スローモーションが嫌なら仕方ない」
サナリモリブデンはそれで引き下がる事にした。
どうやらスローモーションと仲を深めるのは難しい。
寄ってくるなと全身で主張する黒鹿毛と友人になれるとしたら、このバリアめいた拒絶を無視してグイグイ迫っていけ、かつ致命的な逆鱗や地雷を綺麗に回避できる者だけだろう。
そして残念ながら、サナリモリブデンはこういった場面での押しの強さは持ち合わせない。
嫌だと言われればごめんと言って引き下がるタイプである。
過度に怒らせる事はなかろうが、友人としての相性は最低に近かった。
もしレースの中でライバルとして対していなければ生涯接点なく終わったに違いないほどに。
「……思ったよりも聞き分けがいいですね。あなたはもう少しめんどくさ……失礼、しつこいタイプかと思っていましたが」
「とても心外な上に言い直しても余り変わってない」
「そうですね。今のは私に非があります。良く知りもしないのに決めつけるべきではありませんでした」
ふぅ、と諦めたような吐息。
次いで、スローモーションがペットボトルを傾けた。
力強く喉が動き、中身が一気に半分ほどに減る。
勢いに目を丸くしたサナリモリブデンの横で、口を離したスローモーションが言う。
「…………謝罪の意味と、この不味い飲み物の代金分程度は、ということで。今回だけは付き合います。飲んでいる間だけ。……とても不味いですが」
「ん、ありがとう」
選んだのはスローモーションだ、とは流石にサナリモリブデンも口にしない。
恐らく一回きりだろう機会である。
余計な事を言って撤回されるのは避けたいところだった。
口をつぐんだまま、さて、とサナリモリブデンは考える。
何を話すべきだろうか。
先ほどのような好物の話を続けても仕方ない。
同じく、趣味や休日の過ごし方などもだ。
スローモーションと友人になれないなら、そのような情報にはサナリモリブデンの自己満足以上の意味はない。
そうして少しの思案の後。
敵としてしか向き合えなくとも知る価値のある事を見つけた。
「スローモーションは」
「はい」
「どんな理由でレースを走っているの?」
それはちょうど、今日の昼間に強く意識したものだった。
マッキラとの短い対話の中。
彼女は自らが求める永遠について考えた。
どうすれば近付けるのか。
どこまで行けば得たと言えるのか。
学園入学以来、いや、目指すと決めた幼少期以来模索し続け、しかし未だ答えは出ない。
G1の冠を得れば華々しい記録は残るだろう。
積み重ねられたならその記録が放つ輝きは遥か眩いものになるはずだ。
しかし、それだけでいいのかと心の隅で囁く己がいる。
「……答えたくないものなら、無理に聞く気はないけど」
答えに至る一助を、サナリモリブデンはその問いに求めた。
とはいえ、実際にヒントを得られるとも思っていない。
他人の理由はどこまで行っても他人の理由だ。
全ては結局、自分で見つける他に手立てはない。
ただ、その場合でもスローモーションの渇望を知る事には意味がある。
敵がレースに、戦いに何を求めるか。
その情報はこれからも続く戦いの中で生きる事もあるかも知れない。
「別に、隠すほどの事でもありません」
問いに、スローモーションは気負った様子もなく答える。
やはり不快そうにカフェオレを舐めながら。
「……小学3年の冬休み。年末に親戚で集まった時の話です。許しがたい侮辱を受けまして」
「侮辱……?」
「えぇ。有マ記念の中継を見て将来トゥインクルを走りたいと言った時に、2つ年上の従兄に。お前には無理に決まってると」
スローモーションが握ったペットボトルがベコリとへこむ。
思い返した事で当時の感情が蘇ったのだろう。
ギリ、と歯が擦れ合う音さえ漏れるほどだ。
サナリモリブデンもまた眉を顰める。
白い尾が揺れ、壁を叩いた。
「それは、ひどい」
「最低最悪の暴言です。その上、お前は体が弱いんだから頑張らなくていい、などと」
「……?」
が、尾の勢いはすぐに弱まった。
「……あの、スローモーション。それ、多分だけど──」
言葉の選び方が悪かったのは間違いない。
だが、発したのは小学生の男の子だ。
そういった事はよくあるものである。
件の従兄はスローモーションを気遣い、守るために言ったのだろう。
もうとっくに遅いが、行き違いがあるならフォローのひとつも入れるべきかとサナリモリブデンは考えた。
「知っています」
が、その言葉は口から出る前に止められた。
「えぇ、当時の私は実際に弱かったですから。兄気取りのあの男が私を勝手に妹扱いして危険から遠ざけようとしたのは分かります」
タンタンタンとリズミカルな音。
視線を落とせば、スローモーションの爪先がリノリウムの床を苛立たし気に叩いていた。
そこが土だったなら穴が出来上がっていたかも知れない。
「ですがそんなものは関係ありません。あの男は私を見下した。守るべき弱い生き物だと決め付けて、私の憧れを否定した」
ペットボトルは上半分がついに潰された。
歪んで外れた蓋がコロリと落ちる。
サナリモリブデンは、残りがもう半分以下になっていてよかったと場違いな事を考える。
そうでなければ中身の液体も盛大にぶちまけられ、掃除が大変だったろうからと。
「そういった扱いを許した事はありません。全てに、必ず報復してきました。一つの例外もなく」
そこまでを話し終えて、スローモーションは残りのカフェオレを一気に流し込んだ。
「んっ……はぁ。そういう訳で、それが私の走る理由です」
「──うん」
「初勝利の日にはその足であの男の家に直行して、蹴り転がして腹を踏みつけてやりました。ようやく聞けた謝罪は大変気持ちよかったですね。震えるほどに爽快でしたよ」
「──そう。おめでとう」
薄く笑みを浮かべるスローモーションに、サナリモリブデンは無難に返した。
なんともコメントに困る話であった。
とりあえず、どうあがいてもサナリモリブデンの答えには繋がりそうにない。
怒らせると相当まずい相手と知れたのは有益かも知れないが、とうに薄々分かっていた事でもある。
カフェオレは無くなった。
転がった蓋も含めて、容器はゴミ箱に収められる。
「それで」
「ん……うん。無くなったなら、約束通りここまででいい」
「……違います。私だけに言わせて終わりですか?」
そこで終わりと思いきや幾分の延長があるようだ。
ジロリと目を向け、サナリモリブデンに言葉を促す。
「こちらの理由?」
「はい。一方的に知られるのでは不公平でしょう?」
「確かに」
うん、と頷いてサナリモリブデンは納得した。
聞かれたならば伝える事に否やはない。
これが友人や今後親しくしたい者相手ならば言葉を濁しただろう。
サナリモリブデンは、自分の抱える理由が他人に与える重さを理解している。
育まれる友情や親愛に同情が混ざるのは彼女としては避けたいところだ。
が、相手はスローモーション。
敵以外にはならないと分かった相手に遠慮は不要だった。
気性の苛烈さを思えば、知らせたところで勝負に手心が加えられるような心配もいらない。
そうして、サナリモリブデンは話した。
生きた証を残したいという願いの根と。
けれど、達成に至る道筋がまだ見えないという悩みも含めて。
「…………」
スローモーションから返されたのは沈黙だった。
不思議ではない。
父親の死と、故郷の衰退。
それに端を発する、忘れられたくないという想い。
自分自身の事ながら無闇矢鱈と事情が重いという自覚はサナリモリブデンにもある。
だから、不思議なのはそこではなかった。
分からないのは……スローモーションの苛立ちが戻っている点である。
それも、過去の侮辱を思い返しての時よりも更に大きく深い怒りが満ちていた。
「……サナリモリブデン」
「ん、うん」
「次走はマイルチャンピオンシップですか?」
「……う、ん」
「そう。そうですか。ならちょうどいいですね」
押し殺したような低い声に、サナリモリブデンは頷く。
スローモーションはくつくつと喉を鳴らし、笑った。
「奇遇ですね。私にも悩みがあったんです。あの毎日王冠で気付いてしまったものを、どう処理したものかと思っていたのですが……見事に解決できそうで大変愉快です。えぇ、本当に」
そして、突然の出火に若干たじろぐサナリモリブデンへと、宣戦を布告する。
「……どうぞ、楽しみにしていてください。私の一世一代の八つ当たりを味わわせてさしあげますので」
同刻。
トレーニング場の一角にて。
「おぅい。ちょっとこっちゃこーい」
ちょうどメニューの区切りを迎えたウマ娘を呼ぶ声が響いた。
落ち着いた野太い声だ。
良く通るそれに気付いて、褐色肌に栗毛の娘が近付いてくる。
「あーん? なによトレーナー」
足音を擬音にするならズカズカという辺り。
ソーラーレイである。
契約当初は遠慮がちに敬語でトレーナーに接していた彼女だが、今はもう見る影もない。
さながら父と娘とも思えるような距離感だった。
ありえない事だが、もし同じ家で暮らしていたとするなら間違いなくソーラーレイの口からは「洗濯物を一緒にしないで」ぐらいの言葉が飛び出すだろう。
そう接される側のトレーナーは慣れたものだ。
世間からは中年と呼ばれる年齢の彼は見た目通りに経験も深い。
この程度の生意気さはケロリと流せるだけの度量は当然持っていた。
「サンプルが届いたんだ。ほぉれ、お前のぱかプチだぞぉ~!」
なので全く意に介さずそれを掲げてみせる。
片手には少し余る大きさのぬいぐるみだ。
ソーラーレイを模したものである。
ウマ娘のグッズとしては最も良く知られた品と言って良い。
両脚を伸ばして座る姿勢のデフォルメ2頭身ソーラーレイは生意気そうな笑顔を満面に浮かべている。
「はーん。良く出来てんじゃない」
ソーラーレイは差し出されたそれをむんずと掴み。
「ま、どうでもいいわ。それよりトレーナー、このトレーニングなんだけどさぁ」
「おわぁ!?」
ペイッとぞんざいに投げ返した。
トレーナーは慌てて受け止める。
数回大きな掌でお手玉して、なんとか抱え込んでほっと一息。
「強度がちょっと足んない気がすんのよね。もう少しなんとかならない?」
「お、お前ねぇ、その反応はないだろ~。なんだよぉどうでもいいって」
「何よ。実際どうでもいいじゃない。ぬいぐるみなんかレースに関係ないでしょ」
雑すぎる返答にトレーナーは頭を掻いた。
彼は経験豊富で、ガサツなウマ娘にも気性の荒いウマ娘にも慣れている。
が、ぱかプチを放り投げるような者を担当するのは初めてだった。
ぱかプチとは、先述の通り最も良く知られた品ではあるが、同時に特別な物でもあった。
なにしろ、ぱかプチとして商品化されるのはG1の栄冠を勝ち取ったウマ娘のみである。
ソーラーレイもまた、スプリンターズステークスの勝者として発売の権利をようやく与えられたばかり。
いわば最高の勝利の証なのだ。
それをまさか、地面に落ちて土や砂にまみれかねない扱いをするとは中々に想像しがたい。
「はぁぁ……お前は本当、筋金入りだなぁ」
「今さら? トレーナーだってとっくに分かってんでしょ。私が興味あるのは──」
「勝負だけ、だろ? あぁ、おうおう、心の底から実感したよぉ、まったく」
ふん、と鼻息を鳴らすソーラーレイ。
弁護するならば、常ならばまだ多少はマシにぬいぐるみを扱っただろう。
だが今、彼女にはそれだけの落ち着きはなかった。
「分かったらこっちの話よ。トレーニング強度!」
腕を組み、トレーナーを見上げる。
その瞳には爛々とやる気が満ち、満身から気合が迸っていた。
「よしよし落ち着けどうどうどう。ちょっと流石にイレ込みすぎだぞぉ」
「ふしゅるるる……」
「うわこわ。か、噛みつくなよ?」
「トレーナーみたいなオジサンに噛みつきなんて誰もやんないわよ。気持ち悪いこと言わないでくれる?」
「ばっちぃ扱いは普通に傷付くからやめてくれないか……!?」
大仰に嘆き、情けなくガックリ肩を落とすトレーナー。
それを見てソーラーレイは若干毒気が抜けたようだ。
自分を道化にして空気をずらす手管である。
ソーラーレイ相手には効果の高い手法で、慣れたものだった。
「んでトレーニングなぁ。悪いが今がギリギリだ。これ以上は上げられんぞ」
「本当? 私の脚はまだいけるって言ってんだけど」
「そりゃお前、それこそイレ込んでるからだよ。よっぽど効いたみたいだなぁ。あの──毎日王冠が」
そのレースの名に、ソーラーレイはニィッと笑った。
「逆に聞くけどさぁ。あんなの見せられて燃えないやつがどこにいんのよ」
猫のように目を細め、組んだ腕に爪を立てる。
「夢よ、あんなの。私の夢見た相手そのものだわ。分かるでしょ」
脚から始まった震えが全身を駆けのぼり、毛という毛を逆立てた。
「私は──ああいうヤツと戦いたくてここに来たのよ」
「ま、どんだけ気合が入ったとこでトレーニングは増やしてやれんわけだがねぇ」
「なんでよ。ふざけんじゃねーわよ」
「ふざけてないふざけてない。これ以上は効率が悪すぎる。最初はよくてもその内ガッツリ調子崩すぞ」
「──チッ!」
「おぅい、舌打ちはもう少し隠してやってくれぇ」
が、残念ながらソーラーレイの希望は通らない。
過剰な気合が自身を傷付ける事のないよう、トレーナーの手で受け流されていく。
それでも、いつか来ると信じている激突に向けて、ソーラーレイは己を磨き続けていた。
同じだけの炎はとある一室にも灯っていた。
夕刻。
薄暗い部屋の中でノートPCのディスプレイが光を放っていた。
その画面に流れているのはレースの動画だ。
1つのレースではない。
東京レース場、芝2000メートル。
その条件に合致するものが片っ端から再生されている。
格も、季節も、出走人数も関係なく、全て見境なしにだ。
「……目ぇ、悪くするぞ」
男の声と共に部屋の電灯が点灯した。
蛍光灯の白い光が天井から注ぎ、画面を覗き込んでいた者が驚いたように顔を上げる。
「うぇ? おぁ、先生どしたん?」
「どうしたもこうしたもな。こんな暗い中でパソコンなんか見てんじゃない。電気くらいつけろ」
「うわマジだ、もう夕方じゃん。やっべ……。ヌイ達は?」
「先に帰したぞ」
「だよなぁ~! あーやっちまった……」
そしていくらかのやり取りのあと、黒に近い芦毛の頭を抱えた。
彼女の名前を、アビルダと言う。
この部屋を所有するチームウェズンの最年長のウマ娘だ。
同時に当チームを構成する問題児たちの筆頭である事も意味する。
が、今は普段の破天荒さが鳴りを潜めていた。
理由は実に分かりやすい。
「週末の予習か?」
「ん-、まぁ」
歯切れの悪い答え。
珍しいな、などと茶化す気はウェズンのチーフトレーナー、大槍の中には全く湧かない。
むしろ沁み出してくるのは自責の念だった。
「……すまんな。俺が、もうちょっと腕が良けりゃ」
チームウェズン。
レースを愛するファンの中にその名前を知る者はそう多くない。
いや、いっそ殆ど居ないと言って良いだろう。
勝利は稀。
オープンクラスに駒を進めたウマ娘はチーム創設以来から数えても片手で足りる。
注目度の高い重賞など、出走さえ叶った事がない。
その原因はひとえに自分にあると大槍は考えていた。
ケガをさせないようウマ娘を大事に扱う。
そう言えば聞こえは良いが、それは強度の高い過酷なトレーニングを課すのが苦手という事を意味した。
故障は他のチームよりも明確に少ない。
しかし、勝利もまた少ない。
それがチームウェズンの現状だ。
「何言ってんだよ先生」
故に、大槍はこれまで悩み続けてきた。
自分が良しとしたはずの方針は本当に正しかったのかと。
それを。
「先生のチームだから、あたしはまだ走れてんじゃねーか」
アビルダはあっさりと蹴り飛ばす。
カラリと笑ったアビルダはマウスを操作して動画を切り替えた。
芝2000メートルから、芝1800メートルへ。
毎日王冠だ。
「見ろよ。サナリだ。静流ちゃんの、ウェズンのさ」
それは今年のもの。
サナリモリブデンが。
つまりは、チームウェズンの元サブトレーナーである郷谷静流の愛バが劇的な勝利を収めたレースである。
「……いや、静流は静流だろう。あいつは俺よりよほど才能が──」
「んなの関係ねーよ」
映像を見てなお首を横に振ろうとする大槍の言葉をアビルダが遮る。
「静流ちゃんの教え方は先生の教え方だろ。てことはウェズンの教え方だ。なら、サナリはウェズンなんだよ」
メチャクチャな論理であった。
そして、現実とは異なる。
郷谷静流は確かに大槍の教え子であり、方針も似通ってはいる。
しかし、大槍よりもウマ娘の限界を見極める目に優れていた。
安全を確保しながらもトレーニング強度を高める術は、とうの昔に大槍を越えている。
「ウェズンは勝てる。サナリが証明してんじゃん。だからさぁ──あたしはまだ諦めねーぞ」
だが、そんな真っ当な理屈を知った事ではないと放り捨てるのが、ウェズンのウマ娘達だった。
シニア級、4年目。
年を跨げば5年目になる。
それが今のアビルダだ。
クラスは何年も3勝から抜け出せていない。
そう高くもなかった全盛期はとっくに終わった。
能力が衰え始めたのを自覚もしている。
「なー先生。あたしだって知ってんだぞ。普通はもう引退しろって言われるもんだって」
けれど。
それでも、だ。
「でも先生は一回だって、あたしに諦めろなんて言わなかったじゃん。先生の方針のおかげで体にもまだ……あー、ん-……ちょ、ちょっとしかガタは来てねー」
「そりゃあ、お前……勝たせてやれない分、そんなのは」
「当たり前って言える先生だからあたしらはついてきてるし、戦ってんだわ」
「──」
何も言えなくなった大槍をよそに、アビルダはもう一度マウスを操作する。
ゴールを終えて倒れ込んだサナリモリブデンの姿が消え、動画はまた芝2000に戻った。
「あ、そうだ先生。折角来たんだしさぁ、解説やってくんない? ほら、あたし頭良くねーからさ。見てるだけだとあんま整理進まないんだよな」
「……はは。お前に分かるように説明するのは骨が折れるんだがなぁ」
「わりーけどそういうバカをスカウトした先生が悪いよ」
「まったく、寮の門限までだぞ?」
その日、ウェズンの部室には長く光が灯っていた。
衰えた体に未だ宿る炎の熱量を示すように。
そうして。
毎日王冠にて、サナリモリブデンの起こした衝撃の余波。
最後のひとつが現れる。
『……と、とんでもない記録が生まれました。これは本当に現実なのでしょうか』
週の末。
京都レース場は異様な雰囲気に包まれていた。
超満員のスタンドには、とてもレース終了直後とは思えない静けさが広がっている。
菊花賞。
G1。
クラシック3冠の最後を締めくくるその戦いは劇的な結末を迎えた。
正確に言えば。
実況の声が遠い。
わずかに起こる観客のざわめきも分厚いガラスを隔てたようだ。
2着のウマ娘、ジュエルルビーはそう述懐した。
彼女は今、何も感じていなかった。
へたりこんだ体に触れる芝も、吹き抜ける風も、何の感触も与えられない。
ターフの緑も空の青も、色褪せて灰色として映っていた。
ジュエルルビーの目に唯一映るもの。
レースの勝者がスタンドをぐるり見渡した後、ゆっくりと彼女に歩み寄ってくる。
(あぁ──)
そこが、彼女の終わりだった。
(──もう、ダメなんだ)
小さな体のウマ娘に見下ろされて、ジュエルルビーは何も感じない。
体の中心に、魂が抜き去られたようにポッカリと大きなウロが口を開けている。
悔しいとも、悲しいとも思えない。
ただ、もう二度とターフに夢を見る事は出来ないのだという確信だけを知覚する。
勝者、ペンギンアルバム。
タイム、2:59.4。
史上に類を見ない大記録がその日、ターフに刻まれ。
1人のウマ娘の心は、粉々に踏み砕かれた。