【完結】罪状記録   作:初弦

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2 months ago

 叙々苑に連れてきて「マたまにはお手軽でもいいだろ」と宣った灰谷兄弟に、イザナは金銭感覚の違いを心底痛感した。

 というわけで本日の彼らの昼食は焼肉だ。

 

「喧嘩……喧嘩?」

「ン」

 

 珍しく、露骨に驚いた顔をしたイザナに、竜胆は仏頂面で頷いた。マジ? という顔を蘭の方も向けられるので、蘭も軽い口調で肯定を返した。

 

「ちょっと揉めたんだよ」

「揉めた……」

「まあ喧嘩だな」

「本気か?」

 

 まだ納得していないらしい。

 

「だいぶ驚くじゃん……」

「お前ら喧嘩してんの?」

「そんな意外?」

 

 灰谷兄弟が想定していた以上に本当に頭から信用していない。

 

 なにかと己を構う兄弟からの連絡に、久しぶりに、イザナは気まぐれな返信をした。嬉々として飛んできた二人に、世間話ついでにぽろっと純丘の話をしたところ。

 ガチンと硬直して、食もうとしていた肉を取り落としたのが竜胆の方。あーあという顔で、網の上に再び落ちた肉をさらっていったのが蘭の方。

 

 いいとこ取りの兄貴がいるとだいたいこうなる。

 

「純丘こないだ蘭と歩いてたよな」

「そだな?」

「喧嘩してんの俺とフクブで、フクブと兄貴じゃねえし……」

 

 ロートーンで述べる竜胆に、イザナはますます目を丸くさせた。

 

「なんだよ」

 

 ご機嫌垂直落下。乱暴な仕草で別の肉をひっくり返す兄弟に、蘭は肩をすくめてみせた。八つ当たりなんて、イザナの機嫌が少しでも悪ければ粛清されている。今のところは驚きが勝っているようだが。

 命拾いしたな〜竜胆。

 

「お前ら別々の意思あんの?」

「……大将俺らのことどういう目で見てんの?」

「灰谷兄弟」

「ちょ——っと分離させてくんねえかなあ?」

「なんで?」

「なんでがなんで? ……ヤ、いいわ」

 

 これこの話してるとややこしくなるな?

 

 察した灰谷蘭、一旦追及休止。足を組んで思考をリセット。部下がそんなことをしている間にも、イザナは不可解そうに首をひねった。

 

「俺になに言われてもキレなかったのにな」

「マ、元々佐野真一郎の件でぶっ倒れてて、気が立ってたのもあんだろ」

「その当の真一郎の通夜ンとき、吐きやがったからゲロくせえ死ねっつったぜ」

「……えー?」

「てかアレ、よっぽどの地雷踏んでもすぐなんでもない顔ンなるだろ。マジでキレんの?」

「……あー……」

「今日はずいぶんナメた返ししてくるよなあ、蘭」

「ゴメンて」

 

 イザナの形容は、正しいが、正確ではない。

 なんでもない顔は、確かに、する。……根に持つだけだ。どうでもいいと切り捨てるか、腹の奥底に隠して、ひとりでくよくよと考え続けるか。

 

「……肉飽きた」

 

 竜胆がぼそっとつぶやいた。つぶやく傍ら、咀嚼しかけの肉を白米の上に吐き出した。「きったねえ口ン入れたなら食えよ」イザナのツッコミが珍しく正論。

 

「もう要らね……砂食ってるみてえ」

「ボンボンの舌マジで意味不明だな」

「イザナ、今の竜胆をボンボンで括られっと俺にも飛び火すっから、やめて?」

「違えのかよ」

「俺は安い肉でも美味けりゃちゃんと味わえっから」

「どっちもボンボンじゃねえかナメた口叩きやがって」

 

 キレられても仕方ない発言だった。灰谷兄弟に奢られていながらこの口を叩ける人間なぞ、それこそイザナぐらいしかいないのは置いといても。ちなみに某元副部長はもうちょっと別方向の失礼を働くタイプだ。

 

 さておき。

 先程の蘭の発言は、こちらも正しいが正確ではなかった。より厳密には、意図的に濁した、という意味で正確ではなかった。

 

 少し話は脱線する。

 

 人は誰しも、日々の中で大なり小なりなんらかの感情を抱くはずだ。たとえば朝起きて〝眠い〟昼ごはんの前に〝お腹が空いた〟普段使う交通機関が遅れていたら〝面倒くさい〟好感を持っている相手に会えば〝嬉しい〟……その他様々な感情を抱く。

 その心情を人はどのようにして捉えるだろうか。共感覚者などの一部は感情を目で見ることができる例、聞こえる例、味わえる例など存在するが、ごくごく一部の話だ。

 

 大抵の人々は、思考を、感情を、心を、言葉という形にして捉え直す。言葉、すなわち言語。

 人間にとって、周囲に数多く存在する他者と、意思疎通を執り行うための手段のひとつだ。

 

 あるいはこのような話がある。臨界期仮説、という単語の話だ。

 

 言語獲得ないし第二言語習得は、ある一定までの年齢を過ぎると、学習効率が著しく落ちる(あるいは、そもそも言語学習能力が消失する)といわれる。ゆえに、外国語は幼少期から英才教育を施すことが適切だ、と、言われやすい。

 臨界期が存在するのか、存在するとすればそれはいつか——この単語に、仮説と題されているのは、つまりそういうことだ。

 

 あるいはこのような話がある。ダブル・リミテッド、という単語の話だ。

 

 ダブル・リミテッドは、幼少期の海外滞在等で二言語の環境で育った結果、両言語どちらも十全に扱えなくなった人々、及びその事例を指した言葉だ。

 日常会話には困らずとも、学校などの教育現場において、教科書や板書を読めない、理解できない、成長すれば仕事の指示を上手く汲み取れない、そのような困難に度々直面しがちだ。

 

 あるいはこのような話がある。感情とそのラベリングについての研究の話だ。

 

 感情を具体的に言語化できる者ほど、ストレスを溜めにくいとされている。思考を整理し、解決策や落としどころを見出しやすくする。あるいは対象に名前をつけることで、枠内に落とし込み、単純化し、捉えやすくする。

 

 あるいはこのような話がある。

 言語化能力は、他の多くの能力と同様に、訓練しなければ伸びない。訓練とは、他者とのコミュニケーションを指す。

 

 そして、ここに歴然とした事実がある。

 

 灰谷兄弟は、己の感情の——特に、不快な感情の——言語化が、不得手だ。苦手だ。

 シンプルに、下手だ。

 

 得体の知れない蟠りを、彼らは、大抵暴力として発散してきた。学校をサボり、他人とろくに関わらず、気に入らなければ伸してきた。これは多くの非行少年に共通する特徴のひとつでもある。

 

 肉に飽きたわけではない。自らの不機嫌に、無意識に引きずられていた。

 ストレスはしばしば、身体の調子にすら影響を及ぼす。

 

「竜胆」

 

 逸れていた話はここで本筋に帰還する。

 

 焼肉からの帰り道のことだ。

 前を行く蘭の呼び声に、やや間を開けて「なんだよ」低い声が応じた。

 

「なんでフクブにキレた?」

「……ムカついたから」

「そ〜だろうな。で、なんで?」

 

 竜胆は、ちらりと視線を上げて、蘭の後頭部を見つめた。かつて上の方で小さく結ばれていた髪の毛は、もっと伸びて、毛先だけを下の方で括っている。

 

「ムカついたことに理由ってあんの」

「理由がねえなら、喧嘩相手の風邪っぴきがあんだけ無事なのはおかしいよなァ、りんど」

「そんなん……」

「理由がないぐらいキレてるとき、オマエ、手加減なんてわざわざすんの?」

「手加減なんざしてねえ」

「あー、やっぱァ? なんに気ぃ取られてた?」

 

 顔を合わせて詰められてはいない。

 膝を突き合わせて話しているわけではない。

 

 蘭は、竜胆の前、少し先を歩いている。竜胆は、蘭とは半歩開けて後ろを歩いている。

 

「竜胆チャアン、むずかしくてお答えできませんかァ?」

「マジで、殺すぞ、兄貴」

「相っ変わらずテメェはトロっちいな。脅してる暇あったら行動しやがれ」

「うるっせェな」

「くっちゃべる元気はあるクセにな。いい加減尻拭いもメンドクセェんだよなあこっちはよ」

 

 竜胆と誰が喧嘩したところで、蘭が関与する羽目になりはしない。せいぜいイザナがどうかといったところだが、彼は彼で灰谷兄弟をほぼセットで見ているのが判明したばかりだ。

 ……それはそれでほとほと困惑する事実だが。

 

 蘭の関与どころか、板挟みになった今回は、本当に稀有な例だ。慣れない経験はストレス値を溜めやすい。

 気分がささくれ立っているのは、なにも竜胆だけではなかった。

 

「どーでもいいなら突き離せんだろうなあ。無視してなかったことにすりゃあいいなあ。ってのにしねえなあ?」

「……」

「なんで?」

「なんだっていいだろ、」

「ダウト」

 

 足取りも軽く否定する男に、竜胆は喉に力を込めた。うっかり蹴った小石が電柱の方へ吹っ飛んで、甲高い音を立てた。

 

「なんだよ、クソ、今更……なんも言わなかっただろ」

「テメェがその()()になってもまだ引きずってっから聞いてやってんだろうが」

「ハァ゛? そういうのお節介っつうんだろが」

「……りんど〜? 俺とも喧嘩してえってんなら、兄貴だしなあ、叶えてやってもいいぜ。今、すぐ。ここで」

 

 平日正午、人気のない路地裏、蘭の足取りは軽やかだが、その声はひどく平坦だ。竜胆は歯を食いしばって、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。

 腹の底で怒りを募らせている。

 

「……今更、する話じゃ、ねえだろ」

「へえ」

「いまさら……あの目、クソ……」

 

 呼気を震わせる。

 明らかに別方向に向けられた言葉、蘭は前を歩きながら、相槌のようにつぶやく。

 

「ビビってるって言ったってな?」

「ビビって」

 

 台詞を復唱し、竜胆は、不意に口をつぐんだ。

 まばたきを数度行う。

 

 呼吸を継いで、それから、言った。

 

「……違う」

 

 言語化能力は、コミュニケーションの練習、反復で上達する。そのように、訓練し、経験を積まなければ伸びない。経験を積めば、伸びる。

 理解に齟齬があれば、そこにはひずみが生まれ、心は大きく軋む。軋んで、より、己を苛む。

 

 心と言葉が噛み合って、ようやく思考は動き出す。

 

「あいつ、今更。……いまさら、」

「……」

「……ビビってた方がマシだったよ。今更、なあ、厄介者なんてわかってンだよ。勝手にこっちにきたのは、オマエの方だろ……。要らねえってンなら、そっちから、要らねえって、言えよ」

 

 立ち止まった蘭が、おもむろに振り返れば、竜胆は一歩半後ろの位置で、しゃがみ込んでいた。ふっと息を吐いて、頭を軽く掻いて、蘭は踵を返す。

 一歩半の距離とは、大股でたった一歩になり得る。

 

 傍らに立って、俯いた兄弟を、上からしばし眺める。

 蘭は尋ねた。

 

「今更、なに?」

 

 竜胆は答えた。

 

「いまさら同情しやがった」

 

 己の腕をきつく掴んで、震えている。感情の落としどころもわからず、あふれかけている。

 

「オマエの都合だったんじゃねえのかよ、なあ、視界に入るから、そんだけで構ってたんじゃねえのかよ。俺らは、俺らの都合で、勝手にいただけだろ」

 

 灰谷兄弟は、実のところ、憐憫に慣れている。

 見目麗しさと、内包する暴力性と、それを培った一因たる背景と。アンバランスな要素は人目を惹きつける。崇拝する人間もいれば、裏側を察して哀れむ人間もいる。

 

 飲み込み方にも慣れている。

 少々の煩わしさに目を瞑れば、それらは非常に都合良く動く。

 

「見下ろすなよ。……見下すなよ」

 

 みおろす。

 みくだす。

 

 回顧して、竜胆は、己の心を捉え直した。

 真夏の腐ったような熱気、三畳で、男子高校生三人には手狭過ぎる部屋。無意識だっただろう。不調で脳みそを茹で上げて、いつもより隠すのが下手だった。顔にちらついた見覚えのある色。ふっと視線は逸れて、それで、

 

 ——突き飛ばしたのは竜胆の方だ。突き飛ばして、胸ぐらを掴んで、壁に押し付けた。

 

 そうしている己こそが突き飛ばされたような、そんな、気分だった。

 

 純丘榎との初対面から、灰谷兄弟は厄介者で、不穏分子だった。飼い慣らしようのない加害性、その片鱗をちらつかせていた。

 最初からそうだ。

 

「なん、で今更……そんな顔してんだよ」

 

 オマエがそんな顔するなよと思った。

 オマエはそんな顔しなかっただろと思った。

 なんにも気にしないでいたから、居座ったんじゃなかったのかと、思った。

 

 少年犯罪には、他の犯罪と比較しても、環境要因が強く関わるものだ。貧困や虐待、いじめ、発達の方向性、それらへの公的支援の不足。

 少年法では加害者も手厚く支援される理由のひとつでもある。そこにしか居場所がなかった、その方法しか知らなかった、別側面では〝可哀想な子どもたち〟かもしれない存在を守るために。

 

 たとえば灰谷兄弟が——もしかしたら、だ——非行に走るしかなかった子どもだったとして。可哀想な子どもの側面があるとして。

 

 その側面を、属性を、関係ないと最初にぶん投げたのは、純丘榎の方だ。学校の後輩、同じ部の部員、そう定義したのは当時副部長だった少年の方だ。

 独自のルールがあるならば、それだけを前提においたのは彼の方だ。

 

 隠れた被害者性も、顕著な加害者性も、すべて無かったことと決め込んで、見てみぬふり、いびつな無関心を作り上げた。

 

 そして彼らは対等になった。

 だから彼らは対等になった。

 

「今更まともヅラしてんのは、オマエの方だろ。……なんで俺が、置いてくって。置いて行きたがってるって。そういうことになるんだよ……」

 

 一方。

 蘭は自分の毛先を指でくるくると弄っていた。うずくまった竜胆を見下ろしてもいた。

 変にややこしくしやがって、ここにはいない元副部長を、心中で軽く罵った。

 

 アスファルトをかつんかつんと靴先で叩く。

 かつん。かつんかつん。

 

 溜息。

 

「フクブが俺らに同情してるって、そんなんそれこそ今更だろ」

 

 蘭の弟は、竜胆は、少々堪え性がなく、物事への考察も程々に早合点しがちだ。

 本件はその特徴が完全に裏目が出た。

 

「あいつが誤魔化すの上手かったからオマエは目ェ逸らせてただけだろ」

「知らねえ、」

「知らねえ? マジで言ってる? ただの義理で他人に毎度弁当なんざ作らねえし、ただの変人は後輩の看病なんざしねえし、底なしの善人だからって料理教えるためにキャンプ場貸し切って全力鬼ごっこなんざしねえよ。イザナだって、俺らが大将っつったから、佐野真一郎にすぐ売り渡さなかったんだろ。……わかりやすーく、特別肩入れしてんじゃんな」

 

 勝手に期待してダメだったら拗ねて、俺の弟はカワイイネェ?

 蘭が心のうちだけでこぼした独り言だ。半分以上皮肉が含まれている。

 

「マこないだは余計なモンも混じってたな? それはほんと」

「兄貴は、それ……気づいてて、どうでもよかったってンのかよ」

「竜胆〜、テメェまで履き違えてんじゃねえぞ」

 

 大なり小なり、人間は己が見たいものだけを見て、見たくないものから目を逸らしている。見えない箇所を端折って、都合良く捉えている。

 隙間には小さな誤解が折り重なって、一見、わかり合っているように見えている。

 

「同情してたろうよ。同情だけでもねえだろうよ。オマエが都合良くあいつを眺めてたのと同じで、あいつも都合良く俺たちを眺めてたってだけだろ。それがはじめで、前提ってだけだろ?」

 

 刺青を見ては固まって、殺されかけては冷汗を流し、取られる食事に辟易しながら人数分を用意した。

 純丘榎は、他者に思われるよりも、ずっと凡人だ。あらゆる事柄をひとつも切り離せず、すべてを直視してしまった上で、見なかったふりを決め込んだ。

 

 だから、まあいいか、と蘭は副部長を許容した。

 

 同情して、その上で隠して、共存しようと努力した。灰谷兄弟を蘭と竜胆と呼んで、個だけを見ようとした。

 まあいいか、と思った理由はそれだけだ。

 

 だからそのままでいてくれよと灰谷蘭は思っている。おんなじようなことした、それなりに近しい奴らを重ねて、俺たちを見ようとするなよと、そういうことを思っている。

 

 これは竜胆には秘密の話だ。

 

 

 

  2 months ago

 

 

 

 仔細を省くと、純丘は今、教会の前に佇んでいた。

 

 仔細を丁寧に説明するならば、時は少々遡る。

 まず、羽宮一虎の処遇が少年院送致に決定したのは、十月の頭のことだった。

 

 勾留、鑑別所での観護措置、家庭裁判所による審判、ここで一度試験観察を挟み、再度観護措置が行われたのち、改めて審判、判決——罪状が罪状だ。かかった期間としては妥当なところだろう。

 場地は、一虎が出られないとわかったからこそ、佐野家を訪れたらしい。彼が出られるのであれば共に謝罪を、そうでなければ先に友人のぶんも——諸々の話をあとから聞いて、いや、まあ無理だったろうな、純丘は静かに納得した。

 彼が口を出すことではないので、それは、それで終わり。

 

 イザナのことでまたべしょべしょに泣いたエマを宥めるのに忙しかった、とも言うだろう。

 

〝部長〟

〝部長じゃねえけど。……あー、それで?〟

〝イザナ、俺のこと万次郎って呼んだ〟

〝……。へえ〟

 

 彼らにとって、その邂逅が、離別が、果たして吉と出るか凶と出るか。そこもまた、純丘の関与するところではない。

 純丘は佐野家の人間ではなく、イザナとは本来そこまでの間柄でもない。灰谷兄弟という接点があり、佐野真一郎という介在があったから、偶然、近しいように見えただけだ。

 

 純丘は考えていた。

 考えることがいくつかあった。あるいはいくつもあった。

 

 たとえば純丘は、いわゆるカタギというもので、不良と並べばカツアゲ現場と勘違いされることすらある。

 たとえば純丘は、自覚していたよりも灰谷兄弟に影響を与えている。彼らと親しくつるんでいる者どもにすら、セットと思われるほど。

 たとえば純丘の恩人、佐野真一郎は死んだ。殺されたのだ。純丘がまれに目をかけていた子どもたちは人殺しになった。純丘は彼らをまだ許せない。許せる気がしない。

 たとえば黒川イザナは罪を犯している。佐野万次郎を気に入らないとか、好きじゃないとか、それ以上に彼は罪を犯している。

 たとえば、エマは怖がっていた。きちんと、許せるかどうか。悪いことを、良くないことを、起きた出来事を、なかったことみたいにしてしまうかもしれない、そう怖がっていた。

 

 たとえば。

 灰谷兄弟は人殺しだ。

 

 考えることがいくつもあった。ついでに純丘は、生活費を稼ぐ最低限のアルバイトと、大学受験へ向けた学習も並行していた。

 純丘は推薦組ではないので、部活動引退組も混じって跳ね上がった倍率の中、素直に勉強に励んでいる。

 

 多くのことを考えて、考えて、学んで、考えて——ぶっちゃけ考え過ぎてめちゃくちゃ疲れた。

 

 朝起きて純丘は、ここで、疲労した己を自覚した。本当に疲れていたので、彼はすぐさま学校に電話した。体調が悪いので欠席します。以上。

 まるで嘘。

 

 そのまま二度寝した。ぐっすり寝て、午前の半ばに再起床。顔を洗って、ヨーグルトとプロテインドリンク——セールで買ったがハズレだった、とっても、マズイ——を摂取し、彼は外に出た。

 そうして街を歩いていた。

 

 十一月もそろそろ半ばだ。ハロウィーンの気配はとうに消え、代わりに、イルミネーションがちらほらと飾られ出す。街路樹を眺めて、やっぱり純丘は考えていた。

 

 恩人を殺した少年たちを純丘は許せない。

 彼のそんな心の動きは、ある種道理だろう。

 

 一方で矛盾も生じている。

 

 純丘はS62世代が不良であると知っている。万次郎たちのチームと、彼らは、性質が異なることも知っている。より直截に言うと悪質だと知っている。

 羅列された罪状は、確かに行うだろう、とそういう納得を純丘に齎した。彼らが純丘に牙を向かなかったのは、純丘側の気遣いもあったが、それ以上に灰谷兄弟の影響が強い。

 

 そして、灰谷兄弟だ。

 つまり灰谷兄弟だ。

 

 S62世代はあらゆる凶悪犯罪の展覧会が如き様相を見せている。特に、灰谷兄弟は傷害致死と、所業の度合いが群を抜いている。強盗よりよほどタチの悪いことをいくつも冒している。

 

 場地との付き合いは、それこそ万次郎と同じくらいの長さで、深さだ。灰谷兄弟よりも長い——しかし、と、純丘は判じている。彼の個人的所感で言うなら、付き合いの深さは、灰谷兄弟の方が比重が大きい。

 

 灰谷兄弟が冒した所業、その被害者は、おおよそ、純丘と関係のない人間だろう。少なくとも、佐野真一郎同様に、純丘の心に居座っているわけもなし。

 

 人間は、大なり小なり贔屓をする。完璧な博愛なんてそれこそ神様でもそうはいない。

 

 ならば仕方ないというのだろうか。

 だからなんだというのだろうか。

 

 そも、一方を許せて、一方を許せない、その矛盾はなんだろうか。

 

 その決定権は己にあるのか。

 

 そういうことを考えていた。

 延々と考えていた。

 

 考えて、考えて、考えて——足を止めたときには、純丘の眼前には教会があった。

 

 煉瓦造りの莊嚴な様相。かすかに聞こえる聖歌。

 純丘はしばらく、建築物のてっぺんを見上げていた。

 

 で。

 

「ここどこだ」

 

 呆然とつぶやいた。

 

 出かけた頃、まだ東の空で存在を主張していたはずの太陽は、そろそろ頂点に到達する頃合いだった。

 考えて考えて考えまくった結果、数時間ぶっ通しで歩き続けていたらこの有様。もちろん経路なんぞ全く覚えていない。マジでここどこ?

 ちなみに電柱に記された住所は渋谷の端っこ。港区のお隣だが、より厳密に言うなら、港区があるのとは真反対の方の端っこ。

 

 正真正銘ただの迷子だった。晴れているので太陽の位置で方角くらいはわかるが、初見の場所から方角のみで家まで辿り着けるかは、正直なところ、疑問だ。

 しばらく純丘は周辺をうろついていた。住宅案内図(たまに道路脇にある地図の掲示のことだ)がどこかないかなと思ったので——彼は知らぬことだが、この教会の周辺は不良の溜まり場がいくつか存在している。

 下品な落書きで使いものにならなくなった看板は、交換のため、ちょうど一時撤去されていた。

 

 誰が悪いかというと落書きの下手人が悪い。

 無計画に歩いた上、リカバリ手段を頭からふっ飛ばしていた純丘も悪い。

 

「すんません、お邪魔しまーす!」

 

 なおこの男、見つからないならそれはそれで、初見の教会に大声で突入するクソ度胸の持ち主だ。だいたいどこでも生きていけるよお前は。

 純丘榎をジジババキラーと評したのは灰谷兄弟で、その通り、礼儀を意識しながらも懐っこい振る舞いができるタイプだ。彼が露骨に引くのは実際凄まじい失礼や犯罪行為ぐらいで(それもだいたい、引くだけで)大概物怖じしない性格をしている。

 

 開けた扉の先からは、聖歌のしらべがより強く聞こえてきた。……しかし、聖堂内に人気はない。

 響き渡る歌声と、がらんどうの聖堂に、純丘はきょとんと目を瞬かせた。

 

「……ァあ?」

 

 訂正。

 一見、がらんどうのように見える、聖堂。

 

 のっそりとベンチから立ち上がる男——たぶん、少年の年頃。体格はいいが顔立ちが幼い。純丘は冷静に判じた。己がそういう成長を遂げたので、なんとなく、見分け方をわかっている。

 顰めっ面から吐き出された低音は、いかにも不機嫌そうだった。ただ、どうも不機嫌てよりは反射っぽいな、と純丘は捉えた。

 

 ……現時点では到底知る由もないが、どちらも正解だ。

 

「ごめんな、大声出して。ちょっと迷い込んじまって……君この辺の道って詳しい? 近くにある駅とか、どっちへどうやって向かえばいいか、とかってわかるか?」

 

 ハキハキとした調子で尋ねる男に、間を置いて、少年は首筋をごきりと鳴らした。

 

「金は」

「財布ぐらいなら持ってるが。礼か? 千円までなら出せる」

「要らねえ……そうじゃねえ」

 

 辟易とした顔で「千円あンなら足りるな」つぶやく少年に、あれこいつ思ってたよりまともに話通じるな、純丘は意表を突かれた気分だった。

 初対面の人間への評価としてまあまあ失礼だ。

 

「教会の裏手まで回ると、大通りに出る」

「おう」

「出ると左手すぐにバス停がある。今の時間だと。……ちょうど行ったか? 三十分後には来るだろ」

「おお」

 

 とてもちゃんとした説明だった。聖堂の隅に置いてあったメモ用紙を用いて、簡易的な地図まで描いてくれた。予想以上に親切な対応だ。

 

「ありがとう。ちなみにこれ、徒歩だいたいどれくらい?」

「迷わなければおよそ五分」

「えっ、ありがとう……すごいな、久しぶりに罵倒もなく話が通じる……」

「は?」

「ナンデモナイ」

 

 普段の日常会話の語彙が悪すぎる件について。

 

 わかりやすく誤魔化した男を、しばし不審そうに見つめて、少年は視線を外した。どうでも良くなったらしい。

 

 ふいに純丘は視線を上げる。

 ステンドグラスから射し込む陽光に、眩しげに目を細めた。

 

「教会ってこんなかんじなんだな……入ったことなかった」

「……信仰は?」

「あー……仏教寄りの無宗教……」

 

 露骨に溜息を吐かれた。おそらくキリスト教徒に対して、異教徒かつ典型的日本人の宗教スタンスを提示すればそうもされる。無理解を示しても、追い出そうとはしていないので、寛容といえば寛容。

 ……なのかもしれない。

 

「……ちなみにこの聖歌誰が歌ってるんだ?」 

「ベネディクト派ミュンスターシュヴァルツァハ修道院聖歌隊」

「うん? ……あ、CDか。それもそうだな」

 

 露骨に〝わかるのか……〟という顔をした少年。音楽の才能は全くないのでCDと肉声の聞き分けもできないが、純丘榎にはあらゆる知識が大まかに叩き込まれている。

 ストレートに言うと、ミュンスターシュヴァルツァハ修道院はドイツなので、この場で演奏できるわけもなし——この場で演奏しているならもっと騒ぎになっている。

 

「クリスマスや結婚式には人を雇うが」

「なるほど……君は神学生とか?」

「ただの信徒。……わかるのか」

「簡単な用語や、一般常識程度ならな? さすがに専門的な話や解釈にまで詳しくはない」

「プロテスタントとカトリックの違いがわからない人間だと思った」

「今かなり明確に罵倒されたな?」

 

 同じキリスト教でも用語が異なる。カトリックでは聖歌。プロテスタントでは讃美歌。

 ここを混合するとちょっとややこしいことになる。

 

「それこそ、専門的な詳しい話を聞きたかったら、司祭が帰ってくるまで待ったほうがいいだろ。次のバスが来るよりは遅いが……」

「……ん?」

 

 淡々とした説明に、引っ掛かりを覚えて、純丘は首をひねった。そもそも純丘の声は大音声だったが、反応したのはこの少年だけだった。

 

「いいんだけど、君の他に、修道士や修道女とかいねえの?」

「司祭に同伴してるブラザーと副業で席を外しているシスターとブラザーと急遽家族の看病をしなければいけなくなったシスターと今昼飯を取りに席を外しているブラザーと今日はシフトがないブラザーやシスター複数名がいる。当然、全員今は不在だ」

「いいのかそれ」

「なにかあれば俺が対応する」

「君、ただの信徒なんだよな? ……いや、実際、今俺は対応されている……なるほど……?」

「大抵はそうはならないが、最近複数人が都外に転居してから人手不足だ」

「なるほどな……」

 

 教会とてふしぎなぱわーで回っているわけもなし、そこで働く人々にも様々な事情があるというわけ。

 

 納得をにじませて相槌を打った純丘は、そこでふと、沈黙した。

 彼の身近な周囲に、キリスト教に馴染み深い人間はいない。正確には、ある程度の知識を持つ人間はちらほらといるが、その教義を信仰している人間はいない。

 純丘が把握していないだけかもしれないが、日本のクリスチャンは全体人口の一%前後、おおよそ百人に一人。本当にいなくともおかしくはないだろう。

 

「……これは、たぶんものすごく不躾で、的はずれな質問になると思うから、答えてくれなくて構わないんだが」

 

 慎重に切り出す様子に、少年は無言で、少し眉間にしわを寄せた。

 

「君はどうしてキリスト教、特にカトリックを信仰してるんだ?」

「本当に不躾だな」

「マジで申し訳ねえとは思ってる……」

「……なんで、そんなことを聞く」

 

 尋ね返されるのも当然だ。ゴメン、ともう一度純丘は言った。

 

「……なんだろうな。なんというか、」

 

 そこで言葉を止めた。自分自身、いまいち、なにが言いたいのかはよくわかっていなかった。なにかを言いたいことだけを、知っているだけで。

 

 考えていたことがたくさんある。考えることがたくさんある。

 

 罪を見た。罪を聞いた。罪を知った。起きた所業を、間違いなく捉えた。

 罪を冒した。罪を冒せなかった。道を一歩だけ外れて、そのまま、そこに留まっている。

 罪を許した。罪を許せなかった。罪を許したかどうかもわからなかった。許したいのかどうかもわからなかった。

 

〝知ってるとか知らないとか、相手にはわかんねえし、どうでもいい〟

 

 そのことばを何度も反芻している。

 

〝なにがあったところで、終わったことは変わんねえし、変えらんねえ〟

 

 何度も。

 ずっと、何度も。

 

 「近頃……」と、純丘はゆっくり、丁寧に言葉を述べた。

 

「なにかを信じて、間違わずに、その通りに行動することは……とても難しいだろうと思ったんだ、」

「そんなのは俺もやれたことねえが」

「だから……あっ、えっ?」

 

 予想外のところから切り返されて、純丘はぱちくりと目を瞬かせた。

 顰めっ面の少年は、首筋を軽く擦った。ぐっと眉を寄せていた。

 

「ひとは皆罪人だ」

「それは、聞いたことあるけど……」

「主は、ひとをお造りになった際、善悪の知識をお与えにはなられなかった。御心を裏切って、ひとは知識を手に入れ、罪人となった。ひとびとは楽園から追放された」

「旧約聖書だよな、確か」

 

 創世記の一章から三章に当たる部分だ。蛇に唆された一対の男女は、園の中央にある木、その実を食した。そこで初めて、自らが裸であることに気づき、恥ずかしさを覚えた。

 裸を恥ずかしいと判断する善悪を学んだから。

 

 ……それにしてもすらすらと内容を述べるな。純丘はちょっと変なところに気を取られていた。

 

「ひとは生きている限り、なにごとかを考え、行動し、場合によっては争う。これはひとびとが自らの意思で考え、善悪を判断し、己にとってより善であることを選択し、己にとってより悪であることを避けているからだ」

 

 理解はできるが、要点が定まらない。

 そんな顔つきの男に、少年は「……わかるか?」と、念を押すように言った。

 

「ひとびとが、己の意思で善悪を判断することを、主は本来許可していない。しかしひとびとは生きている限りそれを行い続けるしかない。だから、罪人だ」

「……あー」

 

 なるほどー、純丘はようやく頷いた。

 

「〝間違わずに、そのとおりに行動すること〟は土台無理と」

「そうだ。どうも、主を信じない人間にはそこに誤解がある……」

「ご、ごめんな……」

 

 仏教よりの無宗教どころか、なんなら言わなかっただけで思いっきり無神論者なので純丘は言葉を濁すしかない。

 俺には、チョットムズカシ……。

 

「いくら主の意思に従おうとしたところで、主の御心がひとびとにわかるわけもない。ひとびとは己の中の善悪を以って判断するしかない。信じていても、生きている限り、罪を冒し続ける。間違い続ける……しかし、ひとびとが冒した、数多の罪を、主は赦される。悔い改めた者をお赦しになられる」

 

 純丘よりもいくらか年下らしき少年は、しかし、淀みなく言葉を並べていた。

 瞳はまっすぐ純丘を捉えている。はっきりとした発色の瞳はふしぎな輝き方をしていた。

 

「主に赦されたいと願うなら。重要なことは、主の御言葉、そのとおりに行動すること——それそのもの、じゃねえ」

 

 淡々とした口調で、しかし語気は強い。ほとんど断言する口調だった。

 

「己を罪人と自覚することだ。己が罪を冒していることを知ることだ。罪人である己を受け入れ、悔い改めることだ。隣人の罪が少しでも濯がれるように、祈り、行動することだ」

 

 純丘は、キリスト教の内情はよくは知らない。唯一無二の神が、間違いなく在ることを理解し、信仰する、そのこころが多くのひとの心に在ることはわかっていても、それそのものを当然と受け入れることは難しい。

 少年の言葉も、語義を理解し、汲み取ることはできても、理解しきれない部分は多かった。少年の解釈が主流であるかどうかも、知らない。

 

 だからひとつだけ尋ねた。

 

「隣人の罪は……少しでも濯がれるように、なんだな。罪を濯ぐために、じゃなくて」

「罪人同士で罪を濯いだところで何になる。傷の舐め合い以下だろ、ンなもん」

 

 少年の答えは明快だった。

 

「自ら、主の御心を理解し、重ねた罪を悔いなければならない。司祭の言葉だが……ひとができることは、自覚のきっかけを与えるだけ。ひとを赦し、救えるのは主のみ。どれだけ近くたって、人間にはできねえ」

 

 彼はどうしてクリスチャンを志したのか、その答えとなる言葉ではなかった。

 幼い頃に洗礼を受けた結果なのか。なんらかの理由で、神を信じるに足るきっかけがあったのか。あるいは罪深き己を自覚するに至ったのか。赦されることを望んだのか。いずれも違うのか。

 

 知る由もない。

 

 純丘榎はクリスチャンではない。仏教寄りの無宗教、ふんわりとした無神論者。

 教会、神社や寺を、それを大切にするひとびとへの礼節として、大切にする方法を知っている。信じるものを自分で選んで、自分で決める、その自由を知っている。他者への尊重を知っている。

 

 それだけだ。

 

 尊重できるからといって、理解できるとは限らない。許容できるからといって、共感できるとは限らない。

 そんなこと、ちゃんと、よくよく知っている。

 

 ただし、少年の言葉に思うことはあった。

 

「あ、」

 

 地図通りに歩いたらば、そのとおり、辿り着いた先にはバス停があった。時刻表を確認する。どうやらこのバス停を通る路線は一本だけらしい。

 バスが来る間隔も、少年が説明した内容と一致している。

 

 教会に滞在していた時間はおよそ十五分。時刻表曰く、あと十分もないうちに、バスは来るとのこと。

 日に焼けた文字を指先でなぞって、純丘は淡く息を吐いた。

 

 ずっと、考える時間がほしかった。

 片手間に考えていたことを、改めて、ちゃんと考えた。

 

 起きてしまった出来事は、なかったことにはできない。冒した罪は罪のままだ。

 そばに居続けることで、否応なしに変わることがある。変わらないことがある。

 

 純丘榎は、やっぱり、恩人を殺した人間たちを許せそうにはない。

 今は、間違いなく。

 

「……そうだな。だから、嫌だったな」

 

 立てたコートの襟、陰に口元を隠して、純丘はつぶやいた。

 

 許せない己が、あまりにも頑ななようで、悲しかった。

 純丘は真一郎を恩人と認識していようとも、家族だとは思っていない。他人でしかない。

 故人の家族を差し置いて、許せないと決め抜いている己を、認めたくなかった。

 年下で、故意でもない行いに対して、その態度を取る己が、ひどく醜く見えた。

 

 ——嫌だった。

 

 人殺しの知人を許せないと口だけで嘯きながら、そのくせ、人殺しの後輩を大切にしていたから。

 大切にしているから。

 大切にしたいから。

 

 純丘榎は、灰谷兄弟を大切にしている。

 血が繋がった、十数年を共に過ごした家族も大事にできないくせに、できなかったくせに。中学終わりの半年を過ごしたか、過ごしていないかの、たった二人の他人を、どうしても大切にしている。

 

 冷たい人間のようで嫌だった。

 矛盾ばかりのいきもので、そんな自分が、嫌だった。

 

 懐かれていることすら認めたくなかった。かつてあれだけ頑張っても、一番近くにいたはずの人々のことは、そうやって大切にできなかった。

 大切にされると、思うことも、なかった。

 

 ずっと。

 

 十一月の風は、ぬるいというには冷たく、そして、すこし渇いた空気をはらんでいる。斜めに差し込んだ太陽が眩しい。

 車道の脇、バス停にたったひとり佇んで、そうして彼は、目を細める。

 

 空は青く、澄み切っていた。小春日和とはまさにこのことだろう。

 雨が降らないといいなと思う。

 

 訪れたバスには、疎らに客が乗っていた。平日の昼間だ。当然そうだろう。

 座席に腰を下ろし、メール機能を開いて、新規メールを作成する。宛先を選んで、内容を打ち込んでいく。丁寧に。

 

━━━━━━━━━━━━━━

From:not-stomach_29b@…

To:喧嘩中

Title:今暇?メシ食わね?

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あと、夏のときはごめん。

あのとき思ったこととか、

あれから色々考えたこととか、

俺のぶんちゃんと話して、

お前のぶん聞いて、

できれば仲直りしたいんだが。

 -End-

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 苛立ちのままに登録名を変えて、そのままにしていたことを、ついでに思い出した。




叙々苑
:チョットタカイニク

共感覚
:文字や音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりする体質
 当方は他人の文章に味と歯応えがある おいしいね
 なお相性良くないと紙食ってる気分になる模様
 くわしくは調べて

臨界期仮説
:年齢が二桁になる前ぐらいまでを言う場合が多い
 人それぞれでは感もなくもない

ダブル・リミテッド
:渡辺直美さんとか有名

感情とそのラベリング
:言葉にすると取りこぼすニュアンスもある
 メリット・デメリットは比較して見るべき

ミュンスターシュヴァルツァハ修道院
:カトリック系の修道院 ホントにドイツにある
 ……ネットだと日本語の資料が少なめなので検索なら原語のドイツ語推奨
 原語綴り「Abtei Münsterschwarzach」

知ってるとか知らないとか
:「抱えきれない」5 months ago編参照
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