前の話の設定を引き継いでいるので、一緒に読んで頂けると嬉しいです。
「ねえ、たきな~。人生の最後に食べたいものとか飲みたいものってなに~?」
千束がそう訊ねると、黒髪の相棒の表情は見る見る険しくなる。
「千束、なんですって?」
たきなの剣呑な眼差しを受け、千束は慌てて両手を振って見せた。
「いやいやいや! 違うから! そういう意味じゃないから!」
ここ最近まで残り少ない命と思われていた千束に対し、たきなはやや神経質なきらいがある。
「う~ん、だからさー」
こめかみあたりを指先で叩きながら千束は考え込む。
今、二人がいるのは宮古島空港。
池間島の先端に潜伏していた千束をたきなが捕捉し、ようやく東京へ戻ろうと画策していたわけだが、東京行きの航空便は現在全てが『離陸見合わせ』。
急遽発生した熱帯低気圧の影響が微妙過ぎて、管制も判断を出しあぐねているらしい。
そんなこんなでかれこれ3時間もの待ちぼうけ。
暇つぶしに二人で他愛もない会話を交わしていたのだが、いい加減ネタ切れである。
なので千束が先ほどの話題を振ってみたわけだが。
「よし! じゃあ質問を言い換えよう! たきな、今で生きてきた中で、一番美味しいって思ったものはなあに!?」
「一番美味しいものですか…」
形の良い顎先を摘まむようにして考え込むたきなに、千束は屈託なく続けた。
「あたしはね、先生の淹れてくれたエスプレッソ!」
「ああ」
たきなは思わず賛同の呻きをもらしてしまう。
リコリコ店長ミカの淹れる直火式エスプレッソ。
夜間任務に出かける前に良く提供されるそれは、たきなの中のコーヒーという概念を打ち崩し、新たな金字塔として再建させるほどに魅力的なものだった。
「あれを飲むと、うーん、あたしは生きている! って思える味なんだよね~」
そういやしばらく飲んでないなー。あ、何だか急に飲みたくなった! うん、もうすぐ飲めるんだよね!
勝手にベラベラと喋って嬉しそうに両手を叩き、自己満足する千束は相変わらずの平常運転だ。
一方のたきなは、千束と一緒に食べにいったパンケーキを思い出している。
リコリスの寮の食事で提供されるかりんとうしか知らなかった自分に、あのこってりとして重層的な甘みは蠱惑的に過ぎた。
だからといって生きてきた中での極点かと言えば、断定するのに躊躇してしまうところである。
それなりに真剣に悩むたきなを、千束は極上の笑顔で見守っていた。
この相棒と知り合えてもう一年。
当初は四角四面で日常に面白みを見出そうとしなかった彼女が、こんな雑談に真面目に応じてくれているのだ。
嬉しくないはずがない。
「たきな。誰にでもあるはずだよ。人生に於いて、『これ最高!』って思えるドリンクやスイーツが」
ピンと伸ばした人差し指で宙に円を描きながら、やたらドリンクとスイーツの単語を流暢に発音する千束。
それに触発されたわけではないだろうけど、たきなの脳裏にかつて自分が作ったスペシャルパフェが浮かぶ。
喫茶リコリコの赤字を逆転し、色々な意味でSNS上でバズったあのパフェは、たきなにとっての痛恨の黒歴史だ。
もはや永久封印された幻のメニューは、世の中の全ての人間の記憶から抹消するのは不可能にしても、あれはあれで誰かの『人生で一番』になれたのだろうか…。
「千束」
「うん?」
たきなが思考に沈んでいた顔を上げ、千束が応じた時だった。
空港の巨大な窓から臨めていた曇天が渦を巻き、ガラスに盛大に大粒の水滴をこすり付けていく。
ほぼ同じタイミングで『離陸見合わせ』から『欠航』に切り替わる表示板。
「…戻りましょうか」
「…うん」
□□□
…どうしてこうなったのだろう? 自分はここにいるのだろう?
押し込められた暗い船底で、アンヘルは考え込む。
13歳にしてやや大柄な彼女は、母親のちょっとした自慢の娘。
きっと父さんに似たのね、と穏やかに笑う母は、妊娠したと告白した途端逃げ出した父親を追いかけて責任を取らせられないほど性根の柔らかい女だった。
フィリピンにおける貧困層の母子家庭。地元では珍しくもない典型的な母娘。
薄暗い中にひしめきあう人影は同年代の子供たち。
彼、彼女らの人いきれの中でアンヘルは考え込む。
アンヘルは地元のバナナ農場で働いていた。
早朝からの長時間の肉体労働。
大人たちに交じって働く。
最近はようやく体力がついてきたからか、一人前並みに働けるようになった。
けれど、与えられる給金は微々たるもの。
『もう少ししたら、もっと稼げる場所を紹介してやるぜ』
農場主の下卑た視線。
身体を舐め回すようなそれに鳥肌が立ったけれど、愛想笑いを返しておく。
『おまえには学校に行って欲しいの。母さんみたいな生き方をして欲しくないの』
母の懇願。
でもそれは無理な相談だった。
母の稼ぎと自分のそれを合わせても、その日その日を生きて行くだけで精一杯。
『大丈夫だよ。社長が私がもう少し大きくなったら、もっとお金を稼げる場所で働かせてくれるって』
そう告げた時の母のはっとした表情が忘れられない。
アンヘルだって理解している。
それは自分の若さと身体を切り売りすることになるだろうことは。
でも逃げられない。抗えない。
貧しさこそが日常で。
幸運が空から降ってくることなどあり得ない。
この場所では、それが当たり前なのだから。
だけどもし。
ある日、幸運が空から降ってきたとしたら―――?
『ニッポンに連れて行ってやる』
ある日の農場で。
農場主である社長の知り合いだという男が子供たちに言った。
『おまえらみたいなガキでも、ニッポンの地方では必要としているんだ。よっくと働いて上手く取り入れば、移住することも夢じゃないぜ?』
集められた子供たちの何人が男の話をどこまで理解していたことか。
けれど、誰もがニッポンという言葉に魅せられた。
ハイテクと車とアニメの国。
未だ発展途上のこの国の子供たちにとって憧れの夢の国だ。
辛うじて小学校を卒業していたアンヘルにはもう一段上の知識がある。
日本の主産業と人口。世界的な大戦の時に、かの国が私たちの国で何をしたのか。
…いや、そんな地理的な知識や歴史的背景はどうでもいい。
いくら何でも飛行機で日本へは連れていってくれないだろう。
となれば船で。
パスポートも持ってないから密入国になるわけで、この男はいわゆるブローカーだ。
本当に日本へと連れていってくれるかさえも怪しい。
働かされるとしても、きっとロクな仕事ではないだろう。
それでも。
本当に、日本へと入国することが出来るのなら―――?
アンヘルは針の先ほどの可能性を見る。
そこに、自分の若さという万人に等しい可能性を重ねたら、もう無理だった。
貧しさに塗れ、誰のともわからぬ子を宿し、育て、身を磨り潰して死ぬ。
母の未来と自分の未来を重ねた。
この負のスパイラルから自力で抜け出すことは不可能だと、幼い時分で悟っている。
ならば、わずかな可能性に賭けて何が悪いのか!
……母さん。母さん…!!
抱えた膝の中に顔を埋め、アンヘルは繰り返す。
書置きを残してきたとはいえ、きっと母は今頃自分の行方を捜しているはずだ。
けれど地元の警察は、貧民街の子供が多少姿を消したところで動いてくれるはずもなく。
母の嘆きも必死の捜索も、全て徒労に終わるだろう。
大きく揺れる船底。
誰かが壁に身体をぶつけるうめき。
吐き気を込み上げる声。
すかさず誰かの叱咤が飛ぶ。
やめろ! 吐くな! 吐いたら死ぬぞ!!
ぐらりと船がまた反対に傾いた。
船底へと繋がる扉が開き、塩辛い空気が忍び込む。
籠っていた空気がかき回され、麻痺した嗅覚が再生した。
汗と屎尿の饐えた臭い。
そしてそれを圧倒するような血と臓物の匂い―――。
「ひッ!」
子供たちの数人が悲鳴を上げる。
降りてきたのは社長の友人を名乗ったあの男だった。
アンヘルは恐怖と後悔の瞳でその男を見つめる。
この男はブローカーなどではなかった。
「悪魔使い…!!」
明日の朝早く目的地に着く。
水こそたっぷりと与えられたが食料は最低限しか与えられず、揺れる船底で空腹に呻く子供たちに男は告げた。
それから子供たちは、この男とその手下たちから無理やり何かを飲ませられる。
細長い袋に包まれたそれは、アンヘルには白い塊に見えた。
未熟なバナナ…?
そう首を捻るアンヘルも、それを飲ませられた。
細長く、思ったより柔らかい。
まるでゴムのような表面の塊を、無理やり喉奥へと捻じ込まれる。
「いいか。絶対に歯を立てるんじゃねえぞ? 丸のみにするんだ…!!」
誰もがどうにか飲み込めたのは、男に殴られたくない一心と空腹のせいだろう。
だけど、詰め込まれたからといって空腹自体が満たされるわけでもない。逆に気持ち悪さが募るだけだ。
―――何を飲まされたのか?
誰もが疑問に思い、口には出さない。
船に載せられた当日、単に一番手近にいたという理由だけで一人の男の子が前歯を圧し折られていた。
それに、半日も経たず、何を飲み込まされたのか判明している。
急に一人の男の子が唸り出した。例の前歯を折られた男の子。
「
と繰り返し、自らの腹に爪を立て狂ったように叫ぶ形相は異様だった。
ついには腹の皮膚を爪が突き破った時点で、周囲の子供たちもその異常さに気づく。
数人で抑えようとするもすごい力で弾き飛ばされた。
その時、彼が浮かべていた表情は。
「…悪魔憑き…!」
暗い船底で、誰かの呟きは覿面に過ぎた。
皆が腰を抜かし怯える前で、とうとう彼の爪は内臓へと達したらしい。鮮血が吹きあがる。
だけではない。
ついには内臓そのものを掻きだす様に、子供たちは揃って全身を震わせていた。
ようやく騒ぎに気づいて男たちが降りてきたとき、少年は絶命している。
内臓をまき散らして死んでいる少年を一瞥し、怒りの形相を浮かべた男は「チッ!」と舌打ち。
それから怯えた表情で遠巻きにする子供たちに気づくと、狂気じみた笑みを浮かべて見せた。
「…おまえらに飲ませたのは悪魔の卵だ! 無理に吐き出そうとしたり俺に逆らおうとするとこうなる!」
その宣言に、アンヘル同様、ほとんどの子供たちが胸中で呟いたことだろう。
「この男は悪魔使いなのだ」と。
そして今。
船底へと降りてきた悪魔使いは、怯え切った子供たちを見回している。
「くそッ!」
何故か焦った表情で呟くと、子供たちの間を縫って歩き出す。
船の揺れに足元をよろめかせ、怯えて頭を抱える子供たちの群れを抜け、悪魔使いが立ったのはなんとアンヘルの前だった。
「来いッ!」
腕を掴まれる。
振りほどくどころか逆らうことすら出来ないアンヘルは、もつれる足で必死に男について行く。
□□□
空港でタクシーを拾った千束とたきなは、そのまま市街を走り出る。
航空機の欠航に相対し、たきなは空港そばの宿泊施設に入ることを提案したが、千束は自身の借りていたコテージに戻るよう主張。
「そりゃあ引き払う契約はしたけどさ、今月の家賃はもう振込済みなのよ。それに、処分してもらうつもりで荷物の大半も置きっぱだし!」
宿泊料金とタクシー代を天秤にかけ、たきなは後者に軍配を上げた。
なので二人はさっそく池間島のセーフハウスへ逆戻りの真っ最中。
その途上で。
「あれ? たきな、あれはなんじゃらほい?」
ポツポツと雨が滲むタクシーの窓越しに。
千束の声に促されたきなが見たのは、入江らしき場所で派手に波に揺れる古びた中型船だった。
「難民…密輸船でしょうか?」
「たぶん後者だねえ。つか、今どき日本に来ても大して旨味はないんだけどねぇ」
事実、あらゆる密輸業に対し、昨今の日本の締め付けは厳格だった。その理由の遠因となっているのはもちろんリコリスの存在である。
「ならば、中国や第三国とかに? それがこの急な嵐で…」
「すとーっぷ! あたしから話題を振っておいてなんだけど、あとは警察や海上保安庁の仕事だよ」
「…ですね」
たきなが矛を収めたことにより、千束も興味を打ち切ったよう。
事実、難破船の近くの波止場には警察車両、海には保安庁の警備船舶が遠巻きにしているのが見える。
「それよか今日もたきなとお泊りおっ泊り~♪」
唄うように上機嫌な千束は、両手に持ったものを見せびらかす。
帰りしな空港の売店で購入したカードゲームやボードゲームだ。
「ふッ、今夜も寝かさないぜ?」
「それ、さっきの待っている時間に見つけて購入して欲しかったです」
□□□
悪魔使いにつれられて、アンヘルは久しぶりに外の空気を吸った。
だが生憎空は荒れ模様で、湿った風と強い雨粒に頬を叩かれる。
海面も荒れ狂い、どうにか手すりにつかまって上体を支えていると、悪魔使いはアンヘルの首根っこを引っ掴む。
「おら! てめえはこっちに来るんだ!」
載せられたのは小さな水上ボート。
他の手下たちは? と周囲を見回すアンヘルの前で、悪魔使いはエンジンを回す。
波打つ海面に、ボートは木の葉のように舞い狂う。
それでも徐々に先ほどまで乗っていた船は遠ざかり、アンヘルたちを載せたボートはたどたどしくも陸地を目指して進んでいく。
「くそ…! ここに来て燃料切れたあ、悪運にも程があるぜ…!」
怒り声で呟く悪魔使いを振り返れない。
ボートの先端で前を見続けるアンヘルは混乱していた。
私、助かるの? 日本へ着けるの…?
膨らんだボートにしがみつきながら、アンヘルは神へと祈る。
お願いです! 助けてください。どうかこの哀れな子羊に救いの手を。
ずん、と衝撃。
目を見開けば、そこは浜辺。
祈りは通じたのだろうか。
なお運命を翻弄するかのように波が押し寄せる中で、悪魔使いがボートから飛び降りる。
足首まで浸しながら、悪魔使いがアンヘルの腕を取る。
「こい、さっさと降りろ!」
助かったのに苛立つ悪魔使いを不思議に思いながら、アンヘルも浜辺に降り立つ。
鋭い波に足を現れるも、砂地を抜けてようやく心の底から安堵がこみ上げてきた。
揺れない大地がこんなに素晴らしいものだと改めて気づかざるを得ない。
悪魔使いに手を引かれたままアンヘルは茂みを進む。
開けた目前に、傘のように枝を広げたカジュマルの大木が。
その軒下に入る格好で足を止めれば、どうにか人心地がついた。
濡れた衣類の裾を絞るアンヘルだが、肩を掴まれて振り返る。
次の瞬間、胃の当たりに大きな拳が叩きこまれた。
痛みと衝撃に、胃の腑からせりあがってくるものがある。
駄目、吐いちゃ。いま、私のお腹には悪魔の卵が…!
しかし、こみあげてくる吐き気には抗えない。
「う、うおおおぇえええ…!!」
涙が噴き出す。
喉奥から塊が気道を塞ぐ。
反射反応で塊を吐き出す。
息を吸う。吐く。
木の根元に転がる大小三つの塊。悪魔の卵だ。
良かった、どれも割れていない…!
滲む視界で確認し、アンヘルは安堵の息を吐く。
そして塊を拾い上げる悪魔使いに、思う。
卵を取り出せるのは悪魔使いだけ。
なら、いま、私を助けてくれたの…?
「あ、ありが…」
顔を上げ、アンヘルは凍り付く。
悪魔使いは怒っていた。
「あれだけ苦労して、これっぽちかよ…!」
我知らずアンヘルは後ずさる。
彼女の生存本能が警鐘を鳴らしていた。
そしてそれは完全に正解だった。
悪魔使いはアンヘルを見た。
それから下卑た笑みを浮かべて、こう呟く。
「仕方ねえから、おまえの身体で満足させてもらうぜ」
悪魔使いはズボンを脱ぎ、アンヘルは悲鳴を上げた。
□□□
「うわーっとっと。こっちももうすぐ雨が降りそうだねえ」
「空港で傘を買うべきでした…!」
タクシーを降りた千束とたきなは、一路コテージを目指している。
道すがら風は勢いを増し、盛大に椰子の木を揺らしていた。
灰色の空は今にも泣きだしそうだ。
「でもさ。こういう雰囲気って、なんかワクワクしない? ホラー映画とかパニック映画とかの始まりみたいでさ!」
「現地の当事者さんたちに失礼ですよ!」
そんな夫婦漫才、もとい会話を交わしつつ進む二人。
ふと、吹き散らされる髪を押さえながらたきなが足を止めた。
「…たきな?」
「千束。あれが見えますか?」
「ん~?」
言われて、千束も浜辺に視線を飛ばす。
よくよく見れば、波間に翻弄され、沖合に運ばれようとするゴムボート。
「…お客さんの忘れものかなあ?」
「ここしばらく、ここら一帯のコテージにいるのは千束だけでは?」
「うーん」
腕組みをして千束は考え込む。
その時だった。
ガサガサっ! と茂みが音を立て、半裸の女の子が飛び出してくる。
そのあとを追うようにして屈強な男の上半身。
恐怖に顔を引きつらせ、少女は掠れた声で精一杯叫ぶ。
「…
一般人や観光客であれば、少女が助けを求めているとわかっても、尻込みしたり逃げ出したかも知れない。
されど、この少女にとっての幸運の極みは、助けを求めた先が数ヵ国を解するこの国でもトップエージェントの二人だったこと。
「たきな」
声と同時に差し出される左手の上。たきなの『な』を言い終わらぬうちに千束の愛銃が載せられている。
リコリスの制服を着てないが故に、たきなのサッチェルバッグに預けていたもの。
千束の声に応じてたきなが渡した阿吽の呼吸は、フキが見たら歯噛みをして悔しがるほどのスピードと絶妙さ。
次の瞬間。
少女を捕らえようと茂みから飛び出してきた男の股間に赤い彼岸花が咲いた。
ご存じの通り千束のゴム弾は、距離が開けば威力が加速度的に減衰する。
男の股間が千切れ飛んでいなかったことは不幸中の幸いだったかも知れない。
しかしながらフルスイングで打撃される痛みと、いっそ何もかも吹き飛ばされる痛みのどっちかマシかは、男性にしか分からない決して経験したくない命題である。
たきなの鋭すぎる視力が、暗がりのせいで男の股間を視認できなかったのも間違いなく幸運に入るだろう。
「おーよしよし、大丈夫だった? 何があったのかお姉さんに話してみ?」
さっそくタガログ語で女の子を宥め始めた千束を横目に、たきなは自身のS&Wを仕舞い携帯電話を引っ張りだした。
しかし、すぐにここには電波が届かないことを思い出して軽く歯噛み。
すかさず飛んできた鍵を受け取ると、たきなはコーテジ目掛けて一直線に走り出す。
「今時、こんな手を使って密輸とはねえ…」
コテージのリビングにて。
テーブルの上に無造作に載せられた三つの塊を前に、千束は呆れ声で呟く。
三つの白い塊―――アンヘルが悪魔の卵と呼んだアレは、いわゆる半透明のゴム素材に包まれた麻薬だった。
「1980年代頃の日本では良く見られたそうですね」
たきなが応じた通り、実際に日本に持ち込まる際に用いられた手口では、麻薬をコンドームなどに詰めて飲み込んで税関などを突破したという。
使用したゴムに粗悪品が交じっていて胃の中で破れた結果、急性麻薬中毒を発症し奇怪な死に方をしたレアケースの報告もされている。
缶ジュースの買い方は教えられていなくても、過去の事件の事例や概要をみっちりと仕込まれるのがリコリスである。
「結局、物事ってのは、回り回って最初に戻るのかなあ」
「はあ…」
ぼやく千束に相槌をうつたきなの表情は、やや疲れていた。
昏倒した男とフィリピン人の少女を通報した警察へ引き渡し、はい、おしまいの予定だったのだが、少女の身の上話を聞いた千束が引き渡しを拒否。
となれば麻薬のことも警察に押し付けるわけにはいかず、とりあえず不審者として男は逮捕してもらい、あとはリコリス権限で少女の身柄をたきなたちが預かることにしてもらったのだった。
今、安心したかのように昏々とリビングのソファーで眠りこける少女は、千束とたきな二人で東京まで連行する形となる。
「でも、いいんですか? どうせ東京に連れていったところで強制帰国ですよ?」
「うん。分かっているよ。でもさ、その前に、リコリコで美味しいコーヒーを飲ませてあげようかと思ってね」
「DAに掛け合えばそれくらいの時間は取れるでしょー」と気焔を上げる千束を、「ええ、それは千束がやってくださいね」たきなはクールに突き放す。
それでいて、たきなの胸中は、千束の思惑に大いに共鳴している。
フィリピンという国の在り方、最下層で暮らす人々の生き方を、たきなは学んでいた。
おそらく、このアンヘルという少女も貧しい暮らしをしていたのは想像に難くない。
そしていかな千束とて、彼女に助けを求められても、彼女の生活、引いては彼女の国の在り方を直すことなど不可能だ。
もちろんそんなことは他ならぬ千束自身が理解しているだろう。
だからこそ。
リコリコで、『世界で一番美味しい』と思えるものをご馳走しよう。
どんな過酷な生活でもその思い出を抱えていれば。
もしくは、もう一度あの味を味わいたいという思いが、現状を変える力になるかも知れないから。
―――翌々日。
嘘みたいに晴れ上がった宮古島の空港に、千束たち三人の姿がある。
千束がガーリーな私服でたきなも相変わらずのセカンド・リコリスの制服姿だったが、アンヘルの見すぼらしい姿は一変していた。
「チサト、タキナ、コレ、本当二、私ニ…?」
「うん、良く似合ってるよ、アンヘルちゃん!」
手放しで喜ぶ千束を、やや呆れ顔で横目に見るたきな。
朝一で三人分の搭乗チケットが取れたのはともかく、その足で空港最寄りのブティックを尋ね、アンヘルに服を見繕ったのだ。
どれもこれもブランドもののおかげで、たきなのクレジットカードは限度額が近くなってしまっている。
「服くらいなら、着たまま国に持って帰れるでしょ」
乗りこんだ機内の三人掛けの席の真ん中で千束は言う。
さすがに現金は持っていけないだろうけれど、着て来た服は現地では結構な金額になるはず。
千束なりの餞別だった。
「それはそうでしょうけど…」
苦言を呈しかけて、たきなはそのまま口をつぐむ。
窓にかぶりつくように外の景色を眺めているアンヘルの姿を見れば、もう何も言えない。
彼女にとっては、このさき一生目にすることが敵わないかも知れない夢の光景。
夢中であらゆるものに興味を示し、そして気づいたように瞳を輝かせ、お礼を言うのだ。
「チサト、タキナ、アリガトウ」と何度も何度も。
「ところで千束。お金はあくまで貸すんですからね? ちゃんと返して下さいよ?」
「あははー、いま貯金はゼロなんで、そこは長期ローンでどうかオナシャス♪」
「全くもう…」
シートベルトをお締めください、とのアナウンスが入る。
機体がゆっくりと加速。離陸。
内臓が浮き上がるような初めての感覚に顔色を無くすアンヘルに「大丈夫だよ」と声をかけ、それから千束はたきなを振り返る。
「ところでたきな~」
「今度はなんですか」
「えーとね、アンヘルちゃんを襲った男のことなんだけど、たきなが撃ったことにしてくれない?」
「はあ!? なんでですか!」
「だって、あたし、いまリコリスの制服もってないし? 制服着ないで銃を撃つのはNGだし?」
千束の言っていることは最もだ。リコリスの活動制約通りである。
しかし。
「嫌ですよ。なんでわたしが出合い頭に男の剥き出しの股間を撃ったって報告書にまとめなきゃいけないんですか」
「そこはこれ、この通り! 相棒ってことでどうか一つ!」
「都合の良いように相棒って言葉を振りかざさないで下さい!」