ピーンポーン、
と鳴った音をしばらく放置してから、今日が三が日の最後の日という事実を思い出した。母や父は二日から仕事に出ており、祖父はそもそもインターホンには応対しない。
リビングで広げていたノートやテキストをいくつか畳んで、画面を覗き込む。
ピッ
『誰か出た? 俺なんですけどお。はよ開けてくんねえか、外寒ィ』
「兄貴?」
『おァ、久しぶり……威圧してごめん……』
途端にしおれた態度を取るのは、間違いなく、兄の榎だった。……俺以外だと思ったら威圧するのかという。
玄関で靴を脱ぐ姿を、なんとなく、しげしげと眺める。
最後に会ったのは、高校に上がるにあたって一人暮らしをする、その出発のとき。春の陽気が漂い始めた早朝だった。
母も祖父も、見送りに顔を出さなかった。兄はそれが当然という顔をしていた。仕事に出るついでの父と何事かを話した兄は、廊下の扉から顔を出している俺に気づいて、小さく手を振った。
それから今日で約三年。具体的には二年と九ヶ月半。
お盆も正月も春休みも、誰の誕生日も、命日も、兄は一度も帰ってこなかった。
なんなら今年の正月もそうだと思っていた。
「鍵持ってなかったか?」
何気なく尋ねると、少し首を傾げた兄は「あ〜」と声を漏らした。
「実家の?」
「そう」
「溶かした」
「……は?」
たぶん十人が十人、は? で返す。
若干視線を逸らした兄が「ガスバーナーってあるだろ」と言った。
「あるけど」
「あれで溶かした」
「いや、なんもわかんねえ」
「理科室にあったから」
「あるだろうけど」
「溶かした」
「なんもわかんねえ……」
「若気の至りだよ」
そういう問題ではない気はとてもした。追及はやめた。
ようやっとスニーカーを脱いだ兄は、客用のスリッパを勝手に掴んで並べる。この家には各々専用のスリッパがある。しかし兄用のスリッパは、とうの昔に、祖父の判断で捨てられていた。
スリッパが捨てられたのは、兄が出ていくよりもずっと前だ。だから兄は、当時から勝手に客用スリッパを履いていた。ものぐさを極めると靴下だけで済ませていた。真冬のフローリングにちいさな悲鳴を上げていたことを思い出す。
なにをしているんだと呆れて、客用スリッパを持っていくと、兄は大抵驚いた顔をした。そして、すこし顔をほころばせて、お礼を言われた。
兄は、家では基本的に、いないものとして扱われていた。
いつからかは覚えていない。
それよりも昔、ほとんどいないものとして扱われていたのは俺の方で、兄は家の期待の星だった。あらゆる視線を掻っ攫っていた兄がかつて確かにいた。そんな兄が心底から嫌いだった時期があった。
本当に、物心ついてすぐぐらいの話だ。
小学校の二年だったか、三年だったか、その頃には評価は完全に逆転していた。
高校進学と同時に兄の姿は家から消えた。祖父と母と、父と俺しかいなくなった。
「そんで、父さんと母さん離婚するって?」
兄の口ぶりは、明日の天気くもりだって? と言うときの口調と全く一緒だった。
否定する理由も事実もなく「ああ」と頷いた。
「親権どっちかって決まった? 母さん?」
「いや、親父」
「へえ。なら苗字変わんなあ」
「兄貴も親父」
「それは、だろうな」
「苗字変わったら普通に名乗んの」
「んー。……いや、今までのまんまで通すだろうな。メンドイし」
「ふうん」
兄は、いないものとして扱われるようになった頃には、自分で考えたらしい苗字を名乗るようになっていた。
家の名前を穢す愚か者、祖父が忌々しげに言うようになった頃からだ。母は賛同していた。父娘らしいと思ったはずだ。
クッキーとストックされたコーヒーを引っ張り出して、皿に並べて、カップにそそぐ。双方を出すと「ありがと」兄はちょっとはにかむように笑んだ。
「べつに」
兄は軽快に近況を話した。
今月半ばにセンター試験があること。国公立をいくつか視野に入れて、私立の特待生を狙うでもいいかなと思っていること。クラスメイトがフラレたのでクラス総出で慰めたこと。受験勉強のノイローゼになりそうだったので、気分転換に塾講のアルバイトを増やしたこと。刺青も入れたこと。
「いや、刺青っつったよな?」
「言ったけど。見るか?」
あっさり同列に並べられので聞き流しかけた。平然とした顔で、むしろ若干面白がるように兄は言った。
「大腿四頭筋らへんに彫ったから、ズボンめくるよりは、写真で見せたほうが早いが」
「見るとは言ってね……すご」
デジタルカメラの画面の中。複雑な紋様とともに、両腿どちらにも、黒だけながら鮮やかな大輪が咲いていた。
「花火?」
「そ。この世で最も寿命の短い造花だとよ……なんだと思われてんだか」
カメラの電源を落とす。
言葉は忌々しげだが、声色は楽しげだ。
「兄貴、いま不良とでもつるんでんのか」
「つるんでるってか、一番仲良いやつらがそうだな。俺は族とかのことはろくに知ろうとも思わないが……会話の治安は悪い」
「治安」
「ん、治安」
すました表情でうなずく。釣られて、こっちもうなずく。
兄は。
よくわからない人間だ。
六学年離れていると、小学校の在学時期すら被らない。遊んだ記憶も数えられる程度しかない。
話も体格も、何も合わないし、なにより、かつて兄のことは嫌いだった。嫌いだと面と向かって言ったこともあった。
兄は、ひどく情けない顔をして——あまり覚えていない。
物心つくか、つかないか、それぐらいの話だ。
今はよくわからない。
そもそも、三年近く会ってなかった。
およそ三年ぶりの兄は、記憶よりも身長が少しだけ伸びて、髪は切られていて、あと服がダサかった。パーカーの中央で、謎の物体がでろんと伸びている。なんだこいつ。
「そっちはどうだ?」
兄は柔らかに言った。「べつに」「べつにか」肩をすくめて、兄はコーヒーを口に含んだ。しばらくそれを眺めてみた。
空調が効いた室内は暖かいが、しかし、関東の冬はあまりに湿度が低い。暖房の効果で、尚更。喉が渇くのも当然だ。
兄は今、己の手で生計を立てている。
兄が出て行ってしばらくして、父がぼそりと話した。寡黙で、家では控えめに言っても
兄は、家を心底嫌っていること。一人暮らしにあたって、大学受験では指定された学校に合格する、優秀な成績を取り続ける、家を一切頼らない、家名に泥を塗らない、今までかけた養育費の返済が条件だったこと。養育費の返済こそ細々としているが、それ以外の条件は概ね達成していること。
祖父は、指定の大学に合格すれば〝些細な反抗期には目を瞑って〟連れ戻すことを検討しており、さすがにどうかと思ったこと。
そもそも俺への掌返しから、期待のかけ方、教育方法がおよそ尋常ではなく、危ぶんだこと。
昔からそのような傾向は見られていたところに、兄の件も重なって、離婚に至ること。
珍しく訪れた陳腐なファミリーレストランにて。離婚の理由をそのように語って、ぜんぶ今更だろうけど、と父は小さく付け加えていた。
兄は。
……だから。
「そもそも俺のことなんか聞いて、なにがしたいんだよ」
「ん? いや結構面白いぜ? 見ねえうちに口調ちょっと変わったこととか気になるな。友達?」
「口調指摘する前に髪型とかあるだろ」
「日に焼けたなあ。夏楽しかった?」
「それは肌だろ……」
大概にピントのずれた発言だ。
眉間にシワを寄せた俺に「跡がつくぞ」兄は、指を伸ばして——途中で、やめた。視線だけで一瞥すると、兄は誤魔化すように指先をこすって、言葉を続けた。
「髪は、これ、ワックスだろ。染めたりするのか?」
「……どうだろうな」
「マ人それぞれだよな。……そのカッコだと、眼鏡も新調したいところだな。角縁とか合いそう」
肯定的な感想だ。
兄は元からそうだった。俺になにを言うこともなかった。
幼稚園の作文コンクールで取った銀賞を、金じゃないとがっかりされたとき、兄はこっそりメダル置き場を作っていた。算数のテストで授業と別の解法を使って、点数を落として、叱られたとき、兄はこっちの方が効率がいいのにと真面目くさった顔をしていた。
外で遊ぶとバレるので、トランプでスピード勝負をした。どうやったのか、家では禁止されていた漫画を持ってきたこともあった。知人から借りてきたと、こっそり持ち込んだゲームボーイをやったこともあった。
まともに名前を呼ばれるようになって、期待の比重が移って、反比例するように兄との関わりは薄れていった。
「あのさ」
と、兄は言う。
なんだよ、と、俺は返す。
「出てった俺が言うことじゃねえんだけど」
「だから、なんだよ」
「……俺みたいになるなよ、鉄太」
ぎゅっと眉間にシワを寄せた俺に、跡がつくぞ、とまた声が繰り返した。
今度こそ、指先は伸ばされなかった。
家族を嫌って、嫌って、嫌いにしかなれなくて、俺のことも、好きではなくなった。そういう兄だった。
……たとえ、テストの氏名欄に書かなくなっても、母方の姓はまだ使いどころがあるだろう。
家を象徴する稀咲の苗字を未だ嫌い続ける、そんな兄を見て、俺は改めて思った。
Today
夜の九時過ぎ。
純丘はようやく三帖間に辿り着いた。つまり、彼の城にだ。電気をつけて、靴を脱いで、深く息を吐き出した。
実家への帰省があまりにも嫌で、嫌で嫌で仕方ないついでになにもやる気がせず、正月から自宅の片付けを一切行っていなかった。
散らかった服を畳んで、ベッド下の収納に仕舞う。散乱した問題集をきちんと閉じて、これまたベッド下の収納に並べる。必要なぶんはスクールバッグの中に突っ込む。
ゴミを拾い集め、捨てようとしたところ、ゴミ箱の脇にぐしゃぐしゃに丸められた紙が落ちていることに気づいた。
門松と猿。二〇〇四年の干支と、明けましておめでとうの記述。
喪中の佐野家宛に習慣で作ってしまった年賀状だ。
拾って、今度こそゴミ箱の中に落とす。くるりと踵を返した。
卓袱台の前に座る。投げっぱなしの郵便物——年賀状の束——を取って、仕分けを始めた。
「……あいつらマジで年賀状出してる」
ぽろっとこぼした純丘は、年賀状に記された微妙に間違った本名に、しばしツボに入って笑っていた。郵便物は正式な表記でないと届かない。
それにしたって稀であって希ではないんだよなあ。
……
……
……
罪を冒した。
罪を重ねた。
罪を見つめた。
罪を背負った。
罪から目を背けた。
罪人になると、決めた。
罪人である己を、自覚した。
そうして時は動き出す。
そうして人は歩き出す。
これは、皆が少しずつ間違うまでの話。
間違って、傷ついて、どうしても正しくはなれないまま、それでも立ち上がるまでの話。
幸せに向かって歩き出せるようになるまでの話。
罪状記録【序】
「お前らの罪」完
これにて役者は配置についた。あとは主人公を待つだけだ。
花火
:この世で最も寿命の短い造花
スピード
:あんな速さはもう出ない
ゲームボーイ
:二〇〇五年まで発売されていた
年賀状
:「抱えきれない」冒頭参照
純丘榎
:定期テスト満点を平然と取る頭の良さ
ちょっと引かれるレベルの人心掌握術
印象操作がガチ
S62世代より2学年上
佐野万次郎の5学年上
小6時点でまだ小学校にも就学していない弟がいる
色恋沙汰へのトラウマ
苗字は自分で名乗っている
罪状記録 序
2021/08/21-2022/02/11連載
序(罪を認識する、背負う)
一から十まで原作前捏造
破(罪の精算方法を模索する)
前半:血のハロウィンまで
後半:関東事変まで
急(罪××××××××)
俗に言う梵天軸
の構成
……予定
書いても書いても書き終わらず心が折れそうだったので、書いてる気分を演出するがてら、こちらでも投稿してみました。反応くださった方々に深い感謝を。励みになりました。
破の前半が今年中にはまとめられそうなので、一段落したらばまた投げに来ると思います(原作の方が先に完結しそう)(おめでとうございます)