◇◇◇◇◇
戦いの前の時間は、息苦しい地下施設を離れて、1人で外の空気を吸うとジェイク・アリウスは決めている。人はおろか獣ですら寄り付かないこの山城の廃墟中央には、かつて中庭として作られた小さなスペースが今も残されていた。きっとかつては星を眺める為に設けられたのであろうドーム状のガラス天井も今はすっかり朽ち果てて、長年の風雪に晒された床は水がたまりあちこちが苔むしている。だがそれも、立ち込めた朝霧が弱めの曙光に照らされているこの時間になると、途端に幻想的な空気感に包まれた孤島の様な場所へと一変するのだから不思議だ。そんな浮島の中央部分にぽつねんと座り込むジェイクは、目を瞑りただ自身の呼吸音にだけ意識を集中させる。
自我を極力排し、己以外の存在を全霊で感じ取る事によって、やがて己の再発見に至る……だったか?とうに捨て去った故郷の教えではあるが、ジェイクにとっては仕事の前のルーティーンの様なものだった。
最も、どれだけ心の深層に潜り込もうとも、そこにふき溜まっているのは血に塗れた己の姿と、その罪科の犠牲となった者の屍ばかり。これでは先祖が目指した様な虚心坦懐の境地には程遠い。畢竟、今の自分に必要なのはただ半ば習慣化したこの一連の動作だけという事か…とジェイクは自嘲的な気分に襲われた。
「ケッ…、やってられないぜ、全く…」
苛立たし気にジェイクが独りごちる。遥か昔に捨て去った筈の故郷の教義に頼ろうとするのも不実であるなら、それが見せた己の姿にたじろいでしまうのは更に不実だ。今更、そんな事を感じる資格など、自分にはない。血で血を洗う力の論理や世の不条理、人心を乱す恐怖の象徴と成り果てようとも、この世界を変革に導く……。そう誓ったのは紛れもない自分自身ではないか。ジェイクは苛立ちを振り切る様に立ち上がると、地面に突き刺した愛用の柳葉刀を引き抜いた。
そこへ、
「出撃るのかい、ワールドラーグ?」
妙に鼻にかかった様な掠れ声。振り返ると、やや背中の曲がった白衣の男が立っていた。不健康そうな土気色の顔が、理知的な真顔とやや狂気を孕んだ笑みを先程から行ったり来たりしている。ジェイクは再度、舌打ちをしたい衝動に駆られた。
この組織の中には不愉快な人間が多いが、特にこの目の前の男———イカボッド・クリーデンスはその中でも最悪の部類だ。
デブリドラッグの開発責任者であり、デブリーターシステムが組織の主流となった現在では、実質的な兵器部門のトップ———と言ってもいいのかもしれないが、人を実験動物かなにかの様に見下げるその目が気に入らない。ジェイクの憤懣など意にも介さず、クリーデンスは尚もニヤニヤ笑いながらゆっくりと歩を進めてくる。
「今度は、『リンネ』のあのパラディンを討ちに行くのだろう?しかもそこには、あの勇者ディライトを名乗る者もいるというのは……本当かい?」
「…正確には、そのディライトもどきの排除だ。パラディンは計画に必要だからそのまま生かせ……だとさ」
ジェイク——ワールドラーグに下った新たな命令。それはディライト、並びにソーディアと名乗る2人の『仮面ライダー』の排除だった。数体のデブリーターやウォークレイドとの戦いで彼らの高い戦闘能力が明らかとなった。これ以上放置すれば、いずれ計画の遂行に支障が生じる可能性が極めて高い、とヴェノムアラークから直々に抹殺命令が下ったのだった。ヒュペリオン側はアラークに任せて、ジェイクはディライトのいる『リンネ』へと襲撃を仕掛ける所だったのだが……クリーデンスはそんな事情に耳を貸す様子もなく、「ククク…、そうか…。とうとうこの時が…」と気味の悪い笑顔を浮かべるだけだった。
「…ワールドラーグ、そのディライトの始末だがね……
クリーデンスが背後を示すと、暗がりからのっそりと1人の巨大な影が歩みだしてきた。
紫色のフルプレートメイルで覆われた姿。全高は比較的長身のジェイクよりもはるかに高く、2.5ハンズほどはある。そして左腕にはデブリーターの象徴たるデブリシリンジャーが銀色の輝きを放っていた。
『ホロウリーパー』。組織の中ではそう呼ばれている。見た目こそただ鎧を纏った人間にしか見えないが、話によればワールドラーグ以前に開発が完了していたデブリーターであるらしい。らしい、というのは誰もその詳細を知らないからだ。組織に属している誰もその兜の下の素顔を見た者はいないし、声を聞いた者もいない。ただクリーデンスの肝いりであるらしく、いつも彼に付き従っている。噂だと、彼の命令でヤバい仕事に加担している……と言うが……。
「…そいつは、戦えんのかい?」
「問題ないさ。訓練は積ませている。全ては……この時の為にね……」
クリーデンスの顔にいつになく狂気じみた笑顔が浮かび上がる。その笑みを張り付かせたまま、ホロウリーパーを振り仰ぐと、どこか愛おしそうにその鎧の表面を撫でた。
「遂に…この時が来たんだよ、ホロウ…。さぁ、我が一族の悲願の為に……あの勇者ディライトをしっかりと始末してくるんだ」
「………」
相も変わらず、ホロウリーパーは何も答えない。そんな人形じみた鎧に話しかけるクリーデンスの姿は、ただ虚空に話しかけている様で怖気を感じさせた。
…否、実際に彼は何にも語りかけていないのかもしれない。大事にしている様で、そのホロウリーパーの顔を——鎧で覆われているとはいえ——まともに見ようともせずに立ち去っていくクリーデンスの姿を見つめながら、ジェイクは思った。
「…やれやれ、とんだ仕事になりそうだ…。…まぁ、何はともあれよろしくな?」
「………」
「おいおい、少なくともこれから暫くは命を預けるんだ。ダンマリってのは勘弁しろよな…」
柳葉刀を担ぎ直し、出撃の為に歩を進めるジェイク。ガチャガチャと金属音を響かせて、後ろからホロウリーパーがついてくるのを確認すると、唐突に以前も同じ様なセリフを吐いた事があったな……と思い出した。
確か、西部の森林地帯でデブリスの群れに襲われていた少年がいた。確か記憶を失くしていて、この世界の何もかもを忘れていた彼を見かねて、何かと世話を焼いたのだった。あの少年の名前はなんと言ったのだったか?今も、無事でいるのだろうか———?
戦いの前のほんの数瞬、ワールドラーグという仮面に顔が覆われる刹那の隙間に、ジェイクはそんな事を思い出していた。
◇◇◇◇◇
マッドスキッパーでの大立ち回りから、早くも一晩が明けた。城塞都市の城門を潜り、十数台の幌車の列が進んでいく。湿潤なシドニアにしては珍しい麗らかな日和という事もあり、どこか牧歌的な光景であるのだが、事態はそうのんびりしていられる状態でもない。
無法者達の武装化及び、それによって引き起こされた騒乱。その咎によって処刑されかけたハイル達を救う為に、アイリスは彼らの結成を神聖騎士の聖言権によって正当化するという荒業に出た。それによって何とか即時処刑だけは回避できたのだが、現状はまだ問題が多い。
先ず、ドミングス領パストールに襲撃をかけたヒュペリオンの行いが、本当に魔剣を破壊し、領主が行っていた違法行為への関与を暴き出す、“正義”の戦いであったという事を証明しなければならない。その為に近い内にネイバーラント及びパストールに帝国と教会の調査団が差し向けられる筈だ。現在ハイルは一足先に拠点へ戻り、この準備に向けて奔走しているところだ。
次いで、聖言権発動の根拠としてアイリスが提出したのは、ターフィッシュで討伐したあの暗星のノクターヴのレセプトだ。これも教会の錬真術研究機関に送られて、それが本当に未知数のデブリスのものであるか調査が為される予定だ。最も、こちらは正真正銘事実なので特に問題はないと思うが……。
処刑の実行はあくまでも中断。これらが証明されなければハイル達はまたしても処刑場に逆戻りとなるし、恐らくアイリスも虚偽の証言を働いたとして、タダでは済まないだろう。
だからこそ、そうそうのんびりしていられる状態ではないのだが———。
「アンタねぇ!私たちが処刑されかかってる時に、一体どこに行ってたのよ⁈」
「そりゃ勿論、物陰に隠れて様子を窺ってたわよ」
「お前な!助けるぐらいしたらどうなんだよ‼」
「バカ言うんじゃないわ。あんな所に馬一頭入り込んだからって何になるのよ。私は無駄な事はしないの」
「あんたそれでもファミリアかぁっ⁈」
レイトとマヤ、そしてユニオの3人(?)が馬上で喧々諤々の言い争いをしている。人と金属製の馬が罵り合う異様な光景かもしれないが、アイリスにとっては旅の中で何度も目にしてきたお決まりのやり取りだ。こんな時だというのに———否、こんな時だからこそ、見ていて微笑ましい気分になってくる。
「し~~~~っかしですよ、お嬢さん。助けて頂いた事は大変感謝しているんスけどね…何というか……綱渡りもいいところじゃないっスか?」
一応、今の彼女達は参考人という扱いなので、アイリスの故郷に辿り着くまでは帝国兵の見張りが追従してきている。彼らに聞こえない様な小声で、ジャンが話しかけてくる。彼を始め、マッドスキッパー襲撃に関わった者たちの中で、十代前半の年少組達はアイリス達についていく事となっていた。
「無法者って言いつつも、確かに俺らあんまり疚しい事には手を出してないつもりっスけど……良く知りもしない俺たちの為に騎士団ですって言い切るなんて……」
「…そこはまぁ……信用してたから。あなた達のボスの人柄というか……思慮深さみたいなものをね」
実際、成功するかどうかはかなり際どかったと思う。ヒュペリオンが驚異的なデブリスの討伐の為に作られた騎士団だ、などという真っ赤な嘘を押し通すには、彼らが決して危険分子などではないという証拠を示さなければならない。それが出来なければハイル達を助ける事も出来ず、アイリスの身も危うくなってしまう。それこそ、ゼオラが言っていた最悪の事態という奴だ。
ある意味、アイリスは信じたのだ。自分から見た、ハイル・ランドナーとヒュペリオンという組織の印象を。そして、その自分の直感を。その結果、こうして今再び命脈を繋ぐことが出来ている。結果としては上々と言えるだろう。
「拠点を見せて貰った時に、“資料庫”って部屋を見つけたの。ハイルさん達は用意周到な人だったし、きっと何かで追及された時の備えくらいは用意してるだろうって思ってたのよ」
「…まぁ、それはそうだけど……。でも、本当にマズいものがあったりしたらどうするつもりだったのよ?」
「あら、それは決まってるじゃない?」
アイリスが悪戯っぽく笑うと、腰の装備帯から貝型の器具——ジャイロシェルフィーを引っ張り出した。
「前もって拠点に連絡しておきます。『不都合な証拠は全部消しなさい』って」
サクラとジャンが一瞬呆けた様な顔を浮かべるが、次の瞬間には堪え切れなくなった様に肩を震わせて笑い始めた。周囲の衛兵が訝しそうな視線を送ってくるが、何でもないと手を振るって伝えた。
「もうっ…アイリィったら…」
「何スかソレ…。反則っスよ…」
「おーい、アイリィ‼」
前方から呼ばう声に顔を上げると、マヤが隊列の行く先を指差して叫んでいた。
「前方に街が見えるけど……私たちが目指してる場所ってアソコ?」
「ん…ああ、そうね……」
セルフックとまではいかないまでも、ビルハミル程の大きさはある城塞都市が小高い丘の上に迫っていた。蔦が張り付く少し年季の入った城郭や、壁の向こうに聳える塔。更にその奥側の放牧地や民家も、目にせずともありありと思い浮かべる事ができる。だが、アイリスの胸中に去来した感情は懐かしさなどではなく、こんなにも近かったのか……という今更なものだった。
それくらい、彼女にとっては普段頭の片隅にも浮かばない場所だった。…否、それも違う。意識的に考えない様にしていた場所、というのが正しいだろう。
「『リンネ』っていうの。私とゼオラが育った場所……。まさか、こんな形で帰って来るなんて……」
「…ゼオラ、今頃どこにいるんだろう?」
レイトが心配そうに呟いた。出立の時間になっても結局ゼオラは戻ってこなかった。今もこの隊列の中に彼女の姿はない。自分と彼女との間にあった事についてはすでに伝えていたが、アイリスの中では未だに彼女の行動についての整理がついていない。
怒っている気持ちは勿論ある。だがそれでも……彼女がいないという事実に胸が潰れる様な寂しさを感じているのまた事実なのだった。
「…戻ってくる……よね?彼女がアイリィのこと、見捨てるとは……」
「…分からないわ…。…もしかして、私は愛想をつかされちゃったかもしれないから……」
「…?それって…どういう事?」
———きっと私が、彼女の期待を裏切ってしまったから。
———彼女と共に目指した道を、自ら捨てる様な真似をしてしまったから。
レイトの問いかけに、しかしアイリスは答える事が出来なかった。
◇◇◇
リンネの城門を守る衛兵達にアイリスが何かを告げる。1人が驚いた様に壁内に取って返してから暫くすると、木の城門が重々しい音を立てて開かれていく。そしてそこに、数人の衛兵に混じって身なりのいい男女が立っているのが見えた。
貴族らしい刺繍や飾りボタンで彩られた服装を纏った男の顔には、いかにも心配しきりといった表情が張り付いていて、足元もどこか落ち着きがない様にカタカタと揺れていた。対して女性の方は優雅なドレス姿にも関わらず、脚を開き腰に手を当てて立つ様は実に堂々としている。
そんなどこか対極な両者だが、アイリスの姿を見止めるなり顔中を喜びの笑みで満たしたところは共通していた。
「アイリィ!お帰り———」
「お帰りなさい、アイリィ。…少し痩せた様だけど……元気そうで何よりだわ」
「…お父様、お母様……。…ただいま、戻りました」
アイリスが少し緊張した様な面持ちで彼らに頭を下げた。今にも彼女に駆け寄りたそうにしている男性を制しながら、女性がニコリと艶やかな笑みを浮かべた。
「…この様な形での帰郷となってしまい……大変申し訳ありません」
「もう…。そういう堅苦しいのはいいから。さ、積もる話は後にして、中に入りなさい」
女性——即ちアイリスの母が彼女についてきたレイト達一同にも目を向け、「あなた達も」と促した。男性も慌てて居住まいを正し、レイト達をシドニア式の敬礼で迎えた。
「国王陛下より事情は聞いていますよ。改めて、『リンネ』の現当主でアイリスの父、オーエン・パニディエラと言います。どうぞよろしく」
マヤを始め何人かがパニディエラ?と顔に疑問符を浮かべる。だが、アイリスの父——オーエンの言葉に疑問を挟んだのはアイリスも同じだった。
「現当主……?あの…お父様……、お祖父様は……?」
「あれ?ゼオラから聞いていないのかい?」
オーエンが驚いた様に尋ねる。ゼオラ、という単語にアイリスの顔が一瞬こわばった様だったが、直ぐに頭を振って否定の意思を伝える。
「そう…なのか。父は……亡くなったんだよ。ゼオラが旅立つ少し前にね」
◇◇◇
「ハイル・ランドナー。これより皇帝陛下の命により、貴殿らの拠点内の検案を開始する。もしも捜索中に何らかの妨害・隠ぺい工作が判明した場合は、即座に貴様らを連行する権限が与えられている。くれぐれも余計な抵抗はするな」
「ヒュペリオン、了解。事前に提出を言い渡された資料はそこに纏めているが……どこも出入りは自由だ。好きに調べてくれ」
シドニア帝国の調査団とハイル、両者の慇懃な視線が交錯し、今にも火花が弾けそうな気配が漂うがそれも一瞬の事だった。派遣されてきた調査団はこういった事態のエキスパート達だ。ハイルの挑発的な笑みに、これまた超然としたアルカイックスマイルで答え、不惑迅速にネイバーラント中に散っていった。
どこか不安気にマーカスがハイルに近づき、そっと囁いた。
「…ハイル殿…本当に大丈夫なんでしょうな?」
「残念ながら、探られて痛い腹はそんなにないんだよな。…まぁ、帝国兵だけならドミングスの配下が紛れて証拠を捏造する可能性もあるが……流石に、教会の目があるところでは何もしないだろ」
あの場で宣言した通り、パストール襲撃を魔剣破壊の為だと正当化する為には、あそこに魔剣があったという証拠を示しつつ、領主バトレー・ドミングスがそれを購入した事も証明しなければいけない。アイリスが予想した通り、用意周到なハイル達はそれを掴む為にかなり綿密な調査をしていたし、その過程で得た調査結果はしっかりと管理をしていた。ハイルの言う通り、検案をされたところでこの組織は小動もしない自信がある。
ただ1つ、懸念事項があるとすれば———。
「…それより、ローザの様子はどうだ?」
「相変わらず眠り続けておりますが、体調は安定しているとゲイナン先生が。…帝国兵達には、取り敢えず正体不明の病気だから近付かない様に、と言い含めてあります」
「そりゃどうも。まぁ、アイツらにローザの体内のエクスカリバーを特定できるとは思えないが……」
唯一の痛い腹は、ハイル達がその違法な魔剣を所持しているという事だ。だが、エクスカリバーはローザの体内に隠れて表出する事はないし、デウスカリバーに至っては現在はレイトの手でデウスカリバーⅡへと作り変えられてしまっており、魔剣としての判定は不可能になっている。こちらも大して問題にはならないだろう。
「それでは、サクラ殿達に一旦連絡を入れておきますね。きっと心配されているでしょうから」
「ああ、すまねぇな。使い走りみたいな事させちまって」
「いいえ、拾って頂いた恩がありますので。それじゃ、失礼」
一礼して老紳士が部屋の奥へと引っ込んでいた。今後の身の振り方を考えていた彼だったが、ハイルの提案でヒュペリオンの子ども達の教育係として残る事を快く引き受けてくれた。錬真術に精通しているマーカスの知識と技術が欲しかったという打算もあるのだが、彼の人を分け隔てなく見ようとする心根を気に入っていたのも勿論ある。
人を見る目だけは養ってきたつもりだった。いつしかこの組織を手放し、誰に明け渡してもいい位の気持ちでいたのにな……。にも拘らず、またしても生き残ってしまった我が身の強運ぶりにやや呆れつつ、ハイルは少し伸びをする。ヒューバート・ランドナーの襲撃があってから準備や戦いに奔走し続け、少しばかり……いや、かなり疲れている。本来なら、調査団の案内をしなければいけないが、少しくらい休んでも罰は当たらないだろうか?と考えた所で、視界の端に何かを捉えた。
先ほどからこちらを窺っている様な気配は僅かに感じていた。最初はドミングスが放った間者か何かかと思ったが、それならば気配をもう少し隠す筈だ。この気配はこちらを探っている様なものとは違う気がする。所在なさげに、行き場を求めて彷徨っているかの様な、この寂しげな感触は———。
「…何やってんだ、お前?」
「………っ!」
薄暗がりの中で影——ゼオラ・ユピターがビクリ、と身を固くするのが分かった。
◇◇◇
『リンネ』。
シドニア中央地域の都市群の1つであるこの街は、総人口はおよそ400人ちょっと。都市としてはやや小さい部類に入るが、それでも地下に蓄える巨大な水脈による農業と牧畜、加えて錬真術の研究が盛んに行われている。この街で作られる農作物や上質な革製品は、この国の産業に大きな貢献を果たしている。そうした主要産業を備える街は特区と呼ばれ、貴族家にその運営が預けられる。パニディエラ家もそうした貴族家の1つという訳だ。
生まれ育った生家。離れていたのは1年程に過ぎないのに、なんだかひどく場違いな気がする。自室へと戻り、用意された衣服へと着替えてもそれは変わる事はなかった。
シルクのブラウスはレギオンメイルの鎧下と比べてふわふわと頼りない気がするし、ストラップワンピースの丈の長さもコルセットの窮屈さも、なんだか鎧よりも束縛感を感じる気がする。アイリス・ルナレスという己を剥ぎ取られ、その上から“パニディエラ家のご令嬢”という虚飾で塗り固められていくかの様な———。
「それでは、改めまして……アイリスの父、オーエン・パニディエラです。ここリンネの領主を努めております」
「母のイーヴァです。娘がご苦労をかけたと思いますけど……ここまで付き合って下さって、本当にありがとうございます」
「「…いえいえいえいえ、とんでもございません……」」
折り目正しく頭を下げるアイリスの父と母に対して、レイトとマヤはどこか恐縮した様に首を振る。誰にも見つかっていない、自分のテリトリーに入り込まれた様な感覚を憶えて、アイリスとしてはどうにも居心地が悪かった。
だが、先程から2人がどこか訝し気な視線を注いで来ているのは分かっていた。いつまでも逃げている訳にはいかないな……と覚悟を決めて、アイリスは伏し目がちにしてた視線を持ち上げた。
「…本当に今更だけど、改めまして……アイリス・パニディエラです。今まで言えなくて、ごめんなさい……」
「い、いや別に……そんなに気にしなくても…」
「……ルナレスって偽名だったの?」
マヤの問いに母——イーヴァが可笑しそうにクスクスと笑った。
「ルナレスは私の旧姓なの。パニディエラ姓は目立つからそっちを名乗っていたのね」
「まぁ、そうなんじゃないかと思っていたよ。父がツテを使ってあちこちを探していた様だったけど、全然見つからなかったみたいだから……って、痛い痛い痛いよイーヴァさんっ‼」
目に涙を浮かべてオーエンが叫ぶ。よく見ると、イーヴァが夫の太腿をつねり上げている様だった。上品そうな笑みは絶やさず、しかし顔にはしっかりと「余計な事は言うな」と書かれていた。傍から見るとどこか微笑ましいやり取りに見えるかもしれないが、アイリスの胸にはどこか重苦しい感情が去来してくる様だった。
———やはり祖父は、私を探そうとしていたのか…。
そう考えるだけで、今でも腹の底から重たい痛みが這い上がり、手足が冷たく震える様な感覚を憶える。そんな呪いの様な
「それで、お父様……皇帝陛下から通達が来たと思うのですが……」
「ん?あぁ、聞いているよ。私は全く問題ないよ。レイト君もマヤ君も、それにヒュペリオンの皆さんも、結論が出るまでここでの滞在を許可しよう」
鷹揚に頷くオーエン。マヤが虚を突かれた様に「いいんだ…」と呟いた。
「ハハハ、なんだか意外と思うかい?」
「…ええ。随分あっさりしてるなぁ……と思って」
ドミングスの様な人間や、壁の外の民たちが置かれている状況をずっと見続けてきたレイトとしては、この領主の寛大さがとにかく意外に映った。
「まぁ、色んな人間がいるものさ。差別をする者も好まない者もいる。ここリンネは狭いし、領民の数も少ないが、その分だけ意思のバラつきは少ない。皆、反対はしないだろうさ」
「アイリスのお陰かもしれないわね。この娘は昔から人々に好かれていたから」
嬉しそうなイーヴァの言葉をアイリスは首を振って否定する。別に謙遜しているつもりもなく、事実だと思っている。昔、祖父が領主であった頃はそこまでの事はなかったと思う。特区の監督領主として、生産性を上げたい祖父———レイフ・パニディエラは領民達にかなり無茶な生産を要請した事もあった筈だ。もし今、領民と領主が結束して生きていけるのだとするなら、それはやはり現領主のオーエンの功績だと思う。
子どもの頃、物語に出てくる神聖騎士の真似事をして、市井の人々の困り事やちょっとしたお願いを聞いて奔走した事もあったが……アイリスがした事はそれが全てだ。そして最終的には、パラディンの使命を言い訳にして逃げる様にこの街を飛び出してしまった。彼らが自分の事を一体どう認識しているのか、正直なところは分からない。
そう、何も分かりはしないのだ。人が心の奥底で何を思い、自分と関わっていっているのかなど。
最も身近にいた少女の事すらも分かり切れていないのだから、余計に……。
「…ゼオラが旅立って、直ぐにお祖父様は亡くなられた……と言いましたね?」
「正確には違う……かな?父上が亡くなり、私が領主となったから、彼女を旅に出したんだ。…ゼオラは、何も伝えなかったんだね?」
オーエンの問いにアイリスが頷く。確かにゼオラはアイリスに祖父が亡くなった事は伝えなかった。それは一体何故だったのだろうか………?
中途半端なところで切れましたが、続きはこの後すぐにどうぞ!