【完結】罪状記録   作:初弦

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邂逅

 花垣武道は、ここ半年ほどとてもよく頑張った。何度か殴り合って何度か死にかけて彼はついぞ気づかなかったが一回は本当に死んだ。

 めちゃくちゃ頑張ったので、ご褒美とばかりに、日向との幸せな生活が用意された。未だにレンタルビデオ店に勤めているが(アルバイトではなくちゃんと店員だ、つまり正社員雇用である。よかったね)まァ日向と二人暮らしなのでわりと暮らしも安定しており真っ当に貯金もできている。精神的に安定しているためか、正社員雇用されるぶんの経験を積んだためか、フリーター時代と比べて勤め先でのミスも減った。ミスが減れば仕事もなんだか楽しくなってくる。帰れば可愛い恋人もいるし。

 これぞ正の連鎖ってワケ。

 

 もうそろそろ閉店時間を迎える。店仕舞をすれば花垣はアパートへ帰れる。

 若干眠気でぼんやりしていると、カウンターにバサバサとレンタルビデオを何本も重ねられて「貸出しゃーす」「ハーイ」いつものようにバーコードリーダーを手に取ったところで。

 

「え、タケミッチここで働いてんの?」

 

 と、正面で声が上がった。

 正面ということは、つまり今しがた貸出手続きをしようとした客だ。

 

 花垣は手を止めて、客の顔をまじまじと見た。彼はあんまり仕事熱心ではないので、普段そんなに客をちゃんと見ない。常日頃からまじまじ見るのもまあまあ失礼だが。

 

「……もしかして、一虎くん!?」

「もしかしてってなんだよ。……そういや、髪いじってから会うの初めてか」

 

 一虎は、自らの金混じりの髪先を指で引っ張った。長い髪には少しだけ癖がついている。

 

「ペットショップはもう閉めたんすか?」

「そりゃな〜こんな夜遅くに買ってくやつはそういねえし」

 

 ちなみに、花垣が勤めるレンタルビデオ店の閉店時間は夜の十時である。

 夜十時にペットショップに駆け込む客がいてもまあ困惑する。

 

「場地にそろそろ趣味の一個ぐらい持てとか言われていろいろ試したんだけど、だいたいわりと金かかんだよね。バイクとかもろにそうだろ」

「あーそれはそう」

「アウトドアだと施設代とかもあるし、最近地域のサークルでも公園でやるんだって厳しくなってて」

「ボール遊び禁止とか今あるあるっすよね」

「ボールは序ノ口だぜ騒ぐの禁止とかあんの、マジありえねえ」

「それ! それ!」

「てか俺一回テニサー入ろうとしたら出禁になって。ほら地域のジジババとかが主催してるやつ」

「えなんかしたんすか」

「ヤ? 前就活したとき面接官だったジジイがいて、前科者ってバラされてンなの怖ェってよ」

 

 一虎はあっけらかんと言った。

 

「へえ〜、そういやドラケンくんとかもスミ入ってるからプール軒並み出禁らしいっすよ」

「スミ入ってるとなー、言われるよなー」

 

 会話はきわめて和やかに続いた。

 

「だから金そんなかからねえし文句言う外野いなそうなのがいいかなって思ったんだけど、文字は飽きるし」

「わかります」

 

 花垣は深く頷く。濫読家からすれば信じられない意見だ。

 

少年院(ネンショー)でも刑務所(ムショ)でも散々読んだのもあんだよな。あそこ本ばっかあってさ」

 

 これは前科者らしい意見である。

 

「漫画は千冬の借りるとバチギレられるし」

「そうなんだ」

「場地は千冬から無条件で借りられっから漫画とか持ってねえし」

「千冬はまあ場地くんには大抵キレねえから……」

「あれ意味わかんねえよな……」

 

 この時間軸では場地と千冬が双方健在なので、忠犬千冬もまた健在なわけだ。

 

 閉店間際のレンタルビデオ店には人がおらず、二人はそのまま盛り上がりかけたが、店内に蛍の光が流れ出したところで「やっべ締め作業」花垣が我に返った。

 

「そっか仕事中だったわ。えっなァ、タケミッチいつ終わんの?」

「え〜こっから……三十分ぐらい?」

「晩飯まだ? おでん行かね? 俺いいとこ知ってんだけど」

「いいっすねえ〜!」

 

 花垣と日向との新婚秒読みカップルは、普段の夕食は九割の確率で一緒に食べる。

 ただし締め作業の日は花垣の帰りが圧倒的に遅いため、各自で食事するのが恒例だ。

 

 つまり外食にはもってこいの日だった。

 

 

  邂逅

 

 

「美味すぎ」

「わかる」

 

 屋台のおでんは今日日めっきり珍しくなったが、一虎が見つけてきたらしい。

 

 一月の東京、夜ともなれば気温は下がり、おでんの熱気で暖をとる有様。ハフハフと餅巾着を食む花垣の隣で、一虎は熱心に茹で卵を箸で切り分けている。

 

「んーでも、タケミッチが飯ついてきてくれてよかったわ」

「なんすか急に」

「テニサーはそりゃ出禁にされたばっかだけど、俺、東卍(トーマン)も出禁だから」

 

 まあそうだろうなと花垣は思った。

 

 現代に戻ってきたのち、今まで、花垣は何人か東卍(トーマン)メンバーと会う機会もあった。それこそドラケンとエマのカップル(夫婦)は同じアパートに住んでいて二度見した。

 話す機会もあった。十二年の歳月の隔たりにより、話が噛み合わないこともあったが、彼らは〝タケミチ昔からそういうとこあったしな〟で驚きや呆れもまじえつつ、楽しく話をした。

 

 彼らは一様に、一虎のことは口に出さない。

 

「俺が出所したとき、ほらオマエもいたけど、千冬に全力でブン殴られたじゃん。顔。ほっぺた」

 

 それは花垣はちょっと知らない。有言実行したんだあいつ、とは思ったが、餅巾着を食べているので精一杯です、という顔を装った。

 

「そのあと場地ももう片方ブン殴ってきたじゃん」

 

 場地くんそういえば肺治ったっつってたな、と花垣は思った。

 半ば現実逃避だった。

 

「……あいつらはさあ、なんか、あれでスッキリしたとか言ってて」

 

 一虎は、自らの手で半分に割った茹で卵を、じっと見つめている。

 

「よくわかんねえけど。バイトに雇ってくれてっし。今謎に三人でルームシェアしてるし。千冬は俺マジでパイロットで忙しくなるからペトショの経営は俺にかかってる頼んだとか言ってくるしイヤ場地のおかんかテメエは。あいつフツーに場地ママより過保護なんだけど」

 

 千冬、オマエはいったい場地くんの何ポジ。

 花垣は心底から思った。

 

東卍(トーマン)のメンバーもさ、話してくれる奴はいるわけ。東卍(トーマン)以外だと、意味わかんねえとこで半間からなんか毎月写真くる。確かに昔メルアド渡したけどそれにしたってよ」

「半間!?」

 

 花垣はうっかり餅巾着をそのまま飲み込んだ。

 喉に詰まることだけはかろうじて回避した。

 

「半間。ほらあいつ写真家になったろ? てかそれ場地も千冬も話したとき同じ反応したわ、そうなるよな。なんなら俺も最初なった」

 

 一虎はピッと箸先を花垣に向けた。行儀が悪い。

 

「んでもマイキーとかは、あれから十二年、顔も合わせてねえな」

 

 手持ち無沙汰に持ち上げられていた箸先が、ふたたび、茹で卵の脇に降りた。

 

「……そういや、母さんも一回面会したっきりだ……」

 

 独り言つように一虎はつぶやいた。

 すぐに誤魔化すように、半分に割った茹で卵の片側を箸で摘んで、口に放り込む。

 もぐもぐもぐ。ごっくん。

 

「ん、だからよかったーってなったわけ。オマエってなんだかんだ、命のオンジン? てやつっしょ。避けられたらメンブレするわ」

「そりゃまあ……ぶっちゃけ、俺ってマイキーくんのお兄さんのことはマジで知らねえんスよね。マ一虎くんのこともよく知らねえけど」

「けっこう言うじゃん」

「だからぶっちゃけっスよ!?」

 

 十二年前の千冬のように殴られたらちょっと怖いので、花垣は慌てて弁明を追加した。

 「いやマァ、そンで?」一虎は半笑いで先を促した。

 

「えーと、それで、なんてのかな……許す許さねえとか、話す話さねえとか、良い悪いとか、そういう、なんだろ、ちゃんとした話は、俺みたいによく知らねえやつがしちゃダメっしょ。そりゃ、ひでェことされたら俺だって、ハァ? ってなるし、殺しとかはやっぱダメッスけど、ヒトのことにタダ乗りして言い訳すんのはサイテーだって俺も学んだんで」

 

 花垣は言うだけ言って、蓮根を貪り始めた。

 

「……学んだってか、そもそもタダ乗りとかしてたっけ、オマエ」

「してたッスよ〜」

 

 咀嚼している蓮根が口に入ったままなので、若干くぐもっている。

 

「俺昔だいぶどうしようもねえ奴でしたからね。今もそんな変わんねえけど」

「そーかなあ……」

 

 一虎はこんぶをちみ……と吸った。出汁が効いていて美味い。

 

「……許す許さねえの話は、ブチョークンもしてたな」

「ブチョー……あ、榎さん」

 

 東京卍會創設メンバーは、何故か純丘榎を部長と呼ぶ。

 彼らの東京卍會は六名によって創設され、一虎もそのうち一人だった。

 

「そういや榎さんって、あの人今何してんスか?」

「エ知らね」

 

 ついでに尋ねた花垣に、一虎は面食らった表情をした。

 

「俺この半年ぐらい娑婆に馴染むんで必死だったし、ブチョーくんの話とか別に……つうかタケミッチは知らねえの?」

「俺はそういや、なんも? 場地くんとか知ってっかな」

「あァ、あいつ昔雇われてたんだっけ。今もそのへんで塾講とかしてんだと思ってたけどなー、俺刑務所(ムショ)いる間ずっとあの人からテキスト貰ってたし」

 

 テキストもらってたんかよ。

 とかいうツッコミは置いといて。

 

「まァなんでもどうにかしてそうスけど、塾講はそりゃムリ——待って、一虎くんってまず十二年前の事件のことどこまで知ってます?」

「なに? ハロウィンの俺の最大のやらかしの話?」

「いや違くて」

 

 どこからどこまで説明するべきか。

 花垣は一瞬、言葉を探した。

 

「お邪魔しまーす、おお空いてる。よし食べるか」

 

 暖簾をくぐった人の声に意識がわずかに逸れる。

 

 フレームレスの眼鏡を掛けたその顔に、花垣はまず、稀咲鉄太を連想した。少年時代のそれ、もしくは新聞記事に載った写真。

 それらとは違うことにも、すぐに気づいた。

 

「噂をすればブチョーくんじゃん!?」

 

 一虎の方が先に気づいた。

 

「ン、なんだ、俺の話か?」

 

 屋台の親父に注文を述べたのち、純丘はきょとんと目を瞬かせる。手元は手早く屋台の空いている椅子を拭いて、腰掛けた。

 

「どうぞ続けて。ここで一言一句漏らさず聞いてから評価してやろう」

「いやいやいや」

「脅すなってブチョーくん」

「脅しと思うのか……ふむ……」

「ごめんタケミッチ墓穴掘ったわ」

「か、勘弁して……あってか榎さんマジで久しぶりじゃねえっすか!?」

「そうだな、十二年ぶり?」

「十二年ぶりッ!?」

 

 誤魔化しがてら水を向けた花垣、うっかり本気で聞き返してしまった。

 

 久しぶりとは言ったものの、てっきり、十二年のうちのどこらへんかで会う機会ぐらいはあった、と想定していた——なにせ一虎でさえ、花垣が知らないタイミングでも会っていたようなので——まさか本当に一度も会ってないとか思わない。

 

 とはいえ確かに、正月に届いた年賀状の束には、純丘の名が記された葉書はなかった。

 交流が続いてさえいれば、彼はいわゆる年中行事はマメに行うタイプだろう。ごく短い付き合いの花垣でも容易に想像がつく。

 

「ついこの間、ようやく日本に戻ってきたんだ。元東京卍會のメンバーでいうと、君らに出くわしたのが初めてかな?」

 

 純丘はしれっと言ってのけた。

 それから一虎と花垣の二人を見比べた。

 

「……というか君らもまあまあ珍しいセットじゃないか?」

「俺らも偶然顔合わせてから飯でも行くか〜って話になっただけで……えっブチョーくん、てことは今海外いんの? すげー、グローバルじゃん」

「もしかして起業とかしたんすか?」

「俺が起業をしたわけじゃないが、知り合いの稼業の手伝いをしてはいる。交渉やったり資金集めてきたりちょっとした仲介で人脈作って販路開拓したり」

「へえへえへえ! それはそれで似合うー!」

「どうもありがとう」

 

 花垣は素直に褒め称えた。

 昔ならば(それこそ、タイムリープの存在も知らない頃であれば)卑屈に、ケッこんなやつ、とばかりだったろうが、なにせ今は日向と一緒なので精神が安定しまくっている。好意的な感想の出力にはそれ相応に心の余裕が必要なのだ。

 

 一虎もわりとメンタル安定期だったので「すげー」と言いつつ、ただちょっと皮肉っぽい顔もした。

 

「なんか聞いてる感じめちゃくちゃ大出世じゃねえ? こんな庶民と話してていー感じ?」

誰かに怒られたらやめようかな(はんふうほおはふはあふふほふはふ)

 

 純丘ははんぺんを食みながらもごもごと言った。

 

「めっちゃもごもご言ってて聞こえねえ、なんて?」

「む」

 

 ごっくん。

 

「……まァいいだろ」

「流した……」

「元気にしているようでなによりだ。歳月を経るとなにがどう変わっていてもおかしくないからな」

「さい……?」

「時間が経つと、って意味」

 

 一虎が解説する。

 

「一虎くん前から思ってたけど、けっこー頭良いっすよね」

「ええ……いや……タケミッチが頭悪ィんだろ……」

「シンプルストレート罵倒」

 

 悪意や揶揄いによるものではなく、単純に戸惑った末の言葉だった。

 花垣は深く傷ついた。彼の頭が良くないのは事実なので尚更だ。

 

「……あとはブチョーくんのテキストのおかげかも?」

「役に立ったならそれに越したことはない」

 

 拗ねた花垣ががんもに箸を伸ばす。

 一虎の言葉に、純丘は微笑んだ。

 

「……ブチョーくん、あれから面会来なかったよな」

「忙しくてな、いろいろ。毎週テキストは送ったろう」

「なんか途中から堤って人から送られてたけどな」

「ああ、昔馴染なんだ」

「場地から聞いた。……正直さ、あんときのアンタの話ってちょっとわかんねえな〜って、今も思うよ。許せねえけど、許せねえだけじゃねえ、とか」

 

 一虎はぽつりとつぶやいた。

 茹で卵の残った半分をもう一度、今度は三分割にしていた。

 

「別に理解する必要はない。あれもまた、二十歳の若造の戯言……当時の俺は今の君らよりも歳下で、そのぶん、人生経験も少ない。甘い考えに基づくものだ」

「ヤ、ブチョーくんあの頃からめちゃ頭良かったじゃん……」

「評価はありがたいがね。ともあれ、真面目に捉える必要はないんだよ」

 

 純丘は淡々と言った。

 大根を摘もうとして失敗し、大人しく切り分けて、一口大の切れ端をつまみ上げた。

 

「けれど、君が考え続けてくれたことは、俺としては、素直に良かったと思う」

「……うん。……うーん。なんかとりあえずさあ。ちゃんと生きてくわ」

「うん」

 

 拗ねてる気分半分、なんだかマジでわかんねえ話されてんな、の気持ち半分、花垣はがんもを飲み込んだ。

 

「榎さんも、一虎くんの面会、行ってたんスか?」

「二度ほどな」

「タケミッチたちが来る一週間ぐらい前と、十一月末ぐらい」

 

 問いかけには二人がそれぞれ答える。

 

「何人かの伝言と。俺の個人的な……罪への向き合い方の話を、少しだけ話したんだ」

 

 会話の間に大根を一口。たっぷりと煮込まれていて、口の中でほろほろと崩れていく大根を飲み下す。

 

「あとは勉強ドリルを送り続けてた」

「……榎さん昔塾講師やってたッスよね。その勉強ドリルを? 金取れるっしょ」

「ふはは」

「あれ、マジで助かったわ。ちゃんとおかげで高卒資格取れたし、あと、高校の範囲の他に、経理のテキストとかも作ってくれたろ? 俺あれで資格取ったんだぜ!」

「本当にきちんと活用されている……」

 

 心底から感心した声音だった。

 

「なんかまず、ちゃんと生きることからだなって、思ったから」

 

 一虎はしみじみとつぶやいた。

 純丘は少し首を傾げて、一虎を眺めた。眼鏡のレンズの奥で瞳がまたたいた。

 

「……ところで君ら酒はもっと飲むのか? お兄さんはとても稼いでいるので、奢るぞ」

「えっなんでもいいんスか!」

「俺は……いややめとくわ、なんか変なことしたら悪ィし」

「下手な醜態はたいていは俺が抑え込めるが?」

「うわー! 悪魔の誘惑すんなよ! 良くねえぜそういうの! 飲まねえって!」

「はは、ごめんごめん」

 

 固辞する一虎には、純丘は笑って、それ以上は勧めなかった。

 花垣は我慢する理由もないので、遠慮なくパカパカ飲んだ。人の金で飲む酒、おいしー!

 

「あれ〜一虎くんめっちゃ増えてるッスね〜」

「ブチョーくんどうすんのこの泥酔野郎」

「ちょっと飲ませすぎたなァ」

 

 結果、シンプルに馬鹿の酔い方をキメた。

 

 天井が回っててジェットコースターみてえ〜。花垣はへらへらと笑っている。

 呆れた一虎の顔がいちにいさん。よん。

 

「まァ俺がおだてたようなものだろう。責任持って送っていくよ」

「あっそぉ……いや……いいけど……てか願ったりかなったりだけど……俺さすがにちょっとこれ責任取れとか言われても困るし……飲ませたのどう考えてもブチョーくんだし……」

「それはそう」

 

 純丘は真面目な顔して頷いた。花垣はふらふらしながら、サービスで提供された水を飲んでいる。

 焼け石に水ならぬへべれけに水。

 

「ちなみにタケミッチくんが今住んでるところ、どのへん?」

「なんだっけたしか……てかブチョーくん最近渋谷どころか日本いなかったんだよな? 住所言ってわかる?」

「世の中にはGoogleマップという途轍もなく便利なものがあり、最悪はタクシーを捕まえればいい」

「それはそう」

 

 一虎は住所を諳んじた。「助かるよ」純丘はかすかに笑った。

 

「というわけで……タケミッチくん、立てるか? コートは着てくれ。よし。すみません、お会計お願いします」

 

 夜空は晴れ渡っており、雨や雪の気配はない。つんと冬独特のにおいが香る。

 

「あっ、このおでん持ち帰れっかな? いける? ならちょっとオナシャース」

「土産か?」

「場地とか千冬に食わせよっかなって。レンチンしても美味そ〜」

 

 この時間帯は、こうこうと輝くネオンサインすらも消えかける頃だ。大都会東京の空にも、星々がまたたき始めていた。

 純丘と花垣(状態・泥酔)を手を振って見送って、一虎も帰路についた。ルームシェアをしている場地、千冬とのグループLINEには【タケミッチと飲んでくる〜】と連絡を入れていたので、問題はない。

 

「あー寒かった! ただいまー!」

 

 レンタルビデオを放り込んだ手提げと、おでんの手提げ。

 ご機嫌に帰宅した一虎に「おー」と場地が雑に応じた。決して悪気はなく、参考書と真剣に向き合っているがゆえだ。

 獣医の資格を取るには、高水準の学力を有する人間であっても多大なる努力が必要である。場地の学力は高水準ではないため、なおさら。

 

「おっせえご帰宅〜」

「うるせえ千冬。てかオマエ、休みなんだから早く寝ろよ」

「場地さんほっとくといつまで経っても寝ねえんだもん」

「もんじゃねえ。おら土産、おでん! 場地もベンキョーばっかしてっとぶっ倒れるぜ!」

「おー」

「千冬呼び戻してアレ」

「一旦休憩入れましょうよ、一虎くんが夜食持ってきましたよ夜食」

「おー」

「場地さん!」

「聞ーてるワ、もーちょい!」

「ならキリのいいとこで一旦切り上げて!」

「マジでおかん」

 

 余計なことを言った一虎は背中を強めにしばかれた。

 無事に意識が現世に戻ってきた場地と、千冬と、一虎、三人で食卓(※炬燵)を囲む。

 

「てか、一虎くんが相棒と飲んでて助かりましたよ」

「助かるってナニ? そういうオタク? わりとキモいぜ」

「違ェーし! ヒナちゃんから連絡来たんすよ、タケミチの居場所知らねえかって」

「えなに? ヒナってタケミッチの嫁だろ、あいつら喧嘩中?」

 

 一虎は面白半分、真剣半分で姿勢を正した。

 「違う違う」千冬が首を横に振った。

 

「あいつまーたなんか巻き込まれてるんだと思いますよ。ヒナちゃんも直人から頼まれて聞いたっぽくて、あー一虎くん直人わかります? ヒナちゃんの弟なんだけど」

「……ポリ公の?」

「そ! タケミッチ無事か、今どこか知ってるかって」

「無事ってなんだよ……」

 

 一虎は呆れ顔だ。

 指先はがさごそと炬燵布団をさぐり、炬燵のスイッチを探り当てると、温度を上げた。

 

「それこそタケミッチ本人にLINEすればよくね?」

「あいつ勤務中ちゃんとケータイ切ってんすよ。でもちょくちょく電源入れんの忘れんの」

「律儀なんだかアホなんだか」

「……オマエはなんでそれ知ってんの?」

「俺がアイツに何度連絡未読無視されたか聞きますか?」

 

 千冬の目が死んだ。

 

「カワイソ」

「カワウソ」

「場地さん、場地さん?」

「悪ィ悪ィ。てかその調子だとタケミチフツーに元気そうだよな」

「それなー。話しててもめっちゃフツーだったし、なんなら心配されてるって知らねえかもな……あ、そうそう、あいつとおでん食ってたらめっちゃ珍しい人に会ってさ」

「え、誰?」

「ブチョーくん!」

 

 一虎は朗らかに言った。

 

 場地の箸が空中で停止した。今まさに、箸でこんにゃくを摘もうとしていたところだった。

 

「ぶちょーくん……?」

「あれ千冬は知らねえかな、純丘榎って人」

「ああ榎さ……え?」

 

 千冬の箸もがんもをつつきかけた姿勢で止まった。

 

「俺ぜんぜん知らなかったんだけどあの人海外行ったんだって? ン年ぶりに日本戻ってきたとか言っててさ〜おでん奢ってくれたんだわ! タケミッチなんか調子乗って酒めっちゃ飲んでさァ」

「ちょっ……と待って一虎くん、それタケミチどうしました?」

「え? 案の定潰れた」

「やっぱ潰されてる! その後!」

「榎さんが責任持って送ってくって言ったし任せたけど」

「待て待て待て待て」

 

 場地が慌てて立ち上がる。

 立ち上がる勢いでうっかり炬燵の天板ごとおでんをひっくり返しかけ、咄嗟に両の手のひらで抑え込んだ。

 

「オマエはわかる一虎はわかる十年ちょい娑婆にいなかったし知らねえよな、タケミチはどうした!? 最後に聞いたのが何年か前っつったってあんな話忘れられっか!?」

「……あーまずい、今のタケミチだとマジで榎さんの今の職業知らねえかも……」

「ンなことあるかよ!?」

 

 話の内容を未だ掴めぬまま、一虎は二人を見比べた。ちょっぴり口の端が若干引き攣っていた。

 

 内容がつかめなくとも、彼らの慌てぶりが尋常ではないことはわかる。

 

 

「えー、と。……俺、もしかして、なんかやっちゃった……?」

 

 

 時と場所を、少し、戻す。

 おでんの屋台で一虎と別れた、花垣と純丘のコンビ。今度はこちらに焦点を合わせよう。

 

 へべれけの花垣に肩を貸して、純丘はふと息を吐いた。白く染まった吐息だった。真冬、それも深夜帯ともなれば関東とて気温は一桁台を観測する。

 

「まじでー、めっちゃよってるー」

「そうだな。絵に描いたような酔っぱらいだ」

「一虎くんー、ドン引きしてたなー、おもしろー」

「面白いのかよ」

「てか榎さんー、おれとおんなじぐらいのんでたっすよねー、なんで元気なんすかー?」

「俺は悪い大人だからな〜、酔わないコツがあるんだよ」

「すげー。榎さんが悪い大人とかウケるっすねー」

「似合うだろ」

「アッハッハッハ!」

「笑いどころ扱い」

 

 しかもそこそこの爆笑である。酔っ払いの笑い上戸を引き当てたようだ。

 全く、と純丘は釣られて苦笑した。

 

「やー、でもー、榎さんなんかちゃんと生きててよかったー」

「ちゃんと、ね。そう思うか?」

「えっ実は幽霊とかっすかー? 勘弁してくださいよー」

「……それは全くそんなことはないが……」

「またどっかで死んでたら怖ェなーってー」

 

 純丘は一瞬、沈黙した。

 瞳だけがちらりと花垣を見て、すぐに前に向き直る。

 

「……みんなは元気か?」

「みんなァ? 元気っすよー! 東卍(トーマン)のひとたちもー、黒龍(ブラックドラゴン)のひとたちもー、あー、天竺のひとたちはちょっと元気かはわかんないんすけどー、生きてそうなんでー」

「まァ生きてるな」

「ヒナも生きててー、元気でー、かわいくてー、俺半年後には結婚しててー、ねー俺が結婚すよー、信じられますー?」

「それはさっきも聞いたよ。おめでとう」

 

 おでん屋に滞在している最中に五回は同じことを話していた。よほど嬉しかったのだろう。

 

「あんとき榎さんありがとーございましたー、ヒナ守ってくれてー」

「……俺はむしろ助けられた側だけどな」

「でもあんな無茶もうしないでくださいねー、マジでたいへんなんでー」

「ははは」

「てかねー、俺は榎さんにも聞きたいんすよー」

「……なにを?」

「だぁってさっきっからあんた、ずーっと俺に聞くばっかでぇ」

 

 花垣は不満そうに首を左右に揺らした。肩を支えているので髪がこすれた。

 駄々をこねるような仕草に「運びにくいぞ」嘆息して、純丘は酔っ払いを支え直す。

 

「マイキーくんがなにしてるかーとかー、エマちゃんとドラケンくん円満かーとかー、病気とかしてねえかとかー、なんか悩み事ねえかーとかー」

「……大事だろ。そういうのは」

 

 純丘の声は、限りなくいつも通りじみた響きをまとっていた。

 

「だぁいじっすよぉ!」

「なんだその発音」

「だいじだからってゆーかぁ、ねー、だからおれもききたくてえ」

「本当に飲ませすぎたなこれ」

「榎さぁん、今幸せっすかあ?」

 

 当然ながら、今の花垣は全くなにも深いことなど考えていない。彼は純丘の現在の職業すら知らない。

 純丘は唾を飲み込んだ。

 

「おれはねー、めちゃくちゃ幸せなんすよぉー!」

 

 答えを待つそぶりもなく、花垣は機嫌よく、声高らかに言った。

 

「フリーターじゃなくなったしい、ヒナも一緒だしぃ、東卍(トーマン)のダチもっぱいできたしぃ、そりゃいろいろあったけどぉ、ドラケンくんも場地くんも大寿くんもエマちゃんも死んでねえしぃ、千冬も生きてるし、なによりヒナ生きてるし! 楽しく生きててえ! ビョーキとかもまァ俺はねえしい、榎さんはぁ、だって最後に会ったときあんなんだったからあ、俺すげぇ心配でー。榎さん、元気っすかあ? 体調だいじょーぶそーっすか? いま、幸せすっか?」

 

 おでんの屋台は奥まった場所にあるので、あまり人気はなかった。

 彼らが今歩いている路地も、人の気配はほとんどない。静まり返った半住宅街、時々貨物列車の音——終電はつい先程過ぎ去った——あたりはそのような雰囲気である。

 

「……花垣くん、君は、」

「なんすかー?」

 

 純丘は尋ねる前に一拍置いた。

 

「人生をやり直したいと思ったことは、あるか?」

「えー、めっちゃありますよぉ! てかもうこれ言っていっかな〜」

「なんだ」

「いっかーどうせ榎さん信じそうにねえしぃ。あんねー、俺、タイムリープできるんすよー」

 

 純丘は歩みを止めない。

 花垣に肩を貸したまま、アスファルトを踏みしめる。

 

 彼は口を開いた。

 

「へえ」

「あー、信じてねえっすねー」

 

 端的な相槌をなじる花垣。

 

「信じてるよ。信じるよ」

 

 純丘は重ねて言った。

 

「まァ榎さんは信じねえと思ってたからいっかー」

 

 花垣は全く本気にしなかった。千鳥足の二十六歳、ついでにうっかり自分の足を引っ掛けて転びかける。

 純丘は花垣を支える腕に少し強めに力を込めて、体勢を立て直させた。

 

「あのっすねー、俺最初だめっだめでー、中卒のフリーターだったしー、てかなんなら東卍(トーマン)にも入れなくってー、中学時代はー、キヨマサくんって野郎の奴隷みたいなもんでー」

「キヨマサ……喧嘩賭博の主催、だったかな」

「ああそれー、知ってんすねー!」

 

 純丘は言いながら、自らも、己の記憶を振り返った。

 

 夏の昼下がり、竜胆の気まぐれにより、引きずられていった公園。純丘が花垣武道を初めて目撃したのは、あのときだった。

 へっぴり腰の少年は、拳も声も震わせながら、東京卍會参番隊のキヨマサに喧嘩を売っていた。

 

「最初とかそれこそもう十年以上前だしい、上手く思い出せねえんすけどー、あんときボッコボコにされて心折れちゃってー、ヒナとも自然消滅? みたいなー、死亡事故みて思い出したぐらいでー」

「死亡事故……」

 

 小さな復唱。

 

東卍(トーマン)の抗争に巻き込まれてー、そのときだと東卍(トーマン)ってマジマジの暴力団でー、今の天竺みたいだけどそれよりやべー洒落になんねー感じのー。俺そのあと電車に轢かれてたぶん死んじゃったんすけどー、あれってけっきょく稀咲のせいだったんかなー」

「……鉄太か」

「そいや榎さんも稀咲だったっけー、うんそう、稀咲鉄太ー、あいつ最初は東卍(トーマン)のナンバーツーみたいなやつでー、ああんで、電車に轢かれたらなんか中坊ン頃に戻っててー、てかこの説明何回してもみんな下手くそって言うんすよね、うるせえってのー!」

「聞いている限り説明は本当に下手だろ」

「榎さんまでンなこと言うー!」

 

 純丘は努めてなんでもないような口調と、声色を、心がけた。

 彼のてのひらには真冬の乾燥の只中でも冷や汗が滲んでいる。

 

 花垣を支えていて暑い、などという理由ではない。

 

「めっちゃやり直したんすよー、二回目はやっぱヒナは死んじゃったんすけどー、直人が生き残って警察ンなってくれたからー、直人からいろいろ聞いてー、愛美愛主(メビウス)との抗争はでも止めらんくてー、ドラケンくん助けてー、場地くん助けてー、ああそう場地くんも榎さん助けてくれてー!」

「そう、君だけが孤軍奮闘しているのであれば、情報の出所に説明がつかないと思ったんだ」

 

 彼はごく小声でつぶやいた。横で上機嫌な花垣に聞こえないように。

 

「君はそういう情報収集は不得手に見えたから……」

「大寿くんが刺されねえようにしてー、エマちゃん助けて、榎さんもギリギリ助けられてー」

 

 花垣は今の純丘の声は聞き取れなかったので、話しながら指折り数えている。

 

「未来は未来でヤバくてー、ドラケンくんは刑務所(ムショ)入ってたりー、俺稀咲に何度も殺されかけてー、ヒナも助けられたと思ったら死んじゃってー、俺が暴力団になってヒナ殺しちゃってることもあってー、もーあんときマジでしんどくてー! あとなんか稀咲とか黒龍(ブラックドラゴン)の初代の人とかにタイムリープがバレたときもあってえ、みんなタイムリープしてェからって俺殺されかけてー」

「……大変そうだな」

「ンっとに大変だったんすよー!」

 

 花垣は力強く首肯した。

 

「まーいいんすけどー、俺今生きてるしー、幸せだしー、ヒナ生きてるしー、結婚するしー、聞いてくださいよ俺たち結婚するんすよー!?」

「これで七回目だな。おめでとう」

「いまだに実感ねえー!」

 

 高頻度の惚気も、生死まで賭けた苦労が背景にあったと知れれば、ちょっとは許せる。

 かもしれない。

 

「あーんで、なんだっけえ、そう、タイムリープの能力ってねえ、誰かに譲れるっぽいんすよー! 前のタイムリーパーを殺しても能力とれるらしいんすけどー、だから俺殺されかけたんすけどー、てか殺さねえでくださいよ!?」

「……殺さないよ。君のことは」

 

 純丘は小さくつぶやいた。

 

「俺はそこまで、振り切れなかった。あまりに中途半端だ」

「ならよかったー! まー榎さんそもそも信じてなさそーだけど!」

 

 花垣は呑気に笑っている。純丘の言葉に含まれたニュアンスなど、気にも留めていない。

 

 酔わせた身でなんだけど本当に大丈夫かな、純丘はちょっと思った。

 

「てことでー、おまじないでーす!」

 

 酔っ払いは声高らかに謳った。

 肩を組んでいない方の手、自由な右手をふらふらと揺らして、純丘の左手を掴んだ。

 

「握手しにくー」

「……新手のセクハラか?」

「だぁかぁらぁ、おまじないっすよー。俺ねー、榎さんには感謝してんのとー、すっげー申し訳なくってー」

「……さっきも言ったが、俺は、君には助けられた側だぞ」

「稀咲のやらかしの後片付けまで任せちゃったじゃねえっすかー」

「身内の不始末だ。むしろ俺は、君らを巻き込んでしまった側だった」

「はァ〜? 榎さん甘いこと言わないでくださいよー、あんなんフツーに稀咲が悪ィっすからねえ!」

 

 花垣は握手を試みたまま器用に怒った。「知らん知らん、そうか」純丘は適当にあしらった。

 

「……とりあえず、握手したいのか? 少し手を空けよう」

 

 道の端に移動する。支える腕を慎重に抜いた瞬間、花垣がふらついたので、電柱に寄り掛からせる。

 

「本当に飲ませすぎたな……」

「はいでー、握手!」

 

 純丘のぼやきは、泥酔状態の花垣の耳には入らなかったようだ。

 彼は右手同士を握り合わせ、腕を大きく上下に振った。だいぶ乱雑な振り方だった。

 

「痛い痛い」

 

 乱雑すぎて純丘の肩関節がちょっと軋んだ。

 

「俺ねー、タイムリープするとき、いっつも直人と握手してたんすよー。なんで握手なんかはぜんぜんわかんねーけどー」

「ああ、へえ……」

「俺はタイムリープの能力どっから生えてきたのかわかんねーけどぉ、なんかマイキーのお兄さんがタイムリープできたらしくってえ」

「……そのようだな」

 

 握手がほどかれる。

 

 純丘は解放された手を開閉しつつ、自らの右肩を肩を摩った。酔っ払いは力加減も馬鹿になるので、花垣の握手はけっこう大打撃だった。

 

「譲れるらしいんでー、譲ったげよっかなってー」

 

 へべれけ花垣はへらへらと言った。呂律がだいぶ怪しい上にありとあらゆる軽々しさが隠せない発言だ。

 

「榎さん、たぶん、なんかやり直したいことあるんしょー?」

 

 純丘は、眼鏡のレンズ越しに、花垣をじっと見た。

 

「……貰っていいのか? 俺が?」

「えー。ぶっちゃけ譲れてっかどうかもわかんねーんすけどぉ」

「まあ、俺としても実感は全くない」

「でもー、俺はもうじゅーぶん幸せなんでえ、でも榎さんはなんか正味あんま元気なさそうなんでー」

「慰めのノリで渡すもんじゃないだろ」

「さぁすがに稀咲とかに渡すのはだいぶ無理ッスけどー、榎さんなら悪用しなそーっしょー?」

 

 沈黙が数秒。

 純丘は嘆息した。

 

「……タクシー呼ぶか」

「えー俺歩けますよぉ!」

「酔っ払いは皆そう言う。スマホ借りるぞ」

 

 純丘は花垣の上着からスマホを抜き取り(先程肩を貸している間に、硬質なディスプレイの感触を感じていたので、場所はすぐにわかった)電源を入れた。タクシー会社の電番を入力したのち、端的に説明する。住所は花垣が寄りかかっている電柱に書いてあった。

 渋谷区内は比較的発達した街だ。そう時間もかからず、タクシーは現れた。

 

 電源が入った瞬間から通知欄に立て続けに並んでいくLINEのポップアップを、すべて無視して、再度スマホの電源を切る。花垣の上着、元の位置に入れ直す。

 一万円札を渡して「お釣りは要りません。ご迷惑であれば、残りはこの人のポケットに入れておいてください」と伝えた。

 

「じゃ、気をつけて。……車内で吐くなよ」

「また飲みましょーねー」

「君は今度お酒を飲むときはちゃんと水を挟んでください」

 

 純丘は、タクシーとは逆方向に歩き出した。タクシーの排気音が遠ざかり、角を曲がって、純丘の耳にも聞こえなくなった。

 

 不意に彼は立ち止まった。

 天を仰ぐ。

 

 万作が入院する病院——鶴蝶と、直人と向かい合った時間帯は、空はびっくりするほど青く、どこまでも突き抜けるのではないかと思わせた。

 

 べつにそんなわけはない。地球の外側には宇宙が広がっていて、闇の中に星々が浮かんでいる。たとえば今の夜空のように。

 渋谷は立派な大都会であるため、本来の夜空はもっと暗く沈んでいて、星の光も無数に観測できるだろう。

 

 今は、純丘の目では、オリオン座ぐらいしか観測できない。

 

「……あー」

 

 純丘は小さく呻いた。

 

 ——こんなに、上手く、いくとは。

 

 右のてのひらを軽く開いて、夜空を透かすように、天へ伸ばす。

 果たして、この手にタイムリープの能力とやらは、宿ったのか。純丘には全く実感がない。なんなら花垣もいまいち方法を知らないのだろう。

 

 検証するすべはひとつしかない。

 

 右のてのひらを、五本の指すべてを、握り込む。固く、拳のように。

 そうしてコートのポケットに戻した。

 

「……彼らには悪いことをしたな……」

 

 純丘は独り言ちた。そして歩き出した。

 

 誰もいない夜道を、たったひとりで。




ブン殴られた
:贖いの結末「機械仕掛けに神は不在」より

蛍の光
:スコットランドの民謡を原曲としていると最近知った

十二年前の千冬
:6巻45話

だいぶどうしようもねえ奴
:一度目(花垣武道にとっては)

君らに出くわしたのが初めて
:武藤泰宏が先なのでめちゃくちゃ嘘

知り合いの稼業の手伝い
:嘘ではないがほぼ嘘

あんときのアンタの話
:無配Web掲載のところに収録済の「ここが噂の懺悔室!」に詳細があります

泥酔
:やめたほうがいい

オリオン座
:一等星が二つ、二等星が五つあるので都会の空でもやたら目立つ
 一月深夜の東京だとやや西に傾いてるぐらい
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