イザナの本拠地こそ確かに元副部長が訪れたアパートで、住民票もそこにある。しかし彼は基本定住することはなく、今日はあっちの寝床へ、別の日はそっちの屋根の下へ、日毎に棲家が変わるような有様だった。
ちなみに元副部長がアパート前でイザナをとっ捕まえられたのは、運や偶然ではなく、普通にイザナの行動パターンを人脈フル活用でかき集め分析し計画的に待ち伏せした結果だ。どう贔屓目に見てもストーカー規制法に引っかかる所業だが、そこはそれ、捕まえられるか訴えられなければ機能しない。
意訳すればバレなければよし。
治安が最悪方向にガバガバな判定は、もちろん真似してはいけないとして。
そんなこんなでめちゃくちゃ分析されている黒川イザナくんは、本日もあっちへふらふら根無し草——のはずだったが、現在、彼の眼前には純丘が立っている。
分析結果は純丘榎の裁量範囲内で本日も最大限に悪用されていた。
「元気そうだな、なによりだ」
「オマエもな」
うんうん頷く純丘に、イザナは皮肉をたっぷり含んだ声で応じた。同時に、ガタンガタンと椅子が揺れた。イザナが縛り付けられている椅子だ——前にもこんなシチュエーション、ありましたね。
一度あることは二度あるにしたって、一ヶ月強でまた椅子に縛られること、ある? 人生に一度あるだけでも本来稀な状況だ。そのはずだ。
「縄はほどけよ。……今日は手紙ねえだろ、」
自分で口にしておきながら、傷ついた顔をするイザナに「……それは、そうだが」至極平坦な声が答えた。
「君がもしかしたら逃げるかもしれねえから」
「ンッでだよ」
「ところで万作さんにお金は返せたか?」
……椅子の震動が止まった。
そんな気はしていた純丘、あまりに予想通りの反応にうすく微笑んだ。生ぬるい目つきだ。哀れまれた気がして、イザナはまたもや暴れた。ガッタンガッタン。再びやかましくなる椅子。
哀れんだ事実はないがこいつやっぱなあと思ったのは確かである。至極わかりやすい。
「黒川くん、忌明け法要って知ってるか?」
「知らねえ」
「四十九日法要とも言う。故人が亡くなった日から、数えて四十九日めに執り行う法要を指す。……真一郎さんが亡くなったのは八月十四日の夜更けだから、十月一日。わかりやすく言うと再来週の水曜だ。ただし平日だから、参加するか、同じ週の土曜に線香だけ上げさせてもらうか、俺は迷っている」
よっこいせ、しゃがみ込んだ男はそのまま頬杖をついた。
「という口実があるが」
それが半月前のことである。
そして本日は十月の四日だった。
3 months ago
「こんにちは、お邪魔します」
「……お邪魔します」
正確に表記するなら「……っぁましァす」という発音だった。早口の駅員アナウンスか、やる気ないコンビニ店員の挨拶ぐらい原型を留めていない。
「よく来たな、まだ外は暑かろう。麦茶飲むか」
「万作さん痛い、背中痛ェっす」
「おおすまん。イザナくんは饅頭好きか? 粒餡の饅頭じゃ」
「なんで饅頭……?」
久しぶりに遊びに来た孫への対応とほぼ同義。不良界隈の厚遇とは明らかに種類が異なるため、慣れていないイザナが大困惑している。年や体格のわりにパワフルな爺さんこそが佐野万作だ。
ただその意図を薄々理解した純丘は、出そうになった溜息をかろうじて飲み込んだ。
「……とりあえず、先に、真一郎さんに挨拶しますね」
「ああ」
しわくちゃの顔を一瞬過ぎる痛ましさ。背中を叩く力加減のミス、血縁のない孫への過剰な猫可愛がり、すべて空元気に過ぎない。
イザナは再び口を引き結んでいた。
四十九日そのときを選ばなかった理由は簡単だ。通夜には参加したこと、そして初代
その他日程調整も可能だったが——ともあれ、第二候補の土曜で通せたので通した次第である。
「先にやれよ」
と、イザナは言った。
「譲ってくれるなら」
純丘は応じて、できるだけゆっくりと、簡潔に、記憶に叩き込まれた作法をそのままなぞった。
イザナは死者の弔い方を知らない。教えられたことはなく、調べたこともなく、調べ方も知らない。宗派によって線香の数などいくつかの手順は異なるが、これについては事前に万作に確認を取っていたので、支障はなかった。
純丘には、特に真一郎に報告するべき事柄もなかった。死者にかける言葉もなにもない。どんな話をしたとしても、当人の道は既に途絶えていて、生者のことなど知る由もない。息をしていないものに相談したところで、返ってくる言葉もなにもない。
純丘榎は幽霊や死後の世界を信じていない。だが、たとえあると信じていても、彼の対応は同じだっただろう。
純丘榎にとって佐野真一郎とは恩人だ。しかし、恩人でしかなかった。恩人だったが、他人でしかなかった。
それだけのことだ。
なにかを——なんであったかは、ついぞ、わからないまま——祈って、純丘は仏壇前の座布団を明け渡した。
イザナは詰まることなく、純丘の手順をすんなりと真似た。彼の吸収力及び応用力は、普段は喧嘩のときに発揮される。
ろうそくに線香をかざす手は、とくに震えてはいなかった。
合掌した指先が額にわずかに触れている。色素の薄い前髪がイザナの目元にこぼれて、かかっていた。
純丘はしばらく、感慨もなくイザナの様子を眺めていた。そうしてふと、純丘は自らの顎を指先で撫でた。
ついで、彼はイザナから視線を逸らした。
「真一郎、 」
小さく落ちた声がなにかを言ったが、これも純丘は敢えて聞かなかった。聞こえなかった。そういうことに、した。
再び、長い沈黙が横たわった。それからイザナは小さく一礼し、座布団から退いた。唇を舐めて、純丘は口を開いた。
「万作さん、めちゃくちゃ喉渇いたんで麦茶いただけますか。二人分で」
「俺は……」
「麦茶ぐらいは飲めよ。水分補給って大事だぜ」
「うむ、饅頭もやろう」
「あざっす」
「イザナくんは、饅頭苦手か?」
「……きらいじゃない」
「よしよし。なんだったら二人とも、昼餉も食べていかんか」
「食べていいなら俺は食べますけど、アレだったら作るの手伝いますよ、ってか作りますよ」
言いながら純丘はポケットから、ティッシュの袋を引っ張り出した。二、三枚引き抜いて、ぺらっぺらの紙をイザナの眼前にぶら下げる。
「やるよ」
「要らねえ」
視界を塞ぐ手をイザナは乱雑に払った。掠れた声で彼は続けた。
「泣いてねえし」
「俺は涙を拭けなんて一言も言ってないが」
イザナの手は、今度は純丘の手の甲を思い切り叩いた。
「まあ泣いてないなら汗でも拭けよ」
「うるせえ……」
さて、ダイニングに饅頭が並び、ぐしゃぐしゃに丸められたティッシュのゴミが純丘のポケットに勝手に突っ込まれたところで。
黄色い声と、バタバタと廊下を走る音。イザナがぎくりと肩を震わせた。ダイニングの椅子から彼が立ち上がる前に扉が開く。
駆け込んできた幼い顔立ちは、うれしそうにほころんでいた。
「ニィ! 帰ってきてくれたの!」
「いや、」
「エマはっや……あ、まじでイザナじゃん。住むの? 今日は俺の部屋泊まる?」
「なんっでだよ」
万次郎への反発とか差し引いても発言がおかしい。声を荒げたイザナに、万次郎はきょとんと目を瞬かせる。
「だって寝る場所いるだろ?」
「そこじゃねえ」
唯我独尊にも程がある。
あらゆる意味でややこしいことになる前に「よおチビっこども」純丘が横から口を出す。
「俺もいんだけど」
「あ部長、てことはウチ今日お昼作んなくていい!?」
「……。そうだな」
言い返そうかなと思ってやめた間をお察しください。
オマエ普段からこの家で飯作ってんの。ぱっと振り返ったイザナの目はあまりに雄弁だった。純丘はにっこり笑ってみせた。間違いなくその通りですね。
だから小間使いだの家政夫だの好き勝手言われるわけだ。
「ウチ、パスタ食べた〜い。前に作ってたオシャレなやつ!」
「バジルか? まあ良いけど……」
「オムライス、旗立てて」
「待て、全員個別にメニュー作るとか絶ッ対しねえからな」
「ワシはこの間の鮭のやつが良いが」
「あれマジで手間かかるんで下準備ナシだと無理っす。……黒川くんはなに食べたい?」
横から出てきて矛先を引き受けていたはずの男が、急カーブで話題をブン投げてくる図。軌道修正こそしてくるが、修正先が違う意味でややこしい方向に全力なのが純丘の通常運転。
〝マジでこいつなに?〟の心境が顔にもろに出たイザナを置いて、不満げな声を上げたのはエマだ。
「部長、ニィのこと名前で呼んでないの?」
「そら……付き合い短いし、呼ぶタイミングもなかったし」
「言い訳しないで! 仲間はずれサイテー!」
「これ言い訳か?」
「仲間はずれサイテー。見損なったワ部長」
「うるせーぞそこ。……イザナくんはなに食べたい」
辟易とした表情で再度尋ねた純丘に、イザナは少しの間、返答に窮した。彼の本音は、別にここで飯食ってく必要もねえだろ、だった——普通に、それはそう。断ればどうせ純丘が上手く丸め込んで、何事もなく帰れるとも知っていた。
「ニィ?」
イザナは顔をしかめて、こめかみを揉んだ。
「……ペペロンチーノ」
「多数決でパスタ! ね! パスタ!」
「えーずっりぃの。俺カルボナーラな」
「パスタは良いとしても、さっきからソースの注文がばらっばらなんだが?」
各種作れと? 死んだ目の純丘を他所に、万次郎が頬をふくらませる。幼児じみた仕草に「キメェ」容赦なく罵倒して、イザナは一歩後ずさった。万次郎は二歩詰めた。
物理的な距離は縮まったが心理的な距離は開いた。
「イザナ次は俺の味方してよ」
「ンでだよ。つかオマエなに勝手に呼び捨てしてんだ」
「良いだろ」
「良かねえ」
「揉める元気があってなによりだ、作んの手伝え」
「は?」
「はー?」
「凄めばどうにかなることにも限度はあるからな」
……ところで。
佐野万次郎は、元来そこまで人懐っこくはない。まさに唯我独尊、どうでもいい他人なぞ素でいないことにするタイプだ。
そういう意味ではイザナの方が、繊細というか、比較的わかりやすい。彼は一応、少しの間相手を観察してから、積極的な排除を目論むたちなので。
結局作らされたソースは各人オーダーメイド。ナポリタンをフォークでくるくると巻きながら、純丘は注意深く、食事中も続く万次郎とイザナの会話(諍い)を眺めていた。
……少し、奇妙だった。
純丘と万次郎は長い付き合いだが、彼らの関係は〝雇い主の孫〟あるいは〝同じ道場の門弟〟であって、それ以上の間柄ではない。だから、断言はできない——そこは、前提として。
たとえ、兄から、あるいは妹から聞いていたとしても、ほとんど初対面の相手だ。存在をろくに知らない家族なんて、接し方にも戸惑うものだろう。
「俺にも一口」
「やらねえ……マジでオマエ何」
……ここまでいきなり、距離を詰めるものか。
ピーン、ポーン
インターホンが鳴ったのは、ほぼ昼食が済んだ頃合いだった。一瞬全員の手が止まって——いや、イザナだけは全く気にせず、余りのパスタをまだ腹に詰め込んでいた——立ち上がろうとしたエマより先に、万作がインターホンの画面を覗き込む。
しわくちゃの顔で、フと息を吐き出して、インターホンの応答ボタンを押した。
「圭介」
イザナが眉を上げた。純丘は空になった食器を回収するついで、さりげなく周囲を観察した。万次郎の表情は変わらないが、エマの顔色が明確に曇っていた。
かちゃんかちゃん、流し台でお湯を出して、食器を漬ける。話は纏まって、場地は一旦家に上げることになったらしい。スリッパをつっかけた万作が玄関に向かった。
常識的に考えれば、まず純丘は暇するべきだ。イザナとて、佐野家のほとんどと初対面に近しく、場地とも元からの知り合いではない。
「……ねえ部長、食器洗うの手伝って。ウチ一人じゃ五人分なんてたいへん」
「それはいいが、」
「場地の顔、まだ見れる気、しないし」
純丘は思わず押し黙った。エマは、彼女の淡い色の双眸は、床を見つめていた。
「……腹ァ」「……もしかして俺か? 微塵も掠らねえだろ」「どーせだしバジケイスケのツラ拝んでくるわ」「ご勝手に。……あー、殺すなよ」「ハ。殺さねえよ」そんなことを言って、イザナが気怠げに立ち上がった。肩をぐるっと回す。
その腕がガッと万次郎の顎を締め上げた。
「えっ?」
さすがの反射神経で隙間に腕を差し込んだが、万次郎は目を白黒とさせている。全く気にも留めない表情で、イザナはそのまま万次郎を引きずっていく。
純丘とエマは、ええ……の顔をしたが、制止することなく見送った。彼らは各々の事情で、己の埒外の〝意味ワカラン暴力沙汰〟に完全に慣れきっていた。
「イザナ? イザナーッ? なんだよ?」
「テメェがなに考えてんだかこっちはまっ——たく訳わかんねえ、が」
ぐるっと身体を回して、肩を組むような姿勢になった万次郎から、イザナはぱっと腕を離す。突き飛ばされた万次郎は、驚異の体幹でその場に踏み留まった。イザナは足を止めることなく、すたすたと足早だ。
圭介——場地圭介の名前に、イザナも心当たりはあった。しかし、彼が眉を上げた理由は違う。
一瞬縋るようにイザナの袖を掴んで、すぐに手を離したのは、間違いなく、万次郎だった。
「乗ってやるよ。なんも保障はしねえけどナ」
無表情に言い捨てた横顔と、早足の歩調、万次郎は慌てて歩幅を大股にした。
玄関前。
深々と土下座した場地に、万作はぎゅっと眉根を寄せて、長く、息を吐き出す。
「圭介。……顔を上げなさい」
「でも」
板張りの廊下に額を擦り付けて、場地は声を震わせる。丸めていた指をぐっと伸ばして、ぺたんと掌を床につけた。土下座の作法なんて知らなかった。
「俺っ。……俺どうやって詫びりゃいいのか、わかんねえ」
場地圭介は、ごめんなさいの方法は知っている。彼は喧嘩っ早い。幼馴染や、友人たちとも、揉めることはしょっちゅうだ。自分が悪かったときは、埋め合わせにジュース一本奢ったり、大事なコレクションを一冊渡したり、そうして帳尻を合わせてきた。
むしゃくしゃと当たり散らし、ものを壊したこともある。頭を下げて、弁償代わりにタダ働きした回数は、片手の指の数を越える。
ごめんなさいの方法は知っている。誠意を持って謝って、償って、元通りにする方法は知っている。
——元通りになんて、しようがないときは。
どうしようもないときは。
「俺が……俺が止っ、止められてりゃ。一虎はダチ思いだから、だから。……俺のせいだったんだ、」
羽宮一虎がバイクを盗もうとしたのは、佐野万次郎にプレゼントしたかったからだ。羽宮一虎が佐野真一郎を殴り倒したのは、場地圭介が見つかってしまったからだ。
……なんの免罪符にもならない事実だ。羽宮一虎の人柄を端的に表している。短慮で、短絡的だ。
「こんなこと言っても、言い訳にしか、ならねえけど……!」
そして、友に対して彼が見せようとした——正しくはなかった——優しさだ。
泣いてないが、泣いてないだけ。そんなさまの少年を見下ろして「くだらねー」イザナがしゃがみ込んだ。場地の癖のある黒髪をわし掴んで、ぐっと引く。
「オマエが真一郎を殺したんだ?」
「ッ、」
瞳孔の開いた目つきに場地の息が詰まった。「……殺したのは別のやつ、」万次郎が平坦に答えた。ふーん、低くイザナは相槌を打った。
「……で、謝りてェのか、許されてェのか、結局オマエどっちだよ」
「ッ謝りたい、」
「ならまずツラ上げろ。土下座で許しをタカってんじゃねえ」
つまらなそうにつぶやいて、ぱっと手を離す。呆然と己を見上げる少年を、イザナは無機質に眺めた。まだあどけない顔立ちは、イザナよりも、鶴蝶の方が、年が近いだろう。
……イザナが人を殺したのも、ちょうど、これぐらいのときだった。彼は至極冷静に回顧した。
直接手を下すことこそなかった。それでもイザナは、ちゃんと——人殺しだ。
「どういう顔したらいいのか、わかんないよ」
じゃあじゃあと水が鳴る。食器同士が音を立てる。
フォークの泡を落としながら、つぶやいたエマに「それはそうだろ」純丘は短く答えた。彼は大皿をくるくると回して、スポンジで汚れを拭った。
「……部長ってなんでも知ってるでしょ」
「なんでもは知らねえけど」
「たくさん知ってるでしょ」
「そこまでは知らねえけど」
「ウチ、場地のこと、どうやって許したらいい?」
がしょん。エマは複数本のフォークを水切りカゴに置いた。純丘は泡だらけの大皿を右側に渡した。受け取ったエマは大皿にお湯をかけていく。
純丘はもう一枚、大皿を手に取った。
「……好きにすればいいんじゃないか? そもそも許さなきゃいけないものでもないだろ」
「……でも、」
純丘は右横のエマを見遣った。彼らの身長差のせいで、金色のつむじしか見えない。
「真兄は……」
エマの声は、普段より、か細く、小さい。
「……たぶん、そういうの、嫌だと思う」
純丘は頭を掻こうとして、手が泡だらけなことを思い出して、やめた。俺こういうの向いてねえんだけど、愚痴るように内心ごちた。
「……よくわかんない、んだよね」
「うん」
「真兄は、ちょっと前まで、ここで変なテレビ見てバカみたいに笑ってたし」
「うん」
「いないってことが、信じられない、けど……真兄の部屋、誰も帰ってこないし、ベッドにパジャマ脱ぎ散らかされてなくて」
「……うん」
「四人分作っても、ひとりぶん、ラップして、朝ごはんになっちゃうし。必要ないのに、夜食作ってるし……いない、ん、だけど」
うん、と純丘は相槌を打った。パスタを茹でた寸動鍋をしゃこしゃこと洗っている。エマはぐっと喉を鳴らした。
「……今、場地と会っても、場地たちが殺したって、上手く思えないと思う。真兄がもういないって、上手く思えないのと、同じで」
「……そうか」
「それで……ちゃんと、許すんじゃなくて。なかったこと、みたいに、しちゃうんじゃ、ないかって、」
がしょんと大皿が水切りカゴに置かれた。エマの手から咄嗟に取り上げた純丘が、残りの泡を流してから、片手で置いた。
「し、真兄が。大切で、だから、真兄が死んじゃったことは忘れられないし、忘れちゃいけないと、思うの。真兄は、ウチらが場地のこと許せなかったら、きっと悲しがると、思うの」
「……」
「でも、でもウチ、どうやったら。……わかってから、許すって、どうやるか、わかんな。……わかんない」
洗い流した寸動鍋を、これもまた、純丘は水切りかごの上に置いた。レバーをきゅっと引いて流しっぱなしだったお湯を止める。タオルで掌を拭いて、右手でエマの目元を拭った。
「コンシーラこんな塗ってたのか、そら顔もぐしゃぐしゃになるわ」
「茶化さないで……!」
「茶化してねえよ。……隈ひどいな、いつから寝られてない?」
肌と同じ色の塗料は既に涙でにじんでいた。一緒に拭ってしまえば、エマの目元は、あざのように青黒くなっていた。彼女はもとより色素が薄いのでよく目立つ。
化粧に興味を示していたのは元からだ。知識はあるだろう。
「そんな、」
「そんな?」
「……ず、ずっと」
「うん」
「ずっと、寝らんなかった」
「ずっとか」
「寝ても、すぐ、目、覚めちゃって、」
純丘は脳内でカレンダーを引っ張り出した。
四十九日法要が先日、七週間と少し。ギリギリ二ヶ月には満たないぐらい。人間の最長断眠記録で信憑性が高いものは、一九六四年に観測された十一日ほどとされている。記録によれば、四日めあたりで精神的な不調が見られたとか。
無論、不眠症状だけならより長期的に成り得る。重篤な病気の兆候として現れる場合もあるが、その多くは精神的な不調に由来する。
「真兄、帰ってこなくて、ウチ寝てた間に、」
「うん」
「ね、寝ようとしても、こわ、こわくて……」
「……そうだよな」
「ま、マイキーが一番つらいから、おじいちゃんもしんぱ、心配する、するから。だ、だから、ウチが、しっかり、しなくちゃ、するの。しっかり、するの」
「うん。……それで、」
膝を曲げて、しゃがみ込んで、純丘はエマの顔を見上げるように覗き込んだ。ぱちりと瞬いた睫毛から涙が落ちた。
「できるのか?」
「……や、やる」
「うん」
相槌は柔らかだった。そこに感情は込められてなかった。
じっとエマを見つめる瞳は、ほとんど黒に近い焦茶だ。真一郎や、万次郎の目の色にも類似する。
「俺は、できるか、できないか、聞いてる。……できるのか?」
「……でき」
「うん」
「できな、ひっ、できないぃ……」
「うん。当たり前だな。それできるやつ、そんないねえわ」
いよいよ決壊して、しゃくりあげて、言葉もろくに喋れなくなったエマに、純丘は苦くつぶやいた。先の件もあって、道場はしばらく休業で、純丘もアルバイトには来ていなかった。久しぶりに顔を合わせた兄妹は、どちらも、やけに明るかった。
エマは当然のように家事を引き受けた。普段ならば、真一郎と万次郎と万作も混ぜて、誰が家事をするのか、じゃんけんしただろう。
空元気だ。万作ですらそうだった。
彼らはよく似た家族だ。
「好きにすればいい」
「でも」
「本当に。強がっても、バレないままってのは、どうせ無理だ。わからないなら、わからないままで、いいだろ」
「で、もお」
少女のほつれた髪の毛を、耳にかけてやる。
純丘は、自分でも意外ながら、ひどく落ち着いた心地だった。胸のうちで定まらない、その輪郭を、ようやく見つけた気がした。
「あとから答えを変えても、真一郎さんが怒るとは思えないけどな」
「ひ、ん、でも」
「どうにせよ、君がなにを選択しようと、俺は許さない」
口を噤んで、目を丸くしたエマと「あくまで俺の選択だが」純丘は目を合わせている。
「ずっと考えていた。……今までと、似たような接し方はできる。けど、少なくとも、すぐには許せない。圭介も、羽宮くんも」
純丘が長らく、本当に長らく考えていたことだ。
全員が知人だった。真一郎は恩人で、場地は成長過程を横で見てきた馴染みの一人で、一虎は心を開けば懐っこい少年だった。
「なかったことみたいにしてもいいだろ。許さなくたっていいだろ。許したって、いいだろ。今からでも、あとからでも。……誰も怒らねえよ」
かつて純丘は、人を殺そうとした。エマと同い年の頃だ。
そして真一郎に止められた。
「誰かのために、許そうとして、頑張って、君が苦しむなよ。したいようにしろよ。……真一郎さんを理由にしても、もう、あの人は喋んねえんだから」
死者はなにも語らない。想像することしか、できない。
……一九五〇年代。ある社会学者たちが〝中和の技術〟という概念を提唱した。
非行に走る者たちが、己を正当化するために行う五つの否定を指す。
責任の否定(やりたくてやったわけじゃない、なんで責められるんだ)
危害の否定(傷つけようとしたんじゃない、そんなつもりはなかった)
被害者の否定(先に手を出してきたのはあいつだ、あいつも加害者だ)
非難者への非難(逆に、お前は批判できるのか、そういう立場なのか)
より高度な忠誠心の訴え(■■のためにやったんだ、良かれと思って)
のちに、かの社会学者らのうち一人が提唱した理論を〝漂流理論〟と呼ぶ。
非行に走る者たちは、それが悪いことだとわかっている。善悪の区別を知っていて、その上で己を正当化しようと試みる。
——イザナは。
イザナは、己の被害者に頭を垂れたことなど、ない。被害者の家族に許しを請うたことなどない。
ひとつには、もちろん、その経緯がある。自殺するほど嬲って甚振って追い詰めた、イザナに追い詰められた相手は、元々イザナを遊び半分で殺しかけた集団だった。
イザナが謝られる道理こそあれ、謝る道理はない。イザナはそう強く信じている。
ひとつには、イザナが持ち得るその思考だ。己を害するものを排斥してなにが悪いのか。なにも守ってはくれない。法も、人も、他者も、なにも——誰も。然らば、己を守るためには、己こそが強くなるしかない。生かしておけばいつか報復される。
イザナはかつて、嬲られ、甚振られ、殺されかけ、入院した。そして、生き延びた。生き延びたから、報復しに来た。——殺しておけばそうはならなかったろうに。
イザナは、彼は、己は悪くないと信じている。
「アホらし……」
同時に、己の正当化でしかないとも知っている。
冒した罪は罪でしかない。背負った業は元には戻らない。どれだけ頭を下げたところで、所業は既に為されたあと、覆水は盆に返らない。
自らの過ちを見つめるよりも、自らの正しさを見つめるほうが、ずっと簡単だ。
「許されてェやつはだいたい謝ンだよナ」
脈絡もない言葉だった。膝の上に頬杖をついた少年は、つらりと言葉を並べた。
「申し訳ありません。ごめんなさい。悪かったです。なんでもします。どうか許してください。隙を見せりゃタカってく」
たとえばそれはいつの、誰の話なのか——彼の紫の目が、場地を、見つめている。
場地圭介は、実際手を下してはいない。彼が止めろと叫んだ声は深夜のしじまに轟いた。
他人のせいにできる立場だ。羽宮一虎という絶好の対象がそうだ。
場地だけが早々に勾留から開放されたのは、強盗事件への関与が薄かったことに起因する。
本人らの証言と、普段の様子、羽宮一虎が日頃見せる危うさ。総合的に判断された。
「テメェのせいだってな」
イザナは平坦に尋ねた。場地は、紫の瞳に見据えられ、奥歯を噛んだ。
「俺のせいだ」
「殺したのはハネミヤカズトラだろ」
「俺が止めきれなかった。一緒に強盗入っちまった。俺が見つかっちまった」
「誕生日プレゼントにバブ盗もうとしたんだって? その理論が通ンなら、マイキーの
違う、と、場地は言った。
掌に爪を立てて、声は揺れていて、イザナの双眸から視線を剥がさない。得体のしれない男に正面から圧をかけられて、わずかに肩は震えていた。
「マイキーのホーク丸だって、俺のせいで、壊れっちまった。……一虎が俺を盗みに誘ったんだって、それ知ってたからだ。だから」
だから。
「……マジで
ぼそっとつぶやいたイザナが身体のバネだけで立ち上がる。「オラ退けよ、あとはテメェらで話せ」場地を足蹴にして、玄関で己の靴をつっかけた。
万次郎は咄嗟に、イザナのパーカーを掴んだ。即座にイザナは手を振り払った。
「イザナ、」
「俺さあ、テメェが気に入らねえんだよ」
振り返ったイザナは冷めた目付きだ。
「知ってんだろ」
万次郎は、幾度か瞬きをした。彼の脳裏に記憶が過ぎる。
通夜の際に、黒川イザナの話を知った。淡い髪の間から覗く目が、万次郎を一瞬捉えて、外して、出て行った。兄の部屋を訪れた際、手紙の束を見つけた。莫大な量だった。
一枚一枚、読んでいった。一人きりで。兄の筆跡をたどった。
兄たちの軌跡を辿った。
「……〝万次郎の話はもうしないで〟」
「あとナ、バカ獅音がなに言ったか知らねえけど。テメェらにボロ負けした
衒いもない言葉だった。にっこり笑んだ少年が、両腕を広げて、指折り数える。
「強盗、傷害、
「俺、」
「わかンだろ万次郎。俺は真一郎じゃねえ。もうここにも来ない」
ヒールが高く鳴った。ピアスが軽やかに音を立てた。イザナは一瞬、純丘の処遇を思案して、放棄した。まあ勝手に帰ってもアイツは平気だろ。
それから、思い出したように振り返る。口をつぐむしかなかったのか、見守るしかなかったのか——今まで沈黙を保っていた万作を捉える。
ひらっと手を振った。
「饅頭ゴチソウサマ」
今度こそ、家の外へ足を踏み出した。
ストーカー規制法
:正式名称「ストーカー行為等の規制等に関する法律」
二〇〇〇年末に施行
四十九日法要
:数え方が異なる場合もある
線香
:宗派によって本数が変わったり置き方が変わったり
中和の技術
:David Matza, Gresham Sykes より
公認心理師の資格試験とかでこの問題出てくる可能性高め
漂流理論
:David Matza より
ほか同上