天皇賞。
1900年代前半から今にかけて長い歴史と伝統をもつ、URAが春と秋の二回開催するGⅠレース。
立ちはだかるは日本全国の強豪ウマ娘たち。そんな怪物たちが跳梁跋扈するレースに、この春一人のちっぽけな少女が立ち向かう。
少女の名はー-メジロマックイーン。
その滑らかな一本一本が白に輝く葦毛の長髪が特徴のウマ娘で、その名が示す通り、春の天皇賞制覇を悲願としてきたメジロ家のご令嬢である。
祖父母、両親、親戚、姉妹同然のウマ娘たち、チームスピカの面々、ファン……。
彼女には彼ら彼女らの期待が重くのしかかり、今にも押しつぶされそうになっていた。
控え室で重い勝負服にしずしずと着替えたマックイーンは、ふと鏡に映る自分の姿が、写真で見た昔の彼女らによく似ていると思った。
「お婆さまやお母さまが春の天皇賞を制覇する直前……どのようなお気持ちだったのでしょうか……」
不安や焦燥、それとも恐怖か。
どれも違うのだろうと、僅かに頭を振る。
祖母と母が、そして彼女が抱くべきものは——
「——勝利への確信、ですわ」
メジロマックイーン。
その瞳に〈最強〉が宿った。
♦
控室を出たマックイーンの目の前には、彼女のトレーナーである沖野が腕を組んで壁に寄りかかり、口にいつものキャンディーを咥えて特に緊張した様子もなく待っていた。
彼はマックイーンの控室に入る前の気負った瞳から変わっていることに気づき、その顔に自然と笑みが浮かぶ。
「もう、準備はできているみたいだな」
「ええ、さきほどはご心配をおかけしました」
「なに、大舞台を前にして緊張しない奴はいねぇよ」
そう言ってやや目の下に青い隈を残した沖野。
最近の彼は仕事を早めにこなし、眠る時間を確保しているため、以前あった酷く青黒い隈は跡形もなく消えているはず。
にもかかわらず、そのような隈があるということは……。
(きっと緊張して眠れなかったんですのね。……ふふ、その言葉は自分に対して言っているのですか?)
笑うのを堪えてクスクスとするマックイーンに、沖野はバレたかと気恥ずかしそうに後ろ髪を掻くも、これでさらに彼女の緊張が解けるのなら良しとした。
「それでは参りましょう、トレーナーさん。チームの皆さんとファンの方々を待たせてしまっていますわ」
「そのセリフは俺が言おうとしてたんだが……」
「言うのが遅いからですわよ」
控室を出た先は芝コースへと続くトンネル状の道がまっすぐ続いており、その先には眩しい外の光が。
その光の差す方へと二人は歩いていった。
♦
トンネルを抜け、芝コースに一度出た先の左側には縦に長い壇とその奥に赤い大きな舞台幕、さらに手前の観客席では今か今かと出走ウマ娘が幕から姿を現すのを期待しているファンの姿が見えた。
いわゆるパドックと言われるもので、その日のウマ娘の体調を観客たちが観察し、誰が一着になるのか予想する。そういった場だ。
再び準備のためマックイーンは一度、沖野と別れてパドックの幕の中へと姿を消した。
彼も観客席の最前列に居るはずのチームのウマ娘らのもとに向かい、開けといてもらったスペースに人混みを掻き分けて入る。
「マックイーンの調子はどうだったの、トレーナー?」
すると足で小さなステップを踏み、やけにソワソワした様子のテイオーが沖野に尋ねてきた。
その言葉に、マックイーンのことが気にかかっていた他のメンバーもウマ耳を傾ける。
「ああ、レースに勝てるかどうかはまだ分からないが……間違いなく一番人気にはなるだろうな」
それは体調、精神、実力のあらゆる面で見ても完璧ということ。
さきほどまでの不安や心配はどこへやら、一気に彼女らの瞳に期待感の光が籠る。
いや、その吉報を喜んだのは彼女らだけではないか。
チームスピカを挟んで、話を聞いていた人物らがそれ以上の反応を示した。
茶髪の眼鏡をかけた太めの男と緑髪の瘦せ型の男であった。
二人ともまだ年若く、いまだ20歳前半と思われる。
「春の天皇賞は3200メートル、GⅠレースで最長の距離だ。淀みのカーブは高低差も大きく、持久力はもちろん、位置取りがカギとなる」
「どうした急に」
突然語りだした眼鏡の男にもう一人の男がツッコみを入れも、彼は尚も続けた。
「メジロマックイーンは同じ京都レース場である去年の菊花賞3000メートルを制しているとはいえ、長距離に秀でたウマ娘を輩出してきたメジロ家の他二人も出走するとなると、果たして最後の直線までスタミナを温存できるだろうか」
「……確かに、今回のレースでライバルたちが最有力候補のメジロマックイーンをマークしてスタミナを削りに来るかもしれないな」
一方、男達の隣にいる幼いウマ娘の少女達。話を聞いて頬を膨らませている前髪に白のダイヤ形が入った鹿毛の少女と彼女を宥める黒鹿毛の少女だった。
「絶対、マックイーンさんが勝つもん……」
「ダイヤちゃん、私もマックイーンさんが勝つって信じてるよ。だから、一緒に頑張って応援しよう?」
「うん、キタちゃん。私いっぱいマックイーンさんのことを応援するよ……!」
少女達の声は男たちには聞こえなかった。
運命の巡り合わせが彼ら彼女らに訪れるのはいつになるのか。それは、三女神だけが知る。
♦︎
トレセン学園のカフェテリア内。
すっかり昼のピークは過ぎてウマ娘の姿もなく閑散としたここでは、その壁面に設置された大型テレビ前にとある二人のトレーナーと料理長の姿があった。
「もうすぐ始まりますね、春の天皇賞」
「ええ、そうね。今年は誰がその栄誉を手にするのかしら。今のところメジロマックイーンが一番だけれど、レースに絶対はないわ。十分逆転はあり得る。アナタはどう考えるの、南坂トレーナー?」
東条が視線を向けたのは優男という言葉が似合う男。
彼の名は南坂。チームカノープスのトレーナーで、未だ大きな勝ち星を上げられていない担当ウマ娘をなんとか勝ってもらおうと奮闘し、個性豊かなチームのウマ娘たちに振り回される苦労人である。
東条からの問いかけに、彼は持ち前の穏やかな雰囲気を纏いつつ少し困ったように笑う。
「出走するウマ娘のレースビデオを拝見させて頂いたのですが、どの子も素晴らしい足を持っていて、それからの成長を込みで考えると、僕には今日のレースで誰が勝ってもおかしくないと思いました」
「つまり、分からないと」
東条からの圧を感じた南坂はやや縮こまる。
「はい、あまり参考になるような意見がなくて、申し訳ないです……」
「いえ、良いのよ。決めかねるほど実力が拮抗している可能性があるということだもの。十分参考になったわ」
東条としては、別に後輩に圧力を掛けたかった訳ではないので、フォローを忘れずに行う。実際参考になったのも事実である。
次に彼女は自然な流れで料理長に問いかけた。
「それと、トレーナーでないアナタに聞くのもなんだけど、この後のレースで誰が勝つと予測する?」
料理長は少しも迷うことなくはっきりと言った。
「俺はマックイーンちゃんが勝つと思います」
そう確信を持って言ってのける料理長に、東条と南坂は問わずにはいられなかった。何故なのかと。
「どうしてそう思うんだ。理由を聞かせてくれ」
「料理長さんが宜しければ、僕にも聞かせてください」
南坂は純粋な疑問だが、東条には別の目的があった。
以前、料理長がチームリギルを訪れた際にトレーナーである彼女でさえも見抜けなかったグラスワンダーの足の症状を見抜いたことが、東条の中で引っ掛かっていた。
そこで、その秘密を知れるのではないかと探りをいれたのだ。
料理長は遥か遠くを見つめるようにして、
「……周囲からの期待に応えようとする——大切なもののために走るウマ娘は強いですから」
と、何処か寂しげな様子を見せた後、それっきり口を噤んでしまった。
♦︎
遂に始まったパドックにて、最初に颯爽と現れたのはメジロパーマー。
彼女は羽織っていたジャージを脱ぎ捨て、その勝負服を露わにした。
スリットの入った短めのスカート、これまた胴体部分が短い緑の線が入った白のジャケットと下のイエローの服によってトモとヘソ、無駄の少ない腹回りが外気に晒される。
観客席ではそれぞれの見識が飛び交う。
「ふむ、以前見た時よりもトモが発達している……今日に向けて仕上げてきたようだな」
「あの仕上がりならきっと、逃げの彼女もスタミナが最後まで保つんじゃないか?」
続いてメジロライアン。
黒のショートパンツに腰と両太ももに巻きつく3つのベルト。縦に茶色と黄土色のストライプが入り腹が見えるまで結んだティーシャツの上に、前面を開けたワイシャツを羽織ってさらにネクタイを着けている。
「こちらもか……それにあの瞳。間違いなく勝利を渇望する瞳だ。これは手強いぞ」
「今年のメジロは一段と気合が入っているようだ」
他出走ウマ娘を挟み、最後にメジロマックイーンが壇上に。
所々に金色の装飾が施された黒のゴシック服は高貴な印象を残し、その下のターコイズブルーのリボンとその色と白のラインが入ったシャツが少女らしさを残していた。
——それは揺らめく白藍の焔。
ジリジリと焼かれるかのような気に、観客はどよめいた。
「おぉぉぉ……これは」
「親子三大制覇を懸けた今回のレース……これは一波乱ありそうだ」
「きゃーっ! マックイーンさーーーん!」
先程の少女の黄色い声援が飛んだ。
マックイーンはファンに手を振り、沖野やチームスピカの方を一瞥し互いに頷く。
幕へと帰っていく彼女の背中はやはり、他ウマ娘とは一線を画していた。
パドックも終わり、出走ウマ娘たちはゲートに集まった。
そこにもはや言葉などなかった。彼女らの瞳には、一着をとった自分の姿しか映っていないのだから。
訪れた暫しの静寂を破るようにして、勢いよくゲートが開かれる。
ウマ娘たちは各々の豪脚で地面を抉り、今、スタートしたー-
主人公が料理長に任命されてからまだ一ヶ月しか経ってない事実よ。