ここも噂の懺悔室!
すべての物語を語り終え、今度こそ結末に終止符が打たれた。今後世界が続いていくとしても、それは御大層な物語ではなく、単なるある世界の些細な日常に過ぎない。
それはそれとして。
「俺たちはめちゃくちゃ納得いってねえんすよね」
ここも噂の懺悔室!
「……悪かったよ、本当に」
「謝ってほしいわけじゃねえんすけど!」
「タケミッチ、主語はきっちりして。謝ってほしいわけじゃないのはタケミッチだけ。ウチは謝ってはほしいから」
アクリル板越しの年下二人の掛け合いに、純丘は思わず苦笑いをこぼした。
すぐさまエマに鋭くにらまれて笑みをひっこめた。
ようやくまともな刑期が決まったとき(そして爆速で撤回されたとき)初動という意味では灰谷兄弟からの手紙が最も早かったが、しかし、実際に顔を合わせての対話という意味で最も早かったのは、花垣武道と元佐野たるエマの二人だった。
龍宮寺は実子の面倒を見るために欠席。日向は臨月ゆえこちらも欠席。
遠慮した面もあるだろう。囚人との面会はそう何度も何人もすぐに許可されるものではない。
「……あのね、ウチらだってもう三十間近なわけ。とっくにガキでもなくて、なんなら自分の子供もいる。言えないことのひとつやふたつはもちろんあると思ってる。部長が特にそういうの、いろいろ気にする人だったのはちゃんと覚えてる」
嘆息して、それから、エマは淡々と述べた。
「覚えてるし、お世話んなったし、部長がいい人なのは知ってる。知ってるけどそれとこれって全部別だよねとかマジで巻き込むだけ巻き込んどいて蚊帳の外ってマジで絶対なんかおかしいよね? そう思うっしょタケミッチだって」
「いやそこまでは」
「思うよね?」
「ア、ッス……」
ギャルは強し。元であってもそこは変わらず。
花垣は肩をすくめて、それから後頭部をかいた。
「……いやまあえーっと、俺もエラそーなことは言えねえってか、ぶっちゃけわかるんすよ。未来変えるってマジで大変すよね。いやマジで」
「俺は君ほどの命の危険には晒されなかったけどな……?」
電車に轢かれるまでは一致しているが、そこからが問題だ。そこから喧嘩賭博でバットで殴り殺される瀬戸際、不良たちのリンチ、車の爆発炎上危機一髪(日向は死んだ)、万次郎を止めるための身を挺した時間稼ぎ、銃殺目前、敵対総長に殴り殺されかけ、未来では本気で命を狙われた銃撃戦、上書き前を含めるならさらに数件――本当に大概である。
俺はせいぜい一回自殺を試みたぐらいだぞ、というのが純丘の本音。
純丘は純丘で、タイムリープに本質的にはそこまで無関係なあたり、具体的にはギャングとしての生活や直人を挑発して撃たれかけた辺りは完全にノーカウントとしている。
どっちも大概だよ。
「マジで大変なのはわかるんすよ。わかるけどそれはそれとして、榎くんのことマジでよくねーなって思うっすよ、俺も」
「……ごめんな、いろいろと。行方不明だのテロ未満だの騙し打ちだの」
「そこは本当にそうなんすけどそこじゃねえ~!」
花垣が頭を抱えた。
「……そこもだけど、そこはウチらじゃなくて裁判所の偉い人とかが言うことだから」
嘆息して、エマはつぶやく。
「ウチらが怒ってんのは、勝手に話巻き取って、勝手に解決して、勝手に反省してること。……部長どうせ、まだ記憶力いいでしょ? だったら、ウチが墓参りの時なんて怒ってたかぐらい、覚えてるよね?」
いつもいつも蚊帳の外。関係者でありながら部外者で、無関係な人間。情報を渡されることはなく、遠ざけられて、守られる。
いないものとして扱われるにも近い。
墓場でようやく追い詰めたものの――半間修二が勝手に沙汰を言い渡し、天竺たちは勝手に完結し、ブラジルのギャングどももなんとなくなあなあに取り決めて、あとは司法の領域となり、すべてはやはり、手の届かぬところで進んでいった。
具体的な説明はなく、もちろんタイムリープでなにかをしでかしたぐらいは察しがついた(呪いとやらを解決したらしい。たぶん。呪いというのも正直よくわからない)が、その内情はいまだ知れない。
「巻き込むだけ巻き込んどいて、自分だけスッキリした顔してんの、マジで腹立つから。……ウチがこれ言うのもお門違いなことなんだろうなってことまで含めて」
「……」
「そういうとこだよ、あかりさんに傲慢って言われてる理由」
痛い指摘に、純丘はちょっと目を逸らした。
もちろん彼も、自覚はあった。上書きされた世界で、日向からも一部指摘されたことだ。
自らの裁量で解決してこれにて一件落着、とするのは純丘の最も得意とする行いであったが、残された人々は、勝手に渡された整理された世界を前に途方に暮れるしかない。
事情を知った上でものんきに満喫できるのは、犠牲とか心底どうでもいいと思っている反社会的人間たちぐらいである。ギャングとか。天竺とか。おおむねそのへん。
「……だとしても」
目を逸らしたまま、純丘はつぶやいた。彼にしては心底困り果てた声色だった。
いつものように、やけに年上ぶった、落ち着いたものではなく、どこか途方に暮れた幼子のようにも聞こえた。
「だとしても、俺は、君らにはなにも話せない。君らだけじゃないが」
「あのねえ」
「傲慢なのはわかってる。俺が決めることじゃなかったのもわかってる。君らが抱えた葛藤や傷やそれに向き合った時間がすべて消えてしまったことだって……それでも、許せなかった」
ギャングとして行なってきた罪は法廷を含めて洗いざらい自白したくせに、許せなかった、と吐き捨てるような未来の内訳を、エマも花垣も知らない。上書き前の世界のことを、純丘は頑なに語らない。
タイムリーパーだった純丘の他、唯一、その世界の記憶を保持しているトリガー、つまり半間は「え? よく覚えてねえ、俺そもそも日本にろくにいなかったし。あァ心中未満ブッ壊したぐらい?」とまるで参考にならないことをほざいているのでなにもわからない。新元号たる令和のことは音から字面までピタリと当てたので(ぶっちゃけ元号のネタバレは誰も求めていなかった)トリガーだったのは確かに事実なのだろうが、心中未満とはなんぞやと聞いても雑にはぐらかし、鉄太ですらそろそろ諦めている。
兄貴に忖度してるとかじゃなく本当にどうでもいいと思ってんなこいつ。
正解だ。
「……榎さん、俺が言うのもマジでなんなんですけど」
タイムリーパー、正しき主人公、花垣武道。
彼は——珍しいことに——呆れたような目で、純丘を眺めた。
「たぶんそういうことすら今まで一回も言わなかったからこっちはマジで怒ってたんですけど」
「……言わなかったっけ」
「言わなかったっすよ。ヤ俺が言えることじゃねえのももちろんそうなんですけどぉ……」
「一度も! ね!」
エマのてのひらがばんとアクリル板前のデスクを叩いた。
純丘はちょっと身を引いた。
たとえアクリル板がなくとも、せいぜい引っ掻き傷程度しかつけられやしないだろうが(そもそも純丘の方が強い)それはそれとして勢いに驚くくらいはする。人間なので。
「さっきも言ったけど! 言えないことのひとつやふたつあるのはそりゃそうでしょ、当たり前でしょ、そういうもんでしょ」
エマとてわかっている。
裁かれるべき罪に関しては、なんだかんだで世間一般的な倫理観を忘れられなかった男は、しっかりきっちり詳らかに語るだろう。そして、上書きされる前、過去と化した未来について、純丘に説明義務はない。
「でもなんにも、一ッ言言わないのはマジで違うでしょってことを! ずッ——と言ってんの!」
守るためとは聞こえがいい。判断力のない子どもとして、遠ざけて、諭すだけの立場は、純丘に染み付いたものだ。
もともと純丘はエマや花垣とも歳が離れていて、長年顔も合わせもしなかったから、認識は是正されないままだったのだろう。
しかし対等に向き合う様子が見えもしない。
「ていうかこの件に関してはマイキーもドラケンもだけど!」
「めちゃくちゃ飛び火してる」
「もちろんタケミッチもね! 自覚あるならまだ部長よりマシだけどマジでヒナちゃんはこの件キレていいから! あの子優しいから言わないけどさあ!」
「スンマセン」
勢いに圧されて花垣はシンプルに謝った。
そこはそうだねと純丘もちょっと思った。主に上書き前の諸々を含んだ感想だ。
そうだねと思ったついでに、自らの所業を振り返って、もう一度反省した。
「……ごめんな」
「謝っても許さない」
エマはキッパリ言い切って、純丘をにらんだ。
「……生きててよかったけど、許さない」
「……頑張ってくよ」
「そうして」
冷たい声音だった。純丘は顎を引いて頷くに留めた。
許さなくてもいい、許せなくてもいい、己がしたいようにしろ。かつてそう言ったのは純丘榎自身だった。
声色は冷たかったが、今後の努力については、否定もされず、ただ肯定された。
優しいよな、とでも言えば、今度こそキレられそうなので、内心はこころのうちに控えた。
「八つ当たりですら一方的に殴れる立場でもなくなっちまったしな」
「マジなんの話っすか?」
跡形もなく消えた世界の話である。
出所まで残り数ヶ月。思いの外短くなってしまった刑期に困惑しながらも、真面目に刑務に励んでいた純丘のもとに、二度目の面会があった。
なお、顔ぶれは一度目とは異なる。
「父さんと母さんの遺産、いるか?」
「要らん」
受刑者でも相続は可能である。律儀に訪ねにきた鉄太に純丘は即答した。
どうやら上書きされたこの世界でも、父母は同様の時期に死んだようだ——連絡が遅れた原因は、単に鉄太の多忙が極まっていたか、純丘の方の裁判が長引いた結果か、その相乗だろう。むしろ当人が訪ねにきたことが純丘にとっては驚きである。
「だろうな」
頷いた鉄太は、予想通りと言わんばかりだ。遺産相続の話題は単なる建前だったようで。
「それで、天竺どもが相変わらずあちこちで動いてるみてえだが。アンタの仕業か?」
「俺はむしろ駆り出されそうな側だが?」
「……なにが起きてる?」
「知るわけないだろ、こっちは檻の中だぞ、本当にあいつらなにしてんだ……」
辟易とつぶやいた兄を鉄太は無言でしばらく観察した。
謎の沈黙が場を支配して、しばし。
「……本音か?」
「俺は理由がなければ法律は守るタイプなので本当に知らない」
ブラジルではギャングの幹部として華々しく活躍した挙句、国際指名手配されていた人間の台詞とは思えない。思えないがそもそも純丘榎がそういう人間なのは事実だ。
敢えて黙秘している、どころか、まるで純丘が企てたような物言いは(もちろん、純丘の今までの行いのせいだというのは前提で)あまりに心外である。
実際、具体的なことは灰谷兄弟の手紙でも記されておらず、司法取引が成立した時点でも教えられていない——
「……まあ、推察できることはなくもないが」
——とはいえ、自称優等生、ないしは善良な一般人、そうでありながら他称が化物でほぼ統一される人間、東京卍會を巨悪に仕立て上げた怪物を不意打ちとはいえたしかに出し抜いた者、純丘榎。全くなんにもわかりませんというほどわからない、わけではない。
刑務所に放り込まれてくる人間や、断片的に耳に入る世情から、べつに法の垣根を乗り越えることもなく、いくつかの推測は可能である。
「憶測でものを語るのはよくないからな」
純丘はアクリルで隔てられた檻の中、足を組んだ。
「事実ベースで述べるなら〝本当に知らない〟の一言に尽きる」
「そんなことだろうと思った」
「本当に俺をなんだと思ってんだ」
「兄貴」
間違いなく正しいのだがどう考えても言葉に含まれている意味が異なる。含まれているというか含みがあるというか。
「……半間が爆笑してたぞ、俺も参加するのかとまで聞かれた」
「するのか?」
「しねえよ。したとして、あんたが潰すだろ」
「……いや? ものによるよ。たちの悪いことでなければ元々俺は触れもしねえ」
相対する面持ち、眼鏡の奥の瞳が意外そうにまばたきしたので、純丘はまるで奇妙に思った。収監前どころか、没交渉であったからか、案外と、弟は己のことをなにも理解していないようだ。
その点はお互い様ともいえる。
「ひどいことをしたから、その内訳が俺には到底許せなかったから、かつては叩き潰した。そうでなければ、俺が止めることは何もない」
鉄太の研究を純丘は先んじて叩き潰すことはなかった。タイムリープの能力を理解してからもだ。その研究自体はむしろ有用だったからだ。
「そもそも……おまえが正々堂々とタケミッチくんに打ち勝とうとするなら、橘ちゃんにアプローチしていたなら、おまえの計画を摘み取ることもなかったろうよ」
一度たりとも言及しなかったことだった。
ずっと思っていたことでもあった。
純丘がすべてを理解したのはもはや手遅れになったときのことだった。
最悪の後始末を越えて、さらに十余年の歳月を経て、ようやく、口にした言葉。
鉄太は、しばらく言葉を発しなかった。何度か口を開閉し、なにかを紡ごうとしたところで止まり「……は、」と息を漏らす。
乾いた笑いのようであり、嘆息にも近しい音だった。
「正々堂々と、なんざ。ちゃんちゃらおかしいな。……勝てるわけないだろ」
「……そうかな」
「そうだよ」
そうだったろうかと純丘は思う。そうなのだろうかと思う。
他人を評価するとき、純丘は、たびたび程度を見誤る。その自覚がある上で、そうなのだろうか、とただ疑問を抱く。
たしかに難しかったかもしれないが——回りくどい計画を敷き、あらゆる人々を不幸に陥れて、そんなひどくて手間のかかることをするより、ずっと簡単だったはずだ。
そうは思わなかったと言われればそれまでである。もとより人には向き不向きがある。
だとしても、
「俺にはそうは思えなかった」
「……あいにくと、俺は俺であって、あんたじゃねえんだよ、兄貴」
鉄太はどこか感情を抑え込むように述べた。
「今までも、これからも」
「知ってるよ。だからこそだ。俺が見ていた限り、俺の弟には——確実に勝てるとまでは言わないが——競い合える程度のポテンシャルがあったように思う」
「無意味な仮定だ」
語尾に被せるが如く、鉄太は吐き捨てた。乱雑に立ち上がった拍子に、パイプ椅子が甲高く耳障りな音を立てた。
「時間を取らせたな。安心しろよ、二度と来ねえ」
「……どうも」
立ち去るその背を見送る。
幼い頃よりは背が高くなり、未だ痩身とはいえ、児童のそれではなくなった。研究成果が高く評価されるどころかノーベル賞を掴み取り、親の遺産を一人で整理する敏腕さを見せる。
大きくなったものだなと他人事のように純丘は思った。時の流れはずいぶん早く感じられる。
もはや兄弟は家族ではない。血縁は変わりなく、変えようもないが、しかし彼らはお互いを家族だとは思わない。
家族であった頃とて、お互いに、お互いについて知らぬことの方が多かった。遠い昔にこっそりとゲームをしたのだってもはや実弟が覚えているかも怪しい。
寸暇の間、目を閉じる。
ちいさな背丈が今しがたの背中に被さってひとつとなり、溶け合い、消え失せる。
全くもって、無意味な仮定で、無価値な回想だった。しかしおそらく記憶領域に焼き付いて消えないままだ。
人の脳とはまこと難儀なものである。
二度あることは三度あるとはよく言ったものだ。
反社会的勢力はてんで姿を見せない(見せられても困る、刑務所に面会に来るくらいならそのまま収監されていろ)として、もうそろそろ出所までのカウントダウンが近づく頃、囚人の男に面会の予定が入れられた。
時期はもちろん、その相手も、純丘はいろいろな意味で意外に思った。
「俺が誰だか覚えてるか?」
「乾くんだと思うが……九井くんガードが入らなかったのか?」
面識はあるが面識しかない。やり取りは何度か交わしたがそれだけだ。
尋ねた純丘に「ココには伝えてねえ」乾青宗は首を横に振った。
「おっと……?」
これは九井くんの俺への警戒度が跳ね上がる展開では?
訝しむ純丘はさておき、乾は変わらぬ表情で純丘を眺めた。要件がいまいちわからないので、純丘もなんとなく黙した。
沈黙がしばらく続いた。
「……稀咲に似たな」
「……まァ、兄弟だしな」
ギャング同士の争いの余波により、めっきり落ちてしまった視力、フレームレスの眼鏡がないとこの距離でも顔が確認しづらい。
鉄太は髪染めをやめ、純丘は相変わらず髪を染めていない(必要性を感じられなかった)ので、黒髪と眼鏡、揃って並べてみればたしかに似ているだろう。昔よりよほど。
「さておき、アンタに伝言だ。アオサギから」
「……ああ〜……」
純丘はなにもかも悟った顔つきになった。
彼が未だに師匠と呼ぶ人は、二〇一七年にリオデジャネイロを訪れたのち、いまだに滞在しているようだ。
公僕を早めに引退してスローライフ先がギャング、まったくとんだ転身だが、麻薬取締官よりはまだそれらしい。
「〝純丘クンのやり残した諸々はこっちで巻き取っといたからついでにそのまま住み着いていい?〟だと」
「……いろいろ言いたいことはあるが、まずそれ、俺に許可取ることじゃないだろ」
「〝寺野クンは爆笑して許可出してくれたけど明司には嫌がられてて、一対一だと多数決は決まらないデショ?〟とか」
「なるほどな。これは関係ないんだが乾くんって声真似上手いな」
「俺じゃなくてもあの声は耳に残る」
「ああ……うん……わかる……」
謎の同意と連帯感が場を支配する。完璧に作った穏やかな声色と、その裏にある思惑の落差が激しく、本性を知る者たちからすればいっそ不気味に感じる。
実際、国家公務員としては早期退職するまできっちり勤め上げていたので、すべての人間にその正体が露見していたわけでもないだろう。
露見していた方が世のため人のためになったかもしれない。
「……師匠の好きにしてくれ」
ともあれ、弟子は辟易と返答。
律儀というよりは、許可が得られたという体裁がほしい、とかそのあたりだろうと見当がつく。
乾は短く首肯した。
「伝えておく……それで、」
「……それで?」
伝言役ではない用件なんぞがあるだろうか。
純丘は数瞬、思考を巡らせた。
「——本当に、タイムリープの能力は消えたのか?」
姿勢はやや前のめりに、乾はどこか、慎重に尋ねた。
純丘はかすかに頭を傾げた。凹型のレンズ越し、観察の色を濃くした視線が乾を眺める。
やがて頭の位置をもとに戻す。
「……この世界での情報源はどこだろうな」
「……上書きされる前の世界で、アンタがなにを知ったのかはわからないが、この件はベンケイくんから聞いた」
「荒師さんはいったいなにを考えて……」
五歳も離れていれば世代も違う。純丘と
しかしつくづく理解できないとばかりに純丘は首を横に振った。そして、未だ自らを見つめる乾をちらりと見て、答えた。
「ないよ」
「本当に?」
乾はすぐさま切り返す。
ケロイドに半分覆われた顔、表情はさして変わらず、ただ、色素の薄い瞳が純丘を見据えている。
「ない」
純丘はもう一度、無感情に述べた。
「あるいは、誰かの手に渡った状態で保存されているのかもしれないが。少なくとも俺の手元のそれは、すでに奪われて、ない」
「……嘘でも、なく?」
どこか縋るような声色。
色の薄い双眸が揺らいだ。アクリル板の向こうでまたたく。
「……嘘をつく意味がない」
もちろん、消えたという直感以外には純丘としても無根拠である。もしかしたら消え失せていないのかもしれない。本当に死ぬとき、もう一度、発動してしまうのかもしれない。
少なくとも純丘は、そんな綱渡りを今一度行いたいとも思えなかった。発動しない能力はないも同然だ。
彼にもはやトリガーはいない。歌舞伎町に住み着いた死神は、純丘からキッチリと取り立てて、書き換えられるかもしれない過去にはもはや興味をなくした。
真一郎は死んだままだ。
死んだままでもいいのかもしれないと純丘は思う。
少なくとも、真一郎に罰は下らなかった。不幸に至る可能性、己の行いが連鎖した果ての未来を、知る由もない。永遠に償えぬ罪がそこにあるだけだ。
純丘にはさっぱり理屈はわからないが——彼に、最初の世界の記憶はない——浮浪者であったタイムリーパーは、真一郎の命だけを刈り取り、その他からは手を引いた。今更つつき返してより酷い未来が訪れたとして、それこそ、純丘には責任が取れない。
彼もまた失敗した人間だった。
失敗をおそれる感情を持ち合わせた、人間だ。
「……そうか」
乾は身を引いた。
椅子の背もたれに体を預けるようにして、深々と、溜息を漏らした。目元にてのひらを当てる。
「そうか……」
純丘はその様をしばし眺める。
乾と純丘は、表現するなら知り合いの知り合いというのが最も正しく、ただの顔見知りと評してもあまり大差はない。もちろん顔を合わせれば話をする程度の仲ではあったが、そもそも、彼らに個人的な交流はほとんどなかった。
……だからこそ純丘は乾にちょっとした負い目があったりする。
具体的には、九井との交渉を進める際に度々引き合いに出してるとか。いや俺にも罪悪感ぐらいあるんですよ躊躇なく人質取るにしてもね。
罪悪感を抱くぐらいなら最初から人質に取るなという話ではある。
リフレイン。
「……俺は君と二度と会う機会もないだろう。誰にも吐けない言葉があるなら、聞いておいて、綺麗さっぱり忘れておくが」
乾は目元にてのひらを当てたままだ。
「……灰谷から聞いてねえのか」
「九井くんと君が仲の良い友人であること以外は、なにひとつ」
純丘がそういうことに突っ込まない以上に、灰谷兄弟はそもそも他人の不幸話に興味がない。弱味を握るために調べて、煽るために引き合いに出すかもしれないが、わざわざ世間話のネタにはしない。なぜなら心底どうでもいいので。
「アオサギは?」
「……尚更知らんが」
純丘の師匠は他人のことは調べ尽くすくせして、己のプライベートはほとんど開示しない。
「……。俺の顔、火傷、アンタはついぞひとつも聞いてこなかったな」
「俺は、他人の怪我の有無について、痛いかどうか、日常生活で支障があるか以外はあまり興味がない」
「変なやつ」
「そうかなあ」
普通だと思うけど、という心情を全面に出した疑問符に「本当に変だ」乾はやはり自らの目元からてのひらを外さず、かすかに笑った。
笑みが落ちる。
「家が焼け落ちたんだ。昔。それで、そのとき、赤音が——姉が死んだ」
純丘は乾に対して、末っ子か、一人っ子のような振る舞いをするという印象を抱いていた。
どちらも正解だったらしい。
「顔はよく似てるくせ、ぜんぜん違う姉弟だなんて、よく言われたな……ココと俺らは幼馴染で、ココは赤音が好きだった。だから、赤音を助けようと、火の中に飛び込んで……俺はココに助けられた」
息を継ぐ音。
「俺と赤音を間違えたんだ」
声色はかすかに湿った。
「赤音は救助された。……全身大火傷で。治療費には、四千万が必要だった。ただでさえ俺の家は焼け落ちて、親に金なんざなかった。ココは、稼ごうとして、盗みだとか、詐欺……間に合わなかった。間に合ってても、出所からして、払えたかは怪しいけど」
九井くんに対して乾くんを人質に取るのって、俺って本当に外道なことしてたんだな、と、純丘はしみじみと実感した。
半ば現実逃避じみた思考で、あまりに今更で——きわめて正しい自己認識である。
そして、四千万という金額には聞き覚えがあった。
……アオサギと名乗る、人間の皮を被った非人間が、九井に肩入れする理由。今更ながら、得心する。
「……あのとき、赤音が助かっていれば」
乾はつぶやく。
「あの頃でも、ガキの俺の方が、赤音よりまだ丈夫だった。全身火傷ったって、四千万も要らなかったかもしれねえ。……死んでたらそれはそれで、四千万も必要なかった」
てのひらは未だ彼の目元を抑えている。
「……そんなことを思ったこともあったんだが」
語調が若干変わった。乾は過去を振り切るように、かすかに首を振る。
「まァ。過去は変えらんねえし。俺はぶっちゃけ死にたかねえし。ココも最近だと落ち着いてきてるし。バイク屋まあまあちゃんと営業できてるし。客もついたし」
「おめでとう」
「ありがと。だから……これはフォローってほどフォローでもねえんだけど、ベンケイくんもそういうこと考えて、俺だけに言ったんだと思う」
ようやくてのひらを引き剥がして——純丘には、まるで両目を拭うような仕草にも見えた。何故拭うのか、なにを拭うのか、あえて言うこともなかった——乾はあっけらかんと言った。
「どうせココは俺も赤音もどっちか助けられなかったら気にするしな。最終的に、どっちも助けるために無理しそうで嫌だ」
あるいはなにか違えば、乾もまた、タイムリープに本気で縋る未来に辿り着いたのかもしれない。
そのために犠牲を生む覚悟を決めたかもしれない。
それは仮定であり、既に実現可能性の消えたifである。
最悪の未来は上書きされて消え失せた。東京卍會が瓦解して、タイムリープを求めて東京都心で激しい抗争を繰り広げる未来は、とうにどこにもありはしない。
「俺のマブダチはそういうやつ。……だから、アンタも言うなよ。言わねえだろうけど」
「言わないな」
センシティブな話題を不必要に喧伝する意味はない。余計な火種を撒く趣味もない。
「天竺にも釘刺しといて。どうせ繋がってんだろ」
「あいつらも言わなそうだが。まァそうだな、遂行しておこう」
頷いた純丘に、乾もまた頷いて、椅子から立ち上がった。
彼の用件はこれで終いのようである。
二度あることは三度あるなら、三度あることは四度あるだろうか。
少なくとも純丘には四度あった。
刑務所に収監された純丘への来訪客、面会人。
「マジで塾長が収監されてら……」
「君それを確かめにわざわざ来たのか?」
場地の呆れ気味のコメントに純丘はさすがに半笑いになった。
そもそも彼は、あと二週間もすれば晴れて娑婆である。正直純丘本人もこれ司法本気でどうなっているんだとは思っているが、例外中の例外にしか適用されていないはずだ。そうだと信じたい。
「ゼッテーこういう場面で立場逆だと思ってたわ」
「ははは。ノーコメントとさせていただこう」
「アンタも思ってんじゃねえか」
「ハハハ。要件は?」
ニコニコと純丘は話を促した。はよせえとの圧が込められている。雇用関係が解消されても蓄積された年月は変わらず、微妙に逆らえない。
場地はガリガリと後頭部をかいた。
「まずは。……てか塾長そもそも、心当たりあるよな?」
「一発殴られるぐらいの覚悟はあるが、言われなければ確定ではない。そう思うだろ?」
「思わねーよ、なんならアンタが一番思ってねーだろ、その言い草」
辛辣にくさしたのち、元雇われバイトは嘆息した。
「……一虎は、許すってよ。アンタが誰かを傷つけようとしたわけでもねえからって」
「……ごめんな」
「俺に謝ったところで意味ねえだろ」
「間違いないな」
信頼を悪用して、騙すかたちで情報を巻き上げた。思い出話で警戒を解き、曖昧な言葉によって真実を誤魔化し、タイムリープの能力を強奪した。
花垣はもちろん、一虎に対しても、およそ最も不誠実な再会であった。自覚はある。
ただ頷く純丘を場地はじとりと睨んだ。
「思ってるなら最初っからやるんじゃねえよ」
「それも間違いない。まァ無理だったが」
「アッソ。どっちにしろ俺ァ許さねえしな」
「……おっと、」
流れ変わったな。
友達思いの少年、場地圭介。
少年ではなくなった今も性質は健在。
「一発殴られるくらいの覚悟はあンだろ? さっき自分で言ったもんな」
「……医者予約しとくか……」
前言撤回するつもりはないが、仮にも元特攻隊長の拳だ、場地はいまだ身体つきもそう衰えていないようで、少なくとも医者は必要だろう。
腕組みをして虚空を睨み、無難なところなら整形外科だがと思案する。
下手な威力だと脳外科直送かもしれない。
「……あのさあ、アンタ、マジで悪事向いてねえよ」
「自覚はあるよ」
「もう二度とやんねえ方がいいって、マジで」
「そうであることを祈りたいな」
純丘は明後日を見つめてつぶやいた。望まぬ刑期短縮と引換に(本当に全く望んでいなかったので、新手の罰ゲームか? と純丘は訝っている)今後も働かされるかもしれないのだがさすがに悪事ではない、と信じたい。
煙に巻くが如き物言いの元雇い主を、場地はいまだ睨み続けていたが、やがてもう一度、わざとらしく嘆息した。
おおよそこの方向での話は無意味だと悟った。
「呪い、だってよ」
数多の人々が振り回されたもの。純丘が心底から腹を立てた怒りの矛先。
もしかしたら真一郎を殺したかもしれないもの。
……もしかしたら、一虎が凶行に走るに至った、その原因。
「塾長は……榎クンは、信じたか? 信じたから、そうやって頑張ったのか?」
「……君はどう思った?」
答えは述べることなく、純丘は問い返した。
場地は眉をひそめて、しばらく目を伏せるようにして、考えていた。
「……どうだろな。よくわかんねえけど。確かに、昔のマイキーの形相は尋常じゃなかったし」
昔のマイキーの形相——純丘はその現場を知らない。
かつて場地が断片的に述べたことはあり、言葉の端々から推測は可能だが、推測と事実は決して等号ではない。
「でも、あんとき、一虎は、マイキーの誕生日を祝うためにバイクを盗もうとした。……手段は、駄目だったけどヨ、その気持ちは呪いじゃねえだろ」
祝おうとするこころ。喜ばせようとするきもち。誰かのために尽くそうとすること。
出力は致命的に誤った。ゆえにすべてを間違った。
しかし、そうしようとする原動力は、決して悪いものではなかった。友人のために。尊敬するひとのために。
「呪いってのがなかったら……真一郎クンは、もしかしたら、生きてたかもしんねえし。でもあんとき頭殴ってっからフツーに死んでたかもしんねえし、死ななくても、後遺症とか残ったかもだし」
純丘はなにも言わず、目を閉じる。
場地が述べた光景は容易に想像がつく。金属製のレンチの殺傷力は過去の事件が示すとおりだが、頭蓋骨に当たらずとも、頸部や顔面でも似たような惨状を引き起こしただろう。肋に当たるだけでも十二分に大打撃だ。下手に折れた骨が内臓に刺されば、血管を引き裂けば、こちらも命に直結する。
「呪いがなかったら、あの日、たとえば昔塾長が言ってたみてェに、べつのバイク屋に盗みに入ったかもだし。……もしかしたらそこで別のやつを殺したかもしんねえ」
そんなことを言ったなと純丘は回顧する。アクリル板を隔てて向き合ったときに、夜道をバイクを牽きながら帰ろうとしたときに。
あのときは純丘も、自らまで死にかけるとは思ってもみなかった。ましてやこのような未来が訪れるとも。
「わかってんだ、こんなの考えたって、起きたことは変わんねえって」
場地の言葉は正しい。
すべては無意味な仮定である。
二十一世紀初頭にて、あまねく出来事は確定し、この世界の過去は固定された。死人は死したまま、罪は覆らず、遺された人々は今を生きるしかない。
もがいて、あがいて、ときどき、罪の重さに圧し潰されかけて、不条理と理不尽に傷つけられて、それでも生きていくしかない。
罪には罰を、業には報いを、人々が心底からそのように願ったところで、理想通りの未来が訪れることはそうはない。
「タイムリープってのも、もう消えたんだろ」
「ああ」
純丘は端的に肯定を述べた。「わかってんだけど、」と場地はちいさくつぶやいた。
「そんでも、考えて、考えて、考えて……そうやってやったことに向き合ってくことは、向き合って、この先の行動を変えてくことは、無駄じゃねえだろ」
過去は変わらない。しかし。
過去を顧みて、今と向き合って、未来を変えることは、可能である。
この先の道を一歩一歩確かめて、踏みしめていくことが、今を生きる人々には許されている。
事件の前の快活な笑顔が、まぶたの裏に思い浮かんで、消える。事件の後、憔悴した様子の少年たちが、次々に脳裏を過る。墓の前で立ち会った人々を思い返す。
かつて、彼らが未だ楽しく遊んでいたころ、インスタントカメラが残した写真はどこぞへと消えたのだろうか。
誰かが力任せに破いたのかもしれない。誰かが未だに持っているのかもしれない。
純丘には必要ない。
記憶は色褪せて、擦り切れて、けれどもいくつかの場面はずいぶんと鮮明に思い出せる。
「……君は、」
不意に純丘はつぶやいた。
「大きくなったな」
「……なんだよ、急に」
場地は胡乱げに純丘をじろじろと観察した。若干身を引いた。
「揶揄ってるわけじゃねえよ。歳を取ると昔が懐かしくなる」
「アンタまだ三十代だよな?」
「十七をオッサンと呼んでたやつが本当に大きくなったな……」
「ゼッテェ引き合いに出すとこなんか違うだろ!」
つよめの異議申し立てに、純丘は今度こそ、大きく笑い声を立てた。全く十数年前と変わらぬようにすら感じられる。
ひとしきり笑ったのち、ふと息を吐いた。
「呪いを俺は認めない。神も仏も、報いも、天罰も、俺は信じない。あれに敢えて名前をつけるなら……天災と見紛うほどの度が過ぎた復讐、単なる報復、怨恨の果ての衝動だ」
〝黒い衝動〟とは誰が名付けたものなのか、純丘は知らないが、なるほどいい名付けであると感心した。
衝動的な殺人。領分を超えて復讐対象以上の人々に振りまかれた殺意。人間にとりつくという手段で行われた罪。呪いを介した不能犯、しかも真犯人は過去の死人であるがゆえ、誰も裁くことはできないが。
為した所業は、為された罪は、本来、刑法一九九条に基づいて裁かれるべきだった。
「……認めない?」
「認めないよ」
訝しげに復唱した場地に、純丘はハッキリと再度述べた。
信じない、ではない。
もちろん信じるとも言わないが。
「信じる信じないの問題というより……シンプルな話だ。事実から目を逸らすのは、これまたある種の愚かだろ」
信じられないのは山々だとしても、現実に起こった事象がある。かつて君臨したという梵天、数多の不幸が起きた未来、上書きされた過去、実際に体験したタイムリープ——実際に遭遇した浮浪者。
ついぞ素性も、得体も知れないタイムリーパー。
「その上で、俺は、認めない。これは正しさや世の中の摂理を考えた、とかいう話じゃない。単なる俺の主観で、傲慢だ」
純丘はそのように断じた。
「……ちなみに、なんで?」
場地はもう少し突っ込んでみた。
傲慢だのなんだのは場地にはあまりピンとこないが、言わんとすることはわからなくもない。
しかし純丘は、許せない心境についてはもう少し寛容だったはずだ。
「君、たとえば極悪非道な犯罪者がいたとして、その犯罪者の子どもは親の罪を償うべきだと思うか?」
「……手伝ってたとか?」
「全く」
「……なら関係なくね?」
「そういうことだな。俺はなによりもそこが許せなかった」
なるほど動機は万次郎の救済であったかもしれない。
しかし、真一郎の行いは結局のところ万次郎の死後に行われたものだ。生きていたとしても植物状態の万次郎が唆せたわけもない。
呪いの存在は証明された。
覆しようのない事実である。
その上で純丘はその存在を認めない。無関係な人間を山程巻き込んで生まれた災禍を認めない。
主観として、信念として、彼の利己的な感情に基づいて、その存在を許してはならないと思っている。
「俺は呪いを信じたんじゃない。誰かのために頑張ったんじゃない。俺が、一方的に許せなくて、怒ったんだ」
「……なにか違ェの、それ」
「俺にとっては、天と地ほどに」
一方的に怒って、その不幸を帳消しにした。人々を生かし、たしかにあったはずの罪をも消し去った。
まるで傲慢な行いだった。
きっと正しくはなく、救いですらなく、純丘は、裁かれぬ業を背負って生きていくしかない。彼は自らにそのように課している。