【完結】罪状記録   作:初弦

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 Ⅱ

 

「フクブの部屋マジで狭ェな」

「……文句言うなら帰れば……?」

「ア? なに?」

「文句言うなら帰れば?」

 

 エマは一言一句正確に繰り返した。なんなら腹から声を出した少女に、蘭が舌打ちをこぼす。

 

「このガキ、度胸はマジでそこらのゾッキーよか一人前なんだよなァ」

 

 上がり込んだ兄に続いて「肉持ってきた」竜胆がビニール袋を小さなテーブルに下ろした。

 無造作に突っ込んだ肉類は、袋の中で完全に縦向きになってしまっているせいで、タッパーの端の方に完全に寄っている。ビニール袋の底には若干血だまりが形成されていた。

 

「部長が頭抱えそー……」

「食糧配給にケチつけやがるよなあ?」

「配給っていうか、リクエストじゃん。お兄ちゃんこれ作ってーじゃん」

「このガキマジでウザい」

 

 勝手にベッドを占拠した蘭。いまだ余っているベッドの端に腰かけてゲームコントローラーをテレビに繋げた竜胆。まったくもって自由人どもである。

 エマは半目で彼らを眺めた。

 

「……夏どうするんだろ部長、ただでさえなんかぎゅうぎゅうで気温高いんだけど。絶対暑いんだけど」

「エアコン繋いででも居座る」

「ヤダもうホント……ニィなんでこんなのと友達なの……」

「エ、俺らンこと友達っつってたのイザナ」

 

 竜胆がぎゅんと振り返った。蘭も枕に肘をついて半ば身を起こしている。

 灰谷兄弟二人の謎の圧を含む眼差しに、さすがに気圧されたエマは「そうじゃないけど、あんとき、そう見えたから。……違うの?」尋ね返した。

 途端に灰谷兄弟は二人そろって舌打ちした。

 

「ンだよテキトーこきやがって」

「ねえこれウチが悪いわけ!? マジでおかしくない!?」

「肉の配給ありがとう灰谷ども。叩き出すぞ家から」

 

 言い争う声はアパートの外まで聞こえていた。下手すると隣近所から壁ドンされかねないなと危惧しつつ、純丘もまた靴を脱ぐ。

 カテキョのバイト終わりにコレに遭遇する俺の身にもなれよ。仮にも家主だぞ、俺が。

 

 肉はありがたく冷蔵庫にしまった。きっと夕飯になる。

 

「ウワもう帰ってきやがった、なあ~やっぱ狭ェよこのクソボロアパート」

「つかこのベッドせめてマット換えね? マジ安物」

「不平しか言わねえ……」

 

 食糧配給は、理由の半分以上が〝食いたいから調理させたい〟だろうとエマ同様に純丘は推測しているが、とはいえ確かに(ごくわずかながら)純丘の限界生活への配慮も含まれてもいる。

 食生活は身体の資本、灰谷兄弟が持ってくる食料は地味にだいたい質がいいので、一瞬飢えかけていた純丘の栄養バランスも劇的に改善した。

 ……改善したのだが、本人たちがこの態度なので本当に素直に感謝しにくい。なんなんだこいつら。

 現金を渡してこないあたりは、短き中学生活の間でもようよう性格を把握されてしまっている。本当になんなんだこいつら。

 

 別に純丘も無警戒ではない。たとえ気遣われていようとも。上がり込んでくるこの少年たちは傷害致死の前科持ち、おそらく他のありとあらゆる犯罪も、バレてないだけできっちりしでかしていることだろう。

 純丘の一人暮らしなら軽くあしらってなあなあに共存する程度でよかったが、今はエマがいる。エマの兄たる黒川イザナと親しく、彼に敬意すら払っているようなので、最低限の予防線は機能している……と見てもいいが。

 

 それはそれとして。

 

 エマにも友達付き合いがある。友人らと久しぶりに遊ぶ、109でウィンドウショッピング、意気込む少女を純丘は快く送り出した。

 自宅にはやはり何故か入り浸る灰谷兄弟が残された。

 

「念の為釘を刺しておくが」

 

 まるで我が家のようにくつろぐ後輩たちを前に、純丘は真顔で、平坦な声で述べた。真面目な話をするときの前触れである。

 わかりやすく嫌そうな顔で、それでも兄弟は各々身を起こして、話を聞く姿勢に入った。

 

「エマに手ェ出すなよ。あらゆる意味で」

「あのなぁ〜俺ら選り取り見取りなの。よりによってあんなクソガキサンドバッグにしてなんの意味があるわけ?」

「ヤでも顔はアリ、もうちょっと胸育ったらアリ。……いやいやいやそんな怖い顔すんなってジョークだろジョーク、可能性の話だぜ?」

「万一非同意に手を出した場合、俺は引き合わせた責任を持って君らをきちんと社会的に殺す」

「ガチじゃん」

 

 笑い飛ばしかけた竜胆が、ついで、少しつまらなそうな表情を浮かべた。

 

「……そんなに大事? あいつ」

「たとえ君らが似たようなことをされても俺はそうするだろうよ」

「おい、キショい仮定ヤメロ」

「君らがこの手の話題をどう思っているかは知らねえが、俺は、こういう話をあまり茶化したくない」

 

 純丘はテーブル脇に腰を下ろした。

 明らかに意図的に視線を逸らさない元副部長に、竜胆は小さく舌打ちをこぼす。蘭は無感情な目つきで二人を見比べていたが、やがて再度口を開いた。

 

「ちなみに強姦の時効って十年だしなんならそんな罪重くねえけど」

「そうだな。現行法では、少なくとも改正されない限りは三年以上の有期刑しか課せられない」

 

 純丘はきわめて淡泊に相槌を打った。

 そして続けた。

 

「俺ではない他人が定めた、単なる決まり事だ」

 

 その単なる決まり事を、普段最も重視しているのは誰であろう純丘なわけだが。

 

「……なんでオマエ、昔、優等生とか言ってられたわけ?」

「今でも言ってるが……?」

 

 過去形のように物語るなというのが純丘の本音で、現在進行形のように語るのはもちろん過去形でも正気を疑う、というのが灰谷兄弟の本音である。

 

   ➤

 

 真一郎は確かに介護施設で働いているようだ。看護師の制服をまとって、車椅子を押す手つきはもはや慣れたもので、その手がバブのクラッチを握ったのはきっとずいぶんと前の話だった。

 佐野の父親は交通事故で死んだらしい。そのせいか、車を好まなかったはずの男は、多機能の車椅子を慣れた手つきで社用車の後部に詰め込んだ。大島介護センターとラベルを貼られた車。

 やつれた顔のいきもの。おそらく死にかけ。車椅子とベッドを往復するばかりで足は乾いた棒切れの如く。

 バイクばかり弄って染み付いたオイルの臭いは、きっと、とうに消えたのだろう。

 

 確かめるつもりもなく、イザナは、声もかけずに立ち去った。

 

 お兄ちゃんの残骸。憧憬と夢を自ら踏みにじる。

 踏みにじりなから、人違いだろと、内心、言い聞かせる。

 

 だから……そのとき声をかけてしまったのは、たぶん、気の迷いでしかなかった。

 

「アンタは他所の子。血がつながってないんだよ」

 

 吐き捨てた女は視線を切って、パチンコ台に目を向けた。量産品の豪華な遊具は絢爛な音と光を撒き散らす。成果は得られなかったのか「シケてんな」と悪態をついた。

 

「当たり台だと思ったのに」

 

 プラスチック製、パステルカラーの安っぽい箱のなか、無数のしろがねの球体が光り輝いている。いくつかの傷や凹凸を抱えた曲面、歪んだかたちで周囲の光を反射して、奇妙な鏡面と化していた。

 呆然とするイザナの表情を中央から拡大して映し出す。

 

 黒川カレンの前の夫と、フィリピン出身の女が作った連れ子。

 それすなわち、イザナの父親は佐野真ではなく、イザナの母親は黒川カレンではない。

 

 真一郎とはなんの血縁関係もない。

 エマとも全く、血の繋がりはない。

 

 他所の子。他所の子だから捨てたのだそうだ。他所の子だから佐野家には預けなかったそうだ。

 血の繋がりのない、縁もゆかりも無い、赤の他人だから。

 他所の子、だから。

 

 ……だったら、

 

 ジャラジャラと甲高く音が鳴る。パチンコ台は色とりどりに輝いて、成功の演出を綴った。今度は当たったようだ。

 喜色を浮かべたカレンはプラスチックの空箱を足で乱雑に押しやった。銀色の球体が次々に吐き出される。煙草を雑にもみ消したのち、両手で箱を持ち上げて、重ねる。

 それからようやく、立ちすくむイザナをふたたび見た。未だその場から動かぬ少年に、面倒がるような、訝しむような、そんな顔つきをしている。

 その顔立ちは実母であるがゆえかエマに似ていて、しかし、決定的にエマではあり得なかった。

 

「……話は終わったでしょ。まだなんか用?」

「だったら、」

 

 イザナはちいさくささやいた。

 

「エマはなんで捨てられた?」

 

 パチンコ店ともなれば機器の音で騒がしく、ろくに聞き取れなかったのかもしれない。カレンが眉をひそめる。

 

「あいつも血が繋がってねえの?」

「……なに? ……ああ、エマ? あの子は……べつに」

 

 カレンの眼差しがまたパチンコ台に向けられる。手元はポケットを探って、潰れた煙草の箱を取り出した。残り二本しかない煙草を器用に指先で探り当てて、うち一本に火を付ける。

 

「真さんの家が引き取るって言うから、そっちにやっただけ」

「アンタの子?」

「だから何」

「佐野の子?」

「そうだけど。だから何?」

「……あいつは、だったら、なんで、捨てられてんの?」

 

 黒川イザナは他所の子だから捨てられたらしい。

 しかし、エマは——他所の子ではない。

 

 黒川カレンが生んだ子どもであるなら間違いなくカレンと血が繋がっている。佐野真の子であるなら真一郎や万次郎とは半分は血が繋がっている。

 

 ああもちろんイザナは児童養護施設にいた。彼が在籍していた施設には、親を亡くした鶴蝶のような人間も、実の親に捨てられた子どももいた。

 血縁は必ずしも縁を証明しない。頭ではわかっている。

 頭では——

 

 ——心は、

 

「……邪魔だったから」

 

 左手は新しく点けた煙草を携えて、パチンコのハンドルを右手が再び握る。

 爪は長いネイルに彩られていた。付け爪ではない。おそらくろくに家事もしていまい。

 

「そう言や満足?」

 

 けたたましい機器から、母は——イザナが本当に母だと思っていた人は——目を逸らさない。

 

「だったらなんで育てたんだよ」

 

 無意識に言葉はこぼれ落ちた。

 

「なんで俺に強く生きろとか言ったの。なんであのとき——」

 

 カレンが舌打ちした。

 視線はイザナには向けられない。刹那的な博打の勝敗の方が気にかかるようだ。ハンドルを握った指が曲げられて、カツカツと、爪先は苛立たしげに音を鳴らした。

 

「うるせえよ。わざわざ説教垂れに来たわけ? ママに甘えたいお年頃? アタシはアンタのママじゃない、もう誰の母親もやってない。わかったらおうちに帰ンなクソガキ」

 

 疲弊して擦り切れて荒んだ年嵩の女。イザナにとって、今更怯えるような相手ではなく、従うような相手でもない。

 しかしイザナは今だけは足を引いた。続けて二、三歩。首を強く振って、カレンの言葉通り、踵を返した。

 

 ぐるぐると言葉は鼓膜にこびりついて反響している。

 他所の子、他所の子、血が繋がっていないんだよ。アタシの子じゃない。

 寄る辺としていたすべてがなにもかも崩れ落ちていく。お兄ちゃんはまぼろし。お母さんは幻想。妹とも血縁ではない。

 黒川の苗字は顔も知らぬ父親のものだろうか。カレンの姓であるならば、イザナはいよいよ、自らのものと証明できるルーツ、帰属できる場所は消え失せる。

 

 残るものなどもはやない。どこにも。なにも。

 真一郎は実の弟に夢中だ、けっきょくのところ——

 

 〝強く生きなさい〟

 〝お前がイザナか〟

 

 ——いったい、何様のつもりだった?

 

 闇雲に歩いた果てに、イザナの現在地は、見知らぬ繁華街にまで差し掛かった。

 帰る場所などわからない。歩いてきた道がどれかもわからない。見失ってしまった。とうの昔に。

 

「……ああ、クソ……」

 

 路端でうずくまったイザナは、頭を抱え込むようにして、呻いた。

 強烈な光と音は過敏な神経に差し障る。パチンコ店の華やかな演出は、頭痛持ちの少年にあまりに大きな負荷を与えた。

 

 瞳ににじんだのは涙ではなかったはずだ、そのはずだ、それで——

 

「——あれ、ニィ?」

「……ニィって、イザナくんか? ここ東京だけど。……本当だ」

 

 ——……それで、

 

   ➤

 

 純丘は頭を抱えた。

 

 ひとりでまともに歩けないほど不調らしき人間を見捨てるほど薄情ではなく、純丘の見立てでは救急車を呼ぶほどの病状ではなく、よしんば救急車を呼んだとしてその後の責任を取るにはシンプルに金と保険証がない。自宅に招き入れたのは致し方ない。

 蘭もさすがに相手がイザナとくれば、普段占拠してばかりのベッドを即座に譲った。

 

 とはいえ、だ。

 

「人口密度」

 

 三畳間は人間五人を収容すればさすがにすし詰め。テーブルを畳んで脇に立てかけ、バッグ類に散らばっていた教科書やテキストを詰め込んで手製のトルソー(純丘の日曜大工の賜物)に引っ掛けてもやはり場所がない。

 大きく嘆息したのち、家主は自らのキーケースと財布をポケットに突っ込んだ。

 

「エマ、ドラッグストアに行こう。薬と軽食買っておきたい。灰谷ども、お友達の面倒ぐらい見られるよな?」

「人遣い荒ェ〜」

 

 しっしと手を振る蘭の傍ら、竜胆が「買い物行ってくんならさあ」と声を上げた。

 

「アイス食いてェんだけど」

「自分で払え〜」

 

 言った瞬間飛んできた物体を純丘は咄嗟に受け止める。

 財布である。純丘の記憶が正しければ蘭のものだ。……単体でウン百万するタイプの。

 

「それで俺のぶん買ってきて? ゴディバな」

「……ドラッグストアにゴディバは売ってねえよ」

「兄ちゃんずりぃ! なァ俺のも」

「投げるなよ絶対投げるな君まで投げるな、その手を止めろ振りかぶるな、わかった買ってきてやるからあとで金額分支払え。ピノでいいな?」

「それいいと思って聞いてる?」

「行ってきまーす」

「こいっつさあ」

 

 日曜日でも薬剤師が滞在しているようなドラッグストアまでは、純丘のアパートからはそこそこ歩く。具体的には徒歩で片道十分ぐらい。

 二十三区内の駅近物件から十分は、歩く方である。

 

「部長引っ越す気ない? もうちょい広いとこ。あともうちょっと学校近いとこ」

「今の条件ですら、高校生でも借りられて家賃一桁万円ってのはそうねえんだよ。マジで金がないし物件もない……」

 

 さんさんと春の陽気が降り注ぐ時期である。エマも五年生へと進級した。コミュニケーション能力は高い方なので、友人関係も途切れないままらしい。

 純丘が見ている限りでは、エマの精神状態は小康を保っており、最近では、港区にある純丘宅から小学校に通うのが地味に遠いと再三訴えている。わがままが言える程度の余裕が生まれたのは喜ばしいことで、二十三区内の公立小学校で片道三十分はまあ遠い方だろうが、ただ純丘としてもいかんともしがたい。シンプルに金がないのと、純丘の学校までは徒歩三分の立地なので、手放したくない。

 俺が家主なんだから俺が住みやすい家であれよ。

 

 喧々諤々と理想の物件の条件について話し合う二人、は知らないことだが。

 イザナが目を覚ましたのは、彼らが出立してわずか十分後のことだった。

 

 知らない天井を前にイザナはしばし沈黙した。特に動いたはずもなかったが「起きたな?」と声がかかる。

 

「……。蘭?」

「竜胆もよ」

「イザナ起きたん? わりかし早かったな、まだフクブたち行ったばっかだぜ」

「もう十五分はかかるだろ」

 

 覗き込んでくる顔は眼鏡をかけた知己のもので、イザナは乱雑にてのひらで押しやった。「イッデ」「面白」相変わらず弟の不幸を手を叩いて喜ぶ兄である。

 ガンガンと頭のうちがわから響く激痛。イザナは顔をしかめて、てのひらの付け根で、こめかみを強く擦った。

 

「ここは」

「フクブの家」

「……ンだそれ」

「クラブでも言ったろ、俺らの元センパイ、エマチャン預かってるやつっつった方が伝わる?」

 

 エマ。佐野エマ。黒川エマ。

 佐野をいまだ名乗るべきかと考えあぐねる少女。かつては同じ黒川の苗字を共有していた妹。

 ……妹だと思っていた、少女。

 

 ——アンタは他所の子、

 

 イザナはきつく目を閉じた。

 

「エマチャンとドラッグストア行ったのが十分前ぐらい。もうちょいすりゃ戻ってくるだろ」

 

 エマがニィとなぞる声、純丘が慮る言葉、どちらもイザナにも聞こえていた。上の空で、生返事をしたような気がしなくもない。

 ふたたび、うっすらと目を開けて、イザナは室内を見回した。

 狭苦しい部屋は、しかし整頓はされている。ほとんど殺風景の部屋に、生活臭としてかろうじて、使用感のあるくたびれたリュックサックや、付箋がいくつも貼られた参考書。

 に、時折混ざり込むパステルカラーの可愛らしい小物。エマのものだろうと推察できる。ひどくアンバランスで、場違いに見えた。スカイブルーの筆箱が開けっ放しのランドセルからはみ出している。

 

 同じ色をつい先程見た。

 パチンコ玉の容器、安っぽいプラスチックのトレー。

 

「……あいつって」

「あいつ?」

「し。……エマの親戚かなんか」

「……あー、もしかして、フクブがってことかよ? 知らねえけど、違えンじゃね? 元バイト先兼手伝いとか言ってた」

 

 イザナとしては言っていたようなそうでもないような。

 

「他にありそーな気もするけど、確実に血は繋がってねえと思うぜ。親戚だったらそれこそ、フクブはンなことしねえだろうし?」

「ンなこと」

「あいつの実家、醜聞大嫌いだから」

 

 蘭が口を挟んだ。(おそらく勝手に取り出した)爪切りの付属のヤスリで爪先を整えている。

 

「どんだけ好きで苦労しようがそいつの勝手だけど、詐欺師に騙された〜とか先祖代々の土地を売っ払う〜とかは首突っ込んでくるハズ。あいつの御爺様とか特にそういうの嫌いで、一族の恥扱いして金出してでも隠しにかかる」

 

 クラブで顔を合わせた純丘榎は――多少鍛えているようだが、それだけ、苦労したこともないような優男に見えた。イザナには。

 温室育ち、可愛がられて育ったタイプ、なんなら既に実家のツテで手に職でも付けて安定しているような。

 

 なるほど、金持ちかつ相応の権力持ち。名誉と評判を気に掛ける余裕がある程度には。

 第一印象と違わない。

 

 第一印象とは、変わらない、が。

 

「……このザマで?」

 

 港区内駅近物件とはいえ、築ン十年のオンボロアパートは、階段は錆びついて、甲高い音とともになんなら少し軋む。

 家賃は確実にそう高くもない。防音はあってないようなもの、この程度の声量の会話とて隣室にはほぼ貫通しているかもしれない。

 風呂なし、トイレ・キッチン共用、三畳間一部屋。切れかけの蛍光灯が頭上でちらちらと光を放って鬱陶しい。イザナが今寝転ぶベッドとて、安物で、寝返りのたびに若干偏って沈む。

 

 先だっての純丘への印象と、今語られた内情と、まったく見合わぬ貧相さだ。

 

「フクブは好きで苦労してるクチ」

 

 蘭は自らの側頭部に人差し指を向けて、くるくると回した。本人がいたら平手でぶっ叩かれているようなジェスチャーだ。

 

「俺が間違っていました今後はフリョーとは縁切ります薄汚い庶民とは関わりません御爺様や御両親の言う通りにします、って土下座して謝ったら許してもらえんじゃねえの? 直系のオトコノコだし、あんなんでも有能だし」

 

 ゆっくりと呼吸をする。時折、喉が引き攣れて奇妙な音を立てる。

 心底不調だが、イザナはそれでも、ベッドから身を起こした。その間も、彼の脳内では、繰り返し、繰り返し声が言う。

 

 アンタは他所の子――邪魔だった、そう言や満足?

 

「きもちわりぃ」

「え? 吐く? トイレ玄関出て一階突き当たり右、」

 

 もはやなにもかもが気に障る。

 

 力任せに拳を壁に叩きつければ、安っぽくうすっぺらい壁は奇妙な音を立てた。

 竜胆の案内は半端に途切れた。

 

「だったらいよいよ、あいつ、なに?」

 

 無感情な声色だ。イザナの瞳は天井を見据えている。その表情にもまた感情はこもらない。

 

「なんでエマに構ってんの? ペド野郎?」

 

 イザナの頭の中では、ガンガンと、激痛が暴れている。いつものことだ。

 ひどい頭痛は平衡感覚まで狂わせる。耳の中では、雨の音にも似た騒音が、延々と強弱をつけて鳴り続けている。ざあざあ、ざあざあ、鼓膜よりも近い場所で、不快に神経を逆撫でする。

 

「……それも違ェんじゃね? 手ェ出してる素振り、ねえしな。見た感じ」

「売り飛ばすとか?」

「たぶんそれもねえだろ。借金返済と学校とガキの世話まで並行してっからガチ貧乏キメてるだけで、収入自体はわりとあんのよ」

「だったらあいつ、マジで、なに?」

 

 それは中学時代の灰谷兄弟も常々思ってきた。

 同じ部の副部長というだけで顧問の指示を聞き入れて、部員を抑え込み、喧嘩を仲裁し、警察署に差し入れまで行う。全く奇妙な変人だ。

 しかし純丘榎はそういう人間だ。数ヶ月も週三以上の頻度で顔を合わせ続けていれば、否が応でも理解する。

 明言された台詞、垣間見えた諸事情、言葉にはされないが推し量れるもの――

 

 ――イザナと純丘の対面は、まだ、これが二回目である。

 

「意味わかんねえよ。道楽のつもりか? いいよなァ、なんも考えずに手ェ伸ばせるやつは。あとで駄目だったとき、やっぱ無理でしたーっつって、簡単に手放せるつもりなんだもんな」

 

 もう一度壁を拳で叩いた。

 イザナの膂力はその体格に見合わぬほど強靭だ。ぱらぱらと天井から埃が降ってくる。

 手抜き工事を放置したまま古びたアパートは、極悪どもでなくとも、中高生が本気で暴れた場合下手をするとおそらく冗談でもなく倒壊する。

 

 と、いう点と。

 

 灰谷兄弟は視線を交わし――間に合うか? ダメじゃね?――二人揃って意見一致、迅速に、被害をできるだけ回避する方向にシフトした。

 こんな状態のイザナに声をかければ自らまでもがサンドバッグにされるだろう、という点が、ひとつ。

 

 ……カンカンカンカン、金属製の外階段を足早に駆け上る音がする。タイミングを考えればただひとつ。

 ご帰還だ。三畳間一部屋における本来の住人の。

 

「他人のことなんだと思ってんだ? カワイソーで都合の良いペット? ごっこ遊びがしてェならお人形とでもやってろよ。善人ヅラしてェなら駅前で募金箱でも持って突っ立ってろよ。勝手に、ヒトを、巻き込んでんじゃねえ」

 

 ざあざあと唸る耳鳴りと、壊れたカセットテープのごとく脳内で繰り返し再生される台詞と、どちらもイザナの聴覚をむしばんだ。加えて頭に血が上り、興奮しきった少年にとって、外界の騒音は不可視の薄皮を隔てて遠くにある。

 階段を上り切り、廊下を横切る足音も。

 

「ぜんぜん大事じゃねえだろ、あっさり忘れて捨てられンだろ、だったら大事みたいなフリすんなよ、いったいなんのつもりだったんだよ、どうせ裏切るくせに――」

「ここ日本国の憲法では好き勝手思うのは君個人に保証されている権利だが、だからってどこでもなんでも好き勝手言っていいってもんじゃねえ。特に君が今いるのは俺の家だ。口が過ぎねえうちに自重することをおすすめするが」

 

 純丘の言葉は、努めて感情を押し殺した、平坦な響きをまとっていた。

 玄関扉を開ける仕草はもしかしたら乱暴だったかもしれない。

 

「……ああそう、だったら、認めんの?」

 

 口をつぐんだのはごく一瞬のこと——イザナは平坦に尋ねた。

 

「帰る場所、頼れるアテもがあるからな? いざって時は尻拭いしてもらえるもんな? 一回希望でも寄こしといて、勝手に取り上げて、ンでなかったことになってもどうでもいいもんな?」

「誰もが君の言うように行動するわけじゃねえぞ」

「口先だけならなんとでも言える」

「そうだな。口先だけならなんとでも言える。君だって口先だけならなんとでも疑える」

「ッ」

 

 はたから見ても、純丘にしては些か()()()()()ほど意地の悪い返しだった。

 苛立ち混じりに投擲されたちりごみを、やはり見もせずにはたき落とす。

 

「お~いフクブ、いつもの理性はどうした? ブチギレじゃん」

「イザナもさあ落ち着けって、コイツいじっても得ねえよ? 最近筋肉落ちてるから喧嘩しても楽しかねえし」

 

「裏切られるぐらいなら、最初から期待なんざしない方がマシだ」

 

 灰谷兄弟が(珍しくも)なだめる声をかけたが、イザナは聞いちゃいなかった。吐き捨てた言葉はほとんど呪詛のようである。

 むらさきいろは、刺すように、純丘を睨んでいた。ひどい頭痛で焦点は定まらない。

 

 脳裏では、イザナ本人の意思に反して、彼の記憶が展開される。

 別れ際、涙を浮かべた黒川カレンに声をかけられたこと。

 初対面、快活に笑った佐野真一郎が兄だと名乗ったこと。

 

 すべてが偽りだった。

 なんの役にも立たぬ嘘ばかりだ。

 

「最初から、助けなんざ、ない方がずっとマシだ……」

 

 同じ気持ちをきっとエマも味わう。イザナは自らの経験から、そのように確信している。

 イザナが妹だと思っていた赤の他人は、既に二度、イザナと似て非なる、しかし同一の対象から捨てられている。

 

 二度あることは三度あるだろう。

 

 傷は早いうちに作られるべきだ。まだ浅い傷で済む間に。

 致命傷となる前に。

 

「いらねえよ、クソみてえな偽善なんざ」

 

 耳鳴りが響いている。

 ざあざあ。ざあざあ。

  ざあざあ。

 

   ざあざあ、

 

「……あっそ」

 

 と言ったのは、純丘の斜め後ろで、今まで押し黙っていたエマだった。

 出かける時よりずっと血の気の引いた顔——それでいて、どこか他人事のように無感情な顔が、イザナを俯瞰する。

 小五ともなれば十歳は越えており、そろそろ第二次性徴期だ。顔つきもどことなく大人びてきて、エマは——その顔は、母親に似てきた。黒川カレンのそれに。

 

「お節介だったね。ごめんね。なんにも考えずに手ェ伸ばしちゃって」

 

 道端で倒れかけていたイザナを見つけたのはエマで、純丘宅まで連れてきたのは、純丘がエマを尊重したためだ。なにも考えすに手を伸ばしたという点ではもちろん当てはまるだろう。

 イザナの罵倒は安アパートの薄い壁を貫通したが——彼らはアパートへと帰り着くその最中だったため、またイザナの声も大きくなっていったのは途中からだったため、前半部分を聞いていない。

 個人が特定できる部分を聞いていない。

 

 どちらに対する八つ当たりなのか、判別できる材料はなかった。

 

「もういい」

 

 イザナが二の句を継ぐ前にエマは身を翻した。

 

「部長はついてこないで。絶対」

 

 咄嗟に同じく踵を返そうとした純丘には、しっかりと釘を刺された。

 玄関扉を閉ざす勢いは、おそらく先程の純丘の仕草よりも乱雑だった。

 

「……」

 

 踏み出しかけた足を、戻す。純丘はそうして一度目を瞑った。

 治安が悪い場所には近寄らないよう常日頃から言い聞かせており、そうでなくともエマはそのあたり聡い子どもで——なにより、今追いかける方が悪手だった。

 

 嘆息して、純丘は改めて目を開くと、室内を見渡した。

 取り残された少年と、ど〜しよっかな、の顔をする後輩二人。

 

「……一回、頭を冷やそう。ピノは買ってきた」

「ゴディバは?」

「ない」

「おい」

「ないもんはない」

 

   ➤

 

 世界はすべてにおいて平等で、ゆえにあまねく物事こそが不平等だ。

 

 平等ゆえに幸福も不幸もランダムに降り注ぎ、偏った人々に幸福が差し出され、偏った人々に不幸が齎される。

 幸福が訪れやすい立場というものがあり、不幸が降りかかりやすい状況というものがある。

 

 ごく円満な家庭は決してフィクションのみに存在するものではなく、同様に、天涯孤独な人間も、崩壊した家庭も、決してフィクションだけに限定されるものではない。

 

 黒川イザナは間違いなくとんでもない罪悪を積み重ねた不良少年である。が、しかし、彼の血の繋がった親が既に亡くなっていたこと、イザナ本人がそれを知らなかったこと、黒川カレンがイザナを施設に預けて親権を受け渡したこと、そのすべてイザナに非はない。

 人間不信を養うには充分な出来事であろう。純丘を警戒し、疑うにも、材料は揃いすぎている。

 

 問題があったとすれば、

 

「……タイミングが悪かったな」

 

 イザナが爆発したいきさつ――散文じみた、まとまりのない言葉に黙って耳を傾けて、純丘はやがて一言述べた。今は怒りはとうに鎮火して、アーモンド味のピノを丁寧に剥くところ。

 箱で買ったピノは横倒しに開けられて、個包装の残骸が箱の上に積み重なっている。

 

「マジでフクブがキレるポイントわかんねえ、そこは別にいーんだ?」

 

 首をひねる竜胆はピノのバニラ味をほおばっているので、声が若干くぐもっている。これで三つ目だ。

 なお、蘭はゴディバ買ってくるなどとのたまって外出した。そんなにゴディバにこだわるものかよ。

 

「エマにキレるのはどう考えたって八つ当たりだが、俺がキレられるのはまだ理解できる」

 

 純丘は淡々と言った。イザナの拳(脊髄反射的抗議)が背後から飛んできたのでこちらは片手で止めた。

 キレられるのは理解できるがそれはそれとしてしっかり自衛する。理解を示すことは、理不尽を受け入れることと同義ではない。

 

「実際、兄弟でも親戚でもない、成人もしてない赤の他人が、未成年どころか義務教育中の女の子の世話を預かる道理なんざないからな。犯罪利用の方が先に思いつくだろ」

 

 犯罪利用を勘繰られた本人が堂々と口に出す謎の展開。

 

「言ってることはまともだよな、同じ口で俺と兄貴にガチの目で釘刺してきたくせに」

「手を出した日が最後の娑婆だと思えよ、連帯責任で両方ぶち込む」

「なあマジでそれでカタギって言い張るわけ?」

「事実に言い張るもクソもねえだろ……」

 

 イザナは、頭痛薬を飲んで、ゼリーを腹に入れて――ついでにちょっとぐらい、世迷言を吐いて――多少は落ち着いてきたらしいが。ぐったりと相変わらずベッドに伏したままだ。

 

「……ただ、あとでエマには謝ってくれ。イザナくんがそんなつもりじゃなかったとしてもな」

「……気持ち悪い……」

「吐くならトイレは外出て一階」

「それもう俺が言った」

「そうじゃねえ」

 

 ひどい頭痛は相変わらず吐き気を喚起しているが、やはり、イザナが感じている〝気色悪さ〟は単なる嘔吐の衝動ではなく、別のところにある。

 

「なんでエマに構ってんの。なんで俺なんざ家に担ぎ込むわけ。そこの灰谷も」

 

 思いきり飛び火が飛んできた。

 チョコレート味に手を出しかけた竜胆、イザナが顔を伏せているのをいいことに、面倒そうな顔を隠しもしない。

 

「ここまで、さんざん、好き勝手言われといて、テメエは俺を追い出そうともしねえ。ろくに責めもしねえ。……気色悪ィよ」

 

 言葉選びこそ悪態や罵倒に近いが、イザナの声色は、どこか途方に暮れていた。先程刺々しく罵った時も、実のところ、根底には困惑にも似た響きが敷かれていた。

 純丘は先だっての罵詈雑言を思い出して、そのように分析する。

 

「……さて、」

 

 箱の中のピノは残り三つ。純丘は、ピノ祭りで排出されたゴミをドラッグストアのビニール袋にまとめた。

 外装の箱は古紙リサイクルだとして、ピノの個包装はいずれもプラスチック類だ。

 

「どうだろう。俺はそんなに優しくもない」

「どうだか」

「本当に相手を思うなら、失礼なことを言われたときは、きちんとしっかり叱ったりするべきなんじゃねえかな。担ぎ込む先は自宅ではなく病院であるべきじゃねえかな。エマのことは児相に連れていくべきだろうな。それこそ、大晦日のときでもねえが。最適解を選んでない自覚はあるんだよ」

 

 ビニール袋内部の空気をきゅっと抜いて、口を縛った。

 

「君らの指摘はある種正しい。なんとか無理して隠して成り立つような生活を美談に仕立て上げてはいけない。誰かの忍耐と感情論に依存するコミュニティは遅かれ早かれ自滅する――」

「だったら……」

 

「――と同時に、俺としては、こうも思う。手を伸ばすだけに、御大層な理由って、そんなに必要か?」

 

 純丘は立ち上がって、ごみ袋とかしたドラッグストアの袋を玄関脇に置いた。

 曜日が来たらば捨てなければ。それまではわかりやすいところに置いておくとして。

 

「……必要だろ」

「そうかな」

「じゃなきゃなんだってんだ」

「なんだというか」

 

 息継ぎがひとつ。

 

「あのとき、誰かが何気なくでも手を伸ばしてくれれば、たった一言でもせめてなにか言ってくれていれば、ほんのすこしでも猶予が、心の余裕が与えられれば……おじさんも、姉さんも兄さんも、死ななくて済んだんじゃねえかなと思うことがある」

 

 あのときというのはいつなのか。おじさん、姉さん兄さんというのは、血縁なのか。ある種のあだ名なのか。

 死ななくて済んだ、というのは比喩なのか――本当に、字面通り、命を落としたのか。

 純丘は詳細な情報を全く述べなかったので、聴衆たる少年たち誰も、今ここですべて理解できる内容ではなかった。

 

「実際、俺が死なない今を選ぶことになった言葉を、あの人はもうちゃんと覚えているか怪しい。……覚えていたならああはならねえだろうよ」

 

 あの人、についても、純丘は固有名詞を出さなかった。

 

 三畳間に収まるにはいささかスペースが狭すぎる。膝を畳んで座り込んでいたから、すっかり筋肉が凝り固まってしまった。ぐっと伸びをして、それから振り返る。

 

「すべてに手を出せるほど万能じゃねえし、実際、エマのことだっていよいよダメそうだったら俺は児相に頼る。公的機関に頼る。その判断をするつもりは確かにある。君らがやらかしたら間違いなく警察呼ぶしな」

「てか呼んだよな一回、ガッコに」

「うん呼んだ。あンときはまァじで教師どもが揃って日和りやがるから」

 

 中学時代の灰谷兄弟はどんなやんちゃを繰り広げていたのか、イザナは詳しく聞いたこともないが(シンプルに興味がない)今のやり取りだけでおおよそ察せられる。

 

「……イザナくんが言う通り、けっきょくは偽善だ。俺ができることにも限りがある。けど、そうだとしても、俺ができることは、やる」

「……」

 

 イザナは、下敷きにしていたタオルケットに爪を立てた。

 他人のにおい。鼻につく。やはり彼は顔を上げることはない。

 

「ところでなんだが」

 

 純丘はガラッと声色を変えた。軽快で、どこか上機嫌にすら聞こえた。

 

「君の話では、つまり黒川カレンは生きていて、なんなら東京都内にいるんだな?」

「……。突然なに?」

「いや、うん、児相に行くより先にやることができたな、と?」

 

 なに企んでんだろーな、と思いながら、竜胆は最後のピノを手に取った。

 いずれにせよ、なにを企んでいたところでどうせろくなことでもあるまい。

 

 純丘榎。自称品行方正、清廉潔白な優等生。

 必要であれば兄弟間の同士討ちをも目論み、躊躇いもなく人質を取る男。

 

   ➤

 

「……部長になんか言われた?」

「は?」

 

 膝を抱え込んだエマがもごもごと喋るので、蘭は眉を上げた。

 ゴディバを買いに行くと宣って外出した少年は、果たしてなんの気分だったのか、今保持しているパッケージはブルガリのそれだ――最高級の包装をまるでそこらの駄菓子のように雑に剥いで、チョコレートをつまむ。

 

「ウチのこと探してこいとか」

「言われてねえし、言われてたとしてなんで俺があいつの命令聞かなきゃなんねえわけ?」

「知らないけど。……じゃあ。……イザナくん?」

「キショいなその言い方、フクブみてェ」

「殴っていい?」

「殴るかどうか聞くあたりがマジでフクブの居候」

 

 キレちゃダメ、キレちゃダメ、エマは内心自らに言い聞かせる。

 

「イザナはそれこそ言わねえだろ。あいつ俺らのことコントロール不可能ぐらいに思ってるから、もともとろくに命令してこねえし」

「じゃあほんとなんで来たの」

「拗ねたガキ揶揄うの面白そうじゃん、フクブがいたらできねえもん」

「帰って……」

 

 エマは膝を抱える腕に力をこめた。もちろん灰谷蘭は帰らないわけだが。

 チョコレートを口の中で転がしながら、蘭は無意味に空を見上げた。さんさんと春らしい陽気。のんきに蝶々がはばたいて、風に吹かれて揺らめいている。

 じきに温暖は鳴りを潜め、日本列島、太平洋沿岸には梅雨が来るだろう。湿気た空気が肌を撫で、なにもかもすべてを洗い流す。雨雲が陽光の盾となり、街には暗く影が差す。

 

「……サノシンイチローってパチやんの?」

「……突然なに?」

「パチやんのって。知らねえ? パチンコ、パチスロ。それともフクブあいつそんな過保護?」

「いやそれぐらい知ってるけど。……たまーにやってたかな。でもマイキーが動けなくなってからはやってないんじゃない、そんな金ないし」

「フーン」

 

 蘭は素気無くうなずいた。

 

「だったらハハオヤの方か」

 

 どうでもよさそうな口ぶり。

 エマが少しだけ眼差しを上げると、剥いだ包装紙の上でパチンコのチラシが広げられている。

 

「……なにが?」

「大将が八つ当たりついでにぶん投げてきたポケットの中身。他あとケータイとティッシュのゴミと小銭」

 

 チラシは一度ぐしゃぐしゃに丸めたのか、しわくちゃで、跡がくっきりとついている。

 

「大将ねえ、うるせえのとまぶしーのが嫌いなワケ。頭痛がすンだと。クラブとかそれこそめったに来ねえし」

 

 招待券は要求するくせ、わざわざ自分で、より荒みたいときぐらいにしか顔を見せない。とんだ自傷行為である。極悪なる大将でなければ許されない所業だ。

 他の誰かだったらば、灰谷兄弟直々でなくとも、彼らの手足がクラブ出禁どころかボコしてこの世からも出禁にしている。

 

「だからわざわざパチンコなんざ近寄らねえ、賭けるんだったら他にもあるしな。あいつダーツとかはけっこー好きよ、あと麻雀とかカードゲーム」

 

 朗々と述べられる数々、エマが知らないイザナの話である。

 

「店内限定景品の広告、交換済みのチェックマーク。わざわざキョーミもねえおまけ目当て装って店に入った。父親は死んでて、サノシンイチローじゃなきゃ、母親だろ。黒川クロエ?」

「……黒川カレン」

「あウンそう、なんかそんな名前の」

「なにひとつかすってなかったからね、言っとくけど」

「苗字は覚えてるわ」

「ニィとおんなじだからね……」

 

 黒川カレンは――パチンコやパチスロに手を出していたかは、エマは知らないが、しかしそもそもエマは自らの実の母親についてほとんどなにも知らない。ほとんどなにも覚えていない。

 去っていくときの母親が――あまりにも珍しく――ずいぶんとめかしこんでいたこと、ぐらい。

 

「……ママと、なにか、あった……?」

 

「かもナ?」

 

 蘭の相槌は心底適当である。無造作に箱に指を突っ込んでチョコレートをもうひとつ舐める。

 

「エマチャン誤解してたかもだけど、イザナがキレてたの、フクブが年端もいかねーオンナノコわざわざ引き取ってなに企んでんだってとこっぽいから。実際正論だな。普段のイザナはべつに気にするやつでもねえけど」

 

 正論ではある。

 血の繋がりもない、赤の他人とひとつ屋根の下に二人暮らし。片方は義務教育も卒業していない少女で、片方は成人にも満たない男子高校生。

 加えて最近は、少年院送致を食らったこともある者共が我が物顔で出入りしている。

 

 純丘榎が潔癖にも法を守り、エマにただ親愛だけを送るから、灰谷兄弟に本気の釘を刺すから、どこかきょうだいじみた生活は実現しているが——そうでもなければ、エマの状況はきわめて危険だ。

 

「まァなんだろな、金せびられたとか? 近親相姦ショタコン女だったとか? 意外と川の下の子扱いされたとかでもメンタルやられるかなあいつ。大将ってわりと繊細なんだよ、あんま虐めねえでやって」

「……。アンタそういう言い方、部長に怒られたことない?」

「口うるせえよなあアイツ」

「マジ同情する、部長に。……ニィにも」

 

 嘆息して、エマはふたたび顔を伏せた。

 

「それで、けっきょく……ウチのせいでいろいろ言われてんじゃん、部長」

「ウケるよな、あの野郎マジで自分から苦労に首突っ込んでく。セルフモニタリングかよ、もしも殺されかけたら!」

「人の心ないの?」

「あるある~」

 

 だいぶんなさそうな返答だ。

 

「全方位お人好しなんざどうせなれもしねえくせに。変人ぶって良いやつぶって二重にガワだけ被るからトチんだよ。馬鹿だよなあ」

 

 つらつらと語りながら蘭はまたひとつチョコレートを咀嚼した。

 

「マジでバカ」

 

 エマは、しばらく顔を伏せていた。三角座りの膝に鼻の頭を乗せて、腕で膝頭と、自らの顔を覆っていた。

 

「……ウチにもチョコくれたりしない?」

「しねえ」

 

 即答。

 

「じゃあいいや……部長、ピノ残してるかな」

「竜胆が全部食ってんじゃね? うちの弟に遠慮とかねえよ」

「もー」

 

 少女は立ち上がる。スカートの端を軽くはたく。

 蘭は未だ、縁石に腰掛けたままだったが、不意につぶやいた。

 

「パンツ青」

「マジで部長にチクるよ」

「おいやめろよ。エマチャン知らねーかもだけどあいつ俺らにガチの顔で釘刺してきたからな。マジで下手打つと殺されっから」

「だったらなんで余計なこと言うわけ?」

「そーいう礼儀だろ?」

「おかしい、絶対おかしい、被害者ヅラされてるのが一番おかしい」

「知ってるか、正論って人を救わねえんだぜ」

「知らないし絶対そういう問題じゃないでしょ」

 

 空になったパッケージを道端に置いていきかけて「チクるよ」「このアマ……」蘭は仕方なく空箱と包み紙を自らのポケットに突っ込んだ。

 

  ➤

 

「タダイマ……」

「邪魔するー」

「おかえ……り? 君ら道中で会ったのか?」

「そんな感じ」

「ふーん。……ちょうどイザナくんも体調良くなってきたみたいだし、ごはんでも食べに行かねえかって話してたとこだよ。ここで食べるにはいささか人数が多すぎる」

「やっぱ引っ越そーよ」

「余裕が生まれたらな。ほらほらさっさと支度しろ~」

「あー俺ビュッフェな」

「近所の定食屋です」

「ビンボーくさ」

「ビュッフェ希望者は一人で行ってこい」

「拗ねんなよ大人げねえなあ」

「大人げないと謗られるべきは果たして本当に俺か? 竜胆ではなく?」

「俺は絶対に謗られねえし竜胆は俺の付属品」

「……」

「むしろリンドーも家出した方がよくない?」

「……ぶっちゃけ、考えたことはある。わりと」

「竜胆?」

「早く飯行こうぜ!!!」

 

「兄貴って、正直、いいもんばかりじゃない。具体例のうちひとつはあんな感じだとして」

「……いいもんばかりじゃねえ、とか、持ってるやつしか言えねえんだよ」

「……。そうだな。余計なことを言った」

 

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