保健室の浜野さん
トレセン学園には二千人を超える生徒たち、そしてそれらを教導する教官やトレーナーがいる。だが中高一貫のマンモス校であるトレセン学園、それを形成するのは生徒やトレーナーだけではない。学校である以上、学科を担当する教師もいる。ウイニングライブをする彼女たちを教えるダンス講師。他にも清掃スタッフや、健啖家であるウマ娘の食事を用意する料理人たち。外部の人間も含めれば生徒数にも負けない大人たちが支えている。
白衣で歩く彼女もまた、そんな大人の一人だ。
「野菜炒め定食、おねがいしまーす」
「はいよ! いつもの肉抜きね!」
『浜野』という名札を付けた白衣の女性は、まだ生徒がいない食堂の一席に座ると、ぼんやり外を眺める。ランチタイムの直前、グラウンドでの実習を終えたウマ娘生徒たちが、体操服姿で撤収していくのが見える。これから食堂になだれ込むであろう彼女たちよりも一足先に昼食をつまむ。
授業をする教師たちや教官、生徒たちよりも少し早くランチタイムに入れるのも、「保健室の先生」という少し特殊な立場である彼女の特権だろうか。
そんな特権を持つ者がもう一人、対面の席に座ってきた。
「お疲れ様です、浜野先生」
「あっ、たづなさん。今日は早めのお昼ですか?」
「はい。理事長がお気を遣ってくださいまして」
「それでその理事長さんはお昼も食べずお仕事、と。相変わらずですね」
「あの方らしいと言えばそうですけど、それはそれで困ったものですよね……」
苦笑をする駿川たづなと、その友人である白衣の女性。
浜野先生、と呼ばれた彼女は、トレセン学園内で「浜野先生」あるいは「浜野さん」と呼ばれる養護教諭。常に白衣で、栗色の髪に白いベースカラーと赤・緑の差し色が特徴のスカーフを頭に巻くのが特徴である。
人参スティックをシェアして食べるこの二人は、学園を裏から支えるスタッフ同士なのもあって、よく食堂で食事をしているところが目撃される友人同士だ。普段は丁寧な口調のたづなが、砕けた言葉で話す珍しい相手である。
「保健室の方はどうです? もちろん、何もないことが幸いだけど」
「暇……とも言えないけど、比較的平和かな? ブルボンちゃんもリハビリ頑張ってくれてるし」
「いつもごめんなさいね。ほんとはリハビリ担当スタッフのお仕事なのに……」
「いいのいいの、好きでやってるし。ウマ娘の治療って、難しいから」
医学が進歩した現代でも、人間と比べ、謎の病気や怪我が多いウマ娘。それを専門に相手するトレセン学園の養護教諭というものは非常に難しい仕事である。教官やトレーナー以上に人材不足が甚だしく、通常の養護教諭と比べ、オーバーワークになりやすい。それを嫌な顔せずに受け入れる浜野は、若いながらも、学園内の人間から信頼を集めている存在だ。
「で、たづなさん。今日はどういうご相談?」
「……バレちゃいましたか?」
「あなたが人参スティックをごちそうしてくれる時は、ゆっくりお話がしたい時。そういう時は、だいたい何か相談したい時」
「えぇ、私、そんなに分かりやすいですか?」
「性格が似てるから、分かっちゃうのよ私には」
特にたづなは、ウマ娘の怪我という事象に敏感な性格故、浜野に対して強い親近感や信頼感を抱いている。学園のスタッフ同士、ではなく、友人同士として「頼み事」をするのもしばしばだった。
何か話題があることを察した浜野は、あえて自分から切り出すことでたづなに却って話しやすい雰囲気を作ってくれたようだ。それに甘えて、たづなが口を開く。
「もうすぐ宝塚記念なのは……浜野先生なら聞かなくても知っていますよね」
「そりゃもちろん。ただ、今年は色々あったわよねぇ。阪神レース場で事故が起こって、突然のメンテナンス。だけど確か――」
「現地の運営方々のご厚意もあって、京都レース場での開催が決定したのが、つい先日です。……出走者は、知っていますか?」
話の要点は、その宝塚記念の出走者であろう。そう察した浜野は、記憶を辿る。そしてすぐ、一人のウマ娘の名前が浮かんだ。
「話題になってた子、いたわよね。確か高等部の。ライスシャワーちゃん」
「お話したことは?」
「ちょっとだけ。ほら、今リハビリしてるブルボンちゃんのお友達だから」
「でしたら、お話が早いです。夜、グラウンドに行ってみてほしいんです」
たづなは詳細を掻い摘んで語る。宝塚記念を目前に控えている彼女は、ここ最近、正式に申請を通した上で夜の自主練をしている、と。
当然、大きなレース目前、自主練による追い込みを行うのはよくある話だ。無許可の自主練を咎めるのはともかく、申請を通しているということは、学園やトレーナーも許可した上で、ライスシャワーは自主練を行っているはずである。おかしな話はなにもない、はずだが。
「何か気になるの? 確か、彼女は大きな怪我もしたことないはずだし」
「ええ。それはもちろん知ってるの。だけど、この前、通りすがりで見たときに……何かこう、嫌な予感がしたというか」
「んー……たづなの『嫌な予感』って、洒落にならないから嫌なのよねぇ」
「もーっ、私だって悪戯で言ってるわけじゃないのっ」
しかし、それを聞いてまた思い出したのは浜野だった。
「ただ……私もちょっと気になるかも」
「浜野先生も?」
「ほら、さっきも言ってた友達の子。少し前は、ブルボンちゃんのこと、ライスちゃんがよくお出迎えしてくれてたんだけど。最近、来てくれなくなっちゃったのよね」
「そうですね……ライスシャワーさん。今年に入ってから、日経賞に天皇賞、そして宝塚記念。重賞レースが続いていますから」
「忙しいから仕方ない、っていうのはブルボンちゃんも承知の上だったけど。ちょこっとだけ心配してたかな。ブルボンちゃんよく言ってたのよ。『ライスシャワーさんは、ステータス:頑張り屋を持っていますので』って」
そんなブルボンの言葉もあり、浜野の内心としては「様子を見るのはタダであるし、見るだけでもいいかもしれない」と決心が固まっていた。
加えて、浜野の脳内には、ライスシャワー以外にも過った顔があった。
「とはいえそっか……宝塚記念、かぁ」
「ふふ、浜野さんは思い入れ、ありますもんね」
「うーん、それはそうなんだけど……今年は、ね」
少し言い淀んだ浜野に、たづなは首をかしげるだけだった。