【完結】罪状記録   作:初弦

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 Ⅲ

 

 〝強く生きなさい〟

 〝お前がイザナか〟

 

 イザナはそれらの言葉をもはや薄っぺらく感じている。

 その場しのぎの嘘。軽い気持ちの投げかけ。自己陶酔。全く不誠実な――

 

 ――同時に、イザナは果たして、他者のことを言える身だったろうか。

 

 今更ながら、彼は自らの行いを回顧した。

 エマを迎えに行くと無謀にも言ってのけた少年。この世界では、迎えに来たのはむしろエマの方だった。

 

 もうひとつ。

 

 イザナは久々に、出身の養護施設に足を向けた。鶴蝶は未だ施設で暮らしている。

 

「……鶴蝶おまえさあ」

「なに?」

 

 傷痕の走る顔がイザナを振り返る。施設の隅でしかめつらで墓を掘っていたころよりは、ずいぶんと成長したが、しかし未だ幼さも抜け切れていない。

 

「俺に命令されてヤになったことねーの」

 

 鶴蝶は目を何度か瞬かせた。色違いの瞳がイザナをまじまじと見つめる。

 

「……なんか変なもんでも食った?」

「捌くぞ」

「三枚に……?」

「それは下ろすだワ」

「そーだっけ。……でなに? ホントに」

「正直に答えろよ。答えなきゃ殴る」

「アいつものイザナだ」

 

 無言で肩パンすれば鶴蝶は苦しみのうなり声をしばし上げた。可哀想な下僕。彼はイザナのものになった時点から、イザナ由来の理不尽を被る運命にある。

 さておき。

 

「……ヤになったこと……」

 

 鶴蝶はぼんやりと復唱した。

 

「……ねえと思う」

「……本気で?」

「なんだよ、急に」

 

 あると答えたら答えたでいつもなら腹パンで済めばいいような男が、やけに疑り深い。鶴蝶は訝しむ顔つきである。

 

「ヤになったことはない。ヤな命令はいっぱいあったけど」

「なにが違ェんだよ」

「ヤなことやらされんのはそりゃ嫌だけど、別にヤなことだけやらせてくんじゃねえじゃん」

「……だったら、俺じゃねえやつのが、まともな命令するんじゃねえの」

「……ホントになんだよ? イザナ熱でもあるのか?」

 

 向こう脛をわりと本気で蹴られた鶴蝶、しばらく無言でのたうち回った。弁慶の泣き所を容赦なく狙ってくるのが黒川イザナである。金的でないだけまだマシかもしれない。

 普段と比較して驚くほどに殊勝な態度と、すぐに手も足も出る素の性格は両立・並立する。

 

「づゔ……」

「こんぐらいで泣くな(ザコ)

「泣いてねえ! ザコでもねえ!」

 

 涙目で反論し、鶴蝶はぐいっと目元をぬぐった。目を痛めるぞ――脳内を不意に過った言葉をイザナはすぐに打ち消した。明らかに気の迷いだ。

 

「……別に、でも、他はイザナじゃねえじゃん」

「なんで」

「まだ聞くのかよ!?」

「俺じゃねえやつでもいいだろ」

「よくねえよ!?」

 

 良くないのだろうか。

 イザナはぼんやりと思う。

 

 所詮、イザナは声をかけただけだ。鶴蝶が作り掛けた墓を荒らして現実を突きつけただけだ。

 おまえには寄る辺もなにもないのだと。蹲っていたところで誰も助けてくれやしないのだと。

 

「俺は……イザナの下僕なんだろ」

 

 鶴蝶は、たいへんむず痒そうな歯切れの悪い口ぶりで、そう言った。

 確かにそれはイザナが述べた言葉だ。間違いなく、数年前の黒川イザナが、身寄りのない子どもにかけた言葉である。

 

「……俺以外の下僕でもなんでも、選べただろ」

「なあホントに体調悪くねえの? 施設のやつ呼んでくるか?」

 

「答えろよ」

 

 下僕でも、友人でも、先輩でも後輩でも、なんなら主人でも――兄弟ごっこでも。選べただろう。

 

 鶴蝶は少々強気で物申す傾向はあれど、義理人情に厚く、極悪どもにすら横暴暴君と評される人間に、必死に食らいつく根性もある。主人よりはまだ穏健なので、施設ではイザナ宛の連絡は鶴蝶を介して届けられる。イザナよりよほど真っ当な人間も、当然周囲にいたはずだ。

 

 鶴蝶は、少し眉を寄せて、イザナを見つめた。

 やがてかすかに首をかしげる。

 

「……いねえよ、」

「いるだろ」

 

 イザナはほとんど食い気味に断じた。

 彼は下僕につく羽虫をよく覚えていた。下僕がどうでもよさそうにあしらうので直々に手を下したことはないが、それだけだ。

 

「松井とか。梅原とか。小鳩とか」

「そいつらはイザナよりあとだ」

「……あとかどうかなんざ関係、」

 

「あるだろ」

 

 今度は鶴蝶が断じた。

 先程のイザナよりもよほど食い気味だった。

 

「あいつらは、強くなった俺しか知らねえよ」

 

 色違いの瞳が真っ直ぐにイザナを捉えている。いつものことである。

 イザナがたとえ鶴蝶以外のものに目をかけているときでも、真っ直ぐに、イザナを見ている。

 

「生きる意味もなかった頃の俺のことなんか、なんにも知らない。施設のやつに虐められてた俺のことなんか知らねえ。職員だって誰一人、俺のことを気にするやつはいなかった。一人もだ」

 

 彼らが在籍していた養護施設はそこそこ荒んでいた。イザナはもちろん荒んだ少年のうち一人に数えられるが、そもそも、荒れるに足る環境はあった。周辺の治安が悪く、養護施設に働く職員たちは人手不足で、加えてやる気がある人間も少なかった。

 在籍していた歳上の少年少女にもいわゆる〝ワル〟は数多く、果たして、目をかけられなかったから荒んでいったのか、荒んでいたから目をかけられなくなったのか、鶏が先か卵が先かを論じたところで無意味だ。

 

 悪事への躊躇をほとんど養成しない環境では、子ども同士のイジメなど、むしろ可愛いものに分類されてしまった。

 鶴蝶はそうして、誰にも顧みられず、淘汰される寸前だった。

 

「イザナだけだった。だから、オマエに命令されんのは、別に嫌じゃない。もともとオマエに拾われた命だ」

 

「……俺、じゃねえやつが声かけたかもしんねえだろ、」

 

 イザナは声を絞り出した。かすかに言葉はつっかえた。

 

「俺がやんなくても……」

「……なんで実際イザナより遅れてるやつのこと、気にしなきゃなんねえわけ?」

 

 イザナが何もしなくとも、誰かが声をかけたのかもしれない。鶴蝶はイザナではない誰かを慕って、忠誠や、その他の絶対的な感情を捧げたのかもしれない——

 

 ——もはやあり得ないifだ。

 この夢物語において、イザナと鶴蝶の出会いを覆すようなタイムリープは行われない。

 

 かつて、イザナは黒川カレンを母だと思っていた。血も繋がらない赤の他人を――

 ——しかしイザナの苗字は黒川で、生みの母親のことは記憶にもない。まがりなりにも、イザナを七歳まで死なせずに育てたのは、カレンだ。別れ際には強く生きろと言い聞かせた。

 その本心がなんであれ。

 

 イザナは真一郎を実の兄だと思っていた。血も繋がらない赤の他人を――

 ——しかしイザナのもとを訪れた人間は、真一郎ただ一人だった。赤の他人たる真一郎は、赤の他人だったはずのイザナの前で、兄と名乗り、兄として振る舞った。

 今の彼がどのように憔悴していようとも。

 

「……」

 

 イザナは、ふいと目を背ける。鶴蝶の背後に回り込み、すとんと、背中合わせに腰を下ろす。

 そのまま後ろに向けて倒れ込んだ。

 

「暑……」

 

 鶴蝶がちいさくうめいた。

 ぐぐぐと気にせずイザナは体重をかける。おかげで鶴蝶はほとんど前屈の姿勢である。鍛えてきたのであまり負担でもないが、まあまあ迷惑だ。

 

「……イザナ、」

「……」

 

「……。マジでなんかあったか?」

 

 施設の天井は古びて、壁紙が端の方で半ば剥がれている。数年前のイザナが面白半分で剥がしたからだ。鶴蝶はイザナが使っていた部屋に割り当てられたらしい。

 

「……なんも」

 

 イザナはつぶやいた。鶴蝶は曖昧に相槌を打った。うんともふーんともつかぬ声音であった。

 

「鶴蝶さあ」

「ちなみにまだ退かねえの……?」

「は? 下僕如きが俺に指図すんな」

「ッス」

「……。妹とか会う気ある」

「いも。……え? ……妹? 誰の?」

「……俺の」

「ああうんそうだよな。……いもうと、いもうと!? イザ、妹、イザナの妹!?」

「うるせえ」

「イダッ」

「……てか、言ったことなかったっけ」

「ッテェ……あるけどマジで、それこそ国作るまで会わせる気なさそうだった」

「ああ。……そうだな。そうかも」

「会えってんなら会うけど。いいのか?」

「……イロイロあった」

「やっぱあったんじゃねえか」

「うるっせェなァ下僕のくせに」

「下僕だからだろ」

 

   ➤

 

 川崎市――東京都に面した、神奈川県屈指の工業都市のうちひとつ。

 なお、神奈川県屈指の治安の悪さも誇るものとする。

 

 うち一角。廃工場内の不良のたまり場。

 

 基本的に呪華武の総会等で占拠されている場合が多いが、本日の集いに呪華武所属は一人しかいなかった。

 

「……コイツが妹?」

 

 ジロジロと目つき悪くエマを見下ろして、それから望月莞爾――唯一の呪華武所属、を通り越して総長その人――は、集いの主催者に視線を移す。

 

「オマエの?」

 

 主催者たるイザナは澄ました顔で頷いた。

 

「ツラはわりと似てんな」

「この人たちがニィの友達?」

「ダチじゃねえ」

 

 エマの問いかけを迅速に否定し、イザナは次々に面々を指差していった。

 

「コイツが下僕、あと手、足、犬」

「イザナてめえな……」

「犬だってよ!」

「喜ぶところか?」

「俺らは?」

「財布と耳どっちがいい?」

「えー悩むな」

「悩むか?」

「鶴蝶だけかろうじて五体満足のヒト型保ってんな」

「下僕が一番格上とかそんなことあるかよ」

「つまりだいたい友達じゃん」

「ハ?」

「えなに、なにか間違ってる?」

「……度胸もけっこう似てんな」

 

 血の繋がりは全くないが、三つ子の魂百まで、生まれてから三年ぽっちと言っても、逆に言えばエマが三歳になるまでは共に暮らしていた。

 生育環境は近似値で、互いに影響を及ぼしていた。離れ離れになったのちも、真一郎から兄として目をかけられていたことはどちらも同じだ。

 

「……まァいい。コイツが公務執行妨害のモッチー。ムーチョは傷害罪。鶴蝶はまだ」

「罪状での紹介」

「まだって言った?」

「どうも……」

「鶴蝶、ここ絶対真っ当に照れるところじゃねえよ」

 

 ちょっとはにかむ鶴蝶(イザナの家族に会わせてもらえて嬉しい)の背中をしばいて「灰谷はもう会ってるからいいだろ」イザナは既知のメンツをサクッと端折った。

 

「雑〜」

「イザナイザナ!? 俺は!?」

「ああコレ、斑目……オマエそういやなんでパクられたんだっけ、誰か覚えてる?」

「エ忘れたわ、暴行とか?」

「脅迫?」

「ヤクかも」

「あのなァ俺は――」

「ヤクはマジで止めた方がいーよ。ろくなことンなんない」

「んじゃヤクってことにしとこーぜ」

「ホントになんで?」

「おい!」

 

 斑目の罪状が有耶無耶になる回。

 とはいえ既にろくでもなさが色濃いので、エマは半眼になった。治安の悪いお友達には慣れているが(主に初代黒龍関連)ここまで嬉々として罪の重さで語り合う奴らは、さすがにお初にお目にかかる。

 

「……ってか、そこ兄弟はじゃあなに? 部長のとこ入り浸れてるくらいだし、窃盗らへん?」

「俺と兄貴? 傷害致死」

「ウソでしょ」

 

 シンプルドン引き。罪状の重さがこんな軽々しく更新されること、あるんだ。あるらしい。

 つくづくどうして部長はこの兄弟と付き合いあるわけ?

 そんなものは当人たちすらいまいちわかっていたことがない。たぶん成り行きかな。

 

「つっても一番ヤベーのはやっぱイザナだろ」

「自殺教唆よか傷害致死のがギリ上じゃね?」

「いい度胸だよな、少年院(ネンショー)ぶりにボコしてやろーか」

「まっさかー」

「二人で一人殺した程度と一人で複数人潰して殺したんだったらソロのが上だろ」

「上……?」

 

 この場に純丘が不在なので、エマはひとりで訝るしかなかった。間違っても誇らしげに序列をつけるポイントではない。本当にどうかしている。

 多数決の欠点とは、多数派の意見がとんでもないことになっていると間違った方向が訂正されずに突き進んでしまうことである。

 例はこのように、極悪ども。

 

「……まァいつもこんなんだ、あんま真面目に構わなくていい」

 

 武藤が肩をすくめてみせるので、エマは曖昧に頷いた。もともとそんなに真面目に構うつもりはない――灰谷兄弟と接していればおおよそすぐに会得する技能だ。

 

「いくら妹っつっても極悪には入れてやんねーからな」

「お揃いだね、ウチも絶対入りたくない」

「あ゙? イザナの下に不満があるってのかよ!?」

「一ッ言も言ってないけどニィの部下ンなるのもマジでヤダ」

「本当に度胸あるな……」

「つか今更だけどエマチャンもっとまともな服ほしくねーの、あいつマジで気ぃ回さねえだろそのへん。本人が気にしねえから」

「いーの。バイトできるようになったら自分で買うし」

「ああ金がねえかんじ? 貸してやろうか? トイチな」

「ホンットに部長にチクるよ……」

 

 傍らの諍いに嘆息した望月が、イザナに眼差しの向きを変えた。

 

「どういう風の吹き回しだ?」

「……。気まぐれ」

「嘘つけや」

「いちいち詮索すんな。ツラだけ覚えりゃそれでいい」

「……そうかよ」

 

 ――やっぱり、目的は面通しか。

 望月は他人事のように思った。

 

 わざわざ雁首揃えさせて集合させて、すなわちエマに極悪共を紹介する目的と、極悪共にエマを紹介する目的と、二つだ。

 顔を覚えさせ、知人としての縁を築く。イザナ経由で紹介された相手を無碍にはできない。

 かつて鶴蝶も似たような順序で極悪の知己となり、馴染んでいった。しかし女性であるエマは、男社会であるヤンキーやゾッキーの後輩ではなかろうと踏まえて。

 

 であれば今後の仲間ではなく――気を配れ、という意味だ。

 

 わざわざ妹と述べるあたり。なんとなく面子が揃ったときについでに、あるいは写真程度で紹介するのではなく、適当な手駒は排斥した場所で、あえて仲間たちを招集したあたりも。

 

「そういやこの件、フクブに言ったん?」

「ニィと遊びに行くってのは言ったよ。連絡なしだと部長気にするから。誰と会うとかはマジで知らなかったから伝えてないけど」

「マそれはそう。イザナは?」

「なんであいつに言う必要あるわけ?」

「だよな〜」

 

 蘭が言いながらもケータイを取り出した。

 

「ただフクブねちっこいから報告はしといた方がマシ。俺らから回しといていい?」

「……つくづく意味わかんねえなあいつ。好きにしろよ」

「フクブ誰?」

「いろいろあってエマチャン今、俺らの元先輩ントコに居候してんのよな。中学のころ副部長だったからフクブ」

「ああ、それでフクブ……腹の方かと」

「あれ説明しなかったっけ」

「ウチも初耳かも」

「てかエマチャンはむしろなんであいつ部長呼びなワケ? あいつあの調子じゃ高校は部活入ってねえだろ」

「それもそういえば由来知らないんだよね」

「ヤなんでだよ」

「成り行き!」

 

 万次郎が呼んでいたものがうつったからだ。万次郎があの様相では、おそらく二度と知る機会もない。

 特に言う必要もない事実をこころのうちに畳んで、エマはあっけらかんと言った。

 

「あ、そいえばこのへんのおいしいごはん誰か知らない? 部長とあとで合流して食べ行く予定なんだよね」

「川崎らへんのメシ? モッチーなんか心当たりねえの」

「メシ詳しいのは俺よかムーチョだろ。後輩連れてくのにちょくちょく見繕ってんだからよ」

「フクブのやつ、休日っつったってわざわざ迎えに川崎まで来んの? マジ過保護だな」

「こっちに用事あるってったし、ちょうどいいんじゃないの」

 

「用事?」

 

 わずかに眉をひそめた竜胆が、続いて首をひねった。

 

「……まァ誰とどう知り合いとかよくわかんねえしな、あいつ」

 

   ➤

 

「黒川カレンさんですよね?」

 

 雑踏にてぬるりと現れ、手際よく進路を塞ぎつつ微笑んだ男に、黒川カレンは「……誰? アンタ」不審がる顔を隠しもしなかった。

 当然だ。まるで初対面の男に名前を把握されている。

 

「純丘榎と申します」

 

 無地のジャケットの襟を直して、男はつらりと名乗った。やはりカレンにとっては全く聞き覚えのない名前だった。

 

「旧姓黒川、現姓佐野エマの親権について少々お話があります」

 

 続いて述べられた名前は聞き覚えがあった。

 

 カレンは連想的に記憶を想起する。

 いくらか前に鉢合わせた、たった数年世話をしただけの少年。あれもエマの話を出していた。

 

「是非ともお時間いただければありがたく」

「……あの子はもう佐野の子で、アタシはもう親じゃない」

「そうですね。だからこそです」

 

 突っぱねたカレンに、純丘と名乗った男は短く頷いた。

 

「そうでなければあなたに話を持ちかけることはなかった――立ち話もなんですから、カフェにでも入りませんか」

 

 腕が控えめに動いて、傍らの喫茶店を指し示す。

 

「費用はこちらが支払います。少なくともパチンコで負け越すよりは、益が見込めるかと」

「……」

 

 カレンの名前に加えて、普段パチンコ店へと出向く際にこの路地を通ることを把握していた。その上で待ち伏せしていた——そのぶんの下調べが行われている。

 カレンが勘付かない程度には内密に、カレンの行動を把握できる程度には周到に。

 佐野家が雇った弁護士か、あるいは。カレンは全く面倒な予感しかしなかった。ゆえにこそ、ここで無碍に断った方が、のちのち面倒な予感もした。

 

 カレンは小さく嘆息した。

 

「まずは要旨から。黒川さん、あなたに佐野エマの親権を再度取得していただきたく存じます」

「は?」

 

 喫茶店に、客は他に誰もいなかった。

 聞き返すトーンの疑問符を純丘はあえて無視した。

 

「おそらく現在の親権者は真一郎さんですから、彼からエマの親権を奪い取……引き取っていただこうかと」

「本気で言ってる?」

「あの人はもともと自責気味な傾向があり、加えて現状精神面が不安定な状態で気を張っているため、現況を並べた上で泣き落とせば八割勝てます。残りの二割で家裁を入れてくる確率が否めませんが、その場合は俺が九割の確率で勝たせます」

「正気で言ってる?」

 

 カレンはドン引きを隠そうともせず、ほとんど同じ言い回しを繰り返した。

 若干訂正した箇所は、よりヤバいなこいつと思ったからだ。

 

「頭おかしいワケ……? なに、ガキを捨てても母親なら母性があるとかほざくタイプ?」

 

 心底忌々しげに吐き捨てて、カレンはポケットから潰れたタバコの箱を取り出した。彼らが入った喫茶店は喫煙可である。

 

「吐き気がする。女に幻想なんざ抱いてんじゃねえよ」

「俺もあなたにエマを養育していただこうとは一切思っておりません。あくまでも必要なものは名義です」

「ますます意味不明。だいたい、そのシンイチロウ……真さんの親戚だか知らないけど」

「息子ですね。エマにとって母親違いの兄にあたります」

「あっそう。そこで過ごしてんならそれでいいでしょ。全く他人のアンタが首突っ込んでくる訳がわからない」

 

「確かに俺は他人ですが、この件関係者ではあります。エマは今俺の家で暮らしていますから」

 

 カレンは数瞬黙った。

 

 百均のライター、そのスイッチに親指をかけたまま、停止している。

 

「……まさか。……エマのカレシとかほざくつもり? あの子まだ十六にもなってないでしょ」

「小学五年生ですね」

 

  ――バシッ

 

 思いの外物騒な手段に出たな——飛んできた拳を手の甲で止めて、純丘は内心ひとりごちた。

 

 カレンは今しがた取り出したライターを、ナックル代わりに握り込んでいた。軌道を鑑みれば、狙われたのは顎だ。平手打ちなんてちゃちなテンプレートどころか、どう考えても骨を割りに来ている。あわよくば脳震盪。

 神経が集合する部分への本気の殴打は、平均的な女性の腕力でも最悪の事態を引き起こせる。

 華奢ではあるが、喧嘩慣れしている。我流ながらも手頃な攻撃手段を知っている。そういう治安を生きていた。

 

 そして。

 カレンは、エマが害される危険を加味した瞬間、成人男性並みの体格の純丘に殴りかかった。

 

 果たしてそれが、娘に対する情かどうかは、判別できない。

 単に、未成年者の性的搾取、その可能性への嫌悪感に由来するのかもしれない。口で言う前に手を出すあたりは些か喧嘩っ早すぎる。

 

 それでも——無関心と傍観を決め込みはしなかった。

 どうでもいい、自業自得だと捨て置くことはなかった。

 

「経緯を端折った俺が悪いとして」

 

 試した身でいけしゃあしゃあと純丘は言った。カレンの見開かれた目を見つめ返している。

 

「大前提として、俺とエマは恋愛関係ではなく、当然、性的な関係も一切ありません」

「ああ、そう、なに? 言い訳?」

「言い訳ではありません」

 

 絶対零度もかくやの冷え込み。

 純丘は怯まなかった。怯む理由がない。謗られて当然の誤解を、故意に招いた自覚がある。

 

「同居に関しては、エマとはもちろん、エマの現在の親権者、真一郎さんとの合意もあります。——黒川さん、あなたはやはり、今の佐野家の現状について、なにもご存知ありませんね?」

 

 カレンは純丘をしばらく睨んだあと、拳を下ろした。椅子に座り直し、足を組む。

 

「説明しな。全部」

「もちろん」

 

 カレンの態度は、イザナが説明を求めたときにも似ていた。

 七歳までの親。ほとんど何年も会っておらず、再会したイザナをつめたく切り捨てた女だったが、しかし彼女がイザナを数年育てたこともまた事実だった。

 

「——俺がエマを預かるようになった経緯は、以上となります」

 

 純丘の淡々とした説明をカレンは渋い顔で聞いていた。どんどんと深くなる眉間のシワを純丘は他人事の如く眺めていた。

 

「……なんでアタシに」

「実親というカードは強いので」

「アンタが世話してんならアンタが引き取るもんでしょ」

「俺は未成年ですから土台無理ですよ」

「み。……本気で言ってる?」

 

 純丘は、他者からは落ち着きがあると評価されがちで、実際それを見越して正装に近い服(シャツとスラックスは制服、ジャケットは校章が縫い付けられているので、知人を当たって近い体格のものを譲り受けた)を選択したが、ここまでストレートに相手を騙せるとはちょっと想定外だ。

 俺、老け顔だったりする?

 

「……参考までに、何歳だと思われていました?」

「二十四、五」

「はははマジか。十七です」

「正気で言ってる?」

 

 話の最中につけられた煙草はそろそろ三分の一を燃し尽くした。

 カレンは思い出したように煙草を咥え直し、慎重に、深呼吸でもするように煙を吸い込んだ。

 

「アンタ……働いてんの」

「半分は。高校に通いながらですが」

「ガクセーかよ。それでアンタ本人にガキ一人世話してるって? 成り立たないでしょ」

「カツカツなのは認めますよ」

「親はなんつってんの」

「……俺の親ですか? なにも」

 

 純丘はここだけは無表情に言った。

 

「俺の近辺ぐらいは調べ上げているかもしれませんが、少なくとも、なにも言ってはこない。俺も報告はしない」

 

 カレンは純丘の家庭環境には言及しなかった。

 

「そんなもん、詰むに決まってる」

 

 冷えた目が純丘を見据えている。

 

「学校行って? 働きもして? 家事もやって? エマの世話して金も出して? 親の援助もなしに? ()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ——思っていない。

 

「ガキは贅沢品なの、金がかかんの。金がかかってそれ以上に時間と責任が必要なの。保育園の工作にはペットボトルだのスモックだの必要で上履きは洗わなきゃなんねえの。他のガキと揉めてもちょっと怪我しても呼び出されんの、仕事中でも寝ててもいつでも」

 

 がたんと音が鳴った。思いの外低いテーブルに、カレンが組んだ足、その膝頭がぶつかったらしい。

 位置がズレたテーブルをカレンは無視した。

 

「いくら疲れてたってちょっとの埃で鼻すするから掃除は毎日しなきゃなんねえの。飯買ってこなきゃピーピー泣くの。弁当持参の日にコンビニ飯だと嫌味言われる。保険証一枚()()んだって金じゃ足りない。ガキだけで病院行かせることもできない。制度一個適用させんのに役所と延々やり合って受付時間は終わったんでお引き取りくださいってなるわけ。勝ち取ったところで足りたことなんて一度だって——()()()()()()()()()()()()()()()

 

 赤く煙草の先端が染まる。

 強く吸い込み、吐き出し、その呼吸が紙束を燻している。

 

「若いっていいね、自分ならやれるって思い上がってんの? アタシもそうだったよ。昔はね」

「……いいえ」

 

 カレンが語る内情は、その末路は、小学生も高学年に差し掛かったエマには不適格だが、しかし純丘が危惧する悲観的推測とは、一致している。

 

「だからこそです。俺は場合によっては公的支援に救援を求める……俺は未成年者なことを加味して厳重注意で済むかな、ともかく、重要なのはエマの扱いだ。長期間の家出は間違いなく親権者に連絡が行く。親権者に被保護者の養育能力がないと認められた場合、あるいは親権者が身柄の引き取りを拒否した場合、子どもの身柄は児童養護施設預かりになる」

「ああそうだよ」

「あなたならば、そうなったら、その連絡が来たら、躊躇なくエマを施設に預けるでしょう」

 

 カレンは答えなかった。彼女の呼吸がまた煙草の先をかすかに燻した。

 

「これが、親権者が真一郎さんのままの場合——あの人は、エマを再度引き取る。無理を押してても」

 

 容易に想像ができた。

 

 真一郎は、そのやつれた顔に笑みをのせて、純丘に悪かったなと謝るだろう。エマの身柄を引き取るだろう。

 任せきりにしてしまった、頼り切ってしまった自分を反省して、今度こそは、と上手くやろうとするだろう。

 

 万次郎の介護、治療費の捻出と治療法探し、万作や桜子や真の遺骨の管理に弔い、そして、エマの世話。

 

 既に家庭は瓦解していた。

 エマは一度は耐えきれずに家を出た。

 

 二度目は——

 

 ——考えつく限りの最悪手だ。

 

「あなたに、母性とか、実親であるがゆえの情だとか、そういう、社会に都合の良い幻想を期待しているわけではありません。親権を手放したあなたに、なんの立場もない、赤の他人の俺が協力を強制できるわけがない……」

 

 カレンが何故子どもたちを手放したのか。その真相を純丘は知らない。彼女が一瞬語気荒く述べた内容とてあくまで一端でしかなく、純丘が今まで知り得た情報だけでは、その真偽もわからない。

 もともと育児は重労働で金がかかる。実子であっても、親当人らに非がなくとも、手放すことはある。子供二人を抱えたシングルマザーとなれば尚更だろう。

 もちろん、カレンが擁護しようもないことをしでかした可能性はある。親から子に行われる虐待行為は社会的に問題視されており、二〇〇二年から見て、尼崎児童虐待死事件はまだ昨年の事件だ。

 

「……けれど、」

 

 純丘は頭を下げた。深々と。

 

「お願いします」

 

 声は震えなかった。何度もシミュレートした嘆願だった。

 

「俺は彼らを心中させたくありません」

 

 彼らとは誰だ。

 エマと。真一郎と。万次郎と。

 

 誰も彼もだ。

 

 万作は孫たちを慮っていた。死の間際まで気を揉んでいた。純丘は知っている。

 万次郎はなにも悪くない。他者の手を借りるしかなく、かろうじてだとしても、まだ生きている。純丘は知っている。

 真一郎は決してエマを蔑ろにしたいわけではなかった。彼はあまりに疲弊していた。純丘は知っている。

 エマは未だ佐野家が大好きで、嫌いになりたくなかった。彼女はとばっちりでしかない。純丘は知っている。

 

 知っている——けれど、知っているだけでしかない。

 未成年で赤の他人の彼には、なにも、なにもできない。

 

 純丘にはなにも権利はなく義務はない。エマの世話をする義務どころか佐野家の現状に口出しする権利もない。

 その権利と義務を手に入れられる立場の誰かに、訴えかけるしか、ない。

 

「……」

 

 カレンは、煙草を咥えたまま、目の前のつむじを眺めていた。

 全く勝手な要請だと彼女は理解していた。つらつらと並べられた〝お願い〟は、今のカレンにとって、すべてどうでもいいと一蹴できるものだった。

 テーブルの天板に灰が落ちた。思い出したようにナプキンでぬぐった。

 未成年たる青年は喫煙の習慣はないようだ。喫煙可能で人気はなく、店員も干渉する様子のない喫茶店は、ただカレンと話をするためだけに見繕ったのだろう。

 

 かんたんに一蹴できる要請を、その回答を、彼女はどうするべきか、考えあぐねていた。

 

「……アンタさあ」

「はい」

 

 純丘は顔を上げた。

 

 カレンの面持ちに表情はない。

 派手な化粧だが、そもそも目鼻立ちが華美なのだろう。整ったかたちの両目がまたたく。

 

「なんでエマを世話しようとか思ったわけ」

 

 純丘もまた目を瞬かせた。一瞬の瞑目は、まだ一年も経ってない記憶を掘り起こす。

 高架下にしゃがみ込んだ少女。この世すべてを敵とみなして、喚いて拒絶した。

 風邪を引いていた。熱をもった体温。十一月末の屋外、風はあまりに冷たかった。冬の気配が漂っていた。

 

 ——人は簡単に死ぬ。あまりに簡単に。

 なにも暴力を用いる必要はない。

 

 たとえば、風邪をこじらせるだけでも。

 

「……見捨てる理由を考えている暇がなかった」

 

   ➤

 

「あっ部長〜、こっちこっち。えっなんで通り過ぎんの?」

「いや。……思ったより大所帯で、人違いかと。はじめましての子が多いな。純丘榎です」

「武藤だ」

「鶴蝶です」

「君らの知り合いにしては礼儀正しい子が紛れ込んでないか!?」

「名乗っただけで?」

「挨拶はさすがに常識だろ」

「え? 知らねえ常識〜ムーチョオマエ帰国子女的な?」

「これが外タレ志望……?」

「このへんのごはん聞いてみたんだけど、話してる間にもうどうせ集合してるし一緒に食べない? ってことになって」

「オマエが全額出すんだろ?」

「……イザナくんと灰谷どもぐらいは予想していたが、人数が……おかしい……」

「灰谷があんだけ散々言う〝フクブ〟マジでこいつか?」

「これのどこがバケモンだよ、普通の野郎じゃねえか」

「いやいやいやフクブが普通なの見た目と猫被りだけだから」

「まともヅラしてるあたりが一番キメェからこいつ」

「心底置いて行きてえ」

 

   ➤

 

 夕飯はいろいろとすったもんだあったが(肉は生焼けで箸を伸ばすのではなく、しっかり焼くまで待ってほしいと純丘はとても思う)灰谷兄弟が面白がって支払いを持ったので、純丘は無銭飲食だけは回避した。

 代わりに何度か補導されかねなかったので、心労を加算してプラマイややマイナス。

 

「ママとは話できたの」

 

 帰り道である。

 エマの淡白な問いかけに、純丘はちらりと眼差しを向けて「できた」短く頷いた。

 

「……おそらく先に伝えたとおりになると思う」

「そう。わかった」 

 

 結局のところ、当事者は純丘ではない。

 たとえ名義だけを移すにしても、苗字を変えるわけではなくても、佐野家の所属ではなく、かつて己を捨てた女のもとに移される——不誠実なことはできなかった。

 純丘が成人済であるか、蓄えがあるか、そのどちらかでも条件を満たしていれば、隠し通してもよかったのかもしれない。あいにくと高校生の身分にできることは限られて、貯金は本当にわりと切羽詰まっていた。

 

 腐れ縁たちに痛烈に指摘されたとおりだ。

 現状、純丘が無理をして詰むのは彼本人だけではなく、エマもである。

 

 もしもの選択肢を開示する必要があった。

 

「……今からやめることもできるぞ」

「いいよ」

 

 エマは首を横に振った。

 

「佐野の家は、今は、帰る場所じゃないけど。でも、ウチみんながだいすきだよ。ああなるまでは、佐野のおうちにいたから寂しくないって思えた。だから……ウチのせいで、今より最悪なことになるより、ずっといい」

「……そう」

 

 華奢な肩を叩いて「切符買うか」改めて帰路を促す。

 

「一駅で買えたらいいのにな」

「Suica作ろうよ、そろそろ」

「ウーン」

「便利だよ。このペースで横浜来るんなら絶対、券売機並ぶより早いよ」

 

 Suicaの利便性についてとうとうと説くエマから、純丘はちょっと目を逸らした。

 彼はあんまり電子機器が得意ではなく、自動販売機にも嫌われるたちのため、新たに現れた交通系ICカードなる存在にも警戒を示していた。

 

 ——やっぱり、十一歳に選択させることじゃなかったな……。

 

 ついでに、不意に浮かんだ思考を打ち消した。

 あまりに無意味な後悔だった。

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