墓場   作:埴輪庭

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 ◆

 

 この日の夜は冷たい雨が降りしきっていた。

 

 黒い傘を畳み、隆司は芽衣のアパートの階段を駆け上がる。

 

 靴裏が濡れたコンクリートを滑りそうになり、手すりを掴んで体勢を立て直す。

 

「302」の数字──芽衣の部屋だ。

 

 インターホンを押すと、ドアの向こうから声が聞こえる。

 

「助けて!」

 

 のっぴきならない状況だと察した隆司は、反射的にドアノブを握った。

 

 ──恐らく鍵がかかっているだろうが

 

 そんな思いとは裏腹に、ドアはすんなりと開く。

 

 室内へ踏み込むと、蛍光灯の破片と陶器の欠片が畳を覆っている。

 

 花瓶だったものは変形したリングとなり、水たまりを作って鏡のように天井を映す。

 

 挙句、包丁があろうことかドアに突き刺さっているではないか。

 

 隆司は「これは相当重症だぞ」と舌打ちした。

 

 彼の頭は既に医療データベースを開き、急性期症例との照合を開始していた。

 

 呪いでも幽霊でもない。

 

 幻覚と被害妄想の暴走が、この惨状を作ったと判断する。

 

 “パパ活女子はメンヘラばかり”

 

 なんとなくSNSで見かけたポストの事を思い出した。

 

 ──まさか違法薬物か? いやしかし……そんなものに手を出すような子には見えなかった

 

 そんなことを思いながら部屋を見回すと、ベッドの上にこんもりと盛り上がった布団の山が見える。

 

「芽衣、大丈夫か?」

 

 返事はない。

 

 ガラス片を踏まないよう慎重に近づき、布団をめくると──芽衣が両腕で頭を抱えていた。

 

 涙、汗、鼻水。

 

 パパ活女子らしからぬ様相だ。

 

「おじさん……?」

 

「もう大丈夫だ」と隆司。

 

 二度繰り返すと、芽衣の肩の震えが少しずつ収束した。

 

 掌越しに、冷え切った体温がじわりと戻るのを感じる。

 

「何があった?」

 

 隆司が尋ねると、芽衣はぶるりと一度震えて堰を切ったかのように話し出す。

 

 内容は呪いの動画についてだ。

 

「呪い、ねぇ」

 

 隆司は頭から信じてない。

 

 だが、動画が芽衣の精神を不安定にさせた原因だとは考えている。

 

 ──まさか電子ドラッグ、か? 

 

 隆司の脳裏をよぎる疑念。

 

 ──2023年にオレゴン州ポートランドで発生した〈Liminal_Grace.mp4〉事件に似ているな……

 

 電子ドラッグというものが世間に周知されたきっかけとなった事件だ。

 

 高校のAVクラブが内部共有サーバにファイルを置き、視聴した十三名が四十八時間以内に感情制御不能と急性視覚過敏を発症した。

 

 CDCのレポートでは「視覚誘発性ネットワーク障害」とだけ記載され、実質的な解析はFAAとNSAにブラックボックス化されたままだ。

 

 ログリークで判明した範囲では、ファイルヘッダに独自暗号化されたPCMビットストリームが埋め込まれ、再生機のDSPが勝手にアップサンプリングを開始し、脳波同期を誘発したらしい。

 

 つまり今回と酷似している。電子ドラッグという仮説を補強するには十分な前例であった。

 

 隆司はさりげなく、芽衣の腕などを確認する。

 

 ──注射痕は……ない

 

 それに、と隆司は考えを巡らせる。

 

 ──仮に芽衣が手の付けられない、そう、いわゆる“メンヘラ”だったとして、俺はこれまで何度も彼女にあってきた。何か不安定な部分があるならばすぐに気づいたはずだ。ならばやはり

 

 隆司は震える芽衣の背を撫でながら、「なるほどな」と呟く。

 

 その確信に満ちた声に、芽衣が期待を込めた眼差しで隆司を見つめた。

 

「方針が決まった。まずはその動画を検分する。今ここで観れるか?」

 

 ◆

 

 揺らぎもよどみもない声。

 

 冷水を思わせる淡々とした口調が芽衣を落ち着かせる。

 

 芽衣は小さく首を振った。

 

「……わ、私のパソコンには入ってないの。園田先輩の研究室のPCだけ」

 

 震え混じりの返答に、隆司は顎へ手を添えて一拍考える。

 

「なるほど」

 

 短い肯定のあと、彼は芽衣の目を正面から射抜くように見つめた。

 

「解析は避けて通れない。明日、研究室に行こう」

 

「でも、やっぱり観ないほうが……危ないよ……」

 

 芽衣の言葉に、隆司は「大丈夫だ」と答えて頷きかける。

 

「可逆的な環境でオフライン解析すれば、仮に悪意のペイロードが仕込まれていても影響は局所に封じ込められる。二重化したNASへイミュータブルバックアップをとり、ネットワーク物理切断、あとは光学的隔離を──」

 

「わ、わかんない……けど凄そう……」

 

 芽衣の唇が半開きで止まる。

 

「凄いわけじゃない。手順だ。手順を踏めばリスクは極小化できる」

 

「……ほんとに平気?」

 

「明日の午後には答え合わせが終わる。だから今日は落ち着いて休むことが最優先だ」

 

 芽衣は視線を揺らし、ふいに口ごもった。

 

「明日……? じゃあ今日は、その……帰っちゃうの?」

 

 言外の要求は明らかだった。

 

 隆司は深い溜息を吐き、壁に刺さった包丁と散乱した破片を改めて見渡した。

 

「……泊まっていけということか?」

 

 念のため問い返す隆司。

 

 呆れたような口調だが、芽衣はぱっと花がひらくみたいに表情を明るくし、力いっぱい頷いた。

 

 その仕草が一瞬、花の面影と重なり、隆司の胸に鈍い痛みが走る。

 

 しかし次の瞬間には理性のベールが感情を覆い隠し、現実的な選択を隆司に取らせる。

 

 どう考えてもこの状況で芽衣を一人放置するというのは悪手極まりない。

 

「分かった。片づけを終えたら仮眠を取ろう」

 

 隆司は立ち上がり、足元のガラス片を塵取りに集め始めた。

 

 掃除機のモーターが唸り、破片が吸い込まれるたび金属音が短く弾ける。

 

 やがてひと段落着いた頃、芽衣はおずおずと隆司に問いかけた。

 

「おじさん……どうして平気なの……? 怖くないの……?」

 

 隆司は掃除機のコードを束ねる手を止め、肩越しに振り返った。

 

「原因の分からない現象は、ログを採取し、再現テストを行い、分解して理解する。その工程を踏めば未知は既知になる。怖いのは“分からない”からさ。全てにおいてそうだ」

 

「呪いの動画を信じてないの……?」

 

 頭から信じていないからこうも堂々と振舞えるのだ、と芽衣は思ったが、隆司の答えは違った。

 

「呪い、か。そういうものがあるというのは知識として知っている。でもそれは君の考えるそれとは違うだろうな」

 

「どういうこと?」

 

「……少し長くなるがいいか?」

 

芽衣は「あっ」と思いながらも頷いた。

 

隆司がそう前置きするときは本当に長くなるし、長いのによくわからないことを延々と言うのだ。

 

ただ、芽衣としては淡々とべしゃり倒す隆司を見るのは嫌いではなかった。

 

──渋オジっていうかなんていうか、ちょっと好みなんだよね

 

そんな事を思いながら隆司を見つめている。

 

 呪いは超常的な現象ではなく、人間の脳が自らを異常作動させる情報感染症である──と隆司は言った。

 

「強い恐怖や憎悪を帯びた映像・言語刺激は、視覚野と側頭葉でパターン認識されたのち、偏桃体に直結するシナプス回路を高頻度で発火させる。そのとき分泌されるノルアドレナリンとコルチゾールがストレス反応を恒常化し、呼吸・心拍・筋電の閾値を底上げする。結果として通常なら起こり得ない瞬発的筋収縮──たとえば固定された包丁を引き抜く、家具を跳ね上げる──が本人の自覚なく発生する。いわゆるポルターガイストは、脳が自家中毒的に生み出す極端な「ノセボ効果」の生理表現にすぎない」

 

 芽衣は隆司が何を言っているのだかさっぱりわからない。

 

 分からないが──隆司の呪文のような口上を聞いていると、どうにも安心する。

 

 ──眼鏡をとった顔もみてみたいなぁ

 

 あれだけひどい目にあったにもかかわらず、芽衣はのんきにもそんなことを考えていた。

 

 が、そんな不真面目な聴講姿勢を隆司が見逃すはずもない。

 

「聞いているのか? 君が説明を求めたのだろう。いいか? 要するに呪いとは「言葉とイメージによる社会的マルウェア」であり、人間の行動と健康を暗黙裡に書き換えるプログラムなんだ。つまり芽衣、君は──」

 

 隆司がいうべきかいわないべきか悩む様に口を噤む。

 

 気になった芽衣は「私は?」と尋ねると──

 

「電子ドラッグ中毒者ってことさ。明日はその解毒薬を作るつもりだ。ただそれにしたって原材料が何かわからないとどうにもならないからな。分かったらもう寝なさい。もう23時だ。子供は寝る時間だぞ」

 

 子供扱いされたなどと言われた上に薬中扱いされた芽衣は頬をまるで子供の様に膨らませた。

 

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