過去の事を振り返ってみても、朧げな記憶しか残っていない。どこで私が産まれたのか、両親の顔はどうだったのか、どうやって幼少期を過ごしたのか……何も分からない。覚えている事を数えた方が早いくらいだ。私は何の為に生まれてきたのだろうか?この世界に存在する意味はあるのだろうか?そんな疑問が浮かんでは消えていく。答えなど見つかるはずもなかった。私の意識が暗闇の中へと溶けていたが、少しずつ光が差してきたような気がした。その光に手を伸ばすと、声が聞こえてくる。それは私を呼んでいるようであった。
「……お目覚めかい?」
男性がそう言った瞬間に視界が明るくなった。男性は椅子に座っている様子である。彼とは面識がある。彼は自らをミスター・ドクターと名乗っており、私が死ぬ程の傷を受けると、私が知らぬ間に彼が治療を施してくれるのだ。私の胸に手を当てる。受けた傷もすっかり消えていたようだ。彼の能力にはいつも驚かされるばかりである。
「今回は随分と派手にやられたね」
「今度こそやれると思った。でもダメだった……」
「そうかい。まあ、君はその程度で死なないから大丈夫さ」
「シンシア達はどうしたの?あの時まで一緒だったはず」
「彼女達なら、君を僕に託して先に行ってしまったよ」
「そう……。今は私が怪我してからどれくらい経ったの?」
「だいたい満月が二回程昇った頃かな」
「そんなに……」
すると突然、咳が止まらなくなった。何かを吐き出そうと必死になり、出てきたのは黒い液体のようなものであった。私はこの液体を知っている。とても不吉な予感がするものだ。
「やはり、いつかこうなると思っていたんだよね」
ミスター・ドクターは悲しそうな顔をしていた。
「そんな……」
「ああ、ピンク・デスだ。それもかなり進行しているね。この病は治療法が確立されていないんだよ」
ピンク・デスとは、穢れを身体に溜め込んでしまう事で発症すると言われている。発症してしまうと穢れに侵食されてしまい、最終的には自我を失ってしまい、無差別に人を襲う化け物になってしまう。小さい頃から穢れを浴びてきた私にとって、これは避けられない運命なのだと思うようになった。いざ自分が感染してしまったとなると、恐怖心が芽生えてしまうものである。
「どうにかならないの!?」
「言っただろう?治す方法は無いって。僕は傷ぐらいなら癒せるけど、病気までは無理なんだ」
「そんな事言わないで!お願いだから!」
涙目になって懇願するが、彼は首を横に振るだけであった。
「ごめんよ。僕だって助けてあげたいんだけど、こればっかりはどうしようもないんだ」
「そんな……。私、死にたくないよ……」
「君の気持ちはよく分かるよ。だけど、迫り来る時を止めることは誰にもできないんだ」
泣き崩れる私を見て、彼も辛くなったのか黙り込む。しばらく沈黙が続いた後、「そうだ」と思い出したように言う。
「実はね、まだ試していない事があるんだ」
「えっ……?」
顔を上げると、ミスター・ドクターは瓶を懐から取り出す。中には紫色をした液体が入っている。直感でおぞましい何かがこの瓶の中に詰まっていると感じた。
「まだ試験数が足りてないから確証はないんだけどね。効果が出れば病を先延ばしにできるかもしれないんだ」
「副作用は?」
「精神面で不安定になるかもしれない。また、何かがきっかけで化け物に一時的だけど変身してしまう可能性もある。もしかすると、君の大切な人を傷つけて殺めてしまう可能性すらあるかもね」
ミスター・ドクターの言葉を聞いて背筋が凍るような感覚に陥る。もし、そのような事態になったとしたら私は耐えられるだろうか?そもそもこんな得体の知れないものを使って本当に効果があるのかどうかさえ怪しいところである。だが、ルインに復讐できないまま死ぬなんて嫌だ。私は覚悟を決めた。
「お願い。どんな結果になっても構わないから使って欲しい」
「分かった。それじゃあ早速使おうか」
そう言って、瓶の中に入っている紫の液体を飲み干した。味は形容し難いものであったが、すぐに効果が現れたようで、突然怒りのような感情や悲しみが湧き上がってきた。
「落ち着くんだ。まずは深呼吸をして心を静めるんだよ」
言われた通りにしてみる。少しだけ落ち着いたような気がした。
「よし。しばらくベッドの上で横になってくれ」
言われるままに横になると、私の身体の上に白い布がかけられた。
「これでいいかい?さっきよりはマシだと思うけど……」
「うん……。ありがとう……」
そう答えると、ミスター・ドクターは再び椅子に座って口を開いた。
「さて、この薬はピンク・デスの影響で魔物になった人間から臓器などを摘出し、錬金術で精製したものだ。かなり数が少ないから、なかなか投与できていないんだよ」
「数が無いの?」
「ああ、そうだよ。君は名の知れた剣士だろう?もしサンプルを取ってくれば、もっと君の寿命を伸ばせるはずだ。この量程度だとせいぜい数ヶ月先延ばしにするくらいの効果しかないからね」
「分かった。もし取れればすぐに持ってくる」
「頼んだよ。さて、これからどうするか考えよう。君は黒い鎧の大きい奴を倒す為に旅をしている。もう時間は残されていない。君はどうしたい?復讐から解放されて、残された時間を静かに過ごすのか、それとも全てを懸けて奴を討伐するのか」
「倒す以外無いじゃない。それ以外何があるっていうの?」
「分かった。なら、君は直ぐに旅立つべきだろう。ここはオラニエの中央部、山脈地帯の麓にある山小屋だ。近くには君の親友が育った村が近くがあるな。なにか奴に繋がる手がかりはあるのかい?」
「……分からない。手当たり次第探すつもり」
「そうか。荷物はまとめておいたよ。それと、これを渡しておく」
そう言って、彼は髑髏が描かれたラベルの貼られている小瓶を渡してきた。
「これは?」
「それはね、僕の作った毒だよ。剣に塗って使ってもいいし、もし絶望した時などに飲んでもいい。死ぬけどね」
「分かった……。貰っていくね」
私は立ち上がろうとするが、上手く力が入らない。
「大丈夫かい?」
「ちょっと身体が重いけど大丈夫」
「無理をしない。今はゆっくり休むといい」
私は素直に従うことにした。ミスター・ドクターは私が寝るまで傍についていてくれた。
「それにしても、ミスター・ドクターって変な名前ね」
ふと気になって尋ねてみると、「よく言われるよ」と言って笑った。意識が薄れていく中、私は目の前に見える絶望の壁にどうやって逃げるのかを考えていた。
目を覚ますと、既に日が昇っていた。身体が軽い。私は起き上がると、身体にかかっていた白い布が床に落ちる。白い布には黒い液体のようなものが染み付いていた。もうドクターはこの小屋を出発した後のようだ。机の上に置き手紙があった。
『僕は世界中を放浪しているが、君が会いたいと思えば直ぐに会えるよ。では良き旅を』
身支度を整えて、私は山小屋を出た。あての無い、死が迫る絶望の旅が始まった。