「諦めてたことから始めてみたらどうですか?」
千束に海の中に抱え投げられたあと。
わたしがそういうと、千束は満面の笑顔で走り出す。
「ワイハだワイハ~!」
千束の後を追いながら、どうやらワイハとはハワイという意味であることを推測する。
だからといって、その足で空港へ向かうというわけではなく。
千束の背中が一軒の建物の前で止まった。
古びた造りの瀟洒なコテージ。少し和洋折衷なところが喫茶リコリコを思わせる。
「さ、入った入った♪」
振り返りもせず玄関の鍵を開け、ドアを全開にする千束。
南国特有の風通しの良さそうな大きな窓に灯りが灯る。
ここがこの島での千束のセーフハウス、か。
リビングのカウンターにはコーヒーのドロッパー。
大きなテレビの前にソファーセット。
足元に散らばる古いアクション映画のDVDソフトの数々も相変わらずで、少しだけ懐かしさを覚える。
「はいはい。すみませんけど、そーゆーことでよろしくお願いしまっす♪」
こちらも相変わらずの千束の跳ねるような声。
電話口に向かって捲し立てるように喋っていた千束だったが、受話器を置くとわたしを見ていった。
「あー、たきな、ずぶ濡れだねぇ。水も滴るいい女、うふ♪」
「誰のせいですか」
海水で濡れた髪はひどくべとつく。頬について鬱陶しい。
「ま、お風呂入りましょ、お風呂」
確かにシャワーを浴びないと。せめて着替えないと風邪を引くだろうし。
千束に背中を押されて脱衣所へ。
あっと言う間に服を脱ぎ捨てた千束は、浴室の扉を全開にして湯舟に飛び込む。
「へへ~、素敵なお風呂でしょ!」
脱衣所からその光景を見て、わたしも軽く目を見張る。
綺麗なタイル張りの浴室の真ん中に、猫足の大きなバスタブ。
バスタブの湯面には、南国の様々な花びらが浮かんでいた。
「これがあるからこの家を借りたんだー♪」
と、湯舟の中でニシシと笑う千束。
それからわたしに向けて右腕を伸ばすと、パラリと指先を動かしながら軽くウインク。
「ほら、たきなも、お・い・で♡」
「…電源のついたドライヤーを放り込まれて感電死しそうなお風呂ですね」
途端に千束はお湯のなかにズッコケた。
あ、あたし、たきなにそんなシーンのある映画を見せた? とわしゃわしゃしている千束を横目にわたしはリコリスの制服を脱ぐ。
着ていた下着は以前千束に選んでもらったもので。
千束に気づかれると何を言われるか分からないので、素早く脱いで洗濯籠へ。
裸になったわたしはスタスタと壁掛けのシャワーの前まで行く途中で、湯舟から立ち上がった千束に腕を掴まれた。
「うわっぷ!?」
そのまま湯舟の中に連れ込まれる。
「ちょ、ちょっと千束! まずはシャワーを浴びてから…!」
「いーのいーの。外国では湯舟の中で身体を洗って、最後にシャワーを浴びるんだよ~?」
「それくらい知ってますよ! でも…!」
キューっと後ろから胸ごと抱きしめられる。彼女の温もり。柔らかい感触に包まれる。
「それにいいじゃない? 女同士の裸の付き合いってヤツ!」
もう! と腕を振りほどいて解いて振り返るわたしに、千束の表情はチシャ猫のよう。
笑いながらわたしの黒髪を洗っている。
以前、護衛で彼女のセーフハウスに泊まり込んだとき(千束は同棲と言い張っている)も、交代でシャワーやお風呂を使って一緒に入ったことはなかった。
だからといって、別に動揺する話でもない。DAの大浴場でもリコリス同士で一緒にお風呂に入っていたし。
ちなみに、セカンド、ファーストと繰り上がることによって入浴可能な時間も増えていく。
「う~ん、本当にたきなの髪は綺麗だね~」
「だったら千束も伸ばしたらどうです?」
「あたしゃちょいと手入れする暇が…」
千束の台詞は、単にズボラなのか、自分の限られた時間をもっと有意義に使いたかったためか。
「時間は出来たんですから。それも始めたいことの一つにしてみては?」
「そう、かな」
急にトーンの下がる声。
俯く千束の表情の先に、わたしは彼女の胸を見る。
胸骨から鳩尾の上あたりまで垂直に引かれた線。
普段であれば全く気付くことないそれは、お湯に温められた肌の中で浮彫になっていた。
千束の手術痕。
思わず手を伸ばせば、千束は慌てて上半身ごと湯面の中に身を隠す。
「ゴルァ! いきなり人様の
ごぼごぼとお湯を飛ばしながら言ってくる姿に呆れてしまう。
「さっき断りもなくわたしの胸に触ったくせに」
「そ、それは、えーと…」
「それに、誰も見ていませんよ」
そういうと、うーうーと顔半分をお湯の中に浸していた千束だったが、意を決したように上体を起こす。
「おるぁ! これでいいんだろキサマぁ!」
「なんで挑発的なんですか」
腰に手を当てて胸を張る千束に、わたしは少しだけ躊躇ってから手を伸ばした。
指先で胸の傷跡をなぞる。
滑らかな肌の中に、わずかに異物感というか引っかかりのようなものを感じる。
「…痛くないんですか?」
「そりゃ最初はねー。でもいまやパーペキよ?」
湯舟の縁に背中と腕を預けて千束は踏ん反りかえる。
知っていたけど、千束の胸は大きい。わたしよりかなり大きい。
身長や骨格的に、わたしはそれほど千束と差はないと思うんだけど…。
「あ…」
そんな彼女の華奢な左肩に、わたしはもう一つの傷跡を見つける。
銃創。三か月前に真島に撃ち抜かれたもの。
そこは胸の傷とは別の意味で、歪んだ傷を千束の身体に浮かび上がらせている。
気づいたとき、わたしの指はその傷にも触れていた。
「こっちは痛くないですか?」
訊ねると、千束は苦笑。
「そーだね。そっちは今でも時々痛むよ。ってゆーか、銃で身体に風穴開けられたのは初めてだし」
そうだ。そういえば千束に銃は当たらない。
だからといって絶対ということではなく、特別な条件下では容易に彼女はハチの巣になってしまうだろう。
それでも今まで銃創を経験してこなかったであろう彼女に、わたしは改めて『最強のリコリス』という称号に畏敬を感じてしまう。
「それよか、たきな」
「はい?」
千束の手が無造作にこちらに伸びてきた。
指先が左肩に触れる。押される。
「ひゃん!?」
変な声が出て思わず口元を押さえていると、千束が複雑は表情を浮かべていた。
「たきなの方こそ治ったの、そこ?」
延空木でラウンジから落下する寸前の千束をワイヤーリールで吊り上げた代償。
わたし的には名誉の負傷だと思っているのだけれど。
「…無理をしなければ問題ありません」
傷自体は縫ったりしたけれど、もう抜糸は済んでいる。
今は別に包帯やガーゼなどの緩衝材的なものを使わなくても服を着るのに差し支えないし、『仕事』をするのにも支障はない。
「…ありがとね」
ボソッと千束は言う。
「全くです」
わたしはすかさず言い返す。
真島との死闘。
最後の戦いに千束が単独で挑んだことに対する怒り。
真島もろともラウンジから滑落しようとした千束への憤慨。
御礼を言われる前に、こちらから言いたいことはいくらでもあった。
なのに、千束は自分勝手に病院から姿を消して。
「だからごめん~って!」
ワタワタと手を振って慌てる千束に、彼女の言い分は分からなくもない。
壊された人工心臓の内臓電池容量は持って二ヵ月。
残された時間を最後まで前向きに生きるために―――同時に死に場所を求める猫のようにひっそりと―――わたしたちの前からいなくなりたかったのだろう。
「謝るなら、店長たちにもたくさんお願いします」
そっけなく言いはしたけれど、もうあれから三ヵ月。
猶予の二ヵ月から一ヵ月も超過すれば、千束にも色々と見えてくるものがあったに違いない。
胸の手術痕とその意味を。
さっき渡した吉松からのメッセージも答えの一つだ。
吉松の持っていた人工心臓は千束へと無事移植され、これからもずっと生きられるはずだ。
…心臓を持ってきてくれた店長に、吉松の生死は尋ねられなかったけれど。
「…う~、今からみんなに謝る練習をしとかなきゃ…」
まずは先生でしょ、クルミでしょ。
指を折々リコリコの常連の名前を挙げていく千束。
あ、楠木さんとミズキは別にいーや。
気付けば、能天気に笑う千束の顔を真っすぐに見つめていた。
「な、なに、どしたの、たきな!?」
「千束の心臓。心臓の音をもう一度聞かせてもらえませんか?」
「え? ええ? でも、あたしの心臓は無音だよ、ミュートだよ!?」
「分かってますよ。それでもです」
う~んう~んと何故か腕組みして唸る千束。
なのでわたしはもう一度同じ台詞で後押し。
「だから、誰も見ていませんから」
くううッ、とまるで風船がしぼむような声を出したあと。
「よしッ! ばっちこーい!」
毅然とわたしの前に胸を反らす千束。
なぜか胸の先端を両手で隠している。
胸全体は、ほんのりと桜色に染まっていた。
千束の顔が赤く見えるのは、きっとのぼせていたに違いない。
このまま湯あたりをされて困るので、わたしは髪を搔き上げて真っすぐ千束の胸に頬と耳を寄せる。
お湯のまとわりつく肌に耳が吸い付く。
血潮と肌の温もりを感じるのに、なぜか心臓の脈動音が聞こえないのは不思議と言えば不思議だ。
それでもひどく落ち着く。
これが千束の生きている証。
わたしに会えて嬉しいと、心の底から喜んでくれた千束の命はここにある。
「…そろそろいいでしょ」
「もう少し」
わたしは半ば無意識で千束の背中に腕を回していた。
もっと強く耳を押し付ける。
「…たきな~、恥ずかしいよ~」
「なぜですか? 女同士ですよ?」
「女の子同士でも恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
わたしの頭を押しのけようとする千束。
悔しいけど腕力では敵わないわたしは、別の言葉で彼女の拘束を試みる。
「千束はわたしのことを相棒って言ってくれましたよね?」
折りに触れ、千束が口にしてくれた言葉。
その言葉を受け取るたびに、わたしの心の奥底で淀んでいたものは瑞々しさを取り戻していった。
でなければきっとわたしは単なるリコリスのままで。
彼女と出会わなければ、真島との闘いを乗り越えても、いずれファーストに至ることなく命を落としていたことだろう。
そんな恩人に対し、感謝したいことは山ほどある。
なのに、それすら言わせる間もなく千束は出奔した。
わたしの怒りはいかほどばかりか。
そう、わたしは本当に怒っている。
「だったら、なんで相棒のわたしを置いて姿を消したんですか?」
せめて、一言。
店長やクルミに対してではなく、わたしにだけは何か一言あってしかるべきではなかったのか?
「そ、それは…」
千束は言い淀む。
わたしは、彼女が口にしたい言い訳なんて、とっくに理解している。
その上で訊ねたのは、わたしのささやかな復讐だ。
今、こうやって答えを得るまで千束の身体を抱きしめているのも含めて。
もう逃がさない。
相棒だったら置いてゆくなんて許さない―――。
「わかった、わかったよ、ごめん、たきな。もう絶対に置いてかないって! 約束する!」
「本当ですか?」
「本当に本当! 仮に離れ離れになったって、必ず相棒のところに戻ってくるから!」
「約束ですよ?」
千束の胸から顔を離す。
距離を開けて見返すと、千束は満面の笑顔でサムズアップ。
「本当ですよー、千束さんはいつだってたきなの所へ『I'll be back』!!」
そういって、サムズアップした手首から上を残し、千束は湯舟の中へとぶくぶくと沈んでいく。
そしてその光景をジト目で見てしまうわたし。
「―――その台詞。その場面では言ってませんよ?」
ざばばーと湯舟から上体を起こして千束はやはり満面の笑み。
「おおおッ!? 良くぞ気づいたたきな隊員! あたしから教えることはもうない!」
「茶化さないでください!」
お風呂上りに千束から借りたパジャマを着て夕食を食べる。
夕食は宮古島名物のてちびそば。
どうやら千束がお風呂前に電話していたのはこのデリバリーの依頼だったようだ。
「はい、たきな召し上がれ~」
「頂きます」
正直、初めて食べる食べ物だ。味の想像もつかない。
でも、千束がいうからきっとおいしいに違いない。彼女の味覚に、わたしは全幅の信頼を寄せている。
「あ…」
「ね?美味しいでしょ!? この島には美味しいものがいっぱいあるんだ~♪」
まるで自分のことのように自慢する千束。
そのまま勢いよく麺を啜り上げてから、箸を向けてくる。
「ところで、たきな。東京へ戻らなくていいの?」
「千束を連れ帰るまでが『仕事』ですから。どうせ、ここのコテージを引き払ったりしなければならないでしょう?」
「くうぅ、そこまで織り込み済みか~…」
天を仰ぐ千束を、わたしはジロリと睨みつける。
この期に及んでまた逃がすつもりはない。
さきほどお風呂で話した通り、もう勝手にいなくならないとの約束を遵守して貰わなくては困る。
「まあ、しゃーないかな」
ブツブツ言いながら、千束は食べ終えた丼を重ねてキッチンへ。
それから二つのグラスをお盆に載せてリビングへと戻ってきた。
と思ったら、大きな窓を開け放してウッドデッキの方へ行ってしまう。
「ほら、たきな、こっちこっち~」
「手続きの電話とかしなくていいんですか?」
「今日はもう夜だし、そんなの明日だよ明日!」
店長が『2,3日はかかるだろうからな。ゆっくりしてきなさい』と言ってくれたけれど、個人的には出来るだけ早くリコリコに戻りたい。
だけど…。
「…仕方ありませんね」
溜息をつきウッドデッキに出れば柔らかい夜風が頬を撫でた。
「ほい、たきなはそっちね」
千束が手際よくリクライニングの椅子を並べていた。
促され横になり、わたしは思わず息を呑んでしまう。
見上げた夜空。満天の降るような星。
「へへ~、この景色もあたしのお気に入りなんだ♪」
千束も仰向けで空を見上げている気配。
「こうやって空を見上げて耳を澄ますと、なんだかとても幸せな気持ちにならない?」
そういう千束にならい、わたしも耳を澄ます。
風がカジュマルやハイビスカスの葉を揺らす音。
遠く聞こえてくる穏やかな潮騒。
…どうして懐かしい気持ちになってしまうのだろう?
「いい気分です」
素直に感想を口にしていた。
すると、すぐ側でニカッっと千束の笑う気配。
「でしょ~? だから、たきなにはこの景色を知ってもらいたかったんだ」
続けて、千束の本心が薄闇に零れ落ちる。
「…予定より早くなっちゃったけどね」
「千束ッ!」
自分でも思いがけないほと強い声が出た。
本来なら心臓の寿命を迎えて死んでいた千束だ。
遺言ででもこの島の光景をわたしに伝えるつもりだったのか?
「わ、判ってるよ、ちょっと自虐的なジョークって感じで…」
「冗談でもそんなこと言わないでくださいッ!」
あれ? なんでだろう? 声に涙が絡む。
そのことに千束が気づかないわけもなく。
柔らかい感触がわたしの目尻をそっと拭う。
「ごめん、たきな。もう二度とそんなこと言わないから。これも約束」
「…なら、手を握ってもいいですか?」
返事も待たず、わたしは千束の手を絡めとる。
温もりを欲して。
もう決して離さないとの決意を込めて。
少しだけ躊躇う動きを見せた千束の指は、ゆっくりとわたしの指を握り返してくれた。
潮騒の音に身を浸し。
暗闇に抗うような星の光を浴びて。
これから先の未来を語り明かしたその夜を、わたしは死ぬまで忘れることはないだろう。