ここにいていいんだ。あなたの傍に居ていいんだ……みんなと一緒に笑ってていいんだ。
そう思えて、あたしは……──幸せでした、ロイ様。
屋敷のとなりに広がる大きな湖。満月を映して静かに夜は更けていく。いつもなら静寂に虫の音だけが響くその場に、今日は館からかすかに人々の愉しむ声が聞こえてくる。
その幸せな調べに掻き消されてしまいそうなほどの、か細い乙女のすすり泣く声が湖面に吸い込まれていく。
館から飛び出して行くあてもなく駆けてきたシャニーが、流れ着いた枯草のように柵に引っかかっていた。あふれる悲痛をただ噛み締めるだけ、佇んだまま動けない。
(やっぱり……ロイの傍にはいられない)
人生で最悪の瞬間。予想はしていたはずだった。だけど目の当りにしたらもう頭が真っ白になって、槍で貫かれたように砕けてしまった。
愛する人の傍にいたい。嘘などないその願いのせいで彼が不要な中傷を受けてしまうのをこの目、耳へはっきり突きつけられてしまうことになった。
突き刺さった槍の隙間から溢れ出た恐怖が腹にヘドロのように溜まって、もうどれだけ自身に言い聞かせても涙しか出てこない。
────『今のあなた』をロイ様は愛してくれているのよ
姉の言葉が脳裏をかすめた。それは分かっている。後から後からとめどなく溢れてくる涙を啜りながら、その言葉から顔を背けた。
(お姉ちゃんとは、事情が違うんだ……)
無理やりそう言い聞かせた。ロイは大事にしてくれる。アレンやランスも仲間と認めてくれている。傭兵の自分を、受け入れてくれる。ここにいてもいいのだと思える優しさに包まれてきた、はずだ。
なのに、何が違うんだ……悔しくて、惨めで、なにより悲しかった。夢から醒めた今、もう行かなくてはならない。夢の向こう側にある、本来居るべき遠い場所へ。
真っ赤な目で湖面に浮かぶ満月を見つめていたときだった。
「シャニー!!」
ふいに後ろから声がしてはっとする。
彼の声を間違えるはずがない。柵から身を離してばっと振りむくと、暗闇の中にかすかにシルエットが見える。
(ロイ?! なんで? 晩餐会に行ったはずじゃ)
その影はこちらに駆けてくるのがはっきり分かる。
慌てて涙を拭い、両手で顔を引き締めて笑顔をつくると駆けつけたロイを迎え入れた。
「あれ、どーしたの? 晩餐会は?」
「許可は取ってきた。君を迎えに来たんだ。教えるから一緒に踊ろう」
ドキンと胸が弾ける。
このまま、彼の優しさに包まれてしまいたい……焦がれる気持ちは、彼が差し出した手に素直に重ねようとしている。いつもなら、そのまま小躍りしてはしゃいでしまうだろう。
(ロイ……ごめん。もう……)
今日は無理やりその手を下す。槍に深く抉られた心からは、ますます悲痛が噴きだすばかり。
ぎこちない傭兵と踊っている光景を皆の前に晒せば、噂は現実となる。そうなればどんなことになってしまうか。想像するだけで震えがきた。
「あたしみたいな傭兵なんかじゃなくて、みんなと交流してきなよ。そのための会なんでしょ?」
さよならを言うつもりだった。
一度下した手を再びロイへ伸ばすと、そのまま彼の胸をトンと突き放した。歪むロイの顔を見ていられずに背を向けて柵に手をかける。
(もう、話しかけないで……)
そう心の中で呟いたときだった。
「シャニー!! 約束したはずだぞ!」
体を押し飛ばすような声が背後からわっと突き抜ける。
ビクンと身体が飛びあがったのが自分でも分かった。今まで聞いたこともないような声。それは、間違いなく大好きな人の声だ。
静寂の戻った畔。今も頭がジンジンして矢で射抜かれたかのよう。背後からはぐらぐらとした怒りが冷めることなく貫いてくる。
(ロイが……怒鳴った?!)
くらくらする意識のまま、湖に倒れ込んだほうが楽かもしれない。それでも固まる首を軋ませて、無理やり顔だけ振りむいてみる。そこには、今もまっすぐ見つめてくるロイの目があった。今まで見せてくれていた優しい顔は無い。ついに彼と向き合って視線が合う。
なにも言葉が出てこない。ただ……噛み締めるだけ。
そのうち、ロイは怒りを飲みこむように視線を外した。
「……すまない。僕としかことが。許して欲しい」
彼がこんなに激情へ身を委ねる姿を初めて見た。そうさせてしまったのが、自分だとは。支えたいと願い続けてきたくせに、どうしてこんな顔をさせてしまうのだろう。
ぐるぐると絶望に世界がまわる。その世界の真ん中で、ロイが一度外した視線をまっすぐ向けるや口を開いた。
「でも、今日はもう言わせてくれ」
さっきより、もっと怖い顔をしている。呆然と立ち尽くす体中に、彼の怒りが突き刺さる。
「僕は君と対等の関係でありたいのに、どうしてそんな風にばかり言うんだ」
彼が求めているものはずっと同じ。
シャニーにとってもそうだった。一番大切なことは今も変わっていない。だけど……。
嵐のように渦巻く渇望と恐怖がどんどん大きくなって、引き裂かれた心は今にも千切れてしまいそうだった。
ついに耐え切れなくなり、柵に寄り掛かりながらその場に崩れ落ちた。
「無理だよ……無理なんだよ……。傭兵なんかじゃ、無理なんだよ…………」
最後まで抗って柵にかかっていた手も滑り落ちると、シャニーは座り込んだまま嗚咽を漏らし始めた。ずっと心の中に押し留めていた言葉が、涙と共に絞り出される。
顔を手で覆い、潸然とする横顔をロイは愕然と見下ろしている。
「シャニーは僕にとって傭兵じゃない。大事な人だ。君は僕のことを、そんな風に見ているのか?」
なぜなんだ──ロイが答えを求めて見つめてくる。とても直視できなくて目を瞑っても、彼の言葉はいつものように優しく抱きしめてくれた。
(大事な人……)
そう言ってくれる人に、なんと酷いことをしているのだろうか。今も目の前には、彼の困惑と悲痛に満ちた顔がある。それを、自分がさせている。
「そんなわけじゃ……」
「前にも言ったはずだ。傭兵とかそんなの関係ない。シャニーだから僕は言っているんだ」
去年の十二月から、彼の言葉は変わっていない。彼の気持ちはもう分かっているし、その言葉に包まれたら心はどれだけ温まることか。
だけど今は、温められるほどに、心が凍てつくように震える。彼の腕の中にいてはダメなのだと、夢から醒めてしまった今となっては。
「何度でも言うよ。貴族と傭兵なんて関係はやめてくれよ。ロイとシャニーで良いじゃないか」
ロイが近づいてくるのが目を瞑っていても分かる。ますます涙が止まらなくなって、歯を食いしばって嗚咽に耐える。
身勝手に背を向けた以上、嫌われるのは覚悟したはず。それがどうだ。ロイが必死になっているのが伝わってきて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
(それが出来たら……それが出来たら、あたしだってしたいんだよ!)
やめたい。やめたいに決まっている。けれども、やめたら最後、恐怖は現実となるに違いない。その一端を垣間見た今、この先に起こることがあまりに恐ろしくてもう前を向けなかった。
喜ばせられないかもしれない。だけど、彼を大事に想えば想うほど、耐え切れそうになかった。
「自分みたいな、傭兵なんか……もどかしいんだ。僕と君の間にある、その線引きが」
はっとして無意識のうちに体が逃げる。ロイが手を伸ばしてきて、柵に体を押しつけた。それでも、彼が迫ってくる。来ないで────
「──ッ」
高い音がして、ロイが顔をしかめながら手を退いた。
彼の手を払った自分に驚いて喉がひきつり、詫びの言葉さえ出てこない。とんでもないことをしてしまった。それだけは、頭が理解している。
愛する人に。これだけ大事にして、重要な舞踏会を外してまで、身勝手にふさぎこむ自分の手を取りにきてくれた人に。
本来なら手に触れることさえ叶わない雲の上の人に、なんてことをしたのだろう。
……これでいいのだ。ロイはぐっと拳を握り、奥歯を噛みこんでいる。きっと、怒っているに違いない。もう……──これで終わりだ。
ロイはその顔のまま歩いてくるではないか。また押し返そうとしたら、彼とは思えない強い力で腕を握られて身動きできなくなった。彼は肌が触れるくらい傍に屈むと、顔を覆う手を引き寄せて壁を押し破った。
「シャニーは僕のことが……嫌いなのか?」
愛する人の目がこんなに近くで見つめてくる。恐ろしい言葉をかけながら彼も震えている。
ここで嫌いだとでも言ってしまえば、すぐ終わるのかもしれない。
言えるはずもなかった。このまま何も言わないで終わってしまうなんて、本当の気持ちを伝えないままでいるなんて。
傭兵では釣り合わない……そうサヨナラしなければならないと思ったときだった。
────もし、ロイが自分以外と結ばれたらどう思う?
ふいに脳裏をよぎった言葉が何度も呼びかけてきた。
マグマに焼けこげ冷え固まった黎き大地を噴泉が突き破るように、みるみるうちに膨れ上がった想い。恐怖も悲痛も何もかもを吹き飛ばすように、心が理性を跳び越えてありったけ叫んでいた。
「好きだよ! ずっとずっと逢いたくて……ようやく逢えて、こんなに大事にしてもらえて……好きに決まってるよ!」
真っ白な頭のまま心だけで叫び終わると、なぜかふいに涙があふれてきた。
これが本当の気持ち。彼にそれを伝えられた安堵と、それが許されないことを思い知った絶望と。堪えきれなくなって、顔をくしゃくしゃにしながら俯きかける。
それを、支えるようにロイに抱きかかえられていた。
「僕には分からないんだ。君がなにを悩んで、なにを恐れているのか。教えてくれないか?」
いつの間にか、隣に座り込んだロイに磁石のように身を寄せていて、もう離れられない。慰めてくれるような優しい温もりが頬をなぞる。彼はハンカチで頬を拭いてくれていた。おそるおそる顔をあげてロイの目を見たら、それだけで彼はほっとしたような顔をして続けた。
「シャニーの苦しみを、少しでも知らないといけないと思うんだ。なにが二人の間に壁を作らせてきたのか。なぜこんなに震えているのか。今までなかなか聞けなかったけど、知らないとこの先も苦しめる。そんなのは、もう終わりにしたいんだ」
ぎゅっと手を握られて、まっすぐ見つめられている。さよならのはずが、彼は手放さないと引き寄せてくる。
彼はいつから気づいていたのだろう。言えずにずっと隠してきたこの気持ちを。答えを探して、きっと苦しませたに違いなかった。
(もう……ぜんぶ知って欲しい)
決して手を伸ばしてはいけないと知った温もりに包まれて、もう抵抗する術もなくうな垂れた。まるで糸が切れてしまったように動けない。
気持ちの半分は伝えた。あと半分を口にして彼に嫌われたとしても、もうそれで……いや、彼だからこそ知って欲しかった。彼ならきっと受け止めてくれる。
涙を拭い、意を決してロイの顔を見上げた。
「怒らないで聞いてくれる?」
「もちろん。教えてくれないか?」
見上げた先には、いつもの顔があった。優しい眼差しが見下ろしていて、それだけで涙が出てくる。
もう一度ごしごしと目をこすり、しばらくじっと足元を見つめて気持ちを整えると、心にへばりついてきた不安を吐き出した。喉が絞まってうまく声が出ず、押し出すように弱くなった。
「……怖いんだ。あたしみたいな傭兵が相手で、ロイが悪く思われるのが。さっきも……」
直前に聞いてしまった貴族たちのやり取りを、そのままロイに伝えた。それを聞いたロイは、一瞬だけ眦を吊り上げただけで何も言わなかった。それでも、逸らさず見つめてくれたおかげで途切れながらも続けられた。背中を包む温もりがただ尊い。
最後まで吐き出し、がっくりとうな垂れると弱り切った体をロイが抱き寄せた。
「そうか……。すまない。辛い思いをさせていたんだね」
「ううん、あたしはいいの。覚悟してたから。でも、ロイが悪く言われるのは許せなくて」
イリアの傭兵としてハイエナ呼ばわりされても、国のためには仕方ないと割り切ってきた。だけど、愛した人を自分のせいで貶されると思うと、切り刻まれるようで心が悲鳴をあげた。
ロイが自分以外と結ばれた世界に生きるのは、絶望が降り注ぐ明日が果てまで続く地獄でしかない。かと言って、傍にいれば一番恐ろしいことが茶飯事に起こる。
心から求めた幸せが悪夢を呼ぶなら、いっそ醒めてしまえばいい。夢の向こうにある絶望と、醒めないまま続く悪夢と。悲鳴に両側から引っ張られ、心は今にも裂けてしまいそうだった。
「ありがとう。話してくれて。……良かったよ、なんかよそよそしくて、嫌われているのかと思った」
抱き寄せられているこの時間だけが、痛みに喘ぐ心を癒してくれる。そんな温もりをくれる人が漏らした弱々しい声にばっと顔を上げた。
「そんなワケない! ロイは大好きだよ!」
もう何度でも言える。彼のことが好きで好きでたまらない。心の底から、それ以外に思いつく言葉が見当たらないほどに。
「……でも、世界の英雄と傭兵じゃ……釣り合わないんだって思っただけ」
ずっと、ずっと抱いてきた。それこそ、ベルン動乱で最初に話しかけられたときから。なんで、傭兵なんかに……。
でも、話しているうちに仲良くなって、文通を始めたらもう忘れられなくなった。十二月に再会して自分の気持ちに気づき、それから再会することだけを願ってきた。
それが、いざ再会したら今度は急に怖くなってしまった。ずっと心の奥底にあった、けれど気づくことを避けてきたものが囁きかけてきて。今夜それが、現実となった。
ロイが一番嫌がる言葉を口にしたことになる。嫌われるかもしれない。そう覚悟を決めていた視線は少しずつ俯きだす。
「前にも言ったろ? シャニーには、なんでも話せる相手でいて欲しいって」
ぷっつり糸が切れたように動かない体を預けていたら、いつの間にか顔の真横に彼がいた。
「僕も君が好きだ、シャニー」
なんの混じり気もない純粋な想い。初めて聞く言葉の余韻にシャニーは思わず振り向き、ロイの顔を真ん丸になった瞳に映したとたん吸い寄せられるように動けなくなった。
(言ってもらえた……)
いつから、ただこれだけを求めていたのだろう。胸が震えて言葉にならない声が漏れ出てくる。
月光の映り込む青い瞳をロイはじっと見つめ、強い言葉で言い切った。
「周りが何を言おうと、僕は気にしない。僕が一番辛いのは、君がいなくなってしまうことだよ」
体がドキンと跳ねた。ロイのいい匂いが顔中を包む。彼は強く抱きしめて続けた。
「動乱の後に言葉も交わせないまま別れたときも、十二月に見送ったときも。そのあと、君がいなくなった部屋で北の空を眺めたときも。もう、あの切なさは味わいたくない。もう……このまま手放すものか」
凍りついた翼が蘇るように、押し固められた心が解けて広がっていく。全身が水にでもなってしまったみたいに力が抜ける。全てをこのまま、ロイの腕の中に委ねてしまいたい。目をつぶって彼に身を預けたら、優しい声が強く包んで吸い込まれた。
「千の槍に串刺しにされても、シャニーさえいれば戦える。世界中を敵にまわしても、僕が君を守るから」
夢なのか。夢ならば……醒めないで欲しい。いや、醒めて欲しい。夢ではなく、その向こう側へ二人で歩いて行きたい。
さっきは悪夢と言った。もう醒めて欲しいと叫んだ。だけど、やっぱりロイはロイだった。
憧れの人の眼差しを、言葉を全身に浴びてシャニーの顔には少しずつ色が浮かび上がっていく。
「だからお願いだ、もうそんな線引きは止めてくれないか? 君が愛しい。傍にいて欲しいんだ」
(こんなにもあたしのことを想ってくれていたんだ……)
打ち砕かれた心を強く抱き寄せる愛の詩。恐れていたことも、見てしまった絶望も────ただの夢だ。
今、目の前にあるのは、ロイがくれたまっすぐな愛は、誰が何をしようと断ち切れない二人で紡いだ絆だ。ハッキリ言える。
この絆を、絶対に裏切れない。このまま、紡いでいきたい。夢を越えてその向こう側へと、二人で軌跡を描いて行きたい。
「もう、絶対に言わないって……約束する」
ぎゅっとロイに抱きついた。今まで我慢してきたぶん、彼の匂いも力強さも、全てを味わい少しでも彼に触れられるように。
「ロイにぜーんぶ捧げるよ。それが、あたしの一番大切なことだもん」
言ってしまった。ロイだけの騎士になろう……そう新しい誓いを心に刻む。
ロイはなにも言わないけれど、強く抱きしめてくれた。今まで味わったこともない幸福感に体が浮かんでいるようで、なにも考えられない。考えたくない。今はロイだけを感じて、すべてを委ねていたい。
「えへへ……ずっとこうしたかった。去年から」
「僕もだ。シャニーが城に来たときは、エミリーヌ様に感謝したよ」
「バカだったなぁ。もっと素直になれば良かったのにさ」
「はは、お互いにね」
彼の声も、匂いも、なにもかも忘れられなかったこの半年。もっと、もっとお互いの気持ちを早くさらけ出せていたら……そう思うとちょっぴり意気地なしだった自分が残念だが、きっとこれでよかった。夢のままではなく、夢から醒めてその向こう側へ二人で歩いていける絆を紡げられたのだから。
(あたしは……──ここにいてもいいんだ。みんなと……ロイと一緒でいいんだ)
どれだけそうしていただろう。ロイが肩を抱いて立ち上がった。
「改めて、よろしく」
「こちらこそ!」
彼が掲げた手にハイタッチして返す。こんなに元気な声は自分でもびっくりする。さっきまで悲しくて喉が絞まって苦しいくらいだったのに、まるで雲を突き抜けて青空に飛び出したように爽快だ。
「さあ、行こう! 皆にも紹介したい」
「うん! ロイと一緒ならどこでも行くよ!」
シャニーはロイに手を取られ、二人はオスティアの夜へと消えていく。
途切れなく聞こえる笑い声は、今が人生で最高の瞬間と幸せを奏でるのだった。
ここで一旦区切り。次からはまた新章に入ります。
ようやくここまでたどり着いたなあ。