灰谷兄弟と軽音楽部元副部長との関係は、確かに雑に括れば「中学で同じ部活だった先輩と後輩」で完結する。
一定数の中学校には、部活動必須、という部活動の意義を若干取り違えた校則が存続している。彼らが通っていた中学はそのうち一校で、いずれかの部活動への所属が義務付けられていた。
楽そうだからと軽音楽部に目をつけ、幽霊部員として皆勤賞ならぬ皆怠賞を目論んでいた灰谷兄弟を、本当に暴れられても逃げられても足首引っ掴んで引きずってでも週二の部練に引きずり出し、夏季休暇まで本物の皆勤賞に仕立て上げていたのが純丘だ。
昼休みのチャイムと同時に一年の教室に連続スライディングお邪魔しますコンボをキメる三年生。
年齢差を鑑みても平均より大幅な上背があり、サイズの差は同時に多大な威圧感を与える。十代の二歳差は無視し難いが、だとしても体格のいい男二人を悠々確保するその手際。
対象がキレたナイフより殺傷力が高い灰谷兄弟だからこそ、新入生から見た純丘は辛うじて恐怖を尊敬が上回った。
当然ながら、純丘が受験で部活を引退した週に、兄弟の部活動皆勤記録は更新を停止した。
お世辞でも素行が良いとは言えない、男子中学生の中でも身体的な優位性が高い二名、わざわざ身体張って確保しに行く方が少数派。完遂できるポテンシャルを有する人間は更に限られる。
純丘はたまたまそうだった。一校に一人いるだけ珍しい。
住居侵入罪
カンカンカタカン、カタカンカン、簡素な作りの階段が足音をやたらと高く響かせる。
東京都二十三区内駅近ながら家賃数万のアパートは、値段に恥じず、築数十年三帖のワンルーム、キッチントイレ共用風呂なし、その他安アパートあるあるコンプリートしかねない要素揃い踏み。
特待生待遇とアルバイトで一人暮らしの生計を立てる苦学生、彼らが借りる賃貸住宅など、大抵そんなものだ。
純丘榎の私生活も例に及ばず。
鈍く銀色に閃く鍵は、マジックテープで留めるタイプの財布に、ストラップで結んでいる。使い古されくたくたの財布を掌に畳むように握りしめ、いざ鍵を手繰り寄せんとした純丘はそこで眉を動かした。
三帖の窓から漏れる光——時刻は午後八時半、東京を燦々と照らし続けた日差しはとっくに沈んだ。つまり室内に電灯がついている。
苦学生は少しの出費が命取り。電灯をつけて丸一日外出した場合、もれなく来月の光熱費が悪夢と化す。
「……」
無言ながら、純丘の視線は窓から眼下に移った。
ポケットから取り出したペンライトを、人差し指と中指で捻れば、豆電球がドアノブを照らし出す。
鍵穴に、凧糸より細い傷が複数本。
銀の煌めき——真新しい。
軽く溜息を漏らした純丘は、ペンライトを消してポケットに突っ込み、ドアノブを握った。
「フクブよーやくお帰りかよ」
「ずいぶん遅ェじゃんな?」
「牛丼屋寄ってた」
純丘はビニール袋を提げた方の腕を揺らした。
足元に収納ケースを押し込んだ安物のベッドの上、純丘には覚えのないゲーム機を弄る蘭。掌中のコントローラーはやはり見覚えのない筐体を経由し、純丘が格安で購入した中古のブラウン管テレビに接続されている。
折畳みの卓袱台の上、昨晩作り置きした酢豚を箸で一摘みひょいと口に放り込んだのが竜胆。純丘自身が就寝前に大皿にラップをかけて中古の小型冷蔵庫に放り込んだうち、四分の三ほどが消えていた。
「俺ポテトL食いて〜」
「男爵と油と片手鍋ならある」
「作れって? ……竜胆頼むわ」
「俺酢豚だけでいいや」
「ところでピッキングやらかしたのどっちだ?」
途端に静かになった部屋の中央、卓袱台の端に牛丼の容器がどんと鎮座。
これは両方だな、純丘は沈黙からそう推し測った。
「俺の自宅前で通報されかねないことするな」
「……へーい」
「合鍵はサッシの裏にビニールで留めてっから入りたいならそれ使え」
「ガッコのコンプラがなんだとかほざいてたくせに、フクブは防犯ザルだよな」
「酢豚返してもらっていいか?」
「自宅でゲロ吐かれて困ンのフクブの方だろ」
「竜胆腹パンされんの? 見して♡」
「兄弟のゲロ予告にはしゃぐな」
「兄ちゃんだし……」
「諦めんのかよ」
割り箸をパキと割って——唯一の自前の箸は竜胆が無断使用中——純丘は顔の前で手を合わせた。いただきます。
プラスチックの蓋を開ければたれの香りが広がり、指が横から伸びて牛肉を一切れ攫っていった。一瞥された蘭はにっ……こり笑った。
「特盛五四〇円、半分で二七〇円、四分の一で一三五円」
「ケチくさ」
舌打ちが飛ぶ。
「俺は既に今月末の電気代が憂鬱なんだよ」
「貧乏かよ、カワイソ……」
「貧乏じゃなかったらせめて風呂があるトコに越してる」
「フクブ、ウチ使うか? 一回も行ったことねえけど快適だぜたぶん」
「行かね〜ここが俺の城なんで」
「城? 小屋じゃね?」
「叩き出すぞ」
テンポの良い会話の片手間に、小型冷蔵庫を開けた純丘は、そこから小皿と予備の割り箸、卵を取り出した。
小皿と割り箸は蘭に渡し、牛丼には卵を落として、大雑把にかき混ぜる。
「つか、一回も、って。自宅見に行ってねえの」
「今日退院だかんなあ」
「それは知ってら。院から直で来たわけ?」
「そー」
ゲーム機を床に投棄、ベッドから滑り降りて、蘭はつまらなそうに息を吐く。片手に小皿、割り箸を割って掌で握り込んだ。
……斜め前から視線が刺さるのでぎこちなく持ち直した。「箸とメリケンサックは違うぜ」純丘は独り言ちて、蘭から牛丼に視線を戻す。
「……てのにフクブいねえし」
「平日は授業とバイトあんだよ」
「バイトはともかくガッコと俺らだったら俺ら優先だろトーゼン」
「君ら基準の優先順位を俺に押し付けんな」
「中学ンときは実際そーだったじゃん」
「そーだなあ、ご理解がお有りな代わり、著しく良識に欠けた先生方だったからなあ」
呆れ気味につぶやく傍ら、純丘は箸で持てる限界の量まで牛丼を挟み、もしゃ……と咥内に詰める。竜胆がけたたましく笑った。
「フクブまじでセンコー嫌いだよな」
「
咀嚼した牛丼を嚥下し、卵の絡んだ玉ねぎをちみちみ舐める純丘。
「手綱取れないのはさておき、生徒に対処求めんのは無責任で済む話じゃねえよ。俺がグレたらどうするつもりだったんだか」
「野放しにされただけじゃね」
「それはそうか……」
「断らねえフクブもフクブで正気じゃねえよ?」
「これからは正気に戻るか……」
「ここ火ィつけんぞ」
「やめろやめろやめろ火災保険入ってないんだよ破産する」
論点はたぶんそこではない。
純丘榎は品行方正な良い子ちゃんなので、部活初回からトンズラこきかけた灰谷兄弟を無理くりでも引きずっていった。ついでに純丘の眼前で灰谷兄弟がやらかした、あるいはやらかしかけている場合、やはり無理くりでも止めに入った。良い子ちゃんなので。
それに全くの無関係ならともかく、灰谷兄弟は純丘が副部長を務める部の部員なので。
……できるだけ低額で高卒の学歴を手に入れるには、自前の学力はもちろん内申点も重要だった、というのが正確な事情だ。
つまり純丘は品行方正な良い子ちゃんである。内情はさておき。
内情はさておき品行方正な良い子ちゃんな上、灰谷兄弟を確保する手際がやたら良い(しかも回を追う毎に技術が向上している)ので、彼らが手を付けられないときに「純丘先輩呼んだ!」が合言葉になるまでさしてかからなかった。
までは確かに純丘も許した。
同じ生徒たる灰谷兄弟の同級生は一年生で、一方純丘は当時最高学年。副部長である以上、灰谷兄弟に対し、ただの生徒より幾分か権力も責任も持てる。
教師陣がその態度を取り続けたことは許していない。
「フクブそういや今どこ高?」
酢豚をソースまで綺麗に片付けたところで、ふと尋ねた竜胆に純丘は答えた。
「こっから歩いて三分のとこ」
「私立じゃね。借金してんの?」
「特待で授業料全免除」
「ウッワきも」
「エリートかよ」
「反応が最悪なんだよな……」
兄弟は露骨に顔を顰めている。顔を顰めつつも蘭は牛丼の汁が染み込んだ白米部分をごっそり持っていった。
ちなみに純丘の高校の同級生は不良に対して今の灰谷兄弟と似たような反応を示す。
「第一本物のエリートなら他行くわ。開成とか」
「そりゃそうだろ金あんだし」
「つか温室育ちの金持ち坊っちゃんとフクブの話が合うわけ?」
「内進とはクラス違ェし……参考までに聞くけど、俺のことなんだと思ってる?」
卓袱台に頬杖をついて、前腕の内側に寄り掛かるようにした純丘。酢豚が入っていた、今は空の大皿に箸先をつける。そうして勝手に自宅に入り込んだ元後輩を胡乱げに見遣る。
蘭は卓袱台の天板に顎を乗せて、竜胆は狭い部屋の壁に凭れて、それぞれ若干頭を傾けた。
「変人」
「おい」
「変人ってより変態だろ〜」
「おい……」
蘭の笑みはへらへらとした軽薄なそれだ。瞳の紫がすっと細くなり、瞳孔がちいさく縮んでも、一見はそう見える。
「副部長ってだけで俺らに晩飯の弁当持たせて、補導されれば差し入れついでに様子見に来たクソみてえな変態」
「後者はお優しい先生方に投げられたせいだが?」
「職務放棄どもが手紙にわざわざケー番仕込んでこいとまで言うわけねえだろ。俺らの〝オヤゴサン〟なんざ、尚更」
竜胆は投げ出すように吐き捨てた。その掌がぐしゃりとラップを丸めた。
純丘はかすかに目を眇めた。
——090‐104■‐■■■2
便箋に記された住所はほとんど正しかった。104から始まる郵便番号が東京都港区に存在しないことを除けば。
三帖いっぱいに、しばらく、沈黙が敷き詰められていた。
「余計なお世話ならそう言え」
純丘は先程までと変わりないトーンで言った。竜胆の指を一本ずつラップから引き剥がす。竜胆は抵抗しなかった。
酢豚のたれでべたついたラップを広げて、今度は畳み直す。
ラップを操る指。爪のひび割れがやけに目立つ。
「もう俺は部活は引退した、どころか中学も卒業した。君らを放逐したところで上がる評価も下がる評判もない。今までみたいな深入りは、要らねえならしねえよ」
指先で空気を抜きながらひたすら畳まれたラップは、大幅に嵩を減らした。冷凍室から取り出したコンビニの袋にラップを放り込んで、再び冷凍室に戻す。
空になった大皿に、割箸含めた箸三膳、平らげられた牛丼の容器を載せて、立ち上がる。
一連の動作を見ていた蘭がそこでようやく瞬きをした。ごとんと顔を転がして、腕を枕に目をつむる。
「くれんなら貰うけど? 好きに貢げば〜?」
「……次から酢豚はパイナップル抜いて作れよ」
「君らほんとに叩き出すぞ」
肩越しに睥睨した純丘に、一方、灰谷兄弟は互いにそっくりな笑みを浮かべている。
「今の時間俺らが歩いてたら補導されんなあ」
「それとも誘拐で通報されてェワケ?」
「知恵つけよってからに」
純丘は心底うざったそうにつぶやいた。そのままビーチサンダルに足をつっかけ、大皿片手に玄関扉を開けた。
外階段を通るとやたらカンカン音が響くことは、灰谷兄弟が今日一日で知った事実だ。均一な金属音が遠ざかっていく。
おもむろにあくびをこぼした竜胆がベッドに這い上がる。
「竜胆もっと奥。詰めろ」
「いや、兄ちゃん、さすがに狭……」
大皿と箸、プラのゴミを洗っている隙、唯一のベッドを仲良く占領されていたと知った純丘は、うんざりと息を吐き出した。
素行に見合わぬあどけない表情、健やかな寝息が響いている。
「せんべい布団、どこ入れたっけ……」
凧糸より細い傷が複数本
:「ちなみにどうやって抉じ開けた?」
「ヘアピン。フクブここまじでやべえよ」
「だから通帳置いて出かけらんねえんだよな」
マジックテープで留めるタイプの財布
:バリバリ!
ゲーム機
:プレイステーション2
二〇〇〇年三月発売
本体もコントローラーも灰谷兄弟が持ち込んだ
爆速で飽きてインテリア化
持って帰ってくれないかなと思われている
五四〇円の特盛
:二〇〇一年八月〜二〇〇四年二月間の吉○家
当期間以前は六〇〇円だったがデフレで値下げ
当期間以後BSE問題で一定期間販売停止
104から始まる郵便番号は港区にない
:マジ
全部中央区
冷凍庫に放り込んだラップ
:凍れば臭わない
生ゴミの日に捨てる