少女が今居るのはメスク大学の地理学者の研究室。目の前にいる人物は机の上に大量の書物を広げて何かを調べているようだった。
「魔法使いがあなたを頼れと言われて来たのだけれど、あなたがそう?」
少女の言葉を聞いた男は顔を上げる。髪の色は黒で瞳の色も黒い。年齢は三十代半ばといったところだろうか? 眼鏡をかけた学者風の男だ。
「ああ、私がそうだよ」
彼は笑顔を浮かべた。
「それで、私に何を聞きたいんだい?」
「この世界はどうなっているのかについて知りたい」
「なるほど、かなり広義な質問だが……まあ、いいだろう。まずはこの世界の成り立ちから話していこうか――」
この世界はエクセロンと呼ばれていて、七つの大陸によって構成されている。それぞれの大陸はそれぞれ違った環境を持ち独自の進化を遂げてきた。北にある大陸はカトラ大陸と呼ばれ、常に冬に覆われている極寒の地。東にある大陸はガラビニエリ大陸と言い、様々な季節がある温和な気候が特徴である。西の海に浮かぶ島国はイリオス諸島と言われ、大小合わせて二十以上の島々からなる温暖湿潤な土地柄。中でも大陸と呼ばれるほどの大きな島があり、そこはアルテミテップ大陸と呼ばれている。南はヴェスパー大陸と呼ばれ、広大な砂漠地帯が広がっている。
「ふーん……。今の時代について教えてくれるかな?」
「この時代かい? うむ……」
学者は語り出した。今の時代は波乱の時代が過ぎた後の時代だ。数年前からずっと続いていたフルドゥール王国とリヤル帝国との戦争が終わった。両国とも疲弊し尽くした末の戦いであったが、そこに勇者が王国側に現れ、戦争を終わらせることに成功したのだという。戦争が終わるきっかけになったのは皇帝が討伐されたからだと言うが、詳しいことはわからないらしい。
「それより前の時代は?」
「それはもう、混乱の時代だよ。いくつもの国が興り、滅んでいった。フルドゥール王国が出来たのも百年前と比較的最近なんだ。それまでは小さな国が乱立していたんだよ」
それから、少女はいくつかのことを尋ねた。
「さて、これから怖い話をする事になるけど大丈夫かな?君みたいな若い女の子には刺激が強いかもしれないがね……」
学者は少し躊躇った後に口を開いた。
「実は私はある研究をしているんだ。その研究とは『フクシア』と呼ばれるものについての研究なんだけどね……」
「聞いた事ない。どんなものなの?」
「簡単に言えば、世界の境界線のようなものだと考えてくれればいい。この世界は球体だという説が今では主流になっている。しかし、このフクシアが認識された事でその説に疑問を投げかける者が現れたのだ」
「つまり、どういうこと?」
「つまり、この世界にはもう一つ別の世界があって、それがフクシアの向こう側に存在しているのではないかと考えられているということだ」
少女にはよく理解できなかったが、とりあえず相槌を打った。
「例えば、イオリス諸島近海に居たとして、それより西に行こう。何があると思う?」
「普通にガラビニエリ大陸の東の海端まで行けるんじゃないの?」
「今まではそう考えられていたのだが、最近になって新たな学説が生まれたのだよ。フクシアによって転移させられてしまうのではないかとね」
「えっと……つまりフクシアを超えれば違う場所があるかもしれないってことでしょ?」
少女は頭の中で地図を思い浮かべた。
「そういうことになるね。ただし……フクシアは普通の船では越えられないと言われている。空力艇を使ってようやく超えられるというわけだ」
少女は首を傾げた。
「空力艇?」
「英雄時代にあった乗り物の一つさ、今の技術では作れないような代物でね。空を自在に駆け回ることが出来るんだ」
「英雄時代……。また分からない単語が出たね」
「英雄時代は神話のようなものだ。まず、三柱の神がこの世界を創られたとされている。黄金の女神、白の女神、黒き獣の三神だ。今の宗教はこれらの系統から枝分かれしたものがほとんどだ。神話は、簡単に言えば黄金の女神と白き女神が手を結び、黒き獣からこの世界を救ったという話だ。この世界で語り継がれている物語はだいたいこの二神の争いの話になるのだけど、正確なところは誰も知らない。
で、黄金の女神には様々な戦士達が付き従っていたと伝えられている。彼らは後に英雄と呼ばれ、崇められるようになった。女神と獣、英雄達の戦い、それが英雄時代だ」
「なるほどね」
「さて、空力艇でフクシアを越えようとしても、今度はフクシアの有害物質が襲いかかる。フクシアは見えないし、臭いもしない。ただそこに存在するだけなのだ。フクシアが作り上げた空間の中に入ると人はかなり『ぶっ飛んだ』体験をするそうだ」
学者から乱暴な表現が出たのを聞いて少女は顔をしかめた。
「『****』よりもぶっ飛んでいるの?」
「ああ、まず視界が歪む。次に平衡感覚が失われていく。そして、意識が混濁していく。最後には精神が崩壊すると聞くよ。まあ、これは噂に過ぎないがね」
「『****』よりも酷い……」
少女の顔が青ざめていった。
「ああ、そうだな……。さらに悪い知らせもある」
学者は話を続けた。
「そのフクシアは意識を持っているらしい。フクシアの領域は拡大を続けている」
「いずれ、世界がフクシアに飲み込まれると?そんな馬鹿な話が……」
「と言ってもそれはかなり時間がかかる。少なくとも私も君も生きているうちには起こりえないだろう。だが、タチの悪い話はこれだけではないんだ」
学者は机の上に広げていた書物の中から一冊を取り出し、ページを捲った。そこには、一つの絵が描かれている。
「フクシアはこの世界に浸透してきている。様々な形でね。フクシアは例えば……『穢れ』として表現される」
穢れの言葉を聞いて、少女はハッとした表情を浮かべた。
「まさか……」
「穢れた獣なんてものは見たことがあるかい? あれはフクシアによって汚染されたものなんだよ。フクシアは生き物に取り憑き、意識を侵食する。取り憑かれた生物は狂い始める。」
少女に冷や汗が流れた。今流れている血の中に、穢れが混ざっている。そう考えるだけで吐き気がした。
「まぁ、少量なら自然に消えていくから問題無い。軽い傷を受けた程度ではそこまででは無いさ。」
それでも少女の慰めにはならなかった。
「実は、この『穢れ』を最も扱いこなせた組織があるんだ」
「それは?」
「帝国の技術者達さ。今は消えてしまったけれどね。彼らはフクシアを研究し、兵器として転用することに成功した。帝国はその技術で軍事力を大幅に強化し、周辺諸国を次々と侵略していった」
少女は息を飲み込んだ。
「それがフルドゥールとリヤルの戦争に繋がると」
「そういうこと」
もし、帝国の技術が残っていればと少女は思った。その技術を治療に活かせば、あるいは助かるかもしれなかったのだから。
「この世界はかなり不味い状態なんじゃないの……?」
「実際、不味いさ。勇者様がフクシアのある空間に行って生還でもしてこない限り、この学問に進展はないだろうな。まあ、私の研究はどうでもいいんだけどね」
学者は苦笑いをした。
「さて、基礎的な内容は一通り教えたつもりだ。あとは、自分で調べてみるといい。何かわからないことがあったらまた聞きに来てくれ」
少女は礼を言い、部屋を後にした。
外に出ると、少女は急いで茂みに入り、胸を抑えた。込み上げてくる恐怖を押さえ込むように。そして、彼女は口から吐瀉物を吐き出した。
「うっ……!」
穢れに蝕まれる恐怖、未来が閉ざされる絶望感、自分の中に潜む穢れへの嫌悪感。それらが入り混じり、少女は嘔吐していた。しばらくして、少女は落ち着いたのか顔を上げた。彼女の瞳には涙が溜まっていた。
「どうして……こんなことに……」
少女はそう呟くと、近くの木にもたれかかった。そして、そのまま目を閉じた。
――
「アイラ、アイラ?起きて」
誰かの声が聞こえて少女はゆっくりと目を開ける。目の前にいたのは、金色の髪の少女だった。少女と同じぐらいの年齢に見える。
「やっと起きた。大丈夫?顔色悪いよ?それに、凄くうなされてたけど……」
シンシアが心配そうな声で話しかけてきた。
「大丈夫。気にしないで」
少女は立ち上がり、服についた土埃を払う。
「それより、今の時間は?ちょっと寝過ぎちゃったかも」
「もう夕方だよ。そろそろ部屋に戻りましょ」
「うん」
シンシアが手を伸ばすと、アイラはそれを掴んで立ち上がった。アイラは穢れのことを彼女に打ち明けようと思った。しかし、言葉が出てこなかった。
「ねえ、シンシア」
「ん?」
「あの……」
「なに?」
「なんでもない」
結局、言うことが出来なかった。今のアイラにそれを伝える意思はなかったのだ。
「……そっか」
二人は部屋に戻ることにしたのだった。