トレセン学園保健室だより   作:サンアディユ

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場を制し

「宝塚記念を勝つ……?」

「はい。――それが、トレーナーさんから課せられた課題です」

 

 

 数日後、保健室にやってきたグラスワンダーは、重い表情で語ってくれた。

 保健室、浜野とグラス、二人だけの空間には、どこか距離感を感じさせる。仄暗い雰囲気に包まれていた。

 

 

「春の天皇賞は出走回避。その代わり、目先の目標を宝塚記念に変更。そして、宝塚記念で勝利をすれば――海外遠征を許可する、と」

「それが、トレーナーさんの妥協点ってことね」

「元々、トレーナーさんは海外遠征に反対していましたので。ですが、トレーナーさんのおっしゃることも最も。宝塚記念、ここを勝利できなければ、凱旋門賞制覇は夢のまた夢。筋は通っています」

 

 

 グラスは経緯の説明を終えた後、かすかに震えた手を握りしめながら、浜野の目をじっと見つめた。

 

 

「なぜ、トレーナーさんを……いえ、トレーナーさんだけではありません。スぺちゃんやエル、キングちゃん、セイちゃん、ツルちゃんも。皆が……私の身を案じてくださいました。皆が、私の無理を止めてくださいました」

「いい友達、持ったのね」

「……先生が、そうさせたのですよね」

 

 

 グラスの小さな声に、浜野は返事をしなかった。それこそが肯定だった。グラスは激しく湧き上がるなにかを抑えながら、静かに問い詰める。

 

 

「私の身体のことは、私がよく知っています。この調子で走れば――おそらく、次のレースが、私の最後のレースになるはず。だから、私は――粉骨砕身、この身を捧げるレースは、絶対に後悔のないように、と。フランスで走りたかった……! たとえ、無様を晒したとしても……! なのに、これでは……!」

「宝塚記念で終わってしまうって言いたいの?」

「――それが、トレーナーさんの判断です……っ」

 

 

 トレーナーの判断は理性的で、かつグラスワンダーの身体を思ってのことだ。それをグラスは理解している。だからこそ、怒りとも悲しみとも違う、熱く、冷たい感情の何かを抑えるのに精一杯だった。

 顔を伏せるグラス。浜野は、少し寂しそうな顔をしながら、グラスの頬を優しく手で包み、視線を向き直させた。

 

 

「グラスちゃん。あなたは勘違いしてるわ」

「勘違いは、していません。私の身体は、私が知っていて――」

「グラスちゃん。あなたはまさか、あなたのトレーナーさんが『宝塚記念で負ける』と思って、その条件を提示したと思っているの?」

「え――」

 

 

 浜野の言葉に、グラスは目を見開いた。不意に鈍器で殴られたbような顔で。それは、忘れてはいけないことを思い出した顔だった。

 

 

「私は、『今の』あなたに、凱旋門賞を走ってほしくない。私は、あなたの走りを止めるためにここにいるんじゃないの。――あなたを走らせ続けるために、保健室の先生になったのよ」

 

 

 衝撃で、グラスの息が細くなる。本当に殴られたかもしれない、それほどの動揺した顔で硬直した。そしてやっと、気づけた。

 「凱旋門賞を負けてもいい」と、「宝塚記念で勝てるはずがない」と、そう決めつけていたのは、自分自身しかいなかったことを。

 

 

「私や、あなたの友達、そしてトレーナーさんも。あなたを信じているからこそ、あなたの無茶を止めたのよ。あなたが、今の自分を乗り越えて、勝ってくれるって信じてるから。だからあなたも信じてあげて。グラスワンダーは、ここで終わらないって」

「わた、し、は……っ」

「あなたのやりたいこと――それを実現させるために、私はサポートするわ。宝塚記念を勝って、トレーナーさんを納得させる。そして、凱旋門賞に挑戦する……! あなたが無事に走り切れるようにね」

 

 

 浜野の決意に、タイミングよく来たのがライスシャワーだ。保健室に入り、グラスの手を握ると、それを優しく引っ張って導いていく。

 

 

「グラスさん! ほら、トレーナーさんも待ってるよ!」

「ライスさん……? トレーナーさんも……?」

「グラスちゃんのトレーナーさんが、ライスちゃんに練習相手をお願いしたの。宝塚記念を勝つために」

「っ……!」

 

 

 前を進んでいなかったのは自分だけだった。それを自覚したグラスは、ゆっくりと手を引かれていく。

 こうして、宝塚記念に向けたグラスの復活計画が開始したのだった。

 

 

 

   ◇   ◆   ◇   ◆

 

 

 

「あなたの不調の原因。おそらく、メンタルによるものだと思ったの」

「その……私が、弱気になってしまっているが故に、と?」

「というよりかは、モチベーションと体調の波、それと衰退期に差し掛かったタイミングが重なり合って、嫌な共鳴をしちゃった、みたいな」

 

 

 練習を終えたグラスワンダーの右足をマッサージしながら、浜野は穏やかに説明を続ける。

 

 

「精神状態が成績に影響するのは、知っての通りね。スポーツ選手には付きまとう問題だけど、特にウマ娘は、人間よりも影響が大きいとされているわ。それと、大きなレースが終わった後に、モチベーションが揺らぐのもよくある話ね。それが怪我や体調不良で現れることは、ウマ娘によくあることよ」

「有馬記念に勝った後、だったから……」

「いや、それよりも大きなファクターは――」

「お疲れ様です。まだ熱いから冷ましてからね?」

 

 

 話の途中、併走相手であったライスシャワーが、ホットココアをグラスに差し出してくる。疲労の色が見えるグラスと比べ、息が乱れる様子がなかったのはさすがステイヤーと言うべきだろうか。グラスは尊敬すべき先輩相手ということもあり、よそよそしくマグカップを受け取った。

 

 

「ありがとうございます。さすが、ライスシャワーさんですね。同じ宝塚記念ウマ娘として、圧倒されてしまいました」

「ううん。グラスさんは、本気をうまく出し切れてないだけだと思うから」

「私が、ですか……?」

 

 

 まさか、自分が無意識で手加減をしていたのか。とグラスは一瞬戸惑うが、それにライスは否定した。

 

 

「浜野先生の話に関係するんだけどね。グラスさんはね、きっと『追いかけるライバル』がいて、それを追いかける時――マークしてる時が、一番強くなれると思うの」

「ライバル……」

「ライスと、グラスさん。走り方がね、似てるんだ。特定のライバルに徹底マークして、それに追従する形で差し切る。そういう戦い方。……心当たり、ありませんか?」

 

 

 その指摘に、グラスはまったくの違和感がなかった。真っ先に思い浮かんだのは、有馬記念でしのぎを削ったライバル――スペシャルウィークの顔。思えば、彼女を相手にしたレースが、己でも良い走りができていたと自負できる。薄っすらと感じてはいたものの、それが自分のモチベーションや能力にまで深く影響していたことを、今やっと自覚したのだ。

 浜野は思い出した。スペシャルウィークは昨年の有馬記念後、ウィンタードリームトロフィーに移ったはずだと。グラスワンダーは、トゥインクルシリーズで、一番のライバルと直接交える機会を喪失したのだ。

 

 

「だから、その……追いかける相手を、見失っちゃって。それで、走りも、どこかふわふわしちゃったのかなって」

「なるほど……。相手を選んでしまうとは、私も未熟ですね」

「そんなことないよ! ライスだって、マックイーンさんやブルボンさんが居てくれたから強くなれたんだから。――それにね、追いかけるべき、強いウマ娘は他にもいるんだよ」

 

 

 ライスシャワーの強い語り口に、グラスは何かを感じ取る。ライスシャワーは、ほんの少し先の未来を見据えているようだった。

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