【完結】罪状記録   作:初弦

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9 months ago

「黒川くん」

 

 玄関扉を閉めたところでそのように声をかけられたので、黒川イザナはまず「は?」と威嚇した。

 

 

 

  9 months ago

 

 

 

 続いて、覚えのある姿形の相手だと気づいて、思いきり顔を顰めた。

 

 あからさまな態度に思わず純丘は笑った。〝こいついい加減にしてくれんかな……〟という意思に近い笑みだった。

 純丘も純丘でちょっとおこだった。

 

「顔貸してくれ」

「なんでだよ……てかなんでお前ここにいるわけ」

 

 現在位置、純丘の居住アパートといい勝負な、狭苦しいアパートの共同勝手口——現在のイザナの住まいだ。名義については少々ずるをした。

 

「鶴蝶くんに聞いた」

「ァあ? 嘘ついてんじゃねえよ」

「そうだな。君に口止めされているぐらいは予測がついたから、武藤くんから尋ねてもらった」

 

 確かに、イザナが鶴蝶に口止めをしたのは灰谷兄弟と純丘榎本人相手のみの場合だ。……ただキャンプ帰りの純丘とイザナの間に漂う不自然な空気を、武藤は察していた。

 武藤泰宏、彼の振る舞いは鶴蝶が手本にするような漢である。

 

武藤(ムーチョ)が協力するかよ」

「ちなみに武藤くんには望月くんを通して持ちかけたし望月くんはいつかの身柄請書と焼肉の恩でちょっと融通効かせてもらった。恨むならあのとき警察沙汰になる前に喧嘩を止めなかった自分を恨めよ」

「クッソ」

 

 悪態をついたイザナに純丘は愉快げに笑った。してやったり、これは悪童じみた笑みだ。

 

「さておき、これを渡しに来た」

 

 彼の顔つきがふと真面目なそれに戻ったかと思えば、縫い目のほつれたパーカーの裏ポケットから、おもむろに封筒を取り出した。長形4号の封筒だ。縦辺が長いタイプの長方形。

 

 ずいと押し付けられたものを、イザナは胡乱な顔でとりあえず受け取、

 ろうと指で触れたところで思わず反射で突っ返す。

 

「要らない」

「俺が持っていてもしょうがない」

 

 拒まれた封筒を純丘は再度押しつけ直した。いつぞや焼肉屋で、受領側のメンバーをすり替えてやり取りしたような仕草だ。

 尚あのときよりも雰囲気はずいぶんと殺伐している。

 

「ふざけんなよ」

 

 低く唸るような威嚇。一方で、殺意すら含んだ視線を浴びる側の純丘は真顔のままだ。

 

「ふざけてはいねえ。というか俺の場合、俺の意志の介在が不可能だ。鶴蝶くんや武藤くん、望月くんが——いやまあ、彼らは不本意だが——俺と君の仲介となったように、俺もまた仲介者。なにより、」

 

 わざとらしくそこで一度、彼は言葉を切った。

 

「真一郎さんに頼まれたなら、俺は断れない」

「今更なに話すって?」

 

 鼻で笑うような口振りとともに、イザナは頭を横に振った。

 

「なんか話すことあったかよ? なんでわざわざ、ここまで……ほっとけよ、近づくなよ、なんにもないんだろ……」

「……真一郎さん側には話すことがあったらしいが。まあ、君の主張もまた尊重されて然るべきだな」

 

 純丘の声色はあえて抑えつけたように、起伏がなく、素っ気ない。封筒を押し付けてくる掌をイザナは頑なに両手で拒んでいる。その手は明らかに震えている。

 殴らない理由はどこにもなかったが、イザナはそうしなかった。当然純丘に、法律を破る理由はない。

 

「……読まなくていい。だが、受け取れ。破くな。捨てるな。俺はこれを届けることを頼まれた」

「従う義務がどこにある」

「どこにも。……ところで、肉は美味かったか?」

 

 イザナよりも純丘の方が背丈は高い。封筒を拒むように押し返す掌は、眼前の長身のだいたい胸元あたりに来る。

 イザナは封筒を仇かなにかのように見つめている。睨んでいると言い換えてもいいかもしれない。

 

「あのとき、バイクは後日届けてやった。キャンプのときのカレーは美味かったか? 唐揚げは? 浅漬けや味噌炒めは美味しかったか? ……それに、俺は苦労して知った君の住所を真一郎さんに教えることもできたぜ」

「脅迫かよ」

 

 イザナの問いかけは語尾が震えていた。感情を抑え込もうとしているようでもあったし、嘲笑するようでもあった。

 

「少し違う」

 

 純丘はそのように回答する。あくまでも声の起伏を抑え込む。もしくは、抑え込もうと努めている。

 真面目な話であるほど、感情を排斥しようと試みるきらいがある。

 

「俺は先も述べたとおり、君はその手紙を読まなくてもいいと思っている立場だよ」

「へえ、なんで? 俺が嫌がってっから? お優しいもんな、お前」

「妬ましいんだ」

 

 ——イザナはそのおもてを跳ね上げた。

 

 紫が一瞬位置を捉え損ねて空を彷徨う。改めて、斜め上の顔面を凝視する。

 あまりに自然だった。だからたぶん、思ってもいない言葉ではない。むしろ、ずっと堪えていた言葉だ。

 

 躊躇いもない即答のとおり、純丘の顔つきは微塵も動いていなかった。微動だにしなかった頭がすこし傾いで「なんだその顔」皮肉げにつぶやいた。

 

「冗談だよ」

 

 声が丸みを帯びる。柔らかなトーンに起伏がついた。

 だからイザナはすぐさま返した。

 

「嘘つけ」

「……まあ冗談じゃないが、そんなん言ってたって無意味だろ」

 

 わざとらしく嘆息が落ちて、再び時は動き出す。

 細長い形をわざわざ二つに畳まれた封筒は、イザナの襟元に無造作に差し込まれた。

 

「ともかく——あくまでも俺の意見だが——読まなくてもいいぜ。箪笥の奥底にでも、仕舞い込んだところで、咎めやしない。ただ、受け取れ。破くな。捨てるな。さもなくばお前の住まいを真一郎さんにばらす」

「襟狙う拘りでもあんのか? やめろ、汗がつく」

「ならちゃんと持て」

 

 改めてぺしんと掌に叩き込まれた封筒を、イザナは心底嫌そうな顔で、それでも拒まなかった。間髪入れず純丘は、もう片方の手中にあったケータイを突き出して、パシャリ、音を立てる。

 

「……なにしてんだ」

「証拠撮影」

 

 訝しく問われて一言。プレビュー画面では、褐色の、傷だらけの手の甲と封筒、真一郎が記した宛名と送り主まできちんと写っている。全項目を確認し、純丘はそれを保存した。

 ポケットにケータイを仕舞って、草臥れたスニーカーは砂利を踏む。封筒から開放された掌を持ち上げて、彼は首筋を擦った。もう片方の手を申し訳程度に振った。

 

「というわけで用は済んだ。俺は帰る」

「純丘」

「縁があったらまたな〜」

「お前、俺のこと嫌いなのによくやるよな」

 

 一拍置いて「はァ?」と、純丘は心底不可解そうな声を発した。振り返れば、指先で摘んだ封筒をイザナはじっと見つめている。

 紫の双眼に宿るものを推し量るには難しい。

 

「誰がそんなこと言ったよ」

「妬ましいんだろ。手紙も読ませたくないぐらい」

「……それは、そうだが」

 

 純丘は目を細めた。

 淡々と述べられたのは、確かに彼が我慢しきれずにこぼした本音だ。八つ当たりと言い換えてもいい。被害者に当たるイザナが掘り返すのもごく真っ当と言える。

 

 しかし同時に。

 

「俺は君のことは妬ましいのは事実だ。だが、俺が君を嫌ったことはないのも事実だ。俺にとってその二つは別物で、同じこととして結びつかない」

「なんで?」

「なんで、って……そも、君、嫌われたいのか?」

「……真一郎の弟、マイキーって言うんだろ」

 

 突然転換した話に、訝しく思う表情を崩さぬまま「それが」と純丘は返した。

 

「俺はマイキーが嫌いだぜ」

 

 イザナは口角を引き上げた。

 

「真一郎の、血の繋がった弟。エマの本当の兄貴。エマも嫌いだよ。俺の偽物の妹。真一郎も、嫌いだよ。俺の兄貴だって、嘘ついた。……しょうもねえ嘘ついて、みんな好きだなんて、いい子ちゃんしいすんなよ。ウゼェよそれ」

「……いい子ちゃんしい、ね」

 

 台詞を復唱して、純丘はごきりと首を鳴らした。

 

「あいにく……見当外れだ。俺は、まあ君のことは間違いなく紛れもなく妬ましいが、君を嫌ったことはない。いい子ちゃんしいとか関係なしにな」

「へえ」

 

 全く信じていないのがよくわかる相槌だ。本音を吐くにしても言い方が悪かったな、純丘はこっそり反省した。

 

 妬ましいのは本当だ。どうしてと口に出したくなることも少なくはない。

 同時に純丘は、好き嫌いの決定を意識して自制してもいる。純丘が黒川イザナについて知っている情報は、ひどく、断片的だ。一括りに嫌いと結びつけるには、関わりが少なすぎる。

 

「だからこそ、好きかどうかと聞かれると微妙だが……」

「やっぱ嫌いなんじゃねえか」

「……好きじゃないからって嫌いとは言わねえだろ」

「そういうことにしとけって?」

 

 嘲るようにつぶやくイザナに、純丘は少し沈黙した。どうにも会話が噛み合わないことを気にした、わけでもない。実のところ。

 濃茶の瞳を二度三度と瞬かせて、おもむろに、首を傾げる。

 

 四月の路地には花の香りがようよう漂っている。現代日本の学校では大抵、四月頭は春季休暇に当たる。桜はこうこうと咲き誇っている。

 入学式までこの満開を保っているかは少々怪しい。

 

「……好かれているより嫌われた方が楽か?」

 

 平坦な口調だった。

 先程までのような、感情を抑え込むそれではない。むしろ、なにかを確かめるための、極めて慎重な声色だった。

 

「君が、理解できるから?」

 

 イザナの口元が少しだけ引き攣った。

 

「……は?」

 

 純丘と彼に身長差があるのは、見ればわかるとおりである。イザナの目元あたりに、ちょうど純丘の口元が来る。

 そこにひとひらの笑みが閃いて消える。口の中でなにごとかをつぶやいたようだった。

 

 もう一度——とても、深く——息を吐き出して、純丘は今度こそ踵を返した。

 

「マジで帰るわ」

「おい」

 

 咄嗟に強く呼んだイザナも、いったい己が、なにを続けようとしたのかはわからなかった。口元を引き結んだ彼を振り返る様子はない。

 

「渡したし、受け取ったんだ、君の居場所については黙っとくよ。約束する」

 

 続けて「つか、どっか出掛けるとこだったろ。呼び止めて悪かったな」謝辞を述べ、ひらひらと手を振る足取りは軽い。

 遠ざかっていく挨拶に、イザナはきゅっと眉を寄せた。渋々ながら受け取った封筒にも、眉間と同じく皺が寄った。こちらは、跡がつくぐらい。

 

 

 

「へえ、フクブそれ言ったんだ。マジかよ〜」

「は?」

「機嫌悪っ」

 

 けらけら笑うのは蘭で、竜胆は「俺のドリンクだから」とテーブル上のカップを回収していった。イザナは確かに苛ついていたが八つ当たりで強奪する気分ではなかったので心外だ。

 気分だったらやってたかもしれないがそこはそれ。

 

「怒んなってたあいしょ。拗ねてもいいことねーぜ?」

「殴り殺すぞ」

「殴り殺す方法はそれこそ兄貴が詳しいけど」

「まずマウントポジションを取りまァす」

「へえ……とりあえずそこ膝つけよ。実践してやっからさァ」

「マァ待てよイザナ、ちゃちな仲間割れで少年院(ネンショー)に逆戻りなんざしょうもねえって」

 

 満十五歳。適当な日雇いアルバイトなりで日銭を稼いで食費や生活費を得ているイザナだが、それはそれとして彼は、頼まなくても舎弟の貢物だの付き合いがある先輩からの融資だのが入ってくる、そのような人間でもある。

 たとえば容姿が良いので、愛玩がてら目をかけている人々もいる。たとえばその性質に将来を期待し、恩を売るために金を投げる者もいる。純粋に慕って献上する者もいれば、恐怖から媚を売る者もいる。

 

 というわけで今日は灰谷ブラザーズによるイザナ(高級)食育の会なわけでした。この店マジ美味いからと連れてこられた、最安値でもウン桁の店。支払いは灰谷持ち。本日はせっかくの横浜なので中華ということで。

 なお、彼を養育した施設の方針により、イザナは食事に関してはかなり厳しく躾けられてきた。つまり本来の意味の食育が必要なのは灰谷兄弟の方だ。

 彼らは部外者から供給される食事をあまり好まず、食育できそうな立場の純丘は雑に放置しているので——本人曰く、俺がそこまでする義務、ないよな?——今日も今日とて野菜の好みすらそのまんま。

 

 細かい食事情は置いといて。

 

「まあフクブはキモいけど、嫌いじゃねえのはマジだろ」

 

 と言ったのは竜胆だ。話をざっくり聞いたところでの第一声だった。

 具体的に述べるなら、純丘榎が気持ち悪ィという話から「今日のフクブの用事ってイザナか」「休みの日に寝るより優先するとか珍し、なるほどな〜佐野真一郎案件ね」と流れるようにいろいろと割れた直後だ。

 

「嫌いだったら猫被り剥がさねえから」

「そーだな、嫌いになったらどうにかして疎遠になって記憶から存在抹消するよな」

「なんなら再会しても素で〝どちらさまですか?〟とか言い出す」

「サイコホラーかよ」

「関わった事実ごとなかったことにしてェとかなんとか?」

 

 頬杖をついた蘭は、ラーメンを箸で巻いている。語られる内容を総合するに、おそらく彼らは現場に居合わせたことがあるらしい。しかも複数回。

 本当に他人なんだよな? 親戚とか幼馴染じゃねえんだよな? イザナは心中で訝った。

 

 純丘榎と灰谷兄弟の関係は、前々から記しているとおり。幼い頃に会っていたとかそんな奇跡は特にない、出身中学が同じで、軽音楽部に所属していた先輩後輩だ。今月半ばでちょうど三年。顔を合わせていなかった時期(つまり純丘が受験のために奔走し、灰谷兄弟が少年院にぶち込まれていた時期)を差っ引くと一年半の付き合いでしかない。

 

 意外と少ない。

 

「マジで嫌いじゃねえんだろうけど、たぶん、理解できねーよ?」

 

 続けて蘭はそのように述べる。眉を跳ね上げたイザナに「フクブが変人ってのもあるけど」言いながら、視線を返した。

 

「たとえばイザナ、あいつのこと純丘って呼んでるだろ」

「それが」

「アレ偽名だぜ」

「……は?」

 

 トーンが半オクターブはズレた。素っ頓狂な声を上げたイザナを、さもありなん、兄弟共々そのような顔つきで眺めている。

 

「……お前らそれ言っていいワケ」

「つっても、隠してねェしな」

 

 餃子を飲むように咀嚼して、答えたのは竜胆だ。

 

「保険証とか住民票とかフツーに戸籍通りの名前だし」

「なんなら表札バリバリ本名だし」

「中学の先公で純丘って呼ぶの顧問ぐらいだったしな」

「本名出るたんびに嫌そ〜な顔すんの」

「あれはウケたわ」

 

 思い出話に興じる二人を他所に、イザナは思考を巡らせる。施設には、本と、申し訳程度に遊具を設置した庭ぐらいしかなかった。ワルイコトを覚えるまでは、時間を潰す方法なんて専ら考えることばかりだ。

 本名を名乗らぬ理由。己を自ら再定義する理由。中学の教師のほとんどが本名をそのまま呼んでいたのなら、切迫した事情はなかったのだろう。少なくとも世間一般の基準になぞらえるなら。

 

 〝俺は、あまり、良いものと思えなかったが〟

 

 推察できる事実はある。導き出せる結果がある。

 

 〝妬ましいんだ〟

 

 頭の回転はイザナも悪くはない。荒れた組織と化した——そのように仕向けた——黒龍(ブラックドラゴン)を制御するには、人心掌握も重要だった。そうでなくとも材料は揃っている。なにを言いたいのかは、実のところ、知っていた。

 

 けれども吐き捨てた。

 

「意味わかんねえ」

 

 だからこそ吐き捨てた、とも言い換えられるだろう。

 血が繋がった家族を忌み嫌う思考がわからない。それでいて、血の繋がらない家族を欲する挙動が理解できない。哀れまれたならばまだ無視できた。嗤われたならばまだ殴り返せた。

 

 だったらくれよと骨が軋む。要らねえなら寄越せよと臓腑が喚く。ぐつぐつと奥底で唸り続ける。

 

 妬ましいとそう嘯くくせして、イザナがどんなに願っても——絶対に——手に入らないものを投げ棄てる。

 

「だろ?」

 

 片目を瞑り、蘭は謳うように言った。

 

「わかんねーよ。他人なんて、どうせそんなもんだろ。ならわざわざ覗く意味ある? 大将がイヤ〜な気分になるだけじゃん?」

 

 イザナとは似て非なる紫がたわむ。

 

「そこにはなんもねえよ」

 

 声が囁く。

 紫を見つめ返して、イザナはわずかに首を傾げた。ピアスが音もなく揺れた。

 

「そうかもな」

 

 ——からららっ!

 と。

 

「ところで」

 

 甲高く音が鳴った。半分ほど山が削られた炒飯の皿、その脇に、銀のスプーンが転がっていた。

 店内には落ち着いた音色のBGMが流れている。高らかに鳴った金属音に、肉まんに手を伸ばしていた竜胆が一瞬手を止めた。

 

 瞳を眇めたイザナが、自らの炒飯の皿をすっと指で寄せた。

 

「オマエ、なに企んでんの」

「……大将のこと気遣ってる?」

「ハハ、そーだナ。……しらばっくれんなよ、なんに気付かれたくねえワケ?」

 

 言外にかけられる圧に「ゴメンって、許せよ」蘭はおどけるようにヒラヒラ両手を振った。

 

「イザナのこと気遣ってんのはほ〜んと。……イザナの機嫌で、フクブ潰されんのも困るのもほ〜んと」

 

 にっこりと笑った蘭を、イザナは胡乱げに見返している。その横で竜胆は我関せず、スープの椀を指先で引っ掛けて引き寄せた。

 

「理解できねえモン同士で、お互い、探り合ってメンチ切り合う必要ねえだろ? わざわざ代理で線引き提示してんだから、感謝してくれてもいいんだぜ?」

「……ほんっとに気に入りだな」

 

 溜息のようにつぶやいた。手首を内側に曲げて、イザナは手の甲に顎を乗せる。とぼけるように蘭は微笑んで見せる。

 

「入り浸ンのにちょうどいいんだよなあ。大将も来る?」

「ヤだね」

 

 揶揄うような言葉の応酬の脇。竜胆はひとり、肉まんに歯を立てる。門歯で柔らかな生地を食いちぎって、餡が含まれていないことを見極めて、慎重に、もくもくと食む。中華まんなるものは、大抵、餡の部分が火傷せんばかりに熱いので。

 

 そうして竜胆は、やっぱ兄ちゃん誤魔化すの巧ェな、そんな感慨を抱いた。

 

 蘭の言葉に嘘はない。しかし、彼の言葉は限りなく正確ではない。

 〝イザナの機嫌でフクブ潰されんのも困る〟()()()〝イザナのことを気遣ってんのはほ〜んと〟——正しい語順は逆だ。

 

 繁華街の夜には灯火が降る。店先で輝く看板が、星明かりを殺して闇を灼く。

 先程別れたS62世代の王サマがどこへ行くのか、灰谷兄弟は特に知らない。喧騒に背を向け帰路につくのか、またどこぞを渡り歩くのか、そこに関与する間柄ではない。

 

「相性良いな〜やっぱ」

 

 蘭は笑い混じりに言った。ポケットに突っ込んだ手は、畳まれた警棒を弄んでいる。

 

「悪ィんじゃねえの」

 

 横目でも怪訝そうな顔つきの竜胆に「わかってねえな」あっけらかんと返すさま。軽くあしらわれて、竜胆は思わず不快げに眉を寄せる。

 言葉を選ばず言えば、灰谷蘭が彼の弟に嫌がられるのは〝そういうところ〟で、同時に灰谷竜胆が彼の兄に延々と揶揄われるのも〝そういうところ〟だ。

 

「悪ィならそれこそフクブがイザナのこと嫌いになるか、イザナが足出してんだろ。破綻してねえならそーいうこと」

「……足技多いからって?」

「アレ嫌なんだよな〜顎狙われっから」

「頭ばっか狙うヤツに言われたかねえと思うケド……」

 

 純丘榎。軽音楽部元副部長。灰谷兄弟と交流の深い男。

 彼らの交流がなんだかんだ続いているのは、純丘の忍耐力の高さよりも、危機把握能力の高さに由来している。回避ではなく、察知でもなく、把握。対象をよく見て、ぎりぎり爆発しないその見極めが上手い。

 

 それはそれとして——把握した情報を活用するか否か、活用できるか否かは、本人の素質とコンディションにかかるものだ。

 

 少なくとも、純丘は今まで、イザナに対して幾度かのミスを繰り返している。ミスの理由も、恩人絡みの深入りより、私的な感情に基づいた、線の踏み間違いの方が多い。

 

 Q・何故?

 

「それにホラ、あいつら似てんだろ」

「……まあおんなじことでうだうだしてっけど」

 

 A・自己分析は土壺に嵌まりやすいから。

 

「……のわりに、変えらんねえことで悩んでも意味ねえとか言うじゃん。どっちも」

「大将もフクブも、意味ねえことで悩んでるやつに意味ねえなんてわざわざ言わねえだろ」

 

 伸びてきた髪を後頭部付近でくくっているから、蘭が一歩を踏み出すたびに左右にちっちゃく振れる。左、右、左、右、跳ねる毛先を無意識に竜胆は目で追った。

 

「気にしてっから否定すんだよ」

「……兄貴の知ったかってなんなの?」

「お口が悪いなあ竜胆?」




いつかの身柄請書と焼肉の恩
:暴行罪編参照
 貸し借りって 怖いね


:出身小中高揃って 卒業式には三分咲なのに入学式には葉桜

好かれているより嫌われた方が楽
:懐に入れた人間に裏切られ続けた結果
 最初から信用しなければいいと考える者

偽名
:苗字を変えるのは下の名前を変えるよりもチョットタイヘン
 わりとマジでたいへん
 詳しくは戸籍法一〇七条を参照

語順
:気をつけるだけで印象がガラリと変わる筆頭
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