8時半になった。チタウロ隊長以下6名が起床し、次のシフトに着く。9時には地上プロジェクト本部との定例ミーティングが始まる。
チタウロは、一見いかにも女性然とした雰囲気の下に、信じられないような意志の強さと、若干の冷酷さを持つ人物だった。基地統率官としてこれ以上の適任者はなかなか見受けられない。達也は彼女を10年前から知っているが、任務をともにするのは初めてだった。
起床後15分で、チタウロは現況確認と当該シフト隊員全員への指示、同時に朝食を済ませてしまった。必要なことは可能な限り短時間で行う、が彼女の流儀だが、ハレックや哲夫とは余りペースが合わない。
その哲夫は、これも起床するなり原子炉モニターコンソールに張り付いていた。どうも核分裂反応の速度調整が気に入らないらしい。
9時、本部とテレビ会議をつなぐ。国際通信用光・量子標準ケーブルの3倍の強度を持つ専用通信ケーブルは、これ以上ない鮮明な画像を提供している。チタウロは簡潔にブリーフィングを行った。
「ダゴンの様子に変化は殆ど見られません」
モニター向こうのウィリアムスHO(ヘッドオフィス)は、いつもの柔和な笑顔を浮かべていた。微笑で全ての感情を覆い隠すタイプだ。画面越しだと、本音は全く解らない。
「こちらのモニターでも確認している。出現依頼殆ど動いていないな。移動範囲は3メートル以内だ」
「そうですね」
「…サプライの供給はもう少し待ってほしい。備蓄は100日分あるはずだが、嗜好品はしばらく控えてくれ。バチスカーフを降ろすには読めないリスクが多すぎるのでな。出現から一週間経つので、なにがしかの行動を起こすべきと考えているが」
「リスクが読めないという点については同感です」
「本件は引き続きセキュリティレベル9だ。政府にも内容を把握している人間は数名しかいない。通常通信にも厳重に注意を払ってくれ」
「了解しました」
「一両日中に、行動プランを送信する。以上」
回線通信が切られた。
「…HOは動いてくれるんですかね」チタウロに哲夫が尋ねる。
「解らないわね。今日の感じだと、出来るだけ言質を与えないようにしているとも取れる」
「最後は現場に丸投げですか。何のために情報交換しているんだか、意味全くないぜ」
哲夫は全メンバー中最も粗野な印象を与える人物だった。年齢は既に50歳を回っているはずだったが、何しろ行動に落ち着きがない。チタウロと話しながらも、両手は休みなく膝の上で動いている。
チタウロは軽く微笑して、モニターコンソールに向かった。哲夫もそれ以上悪態をつくことなく、原子炉反応モニターに目を戻す。ダゴンを刺激しない範囲で、通常の研究・調査活動を続けなければならない。ただし必要であれば、チタウロは完全に現場の裁量で行動を進める。
アリューシャン・海底基地プロジェクト。足かけ30年、およそ4,000億ドルが投じられることになる予定のプロジェクトだ。国家予算に匹敵する額をかけて、なぜわざわざ海底5,000mに有人の基地を作るのか。参加各国の政府がマスコミや各国野党から都合500回は受けている質問だった。
賛成派の反論もたいていは同じパターンだった。それを言ったら、ルナ・ドーム・プロジェクトはどうなるのか?15年の歳月を費やした後、最終的に撤退が決まった。月面にあるのは基地の残骸だけだ。あれこそ、何を生み出したというのか?
本プロジェクトは、より現実的な目的からスタートしていた。海底資源の発掘、海底火山熱源への接近と研究、深海生態系のより詳細な研究、太陽系外惑星における有人基地開発の可能性研究…どれももっともらしい理由ではある。
このプロジェクトを巡る軋轢は、関係者にはよく知られた話だ。ネオNASAを有する北米連邦(NAF)と、ここ数十年勃興著しいアラブ・ペルシャ連合国(UNAP)が、プロジェクト主導権を巡って長らくしのぎを削っていた。
ポスト化石燃料の争いが背後にあった。アリューシャン深海下の地盤には、地球最大規模のメタンハイドレード鉱脈がある。関わったこれまでの国がことごとく大規模採掘に失敗し、最後の切り札としてアリューシャン基地プロジェクトは大きな期待を集めていた。
プロジェクトメンバーは各国の専属研究職を中心に、基本的には志願者で構成され、それぞれ独立したミッションが与えられる。フィリピン方面の別任務に就いていた達也の基地配属は、既に述べたとおり偶発的な理由だった。
達也は出発前日にウィリアムスHOに呼び出され、電子フィルターメモを渡された。読了後完全に消滅するので、指令内容は覚えておくしかない。
「当該プロジェクトにおいて、ウルティメイト・ポッドの操作優先権を与える。チタウロ隊長は了承済みである」。
訳の分からない話だった。釈然としないものを抱えたまま、達也は基地へと向かう6時間のバチスカーフ・トラベルに入った。