◇◇◇◇◇
異世界に来て初めての食事だったわけだが、どれもなかなかに美味しかった。
あの後も店長に言われるがまま、何点か料理の追加注文を繰り返して、最終的には食べきれるんだろうか?と心配になる位の量になったのだが、全て綺麗さっぱり消え去ってしまった。
アイリスが思いの外よく食べたというのもあるのだろうが…まぁそれを指摘するとご本人が怒りそうなので黙っておく。
そうだ、綺麗さっぱりといえば———と1つ聞いてみたい事があったのを思い出す。
「そういえばさ、あの
「ん?ああ…あれは
レイトがチンプンカンプンという顔をしているのを見て、アイリスがナプキンで口を拭う手を止めて謝る。そうした所作にはどこか上品さが漂っている。
「いきなり言われても分からないわね。錬真術にも色々あるんだけど…元は植物や動物の骨肉とか、そういうのを組み合わせて薬を作ろうって研究から始まったと言われてるわね」
アイリスがテーブルの端の酒瓶をズイと真ん中に寄せる。
「こうしたお酒とかも元は錬真術の実験から生まれたものだって言われてるんだけど…まぁ、言ってしまえばそれだけの技術だったのよね。それが一変してしまったのは…」
「…デブリスが現れる様になってから?」
「そう、正解。デブリスは兎に角、生命力の強い生き物だから当時出回っていた兵器ではなかなか倒すことが出来なくて…それでより強い武器の開発が迫られたの。その末に生み出されたのが…これ」
アイリスが腰のベルトを
「これが『ライドラッグ』。または、
「これが…武器なの?一体どうやって…?」
テーブルの上に置かれたライドラッグと呼ばれた小瓶を手に持ってしげしげと眺める。中には血の様な深紅の液体が詰め込まれており、どこか生物発光の様にうすぼんやりとした輝きを放っている。
その名の通り薬の様だが、どう使うのかは皆目見当がつかない。というか、どこから開けるのかも全く分からないのだが———瓶の上側についた蓋の様な部分を弄っていると、「扱う時は十分注意してね」とアイリスが釘を刺してきた。
「デブリスの体組織を使って作った劇薬だから、もし体にかかりでもしたらマズいわよ」
「………っっっ!!!??」
喉の奥から声にならない叫びが出かかり、思わずライドラッグも落としそうになったが、慌てて掴み直した。
「あ、危なくないのっ、これ⁉」
「使い方を誤らなければ平気よ。この瓶に入っていれば、大して危険はないわ」
アイリスはレイトの手から霊薬を取り上げ、今度は別の四角柱型の薬瓶をベルトから出してテーブルに置いた。
「生命力の強いデブリスを倒す為に、その体組織を入念に調べたところ、いくつか判明した事があったの。それは彼らも種類によって様々な弱点が存在するんだって事。ライドラッグはその弱点を突く為に作られたものね…。ライドラッグにも色々種類があるんだけど、一番代表的なのはこの2つ。こっちの円柱型が『エレメントライドラッグ』、こっちの角柱型のが『マテリアルライドラッグ』って呼ばれてる」
マテリアルライドラッグと呼ばれた霊薬を指差す。それが先程アーククロスと呼ばれた武器に装填して見せたものと同じである事に気付いた。
「これは『シルバーライドラッグ』って言うの。デブリスの中には、鉄の武器よりも、特別に精製された銀が効きやすい種類がいる…っていう事が研究の末に分かって、『ミスリル』っていう特別な銀やそれで出来た武器が作られたの。そして、これはそのミスリル銀を一度分解して、この薬瓶に詰め込んだもの。わざわざ重い銀のインゴットを持ち運ばないで済むし、戦闘ではアーククロスのボルトを精製するのに使ったりするわね。勿論銀だけでなく、鉄とかオリハルコンなどの素材を霊薬化したものもあるわ。…ここまでは大丈夫?」
デブリスの弱点を突く為に、彼らを傷付けやすい特別な銀が開発された。そして、それを薬瓶に入れられる様に薬に分解して作り出したもの、それが『シルバーライドラッグ』。他にも色々な素材があって、総じて『マテリアルライドラッグ』と呼ぶ。
説明は慌ただしかったが、大体合っていた筈だ。アイリスも満足そうに頷く。
「でも、対デブリス用の武器だけではまだ完全じゃない。こっちの『エレメントライドラッグ』はその補助として開発された物よ。この赤い霊薬は『ファイアライドラッグ』って呼ばれてるもので…どう説明したらいいかな———これを剣に装填すると、刃先等に炎をエンチャント出来る…って言ったら通じる?」
RPGなどで言う「炎の剣」の様なものか。レイト的には仮面ライダーブレイドが雷のカードをスキャンした様な状態と言えば分かり易い。
「大丈夫。なんとなく分かる」
「そう、良かった…。説明を続けるね?正確にはエレメントって言う炎に近いエネルギーなんだけど…このエレメントを纏わせることで、デブリスの細胞を破壊しやすく出来るってわけ。但し、ややこしい話だけど、これも何でも良いって訳じゃなくて———」
アイリスが円柱型の霊薬を更に2本、3本と追加して置く。色も青いものから、緑のものまで揃っていて、並んでいる様は中々に壮麗だ。
「炎のエレメント、水のエレメント、風のエレメント…。種類は様々にあるんだけど、デブリスの種類・個体によっては弱点となるエレメントもあれば、逆に大して効果が無いものもあるの。だから、デブリスとの戦いにおいては慎重に霊薬を選択しなければいけないの。…理解できる?」
「炎の霊薬が効きやすいデブリスもいれば、効きにくいデブリスもいる。その場合、他の霊薬が有効となるかもしれない…ってことだよね?」
「そう。デブリスとの戦いが一朝一夕では出来ない、という
アイリスはそこまで一気に説明し終えると、一度呼吸を整える様に大きく息を吸った。
「ライドラッグはそれだけに限らず、私たちの生活に結構広く浸透しているのよ。さっき剣を霊薬に変えて…って話をしたけど、剣以外にも色々旅に必要な道具とかを霊薬化して持ち歩いてるの。そうやってコンパクトにしておけば荷物を多くせずに済むしね。ライドラッグを専門に扱ってる薬屋もあるし…それからライドラッグの普及のお陰で上下水道を整備出来たって話もあったわね」
「え…上下水道…?」
「そう。水の霊薬…ウォーターライドラッグと複数の浄化剤を一緒に汚水に投与する事で、水の汚れを浄化できるの。昔は河川や下手すれば街に直接流すしかなかった汚水を処理できるようになったお陰で、街もホントにきれいに———っ!ごめんなさい……食堂で話す様な事じゃなかったわね…」
「いやいやいや、大丈夫大丈夫…!」
顔を赤くして俯くアイリスを宥めながら、道理で街が綺麗な筈だ、と納得する。
中世ヨーロッパの城塞都市というのは、生活排水というのは基本的に垂れ流し状態で、今の基準からは考えられない位の悪臭で満ちていた、と言われている。それが元でペスト等の病気が流行する事になったのだが———。そこまで思い、きっとデブリス病の対応として街を清浄に保つ必要があるのかな、と考えた。そういえばその他にも、夜も更けてきてから気付いた事が1つ———。
「え~と…さっきからこの店の中が煌々と明るいのは…?」
「ファイアライドラッグを活用したランプの普及のお陰ね」
「それじゃ、このスパークリングワインの泡は…?」
「確かウインドライドラッグを使った、ガスの噴射装置があるんだって聞いたわ」
…万能すぎである。恐るべし、ライドラッグ。中世風の異世界に転生した、という事をリアルに考えると、ひたすら住み辛そうなイメージばかり浮かんでくるが、何というか普通に住み心地が良さそうではないか、と頭が楽観的な方向に傾きだすが、やはり懸念事項もないではなかった。
「でもさ…さっき、これデブリスの体組織を使ってるって言ってたよね…。それってやっぱり危ないんじゃ…」
「そうね…。デブリスによって苦しめられてる私たちの生活が、結局デブリスに支えられてる…。皮肉な話よね…。…でも、だからこそ、ライドラッグの製造や、そのほか錬真術の研究は国や神聖教会が厳しく管理してるわ。国の許可なく霊薬を製造したりすれば、厳しい処罰が下されるそうよ。…最も、今出回ってるものは、国がその責任において安全だって保証してくれている様なものだから、皆安心して使えるんでしょうけど」
「なるほど…。…あ、そう言えば、ライドラッグと言えば…これって何だかわかる?」
レイトが懐から1つの薬瓶を取り出し、アイリスの前に掲げた。
今の今まで忘れていたが、旅出す直前、レイトの懐にこれが入っているのを見つけたのだ。形状は間違いなく、今テーブルに並べられたエレメントライドラッグと同じものだったが、色が違う。レイトが持っている薬瓶には薄い黄色の薬液が充填されていた。
だが、瞬間的にアイリスの表情が変わる。驚愕の様な、もしくは逸るかの様に顔色を明滅させながら、レイトの手から薬瓶をひったくると、手で隠すようにしてしげしげと眺める。
「…これ…どこで手に入れたの?」
アイリスが声を震わせて聞いてくる。その異様な雰囲気に気圧されかかるが、これは正真正銘「覚えていない」分野の話なので、正直に答えるより他にない。
「わからない…。気が付いたら持ってた、としか…。…それって、何の霊薬なの?もしかして…なにか相当にヤバイものだった…?」
これまで悠揚として迫らざる態度を一貫して崩してこなかったこの少女を、ここまで動揺させるものとは一体何なのだろうか。慄然とする思いで問いかけるが、アイリスから帰ってきたのは、「…わからない…」というものだった。
「えっ…?どういうこと?」
「私にもわからない…。多分エレメントライドラッグだと思うけど…既存の5つのものとは違う…未知の霊薬、としか…」
アイリスが震える声で答える。薬瓶を眺めながら尚も「まさか光の霊薬…?いや、まさか…」と呟く少女の姿を見ながら、レイトははたと気付く。
「…というか未知の霊薬って…それ持ってたらやばい奴…?」
「……そうね。取り敢えず、今は隠して」
アイリスに瓶を突き返され、レイトは慌てた様にまた懐にしまい込む。…って、これ持ってるだけでヤバいのでは?と、思わず薬瓶を全力で捨て去りたい衝動に駆られるが、危険なライドラッグかもしれないものをそこらに投棄する訳にもいかない。煩悶するレイトを他所に、アイリスは長考する様に目を閉じ、やがて考えを纏めたのか、いつもの泰然とした声で「整理しましょう」と口を開いた。
「それはあなたが持っていた霊薬。でも、レイトは過去の記憶をなくしてるから、その霊薬が何なのかはわからない。…間違いはないわね?」
「…間違いないです」
記憶をなくしてる、というのは嘘なのだが、「覚えてない」という点において嘘はついていない。
「つまり、それは記憶をなくす前のあなたが作ったもの、若しくは誰かから託されたもの、という憶測が成り立つわね…」
アイリスは、またしてもこめかみに手を当てて、考える様に俯いてしまう。何だかその姿は答えを探求している、というよりも何かに葛藤している様にも見えた。そうした彼女の姿にはどこか触れてはいけない様な気がして、レイトは何1つ声を掛けられなかった。
だが、やがて少女は決意した様に顔を上げる。少し居住まいを正すように、背筋をピンと伸ばし、レイトの顔を真正面から覗きこむと、アイリスは口を開いた。
「レイト」
「あ、はい?」
「不躾な事は百も承知だけど…あなたのこれからについて、お願いがあります」
「な、なに…?急に…」
なんで敬語?と訊きかけたが、これは茶化したりしてはいけなそうな雰囲気である。余計な口は挟まず、アイリスが言葉を紡ぐのを待つ。
アイリスはすっとレイトを———いや、正確にはレイトの懐にしまわれた物を指し示しながら口を開いた。
「あなたが持っている未知の霊薬と、それに関わったかもしれないあなたの記憶…。それが福音となるか災いとなるか、想像もつかないけど……でも、それはこの病める世界を、少しでも照らす光明となる可能性がある…」
光明。そう言った少女の瞳は強い決意を帯びている。
「レイト…お願いします。私にそれを調べさせて下さい。でも、勿論それはあなたの失われた記憶の手掛かりだから、私はあなたが記憶を取り戻す為に全力で協力します」
テーブルの向こうで、アイリスが静かに、だが毅然と頭を下げた。
「だから…勝手も危険も十分に承知の上で、それでもお願いします。私の旅に、暫く付き合ってくれない?」
その必死さに、レイトの心の奥に胸苦しい感情が去来する。アイリスは自分を記憶喪失だと思っているが、それは嘘なのだ。今ここに立つレイトはただ異世界から飛ばされてきた、しがないオタクな少年でしかない。そんな人間の記憶を探ったところで、何かしら世界に有益な情報が齎される筈もない。少女が何を信じようとも、自分が希望の光になど———。
そんなヒーローの様になれる可能性など、少しもないのだ。
だが———、と心の奥底で何かが訴える。アイリスにライドラッグだけを渡しても、彼女は決して納得しないだろう。自分の不誠実さを言い訳にして、目の前で可能性に縋る少女から逃げ出してしまうのも、また不誠実な事ではないか、とも思う。
逃げるか、嘘をつき通すのか…。同じ不誠実にしても、少しでも実りになる可能性があるならば…。それもいい訳なのかもしれないが、心の奥にそんな感情が残っているのも事実だった。
「…わかった。俺に出来る限りのことは…協力する…」
「そう…ありがとう。それじゃ明日からよろしくね」
何の躊躇いもなく、ただ自然に、そうありたいから、と言う風に差し出された手。
せめてそれに真っ直ぐ答えられる位の男ではありたい、とその時のレイトは強く思っていた。
◇◇◇◇◇
2階に用意された部屋は、およそ4畳もなさそうな小部屋にベッドと窓が設えられただけの、とても簡素なものだった。しかし、どの宿屋も比較的こんなものらしい。
何はともあれ、この世界に来て初めてのちゃんとした寝床…そう思うと居ても立ってもいられず、レイトは部屋に入るなり、倒れ込むようにしてベッドに転がり込んだ。鋳鉄製のベッドはやはり現代のものと比較しても硬いが、シーツは清潔でさらさらと肌触りもいい。何より、日がな一日歩き通した肉体の疲労は極致に達している。部屋の照明を消す手間も惜しく、レイトは即座に眠りの中に沈んでいった。
どれ位の時が過ぎたのかわからない。夢すら見ないほどの黄金の眠りを破ったのは、窓から差し込む赤々とした光だった。もう朝なのだろうか?正直まだ寝足りない気がする。そう言えば寝る前に部屋のランプを消した記憶がない。あれは確か火の霊薬を使ったランプだと言うから、点け放しておくと火事になるかもしらんしな…、とベッドから体を上げるという大義を果たした瞬間、周囲の異様な空気を五感が捉えた。
赤く揺らめく光に包まれる部屋。木が焼け焦げる様な臭い。皮膚を介して伝わってくる焦熱の気配。そして壁越しから聞こえてくるのは———つんざくような悲鳴と怒号…⁉
「嘘だろ…?まさかホントに火事…⁉」
慌てて窓の外に目を転じようとした刹那、部屋のドアが乱暴に叩かれた。
「レイト、急いで起きて!」
アイリスの声だった。切迫感を帯びる声から、やはりただ事じゃないと伝わってくる。
レイトがドアを開けると、かくしてそこにアイリスが立っていた。その体には白銀の鎧を纏っており、更に長剣が既に握られている。
「アイリス…一体何が…」
「デブリスよ。北門が破られて、既に大多数が村に侵入してきてる」
有無をいわさぬ強い口調で、アイリスが伝える。瞬間、ゾワリと体中を怖気が駆け抜けた。一切の容赦を見せず、ただ明確な殺意を秘めてレイトに襲いかかってきた、犬人間達の事が脳裏に過ぎる。
「村のあちこちで火の手が上がってる。ここに居たら危険よ。直ぐに外に逃げなくちゃ」
アイリスに手を引かれ、レイトは部屋を飛び出した。恐怖と混乱に包まれながら、渇きで張り付いた様になった舌をどうにか動かし、アイリスに尋ねる。
「デブリスって…数は…?」
「言ったでしょ、大多数。物凄い数だって。衛兵たちだけでは対抗しきれないかもしれない…」
努めて冷静になろうとしているが、アイリスの声にも焦りが滲んでいる。それだけ迫りくるのが危急の事態である、という事なのだろう。
転がり出る様に宿屋の外に2人は飛び出した。火の手はまだ迫っていない様だったが、往来を次々と人々が、悲鳴を上げながら走り抜けていく。
「南門の衛兵詰め所が避難場所になってるみたい…。兎に角、一端そこまで…」
「きゃあぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
アイリスの言葉を遮る様に、周囲に女性の悲鳴が響き渡る。声のした方に目を向けると、1人の女性に何者かが馬乗りになる様に覆い被さっていた。
手足の生えたヒト型。だが、その皮膚は腐乱した死体の様に血色が悪く、骨や血管が浮き出たかのようにゴツゴツとしている。顔と胸だけは黒い剛毛が覆い、犬の様な顔貌には感情を滲ませない、赤い目がぎらついている。そして極めつけは、背中から伸びる、薄い膜状の羽。どれをとっても、明らかに人のそれではない。
手足の生えた、巨大なコウモリ。
そのデブリスを形容できるのはそんな言葉だ。
「てめぇっっ…!うちの従業員に手ぇ出してんじゃねぇ‼」
女性に覆い被さる怪物に向っていったのは、宿屋の店長だった。手に肉切り包丁を握り、デブリスを切りつけようとするが、更に空から飛来したもう一体のコウモリ人間が店長に覆い被さる。
コウモリ人間の牙があわや店長の喉輪を食いちぎろうとしたその瞬間、アイリスが弾丸の様に飛び出していた。右手に握られた白銀の長剣がデブリスの胸を貫き、そのまま5メートル程先まで吹き飛ばした。更にアイリスはその勢いを殺すことなく、空中で軽やかに体を旋回させ、今度は女性に覆い被さっていたコウモリ人間を、背後から一刀のもとに切り捨てた。
昼間、破落戸達を撃退してみせた、圧倒的なまでの剣技だった。それは相手がデブリスであったとしても、一切の衰えを見せない。
「店長、リタさん…!大丈夫ですか⁉」
「俺は平気だ…。リタ…!」
「だ、大丈夫です…。…ありがとうございました、パラディン様…」
「南門に人々が避難してます。急いで逃げてください」
店長と従業員を立たせ、逃げる様に指示を出す。リタさんは怪我をしたらしく、店長の肩に担がれながら、逃げ行く人々の雑踏の中に混じっていった。
直後、一段と大きな爆発音がまた響き渡る。人々の中から悲鳴がさざ波の様に広がり、中には足が竦んだ様に動けなくなる者もいた。
「北の衛兵たちは全滅したって話だ…」
「くそっ…!デブリスめ…。あんだけの塀も一瞬でぶち壊すのかよ…!」
「放してくれ!妻がいない…!きっとどこかで逸れたんだ…!」
「だめだ…!今戻ったら殺されるぞ…‼」
「畜生…‼折角、街をこれだけデカくしたってのに…」
悲憤、諦観、焦慮、絶望。そんな声がさざ波の様に広がっていく。
「このままじゃ…いけない…」
やがて、何かを決意した様にアイリスが火の手の上がった方角を睨み据えた。
「レイト…ごめん、私…行かなきゃいけない」
レイトに向き直ると、少女は決然と言った。何に、とは言わない。だが、その表情は何よりも雄弁に語っていた。
「…戦いに…行くの?」
「…ええ。今の私はパラディンだから…この状況を見過ごすわけにはいかない…。衛兵たちだけじゃどこまでもち堪えられるか分からない。…だから、加勢にいかないと」
アイリスは腰に下げた革袋を開け、中から何かを取り出す。
「レイト…あなたにお願いがあります」
アイリスがレイトの手に、その「何か」を押し付ける。
それは大振りなメダリオンの様なものだった。金属とも石材ともつかない独特の質感を持つ円形状のメダルの中央には、翼を広げたかの様な紋様が浮かんでいた。
「これって…?」
「恐らくだけど…勇者ディライトの遺品」
「ディライトの…⁉」
レイトの疑問に答える様にアイリスが頷く。
「シドニアの西部には晩年の勇者ディライトが過ごしたと言われる場所があって…そこで錬真術で隠された遺跡を見つけたの。それはそこに封印されていたもの…。何なのかまでは分からないけど…この世界に希望を齎すものかもしれない」
こんなものが?と思う。ただの薄汚れたメダリオンの様にしか見えない。実のところ、アイリスの口調にも確信が込められている訳ではない。
だから、文字通り“希望”なのだろう。確信がなくとも、文字通り未来や道行にとって、明るい兆しとなり得るかもしれないもの———。
「本当は…これを教会に届けなければいけないのだけれど…今はできない…。だから、レイト…
「…っっ⁉」
「私の代わり」と言う言葉の裏に込められたアイリスの決意が垣間見えた気がして、レイトは瞬間的に呼吸が出来なくなる。だが、それに構う気配も見せず、アイリスはベルトから小振りの宝剣を1つローディングし、それもレイトの手に押し付けてくる。
「パラディンの証たる純銀剣よ。これと私の名前を出せば、少なくとも門前払いされる事はない筈…。南門に逃げたら、直ぐに事情を説明して、馬車を一台借りるの。飛ばせば多分4日位でセルフックの教会まで———」
「ちょっと待てって!」
早口に言葉を重ねてくるアイリスに、レイトは堪らず叫んでいた。
「勝手に話を進めるなよっ…!
「…大体…!出来るわけないだろっ…!君や街の人達を置いて、俺1人だけここから逃げ出すなんて真似———」
「…レイト…分からない事、言わないで‼」
堪らず、といった風に放たれた怒声が頭蓋の奥底まで突き抜け、一瞬周囲の喧騒さえも搔き消した。アイリスは毅然と、だがどこか感情を処理しきれない様に充血した目をレイトに向けた。
「あなたが居て、何かが出来るの⁉あのデブリスと戦える?街の人達を残らず助ける事が出来る?そんな本物の英雄が齎す様な奇跡を…あなたが起こしてくれるの⁉」
突き放す様な、いつになく激しい言葉。だが、レイトは言い返せなかった。
群がるデブリス達を打ち倒し。住民全てを救出する?分かっている。そんな事を出来る筈などない。
たった3体のコボルトにすら為す術もない、ただの非力な人間が残ったところで何ともならないに決まってるではないか。だからこそ、アイリスは今ここで出来る最善の手を打とうとしている。ならば、自分に出来るのは最大限その期待に応える事ではないのか。例え、この目の前の少女を永遠に失う事になったとしても———。
また、失ってしまうのだろうか。
何故いつも、置いて行かれるしかないのだろうか。
自分の無力さが堪らなく悔しく、溢れそうな程の激情が震える体のあちこちから迸りそうになる。それでも奥歯を嚙み締め、感情を御そうとするのはせめてもの意地なのかもしれなかった。出来る事ならこれ以上の無様をこの娘の前で犯したくない。溢れ出る感情に蓋をする様に少女から目を逸らすレイトの耳に、ふと「レイト…」と彼を呼ぶ声が聞こえ、
不意に、
ふわりと、レイトの首に縋りつく様に、アイリスが抱き着いてきた。
「ごめんね、レイト…。…でも…今はこれしか打つ手がない…」
悔しそうに、絞り出されたアイリスの声が耳元で爆ぜる。硬い鎧を纏っていてもわかる、アイリスの身体の細さと体温、そして、抑える様な微かな震えが伝わってくる。
「でも…約束する。必ず、生き残る…。必ず、あなたの記憶を取り戻す手伝いをするから……、お願い…先に行ってて…。後で、絶対に追いつくから…」
約束、と少女は言った。
それは未だに道を決められずにいる、無様な自分への精一杯の優しさだったのか。
無根拠で、それでも最上級の優しさと、甘い残り香を漂わせたまま。
アイリス・ルナレスが夜闇へと駆け出していく。その姿は、やがて夜に溶け出し、見えなくなってしまった。
◇◇◇◇◇
何故走り続けているのだろうか。
喧騒に渦巻く群衆をかき分けながら、ただひた走るレイトの脳裏に、嘲る様な調子でそんな問いが反響する。うるさい。黙っちまえ。そう反駁する時間さえも惜しく、レイトは己が使命を果たす為に、南門に向って駆け続けた。
もうどうしようも出来ないのだ。今の自分に出来るのは、せめてアイリスの願いを叶える為に、一刻も早くこの街から抜け出して———。
そんな言い訳がまたしても心の奥底から浮かび上がってきた刹那、「おにいちゃん!」と叫ぶ小さな影がレイトの足元に纏わりついてきた。
転びそうになった姿勢をどうにか直しながら、足もとに目をやると、4歳位の男の子がレイトの足にしがみつきながら、じっと顔を見上げていた。
「ノエル…?」
街までレイトを乗せてくれた、あの商人一家の子どもだった。まだ幼い顔を泣きたそうに歪め、それでも精一杯に感情を堪えた声で、「…おにいちゃん…どうかお父さんをたすけて…」と絞り出してきた。
「おとうさんがっ…、まだちゅうおう広場のおうちにいるの…。まだ戻ってこないの…。…おにいちゃん、パラディンなんでしょ…?おねがい…おとうさんをっ…助けてくださいっ…」
堪え切れなくなった様に、最後は目に涙を浮かべ、泣き出してしまう。子どもの飛び飛びな説明でも大体の事情は分かった。恐らく父親が逃げ遅れ、未だに避難所にやって来ないのだろう。1人でぼんやりと歩くレイトを見兼ねて、馬車に乗せてくれた、あの気風の良い男の人の顔がレイトの脳裏に浮かんだ。
「ノエル…!あんたこんな所に…」
未だ足元から離れないノエルに母親が走り寄って来た。母親はレイトの姿を認めると、また恐縮そうに笑ったが、その顔には強い憔悴の色が浮かんでいた。
「…あの…ノエルから聞きました。旦那さんが避難してきてないって…本当ですか?」
「ええ…近くに住んでる友達が、泥酔して気付いてないかもしれないからって、様子を見に行って…。先に避難して待っていたのですが…まだこっちに来ていないみたいで…」
子どもの手前、精一杯気丈に振る舞ってはいるが、やはり不安の色は隠せない様だった。子どもの肩に置かれた手も、分かり易い程に震えていた。
「パラディンのおにいちゃんっ…おねがいしますっ…お父さんをっ…たすけっ…」
「これ…ノエル…!…ごめんなさいね…。…大丈夫よ、ノエル。お父さんは必ず帰ってくるから…」
涙を浮かべながら、尚もレイトに縋り付こうとするノエルを宥めながら、母親が慰める。子どもに不安を与えぬ様に極力落ち着いて、しかし明らかに心痛に身を震わせる姿が、レイトには別れの際のアイリスの姿と重なって見えた。
必ず生き残る。先に行っていて欲しい。
優しく誓った声は、でも悔しさが滲んでいて。
縋る様に抱き着いてきたその体は確かに震えていて。
今になって気付く。死地を前にして、それでも決然と立ち向かい、そして優しく笑って見せた少女もまた———
死の恐怖を必死に抑えていた、のではないか、と。
転瞬、ドンッ———と火柱の様な爆炎が、街中で立ち上がるのが見えた。次いで到来した爆風が空気を鳴動させ、人々の間から恐慌の声が上がっていく。
レイトは爆発が起こった方角に目を向ける。向こうには確かノエルが言っていた中央広場がある筈だ。アイリスはあそこで戦っているのだろうか。街の人々——いや、この世界そのものを震撼とさせる、圧倒的な恐怖の象徴と、今でも対峙し続けているのだろうか。
レイトは腰にぶら下げたアーククロスのグリップを握りながら、やれるだろうか?と己に問いかける。
否———やるしかないのだ。心の深奥から湧き上がってきた確かな決意を掻き抱いたまま、レイトは中央広場へ——未だ渦中となる主戦場へと駆け出して行った。「あ…!ちょっとあなた…!」とノエルの母親が慌てた様に呼び止めるが、それには答えず、母の足元に縋り付く少年に叫んだ。
「ノエル!お母さんを守って、そこで待ってろ‼」
届いただろうか。背後から「うん…‼」と力強く頷く様な声が聞こえた気がしたが、レイトはもう振り返らなかった。
何故走り続けるのかと嘲弄する声も、自分を欺瞞し続けるだけの言い訳も、もう吹き上がってこない。体の奥底に灯り始めた強い思いが、ただ「ありたい方に進め」と訴えかけるのみ。それが心に根付く恐怖を圧して、全身に進むだけの力をくれた。
恐怖に竦む心はそう簡単には消えてくれないが、今は前に進む為の足がある。その事実だけを頼りに、少年は夜の街を駆けていった。
今回も長々と失礼しました。
うちの主人公様がようやく走り出しました。実にじれったかった…。
今回も少しバトルをしましたが、次回いよいよ本格的な戦闘パートが始まります。
ご意見・ご感想など頂けると励みになります。
それではまた次回。