ぼうっと広がる視界。見上げると、青が溶け行く春の夜空に一番星が輝き始めている。それ以外に辺りを照らすものは何もない。
シャニーは暗闇の中でただ、呆然と空を見上げたまま身動きも取れなくなっていた。
古ぼけた石造りの階段に置物のように腰掛けて、もう立ち上がる気力も湧かない。
「もうこんな時間か……」
時計を見下ろしてぽつりと漏らし、それっきり。
空を見上げたはずの視界は、時計から外れてそのままうつむく。
いったい、今日何をしていたのかまるで記憶がない。壊れた心のまま足をただ引きずって、気づいたらこんな城の隅っこに、流れ着いた枯れ葉のように佇んでいる。
(今までの戦いは……なんだったの?)
ひたすら問いかける声に返って来るものはなにもない。
今まで、ずいぶん戦ったはずだ。それこそ、毎月のように。その辿り着いた先にあったのが、これなのか。
悔しくて、悔しくて、もう笑えてしまう。引きつった笑みを浮かべた途端、乾いた瞳が潤みだす。
(みんなに何て言えばいいんだろ……分かんないよ……)
一気に浮かび上がってくるたくさんの顔。十八部隊のみんな、村々の人たち、姉やゼロット……。みんな、信じて託してくれた。
彼らの笑顔を見たくて一生懸命に戦ってきたのに、下された辞令がすべて引き裂いた。
もう、あと数日で彼らに声をかけることさえ許されなくなる。腹の中に重く、黒く溜まっていくものが、ギリギリと締め付けてくる。
「ごめん、みんな……。あたしは、みんなの想いを裏切る……こと……に」
重い心を吐き出した途端に、腹が悲鳴をあげ、胸が震えて言葉にならない声が溢れだした。崩れた視界にはなにも抗う力は残っていなくて、ぽろぽろと流れ落ちる涙を止められない。
裏切るなんて、絶対にできない。でも、叙任騎士である以上は逆らえない。どうすればいい……?
誰もいない打ち捨てられた場所で独り、ただ擦り切れるような声で慟哭して、やり場のない気持ちを何度も何度も石段へ振り下ろすその拳は弱々しい。
「ここにいたのか」
ふいに自分以外の声が聞こえてきてはっとする。
涙を拭うことも忘れて振り向くと、視界に眩く入ってきたランプの明かり。真っ暗な闇の中で照らし出されたのは親友の顔だった。
「アルマ……」
少しだけ、ほっとした。このまま誰にも会わずここにいたら、どうにかなってしまいそうだった。
なにも変わるわけでもないのに、なんだろう、この安堵は。
(どうしてここが分かったんだろう)
ゆっくりと歩き出したアルマの視線をじっと追いながら、そんなことを考えていた。
周りの景色からするに、ここは西棟の外れ。事務員たちの職場から、さらに奥の城壁沿いのはず。
自分でもどうやってここまで来たか覚えていないくらい人気のない場所のはずなのに、アルマは来てくれた。皆、探しているかもしれない。また迷惑をかけている自分に下唇を噛む。
そうしている間にアルマは歩いて来て、肩が触れるほどまで寄って座った。
「誰に謝っていたんだ?」
重い沈黙を動かすようにアルマが聞いてきた。それ自体はありがたくても、その内容にドキッと胸が跳ねる。
独り言のつもりが聞こえてしまっていたと思うと、妙に恥ずかしい。いまさら取り繕ったって仕方ないとは分かっていても、涙をすすって目元を拭う。
「ううん! なんでもないよ。星を眺めてただけ」
こんな姿を親友に見せたくなかった。ニコっとして見せ、一番星のいる場所をとっさに指さす。
でも、やっぱりダメだった。無理して作った笑顔なんて、あっという間に崩れていくのが自分でもはっきり分かる。すぐに視線が垂れ落ちて、口元が引きつっていく。
「それよりさ、副団長就任おめでと! スゴイじゃん!」
もう一度元気を振り絞ってアルマのほうを振り向き、友の出世を拍手で称える。
(もうアルマは副団長か。それに比べて、あたしは……)
笑っている傍からそんな心の声が囁いてきて顔が崩れそうになる。涙を隠そうと歯を見せて無理やり口角を上げ、ぎゅっと目を閉じた。
「ま、一応礼は言っておこう」
相変わらず、感情を表に出さないアルマに少しだけほっとした。
もう少し嬉しそうにすればいいのにとも思うが、傍に友を感じるだけで不思議と落ち着く。
独りでいると、どうしてもあれこれ考えてしまう。彼女が来てくれなかったら、このまま朝を迎えて凍りついていたかもしれない。
「もー、照れちゃって~。あと一歩だね!」
副団長となり、一層立派になった鎧。そのショルダーガードをぽんと叩きながら、精一杯の明るい声で親友を祝う。
アルマの顔に喜びはない。それどころか、どこか苛立ちさえ滲んでいるように見える。珍しい。ポーカーフェイスを崩さないアルマの顔に感情がある。
それでも、無言には変わらない。今はなんでもいいから言って欲しかった。
(アルマとも、会えなくなるんだな。アルマとの夢も……)
親友が返してくれないと、なにも後が続かない。空元気だったことを思い知らされ、長い沈黙が広がっていく。
闇夜の中でランプに照らし出される親友の横顔をじっと見つめて、シャニーはきゅっと両唇を噛んだ。
彼女への侘びの言葉ばかりが心の中で繰り返されてくる。独りでいたときは気にならなかった沈黙が、とても辛くなってきて思わず笑いが漏れた。
「大抵のことじゃ驚かなくなったと思ってたけど、またイドゥヴァさんにやられちゃったよ。副団長なら、知ってると思うけどさ」
自身に起きたことを吐き出すように喋る口調は最初こそ絶望に笑っていたが、最後は震えて、擦り切れ千切れていった。どうしようもないところまで追いやられ、城の隅っこで佇んでいるのは、やつれ切った苦笑い。
(何でなんだ……)
それしか頭に浮かんでこない。答えの出ないループの中にいると、どんどん体から力が抜けてくる。このまま……もう目を瞑ってしまいたい。そう思っていたときだった。
「……すまない、シャニー」
突然の声にはっと目を開けて振り向く。真剣なアルマの眼差しがまっすぐ向けられていて、言葉に詰まった。
いつもポーカーフェイスだが、この無表情は……泣いている。
「ど、どうしたさ? なんでアルマが謝るの?」
いきなり謝られて、どう反応して良いか分からなかった。止めてくれとまた笑って見せ、とっさに続けた。
「悪いのはあたしの素行で──」
「本当にそう思ってるか? 自分が悪いと思ってるか?」
食い気味にそう聞かれ、言葉が引っ込んでいく。気づいたら視線を逸らしていた。
本当に、自分が悪いのだろうか……考えるまでも無かった。決して、後ろ指をさされるようなことはしていない。
もう一度アルマを見上げると、彼女には珍しく強い口調で怒りだした。
「お前はいつもそうだ。周りを喜ばそうと我慢する。涙は似合わないとでも思ってるのか知らんが、そうやって何も言わない。私には……──それが辛抱ならない」
(どうして、あたしの気持ちが分かるんだろう)
まるで隠せていない。アルマの真剣な眼差しに貫かれて呆然としていた。
親友には関係ない悲しみで、彼女の気持ちまで沈めたくないのだが、分かってくれる人がいて嬉しかった。こんな場所まで助けに来てくれたと思うと本当に救われた気がして、心が抱きしめられたように震えてくる。
もう、観念してうつむいた。
「思うわけ……ないよ。でもそれ以外に理由が分からないんだよ。アルマ、なんでなの?」
暗闇に沈んだ青の瞳がじっとアルマを見つめ答えを求める。
それをずっと、見つかるはずもない答えを求めて、今日一日彷徨った。アルマなら、イドゥヴァの腹心ならきっとなにか知っているはず。今までも何度かアルマに同じことを聞いた。そのときは、分からないと返ってきた。静かに目を閉じた彼女の答えをじっと待つ。
「私も分からないよ。あの人の考えていることは」
今回も答えは同じ。でも、開かれた目や声に滲む苛立ちとも、悲しみとも感じる彼女の心の“流れ”は、とても誤魔化そうとしているようには思えない。
(こんな仕打ち、あんまりだよ……)
飲み込めない、理由も分からない、ただ投げつけられた命令。どこにも自分を納得させるものが見つからない。
しょんぼりとうつむくシャニーの横顔に、また一つ涙が下っていく。
「すまない、シャニー。私の力では……ここまでだった」
鎧の軋む音と共に聞こえてきた親友の声に気づき、視線を向けた途端に目が飛び出しそうになった。思わず「あっ」と声にならない声が漏れる。
正面を向いて、アルマが頭を下げていたのだ。あのアルマが、気高い彼女がそんなことをするなんて信じられない。
「ねえ、なにがあったの? どうしてこんなことに!」
やっぱり、なにかを知っている。
気づいたら頭を下げるアルマの両肩を、ショルダーガードに痕がつきそうなほど強く握りしめて揺さぶっていた。知りたい……なにがあったのか知りたい。ただそれだけだった。
アルマはしばらく黙っていたが、意を決したように大きく息を吸いこむ。よく聞けと言わんばかりの目に、シャニーは息を呑んだ。
「お前たちは最初、西方三島連絡所への出向だったんだ」
アルマの肩に置いていた手が、支えを失ったようにショルダーガードからずり落ちていく。両手を石段に突いたシャニーの目は、驚愕に打ちひしがれて震えていた。
西方三島連絡所……それは流刑の地と呼ばれる行きつく果て。二度と帰れない場所。
────なにを意味してるか、分かるだろ?
アルマの眼差しを横目に受けて絶句する。目が、口が堪えても震えてくる。
(あたしたちに、死ねとでも言いたいの?!)
荒くれがはびこり、昼夜問わず略奪が繰り広げられる無法地帯と聞く。そんな場所に女数名がいたらどうなるか……考えるまでもない。
「……それを、アルマがリキアに変えてくれたってこと?」
「ああ……。すまない」
リキアの連絡所がどんなところかは知らない。きっと、少なくとも西方三島よりはマシなハズだ。
知らないところで絶望に叩き落され、そして、知らないうちに絶体絶命から救われていた。救ってくれたはずのアルマは、それでも侘び言葉を漏らし、らしくもなく弱い顔で今にも崩れそうになっている。
(アルマ、大丈夫かな……。かなり無理をしたんじゃ)
親友は命を救ってくれた。それは同時に、団長の決定に異を唱えて覆したということになる。今度は彼女がどんな仕打ちを受けるか、急に心配になってきた。とはいえ、今の自分が彼女にしてあげられることは限られている。
袖で涙を拭いて、シャニーは精いっぱいに笑みを湛えてみせた。
「ありがとね、アルマ。リキアなら生きていけそう!」
流石に西方で生きていく自信はなかった。あの場所の恐ろしさはベルン動乱で嫌というほど味わったし、それを警戒してか、ディークも夜の番は回避させてくれたくらいだ。
「ロイ様もいるし、リキアは好きだったんだ。そんな顔しないで!」
12月に行ったとき、リキアの素晴らしさを味わった。同じ左遷でも、リキアと西方では天国と地獄ほどの差がある。
アルマにこんな怖い顔をして欲しくない。笑って励ますが、アルマは乾いた笑い声を漏らしだした。
「やめろよ、そんな顔。毒でしかない」
「え……」
「なぜ……私が慰められているのか、意味が分からない」
「だ、だってさ、アルマは──」
「お前、なんで私に本心を言ってくれないんだ?」
ふいにアルマの顔が厳しくなって、気づいたら睨みつけられていた。
今までも睨まれたり、キツいことを言われたりしてきたが、今向けられているのはまるで違う。はっきりとした怒りだ。悔しそうな、悲しそうな、そんな感情の流れがはっきり見える、焼けるような怒り。
(え……。どう言うこと? 本心……?)
いきなり怒りをぶつけられて言葉を失った。今も目の前には、沸々とした怒りをポーカーフェイスの下に隠す親友の赤い瞳が、じっと答えを待って貫いてくる。
「本心だよ? アルマが助けてくれなかったら今頃あたしたち……」
何回自分の心に聞いてみても、嘘を言った覚えも、隠しているつもりもないと返ってきた。
アルマは命の恩人とすら言える。三月のときだって、彼女がいなければイドゥヴァと戦うことさえできなかった。感謝、ずっと感謝している。なのに、なぜなんだ?
「もっと怒りをぶつけてくれよ。私たちがお前の出向を決めたんだぞ」
アルマには珍しい弱った声。ようやくに、彼女の気持ちが分かった。別に隠していたつもりはない。
(なら……はっきり言わなきゃ)
きゅっと口元を厳しくしたシャニーの眉が吊り上がる。
「あたしが怒りたいのは、イドゥヴァさんだよッ!」
それまでの静寂を突き破るような怒声が、誰もいない城の最果てに響く。
ずっと、ずっと、あの人のせいで狂わされてきた。それになにもできない自分にも腹が立つが、もうあの人への怒りは我慢の限界などとうに超えている。独りなら、今すぐにでも剣を引き抜いて襲っているかもしれない。
「あたしはともかく、部隊のみんなまでこんなことされて、悔しいよ……悔しいッ、悔しいよ!!」
それまで腹の中に溜まりに溜まっていた黒く、重いもの。それを一気に吐き出した。爆発のような激情で石段を叩きつけ、慟哭は下を向き、震えた拳に涙が落ちて流れていく。
その絶叫が、不気味なほど急に止まった。
(……そうだ、なんでこんなところにいるんだ。戦わなきゃ!)
仲間だけでも、なんとかしなければならない。
イドゥヴァは結局、去年のことを根に持っているに違いなかった。あんな土下座、ただのお遊びだったに決まっている。
見上げた顔に刻まれた据わった目が震え、東を見つめる。
もう、こうなったら……──だっと駆け出そうとした途端だった。強い力に後ろから引っ張られて視界が飛ぶ。
「離して!!」
アルマに羽交い絞めにされていた。力に任せて振り払おうともがく。
「やめろ、シャニー! 今は待て!」
「止めないで! どうせ最後なんだ、戦ってやるんだ!」
西方に行こうとも、リキアに行こうとも、騎士としての人生は終わったようなものだ。イリアの民を守り、未来を切り拓くという誓いを掲げた騎士としては。それに仲間を巻き込みたくなかった。
「最後になどさせるか!!」
背後から浴びせられた、今まで聞いたこともない怒声。脳天から槍でも突き刺さったかのように動けなくなった。
(アルマが……怒鳴った?!)
こんなこと、今まで一度だってない。
背後を一瞥して見開いた瞳が言葉を失う。あのポーカーフェイスに、鬼のような怒りが燃えていた。
「今行けば、お前の身分剥奪を交換条件にされるぞ。思うつぼだ!」
灼熱に盛る焔のような怒声が頭を突き抜けて、激情に任せた心がびくっと震えて振り返る。
「お前は必要とされているんだ! 絶対に短気を起こすな! 背負ったものを裏切ることになるんだぞ!!」
身分剥奪が辞令の裏に書かれた目的だったと知って、シャニーは絶句するしかなかった。
剥奪されれば剣は握れない。天馬にも乗れない。なにもしてあげられなくなる。信じてくれた者すべてを裏切る道へと、自ら飛び込もうとしていたと思い知らされ、前に踏み出そうとする足を止めた。
あの人たちのために、自分はいる。そう断言できるし、それを誓いと掲げて天馬騎士として生きてきた。
(みんなの想いは裏切れない……絶対に!)
肩から力を抜けた。それを逃さんと言わんばかりにアルマが両肩を掴んで、体の向きをひっくり返された。
「時を見て必ず戻す。今は耐えてリキアで手柄を残せ。声が大きくなれば、こちらも動きやすい」
お願いだ────懇願にも似た眼差しで見つめられて、下唇を噛む口元がきゅっと厳しくなる。
(今は……アルマを信じるしかないのか)
背負った信のために、今できることをするしかない。アルマは親友だ。彼女がここまで動いてくれて、こんなに言ってくれる気持ちを無駄にはできない。
一度うつむいた青の瞳は、再びまっすぐ前を見据えて赤い瞳に信を託す。
「ありがとう。あたし、アルマを信じるよ」
アルマの両手をそっと握る。無理をしないで……彼女への感謝と、祈りを込めて。
アルマもじっと見つめて、手をぎゅっと握り返してくれた。お前の信を、私は背負おう──そう言ってもらえた気がする。
「ごめんね。アルマとの夢……かなえられなくなっちゃったけど」
共に夢を抱いた友。歩む道を違え、時には背を向けあっても、ずっと互いを想いながら同じ場所を見つめ続けてきた。互いが持てる精いっぱいで、その手で、未来を切り拓くために。
イリアを離れなければならない以上、もうこれ以上軌跡を描くことはできない。それがとにかく、悔しい。
「私は諦めていない。お前は必要なんだ。必ず戻す。約束する」
(お前が必要……か。嬉しいな)
この言葉がどれだけ心を救ってくれただろう。
求めてくれる人がいる、帰れる場所がある。絶望に打ちひしがれた心を、魔法のように癒してくれる。
心が癒えた今、見つめる先をはっきりさせた今、まっすぐに前を向いて、シャニーはそっとアルマの胸から退いてすくっと立った。
「イリアを……お願い」
そっと差し出した手。二人は想いを受け取るようにしっかり握手を交わすと、互いの瞳を見つめて静かに、深くうなずくのだった。夢の先の憧憬を、決して諦めないと誓って。