Ⅳ
真一郎は——さすがに一度エマを手放したカレンが現れたことには、いくらかの驚きと、難色を示したが——親権の受渡の話し合いは、あっさりと成立した。
純丘の想定通り、と評するのは大枠は合っているが細部が異なる。
真一郎の性格をよく把握して、予想される反発を加味したうえで論理を構築していった。いわゆるメタデッキ。汎用的に扱うには些か尖りすぎているが、特定の対象、たった一人に対しては有効な構成。
単純に、純丘が真一郎に信頼されていたこともあるだろう。もともと純丘は〝彼が言うならそうであるのだろう〟と他人に思わせることが得意だった。
普段はごく抑制して振る舞い、無闇に濫用しないからこそ、そう思わせることが尚更上手かった。
なにより、真一郎は、疲弊していた。神経をすり減らし、体力を消耗し、本人は努めて明るく振る舞おうとしているが、抑うつ傾向もみられる。
そんな状態の人間が突然難しいことを叩きつけられて、真っ当に内容を吟味できるはずもない。真一郎をターゲットにした詐欺師たちは、そこを狙った。
……純丘も、ある種、その点は同類である。
「これでいいんでしょ」
「はい。ありがとうございました」
何度かのやり取りの末、役所への申請等も過不足なく完了し、カレンは嘆息とともにヒラヒラと手を振った。
「ホントになんにもしないからね」
「問題ありませんよ」
「……役所の書類しかやんねえから」
「それむしろ対応してくださるんですね」
「……」
「ではついでに学校の書類もお願いします」
盛大な舌打ちをこぼしてカレンはさっさと早足に歩き去った。
送っていきますよと純丘が提案したのは初回だけで、そのとき「ガキが気ぃ遣うな。気持ち悪い」とかなり辛辣に却下された。さすがにそこまで言われて二度も三度も提案はしづらい。その口の悪さ、血の繋がらない息子にうつってないかとはちょっと思った。
本日も別れの挨拶すら聞くつもりもない背を見送って。
「榎」
純丘は振り返る。
「真一郎さん」
真一郎は、玄関扉——先程純丘やカレンが退出したばかりの——を開けたところだった。
小さなアパートの一階。純丘の住まう三畳間よりマシだが、かつての佐野家よりずいぶん窮屈になった。植物状態の少年の介護にはもっと大きな家の方が適している。
……無論、東京二十三区内で相応の住居を借りるには、相応の金がかかる。二十三区外から選出するなら、今度は病院が遠くなる。
真一郎の勤め先も、万次郎が普段預けられている介護施設も、渋谷区内にあった。
「いろいろ、お手間をおかけしました」
「いやいやぜんぜん! こっちこそ……ホントに」
真一郎はそこまで言って、苦く笑った。
「本当にごめんな」
「……俺は、謝られることはなんもねえっすよ」
言葉は平坦だったかもしれない。
純丘は真一郎に向き直った。
「エマの件は、謝るならそれこそエマ相手でしょ」
「いや、うん、ウン……なんか……ウーン……」
「……なんですか」
言葉は歯切れ悪く、真一郎は視線を彷徨わせた。
「……親権の話とか、カレンさんが出てくるくらいとか俺思ってなくて」
それはカレン本人の意思というよりは、純丘が無理くり引きずり出した結果である。
「頼り過ぎてたと思ったんだよ」
「あんたは——」
純丘は口端を引き攣らせた。
まだ、言うのか。
この人は。そんなことを。
切れ切れに思考は言葉となり、霧散する。つよく波打った心を無視して、純丘は努めて静かに述べた。
「……逆でしょ。頼らなすぎなんですよ。もっと人を動かすんすよ。あんた結構知り合い多いでしょ、そこに——」
「いや、あいつらはだって、関係ないし……榎もだな。ホントにごめん」
言葉尻を遮って、謝罪が重ねられる。
「俺の家のことで、俺がやんなきゃいけないことだろ。万次郎はそうだし、エマのことだって」
「……それって、」
それって——全く知らない健康詐欺の口車に乗るより優先だったのかよ。
咄嗟に吐きかけた言葉を純丘はすんでのところで飲み込んだ。
詐欺の被害者にかける言葉ではない。詐欺師は人を乗せることに長けている。気心知れた友人や知人より、赤の他人の方が打ち明けやすかったとか、そういうこともあるだろう。
「でも大丈夫。他は、ちゃんとなんとかするから」
真一郎は微笑んだ。
「ごめんな、迷惑かけて」
そうではなかった。
そうしてほしいわけではなかった。
純丘は、そんな言葉を聞きたくてこんなことをしたのではなかった。
たかだか成人もしていない男子高校生にできることは限られていたが、そも、純丘だけが真一郎を慮っていたわけではない。他にも選択肢があったはずだ。
先にも述べたとおり、純丘にだって、真一郎が一言助けてくれと言えば喜んで手を差し伸べる人間に、心当たりはたくさんあった。その数は純丘が想定するより多いはずだ。
恩人であれど、たかだか赤の他人、真一郎のすべてを詳らかに知っているわけではないので。
なにより。
「……なんで、そんなに全部ひとりでやろうとするんですか?」
こぼれた言葉は、心底からのものだった。ずっとふつふつと煮込まれていた疑問だ。
ああ確かに、万次郎は真一郎が贈った玩具で遊んでいた結果として植物状態だ。万作はもしかしたら、佐野家にもう少し余裕があれば、もっと長生きできたのかもしれない。真一郎が親権者であったから、その真一郎が妹を顧みなかったから、エマは家出した。
けれど。
「万次郎の事故は単なる事故で、あんたのせいじゃないのに」
植物状態は第一級第一号の障害で、実際問題一人で介護するにはあまりに手に余る。
万作の死は複数の要因が重なったはずで、真一郎に全責任が集約されるわけではない。
異母兄妹だからといってエマの面倒を見続けなければいけないわけではなく、なにも即施設に預ける他に、それこそ純丘がしびれを切らす前にやりようはあっただろう。
そしてそのすべて、たったひとりでこなす必要はなかった。
協力が見込めないならばさておくとしても、真一郎は人に慕われる男である。戸籍上証明された家族でなければできない手続きはたくさんあるが、しかしアドバイスを求めてはいけない謂れもない。
ずっと思っていて、ずっと考えていて、ずっと、心底不思議で、
「きょうだいのために頑張るのは立派だよ。でも、そうじゃねえだろ。……そう言ったのは、アンタだったでしょうに」
——なにを言うべきか、なにを言わざるべきか。
都度の選択が間接的に人間性を決定づける。
そういえばこれ言わなかったのはダメだと思ったからだったな、と、思い出したときには手遅れだった。
真一郎の微笑みがわずかに強張って、やらかしたな、と純丘は思った。
「……そうだな。正しいよ、おまえは」
そんな言葉を聞きたかったわけではなかった。
けれど実のところ、望む言葉を引き出せるとも思っていなかった。引き出せたところでそれは純丘の作為でしかないだろう、自由意志を排斥した結果は物言わぬ人形と大差もない。
これ以上留まったところでなんの進展も見込めないだろう。佐野家にとって赤の他人の男もまた「失礼します」と頭を下げて帰路についた。
夏も近づき、夕方は徐々に長引いていく。太陽が空を焼いていた。黄金の雲はあまりに眩しい。
逆光に目を細めて、ふと、純丘は足を止める。
「……俺はべつに、迷惑とかいうより、そんなもの、考える余裕がなくて……」
ぼんやりと、言いたかった言葉が、言えるはずもなかった言葉が、こぼれ落ちた。
「あんたらが、心配だっただけで……」
……何故エマに手を伸ばしたのか。何故暴言を吐くイザナをそのまま蹴り出さなかったのか。何故カレンを探し当ててまで、真一郎から親権を取り上げたのか。
見捨てる理由がなかったからだ。人を助けるのに理由は要らないからだ。これ以上背負わせないためだ。
それで、それより、それ以上に——
「……なんだかあんたら、揃いも揃って、血も繋がってなきゃ、家族でもなきゃ、理由もなけりゃ……人の心配しちゃいけないみたいに、言うよな、」
その出力が、ずいぶん過度な献身だという自覚はあるけれど。
だとしても。
……やっぱり俺が変なのかな、と、純丘は思う。
引くべき線を見誤り、決定的な断絶を招いた。余計なことをしなければもっと上手くいったんじゃないか、ネガティブな内省は、どうしたってやめられない。
けれど、そうして内省したところで――寒空の下でエマを見つけた日に戻ったとして、果たして純丘は、佐野家への帰宅を促せるのか。
仮定したところで予想される出力は否以外に有り得ない。形ばかりの反省になんの意味があろうか。
道端にしゃがみ込むのはどうかと思うが、とはいえ、彼は本日心底疲れていた。膝を抱えて額を乗せた。
今朝方牛乳を切らしたはずで、タイムセールが終わるまでにスーパーに寄る必要があるというのに、そんなことまで面倒だった。
ざりざりと音がする。アスファルトと靴底の間で砂利がこすれる音だ。簡潔に要約するなら、人の足音である。足音の大きさと重さから、純丘はなんとなく、その体格を推し測った。
足音は純丘の隣で止まった。視界の端にちらりと見えた靴は見覚えがあった。
人がふたり、ひとりは路面に腰を下ろし、ひとりはコンクリート塀に背中を預けている。しばらく沈黙は続いた。
吹きつける風もぬるく湿って、温度を保ち、そろそろ夏を予感させる。
「フクブってさあ」
隣に立ったままの人間がようやく喋った。
「中学時代も、俺と兄ちゃんのこと、フツーに心配だったりしたわけ?」
「……言ったら君、怒るだろ」
「ソレ答えだろ」
「やかましい」
……
……
……
ッてってってってー てててててて♪
てってってってー ててててててて♪
「イッデェ!?」
「ウルッセェ!?」
「なんだ!? 敵襲!?」
「あふ、鶴蝶じゃねーの。いっつも寝相が芸術的……いや違うわ、おーいイザナそれお前のケータイじゃなくてモッチーの頭だぜ? 横横、もうちょい右」
「ん゙ん゙……」
ピッ
『ニィ起きてる?』
「ねてる」
『そっかじゃあ起きて』
「ねかせろ……」
「俺らならこの時点でもうキレられて切られてる」
「アレ寝起きすぎてキレまでいけるほど元気ねえだけっぽいケド」
「一理あるっすね」
「なんか……地震きてね? 天井まわってんだが」
「……。微塵も揺れてねーぞ」
「ほっといていい、
「俺んちの床で吐いたらテメエを殺して雑巾にするから♡」
「殺してる間に汚れ増えてんだろ」
着信日時。
二〇〇三年七月下旬にあたる某日。
『君らもしかしてたむろして飲ん……いや、俺はなにも聞かなかった』
「ンだよ腹の野郎起きてんじゃねえか、そっちで充分だろ……」
『人数がほしいの。部長場合によっては役に立たなそーだし』
「言われてんぞ居候によ」
『これが俺もまだ用件を聞いてないのでなんとも判断できねえんだよな』
『だから! 聞いて!』
深夜帯。
『さっきアイス買いに行ったら
「ア?」
佐野真一郎がタイムリープの能力を手に入れるまで、残り五分。
『ちょっっっと待て一回ストップ零時過ぎだってのに君一人で外出したのか? 俺を起こせよ』
「今そこじゃねえだろ」
『寝てたじゃん』
『寝てたけど! 起こせ!』
「通常運転~」
彼らが119に通報するまで、残り一時間。
「……聞く気ンなったそばから揉め始めるよな……」
「これ俺ら寝直していいよな」
「ハ? 許すわけねえだろ死ぬ気で起きてろ寝たら殺す」
「クソすぎる」
二〇〇〇年を起点として世界が上書きされるまで、残り、
罪状記録【旧】
「Overwrite」完
そんなこともあったのかもしれない。
失われたifの物語だ。
原作で最初の世界を読んだときの当方第一声「エマちゃん家出って、どこに?」
……行間を掘るのが好きなので永遠にろくろを回していました。お察しください。
それに罪状記録内では、黒川カレンについて「実の子どもも赤の他人の子どもも平等に捨てた人」以外の部分をなにも述べられていなかったので、したかった、というのもあります。
もちろんシングルマザーでも複数人の子どもを立派に育て上げられる方もいらっしまいます。(東リベだと三ツ谷家とか)黒川カレンのことはほとんど描写されていないので実際なにがあったのかは全くわかりません。
その上で書きたかったことでした。書きました。
無配頒布時に脚注をつけ忘れた(シンプルに忘れました)(これが本日の愚か者)ので今回もつけていません。
ただ今回インターネットにアップロードするにあたって、しいて、ある箇所を補足しておきます。
児童相談所は決して万能ではないことは数々の報道が証明しているとおりです。
児童養護施設が子どもを預かる際は親権が親の方に残っている場合もあり、それが理由で様々な問題が生じることもあります。逆に、児童養護施設が完全に親権を代行する状態のこともあります。それによる問題ももちろん発生します。どちらかを選んだからといって解決されるとは限りません。
介護施設の人手が足りないことについてはこれまた様々な報道が証明しております。介護認定が下ったからといってでは諸問題は解決されるのか、と尋ねられれば全くそうではありません。
この世界は残念ながら子どもだけでかんたんに生き延びられる社会ではありません。日本だけではなく、全世界でも同様です。
歳を重ねれば問題ないのかというと、これまたそうでもないでしょう。自由には義務と責任が伴います。
この物語はあくまでも夢物語です。
ご都合主義のもとに成り立っています。
以上になります。お粗末様でした。