新盆
ケータイが音を立てて振動する。机の上で軽やかな着信音を響かせて、ヴー、ヴー、とバイブレーションが一定間隔で低く唸る。
繰り返し繰り返し、しかしぱたりと諦めたように一度静かになった。
『ただいま電話に出ることができません。ピーッという発信音のあとに——』
『……あー、もしもし、部長? 俺。場地。場地圭介。……あのさ、あー……ちょっと話聞いてくんねえ? 時間あるときでいいから』
新盆
純丘榎はわりあい身の回りのことにしっかりした人間だが、人間なのも間違いないのでたまにはうっかりミスもする。
たとえば、通っている専門学校に登校する際、うっかりケータイを自宅に忘れたり。
ちなみに純丘は友人知人とのコミュニケーションに限らず、学校とのやりとり、アルバイトでの必要事項や経営している塾の連絡、すべてケータイひとつで済ませている。
逆に言えばケータイを忘れるとそれらの連絡すべてが本日お亡くなり。
学校はもう登校しているのでいいとして、問題は他あまねくすべて。
彼とてアッヤッベと思ったものの、気づいた時には授業開始十分前だったので諦めた。家にとって返して、ケータイ持って再び学校に着くまでに約一時間。わざわざ登校したのに勿体無い。
どちらにせよバイト先もなにも問題がなければ連絡なんて寄越さないはずで、よほどのことがない限り喫緊の返信が必要なことは有り得ない。
一日ぐらいケータイなくたっていけるでしょいけるいける。
……たぶん。
とはいえつつがなく、なんなら本日の各課程終了後はバ先にもシフト通りに直行して、何事もなく勤務を終えて純丘は帰宅した。
ぱちんと電灯のスイッチを入れれば明るくなる室内。本日灰谷兄弟は転がり込んでいないようで。
机の上に放置されたケータイは、時折ランプを点らせて、その存在を主張していた。
純丘はぱちんと目を瞬かせて、それから二つ折りのケータイを開いて、カコカコとボタンを弄る。
再生。
「……あー……」
純丘は、なんとも言えぬ声を漏らした。頭を傾げて、それから反対側にかしげて、続いてもう一度、形容し難い声色でうめいた。
高校時代よりちょっとだけグレードの高い部屋に越したとはいえ、純丘は相も変わらず一人で暮らしている。それこそどこぞの某谷ブラザーズが、突撃☆元先輩ンちの晩御飯でもしていなければ、おうちには人っ子一人いないまま。困惑と葛藤のマリアージュにより、不審極まりない挙動も目撃者は誰もいない。
視線が空中を泳ぐ。どうするべきかを考えた。
とはいえ答えは決まっていた。
「……あ、純丘榎と申します、こちらは場地さんの御宅で間違いありませんでしょうか。はい。……はい。そうです。ええ、道場の。お久しぶりです。あの、場地圭介くんは御在宅ですか。……笑われると傷つきますからね俺も。はい、差し支えなければお話させていただくことは可能でしょうか。……ありがとうございます。はい。……。もしもし、圭介? 君俺に留守電入れたろ」
実は純丘と場地は、長らく顔を合わせていなかった。長らくというのがどれくらいかというと、少なくとも本気で一年近く顔を合わせていない。
佐野家に謝罪に来た場地と、線香を上げにきたイザナが、鉢合わせた件。それ以来だろうか。
純丘が受験を理由にアルバイトの回数を大幅に減らして、新生活に慣れるまである程度抑制していたのも、ひとつ。
佐野家に通う回数は明らかに減った。場地の家も、特に昨年の強盗事件の始末を図るために奔走しており、余裕がなかったというのも、ひとつ。
心の整理がついていなかったのも、ひとつ。
そう易々と許せるものではない。簡単に許せるとも思っていない。
上手く許せなくてもいいと、純丘は以前、エマに向けてそう述べた。一度時間を置いてから考えてもいいとそう述べた。
それはかつて、真一郎に言われた言葉を反芻して、彼なりに解釈したものであり、そして純丘が己に言い聞かせてきたことでもある。
許せなくても生きていける。許してもおそらくは生きていける。分かり合えない相手がそれでも好きなこともある。好きだった相手が嫌いになることもある。どうしても関わりたくないときだってある。
それらすべて当然の情動だ。人間はそういうふうにできている。
純丘榎は場地圭介を許してはいない。未だ許せない。いくら直接的な下手人でなくとも、共犯であるのは間違いない。
それでもかの少年を嫌いにはならなかった。なれなかった。
そういうことも、ある。
顔を合わせて、話したいことがあると、場地は言った。純丘はそれを了承した。粛々と顔を合わせる予定を取り付けた。意外と、久しぶりの会話はとんとん拍子に進んだ。
要件だけを話して、それじゃあ当日、という話になったのもあるかもしれない。情が挟まる必要のない会話だ。
ありがとな! と快活に言うので、こいつのそういうところが憎めねえんだよなあ、純丘は内心つぶやいた。
さてその当日のことだ。
純丘は必要な時はもちろんデリカシーを備える男だがしかし、基本的に彼のフットワークは羽のように軽い。
躊躇とかそこになければないですね。
こんちはーと場地家のインターホンを押して応答を得て、玄関を開けた。
「お願いがあります」
七三に髪の毛を固めて、眼鏡をかけて、中学の制服を隙なく身につけた場地がフローリングに正座していた。
まず真っ先にこの様相を見た純丘は、数秒沈黙した。
それから口を開いた。
「服装正して口調も正して九十°お辞儀するその精神性は評価します、他を当たれ」
「なんでだよ! まだ何頼むのかも話してねえだろうが!?」
すぐさま顔を上げた場地が吠えた。
吠えるついでに眼鏡が若干ずれた。たぶん若干サイズが合ってない。
「君がそういうのしてきたこと一度だってないからだろ!? 何年の付き合いだと思ってる、何頼まれるのかわかったもんじゃねえよ!」
言いながら純丘は一歩後ずさる。
後ろ手にドアノブに手をかけようとしたところで、しかし「おいおいおい待て待て待て待ってください」それ以上足を引けなくなった。頭を下げた姿勢のまま、ぬっ、と場地が伸ばした腕が純丘の足首を捕らえている。
「圭介、敬語使えたんだな……離せよ……」
「……部長弱くなった?」
「最近よく言われるけどな、これはさすがに君の成長もかなりあるだろ。中学生の成長期はたかが一年されど一年、甘く見てねえからなこっちは」
「は?」
具体的には、灰谷兄弟が少年院にぶち込まれていた時期がちょうどその頃。
当時、記憶より十㎝は背が高くなっていた兄弟(特に蘭)に、一瞬おお……と感嘆したことは純丘の心のうちに秘められている。
とか今は関係なくて。
「……はー、もー、」
息をついて、苦く唇をゆがめる。
まあ冗談半分——本気半分——とはいえ、中学生に延々粘り続けるのも大人げない。成人こそしてないがここまで歳を重ねるとほぼ誤差だ。
「……わぁった。話は聞く。ンでやるかどうかは聞いてから判断する。さすがに逮捕されそうなことはなるべくしたくねえからな」
「パクられそうなことなんざ部長に頼まねえよ、どうせ断るしなんならチクるだろ。
その通りなので大人しくなった純丘は静かに靴を脱いだ。
Q・今まで靴すら脱がずにこんな攻防戦してたんですか?
A・そうですね。
とりあえず居間まで通された。「場地さんは?」「シゴト」「お勤めご苦労さまです」「おうよ」場地は様に入った振る舞いで頷いた。
……ところで俺の今の発言は君の母堂に向けたはずなんだが、君のその、自分が言われ慣れてる感はなんだ?
純丘は内心疑問に思った。口にはしなかった。
「これソチャな」
「うん、ありがとう……」
お盆を持つ手がぷるぷる震えている。純丘は生ぬるく見守った。
手付きは覚束なく、よほど横から手を出したいところだが、自発的な行動には待ちの姿勢に入る、という習慣が彼には染み付いている。主にアルバイトで年少の者たちに接した経験に基づいたものだ。
慣れないことに手を出してまで通したい頼みからは、とりあえず、目を逸らすことにした。
お茶は渋かった。高温のお湯で淹れたのだろうとは推察できる。純丘は一口二口味わって、それからふと息を吐いた。
「……やべ、まず」
場地が舌を出す。湯呑を上からつまむようにして、純丘はもう一口嚥下した。
「緑茶は五〇℃以上六〇℃以下の、若干ぬるめのお湯で淹れると渋みなく味わえンよ」
「……それどんぐらいの熱さ?」
「……ギリ入れねえぐらいの熱い風呂?」
五〇℃から六〇℃の温度に触れていると数分以内に熱傷を負う可能性が非常に高い。これを俗に低温火傷と呼ぶ。
「で、え〜……部長、いや榎ク、榎さん」
一息ついたところですっと正座し直し、場地は更に律儀に呼び名を訂正した。
彼らの文化において、クン付けですら充分敬称として機能している。それを知っている純丘は、辟易を飲み込んでこちらも姿勢を正した。
彼の場合はなんとなくだ。礼儀には礼儀を返さないと居心地が悪くなるタイプ。
「俺ができることならなんでもするんで勉強教えてください」
「いーぜ」
「……エッマジ!?」
「なんでそんな驚……そんぐらい別に」
個人の小規模運営とはいえ、仮にも学習塾経営者かつ講師である。
「で、本題は?」
「いやだから勉強教えてくださいって」
沈黙。
しばしきょとんと目を瞬かせ、そして純丘は、不意に膝を崩す。
「正座して伏して頼む内容がそれ?」
真面目くさった顔で尋ねた。
「これだけやっても誰もいーよっつってくんなかったんだワ」
場地もやはり、真面目くさった顔で答えた。こちらも純丘に釣られて足を崩した。
場地の性は学習に非常に不向きだ。それは純丘もよくよく知っている。
集中力が続かない、理解するにも思考がついてこない、そもそもやる気がない。スリーストライクバッターアウト。次の打者に交代してください。
もちろん、教えるのも一苦労なことは容易に想像がつく。純丘としても、断られるのはまあそうかもな感もなくもない。
そもそも場地本人ほどではないにしろ、彼の周辺の人間も勉強はお世辞にも得意ではない方だ。人に教えるには、まず教える側が一定以上の理解を満たしていて、それを説明できる力が必要になる。
「でもやる気あんだろ。言い出したんなら尚更」
純丘の親指の腹が、湯呑の縁を拭い取る。
「なら、別に。チビに教えんのは昔から慣れてる。多少図体が変わろうとやることは同じだ」
「……ほんとにいいのかよ」
「良くねえなら最初から言わねえよ。君に勉強教えたところで俺の都合が悪くなるわけでも……」
と、そこで純丘の思考が回る。
都合が悪いわけではない。それは本当だ。
……と同時に、心当たりはあった。
繰り返すが、場地は昔からお世辞にも勉強など好きではない。多動のケも強く、純丘は彼を筆頭とする子どもたちに教えるのに、ずいぶん骨を折った(これについては比喩)経験がある。
机に向かっていることがまず嫌なのだ。勉強の意義を実感していないのもある。
それが、今になって自ら——きっかけがあったことは明白だ。留年については純丘も噂には聞いていた。
ただ。
「……ないだろ」
刹那の思考。
一瞬途切れた言葉を強引に継いで、純丘はさっぱり言い切った。
手首を掻きながら「塾料は、さすがに君から取らねえよ。中学生てのもあるし。ただ代わりに、それなりに手伝ってもらう」崩した足をあぐらの形で組み直す。
「おー、任せろ! 俺身体動かすんならなんだってできっからヨ」
「頼もしいこった」
気の抜けた様子で歯を見せて笑う。純丘は薄く目を細めた。
明るく、さっぱりした性格で、人懐っこい。
……たまに意味のわからないことをしでかし、理解力はいいとは言えず、変なところで頑固だ。しかし己に非があると認めれば驚くほど素直に謝る。
背が高くなった。力が強くなった。髪を伸ばした。
それでも未だ中身は変わらず、憎めない少年だ。
純丘榎が、場地圭介に対して抱いた印象は、一度たりとも揺らいだことがない。
「千冬がさぁ、ア、千冬ってのはガッコでできたダチなんだけどよ。猫飼ってて、そいつがペケジェーっつってな。千冬ンち俺行くと肩まで登ってくんの、これキャットタワーって思われてね?」
「君相変わらずやたら動物に好かれるな……マタタビでもポケットに入れてるんじゃないか」
「バッカんなことしねえよ、オフクロに怒られっから」
「ポケットの中身ひっくり返してから洗濯に出せって?」
「……おま、エスパー……!?」
「ははは。マジなんかよ当てずっぽうだったんだが」
というかエスパーて。
コイツそういや二十一世紀問題で大真面目に〝じゃあな、おまえら……〟とか言ってたな、純丘はついでに思い出す。数年経ったところで大して変わりやしない。無論、変わるものもあるが。
馬鹿なのだ。それでも愚かではない。話していれば楽しい。今もまた。
場地圭介は、純丘榎にとって、憎めない少年だ。
許せないけれども。
もう一人のことを純丘は思い返した。
羽宮一虎。許せない少年。
佐野真一郎を、殺した、下手人。
言われ慣れてる感
:東京卍會で、たまに
緑茶
:でもぬるいお茶飲んだ気がしないのでつい高温で淹れてしまう
低温火傷
:カイロは布等を挟んで使用しましょう