「っつわけでこれが今月っつか先月の手紙……」
真夏特有の蒸し暑さに混じり、微かに爽やかな空気薫る早朝。その只中。
中途に言葉を切った純丘は、真正面斜め下を半眼で見下ろした。視線は仏頂面とかち合った。
「……ところで毎度隠れるのやめてくンね? 探して捕獲する手間がかかる」
「やらなきゃいいだろ」
不機嫌全開フルスロットルなイザナが、大きく横に身体を揺らした。ガッタンガッタン。麻縄で縛り付けられた椅子ごと、振り子が如く左右に振れた。
5 months ago
「真正面から渡さねえと受け取らんだろ」
「当たり前だろ」
「もうそろ飽きてくンねェかなあこのやり取り」
四月よりほぼ月イチの恒例行事と化している。封筒を指先で掲げた純丘には、舌打ちが返った。今日も今日とて元気が有り余っているご様子だ。
「……とりあえずお届け物は完了ということで。スタンガンはできれば使いたくないから、次回はもうちょっと大人しくしてくれ」
「絶対嫌だ」
「そうか……ところで朝飯食ったか? 今から食いに行くからついでに奢ってもいいけど」
「……」
現在時刻は先に述べた通り早朝。片や持ち前の身体能力と地の利、片や人心掌握術と人脈、夜中目一杯使って大捕物をしていた。
食ってる暇なぞあるものかよ。
「……オマエそれ毎回聞いてくるけど、飯のことなんだと思ってんの?」
「便利な道具」
活動エネルギーを補い、道楽のひとつに名を連ね、ある種コミュニケーションツールとしても活用でき、嫌がらせや殺人の道具にもなる。最後二つがそこそこおかしいが、純丘が優等生の評判を維持する以外で前科者を忌避していないのは概ねこのあたりに起因する。一歩だけ道が違ったから、今特に何事もなく(?)生きており、経歴にも羅列されていないだけだ。
無論S62世代は誰も知らない事実だとして。
深く息を吐き出して、イザナはガタンとまた椅子を揺らした。
「行ってやってもいいから、これ外せよ」
「外せるだろ自分で」
拘束した張本人のくせしてそんなことを言いながらも、純丘は結び目に指をかけた。
……これは内緒の——もとい、公然の秘密の——話だが、イザナは確かに半分ぐらいは本気で手紙を嫌がって逃げているけれども、いつまでも追いかけてくる純丘が普通に面白いので遊んでいる部分も正直かなりある。純丘も薄々察しているので、あまり強く文句を言わない。まあ面倒だなとは思っているがしっかり乗っているあたりそういうこと。
お互いに仲良しとは全く一ミリも思ってないが、それはそれとして食事は行く。
閑話休題。
「うま」
屋台で純丘が提示した自前のスタンプカードにいろいろと〝なるほどナ……〟イザナは思ったが、とはいえ勧められたケバブを大人しく咀嚼していた。基本、外れは勧めてこない。
……うまいな。イザナもこっそり認めた。視線だけで同伴者の様子を窺えば、純丘はもくもくケバブを頬張っている。頬にタレが付着していた。やや赤みが強く、淡い橙色、いわゆるケバブソースだ。
「百歩譲ってお前が俺を嫌ってねえとして」
「ほは」
「ア?」
「んぐ……そこ百歩も譲らなきゃ肯定されないかんじか?」
ケバブを嚥下して、胡乱に返した純丘に「万歩譲って」イザナは頑なに繰り返した。「なんで増やすんだよ」純丘は眉を寄せた。
なおイザナは気づいていないが、彼の頬にもケバブのタレは付着している。
「羨ましンならなんか適当にそのへんのやつ丸め込めばいいんじゃねえの」
「君、俺のことなんだと思ってる?」
「屁理屈魔」
自己評価と完全一致してしまったので、純丘はそっと視線を逸らした。適当に選んだベンチの背もたれにて、ほぼ上体を乗せるようにして——姿勢が悪い——イザナは、上から、純丘の顔を見下ろしている。見下ろすというか見下す姿勢だ。
「お前
「だからってその結論に至るのは大概極端だな……」
アクセントの位置が嫌味ったらしい。
もしゃ……とケバブを咀嚼する年下を眺めて、こいつほっぺたタレついてんな、純丘は気づいた。
彼は彼で自らの頬についたタレには気づいていない。
「そもそも。……羨ましいと思っている部分は、それもあ、」
テッ↑ テッ↘ テッ↓ テー↗ テテテテ テテテ♪
テッ↑ テッ↘ テッ↓ テー↗ テテテテ テテテ♪
言葉を切り裂く着信音。
「……今まだ六時だよな……?」
「
「天国と地獄。佐野さんちの着メロ」
ケータイを振った純丘にイザナはお手本のように嫌そうな顔をした。だろうな〜と思ったものの、わざわざ移動するのも面倒なので純丘は普通に出た。
もしもし? あ万作さん? 応対の様相を眺めて、イザナは相変わらず、不機嫌な顔でケバブを咀嚼していた。
「——いや、」
ので、眼前で声音が跳ね上がったところも、やっぱり見ていた。
「あの。……は、え? ちょっと待ってください。えと」
無意味に口元を擦り、手の甲にタレが大きく伸びたところも見ていた。
「死んだ?」
もちろんその言葉も聞いた。
——今日の四時頃には既に心肺が止まっていたこと。下手人かつ強盗犯たる少年たちは現行犯で送検されたこと。通夜は明日の夜、葬儀は明後日の朝に執り行うこと。
真一郎の祖父または純丘の雇い主、佐野万作が通話越しに伝えた事実だ。
佐野真一郎の死の概要だ。
「なん、」
純丘は咄嗟に口を開きかけて、迷って、噤んだ。イザナは既に、ベンチから反射のように飛び退いていた。襟首を掴んで捕獲したのはこちらも条件反射だ。
「……。そうですか。わ、かりました。では——」
『それで榎、ひとつ頼めんか』
「……はい」
『イザナくんと連絡つくか? 黒川イザナくん』
「……黒川くんに?」
勢いよく振り返ったイザナ——上体を捻った拍子に、衣服が捻れた——が、純丘を凝視した。純丘の指先がケータイのボタンを探って、ボタンを押す。同時に耳を離す。
しわがれた声が明瞭に響いた。ハンズフリーモードに切り替わったためだ。
『真一郎が……あまり詳しく話してくれなんだが、どうも怒らせてしもうて、最近はオマエが仲介してくれとったろう』
「ああ……それは、はい」
『本当はわしが教えてやれるなら筋だろうが、施設とは連絡はついたが、長く帰ってないようでな。……葬式の日取りを知らせてやってくれ』
「……承りました」
応える声はいやに静かだった。ありがとう、謝礼を述べる万作の声色もやはり静かだった。イザナの指先がきゅうと丸まって、戦慄くのを、純丘は視界の端で目撃した。
ビル街の近辺に木々は少ない。蝉の求愛が遠い代わり、雀の鳴き声が高く響いている。
「ただ、喪服のアテがあるかは……もしかすれば出席の際、不相応な服装かもしれません。叱責はご容赦いただければ」
『それは構わん。あまりにも突然過ぎる。……家族だのに別れも言わせんのは、酷だろう』
「はい。……それでは、失礼します」
終話ボタンを押した直後に純丘は気づいた。お悔やみの言葉を述べ忘れていた。無意識に息が浅くなっていたので、努めて静かに、深呼吸をした。
「なんだよ……今の」
「……なんだろうな」
「タチが悪ィ」
「本当に」
「——なあ、」
「それで黒川くん」
言いながら純丘は、片手でケータイを閉じようとして、取り落とした。端末は路面とぶつかって硬い音を響かせる。砂礫が外装に細かい傷をつけた。
「君、黒い服持ってる?」
「……本気で言ってるワケ、」
拾い損ねたケータイが再びアスファルトの上で跳ねた。
掌はひどく震えていた。
通夜に来たところで喪失の実感は湧かない。黒と白だけでほぼ彩られた家屋は、見慣れたそれでも、非現実的だ。ついぞ会ったこともない故人の知人が立ち並ぶ中に、己もまた紛れ込む。読経をBGMに、動かぬ写真を眺めても、紙切れ一枚が与えてくれるリアリティなどたかが知れている。
日常とは乖離している。少なくともそのように受け取れる。上手く噛み砕くのは難しい。
庭に張り出した縁側に、純丘は無造作に腰掛けていた。第一ボタンまで留めたワイシャツ、堅苦しく締めたネクタイに指を引っ掛けて、緩める。日も暮れていて、純日本家屋といった様相の家では、雨蛙がひそかに合唱を奏でている。
数枚の壁を隔てた向こう側、喪主たる万作の挨拶が微かに聞こえる。言葉は読み取れない。
——弔問客の中にいるだろう、と予想していた顔が、いくつか欠けていた。純丘は、何故かとてもクリアな思考で、その意味を考えた。考えて、とりあえず、食事の席から離れた。
勝手知ったる他人の家だ。佇んでいても邪魔にならない位置取りには、いくつか心当たりがある。遠くを走るバイクの盛大な排気音に、純丘は目を瞑った。活きの良い暴走族はどこにでもいるらしい。万次郎たち以外にも。もちろん、真一郎たち以外にも。
「……考えたところで……」
今は通夜ぶるまいの最中だ。時間は巻き戻らず、早送りもできない。
「——」
小用という名目で抜け出してきて、現在十五分経過。足を折り畳んで、床の上に引き上げる。膝の力だけで立ち上がった。
「——!」
「ア?」
食事の席に戻る道すがら、逆方向、ちょうど勝手口の向こうから、怒号が聞こえた。純丘は眉を顰めて——ついで目を瞠り、進行方向を変えて、足早に歩を進める。
「——くもノコノコとツラ出せたな」
「ちょっ、」
イザナの身体が、勝手口を開けた純丘のところにまで吹っ飛んできた。咄嗟に扉の角を己の足(装備:サンダル)でガードした結果、案の定突き刺さった木材の角に「イッテェ」思わず呻く。
「ッ」
即跳ね起きたイザナが対するは、怜悧な顔立ちの青年だ。その顔立ちを見留めて、イザナは皮肉げに口角を吊り上げた。
「アンタ、あれか。初代……ハハ、老害共が言えたクチかよ」
「……」
「
「俺は今、
鳩尾に蹴りが入った。咳き込むイザナの胸倉を節くれだった指が掴み上げる。
「スンマセン、こいつ俺が引きずってきたんで。火葬終わるまでは勘弁してくれませんかね」
いや、バケモンか?
冷静な受け答えに見えて、本音はこちら。
確かに、引き止めるために肘を掴んだ。そのはずだ。殴打の予備動作だけで半mは引きずられたが——純丘も鍛えている上、それなりの体格に応じた体重だというのに。細身のどこにこんな腎力を抱え込んでいるのか。
かつての本職、しかも身体が完成した年上は、素直に恐るべき対象に成り得る。
冷や汗とともに申し上げた純丘に、じろり、細い視線が落ちる。明確な値踏み。……圧のかけ方をわかっている。
「……カタギだろ、オマエ。コイツがなにやったか知ってて庇ってんの」
「庇ってるっつか後回しに——」
「ハ、まさか、怖ェってんの?」
短く、しかし明確な嘲笑が、流れと注目を引き戻した。
「俺みてェなガキに、あの伝説どもが? オマエらのお下がりブッ壊しちまったから? 葬式まで滅茶苦茶にされたくねえしなあ?」
純丘の手が今度こそ弾かれた。次の瞬間には、せせら笑うイザナの頬、拳がめり込んでいた。
二度、三度、四度目の前に捩じ込まれる猫騙し。床に手をついたイザナが反撃に転じる刹那、彼の顎を爪先が掠める。体勢を崩したところを、引き倒し、馬乗りになる。目が眇められる、冷たい瞳——。
……開いたままの勝手口、その奥の廊下を振り返って、純丘はなにもかもを諦めた。ダメだこれ。間に合わん。
ただの親切だけで、危険を冒して割り入りなどしない。
「なにしてるの!? ニィ! ニィのこと虐めないで!」
振り上げられた拳が止まった。仰向けに殴打されていた方、半開きの口から「……エマ?」こぼれおちる。
「……真ちゃんの」
勝手口から飛び出した少女が、裸足で土草を踏みつけて、青年の腕を叩いた。べしっ。先程までの重い殴打音と違って、ずいぶんと間抜けな音だ。
「やだ! やだ、なに、こわい! ニィなんにもしてない! ねえ、エマのニィなの! い、虐めないで! 叩かないで! やだ、イヤ!」
べしっ。べしっ。見様見真似の拳は、弱々しく、ろくに痛くもないだろう。そもそも主張が支離滅裂だ。
「に、ニィが、死んじゃうから! ダメなの、こ、ころ、殺さないで……」
純丘は無言で、青年の肩を——エマが殴りつけた腕と、反対側——意思を込めて押した。
青年は素直に退いたものの、エマはいよいよ火がついたように泣き始めた。華奢な身体がイザナにしがみつく。イザナの手がわずかに持ち上がって、彷徨って、再び地面に落ちた。
……本人が飛び込んでくるまでエマの存在に気づいてすらいなかったあたり、双方調子が悪かったのは明白だ。イザナには元々自暴自棄じみた傾向があったし、尚更か。
頭の片隅で物思いに耽りつつ、純丘は手持ちの救急箱から消毒液を取り出す。救急箱を携帯するようになった事情は察してもらうとして。
「あのさ」
「はい」
「……真ちゃんの弟?」
「あいつはそうすね」
引っ付き虫のエマと、大人しくなってしまったイザナを万作が回収しに来て、取り残されたのはこちらの二名。短く答えた純丘に「へえ」平坦な相槌が返った。
凸凹と歪みが目立つ指は、灰谷などの拳と同様に、殴り慣れたそれだ。指の関節、一部の皮を擦り剥いているので、消毒液を雑に降りかけて、絆創膏を指の一本一本に巻いていく。「やんなくていいのに」「恩売ってるんスよ」「何円?」「百円」会話もだいぶ雑。
「オマエは」
「俺はただの雇われです。空手と家庭教師の」
「……あー……」
「え、なに……」
「小間使いだ」
「それ誰が言ったんスか」
ナチュラルに拳を固めた純丘に「……真ちゃんはそういう呼び方、怒ってたぜ」青年はあからさまに回答を逸らした。
結局青年の名前は聞けていない。なんなら純丘本人も聞く気がない。
「あの人が怒ってようと怒ってなかろうとそいつの罪と俺の怒りは消えませんけど……」
「アそ……」
「……妹さんでもいらっしゃるんですか?」
「んー。……似たようなもん。なんで?」
「エマの声そのもので止まったように見えたんで」
青年の瞳が二度三度と瞬く。頭をかたむけるのに合わせ、髪の毛が横に流れた。
「……目が良いナ」
「あざっす」
「そういうの、気づいても言わねえ方が良いぜ」
「……肝に銘じときます」
首をすくめた純丘に、青年が薄く笑った。怜悧な顔立ちと初見の純丘は判断したものの、瞳がゆるむと柔和な印象を与える。
立ち上がった青年が、ジーンズの臀部についた土埃を払った。
「……ベンケイもまだ怒ってっから、鉢合わせねえよう気ィつけろってあのクソガキに言っときな」
純丘の感想は〝平家物語か?〟だったが、敢えて言う意味ぐらい見当がつく。仔細を尋ねずとも、どうせイザナにはそのまま伝えれば伝わるだろう。
むしろ彼には、その言い回しこそが引っかかった。
「ベンケイ
「俺は、今回は真ちゃんのオヒメサマに免じて引き下がっただけ」
言葉に感情は込められていない。
「……あいつは、俺らからしてもそんだけのことやってんの」
一見、ただ眠そうにも見える双眸が、純丘の両眼を見据えている。救急箱の中に元通り道具類を片付けて、自称ただのバイトも腰を上げた。
「八代目にどんな事情があっても、やり口は庇いようもねェ。クソでクズでゴミ」
「よっぽどですね」
「……よっぽどだよ。知らなかった?」
尋ねた青年に「ろくに聞いてないんで」純丘はそっけなく答えた。軽やかな手付きで膝についた砂礫を叩いた。
「首突っ込むようなことでもないでしょ」
「賢い判断だな。……ほんとに首突っ込む気がねえならの話だけど」
「ねえです」
「そ?」
重ねて問いかけた青年は「まあ、そこは良いよ」答えを聞く前にくるりと背を向けた。開きかけていた口を純丘は再び噤んだ。
見て取れる。
……怒っている。
「オマエと八代目がどういう仲か、真ちゃんと八代目になにがあったかとかは。……いろいろあンだろうけど。
裏門の留め金を外して、路地へ足を踏み出す。言葉を連ねるトーンは随分淡々としている。向けられた背中から表情は窺い知れない。
「そんで、そんな八代目を、オマエはわざわざ庇った」
言わんとしていることはわかった。純丘は敢えて沈黙を保った。
「知ってるとか知らないとか、相手にはわかんねえし、どうでもいい。なにがあったところで、終わったことは変わんねえし、変えらんねえ。……肝に銘じんならこっちにしときな」
「……」
「ちなみにベンケイは明日来るから。俺は仕事があるけど」
ガチャンと裏門が閉められた。特徴的な髪色が夜の闇に消えていく。
後頭部を軽く掻いて、純丘は踵を返した。
「……あとで考えよ」
サムターンを左回転させて、ドアノブをひねって確かめる。手応えあり。問題なく施錠できたようだ。
「で、君なにしてんだ」
「……うん」
「うーん……」
廊下の壁にぺたんと背中をつけて、三角座りをしたまま、身動ぎもしない。
溜息を吐き出して、純丘はその脇にしゃがみこんだ。万次郎はぎゅっと膝を抱え直した。電灯も点けていないので全体的に薄暗い。
十六夜の月明かりも、雲が張っていればろくに機能するわけもない。
「……シンイチロー、死んだんだって」
掠れた囁きに「……うん」純丘は相槌を打った。
「死んだんだ」
「……そ、だな」
肩を揺らして大きく呼吸をしたのち、万次郎は、耐えかねたように膝に顔を埋めた。
「もう、俺、わかんねえよ……」
すんすんと鼻を鳴らすエマには未だしがみつかれたまま。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのTシャツの他、イザナには、ひとつ気になることがあった。
「ほれ、麦茶」
「……あのさ」
湯呑を置いた万作を見上げて——相変わらず手の置き場が見当たらないまま——イザナは、尋ねた。
「……あんた、じいさんだよな。エマの」
「そうじゃな」
頷いた万作。外見年齢からイザナは父親ではないと推定したが、その通りであった模様。ここまで連れてこられる間に、仏壇が置いてある部屋をイザナは見かけた。一瞬のことだ。写真立てが三つ、飾ってあった——まだ真一郎の写真はなかった。
ひとつは若い男の写真。ひとつは若い女の写真。ひとつは、前述の彼らよりもいくぶん年を取った女の写真。どれもイザナには見覚えはなかった。
「……こいつの母親は?」
イザナを置いていった女。エマだけを連れて行った母親。
通夜にも、彼女の顔は見当たらなかった。イザナが見つける前に、
「ママ知らない」
口籠った万作より先にエマが答えた。落ち着いたようだが、未だ目に涙を溜めていて、イザナの服を強く握りしめたままだ。子ども特有の遠慮ない握力により、安物の生地は伸びに伸びきっている。
「佐野のおうち来てから、ずっと会ってないもん」
「——ずっと?」
「……エマのこと邪魔だったから、捨てたの」
「エマ」
「だってそうじゃん……」
祖父の叱責から逃げるように、エマはまた、イザナのTシャツに顔を伏せた。
ちょっと待て、と、イザナは思った。
数年前。それでも昨日のことが如く鮮明に思い出せる。パチンコ屋で、気怠そうに煙草を吹かしていた女の姿が頭を過ぎった。アンタは他所の子、冷たく吐き捨てた声が再生される。そう言ったはずだ。そう教えられたはずだ。だから、あの雨の日——。
——あの女は、そんなこと、一言も言わなかった。
「……なら、父親は、」
「エマ……だって、会ったことないよ、ずっと前に死んじゃってるし」
エマの母親は、イザナと出くわした際、そんなことは一言も口にしなかった。真一郎は、そんなこと、一度も話さなかった——というよりも、
一言も言わなかった。誰も口にしなかった。そんなことは、教えられなかった。
そしてイザナは自覚する。
彼もまた、尋ねなかった。
たった一言も。
「黒川くん、そろそろ俺はお暇するが」
「……部長の知り合い?」
ようやく目当ての人物を見つけた純丘は、戸口から声を投げた。横から同じように覗いて、万次郎が訝しげに尋ねた。
「あー……」
どう答えるべきか。一瞬の逡巡より早く、エマがぱっと顔を上げた。泣き腫らした目元が真っ赤だ。
「エマの! ニィ! 黒川イザナ! あんなに説明したのに、マイキー、忘れたの!?」
「うるさい、キンキンする……ニィ?」
「だからお兄ちゃん!」
きゃんきゃんと飛び交うやり取りに、イザナの掌がぐと強く握りしめられる。眉間に寄った皺、暴言が飛び出す前に「ああ」万次郎が気の抜けた声を上げた。
「アレだ。昔聞いた……シンイチローから。家族が一人増えるかもって、お前?」
「邪魔したな」
椅子の足が床と擦れて、濁った音を響かせる。
立ち上がろうとしたイザナは、そこで唇を引き結んだ。自らの胸元に、エマは、未だにしがみついている。
「エマ、退け」
「や」
エマは首を左右に振った。イザナの声色に若干の苛立ちが混ざった。
「帰んだよ」
「泊まってきなよ、お布団出すよ。ニィは知らないでしょ、ウチ、朝ごはんたまに作るの。卵焼きの練習もしてるし」
「知らねえ、そんなの」
「ねえ待って。待ってよ。知らないなら、教えるから。一緒にいて」
「エマ、駄々をこねるな」
さすがに万作が窘めたが「イヤ!」エマは掌で掴んだシャツを離さない。
「だって! だってみんなウチのこと置いてくもん! 用事あるからって、危ないからって、女の子だからって、置いてくもん! ママも真兄もマイキーも!」
「ッ置いてったのは——!」
……置いていったのは。イザナを置いていったのは。
名も知らぬ母親だ。顔も知らぬ父親だ。母だと思っていた黒川カレンだ。死んでしまった、佐野真一郎だ。
エマではない。
掌に爪先が突き刺さる。彷徨って行き場もない拳は握りしめたまま、振り上げることもできない。優しい言葉は吐けないまま、抱きしめ返す勇気もないのに、八つ当たりだけは、理性が辛うじて阻んだ。阻んでしまった。
頭痛が己を苛んでいる。
「……まあ一旦彼は回収してくからな」
「やだってば、あぁああ!」
「今日はやめとけ、朝にはそれこそ葬式があるだろ。万次郎手伝ってくれ」
「え」
冷酷に言い捨てた純丘が、エマの指をわりと容赦なく引き剥がしていく。号泣するエマを、万次郎が羽交い締めにしなければ、たぶん今度は純丘がべしべし叩かれていた。
「部長嫌いぃい……!」
「そうか。悲しいな。それでは、お邪魔しました」
再び訪れた勝手口は、いつも通り、静けさを保っていた。裏門は今度は純丘が閉めた。
額に滲んだ汗を指の腹で拭う。
「……そういえば黒川くん、さっきの君の試合相手からの伝言だが」
「……初代?」
「たぶんそれ。葬式の方はベンケイなる人が来るとよ。参加するなら変装ぐらいはしとけ」
「……ああ」
イザナは目を瞑る。嗅ぎ慣れぬ匂いと、低く響く読経。照明を反射する写真立て。耳に残る、快活な声は、ついぞ現れなかった。
通夜ぶるまいに口をつけなかったイザナを、掌が掴んで連れて行った。そのあとは純丘も見た通りだ。
「行かねえよ」
「……そう。あとはこっち」
素で万札を五枚渡されて、嫌な顔をする前に「……お前今月そんな金あんの?」と問うあたりが、イザナが毒されている証左だ。顔を合わせるたび交通費を支給されていれば、さすがにこうもなる。
「いや、万作さんが渡せって。ホテル代にするなり、交通費にするなり」
「……返しとけよ」
「返したいなら君が返せ。俺の領分じゃない」
「アァ?」
そこで切り捨てるあたりが純丘だ。言い返すべく、イザナは斜め上の顔を睨みつけ、
「……オマエ顔色悪くね」
虚を突かれたように瞬きをした。
純丘はぱっと顔半分を掌で覆った。
「おい」
「……街灯のせいだろ。蛍光灯だし」
「なあ、今隠したよな。ヤベって顔したよな」
「悪い。訂正する。自覚はある。ちょっと放っといてく——」
「ッオマエそんなんでよくさっきエマのこと引き剥がせたな!? くそっ便所どこだ……」
結局トイレにはギリギリ辿り着けなかった。
公園の茂みの脇にひたすら吐く高校三年生。未消化の食物が地面に落ちて臭気を放つ。舌打ちをして、イザナは彼の背中を強く叩いた。
「クッセェ。ゲロクセェ。さっき食った飯全部出てんだろ」
「……悪い、げほ」
「ホンットな。クソ。酒でも飲んだかよ」
「一滴たりとも」
答えて、それでも激しく咳き込むものだから、イザナは遠慮なく溜息を吐き出した。なんで俺よりこいつのが参ってんだよ。心中で激しく愚痴りながら——半分ぐらい遠慮なく口に出して——呼吸する背中を、強めに擦った。
「……口をすすぎたい」
「そこにあるぜ、オマエのあと三歩が足りなかった便所」
皮肉げなイザナの言葉通り、茂みのすぐ脇にコンクリ造りのトイレがあった。ふらふらとした足取りがそちらに向く。……だいぶ覚束ない。
洗面台に取り付けられた鏡には亀裂が入っていたが、顔の造形は確認できる。公衆トイレの電灯は、寿命が近いのか、時折奇妙に瞬いていた。
「……ほんと、白いな」
陶器のへりに手をつけて、純丘はつぶやく。血の気が失せた顔つきは、なるほど、イザナがなけなしの良心を実装するレベルだ。
〝俺は先も述べたとおり、君はその手紙を読まなくてもいいと思っている立場だよ〟
そう言えたのは、どうせ彼らには数十年の長い年月が待っていると、愚かにも信じていたからだ。愚直に、当然のように思い込んでいたからだ。
そして。
もうひとつ。
〝場地と、一虎が、殴っ……殺し。殺して。……バブ盗みに来、来たって、〟
弱りきった声が蘇る。耳の中で、反響して、木霊する。
万次郎が、ホンダのHAWKを欲しがっているなど、彼の親しい知人は大抵知っていた。真一郎の店にあった理由。万次郎の友人が、それを盗みに来た、理由。
万次郎の誕生日まで一週間を切っている。
純丘はろくな答えを返せなかった。どころか、なんと声をかけたのかも覚えてない。万次郎はあれきり、いつも通りだった。
もはや胃の中になにもないのに、純丘の喉は不自然な音を立てた。背中が丸まった。膝を折る。洗面台の前に、蹲る。
「……出てこねェ。……倒れてんのか?」
ケバブ
:トルコ料理
おいしい
食べ方が下手くそなので手が毎度汚れる料理
天国と地獄
:テテテテ テテテテ テテテテテテテ テテテテ テテテテ テテテテテテテテ ×2
ぐらいのあと
そろそろお気づきかと思われるが当方は音楽にかなり疎い
扉の角
:ここにぶつけて打ちどころ悪くて死ぬのはよくある
黒龍(ルビ:ウチ)
:双方八つ当たり
殺さないで
:殺された兄貴の通夜の最中
サムターン
:古いドアノブの なんだあれ つまみ?
十六夜
:当時の東京の月齢
そもそも二〇〇三年八月の十四日から十六日の東京は雨とかそういうのは置いといて
君なにしてんだ
:エマとイザナが立ち去った後に来た
話を聞いていた
落ち込んでいた
写真立てが三つ
:佐野真
佐野桜子
万作の妻
母親
:あの描写を見る限り 教えなかったんじゃないかなと
真一郎
:好きなことはたくさん伝えそう(原作20巻とか見てるとそんなかんじする)好きを共有するのが楽しいかんじ
(自分にとって)わりとどうでもいいことは言わなそう それこそ血縁関係の真実とか
ママも真兄もマイキーも
:真一郎は仕事場で亡くなった≒帰ってこなかった
マイキーが集会に妹を連れてくるきっかけって 流れとかではなく明確なきっかけがあった場合 こういうのかなって
蛍光灯だし
:一昔前の蛍光灯 めちゃめちゃ顔色悪く見える
今はもうちょっと太陽光に近い色も多い
手紙
:読むことを勧めていればあるいは仲直りしたかもしれない
あるいは溝がさらに深まったかもしれない
場地
:おそらくいるだろうと思われていた弔問客の一人
たぶん今鑑別所あたり
一虎くんはあの様子だとワンチャン面識ないのか