【完結】罪状記録   作:初弦

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これは彼らの罪状記録

「ここの和尚がイザナに弱味握られてっからいろいろ融通してくれんだよな〜」

「どうして弱味握られてることまで俺に話したんだ? 余計なことなんざ知りたくもない」

「つまり余計なこと教えりゃフクブの弱味になるってこったな」

「懐かしいなこの感じ。やめろ。本当にやめろ。冗談じゃなくやめろ」

 

 先導は鶴蝶、解説は黒川イザナ、なんとも豪華な布陣で日向と花垣は案内されていった。

 純丘は、辞退した。

 

「てかオマエは墓までついてかなくていいワケ」

「今回、俺はあくまでも付き添いだ。旅のガイド、通訳」

「弁護士って副業アリなん」

「一応」

 

 純丘は彼らを待つがてら、寺院内に作られた小さな四阿に腰を落ち着けた。

 その場には灰谷兄弟も残って、どこからともなく取り出したチープなスナック菓子をつまんでいる。

 

「積もる話をしたい奴らの脇に部外者がいても困るだろ」

「ふーん。……冷静じゃん、やっぱわかってたな?」

 

 確認を取るように蘭が顔を覗き込む。

 

「死んでいるか、それに準じた姿だろうとは思っていた」

 

 純丘は単調に述べた。

 

「万次郎は、他人には無関心だが、たいそう身内贔屓なたちだった。俺が知るあの子なら、東京卍會の面々を傷つけた時点でまず耐えられなかっただろう。タケミッチくんを、それも何度も殺しかけたというなら、尚更」

「あの子」

「無敵のマイキーがあの子」

「……蘭ちゃんりんちゃんとでも呼んでやろうか?」

「アさーせんっす」

 

 万次郎が寺野を殺すさまは、容易に想像がついた——その姿は、二〇〇五年のハロウィンの延長線上にある。

 花垣を殴り殺しかけたこと自体も、純丘としては、実は意外ではない。

 

 後悔が先に立たないように、取り返しがつかないものを手遅れと呼ぶ。

 

「しいて言うなら、墓を建てていたのは意外だった。ヒンドゥー教は水葬が主流だろうに」

「ああそりゃイザナが。ノリだってよ」

「……。へー」

「信じてねえ声」

「ハハハ」

 

 全く心をこめずに純丘は笑った。

 その肩に肘をかけ、竜胆はふたたび、遠慮なく体重をこめた。「重い」抗議の声は聞き流された。

 

「どうしてアラサーになっても君たちは成長してないんだ……」

「多くの人々が置き忘れてくる少年の心をいつまでも忘れてねえんだよ」

「すまん、なんて?」

 

 灰谷蘭、自他称問わずカリスマな男。度々なにを言っているのかよくわからない有様もやはり健在。

 

「兄貴がこうなんだから必然的に俺も引きずられてこうなる」

「ナチュラルに全責任が蘭にかかったな」

「弟ってのは兄貴の権利であり義務であり付属物で所有物だからな」

「家庭内暴力はインドでも問題視されているわけだが……」

「え? あれって人権あるやつに適用される法だよな?」

 

 蘭の澄んだ目に純丘と竜胆は顔を見合わせた。弟であろうと犯罪者であろうと人権はあるはずだが、灰谷蘭の配下は限定的治外法権なのかもしれない。

 もちろんそんなわけはない。正気に返りましょう。

 

 本当に久方ぶりの再会であまりにもいつも通り。

 

「……元気でやってるようで、なにより」

 

 一頻り話を弾ませた(?)のち——純丘はぽつりとつぶやいた。押し付けられたスナック菓子は、食べるでもなく指先に挟んだままだ。

 元副部長をしばらく眺めて、竜胆が口を開く。

 

「オマエさァ」

「うん?」

「なんでいなくなったわけ?」

「……君らはわかってそうなもんだが」

「俺らの想像はフクブの答えじゃねえだろ」

 

 口調は乱暴だが、素直に思ったことを尋ねているようだった。

 

 三十路も超えて、未だに犯罪に片足突っ込んでいる人間が、果たして真実ここまで素直なものだろうか——純丘は一瞬思った。

 すぐに思考を放り投げた。そも、今更純丘を騙したところでなんの意味がある。

 

「君らの所業には見て見ぬふりできてたのにな」

「上からかァ? 見て見ぬふりさせてやってたんだろ」

「それもそうだ」

 

 目を閉じた純丘が、四阿の小さな椅子に深く腰掛け直す。

 

 蘇る日々は懐かしく、手が届くようでいて、もはや遠い過去だ。

 言うほど細部までは覚えてもいない。十年以上も前のことを鮮明に覚えている方が稀である。

 

「……俺は身内贔屓なのだか、血縁嫌いなのだか、どちらなんだろうな」

「どっちもだろ」

「そうかな」

「そうだろ」

 

 七月のインドは雨季であり、ブッダガヤは蒸し暑く、空は曇り始めていた。景色全体にうっすらと灰色がかり、日差しが遮られる。

 四阿の下、テーブルの周りに、三人はなにをするでもなく佇んでいた。蘭がスナック菓子をひとつ口の中に放り込む。

 

「そんでフクブがいつも一番許さねえのは、テメエのことだ」

「……俺はけっこう自分に甘いたちだがね」

「ハハ、そーお? そう思い込んでればいんじゃね?」

「東京から逃げ出したのだって、嫌な自分を直視したくなかったからでしかない」

「そうは言うけどオマエ、俺らが本気でやらかしたらどうせ、見なかったふりはできねえくせに」

 

 片目を薄く開けて純丘は発言者を見た。蘭は気取るように肩をすくめて「だろ?」と、小首をかしげた。

 

「……実際、立ち会わなきゃわからんよ」

 

 ぽつ、ぽつ、と音がする。雨がまばらに降り始めたかと思えば、やがて大粒が間断なくあたりを埋め尽くし、地面はすぐに水たまりに覆われた。四阿の簡素な屋根が奇妙な音を立て始める。

 

 インドの雨季名物。スコールが降り注ぐ。

 

「これはどっちにしろしばらく動けないな」

 

 跳ね返った雨水が足元をも濡らす。

 四阿の端の方を陣取っていた蘭が(雨に濡れるのを厭ったのだろうか)大股で歩み寄ったかと思えば、テーブルに腰掛けた。テーブルは腰掛けるところではない。

 

「黒川くんたちは傘を持ってるのか? タケミッチくんにも橘ちゃんにも、折り畳みは持つようにと言っておいたんだが」

「ママかよ」

「ガイドだな」

「鶴蝶が気ィ利かせてたらワンチャン……?」

「……五分五分だな」

 

 鶴蝶はイザナに忠実だが、気が利くかどうかでいうと若干怪しい。空気を読むのは下手な方だ。

 

「菓子がシケそー。早く食い切ろうぜ」

 

 降りしきる大雨の中、墓参り組は戻ってきた。

 

 花垣と日向が可愛らしい花柄の折り畳み傘の中に身を寄せ合い、三途は一人で年季の入った傘をさしていて、鶴蝶がほぼずぶぬれでイザナに紺色の折り畳み傘をさしかけている……どう考えても予定になかった墓参りをねじ込んできたあたり、自前の傘は用意していなかったのはまあわかるとして。

 さて、純丘の記憶が正しければ花垣の私物たる折り畳み傘を、天竺主従が差しているのは、見かねたカップル(未満)が気を利かせたのか口八丁手八丁で奪い取ったのか。真実はどちらなりや。

 

「そしてここで俺の手元にバスタオルが三枚ほど」

「用意良すぎてヒく」

「いつも心配性で準備万端ってわけじゃなくてなんかピンポイントなんだよな。こえーよ」

「……」

「しまわないでくださいしまわないでください、お借りしたいっす。てかヒナがここ来るまでにくしゃみめっちゃしてて冷えさせたくな、」

「タケミチくん! そういうところ!」

「エなんで今俺怒られたの!?」

 

 気恥ずかしさとたぶん普通にデリカシーかな、と口にするといよいよデリカシーがないので純丘は沈黙に留めた。カップルに茶々入れられる立場でも状況でもない。

 

「ドブ野郎」

「だから俺は花垣武道だって……」

「テメエの提案だが、やめとく」

 

 どうやら純丘の予測通り、墓前では積もる話が行われていたようだ。

 そして今は、その続きが行われていた。

 

 三途の色素のうすい瞳が花垣を無機質に眺めている。

 

「やっぱ信用なんねえっすか?」

「そりゃテメエのことは一ミリも信用してねえけどそこじゃねえ」

「一ミリも」

「雑魚に信用を置く方が馬鹿だろ」

 

 背後でイザナがこっそり頷いている。イザナは(雑魚)は好きではないので。

 更に背後ではなぜか天竺幹部が揃いも揃ってちょっと得意げな顔をしている。(雑魚)を好まないイザナに取り立てられたということは、実力を認められているわけなので。

 

 すべてを目視できる位置にいた純丘、思わず半眼になった。

 

「雑魚に信用を置く方が馬鹿だ。俺みたいな、武器を持たなきゃ強くもなれなかったやつに信用を置いた奴らも……」

 

 三途の言葉は先細り、今現在スコールが降り注いでいることもあって、途中からは、場にそろっている面子もほとんど聞き取れなかった。

 やがて彼は首を横に振った。

 

「痛い目見てまで生かしたマイキーはけっきょく、二十歳にもならずに死んだ。だから俺は……もう、いい」

 

 純丘は口を挟まず、成り行きを見ていた。

 二人の会話が終結したことを察して口を開く。

 

「ところでそろそろ飯でも食べに行きたいんだが。おすすめはないか」

「うちのレストラン使うか? 安くなる」

「……お言葉に甘えたいところだが。……慈善団体なんだよな? なぜレストランが管轄なのかとかは聞いて問題ないやつか?」

「飲食だとフツーに恩売ってっから合法なはず、だよなイザナ?」

「たぶん」

「……。おすすめの店だけ教えてくれ」

「信用ねえなマジで」

 

 いくつかの候補を聞いて、その中から採択した。

 天竺組は予定があるらしく、そこで別れた。三途も午後からは仕事なのだとか。

 

 インドカレーを(観光客用に、マイルドな味付けで)嗜める店では、日本育ちの三人でも美味しく味わうことができた。

 ただ、花垣は食事中常にどこか上の空で、日向もどこか慮るように花垣の様子を窺っていて、純丘は彼らの間に横たわる奇妙な空気に勘づいていた。

 

「……」

 

 墓前で彼らがなにを話したのだか、もちろん、純丘には知る由もない。断片的にわかるのは事前情報と、三途が述べた言葉——花垣へのアンサーであるらしい、つまり、前段階には問いがある。

 

 その内容がなんであるか。彼がなにに引っかかっているのか。純丘がその内情を勝手に推察するのは、あまりにも傲慢で、無遠慮なふるまいだ。

 ただでさえ天竺(この場合、日本の横浜の一角で生まれた不良たちのチームではなく、仏陀の聖地を指す)にまで足を運ぶという暴挙をかましている。これ以上踏み込んでいいようなものではない。

 

「榎さんって、人生やり直したいって思ったことあります?」

 

 ……先方から話を振られぬ限りは。

 

「……やり直……?」

「あーっえーと、時間が巻き戻って、失敗したその日をもう一度やり直せたら、って思ったことありますか」

 

 それは。

 

「……それは、もちろん、あるよ」

 

 純丘は——もちろん——思ったことがある。

 

 もしもの世界、存在しないif、たとえば大嫌いになってしまった血縁ともっと上手くやれていたら。たとえば鉄太の計画に早くから気づけていたら。

 たとえばかつて、真一郎に止められることなく、家族を全員殺せていたとしたら。

 

 たとえば二〇〇三年の八月半ばに、真一郎の店を訪ねていたら。

 

「榎さんでもそこってもちろんなんすね」

「俺をなんだと思って……」

「ヤ、失敗とか全然しなそうじゃねっすか。完璧超人みたいな」

「高く評価されてること自体はありがたいがな、本当になんだと思って」

 

 純丘はその声色に多分に呆れをこめた。

 

「なんかそんなかんじじゃねーっすかぁ?」

 

 へらへらと笑いながら、花垣はちょっと頭が左右に振れている。酒を入れたせいかもしれなかった。

 

 日向がいることも加味して(悲しいことに、観光客でも特に日本人はカモに見られがちで、女性はなおさら、なめられやすい)純丘は、宿泊先のホテルはそれなりに良いグレードのものを選んでいた。

 経緯はともかく海外旅行だ、バーにでも行くかと道中でホテルのロビーを通り過ぎようとしたころ、花垣が所在なさげにソファに座って遠くを眺めていた。

 黄昏れているだけにしては様子がおかしかったので、回収して、ほとんど強制的にバーに連行したかたちである。

 

 酔わせればなにか言うかと思ったが——核心は吐かないかもな、これは。

 

 嘆息して、純丘もまたカクテルをちみと舐めた。程よい苦み、塩がいいアクセントを醸し出す。

 

「……いろいろと失敗してきたし、間違えてきたよ」

 

 些細な選択は日常に山ほど潜んでおり、それらが数多に切り捨てられ、択一の結論を選び取られて、今が構築されていく。保留という選択肢もある種の選択であり、結論だ。

 

 純丘はもちろん、多くの人がそうであるように、そのとき最善の選択肢を選んできたつもりだ。

 しかし振り返ってみれば、当然、その瞬間における〝最善〟が正しく最善であったとは限らない。

 

「今の俺ならもっと上手くやれる、と、思うことはある。やり直せるものならやり直したい」

「マジで榎さんでもそう思うんすね!?」

「ほんとに俺をなんだと思ってる?」

「なんか努力があって今がある的な〜? 過去を否定したら意味ねェ的な〜? そもそもやり直せたらとか考えるのは否定しないけど俺は無意味だと思う的な〜? 真面目でしっかりしてるし」

「真面目でしっかりってそういう意味だったかな」

 

 普段は花垣にしては気を遣っていた方らしい。皮肉と感心の紙一重の境、そんな言葉ばかりが飛び出してくる。

 純丘が怒ることはない。灰谷兄弟を筆頭とした面々の方がよほど純丘に対して辛辣だ。

 

「……苦痛も苦労も、好んでそれを選択するならともかく、ましてや必要もないのに味わう義務はないだろ」

「……そっすね?」

「まとめると、俺は楽な道を選べるなら選びたいという話ですね」

 

 明らかに伝わってなかったので、純丘は言葉を選び直した。

 

「ナルホド」

 

 ぴんときてない花垣にかみ砕いて説明すれば、得心した顔で彼は頷いた。

 

「なら……失敗したーと思ったときって、どうしてます?」

「ずいぶん抽象的だな」

「ふわっと答えてくれりゃいいんで」

「……さっきの話と関係あるのか?」

「まーそっすね。俺けっこーやり直したいこといっぱいあるんすけど、今。だいぶん失敗してきちゃったんで」

 

 軽やかな質問に、純丘はしばし目線を上げ、思考を巡らせる。

 

 この問いが、果たしてなにを示唆しているのか。

 万次郎を探していたこと(そして、彼が死んでいたこと)、鉄太の実験に協力していること、あともしかしたらかつての抗争、このうちのどれかか、もしかしたらすべてが関係しているのかもしれない。

 

 が、どちらにせよ、純丘が把握している限り、今の科学技術では人間の時間遡行は実現し得ない。

 

「……やれることをやるしかないんじゃないか。月並みな表現だが」

「やれることをやる……」

「失敗をどれだけ挽回できるか。次に同じ失敗を繰り返さないためになにをするべきか、なにをやれるか。自分にやれることをやるしかない」

「フツーっすね」

「なにを期待していた?」

 

 素直な感想を漏らした花垣。ひとにらみされて「サーセン!」彼は首をすくめた。

 

「ったく……」

 

 純丘は花垣の肩を少し小突いて「……俺の場合しいて言うなら、」と、言葉を続けた。

 

「失敗の挽回に走るときは、どこまでできるか、はあまり考えないようにしている」

「へー。そのへんめちゃめちゃ練ってそうなのに」

「その傾向は否定はしないが、俺は案外ネガティブなたちでな。限りなく悲観的な可能性を加味した上で行動する方なんだ」

 

 用意がいいと言われやすいのはこういうところだろう。

 シニカルとまではいかないものの、性善説を信じるような人間ではない。

 

「ただ、それで咄嗟のタイミングや、失敗直後にそれで動けないのは致命的だろう。後悔はなにもかも終わったときにどうせ行うのだから」

「……そうすね」

 

 くいとカクテルを呷って、花垣を横目に見た。

 先ほど頼んだチェイサーの水面を花垣は見つめている。正直カクテルやバーが全く似合わない男である。

 

「そうっすよね」

 

 彼はもう一度つぶやいた。

 

「……よく知らんが。……ヒントにはなったか?」

「ざっす! めっちゃ参考になりました!」

「そうかな?」

「やっぱ覚悟って必要っすよね!」

「さては酔ってるな?」

 

 花垣は今度はやけに上機嫌になって、カクテルをパカパカと呑んだので(カクテルってそんな勢いで飲むもんじゃないだろ……と言うには些か遅すぎた)純丘は彼を部屋まで背負って歩くことになった。成人男性は重いよ。

 

「榎さんはそういうことしないって信じてたのに……」

「ちがうちがうアルハラじゃない加減を間違えたのは彼たしかに止めなかったのは俺かもしれないがいやでも」

「そんなに焦ります?」

 

 花垣の部屋の前では、ちょうど自室から出てきた日向——ロビー脇の購買で買い物をしたくなったようだ——と、鉢合わせた。

 純丘としては確かにアルハラまでは飲ませてないが、本心を吐かせることは企んでいたので、半分図星を突かれて焦ったのはある。

 

 そしてもうひとつ。

 

「君……なんか、俺が的確に負い目を感じる言葉をわかってるよな?」

「タケミチくんと榎さんとインドに行く話をしたら、堤さんとエマちゃんがいくつか」

「よ、よりにもよって」

 

 へべれけの花垣のポケットからカードキーを探り当てて、部屋に運び込み、水を飲ませたのちベッドに放り込む。ここまでしめて十五分。

 

「なんだか、手慣れてますよね……」

「人聞きの悪い……」

 

 カードキーを室内に置いてぱたんと扉を閉めた純丘に、今度はちょうど購買から戻ってきた日向が鉢合わせた。

 

「……ありがとうございます」

「なにか?」

「タケミチくんのこと。……私のことも」

 

 自らの部屋のカードキーを指先で挟んで、嘆息して、純丘は廊下の壁に寄りかかった。

 普通ならば邪魔きわまりないが、時期が時期なのでそもそもこのホテル自体に宿泊客がほとんどいない。

 

「俺は案内しただけだ」

「探し当てて、インドまでついてきてくれて、タケミチくんの話も聞いてくれて、だけですか?」

「……解決になるとは限らない。あまり過大評価するものじゃねえよ」

 

 純丘は元来謙遜しがちな方だが、それにしても、今日の彼の態度は頑なだった。

 

「それに……俺のこれは、ある種の恩返しで、罪滅ぼしだ」

「つみほろぼし」

「君だって言ったじゃないか——全部〝そういうこと〟にした、だろ?」

「あれは——」

 

 数ヶ月前の発言を引き合いに出されて、日向は息を飲んだ。ややあって、首を横に振る。

 

「ごめんなさい、たしかに当時はちょっと怒ったけど、怒ってたけど、でも榎さんのせいだなんて思ってないんです」

「うん。知ってる」

 

 純丘は短く頷いた。意趣返しのつもりではなく、ただ、彼にとっては本当に痛いところを突かれただけだった。

 

「俺が自戒してるだけで」

「というか——」

 

 日向はなにかを躊躇うように唇を丸めて、それから純丘を真っ直ぐに見つめた。

 

「榎さん。タイムリープって、わかりますか」

「……鉄太が研究しているような?」

「それとは、似ていて、でも違います」

 

 彼女はやんわりと首を振る。

 

「過去に戻れる能力。戻って、もう一度やり直せる能力のことです。どっちかっていうと、超能力とか、SFみたいな……」

 

 どことなくつたなく、慎重な物言いに、純丘は無言で目を瞬かせた。

 

「タイムリープで過去を変えるまで、私が何度も殺されてたって聞いたら、榎さんは……信じますか?」

「……」

「過去を変えられるまで。地続きの未来と、今が変わるまで。東京卍會が本当の犯罪集団になってしまうまで」

 

 ずいぶんと突拍子もないことを言われたと、純丘ははじめは思った。

 

 あまりに荒唐無稽で、しかし、日向はきわめて真剣な顔つきをしていた。彼女の目は真っ直ぐに、逸らされることなく、純丘を見つめていた。

 

「だから、榎さんのせいじゃないんです。本当に」

 

 日向は5Gをおそれて頭にアルミホイルを巻くタイプではなく、ワクチン接種でマイクロチップが注入されると怯えるタイプでもない。夢見がちな方でこそあれど、地に足つけて歩くひとだ。

 彼女に全くそぐわない言葉だった。

 

「……俺はそういうものを根拠もなく信じられるような人間じゃあない」

「……ですよね、」

「だから君がいいと思うなら、できれば、その話を聞かせてほしい。根拠になるかもしれない」

 

 今度は、日向が目を丸くする方だった。

 純丘は苦笑した。

 

「俺の苗字が稀咲だと、当時タケミッチくんに言ったのは、橘ちゃんじゃなかったんだよな……」

「……それはだって、私、タケミチくんと榎さんが知り合いだなんて映画館で鉢合わせるまで知りませんでしたもん」

「そうだろうとも」

 

 純丘はなにも知らない。

 

 東京卍會の騒動はほとんどが蚊帳の外で、部外者だった。死にかけるに至ってようやく介入したが、そのあとは、東京から逃げるように出て行った。

 だから、ここ十数年の変化もなにも知らなかった。旧知が死んでいたことすらも。

 オカルトやファンタジーなんぞを理由もなく信じる人間ではない。現実的ではなく、妥当性がなく、ありえない。根拠があるならさておき、根拠がない話など妄言とそう変わりがない。

 

 同時に、たとえば純丘は、いくつかのことを知っていた。

 

 花垣は、偶然にも純丘と稀咲に関わりがあると勘づいていながら、純丘の苗字が稀咲だとは知らなかった。ハロウィンには場地の命を助けようと必死に足掻いて、結論として純丘が偶然間に合った。十余年にして十四年前のクリスマスイヴには、純丘は間接的に、偶然にも、花垣に命を助けられた。

 

 偶然だが——すべてが、必ずしも偶然ではなかったとしたら?

 

〝榎さん、十二月の二十四日らへんは渋谷に絶対近づかないでください〟

 

 ——まるで知ったように。

 ——そして、本当に知っていたのではないか?

 

 遠回りを繰り返し、正しくもない主人公は、ここでようやく答えに辿り着く。

 真実に辿り着いた()は、数ある分岐で最も遅く、そして——実のところ、今までで最も早い。

 

 

  これは彼らの罪状記録

 

 

 橘日向が、花垣武道の旅路についての話を聞いたのは、決戦の直前のことだった。

 この物語において、花垣が日向にタイムリープについて、決定的な言葉を吐くことは、そのときまでなかった。しかし、花垣がなにかを隠していることに、日向は薄々気づいていた。

 

 薄々、気づいていた以上のもの——彼の軌跡、彼らの軌跡、もはやない未来、起こるはずだった過去、その果てのすべて。

 決してかんたんには語り尽くせぬ話だ。どれだけ説明が上手な人間であろうとも、花垣が今まで辿ってきた物語の仔細すべてを、たった数時間に押し込めることは不可能だっただろう。

 

 言葉は多くの枝葉を取りこぼし、あまねくものひとつ残らず伝えることはできやしない。全く同じ経験をしようとも、そこにある感情は決して同一にはなり得ない。

 花垣をどれだけ理解したいと願っても、日向もまたそれは同じこと。どれだけ頭が良いと評価されようと、純丘もまた同じこと。

 

 伝わらないぶん、人は、その空白に思いを馳せる。

 物語の、しかし現実のはざまにあるものを考える。

 

 考えて、すこしでもより近いところまで、理解しようとする。

 

 話を聞いた純丘もまた、考えた。すこしでも近いところへ、すこしでも多くのものを汲み取れるように、理解しようとした。

 ホテルの自室に戻り、純丘は黙々と考えながら、やがて眠りについた。

 

〝タイムリープで過去を変えるまで、私が何度も殺されてたって聞いたら、榎さんは……信じますか〟

〝やり直したいって思ったことありますか?〟

〝だから俺は……もう、いい〟

 

 夢すら見ない浅瀬の眠り。覚醒に至らない意識の端で、純丘はやはりいまだに考えていたのかもしれない。

 記憶の断片が頭の端を過り、消えていく。物語の一節を読み直して、復唱するように。

 

 なにかが気にかかっていた。

 

〝本当に過去に戻れるかどうか、そのヒントがあるかどうか、探ってるワケ〟

 

 遠くで、扉が開閉する音が響いた。

 ホテルの壁は防音で、純丘は半分ほど眠っていたから、彼の体感よりももう少し近い場所であっただろう。たとえば隣室の扉だとか。

 

〝やれることをやるしかないんじゃないか〟

〝やっぱ覚悟って必要っすよね!〟

〝今でも、マイキーを救うことを、諦めちゃねえのか〟

 

 ——跳ね起きる。

 

 時刻は未だ深夜だ。

 身支度もそこそこに部屋を飛び出し、花垣の部屋のドアノブに〝Please clean the room〟の札がかかっていることに舌打ちする。

 

 純丘が花垣を部屋に放り込んだ時はこの札はかかっていなかった。掃除を頼むということは、彼は既に、部屋にはいない。

 やはり先程の扉の開閉音は花垣が外に出た音だ。

 

 花垣が口にした内容。日向が語った長き物語。

 純丘の脳内では記憶が踊り、言葉が反響し、思考が交錯する。眠りのふちで手繰り寄せたすべてがぐるぐると渦を巻く。

 

 やり直したいと思うこと、それは単純な後悔の比喩ではなく、直球でタイムリープのことだとして。

 失敗したこと、それは二〇〇八年に起きた、関東卍會から端を発する、一連の出来事だとして。

 

 日向の話では、タイムリープにはトリガーとやらが必要らしい。

 しかし花垣に今、トリガーはいない。

 

 万次郎はとうに死んでいた。三途は、おそらく、墓参りのときに断った。日向は巻き込まない。純丘は信じないと思われたのだろう、話すら出されなかった。天竺の面々は——この事実を知っているのか、少なくとも純丘にはわからないが——純丘の理解が正しければ、信じる信じないにかかわらず、タイムリープに彼らは手を出さない。

 

 トリガーはいない。いないはずだ。

 だというのに今の花垣は、おそらく、タイムリープに挑もうとしている。

 

 そこに必要な覚悟とはなんだ。

 

 タケミッチくんの最初のタイムリープは、電車に轢かれたこと——

 

 

〝余裕がなけりゃ思考も狭まる。電車にでも飛び込まねえように見張っとけよ〟

 

 

 ——俺はまた、なにか、致命的に背中を押してしまった?

 

 

 ほとんどは勘だった。

 

 公共交通の利便性を考えて、純丘はブッダガヤではなくガヤにホテルを取っていた。走りついた駅のホーム——二〇二〇年時点、ブッダガヤにはまだ駅はないが、ガヤには線路が通っている。

 彼らが滞在しているホテルから最も近い駅は、もうそろそろ終電の時間だった。

 

「タケミッチくん」

 

 純丘の呼びかけに、ホームの端で、男は振り返る。「あー、榎さん」暢気な声を上げた。暢気なように聞こえた。

 刹那の間に分析し、直感のように悟る——全くの表層だ。

 

 呼吸を整えて——久しぶりの全力疾走だ、息を弾ませたのは何年ぶりだろう——純丘は、切り出した。

 

「君は——どこへ行こうとしてるんだ?」

「どこって、あー、そっすね、てか榎さんめっちゃ早起きすぎね?」

「過去にタイムリープしようとしているのか?」

 

 はぐらかそうとするような質問に取り合うことなく、純丘は直球に尋ねた。

 迂遠な物言いをしている余裕は、彼の心には、なかった。このホームに終電が訪れるまであと何分だったか。

 

 花垣はしぱしぱと目を瞬かせた。

 

「灰谷兄弟から聞きました? それとも武藤(ムーチョ)くんとか、イザナくんとか、実は三途くん?」

「……いや、」

 

 どうやら彼らもまた知っていたらしい。この調子だと乾や九井も把握しているのだろうか。

 

「てか榎さんそういうの信じてくれる人なんすね」

「普段はそう易々とは受け取れないんだが。当時の君はあんまりにも妙な行動しかしなかったからな」

「手首捻り上げられましたもんね。なつかしっ」

 

 軽快な口調は明らかに時間稼ぎの目的だった。会話にはどこか緊張をはらんでいた。どちらも相手の動向を窺っていた。

 一挙一動一言一句を観察するさまは、なるほど、かつて喫茶店で行われた会話を思い起こす。

 

「……トリガーとやら、俺では駄目だったのか」

「んーあのっすね、直人んときと、あとマイキーくんのときもなんですけど、タイムリープを知ってるかとか、信じてるかは関係ないっぽいんです。目的が一致しない限り——榎さんがやり直したいことって、俺のやり直したいこととは、違うでしょ。握手しても発動しなかったんで」

 

 純丘の手が花垣の手と接触したのは、いつだったか——再会したときの咳の介抱、灰谷兄弟の冗談半分の脅しから庇ったとき、酔っ払った花垣を背負ったのは数時間前——いくらでも機会はあった。純丘すら心当たりがいくつも思い浮かぶが、ろくに覚えていない。

 タイムリープなんてとんでもない超常現象が、まさか手を握るだけで発動するだなんて、誰が思う?

 

 そして発動しないとして。

 

「だとして——」

「榎さん、大丈夫っすよ! 今度こそちゃんと助けて、帰ってくるんで」

 

 花垣は励ますように声を上げてみせた。

 その声が震えているのは純丘にも明白だった。

 

「……覚悟決めても俺がビビりなのは変わんねーんスよね。ヤ知ってたけど。マジでいつもそう」

「……なあ、トリガーとやらがいないとして、それでも君がタイムリープをするとして」

 

 純丘の声もまたほんのわずかに震えた。

 

「死ぬつもりか?」

 

 花垣は答えなかった。

 沈黙こそが回答のようなものだった。

 

「やり直したとして、上手くいくとは限らない」

「そんなんは知ってますよ。場地くんも、俺が何もしなければ、ホントは死ななかったかもしれなかった……あんとき千冬にめちゃくちゃ怒られて、」

 

 それもまた、純丘にとっては、日向から断片的に聞いた話だ。

 花垣は言葉を切って、首を強く横に振った。

 

「でも後悔はなんもかんも終わったあとにするんでしょ? まだ終わってないんで」

 

 声は震えて、なんなら膝も笑って若干定まっておらず、しかし花垣の目だけは奇妙な光を保っていた。

 

「電車に飛び込んだとして、それで君が過去に戻らず、死ぬだけの可能性もあるだろ? そうなったとき、橘ちゃんがどう思うかわからないのか。ドラケンくんだって君を気にかけていた。さっき話に出た松野くんや三ツ谷くんも君のことを忘れていやしないだろう」

「俺、マイキーくんとの決戦の前に、約束したんです。ヒナと。絶対ヒナんとこに帰ってくるって。未来でも——もう過去だけど——ヒナを置いて行っちまった」

 

 矢継ぎ早に畳み掛けようとした純丘の舌鋒を、花垣のことばが遮った。

 

「ちゃんと帰らなくちゃいけない」

「ッ馬鹿を言うな」

 

 純丘はとうとう堪えきれず、あくまで諭す素振りをかなぐり捨て、強く反駁した。

 

「目の前の現実には向き合わない、そのくせ、上手くいくかもわからないことにはすべてを擲ってでも賭けるだなんて、自分で言ってて支離滅裂だと思わないのか!? 正気じゃねえよ、冷静になってくれ!」

「榎さんやっぱいっつも正しいっすね。俺もそう思う。でも——いつだって、そんな可能性に賭けるしかなかったんだ」

 

 純丘より歳下のはずの青年が、このとき、ずいぶん老成したように見えた。

 純丘の錯覚であり、真実でもあるだろう。

 

 二〇〇八年に失敗した花垣は、十二年を余分に生きている。

 十二年分の辛酸と後悔が降り積もり、それを彼は一人で抱え込んでいた。希望を探して、努めて明るく振る舞い、諦めずに足掻き、そして、ようやく事実を直視した。

 直視してしまった。

 

「俺は弱かったから」

 

 ことばは人間の意思疎通に多大なる役割を果たしながら、しかし、完全に意図したとおりに伝わることはそうはない。

 正論はときに人を追い詰め、退路を断つ。後戻りができなくなった者たちはときに死を選ぶことがある。

 

 ことばはひとを殺めることもできる。

 

 ——警笛の音が響き渡った。

 

 飛び込みかけた花垣の襟首を掴もうとして、振り払われる。

 今更ながら純丘は——あまりにも今更だった——もしかしたら花垣はタイムリープができなくてもいいのかもしれない、と、思い当たった。

 

 努力は報われない。

 一度助けたはずの場地は自らを庇って命を落とした。助けられた日向とはふたたび別れた。宿敵たる鉄太に助力を乞うて、そうまでして彼は足掻いてきた。

 救おうとした万次郎は実のところとっくのとうに死んでいた。

 

 長き物語の果て、十余年の歳月の果て、それらはきっと絶望に足る。

 

 その絶望を後押ししたのは誰だ。

 

〝でもさあ、みんな夢見てられンならそれがイチバンなんじゃなあい?〟

〝そりゃあ追い詰められてるようには見えねえだろうな、あいつはただ腹を括るだけだ〟

 

 間違った正しさはときにひとを死に至らしめる。純丘榎はそれをよく心得ていたはずだった。

 何気ない一言が一人の少年を凶行まで駆り立てた記憶は、たしかに楔となった。

 

 そのはずだったのに、

 

 すべては刹那に起きゆく。

 揉み合った末に二人は双方線路に落ちた。電車は音を立ててホームに滑り込む。

 

 ——インドで人身事故を起こした場合、賠償金の支払い額はいくらだったか、

 

 純丘の思考はそこで途切れた。

 

 

  過失致死罪




家庭内暴力
:インドでは2005年にDV法が制定されている

武器を持たなきゃ~
:26巻226話

カクテル
:強い人はパカパカ飲む
 弱い人が同じペースで飲むとつぶれる

ブッダガヤには駅はない
:2022年に初めて、ブッダガヤのチャトラ地区への駅の建設が、鉄道省に承認された
 今(2024年時点)もまだ完成はしていない
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