放課後、日も暮れて夜の時間になったグラウンド。照明に照らされたその場所でライスシャワーは自主練を繰り返していた。
坂路コースを何往復もし、感触を確かめていく。彼女は生粋のステイヤーとして、特に坂路の走りを得意としていた。坂のスペシャリストとも言うべき彼女は、それでも坂路練習をやめない。
「(淀の坂……宝塚記念は距離も短い。中距離でライスが勝つには、ここで勝負をするしかないから……!)」
様々な経緯があり、今年の宝塚記念は京都開催。京都レース場を得意とする彼女にとっては僥倖だが、今まで中距離G1を勝てたことはなかった。ヘビーステイヤーである彼女が、中距離を勝つために考えたのは、高低差がある京都レース場の坂のさらなる攻略。そのためにも近頃はもっぱら、坂路練習を重きにして自主練を重ねていた。
「っ……と。アイシングのスプレー……っ」
しかし坂路練習は当然負担が大きい。特にウマ娘。走行時、速度に比例して脚に負担がかかるウマ娘には顕著であり、トレーナー側から、練習の頻度に制限がかかることも多い。それはライスシャワーも承知の上で、ケアのためにアイシングスプレーを持参していた。ベンチに座り、左足にアイシングスプレーを振りまいていく。
その後ろ、ライスシャワーの背後に浜野が歩み寄ってきた。
「おつかれ。話には聞いてたけど、がんばってるね」
「ふぇっ? あれ? 浜野先生っ?」
浜野はスポドリのボトルをライスシャワーに投げ渡す。少し驚いた様子のライスもあわあわした様子ながらもボトルを受け取ろう――としたが、なんの偶然か、ボトルの開け口が緩んでいたようで、ボトルからドリンクが零れ、ライスの体操服にかかってしまった。
「うわーっ!? ごめんなさい!?」
「ひえぇ~! ち、違うんです! ライスのせいですから! ライスってこういうこと多いだけですから!」
二人で謝り合いが発生してしまったが、浜野が先に一歩引き、代わりに自分用の野菜ジュースをライスにあげる形でアクシデントは決着した。お互い、ほんの少し気まずい雰囲気が漂いつつも、浜野はそれにも臆せず、ライスの隣にしれっと座る。
保健室でお世話になっているミホノブルボンの関係で、ライスも浜野とは話す機会もあった。が、自分から積極的に話すことはなかったため、急に声をかけられて距離を伺っている様子だった。
だが生来の性格・気質か、養護教諭の仕事をする上でか。内向的なライスを相手にも臆することなく浜野は話かけていく。
「あはは、ごめんね。私いつも野菜ジュースだから」
「そ、そんな! ライスは野菜ジュース、好きですからっ」
「話には聞いてたけど優しい子で助かるわ。あなたは……練習終わり? アイシングしてた?」
「あぅ、えと……はい。本番、近いので」
「貸して」
「ふぇ?」
「足」
しれっと言う浜野の口ぶりに、つい反応して足をベンチに上げる。浜野は小さなポーチからテーピングテープを取り出すと、あっという間、慣れた手つきでライスの左足をテープでぐるぐる巻きにする。その後、保冷剤を取り出すとライスの左足に固定して、その足を自分の膝に乗せた状態にした。
「はい。このまま20分は安静にすること」
「ご、ごめんなさい! ありがとうございますっ」
「意外とみんな、正しいアイシングの仕方、知らないわよね。知ってる? アイシングの基本は『ライス』だって」
「ライス……え? ライスのこと、ですか?」
「あはは、ごめん、からかっちゃった。英語の頭文字を並べて『RICE』ってこと」
Rest(安静にして)
Ice(冷やして)
Compression(圧迫させて)
Elevation(高く挙げる)
アイシングを行う際の基本のやり方を分かりやすくした、標語のようなものである、と浜野は悪戯っぽい顔で説明した。
「偶然だけど、ちょっと面白いでしょ? 自分の名前を言えば、すぐに思い出せちゃうから」
「――ふふ。ほんとだ。これなら、ライスでも他の子にできそうかも」
ジョークを絡めた会話に、ライスはすっかり浜野への緊張感が解れていくのを感じた。浜野はライスの左足を膝に乗せたまま、会話を続けていく。
「最近頑張ってるみたいね」
「うん……宝塚記念、近いから」
「今年は京都開催だよね。それで坂路かー。あそこの坂、きついしなぁ。トレーナーさんは?」
「宝塚記念の直前まで、出張なんです。だから自主練で……あっ! で、でも! もちろん、トレーナーさんとは相談してますよ!」
「あはは、分かってるわかってる。だからアフターケアもしっかりしてたよね」
「うん。それに……今年の、宝塚記念は。絶対に、負けたくないから……!」
浜野は、普段の生活上でのライスシャワーしか接することはなかった。少し内向的ながらもひたむきで努力家。優しく友達思い。ブルボン曰く「少々のアクシデントやトラブルを重く受け止めてしまうケース有」と聞いてはいた。だが今の短い会話でも、彼女の内心は、弱気どころか、とても苛烈。ひたむきさと努力家は本質的な負けず嫌いっぷりによるものだと察することができる。
故に、浜野は判断した。トレーナーが不在の今、この子に必要なのは、身体だけでなく、メンタルのアイシングも必要なのかもしれないと。
「うーん。だからちょっとやりすぎちゃってる、ってところかな?」
「ふぇ? そう、ですか? ちゃんと、アフターケアもしてるし……」
「左足。そこ、重点的に冷やしてたでしょ? ちょっと痛み始めてるんじゃないかな?」
「あっ。それは……」
ライスは素直である。それを誤魔化せることもなく、表情で肯定していた。あくまでライス本人にとっては、違和感を感じ始めていた段階ではあったが。無意識に左足を重点的にアイシングをしていたのは「言われてみれば」という事実だった。
「ちゃんと対策してるのはいいことだね。だけど、やり方が不十分だと効果も小さくなっちゃうから。ちゃんとした方法を覚えた上で、練習すること」
「……止めない、の?」
「止めてほしいの?」
「ううん! だけど、その」
左足の痛みを咎められたライスの顔は、少々後ろめたい様子だった。相手は養護教諭であるが故に「練習を止められてしまう」という考えに行き着くのは当然と言える。だが浜野の意外な反応に戸惑いを隠せないようだ。特に、浜野には友人であるミホノブルボンが世話になっている。怪我をすることの辛さ、厳しさを知っている立場だ。ある意味、一番、怪我や病気を忌み嫌っているはずの人物が、自分の苛烈なトレーニングを止めないのか、と。
意外そうな顔をしたライスに、少し笑みを零しながら浜野は語ってくれた。
「私の仕事は、『みんなのやりたいことをやり続けてもらいたい』って。そう思ってるから、養護教諭になったのよ。まぁ……それだけじゃない、ってのが難しいところだけどね」
浜野は、含みを感じさせる難しい顔で語った。その言葉に、ライスはハッとさせられた。この言葉は、自分のトレーナーがかつて言っていたことのような気がしたからだ。
「トレーナーさんも……似たようなこと、言ってた、気がする」
「人によって考えは違うかもだけど、トレーナーも、教官も、そういう仕事だから。いや、それだけじゃないか。きっと、教師も、食堂の人も。そのために、私たち『大人』がいるかなって」
浜野のその言葉は、心からそう思っている。それが伝わる真摯さが込められていた。ライスは自分の今までを思い出した。天皇賞(春)の直前、つい意気地になった自分は、トレーナーや友人に頼らず、頑なに無理な練習を繰り返したことを。
今ではしっかり相談した上で自主練を行っているし、トレーナーや友人を頼る術を覚えた。だが、頼れるのは、身近な人だけでない。自分の周りには、自分が思っている以上に、自分たちのことを思ってくれている誰かがいること。ライスはそれに気づかされたのだ。
何かを決めたライスは、浜野と視線をしっかり合わせた。
「浜野先生! その、ライス、もっと練習したくて。ライス、中距離レースであまり勝てたこと、ないから。もっとがんばりたいっ。けど……」
「まだ天皇賞から日も経ってないから、疲れも残ってる。だから怪我しちゃうかもしれない?」
「そう、かも。ちょっぴりだけ、左足に違和感があって。だけど、レースも、練習も、やめたくないんです……!」
浜野は話題を誘引しつつ、ライスの言葉を待っていた。それに甘えたライスも毅然とした雰囲気で話す。
「お手伝い、お願い、できませんか……! ライスが、もっと、ちゃんと、練習できるように。怪我しないように」
「ん、わかった」
浜野のそれは、数秒すらかからなかった即答だった。あまりにあっさりと受けてくれた浜野に、ライスは訝しげに聞いてしまう。
「その、いいんでしょうか? 浜野先生、ライスだけ相手にするわけじゃないのに」
「だけど、ライスちゃんのお願いだけ断る理由もないよね?」
「それはそうですけど! あぅぅ」
弁舌で勝ち目もない、とライスは言い返す言葉もなくうろたえてしまった。「ごめんごめん」と浜野が軽く笑うが、その直後、真剣な目になるとライスに向き直った。
「代わりに、先生と約束してほしいことがあるの」
「ライスと、約束、ですか?」
「うん。――絶対、無事に走りきること。ちゃんと、帰ってくること」
重ささえ感じるその約束。浜野のその言葉に、ライスは真剣な顔ではっきりと頷いた。