ウマ娘 ブラックドーン   作:一億年間ソロプレイ

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二話更新のうちの二話目です。
お手数ですが前話を見ていない方は前話を見てくだしあ


流星痕 下

 

 レースで撮影されたカメラの映像をあちこち切り替えながら議論はヒートアップしていた。

 審議に挙げられたのはクアドランスの競争中止――および中止に至る理由となった()()()()()()()()()()()()と、内々にセンニンギリの行動について。

 

 センニンギリは一旦競争を中止したものの、またクアドランスを掴んだ位置からの競走を再開し、またそのクアドランス自体の走行を妨害したとは認められず、――また第四コーナーからの蹄鉄の欠け(落鉄と判定)があっても彼女は外ラチを走り、後方の走行妨害も無かったため、審議による降着は無かった。

 しかし、一番クアドランスの妨害、これが問題となっていた。

 

「これ……は、もし()()()()()()()()()()足が接触して、妨害されたかで態勢崩してると思うんだけど」

「でも、もしその場合に接触していても仕方のないことでは。この三人のウマ娘はかなり焦っている様子が見えますし……、正常な判断が出来ているとは思えません。まだジュニア級でもありますし……」

「困ったことになりましたな」

 

 目下、議論となっているのはクアドランスに接触したと思われる映像だった。

 向正面にて、クアドランスの背後には三人のウマ娘がかなり近い位置で迫っていた。それこそ一歩間違えれば腕の一振りでも当たりそうなぐらいなまでに肉薄している。

 そしてクアドランスが大きく態勢を崩す前に、この三人のウマ娘の足はクアドランスの足に最も近い場所にあった。――しかし、土煙やカメラワークの問題で()()()()()()()()()場面は映っていない。

 

 審議の起こりは、向正面においてクアドランスに対して足の接触を確認したというパトロールタワーからの報告であった。映像を見返すと――なんとも微妙なことだが、確かに接触しているように見える箇所はある。

 しかし、横からのカメラ映像を見ても、前から見たカメラ映像を見ても、「確かに当たっていそうだな」と指摘されれば思うぐらいの……、報告者の勘違いとでも言い切れるぐらいのものだった。

 

「救護班から連絡きました。アナフィラキシーだそうです」

 

 ざわ、と採決議員たちがざわついた。

 

「……ちょっとカメラ戻して。第二コーナーの半ばあたりで、真正面の」

「はい」

 

 若年の男性が命令し、第二コーナーに設置されたカメラ映像に切り替わる。

 真剣な面持ちながらどこか楽しさを秘めたクアドランスの表情が、秒送りにしていくと徐々に強張っていく。

 

「アナフィラキシーが起こったのはここからか?」

「間違いないと思います」

 

 採決議員たちの中で考えは出ていた。

 『クアドランス選手は自らの不手際によってアレルギー性物質を摂取し自滅した』としか言えない。これはレース内で疾患を発症したとされ、本人のみが競争中止となるだけで――クアドランスの背後にいて、かつ一着を取った七番ルックキャットの過失は見られない、ということになる。走行の妨害による降着・失格処分は無い。

 

 それで本当に良いのだろうか――?

 そんな思いもあるが、決定的な証拠が、ない。彼女の背後にいたケイブ、ルックキャット、ラディフェインにはなんら過失はないとしか言いようが無かった。走れば自然と足は前に出るもので、そして時折当たるのもレースにはよくある話でもあった。

 

 やりきれんとばかりに若年の男性が顔を覆った。女性の議員は暗い顔になり、二人の中でも長く採決議員を勤めている老齢の男性は眉を下げた。

 

 内心どこかで感じていた、クアドランスの圧倒的な勝利を。金の尾をなびかせ、真に楽しそうに走るウマ娘の勝利を。――無論、他のウマ娘の勝利を願っていない訳ではないが、そう……、なんとなく思っていた。

 このウマ娘なら次も勝てるだろうという自信が……。

 

「……審議は、クアドランスの妨害は無かった、ということで発表する」

 

 ――その旨を伝える放送は滞りなく行われた。

 

「中央にもあるパトロールカメラ、上からの視点がありゃ……、分かったかもしれねーのにな」

「……もう少し、ダートに予算くれたっていいとは思いますけど」

「……二人とも、口は慎むように」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お待たせ致しました。川崎競バ第十レースは、審議を致しましたが、到達順位の通り確定致します』

 

『なお、審議の対象は二番・五番・六番・十番であり、この件は一番に疾患が起きたことで競争を中止したものでありました』

 

 クアドランスが担架へ運ばれていくのを見ながら、センニンギリは右手を握りしめた。

 ゴールのウチ側では入着したウマ娘たちが集まっていた。

 

「……正直、この空気でライブをやれる気がしないニャ」

「私もです……」「ちょっと、具合が悪いので……、うん……」

「そ、そこの貴方もそうでしょ……?」

 

 普通・特別競走においてのウィニングライブは原則一人で行われ、選曲も自分で選択できる。

 だが重賞のウィニングライブともなれば指定された曲で、入着した五名にライブ会場で踊る権利が与えられる。

 

 遠くから声を掛けられたセンニンギリは視線をその集団へ寄越した。

 ――ヒッ、と五人分の悲鳴が重なった。

 刃物を突き付けられた時のような、薄ら寒さが彼女たちを襲った。

 

「私は今、気分が悪いから。ライブは辞退させていただくよ」

「う、うん。そう伝えておくね……」

 

 勇気を出して話したヨシマサボーイが一息吐いた。視線が離れると一気に体の緊張が無くなる。

 のしのしと歩くセンニンギリはそのままコースを戻って何かを拾っていく。遠目からでもナイターの光を受けて輝いたのは――蹄鉄。

 

(蹄鉄が割れて……!?)

 

 さぁっ、と顔が青くなった。普通、蹄鉄は割れない。常人よりも膂力のあるウマ娘の踏み込みを支える為のものだ。――それだというのに、蹄鉄が真っ二つ、いや、いくつにも分かれていた。

 彼女は一つ一つ拾って血のにじむ掌に乗せていく。一つ拾う度に握って、血のにじむ量が増していく。

 一つ、拾う度に歯軋りの音がする。一つ、一つ、一つとおよそ全ての割れた蹄鉄を拾ったその背に、彼女のトレーナーらしき男がやってきた。視線を合わせた後、一言も交えず地下バ道へ戻っていった。

 

 

 

 その際、彼女がこちらを見た――――気がした。

 

 

 

 

 

 ウィニングライブは中止となり、解散を正式に言い渡された。

 控室に戻って着替え終わった。置いてある姿見で制服姿が映されると「もう終わった」実感がやってきて、――足に少しだけ力が入らなくなった。

 故障、という訳ではない。

 成長痛。体はまだまだ背を伸ばそうとせっせと働いている負担がやってきていたが、それを一時的に知覚出来ていなかっただけだった。

 

 ソファに座って項垂れた。肩に掛かる重力も相まってこの形が今、一番自然な状態だといえた。自らの背で天井の照明が反射しない床を鈍く見つめたまま、瞼を閉じる。

 視界が暗くなると耳や鼻から伝わる情報が増える。

 

 左隣の控室、「もう……こういうレースはイヤだわ」。更にその隣の控室、布擦れの音、「きょわかった、なにアイツ……こわいんですけどぉ……」。その隣の控室、「はーあ、一着取れたのに気分が晴れねーニャ。……ま、クアドランスには悪いけど、賞金は頂くニャ。これでガキどもも喰わせてやれるニャーね」「見事な逃げっぷりだったなぁ……。最後は、ちょっと惜しかったけれど」「ライブ踊りたかったなぁ」「ファンの人も分かってはくれるだろうけども」「騒がせなレースだった」(呼吸音)(喉を鳴らす音)「ったく、とんだことが起きたな」(足早な足音)(聞き慣れた足音)「コーチ!」(笑い声)「僕も君のライブが見たかったとも」「あー、親になんて言えば……」(スマホを弄る音)(聞き慣れた足音)「ッツゥ、しばらく休養だね……」(消灯の音)「仕方ないさ。よく頑張った!」(遠くで扉が開く音)(談笑の音)(笑い声)(――粘った笑い声)

 

「よくやった。おかげでクアドランスは落ちたぞ」

「そ――」

 

 耳を塞いだ。プレッシャーを与えて、それで落ちた、ということだろう。

 そんな何気ない、普段行われているレースの戦法の評価の話すら邪推してしまう奴にはなりたくない。

 

(……考えたくないなぁ)

 

 体に疲労が満ちている。レースで使った足より頭か、心臓が、いや体全体が重たい。おそらく走りによるものより、精神的な負荷が大きい、のだと思う。

 思えば、これまで――入学して、クアドランスに会ってから悩む癖が増えたと思う。それまでは身長諸々のこと以外で悩むことなく生きてきた。今か昔かで考える回数を数えれば、断然に今の方が多い。

 成長すれば物事の視野が広がり、あれこれと考える回数も増す。そんな意見もあるだろう。感情の幅も増えて喜びと悲しみ以外に嫉妬や憎悪なんて余計なものまで知覚出来るようになっていく。人と繋がる方法が増え、昔より人間関係は多様になる。

 

 ――ああもう考えてる。考えたくない。どうしたら動きが止まる。

 

(寝る……? 寝れば、なんとかなる問題か)

 

 本日の目覚めは最悪だった。前世での、青雲賞での出来事を思い返していた。あの時も、さっきと同じ様にクアドランスが運ばれていくのを見た。馬運車で運ばれて厩舎に戻っていくのを見た。それからレースが終わってわたしも戻った。隣の厩舎では人が押しかけていた。

 

 

「いたい」「やだ」「しにたくないしにたくない」「ぼく、だーびーいく、んだ」「おねがい」

「しにたくないいぃあぁあぁ」「なんでなおせないなんていうの」「どうして」

「いや、しにたくない」「ゆめ」「やだやだやだやだ」

「あああぁぁ」「たすげで」

「あ、ぁ……」

「……」

 

 

 痛みで暴れていたクアドランスが徐々に悟ったみたいに静かになっていた。まだ呼吸音はしていた。なんて言っていたかなんて詳細はもう思い出せないけど、それから泣きながら楠木が「お願いします」って言ったきり、息の音も聞こえなかった。

 クアドランスは、楠木が一番目に掛けて調教していた競走馬でもあったから、思い入れがあったんだろう。数日は「また楠木さん呆けてるぜ……」なんて厩務員たちがボヤいていたから、ショックだったんだろう、悲しいんだろう、走らせたんだろう。

 その後、クアドランスの騎手も活躍していたものの、前ほどの鞭捌きは見られず、いつの間にか引退していった。楠木は増々落ち込む回数が増えていた。伊那だって暗い顔も多かった。

 

 それが晴れたのは、十数年後。わたしが引退してからのことだった。

 わたしを使ってやりたいことをしたのだから、重荷は外せたのだろう。伊那から度々憑き物が落ちた顔をして心穏やかな時間を過ごしていると聞いて、知らない場所で家族円満に過ごして亡くなった。伊那も満足にジョッキー活動を行って、セカンドキャリア先で嫁を見つけて結婚して、亡くなった。い――……。

 

(また余計なことを考えた)

 

 止まる。どうやったら止まる。寝たって一時的なもので、余計な夢まで見せられる可能性だってある。

 思考を、どうやって止めたら――……。

 

 ノックの音で顔を上げた。

 

「入っていいか」

 

 間もなく扉が開く。ちょっとは遠慮を覚えた方がいいと思う。

 見慣れた黒い中折れ帽子を被った男は扉を閉めた。……最近、煙草の匂いもしなくなってきた。これから帽子の形で判断すればいいのだろうか。

 

「クアドランスの容態が落ち着いたようだ。搬入先の病院に行くが、ついてくるか?」

「……そうする」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高遠が先導して歩く搬送先の病院への道中で、ずっと反芻していた。

 生きている……?

 

「お前がレースを中断してまで応急処置をしたから間に合ったようでな。今は落ち着いているそうだ」

「……」

 

 生きている? 嘘か?

 

「お前の行動は誇るべきだ。いつまでもそんな面するな。五着とは言えど、お前は約束通りに本気で走ったんだ。約束なんざ破ってないよ、お前は」

「……」

 

 生きている……。

 

 

「なによ! いつもいつも遅くまで帰ってきて! 私のご飯だって食べてくれないじゃない!」

「違うんだよ、今日は接待で飲みに行ったんだよ。仕方ないだろ!?」

「いつも接待接待って! アナタが行ってる接待はどうせ性接待のお店でしょ!」

「違うっていってんだろ!」

「うるさいこの人でなし! ろくでなし!」

 

 

 ガッシャン!

 

 

 ゴッ!

 

 

「……ただまぁ――」

 

 …………。

 音に気付いたのか、振り向いた高遠の顔が強張った。

 

「お、おいしっかりしろ! 血は大丈夫か? 意識はあるか!?」

「キャッー! ご、ごごめんなさい! 大丈夫ですか!?」

「お、おおおお前どうするんだよ。ぼくは御免だぞ、お、お前のせいでこうなったんだからな!」

 

 ヒステリックな声がしていたのは右横から。そこには歩道沿いに建てられた一軒家の一階の窓ガラスが破損した状態にあった。女性はこちらに慌てた様子でスリッパを履いたまま駆け寄り、その女性と夫婦らしい様子の男性は逃げようとしたところを女性に包丁を投げられ救急箱を取りに行かされていた。

 

 足元近くに熱を感じた。目線を落とすと、蓋の開いた炊飯器から炊き立てであろう白米が零れ出ていたようだ。勿体ないことをしている……。

 

「なるほど。痴話喧嘩によって起きる攻撃行動で炊飯器を投擲したが男に避けられ、窓ガラスを突き破ってこちらに来たということか」

「すいませんすいません! お怪我は……」

「流血は無い。実際に見るか?」

 

 背を屈めて女性の方に見せると忙しなく目が動いた。高遠も近寄って確認してきた。

 

「……大丈夫、そうだな」

「あ、良かった……。ではなく、本当にすみません! つい頭に血が上っていたとはいえ、本当申し訳ありません……」

「あー、そのだな、痴話喧嘩も――……」

 

 高遠が何か言っている中、ふぅふぅと汗をかきながら男性が寄ってきた。んん……。

 

「時に婦人。これも何かの縁で一つ言わせてもらおう」

「あ、はい……」

 

 言葉を遮られた高遠がぎょっとした目で見つめてきた。知らん。

 

「あの旦那と思われる男には十代の娘子の中で流行っている香水の臭いと、魚や不潔な人間の発するものとは違う生臭さと汗臭さがある」

「……アナタ、どういうことかしら」

「はぁっ!? 一体お宅の娘はどういう教育してるんですか! なんで他人様にそんなこと言われなければ」

「疑わしいのは口紅の臭いがする鞄だな。もしやリップをつけたカードが入っているやもしれない」

「――中身、改めさせていただきます」

「ちょ、おい待て、待てってよ!」

 

 女性は男性を振り切って、割れた窓ガラスの家内から見える、リビングテーブル付近の椅子に置かれたビジネスバッグを漁って、二つのカードを見つけた。

 一つはどこかの……女性がサービスしてくれる店のメンバーズカード。もう一つは手紙を折りたたんだもので、概ね「良かったらまた御贔屓ください」という内容の記述と、名前の横に赤い口紅がついている。情事中らしい写真も添えられている。

 

「へー……、このお店に通っていて、結構若い子から熱烈なお誘いが来ていたのねー……」

「ち、ちちちちちちちが……」

「時に男、引き際を弁えねば老若男女問わず無様な様が見えるということを知っているか」

「ヒェッ」

 

 少し強めに睨めば泡を吹いて倒れていった。それもいつもより弱めた力なので一瞬の事、すぐに男は復帰した。

 

「離婚しましょう。私が家から出て行けばいいんですよね、だってこの家はアナタのローンで買ってるものですからね。ええ戻りますよ私は。好きにオンナノコ連れ込めばいいじゃない」

「ま、まってくれ……。愛しているのは、き、君だけなんだ……」

「フンッ」

 

 炊飯器を立たせ蓋を閉めている間に、元より冷え切っていた夫婦仲が終わったようだ。

 

「さ、見舞いに行くぞ高遠」

「……お、お前、どうした? 頭打ったからおかしくなったのか……?」

「おかしい? 元よりこれが生まれた時の形だ。早く案内しなければ一人で断行する」

「わ、分かった。一つ条件を加えさせてくれ。お前も病院着いたら診察してもらえ、結構強めにぶつけたから、な? 頼む」

「時間の無駄だが了承しよう。それでお前の疑念が晴れるのなら」

 

 何度もこちらを振り返っては様子を窺う挙動不審な様子を見せる高遠の案内によって病院へ着いた。

 診察されたが、結果は異常なし。

 

「なにも異常がない、ですか?」

「えぇ。脳の損傷も、また頭部の外傷も見当たりません。良かったですね」

「ほら、言っただろ」

「いやいや、お前の頭にゴッ! って、鈍い音出してぶつかってたんだぞ!?」

「むしろ……、その、素晴らしい脳の形ですね……。まるで神が作ったようにとても美しい大脳の形です……。その、後進の教育の為に模範的脳を持つ方の資料として提出したりコピーして活用してもよろしいでしょうか……、無論料金の発生しない範囲でお使いいたしますので何卒……!」

「構わない。好きにしろ」

「あ゛り゛がどう゛ございま゛ず! 家゛宝゛に゛じま゛ず」

「そこまで少々、いやかなり気色悪いので遠慮してもらおう」

「ばい゛! ずみ゛ま゛ぜん゛!」

 

 泣きながら医師に見送られたて診察室を後にすると、高遠は魂が抜けたような顔をしていた。

 

「嘘だろ……」

「診察が終わったらすぐに案内しろ。何号室だ」

 

 診察の支払いも済ませた後、抜け殻のような高遠を急かしてクアドランスのいる病室前までやってきた。

 

「……命に別状はない。だが、選手生命はかなり縮んだ」

「そうか」

 

 薄々と分かってはいた。――例え生き延びたとして、骨折の代償はあるだろうと。

 かなり早い段階で骨折を起こした。コーナーを曲がる際に無理にでも動かして足へ負担を掛からせた。

 あぁ、本当、お前は馬鹿なヤツだ。

 

 高遠が扉を開けるのに続いて入った。ベッド脇に座っていた星が気付いて立ち上がった。

 ベッドには耳を絞った、上体を起こし、顔を俯かせたままのクアドランスがいた。

 その顔が上がる。

 

 ――酷い顔をしていた。

 

 いつも浮かべる笑顔からは程遠い、暗い顔。肌から血の気が失せ、髪もボサボサとして、唇も乾燥して何度も噛んだのか傷も出来ている。

 クアドランスは落ち窪み始めた目をこちらに合わせた。酷い怯えがあるのは明らかだった。

 

「た、たべてない! たべてないの! たべてないんだから! だいじなひだったのに!」

 

「落ち着けクアドランス!」

 

「たべてない! たべてないの! ねぇどうして!」

 

 息を荒げて、体ががたがたと震えている。次第に震えは、いやその怯えはなにかの敵を作り出してクアドランスは手をあちこちに振った。

 

「ちがう、ちがうちがう! こんなはずじゃなかったの!」

 

 その手が星を傷付けようとも動きを止めない。ガタガタとクアドランスの腕に繋がれた点滴スタンドも揺れる。高遠がナースコールで呼ぶ間も激しく動く。

 見る影もない、――死亡間際のクアドランス号のよう。

 違うのは、あの時のように隔てる壁が無い。首を出して暴れる様子をチラリと覗く手間もなく、クアドランスの姿がはっきりと見える。

 

「そうか」

 

 クアドランスの叫びに答えながら近付くとその目はこちらを見つめる。

 

「あさも、きのうもたべてない! たべてないぃぃぃぃい!!!!」

 

 シーツをあらん限りの力で握って涙を流して絶叫を吐き出した。

 そんな哀れで実に惨めで、年頃の少女らしく見える姿に事実を突きつける。

 

「食べたよ、君は。だから反応が出たんだろ」

「ちがう、よ。せんちゃんとの、ひだから、たべて、ないの……」

 

 近付けばあちこちと定まらなかった焦点がこちらを見つめる。動きも落ち着いて荒々しいのは呼吸の動きだけだ。

 極めて優しく、甘い声を出す。安心させてやるように。

 

「あぁそうとも。君が好んで食べた訳じゃない。()()()()()()()んだ」

 

「……うそ」

 

「誰に、だと思う? 言ってごらん、クアドランス」

 

「ちが、うでしょ……? うそ、でしょ、ねぇ……」

 

 あぁ、あぁ、可哀想に。涎なんて垂らしてだらしがない。

 酷い状態の顔でクアドランスは見つめる。

 

「君が好きで、でもアレルギーがあるからと避けたものは()が食べさせた」

 

「ッ、あ、ぁっああっ……!」

 

「これで君はダービーに出られなくなったな。お気の毒に、将来の夢だったろう」

 

「あああああぁ――ッ! せ、んにん、……ぎりぃッ!」

 

 血走らせた目つきで初めてクアドランスは俺を睨んで掴みかかろうと襲いかかる。しかし、点滴を打たれて行動が制限されているクアドランスよりも俺の腕の方がリーチはあるので難無く頭を掴めた。掴まれると彼女はギリギリと俺の腕を爪を立てて掴むが、傷一つもつかない。

 指の隙間から涙の流れる、眩い金の瞳が()()に燃え、俺の姿を焼き付けようと震えている。

 背後から甲高い足音も聞こえる。そろそろか。

 

「目障りだったんだ、君が」

 

 ぱっ、と離せばぼろきれのようにクアドランスはベッドに崩れ落ちる。

 

「ぁっ、あ、あぁ、あぁあぁぁぁぁぁ……!」

 

 決壊したようにクアドランスは涙と嗚咽以外、何も出さなくなった。

 

「大丈夫ですか!」「鎮静剤は――……」

 

 慌ただしくなった室内からするりと抜け出した。扉を閉めようとすれば、ガッと強い力で開けられた。まぁ抵抗できなくはないが、されるがままにしておこう。

 出てきたのは案の定、トレーナーである高遠。いつも冷静ぶる男はいつになく怒気を立ち昇らせていた。乱雑に開け、静かに扉を閉めると俺を睨みつけた。

 

「なにか言うことでも?」

「お前っ、なんてことを……!」

「――ふむ、そうだな。ここは病院だ、廊下で騒いでは他の患者にも迷惑が掛かる。どうやらここは屋上を開放しているようだから、話ならそこで聞く」

 

 何かを言いかけた口は真一文字に閉じられた。屋上へ向かう俺の背を黙ってついてくる。

 不気味なまでの沈黙と激しい怒りを背に、屋上の扉を開ける。

 もう夕暮れも過ぎて真っ暗な空と夜風が迎えた。

 

「雪か……」

 

 ちらちらと黒い景色の中に白い雪が交じった。

 夜風も相まって寒いが、怒り心頭ならば体も心もホットだろう。他に人気(ひとけ)も無い。叫びを聞くには絶好な場所だった。

 町の夜景を見渡しながら転倒防止の策に掴まり、顔までやや赤くさせている高遠を振り返った。

 

「で、話はなんだ?」

「お前のやったことは選手以前に、人として最悪なことだ……」

「そうだな。さしづめ、お前が考えているのは『差し入れにアレルギー源の混入』()俺がやったこと」

「俺の目はどうやら曇っていた。――こんな、こんな……」

 

 血が出る程握りしめられた拳は行き場の無いようにその場に留まっている。俺を殴れば済むだろうが、大したダメージも衝撃も与えられず高遠の腕が折れるやもしれない。賢明な判断だ。

 

「――まぁ、俺の話でも聞いて落ち着け。俺はクアドランスのアレルギー源たる食物、イチゴを食わせた。これは間違いがない」

「……ッ!」

「ヤツは()()()()()()()()()()()()()()()()()という、アレルギー源の食物を食べた後に運動した場合のみにアナフィラキシーを発症する、食物アレルギーの中でも希有な症例を持っていた。この場合、アレルギー源は()()()だ。さて、俺はどんな手段で食わせたか」

 

 クイズのように問いかければ、意外と素直に高遠は応じた。

 

「……クアドランスはバナナ、ミカン、そして市販のチョコレートを食べていた。明らかにイチゴなんて入っていない。答えは一つ、俺たちより先にクアドランスに会っていたお前が別の……イチゴを混在させた食品を食べさせた」

「つまらん答えだ。お前たちが丁度来たタイミングで、クアドランスは()()()()()()()()()()バナナを食っていた」

「…………それが、なんだっていうんだ」

 

 あの時、クアドランスは試合前の時間に、バナナとミカンを食べて、そして市販のひとくちサイズのチョコレートボックスから二切れほど出して食べた。

 

「バナナ、ミカン、チョコレート。これのどれにイチゴが入っていたかというと、――()()()()()()()

「どれもイチゴなんざ入ってないだろうが……」

 

 ところが()()()()()

 その程度に薄められたか、それとも栽培を失敗したかのような()()()()()が。

 栽培を失敗するとイチゴは簡単に水っぽくなり、味も甘さよりは苦味、というかダイレクトに土の味がする。食えたものではない不味い味。

 

「バナナとミカンには()()()()()()という共通点があった。良識を考え、差し入れに粗悪品を寄越すようなヤツがいないと仮定すれば、この土の味は粗悪品以外の理由で、()()()()()()()()()()()()()()()()、が焦点となる」

 

 高遠は考える素振りを見せるが、俺を睨みつけた。だが、視線の強さは少し弱まっていた。

 

「簡単だ。()()()()()()()()、又は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が考えられる」

「……待て、さっきからその言いぶりはなんだ。……――もしかして、お前は、やっていない、のか?」

「これまで二年の付き合いがあったが、自らの力で勝てない雑魚が取る手段を行うようなヤツだと思われていたのか。どうやら君の評価は修正せねばならないようだな」

 

 怒りをぽっと忘れたような、呆けた目が見つめる。

 

 クアドランスの時と同じように笑みを作った。

 

「だが、その発言には間違いがある。間違いなく俺は()()()()()。『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』なんて言ってイチゴ入りの果物を食わせたのだ」

 

「――――」

 

 高遠は見たことが無いような顔をしていた。口を開けたまま視線が合う。

 ……思ったより上手く笑えなかったな。表情筋まで支配権に置けなかったか?

 

「お前、それは……食べさせてない、って言うんだ。…………ならなんで、なんであんなこと言いやがった! なんで憎まれるようなことを言った!」

 

 詰め寄った高遠は俺より必死な顔をしていた。

 

「秘密」

 

「――ッ! 言え!」

 

「言う必要が無い」

 

「……怒ったからか、そんなにも俺は……信用がないのか」

 

「いいや、君はとても良いトレーナーだ。ある程度の信頼も信用もある」

 

 修正前の評価をそのまま口に出した。

 帽子を持ったまま俯き始めた、その高遠の帽子を奪って顔を上げさせた。

 

「これは自分の問題だ」

 

 ()はともかく、()はもう誰かの悪役になることは慣れている。

 誰かが俺を憎むことで正しき道を、心を立ち直らせられるのならば進んで選べる。

 謗りも怒号も嘆きも叫びも溺れる程浴びてきたのだから今更傷付くような柔い心も無い。

 

 あのままクアドランスが疑心暗鬼になって()()()()信じられなくなる前に、新たに敵を作る(自分が敵に成る)ことは至極当然で簡単な行為だ。

 

「そして、事に於いて最善たる道なのだ。分かっておくれ、高遠」

 

 涙の膜を張った黒い目がしっかりと見えた。

 




ジュニア級、完!
やっと書けたぜ、ここまでよォ!
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