【完結】罪状記録   作:初弦

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糾につけた無配Web再録


さいしょのせかい


 これは既に上書きされた世界の顛末である。

 

 とうに消えた世界、すべてがなかったことになったその一部始終である。

 

 

 世間一般的に、家族は大切にするものだろう。

 

 人間に限らず少なくない種類の生き物は、大なり小なり共同体をはぐくむことで生存と繁殖の可能性を探り、このとき血縁という繋がりはしばしば大きな役割を果たす。

 家族を大切にする、それを常識とすることで認識に刷り込みをかけ、社会的な風潮を形作り、道を探る。より多数を生かすための真っ当な生存戦略だ。

 

「……エマ」

 

 そこから取りこぼされることだって、当然、ある。

 

「な、なんで」

 

 エマはぎくりと体を強張らせ、壁に逃げるように後ずさった。ぶかぶかのパーカーをたくし上げるようにかき抱く。生前の万作が着ていたものに酷似していた。酷似というか、同一の品だ。

 ようやく見つけた、純丘は小さく息を吐いた。努めて呼吸を整えようと意識する。歩く間も惜しんでひたすら探し回っていたので呼吸が荒い。

 

 ここしばらく度が過ぎた深夜外出が続き、ついぞ二日ほど帰ってこなかった。と、聞いたのが佐野家を手伝いに来た昨日のこと。純丘は一瞬絶句した——もうなにを言い置いたのかも覚えていない。

 もうすぐ売り飛ばされるはずの佐野家を飛び出して、それから丸一日。

 

 エマの十歳の誕生日は三日も前に過ぎ去った。

 万作の命日はそれより二月近く前のことだ。

 

「連れ戻しに来たの」

「違う」

「真に、……真一郎サンに、言われたの。見てろって」

「違うよ」

 

 純丘はどちらも短く否定した。どちらも全く、そうではなかった。

 思い出したように脇腹が痛み始める。純丘は日頃の運動習慣を怠っていないため、多少走る程度は苦にもならない。無理をしたのは、無理をするまで走ったのは、ずいぶんと久々のことだった。

 走りすぎてちょっと吐きそうかも。

 

「じゃあ、じゃあ、なに!?」

「君が心配だった」

「……うそつかないでよ!」

「うそじゃねえよ……」

 

 額から汗がしたたって、腕で拭う。晩秋の気温は少し肌寒いぐらいだったが、純丘はほとんど汗だくだった。

 佐野家を中心にまずは渋谷区内を探し回って、だんだんと範囲を広げ、見つけたのは新宿区でのことだった。三日もあればさらに遠くへと足を運んでいてもおかしくなかった。見つけられたのはほとんど奇跡のようなものだ。

 

「……行く当てはあるのか」

「……なんとでもなるでしょ」

 

 純丘の問いかけに、エマは吐き捨てるように言った。

 

「ウチ、かわいいし、処女だし」

 

 それは、なんとでもなるとは、言わない。

 

 純丘は思った。口にはしなかった。口にする余裕もなかった――どちらにも。

 努めて意識して、ゆっくりと呼吸をしようとして、咳き込んだ。本当にあまりにあちこち走り回りすぎた。

 

 ……たとえ保護の目的であろうと、保護者に同意のない未成年の誘拐は犯罪である。純丘はよく理解している。十代であれば少年院送致で済むだろうか。

 悪質性が高いと判断されれば、少年刑務所送りになりうる。その判断を行うのは責任能力を持たない(と、法的に定められる)未成年者本人ではなく、その保護者である。

 

「エマ、」

「やだよ、帰らない! 帰れない! 帰っていい家じゃ、なくなっちゃった……!」

「帰れなんて言わない——」

 

 倫理と法律と道徳と、今の現状を照らし合わせる。

 寸暇の躊躇、純丘は口の端に一抹の苦みを感じた。

 最悪を想定したがゆえの幻覚か、感情に基づく分泌物の差異により唾液の味が変わるともいうが。案外、吐きそうになるぐらいあちこち走り回ったせいで、喉元にまで胃液がにじんだのかもしれない。

 

「——……うちに来るか?」

 

 純丘は尋ねた。

 法に従えと警鐘を鳴らす理性は、さらなる強固な価値観により、破棄された。

 

 エマは一瞬、口を噤み、目をまたたかせた。

 

「うち」

「俺の家。一人暮らしなんだよ、俺」

「……真兄は、真一郎サンは、もうなんにも心配してないよ。ウチのこと。どうでもよくなっちゃったから」

 

 なんにも心配してない、というには些か的外れだったと純丘は知っていたが、口にはしなかった。実際、真一郎の内側の優先順位において、万次郎以外のすべての人間が大幅に下位につけられていることは傍から見ていればわかる。

 どうでもよくなったわけではない――が、しかし、そういうふうに見える振る舞いをしているのは、事実だ。蔑ろにできなかったことのため、他すべてを蔑ろにしているのは、事実だ。

 

「桜子さんも、おじいちゃんも、死んじゃったし、」

 

 万作の死を機に、佐野家は墓じまいをし、その際、佐野真と佐野桜子の骨壺も回収された。今は佐野家に保管されている。

 墓に安置するには金がかかる。墓の管理にも金がかかる。余分な金どころか、生活に必要な金銭も、今の佐野家はほとんど持ち合わせていない。

 真一郎は、かつての家族の残骸を、きちんと管理できるだろうか。あの様子ではろくな供養どころか、線香を上げる程度のこともできないかもしれない。

 

「マイキーはウチのことなんてわかんなくなっちゃった。ウチだけじゃないけど。なんにも。だから、ウチにかまっても、意味なんか、ない」

 

 エマは、自らの畳んだ膝に両腕を回して、引き寄せた。殻に閉じこもろうとするような仕草。

 目頭は乾いて涙も出ない。晩秋の関東は湿度が低く、乾燥しきっている。

 

「……俺は普段忙しいから、食事とか、洗濯とか、たまにでも見てくれる人がいると助かるんだが」

「……部長、いつも自分でやってるじゃん」

「そりゃ、家政婦みたいにこき使うのは俺の本意ではねえけど」

「そうじゃなくて」

「俺にとってはそうだよ」

「……ロリコン?」

「俺の趣味は年上」

 

 厚意と善意を疑われ、怒ってもよいはずだった。純丘はただ冗談じみた言葉で誤魔化した。

 頼ろうともしない少女に、軽口と悪口を叩かなければやっていけないほどすり減った心に、これ以上の負担をかけたくもなかった。

 きっと察されているだろう。エマはいまだ子供だが、そんなに鈍くもない。

 

 恐る恐る伸ばされたてのひらが、純丘のシャツを、つかむ。

 かすかに力がこめられる。

 

「……いく……」

「うん」

 

 純丘はようやく、こちらも腕を伸ばした。エマを立ち上がらせて、砂埃を払う。

 擦りつけられた顔、かすかにシャツが湿った感触がした。おそらく汗ではない。なにを言うこともない。

 

「疲れたろ。負ぶってやるから、寝てていいよ。……汗臭いのはごめんな」

「それはほんとにくさい」

「ごめんて」

 

 背中によじ登ったエマはそれからさして間もなく寝落ちた。

 未だ軽い体重、しかしそろそろ幼子でもなくなってくる身体。重心の移動と両腕でしっかり支える。体温の重みを背に感じながら、純丘は小さく嘆息した。

 正直なところ、児童相談所にこのまま直行した方が、一般的な対処としてはきわめて適切だ。

 

 そうすれば――いくらも経たずに保護者たる真一郎のところに連絡が行くだろう。彼は根性は本当に人一倍なので、エマの身柄を引き取って、誠心誠意謝って。……より抱え込むはずだ。

 

「……はあ……」

 

 アパートへの足取りは重く、とはいえ、他のどこに寄るつもりもなかった。いっそ悪態をつきたい気分だったがそうしなかった。純丘もまた疲れていた。

 欠勤の連絡を入れた家庭教師アルバイトはちょうど今頃、普段の勤務時間の終わりを迎える。ここで労働さえしていれば、本来もらえるはずだった時給を、内心計算して、みたび嘆息した。一万とちょっとの価値ある時間だった。諦めるしかないとしても。

 

 ところで、今の純丘。彼は今、薄々嫌な予感がしている。

 具体的には、エマを抱え込んだ背中、体温がずいぶんとぬくい。

 

 ……を通り越して、熱い。

 明らかに。

 

「……帰ったらまずは体温計を買うべきか」

 

 純丘は優等生なのはもちろんシンプルに健康優良児なので、一人暮らしをするにあたって体温計を買い忘れていた。

 

 案の定、エマは熱を出していた。三十八℃後半。手元に保険証がないので苦肉の策で純丘はちょっとずるをして、タダでかかった医者からはただの風邪だと保証された。

 気疲れによるものか、三日も晩秋の風に当てられたせいか。ともあれ、家主の青年は高校に虚偽の体調不良連絡を入れて、魘される少女の額、汗で張り付いた前髪を払った。

 

「……」

「粥、食えないか? ゼリーの方がいいならあるぞ」

「……あのね、」

「なんだよ」

「……ごめんなさい……」

「……ン? 悪いがよく聞こえなかった。純丘大先生に盛大な感謝申し上げますって?」

「……。あのさあ、そゆとこ、ほんとどうかとおもう」

「ハハハ。ガキは余計な気なんざ遣ってねえで大人しく寝てろよ」

「ぶちょーもまだガキじゃん」

「やかましい」

 

 子守歌はよく知らない。寝かしつけが必要な歳でもないだろうが、純丘の方が手持無沙汰で居心地が悪かった。

 適当な曲を選んで鼻歌を歌ってみれば「……ぶちょー、もしかして、おんち?」「そうだよ! ごめんな!」つくづく純丘榎の音楽センスは壊滅的だと証明された。軽音楽部の経験は全く役には立っていない。そもそも演奏しない条件で入ったもので。

 

『ッ金なら、来月には――』

「もしもし、真一郎さん。純丘榎です」

『――ああ。榎。なんだ、おまえか……』

「今お時間よろしいでしょうか。お疲れのところ申し訳ありませんが、用件が二つあります」

『うん、えーと、そうだな、どうぞ』

「まずは佐野道場について。道場の門弟たちおよびその保護者の方々にはこちらから正式な廃業を伝えておきました。万作さんが倒れた時点でもともと無期限閉鎖の状態だったので、返金手続き等は行われていて、俺が把握している限り、このあたりの必要ないはずです。廃業届はいつものファイルに整理しておいたのでそれを提出すればおそらく問題ありません」

『うわ……すげえ。そういえばそのへんもやんなきゃじゃん、マジで俺そのへん頭回ってなかった。ありがとう、助かったわ』

「……どうも。それで、次の用件です。エマはこちらで預かっています」

『……そう、そっか、よかった。エマの方まで、手が回んなくて、ありがとうな』

「感謝は今は要らねえ。あんたが忙しいのも、無理してんのも知ってる。……エマに向き合う余裕ができたらまた連絡してください」

『……ごめんな』

「謝罪も今は要りません。では」

 

  ツー ツー ツー ツー ツー……

 

   ➤

 

「ウチ、お兄ちゃんがいるんだよね」

 

 出し抜けの言葉は現状どう考えてもセンシティブ。なんと答えるべきか純丘がしばらく赤ペンを握りしめたまま逡巡する間「……あのね、佐野じゃない方」と、エマは付け加えた。

 

「……ああ、聞いたことはある。横浜だっけ?」

「そう」

 

 真一郎が断片的に話していた覚えがある、とまでは言わない。不用意に突っ込んでいったところで収拾がつかなくなる。

 トイレ・キッチン共用、風呂なし、三畳間。背の低いテーブルとベッドと幼い少女と男子高校生が各一人ですでにそこそこ狭い。塾のテストを黙々と丸付けしていた純丘は、視線を向けずにつぶやいた。きりのいいところまで採点しておきたかった。

 

「迎えに来るって、言ってたんだけど。今んとこ来たことなくて」

「……へえ」

 

 こちらもこちらでだいぶセンシティブだった。

 

「つっても、ウチ三歳の時の話だし。あっちもまだガキだったし。今も来るつもりあるのか、そもそも、約束覚えてんのかも知らないけど。……ウチのことはもういいって、言っとかなきゃ」

「もういいて」

「佐野のおうちにいるわけじゃないから。言っとかないと、もしもホントに来るならどっちにも迷惑かけることになるでしょ」

「……」

 

 真一郎にはエマを保護した旨を連絡した。朗らかさを取り繕って御礼を言うので、純丘は少し、苛立った返答を述べてしまった自覚はある。申し訳程度に思い出した敬語はほとんどとってつけたようなものだった。

 

 季節は冬に差し掛かった。

 そろそろ冬休みが待ち受けている。

 

 今のところ純丘は、一月分の給食費を出しており、毎週末、エマと共に上履きを洗う習慣が追加された。純丘宅には洗濯機がないので、体操着や割烹着どころか、普段着に関しても、洗濯のためにはコインランドリーに出向く必要がある。週に二回。純丘的にはちょっとどころではなく痛い出費だが、必要経費は削減できない。

 教育費は佐野家の口座から引き出されているのだろうか。……引き出せる額は、残っているのだろうか。

 使う予定のなかった合鍵のうち一本をエマに渡した。壁の薄いアパートは幼い少女には既に寒いようで、羽毛布団と、電気式のヒーターを購入した。灯油ヒーターを取り入れて万一火災になったとき、火災保険に入っていない純丘は破産する。電気式でも火事のリスクはあるが、どちらがましかという点だ。家庭訪問は本当にどうしようかなと思っている。

 

 真一郎からの連絡は、あれから、ない。

 

 ……佐野家を訪れたとして、真一郎が純丘からの連絡を覚えてさえいれば、無駄なご足労以外は問題はないはずだ。そのはずである。

 別に純丘も余裕がある生活はしていない。むしろその逆だ。ただでさえ困窮した男子高校生、一人分も増えて切り詰める生活はいずれ限界が訪れる。

 実家を頼るかどうか——血迷ったくだらない選択肢としてすぐさまかき消す思考だ。しかし確実に、くだらない選択肢が思い浮かぶ時間は増えている。

 

「真兄が。……真一郎サン、が、手紙のやり取りしてて。住所は、覚えてて」

「なるほど」

 

 エマがいちいち呼び名を言い直すことに気付いている。純丘はあえて突っ込むことはなく、シンプルな相槌を挟んだ。

 

「俺の次の休みは来週になるからそれまで我慢してくれ。長期休みには講習が詰まってるんで、冬休みでも、年末年始に差し掛からないとなかなか」

 

 言いながら、赤ペンでまたひとつの問題に丸を付ける。

 

「……ついてくるの?」

「きょうだい水入らずがいいのか?」

 

 どこか呆然とした問いかけに、純丘はわざと、飄々とした体で混ぜっ返す。

 

「まあせっかくの再会だ、俺としても気を遣ってやりたいのは山々だが、諦めてくださいませんかね。横浜駅の迷路具合を甘く見るなよ、初見だと俺でも盛大に迷ったぞ。この俺が」

「そうじゃないんだけど」

「じゃあなんだ?」

「……ほんとに、部長、そういうとこあるよね……」

 

 なにを言いたいのかはよくわかっていた。若干の呆れと非難と諦観と、わずかに安堵も混じった言葉を純丘は無視した。なにせ採点が終わってないもので。

 

「……ありがと」

「どーいたしまして」

 

   ➤

 

 横浜市のある児童養護施設。

 手紙の住所は簡単に突き止められたが、しかし〝黒川イザナ〟なる少年は不在だった。

 

「少年院を出てから、ほとんど帰ってなくて」

「なるほど~」

 

 コミュ力の化物こと純丘、しらっとした素振りで施設を訪れたのち、いろいろなコツを駆使して聞き出した答えにシンプルな相槌を打った。

 なるほど~。……なるほど〜。

 

 ……どことなく聞き覚えのある話だと思ったが、あくまでも聞き覚えでしかない。純丘がかつて面倒を見ていた後輩たちとは、中学卒業からやり取りも完全に途絶えて久しい。

 あいつら生きてるのか? ていうか、そもそも出所できたのか? 少年院の場合は出院だっけ、退院だっけ?

 

 無関係な思考は脇に置こう。いくら同年代かつ同様に少年院送りの経歴があるといっても、横浜住まいの少年と東京住まいの少年だ。接点はないはずである。あったときには世界の狭さに戦慄……はしないとしても、辟易することになる。

 施設の方は、一人一人に目をかける余力はないのだろう。果たして児童養護とは、と思わなくもないが、一人で抱え込んだ挙句の果てに一家心中をも目論んだ純丘が言えた話でもない。割けるリソースには限りがある。

 

 ……その果てに取りこぼされる子供もいるだろう。

 

「……もういないんだ、」

「いないらしいな」

 

 養護施設を出て開口一番、エマのひとりごとじみたつぶやきに、純丘も頷く。

 

「さて、どうする? まだ探すつもりはあるか?」

「……あるけど。……探せないでしょ」

「そうでもない」

 

 エマが視線を上げると、純丘は自らのケータイに入力を試みていた。

 

「人間はそう簡単にすべての痕跡を消せるわけじゃない。戸籍に細工をしたとしてもな。そこまででもないなら……もちろん、多少の手間はかかるとして」

「……部長、なにしてんの?」

「君には教えられないようなこと」

「ホントになにしてんの?」

「この調子だと夕方にはわかるかな~……」

 

 嘯いた純丘がぱたんとケータイを閉じる。二つ折りのそれをポケットに収納。

 

「待ってる間、なにか食べに行くか? 希望があるなら、申し訳ねえけどできるだけ安いトコで頼むよ。俺って実は貧乏なんだ」

「マジで答える気ない?」

「ない」

「あそ……」

 

 みんなの味方、マクドナルド。栄養バランスは偏るが、たまの食事には安価で手軽、食事のためとは名ばかりに休憩スペースとして活用している客も多いだろう。ワンドリンクだけなら喫茶店ほど金もかからない。

 顔も似ていない少女と青年は、とはいえ気安く親しみを込めたやり取りばかりであったから、警察に通報されずに済んでいた。おおよそ遠い親戚ぐらいに思われたのだろう。あいにく親戚よりも血縁的には遠い。

 

「……黒川イザナくん、ねえ」

 

 真一郎やエマの言葉からは、まるで少年院送致を食らうような人間とは思えなかったが、純丘は決して同姓同名の別人と勘ぐっているわけではない。

 苗字こそそこそこありそうだが、名前の方が珍しいこと、もちろん冤罪の可能性も否定できないとして——そもそも、人間には大なり小なり多面性がある。

 そうでなくとも佐野の一家は環境が環境なので、素行不良にわりと寛容だ。片鱗が見受けられたとしても〝ヤンチャだね~〟で流していた図はわりと容易に想像できる。

 

「ウチも黒川エマだったの。昔は」

「母方の姓だっけか」

「そう」

 

 エマはちみちみとナゲットをつまんでいる。

 

「……さいしょっから佐野だったら、真兄は、ウチのこともまだ気にしてくれたかな」

「……」

 

 万次郎が植物状態になったきっかけは、飛行機の模型で遊んでいたことで、その模型をプレゼントしたのは真一郎だったと聞いている。生前の万作が憔悴した様子で語る言葉に、純丘は、普段のような気の利いたコメントなどひとつも返せなかった。部外者がなにを言うべきだろうか。

 真一郎があれだけの献身をささげるのは――血が繋がった弟への情であり、それ以上に、おそらく真一郎の根底にあるものは罪悪感だ。ゆえに万次郎にすべてをささげた。贖罪の如く。

 ……ゆえに、その他のものすべて、真一郎はもはや顧みることもできなくなっている。

 

「……マイキーがいちばんたいへんなのに、こういうこと言っちゃうの、マジで最低……」

「……べつに最低ではねえよ」

「困らせてごめんなさい……」

「謝らなくていいよ」

 

 自分で言っておきながら自分で落ち込んでいる。ほとんど泣きそうな声色だが、未だその瞳に涙はない。

 この一月ほどのエマは、少なくとも、純丘の前ではこんなことを口にはしなかった。後退であるのか、前進であるのか、ともあれ、すべてに刺々しく威嚇するよりはずいぶんと健全だろう。

 ナゲットのケチャップがついた己の指を紙ナプキンでぬぐったのち、ちょっと涙ぐんだ妹分の頭を雑にかき回す。

 

「ぼさぼさになる……」

「ごめんな」

 

 声を震わせてつぶやくエマの手に雑に謝罪して、純丘は彼女の髪を梳き直して、結い始めた。

 この一月ほどで髪を結う手つきも手慣れてきたが、まだバリエーションには乏しく、せいぜいが三つ編みぐらいしかできない。周囲は男兄弟ばかりで、小中高で同級生の髪を弄る機会もなく、塾の生徒の髪を結う機会も同様になかった。純丘は五分刈りとは言わないがベリーショートに刈ることですべての手間を省いている。

 アメニティで無料でついてきそうな櫛だって、エマを預かってから必要性を感じて、手に入れたものである。

 

   ――You've got mail♪

 

 メールの着信音は一律同じものを設定している。小さなディスプレイに一瞬表示された送信者名が、目的のメールだと示していた。

 三つ編みをゴムで手早くまとめたのち、ケータイを開く。

 

「……あー……」

「……どしたの」

 

 髪を黙々と編み直している間に、エマは平静を取り戻していた。少し疲れたような、平坦な様子で、尋ねる。

 純丘はしばらくケータイの画面とにらめっこしていた――どう睨みつけようが文字列に変化がない現実に向き合うこと数秒――現実を受け入れて、まずは嘆息した。

 

「……イザナくんに会いに行く前に、君には、ひとつ約束してほしいんだが」

「……なに?」

「俺の手が届く範囲内から絶対に出ないでほしい。そうだな、半径二mかな」

「……もしかして、怖い話してる?」

「うんしてる」

 

 諸事情を駆使することで居場所はわかったが、付随する情報は【関東一タチが悪い不良どもの溜まり場】とのことだ。どう考えてもあまりに治安が悪い。少年院送致というのはやはり冤罪でもないらしい。

 冤罪だった方が純丘的には助かったが儚い希望だった。

 

   ➤

 

 少年院から出たものの〝オニイチャン〟はめっきり手紙も送ってこなくなった。

 手紙の差出元の住所を頼りに訪ねた先には、確かに家は存在したが、一軒家の玄関には取り壊しの日程を記した簡素な看板が提げられていた。

 〝オニイチャン〟の行方は杳として知れない。果たしてどこへ行ったのか。手紙という物証だけが残されている。

 

 黒龍(ブラックドラゴン)を支配する。極悪の時代を作る。

 好き勝手に、好きなように、俺たちの生きやすい国を――黒川イザナはそのように定義する。

 

 取り残されたこころのうちで奇妙に風が吹いている。

 乾燥しきった空風が吹きすさぶ。

 

「なに焦ってんだよ」

「誰が焦ってるって」

「そういうとこだろ、ッぶねえ~……」

 

 振るわれた蹴りを間一髪で避けて、冷や汗をかいた蘭が「ハイハイ、黙ってやるよ」それでも気障ったらしく肩をすくめた。

 

「ったく、せっかく気分転換にでも呼んでやったってのにあの暴君……」

「兄ちゃん煽んのやめろマジで。なんかまかり間違ってコンポ破壊されたらどうすんの。あれ今回俺の私物貸し出してんだけど」

「諸行無常の響きありってな」

「最悪……」

「極悪ダロ」

 

 ガンガンとフロア全体に響き渡る重低音。光がしきりにまたたいている。

 灰谷兄弟を振り切って、人気のない中二階まで上がったというのに音響の精度は変わらない。いいものを使っているのだろうが今この時のイザナにとってはまるで有難迷惑だ。

 とうとう瞼の裏に現れた奇妙な紋様に、イザナは顔をしかめた。目が眩んだときの残像とまた似て非なるように、幾何学模様じみた図形が網膜に映っている。これが見えると、じきに、激しい頭痛が始まる。いわゆる閃輝暗点だ――イザナはその名称を知らない。

 乱雑に、ソファに寝転ぶ。頭痛に耐える手段を眠ること以外に知らない。

 

「クッソふらふらする、テキーラショット、こちとら未成年飲酒、なんだって五杯も……」

「部長ってお酒弱いの」

「……いい機会だから教えておくよ。テキーラの度数はバカ高い。俺はパッチテスト的に酒に強い方だし、実際強い方ではあるらしく、そもそもテキーラをショットで五杯も飲んだ時点で弱い奴は下手すると死ぬ」

「し、死ぬんだ……」

「わりと冗談じゃなく死ぬ」

 

 人気がないからこそ選んだ場所に人がやってきた。舌打ちをこぼすのも面倒で、視界の端の人影から目を逸らす。

 

「……ウチぐらいの子もいるんだね」

「マジでなんでいるんだろうな……ヤ、まあ、いいや。俺は他人にまで手は回せない」

「ウチも他人じゃん」

「……」

 

 眼差しを再度移す。今度は、よく見るように。

 暗がりで細部まではわからないが、闖入者の一人は少女。小学生半ばぐらい。鶴蝶、よりは歳が下かもしれないとイザナは思う。薄暗いフロアで髪色がきらめいていた。色素が薄い。

 一人は男。床にしゃがみ込み、てのひらで目元を抑えている。高校か、すでに働いているかもしれない。イザナの目には、最後に出会った時の真一郎ぐらいに見えた。

 

 ……真一郎、今何歳だったっけ。

 

「……それで、イザナくんらしき人間、いたか?」

 

 突然自分の名前が飛び込んできた。イザナは思わず息をひそめた。

 頭は重く、すでに痛み始めているが、上体を起こし、静かに立ち上がった。

 

「わかんない。たぶんいなかった……気がするけど」

 

 少女が答える。

 明らかにイザナの同級生ではない年ごろだが、しかし、他の年代の子どもでも関わりがあったのはせいぜい鶴蝶ぐらいだ。

 

「ウチ最後に会ったの、三歳のころだから。めちゃくちゃ変わってたら、わかんないかも」

「顔写真を手に入れておくべきだったな……」

「顔写真の心当たりとか、あるの? 部長会ったことないでしょ」

「……真一郎さんなら持ってるだろ」

 

 シンイチロウ。

 イザナの交友関係で、シンイチロウといえば、佐野真一郎一人しかいない。

 

「……どうだろ。マイキーじゃなくても、オトウトなら、持ってんのかな。ウチのアルバムはどっか行っちゃったけど」

 

 マイキー。

 こちらも忌々しくも忘れられない。真一郎と一緒に暮らしている方の弟だ。

 

「ダメもとでも当たるに越したことはなかった、俺の失策だ……あーくそマジでふらふらする」

「……大丈夫じゃない?」

「実はあんまり」

「……いったん家に戻る?」

「……エマに気を遣われるとは俺もヤキが回ったな……」

「なにそれ、ガキ扱い?」

「実際ガキだろ」

「うるっさい」

 

 おもむろに足を踏み出す。一歩、二歩、三、四歩目から徐々に足を速める。

 床にしゃがみ込む男と少女、その傍らで、イザナは足を止めた。わずかな照明をも自らの影が遮った。

 男と少女が同時に顔を上げる。

 男の、どこか賢しそうでムカつく顔にはまるで見覚えがなかったが、少女の方は面影があった。もっと幼い顔立ち。記憶の隅に残るだけのあいまいなもの。

 

「……俺になんか用?」

 

 低く、ともすれば脅しをかけるようにも聞こえたかもしれない。鈍く頭痛が始まっている。

 

「……黒川イザナ、くん?」

 

 男が慎重に尋ねた。

 

「聞くなら自分から名乗れよ」

「……純丘榎です」

「知らねえ、誰?」

「だろうな。これが初対面だし、俺と君には繋がりもない」

「……そっちは?」

 

 眼差しが移動する。

 少女は、イザナの問いにかすかに唇を震わせた。躊躇うように視線が彷徨って、やがて小さくつぶやく。

 

「エマ。……黒川、エマ」

 

 なにを言うのだろうとイザナは思う。あまりに今更の名前だった。

 妹が、エマが黒川だったのは、もうそろそろ四捨五入すれば十年も前のことになる。エマは母の手により、黒川ではなくなり、イザナが望んだオニイチャンのもとで暮らすことになった。

 

 エマひとりだけが。

 

「……もうとっくに佐野だろ」

 

 つぶやいた言葉は本音だった。

 

 それでいて――エマを手酷く傷つけるものだったらしい。

 

「……佐野でいいのか、わかんなく、なっちゃった、」

 

 ずいぶんとへたくそに笑おうとして、しかも失敗したようだ。母のもとにいたころの方がまだ上手く笑っていたはずだ。

 

 イザナは目の動きだけで周囲を見渡した。エマを連れてきた、テキーラ五杯程度で潰れかけている男――なんと名乗ったかイザナはもう忘れた――の他に、エマの知人らしき人間はいない。

 ここに佐野真一郎の姿はない。マイキーはイザナより歳が下のはずで、この男とは合致しない。

 

「くろかわもだめかな」

 

 ぽつりと床にしずくが落ちた。

 

 あ、と思う間もなく、エマはすぐに下を向いた。まるで隠そうとでもするように。

 ぽつ、ぽつ、とまた水滴が床に落ち、広がる。

 手の甲を持ち上げたエマが、乱雑に自らの目元を擦った。その手を男が止めようとして、掴み損ねた。酩酊により距離感を上手く掴めていないようだ。

 

「……傷になる、こするな」

「だ、って、ちがう、すぐとまる」

「悪い、イザナくん。少しお時間もらえないか」

「ちがう、ちがう、迷惑かけない、ごめんなさい」

 

 何事かがイザナに要請されかけた気配はあったが、エマが彼より強い口調で遮った。言葉はとっ散らかっていて、いまいち嚙み合っていない。

 

「も、もうウチのこと気にしなくていいって、もう佐野のおうちに迎えに来なくていいって、ウチもうあそこにいないからって、言いに来ただけ、だけで」

「なに……どういうことだよ?」

 

 男が今度こそエマの手をとらえて、少女の、強く握りこまれたてのひらを開く――爪のあとが残っている――そこにハンカチを握らせた。

 

「……いろいろと事情がある。話してもいいなら、話しておきたいところだが。当事者には聞く権利があるだろ、」

 

「イザナ? なんか絡まれてんの?」

 

 階下に続く階段からひょいと顔を出したのは竜胆だ。

 ややこしいタイミングが過ぎる。イザナは舌打ちをこぼした。階段に張られたカーペットが、近寄る足音を吸収していたようだ。

 

「うちの大将に絡むやつってなずいぶん蛮勇じゃねえ? 泣く子も黙る黒龍(ブラックドラゴン)八代目――」

「兄貴、ガキの方もう泣いてる」

「——初速が早ェのな。で、女一人守れねえ護衛チャンは」

 

 灰谷兄弟の兄の方も姿を現した。どう考えても愉快犯、見物客である。

 ずいぶんと楽しげに、謳うようにつぶやいて――その目が見開かれる。

 

「……フクブ?」

 

 誰だよとイザナは思った。男の名乗りは覚えてないが腹部とは言ってなかった。気がする。

 腹部の意味ではなく副部長の略称であるとは、ここでは誰も教えなかった。

 

「えっフクブ? そいつ?」

 

 イザナの困惑をよそに竜胆も素っ頓狂に驚いて、まじまじと見る。エマではなく、男の方を。

 

「あほんとだ。マジ久しぶりじゃん。なにしてんの? 葉っぱとかキョーミあったっけオマエ」

「……自白じみた言葉は聞かなかったことにしておこう」

 

 男は小さく呻いた。未だしゃがみこんだまま、頭を押さえており、いよいよ酔いが回っているようだ。エマに貸し出されたハンカチは、水分を吸収し、加えて強く握られ、しなびている。

 がんがんと、竜胆が好む洋楽バンドだったか、ヘビーメタルが響いている。脈拍の音は近く、いよいよ頭が強くきしんだ。

 こめかみを締め上げる激痛に、イザナはまるで、吐きそうな気分だった。

 

少年院(ネンショー)入ったら縁切れるとかマジで薄情だったよな、副部長さんよォ」

「俺が悪いのかなそれは。……少年院云々というよりは、周囲のごたごたがいろいろとな。受験と、一人暮らしの準備もあったし」

「フーン言い訳とかつまんねえぞ」

「やーいやーい」

「……もう好きに解釈してろ」

「……なんか疲れてね?」

「文化祭んときより顔色ひでーよな?」

「……うん」

「うんて。……。どうした?」

「……俺も、聞きたいよ。いきさつは知ってるってのに、なにひとつわからねえままだ。どうしてこうなったんだろうな……」

 

   ➤

 

 純丘はひとしきり吐き戻したのち、頭痛薬とウコンを買ってきた。

 イザナの頭痛は、市販の頭痛薬を放り込めばだいぶんましになった。

 

「……」

 

 なので、イザナが額に手を当てて天を仰いだのは頭痛のせいではない。

 

 万次郎の事故、万作の死、霊感詐欺や高額民間療法、バイク屋の夢をあきらめて介護職への転身――物見遊山でついてきた灰谷兄弟が「うわ重~」「やべ~」などとたまに入れる茶々が、ある意味清涼剤とかいう珍事。

 

 廃墟を勝手に占拠したアジトのうちひとつ、埃っぽいソファは不法投棄されたものを運び込んだから、クッションはほつれて穴が開いている。

 久々に涙をこぼし、泣いて、泣いて、泣きつかれたエマは、話の最中に寝てしまった。埃っぽいソファに身を横たえて、枕にした純丘の膝に「かたいしたかい」と感想を述べた。コイツは、の顔をした純丘はそれでも文句は言わず、少女の頭を払いのけることはなかった。

 

 イザナは、今一度、語られた内容を反芻する。

 心底忌々しいもう一人の弟に訪れた悲劇。心底慕った兄が神経をすり減らすさま。家出に至った妹。全く知らない他人たる、眼前の語り部。

 

「……それ、」

 

 口を開く。

 

「真一郎、今は一人か?」

「少なくとも俺ほど家に入り浸ってる手伝いは他にいなかったな」

 

 まだ若干顔色が白いが、酒精を粗方吐き戻した上で、ウコンと、水も口にしたことで、平常の思考力は戻ってきたらしい。

 純丘はすぱんと断言した。

 

「真一郎さんのご友人はたまに……主に詐欺どもを追っ払うためとか、真一郎さんへの差し入れとかで、顔を出していることもあるが。たまにだ。俺もエマもいなくなって、頻度は増えたかもしれない。あとは万次郎の友人が見舞いに来るぐらいか」

「アンタは、もう入り浸ってねえわけだ」

 

「……俺は、そこまで万能ではないし、情に厚くもない」

 

 その回答は限りなく無感情である。

 

「あの人の心境は察するに余りある。傍から見ても哀れだよ。介護の人手は足りない。しかし稼ぎ手も足りない。家の中のことを行う人員もいない。真一郎さんを心配する人はいても、回復の見込みが薄い万次郎の未来を望む人間はそうはいない。弟は諦めろと諭す人は少なくない。もちろん真一郎さんは許容できない。彼からすれば当然だろう。弟を自ら殺しかけたようなものだ」

「内容のわりに、他人事みたいだな」

 

 棘のある物言いだ。

 純丘は小さく息をつく。もちろん純丘と佐野家は赤の他人だとして、しかし彼自身、自覚はある。

 ほとんど快復の見込みのない弟のための献身。身をすり減らした先に待ち受けるものは破滅だ。経緯を聞けば誰にだって予想できる。そこから手を放してしまえば、見捨てたも同然だ。

 

 恩人だというのに――

 

「……心底同情した時期があった。協力した時期があった。今でも心境に変わりはない、けれど、真一郎さんにはまだ彼の友人や知人がいる。エマには――もう、万作さんは死んでしまった。真一郎さんにエマを顧みる余裕がない今、本当に、誰一人、頼れる人間がいなくなる」

 

 ――恩人だとしても。

 

 純丘は、確かに情に流される傾向はあるが、線引きははっきりしている。メリットとデメリットの考慮、リスクの比較。

 たとえ恩人だからといって、真一郎に肩入れし続けて、蔑ろにされた少女の行く末はこちらも目も当てられない。

 

「エマには、母さんがいただろ」

 

 イザナは指摘する。

 

「……母さん?」

 

 純丘は眉をひそめた。

 

「佐野桜子さん……真一郎さんや万次郎の母君のことなら、万次郎の事故よりも前に死んだ」

「違ェよ、そいつは俺も知らねえし。オマエには、黒川カレンって言えばわかるのか? 今は、そっちも佐野か?」

「……黒川カレンならわかる。エマを生んだ母親の?」

「そうだよ。真一郎と……マイキーとは、血が繋がってねえから肩入れする理由もねえんだろうけど、エマは、そっち頼れただろ」

「……頼れるわけないだろ」

 

 本当になんの話だ――純丘は困惑した。

 

「俺が面識ないとかそれ以前に、万作さんが遺した電話帳の電番すら、既に繋がらない。そもそも彼女、今も関東にいるのか? 君は把握しているのか?」

 

「……は?」

 

 イザナが当惑の声を漏らした。

 

「なん。……か、あさんが? ……なんで、いつから?」

 

 大人顔負けの貫禄でやり取りをしていた少年が、このときばかりは、どこか幼くすら見えた。

 嫌味や皮肉のたぐいではなく、本当に知らなかったようだ。純丘はやはり、どこか他人事じみた理解を為す。

 

「……俺が把握している限りで言うなら、エマを佐野家に引き渡してから音沙汰がない。正直、生きてるかどうかもわからない。探そうと思えば探せる、かもしれない、が……」

 

 探せるかもしれないが、純丘には、捜索に割けるだけの余力は正直ない。生きていたとして、見つけ出したとして、多感な時期に差し掛かった娘を今更引き取ろうとするかも怪しい。

 実際、黒川カレンは一度親権を手放している。手放すだけの理由はあったのだろう、少なくともカレン当人にとっては。

 

 なによりおそらく、エマ本人が望まない。約束を破棄するため、迷惑をかけないため――おそろしく後ろ向きながらも理由があったイザナとは、決定的に異なる。

 

「……フクブさあ」

 

 蘭がここで、相槌や感想ではなく明確に、口を開いた。

 

「今日なに食った?」

 

 いきなりなんだと思ったのはイザナも純丘も双方ともである。

 

「……。マクドナルドのナゲット?」

「だけ?」

「……クラブで謎に飲まされたテキーラ」

「さっき吐いてたもんな~。それ飲み物な」

「ウコン」

「さっき飲んでたもんな~」

 

 蘭の相槌は平坦だ。隣の竜胆もどことなく平べったい目で純丘を眺めていた。

 まさか、とイザナが純丘に視線を戻す。既に意図に察しをつけた純丘は、視線こそ逸らさないが、微妙に目を合わせない。

 

「イヤフクブ、オマエさっきゲロってたとき、うっかり水流し忘れかけて個室出ようとして思い出して戻ってったろ? あんとき一瞬見えたんだよなァ便器ン中身。ゲロったくせして固形物っぽいのがマジでねえの」

 

 蘭姉ちゃんならぬ蘭兄ちゃんを連れているせいか、眼鏡のせいか、ともあれ今回の名探偵は竜胆の方であるようだ。

 

「消化されていれば固形物はないだろうな」

 

 純丘はやはり微妙に目を合わせないままである。

 

「この三日遡ってもいいぜ? なに食った? 言うだけ言ってみろよ、信じてやるかどうかはさておき」

「……。いや……」

「空きっ腹に酒はよく回るよなァ?」

「ウコンよりカロリーメイトが必要なんじゃねえの?」

 

 悪辣な笑い声である。視線が絶対零度まで冷えている。

 眼差しと指摘は言葉よりも雄弁だった。愚かな人間だとでも思っていることだろう。

 

「なァに、オマエ。手法は違っても、家族に〝コイツなら大丈夫〟って扱い受けんの、昔のテメエにでも重なったか?」

「自分の取り分削って施しって? ったくやってることはご立派だよなあ。やってることはよ」

 

 全く立派とは思ってもいない口振りだ。

 

 灰谷兄弟は、自己犠牲精神を鼻で笑い、ボランティアには興味がなく、募金箱を意図もなく蹴飛ばす人間だ。かつての副部長の親切を、いかにも訝しみ、警戒の眼差しで眺めた。

 あのときは純丘にも、灰谷兄弟に関わるだけの理由があり、メリットがあり、ゆえに彼らは矛を収めた。

 

 あのときは。

 

「カワイソーなエマチャン、頼ったフクブもジリ貧で勝手に身ぃ削って、このままいつまで保つかもわからねえって、ヒデェことすんな?」

「……自覚はあるよ」

 

 純丘の声色はきわめて平坦だった。

 

「けれど——他にどうしろって?」

「見捨てれば?」

 

 間髪入れずの即答。羽のように軽い言葉にイザナが眉を跳ね上げた。

 純丘はまるで無表情だ。腕組みをしたまま身動ぎもしない。

 

「馬鹿正直にそのまんま児相に駆け込もうとするからアホなんだよ。法律なんざけっきょく土壇場じゃ守ってくんねえ。実際、フクブのことだし、いくらでもやりようはあるだろ?」

「……無理だよ。三度も捨てられる経験を積ませるわけにはいかない」

「面倒もろくに見れてねえくせして、拾う方が無責任だ。そう思わねえ? なァイザナ」

「……」

「第一、血も繋がってねえ、戸籍も無関係、テメエの雇い主の孫ったって、さっきの話じゃ、その雇い主はとっくに死んだんじゃん? 手放す理由しかねえだろ」

「……わかってる。そんなことわかってる、わかってるけど、」

 

 言葉の語尾がわずかに震えた。

 

「……それで手を離せるというなら、最初から、抱え込みやしない……」

 

 一瞬のことだった。

 やはり特に表情を歪めることもなく、純丘は、首を横に振った。

 

「……どうにかする。少なくとも、共倒れの結末は生まない。絶対に」

「幸せになって七十年後に畳の上で大往生、ってのは?」

「夢は時と場合によって変遷するモンだろ。そういう君とて、中学時代の夢は外タレじゃなかったか?」

「テメエと一緒にすんな。外タレは単なる夢じゃねえし、いずれ実現する目標だし」

「ハイハイそうだな」

 

 ごねだした蘭に純丘は雑に相槌を打った。ろくに耳を傾けちゃいない。

 エマを起こさないように抱き上げて、器用に背負う。

 

「実際わりと抜け穴は思いつく。最近無理していた自覚はあるが……そんな心配せんでも上手くやるよ」

「今の話聞いて言うに事欠いて心配とか、やァっぱオマエ頭パッパラパー?」

「勘違いだとしてもそう思い込んで生きていくが?」

「はー! 減らず口! マジでドブクソ!」

「てか今フクブどこ住んでんの? 実質一人暮らしならいろいろ悪ィことできるよな」

「絶対来るな」

「ウソウソ溜まり場に使えんじゃねって」

「マジで来るな」

「ったく冗談通じねえな〜」

 

 揶揄いとスレスレのジョークを駆使して、灰谷兄弟は純丘の住所を手に入れた。

 イザナは最後まで押し黙っていたが、沈黙は彼自身の選択であり、耳はきちんと機能していたので、純丘の自宅の住所をきちんと聞き取っていた。

 

 改めて内情を知った真一郎の様子は、もちろん、見に行くとして。

 ……見に行くと、して。

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