リグレ公爵家に嫁いで二週間……屋敷は迷宮だった。
貴族としての振舞いも、自分の部屋への帰り道すらまだ覚えきれていないティトのもとへ、一通の手紙が届く。
※今回はティトを中心に進めています。
(一体……ここはどこ? あぁ……迷路だわ)
どちらを見ても、清楚で絢爛豪華な造りの部屋が左右に続く廊下。あまりの広さに吸い込まれそう。
くらくらする視界に広がる煌びやかな間が、屋敷のどこにあるもので、誰の部屋かもまるで分からない。こんなおろおろした足取りできょろきょろして、変質者とでも思われたらどうしようか。
ここはエトルリア王国のリグレ公爵家の邸宅。邸宅と言っても、もはや城同然の広大な屋敷は、まだ身を寄せて二週間のティトにとって迷宮だった。
さっき別れた夫の妹君からしっかり教えてもらったはずなのに、最初の目印さえ見つけられない。
「ふう……。クラリーネ様はやっぱり凄いわ……」
朝からふらふらと迷子になっていたらクラリーネに捕まった。彼女は気を遣ってくれたのか、レディのたしなみを延々教えてくれるので、それをメモするのに必死だった手はへろへろだ。
そこからようやく解放されたのだが、それはまた迷子に戻っただけ。頭も足もふらふらしてきて、一気に心細さが襲ってくる。
「どうした、ティト」
弱った心がきゅんとして振り返る。視界の先にいた男性を見つけると、ぱっと安堵が心に広がった。
声の主、クレインのもとへ歩いていくと、彼は優しく微笑んで手を取ってくれた。
「また迷子になっていたのかい? 大分背中が疲れてるように見えたけど」
「あ……。いえ、まだ大丈夫です」
こうしてクレインに探し出してもらい、手を取って部屋まで帰る……これが日課。彼が公務で屋敷を空ける日は朝から落ち着かない。幸い、クレインの家族も良い人で、助けてくれるのでなんとかなっている。
「クラリーネ様に色々と教えていただいていました」
噂に聞いていたとおり……以上、か。とにかく強烈な人だった。
あれこれと面倒を見てくれるのは嬉しいのだが、会話は完全に彼女のペース。ぐいぐい引っ張られて、まるで頭に入らない。無限トークはシャニーで聞きなれていたはずだったが、彼女がそよ風に思えるほど、クラリーネのそれはガンガン来る雷撃のようで圧倒されるばかりだった。
「へえ……。……ティトって案外タフなんだな」
「? タフ……?」
「あっ、えっと、いや! 何でもないさ」
珍しくクレインが慌てている。クラリーネが繰りだす怒涛の愛情表現をいつも冷静に受け止めている彼が慌てる姿は、なんだかほっこりする。
「きっとおせっかいの嵐にもみくちゃにされたんじゃないかなって。クラリーネは色々と君を心配しているんだ。悪く思わないでくれ」
「悪くだなんてそんな! 何とお礼を申し上げればよいか、感謝の言葉もありません。私のような傭兵上がりを」
3月まで軍服と鎧で固め、槍を片手に天馬であちこち駆けていた身。それがいきなり、エトルリア貴族という高貴の最高峰へぽんと入って、右も左もまるで分からない。なにが失礼なのかも手探りで、クレインがいてくれないとろくに身動きが取れない。とは言え、彼も多忙であまり甘えてもおれず、正直、不安な毎日だった。
それを見かねたのか、クラリーネが顔を合わせる度、こうして色々教えてくれるから本当にありがたいものだ。当然、毎日体力は底をつくけれど。
感謝を口にしたはずなのだが、クレインは肩を抱き寄せて小言した。
「ティト、傭兵上がりなんて言っては駄目だ。君はもう、リグレ公爵家の家族なんだ」
「ごめんなさい。同じことでクラリーネ様からもご指摘を受けたのでした」
────自分で自分の価値を落とすようなことを言ってはダメですわよ!
今もあの気の強い声が、頭の中でキンキンと響いて叱られているようだ。
いまだに、どこか夢を見ているようで、心細さに思わず手を胸元で握っていた。傭兵だったイリアの村娘が、こんな貴族の世界に身を置いているなんて。
それでも、自身を包むドレスや、目の前で優しく微笑んでくれる夫の眼差しが教えてくれる。これは、現実なのだと。
「クラリーネが君に懐いてくれて良かったよ。……もっと噛みつくかと思ったけど」
「か、噛む……?!」
「あー、えっと、たとえ話だよ。気にしないで。マイルドになった方だから」
黙っておいた。さっきも武勇伝を聞いたばかりだ。言い寄る女性が現れるたび撃退したと彼女は誇らし気に教えてくれた。「お兄様をお守りしたのです!」と語気強く言って。一歩間違えていたら、〝噛まれて〟いたのだろうか。
今さらながら、仲良くなれたようでよかった。もちろん、これでもマイルドだとはゾッとするけれど。
「分からない事だらけで辛いだろう。いつでも私やクラリーネを頼ってくれ」
「ありがとう。クレイン。みんな優しい人ばかりで安心しています」
皆、聡明で温かい人たちばかり。嫁ぐ前に覚悟していたような厳しい扱いを受けることもなく、不思議な感覚だった。3月までは彼らの前で膝を突いて、その命を聞いて戦場へ飛んでいく身だったのに。
初日はどう接して良いか分からず、ついつい天馬騎士団時代と同じようにして頭を下げたら、目を点にしてクレインの父パントに笑われたくらいだ。
(なんとかやって行けるように頑張らないと……)
まだまだ、嫁いで二週間余り。まずはなにから始めればいいだろうか。人の名前を憶えて、屋敷のつくりを覚えて……────最初はクラリーネについて行ける体力作りからか。
◆◆◆
今日は奇跡的にも、あまり迷わずにクレインの書斎まで辿り着けた。部屋に入ると彼は机に向かっており仕事中のようだ。たくさんの書類に囲まれ、手に取った資料を見下ろしている。
「やあ、ティト。そのドレス、似合っているよ」
「あ……──ありがとう」
仕事中は声をかけないでおこうと思ったら、彼からかけてくれた。忙しそうでもどこか楽しげで、包むオーラは柔らかく温かい。
「なにか良いことでもあったの?」
「良いこと? はは、そうだな。君が傍にいてくれることかな」
「……ごめんなさい。迷子になってばかりで」
とっさに謝ったら、クレインは笑って返してきた。
「違うよ。ティトがエトルリアに来てくれたおかげで、だいぶ心に余裕が出来るようになったんだ」
心がすっと引き寄せられるよう。彼はプロポーズのときも、支えて欲しいと言っていた。うまくやれている自信はまだ無いが、彼がこう言ってくれるならそれでいい。
お茶を淹れてあげようとティーカップを準備していたときだった。
「クレイン様、お手紙が届いております」
「ああ、ありがとう。目を通すから置いておいてくれ」
執事が手紙を持ってきた。クレイン宛のようだ。彼は忙しいのかしばらく手紙へ目を向けていなかったが、ふと見下ろした彼は「おやっ」と零し、驚いたような顔で手招きし始めた。
「ティト、君宛のようだよ?」
天馬騎士団の団長だったときは、毎日届く手紙の山にうんざりしたものだが、エトルリアに嫁いだ身となってからは初めてだった。一体誰からだろうか……。
(シャニーからかしら。元気にしていると良いのだけど)
絶対に手紙を書くと妹は言っていたし、こちらからは無事に着いたと便りを出したから、彼女からかもしれない。
クレインから封書を受け取り、宛名を見るより先に目につく刻印。残念ながら違うらしい。
「天馬騎士団からだわ。なにかしら」
きちんとした紙質の手紙に刻印された天馬をあしらった紋章は見慣れたものだ。
なにか手続きが必要な書類でも入っているのだろうか。クレインから紙はさみを借り、すぐに開けて中身を確かめる。
「職制表……。ああ、そう言えば、この時期は営業先に展開してたわね」
なんだか違う世界の人にでもなってしまったかのように、去年まで当たり前にこなしていたことを忘れてしまっていた。いや、受け取る側になったことなど初めてだから仕方ないか。
あらためて、彼らを雇う側にまわったと思うと、なんだかむず痒い。
(いえ……。なぜ私宛なのかしら……)
職制表は営業先に出すもの。リグレ公爵家にむけてなら、パントかクレイン宛となるのが一般的と言える。
とは言え、元関係者ならパイプと見ていても不思議ではない。それ以上の詮索はやめて資料に目を落とす。
(エトルリアは団長の管轄だから、今はイドゥヴァさんか……)
じゃあリキアは……そうして少しずつ、頂の団長から職制表に目を下ろしていったときだった。
「あら……。……えっ?!」
あるはずのものが無い。かつて自分で作っていたそれを、見間違えるはずなどあるわけがない。
(第十八部隊は……? シャニーはどこ?!)
3月から踏襲していれば、職制表の右下、団長から直接に指揮系統が走る特殊任務枠に十八部隊はいたはずだ。手元にある職制表は、その場所がやたらとスカスカで、目当ての名前はどこにもない。
震える視線は瞬きもせず、職制表の中で左右する。
(!! う、うそ……)
ついに見つけてしまった妹の名前。それがある場所は、にわかには信じられない。もう一度名前と場所を確認する。やはり……何度も見ても同じ。
あまりのことで声が何も出てこない。ただ、手紙を持つ手が震えて、視界が一点を串刺しにするばかり。
「どうした? ティト……ティト??」
クレインが気づいたらしい。ソファに身を預けていたはずの彼に顔を覗き込んで声をかけられたが、金縛りでも受けたように動けなかった。
「シャニー……ごめんなさい。こんなことになるなんて……」
妹を守ってやれなくなる不安はあった。イドゥヴァを信用していたのに。退団の際にもあらためて念を押して、あの人だって口にしていたのだ。去年の件はもう二人で話し合って、遺恨なく終わったと。
それが口だけだったことを、目の前に突き付けられた事実がはっきり示してくる。
(まさか……まさか、こんな仕打ちをするなんて……)
ただただ、妹への侘びの言葉ばかりが頭の中に溢れかえり、口から零れていく。
「ちょっと見せてくれ。シャニーさんがどうしたんだ?」
心配してくれたのかクレインが肩をしっかりと包んでくれた。彼は手から滑り落ちかけている職制表を拾い上げ、じっと中を見ている。すぐにシャニーの名前を探し当てたらしく、彼の眉間に困惑が浮かぶ。
「これは……。シャニーさんは、国力向上の専門部隊を預かっていたのではなかったか?」
シャニーの名前は資料の右端から一気に組織の中心を跳び越えて、左端の出向枠へと飛ばされていた。
「ええ。あの子はイリア民の希望になった。それが……、どうして……」
多くの民の声を騎士団が進める事業へ反映した功績は、勲章だけではなく無数の嘆願書となって積み上がっていた。あれを見て、どうしてこんな人事を発令したのか、何も分からない。
ただ、この人事を受け取った妹がどんな気持ちになったかを考えると、心を引裂かれそうで、心の中に湧きあがる感情が何なのかさえ、分からなくなりそうだった。
悲しみ、怒り、悔しさに虚しさ……溢れる涙を拭うしかできない。きっと妹も、同じように泣いているに違いなかった。
「理由は分からない。しかし、リキアにはロイ殿がいる。力になってくれるだろう」
彼なら、友が困っているのなら、なにをするにしても手を差し伸べてくれるはず。そうクレインは慰めてくれているのだろう。
たしかに、シャニーは彼と交友があるらしい。それでも、クレインが言うようになるとは思えなかった。
(あの子は恐らく、ロイ様には頼らない)
直観が走る。クレインと違い、リキアへの異動がなにを意味しているか知っているからこそ、こんなに絶望が心を蝕む。
とは言え、おそらくリキアには彼しか味方になるような者はいない。あの地は、今まで第二部隊長としてイドゥヴァが牛耳ってきた場所だ。
シャニーはロイと文通しているからいずれ彼も知るだろう。なんとか、クレインの言う通りになってくれないか、祈るばかり。
(あの子に……よくもこんな仕打ちを……)
手元に残された封筒に刻印された紋章をじっと睨む。そこに記された筆頭騎士の名前を、思わず破り捨てようとしたときだった。
「あら、なにか手紙が入っているわ」
カサカサと封筒の中から音がする。覗き込んでみると、封筒の中にさらに封筒が入っていて、中を開けると手紙が入っていた。
差出人は……封筒を裏返してみるとすぐ目に飛び込んでくる、力強い筆跡で大きく記された名前。
──天馬騎士団 筆頭天馬騎士補佐 アルマ
目を見開いて封筒の中にあった手紙を開く。
────前団長、申し訳ありません。あいつに力を貸してやってください。私も可能な限り動きますので、どうか
たったそれだけしか記されていなかったが、それを両手で抱きしめた。
まだ騎士団の中に、妹に味方する者がいる。それが分かっただけでも救われた気持ちになった。
彼女は3月にも助けてくれたとシャニーから聞いていた。第一部隊に編入を求めてきたときは正気を疑ったが、こうして何度も妹を救おうとしてくれ、その窓口は自分だと声をかけてくれる心配りには感謝しかなかった。
「大丈夫か? この感じだと、団長の独断のようだが」
クレインが困惑を口にする。第三者からすれば、これは異常としか映らないのだろう。いくら前団長だからと言って、部外者にこんなことを騎士団のナンバー2が秘密裏に送って来るのだから。
「妹のことは心配ですが、もう私はリグレ公爵家の者。手出しはできません……」
アルマの気持ちはありがたいが、もどかしさに身が震える。
もはやイリア騎士ではなくなった今では、どれだけ妹を心配しても、もう彼女に手は届かない。エトルリアから声を発すれば、それは内政干渉でしかなく、また別の火種となりかねない。
(一体どうすれば良いの……私に出来ること……なにがある? シャニー……)
今ごろ妹はなにを思い、どんな顔をしているのか。そればかりが思い浮かぶ。
────お姉ちゃんの意志を継いで戦い続けるから、エトルリアから応援してよ。必ず、イリアに春を呼び寄せるから
妹はそう言ってくれた。その志を折られた彼女がどんな顔をしているか。心配で、虚しくて、悲しくて、今すぐにでも傍に行って抱きしめてあげたいのに、それが叶わない。
がっくりと首が折れるのを堪えきれずうな垂れた。溢れる涙が止まらない。
「ティト、協力できることはなんでもしよう。私にとっても義妹だ」
その気持ちをしっかり抱きこんで、クレインが力強く励ましてくれた。考えれば、きっとやれることはたくさんあるはずだと言って。
しばらく彼の腕の中で震えるしかできなかったが、己を律して顔を上げた。
(あの子はなにがあっても……守ってあげなければ)
一番苦しい思いをしているのは妹だ。彼女より先に前を向いて、受け止めてやらなければなるまい。そう決意して、クレインの手を取った。
「ありがとう、クレイン。そのときはお願いします」
リグレ公爵家に、自分の家族のこと、そして故郷のことで世話をかけるのは気が引ける。
だが、クレインも、その家族も心から迎え入れてくれている。今頼れるのは彼らだけ。自身も公爵家の人間として凛と立ち、まっすぐ前を向いて貴族の義務を果たす覚悟を決めるのだった。