アストンマーチャンと浜野がその次に会ったのは、ファン感謝祭当日のことであった。
「ありがとうございます、先生……」
「いいのいいの。あ、ほら。スパイ映画も終わったら、棚にある私のビデオも見ていいから」
「びでお……?」
「あー……うん、ディスクのね。『必殺仕事人』っていう時代劇の。好きなのよ私」
「ひっさつ、しごとに……?」
「ごめんなさい……なんでもないわ。どうぞごゆっくり」
連鎖したジェネレーションギャップにちょっとしたメンタルダメージを食らいつつ、浜野は保健室を後にした。
アストンマーチャンは今朝に風邪をひいてしまったらしく、感謝祭の予定をキャンセル。トレーナーと二人で過ごすことにしたそうだが、たまたまマーチャンの診察に来た浜野が「それならベッドもある保健室を貸す」と提案し、今に至る。トレーナーとマーチャンとの二人でスパイ映画を見て過ごすそうだ。
ファン感謝祭という日に体調不良、それも例の「春アレルギー」とも言うべき謎の不調も今年は特にひどいらしく、顔に出る程度に精神が参っている様子だ。そのこともあって、トレーナーと二人きりにさせて、浜野は感謝祭を軽く見ていこうと外出することに決めた。
感謝祭を歩き回って昼を過ぎた頃。浜野はトレセン学園の屋上で、屋台の食事を食べながら、グラウンドの盛況ぶりを眺めていた。普段は少数の生徒が姿を見せる屋上も、さすがに今日は誰もいない様子で、にぎやかな感謝祭とは少し隔絶された雰囲気の中でゆったりとしている。
少し遠くからは、ウオッカとダイワスカーレットの名で盛り上がる実況の声が聞こえる。そういえばアストンマーチャンと同期の子たちだったはずだ。マーチャンも今日を楽しみにしていただろうに、と同情的に考えてしまう。
「マーチャンも、早く元気になるといいんだけどなー」
「――マーチャン様、具合、悪いのですか……?」
「わぁっ!?」
「ひぅっ!!?」
屋上には人がいない、と油断しきっていた浜野。不意に後ろから聞こえてきた声に思わず仰天し、その声に後ろのウマ娘も浜野以上に驚き倒してしまった。
「って、なんだトレセン学園の子かぁ。びっくりしたー。ごめんなさいね、誰もいないと思ってたものだから、あはは」
「ふぇぇぅ……ち、ちがう、です。わたしのせい、です。ごめんなさい、です。てっきり、わたし、きづかれないものだと、おもってて」
そのウマ娘は、かなり内気で弱気な様子だった。紫のウマ耳カバーに、星マークが特徴の小さなワイヤレスヘッドホン。星の髪飾りを左耳に着けたウマ娘は、制服姿でそこにいた。体操服や勝負服でないということは、競技に直接参加しない運営スタッフか見学人だろうか。とはいえ、一番忙しそうな今の時間で屋上に来たということは、休憩中だろうか。
「感謝祭、お疲れ様。休憩中?」
「いえ、その……私、もう、出番、ないので」
午前に競技を終えた子か、と浜野は勝手に一人で納得する。
「そっか。そういえば、マーチャンのお友達かしら? あの子のこと言ってたけど」
「そんな! とんでも、ない、です。私が、おともだちだなん、て、そんな。私、あの方の背中を、追うことしか、できない、ウマ娘、なので」
変に謙遜しているようで、それにはこれでもかと否定した。「そこまで言わなくても」と浜野は言いかけたが、それを止めて星飾りのウマ娘に提案する。
「心配なら、保健室に行ってみるといいわよ。あの子、風邪で今日お休みになっちゃって。お友達――じゃなくても、お見舞いしたら喜んでくれるんじゃないかしら」
「――その、それは」
その提案に、星飾りのウマ娘は淀んだ。何か会わない、あるいは会えない理由があるとでも言いたげに。浜野はそれを察すると「そっか」とそれ以上は踏み込まなかった。だが、その心配げな顔を見て、そのウマ娘がマーチャンを思う気持ちは本物だろうと思えた。
感謝祭のイベントは盛況を続けていた。にぎやかな様子を眺めつつ、浜野は階段へと向かう。
「よかったら、一緒に感謝祭、見ていかない? にんじんクレープでもおごるよ」
「いえ、その」
「って、さすがに保健室の先生と一緒じゃあ楽しめないか。ごめんごめん」
「ちがう、です。その」
星飾りのウマ娘は、一瞬答えに戸惑った数秒後、静かに返した。
「――私、海、行かないと、いけない、ので」
「――え?」
その言葉に浜野は振り向いた――が、そのウマ娘の姿はなぜか忽然と消えていた。まさか屋上から飛び降りたはずもない、が、階段に身体を向けていた浜野の背後から、そのウマ娘は姿を消したのだ。不可思議でしかなかった。
だが、そこに誰かが、確かにいた。その証拠に、そのウマ娘がいた場所に、小さな星のペンダントが、日に照らされて落ちていた。浜野がそれを拾うと、ペンダントは、そのウマ娘の髪飾りと同じデザインをした星の形だった。
「そういえば、確かあの子って――」
浜野は、それを拾った瞬間に、やっと思い出したような声をあげた。
◇ ◆ ◇ ◆
ファン感謝祭から数日経過した4月21日。アストンマーチャンは運命の日を迎えていた。
夕方の海。「海の呼ぶ声」に従って、マーチャンは海辺へと踏み入れていた。無意識、あるいは心がそれを受け入れ、マーチャンはそこにいた。
きっとこのままここに居れば、マーチャンは消えてしまうだろう。なぜかその確信が、理外の理によって理解させられていた。
マーチャンは海に吸い込まれるように、ゆっくり、ゆっくりと脚を進めていく。ゆっくり、確かに一歩ずつ、海の中へと歩みを進める。
そんなマーチャンの歩みを、誰かが止めた。マーチャンの手を握り、それを制止させた。
「――あなたは、そっちへ、行っては、いけません」
「――え?」
止めたのは、星飾りのウマ娘だった。弱弱しい声ながらも、及び腰ながらも、その握る手だけはしっかりと強いものだった。
マーチャンから見れば、「知らないウマ娘」に、急に止められただけの話だった。だが、なぜかその声を無視できなかった。
「その、あなたは、なぜ。マーチャンは、さよなら、しないといけないのです」
「あなたは、違う、です。あなたを、探してる人、います、です。――『さよならは、言わないで』」
「そんな――あ……」
足を止めているマーチャンの耳に、砂浜を走る音が聞こえた。向こうから見える人影、それは間違いなく、マーチャンのトレーナーだった。
「トレーナー、さん――あれ……?」
トレーナーがこちらへ、必死な顔で駆け寄ってくる。その時には、マーチャンのそばには誰もいない、マーチャンだけのその場所。マーチャンは先ほどまで「そこに誰がいたか、誰かがいたことさえ」忘れてしまっているのだった。