死にたいと思ったことはあるだろうか。
星も見えない、薄暗い曇りの夜、街灯を反射して微かにひかる暗雲を眺めたことはあるだろうか。
人々のほとんどが寝静まった時間帯に、茫洋と、眠ることすらできずに取り残されていたことはあるだろうか。
そういうときに、漠然とした、しかし確かに重くのしかかる希死念慮を、感じ取ったことはあるだろうか。
己の首を絞めろと叫ぶこころを、ひとりきりで、静かに、孤独に、殺したことはあるだろうか。
たったひとりで。
立春
『あ、部長。出ンの遅ェよ』
「……いま、何時だと思ってる?」
『四時だけど』
「そうだな、四時だ。朝の」
寝起きもあらわ。呂律が微妙に覚束ない、のたくつくような低音に、万次郎は『ねむそー』とつぶやいた。
「つい五分前まで寝てたんだよなあ」
ライトをつければやはり枕元のデジタル時計は四時十三分を示している。純丘が睨み付けるまさに今、数字は十四分に変化した。
「なんだよ、集会の帰りか?」
『今日は集会ねえよ。ちょっと前まで雨降ってたし』
「そういうもんなの……」
『そういうもんなの』
「左様で。てことは君、今自宅か?」
『うん。縁側』
「寒くねえの」
『あんま』
ベッドの中で転がって、純丘は枕元をさぐる。カナルイヤホンを指先で探りあてて、耳に装着、端子をケータイに差し込んだ。
耳元すぐから明瞭に、万次郎の声が聞こえてくる。
『夏は虫の声がすげーんだけど、今はぜんぜん聞こえねえ』
「そりゃあなあ……君、今日が何月だと思ってる?」
『二月』
「聞こえたらタイムスリップだろ」
『ふふはは』
万次郎は機嫌が良いような声で笑った。今回、着信に応じてから初めてのことだった。
純丘榎は一人暮らしだ。電灯のスイッチはまだオフのまま、室内は暗闇に包まれている。とはいえ人間の目は器官として優秀で、ある程度時間が経てば、その場の光量に慣れてくる。
だんだんと輪郭のはっきりしてきた天井を見上げて、万次郎、と純丘は息ごとことばを吐き出した。
「君、今日は寝たのか」
『ガッコでたくさん寝た』
「ガッコは寝るとこではねえけど寝たんならなによりだよ。夜は?」
『なんか目が冴えちゃったんだよ』
「そりゃ昼にめちゃくちゃ寝てたからじゃねえかなあ」
『でも眠かったら寝るじゃん』
「うーんまあ」
『ガッコの授業、いつも眠くなるじゃん』
「そうかもなあ……」
純丘は学校の授業で早々眠くなるタイプではなかったので、曖昧に相槌を打った。それくらい退屈なんだろうとは推察できる。
『部長の教室のが楽しいもん』
「君らみたいな子のためにいろいろ工夫してんのよ。褒め称えてくれてもいいぜ」
『きゃー、部長サイコー。抱いてー!』
「なんか違くね?」
純丘の困惑に、万次郎は再び、楽しげに笑い声を立てた。
電話の会話というものは、データの通信量をできるだけ抑えるため、声そのものではなく、近しいと判断された合成音声を送信する仕組みになっている。
肉声とは少しだけ異なる響きは、違和感があるような、馴染み深いような、不思議な印象を与える。
電話を通したときの万次郎の声に、どうにも、純丘には別種の既視感が付随するようになっていた。その理由を彼自身、きちんと理解していた。
たったの一年半で遠く薄れつつある記憶が掘り起こされる。記憶の中の真一郎の声も、電話を通すと、このような響きになった。
生前の真一郎の声と、今の万次郎の声は、おそらく電話では同じ合成音声によって再構築されている。
『てか
「……あー、そうだな。一ヶ月ぐらいブッチされたあたりで万作さんに聞いて契約切ったからマジで来てねえよ、君」
『そうだったんだ。また行こっかな』
「いいよ。金とるけど」
『ウチでメシ食ってっていいからさあ』
「それ俺が作るやつだろ。いいけど」
『やった』
難しい話はどうせ彼の保護者たる祖父と詰めることになる。
無邪気に喜ぶ万次郎に、純丘は仕方なさそうに笑った。変わんねえなあこいつ。
『なあなあじゃあ、次来たら鯛焼き作って』
「型がないんだよなあ。今川焼きならなんとかできなくもねえが」
『イマ……なに?』
「今川焼き。鯛焼きの、形が丸っこいバージョンみたいな」
『え、あれ大判焼きじゃねえの』
「呼び方いっぱいあるんだよ。今川ってとこで売ってたから、今川。大判焼きは景気にあやかったんだっけ? 大判小判、昔のお金」
『アヤカルってなに』
「縁起良さそうなこととりあえずやってみよう、みたいな。ホラ真一郎さんとか毎年クリスマスに神社でお参りしてたろ」
『なんかだめだったんだっけ』
「だめなわけじゃねえけど、あー、
『訳わかんねえなって思う』
「だいたいそういうかんじ」
もはや神仏習合というよりただの混合。その習慣を初めて聞いたときの純丘は、真面目な信者には怒られるんじゃねえのと思ったものだ。
とはいえへーそうなんすかと流した結果、真一郎がいったい何故、キリストの聖誕祭にわざわざ神社に出向いていたのか、純丘はついぞ知らない。
単に縁起が良さそうだからとまとめてひっくるめたのか。あるいはなにか理由があったのか。
佐野真一郎という男は、だいたいいつも適当やっているくせに、時折、驚くほど思慮深い面を見せるときもあった。逆に真面目な顔をしてなにを考えているかと思いきや、突然しょうもない話を振られることも多々あった。
印象深いものだと過去最高レベルで真剣な顔で〝目玉焼きにソースって……邪道だよな?〟と聞いてきたり。当時の純丘榎くんは心底どうでも良いなという顔で〝個人の自由じゃねえすか〟と返した。
本当にどうでも良かったし正直今でもどうでもいい。
『んーまあなんとなくわかった。……アレ、なんの話だったっけ』
話がコロコロ変わる弊害である。
「……たぶん今川焼き?」
『アそーそー! そういや呼び方いっぱいあるって、他にも名前あんの?』
「おやきとか、回転焼きとか、面白いのだと御座候とか呼ばれてんのも聞いたことあるぜ」
『へえー。今度
「仲良さそうでなによりだ……ふ、」
『……部長?』
「んん、わり、ただのあくび」
うっかり堪えきれずにこぼれてしまった。先程まで寝ていたというのは本当のことで、現在進行形で純丘は眠い。ベッドから起き上がらないのもただただ眠いからだ。
油断すれば閉じてしまいそうな瞼の上のあたりを擦って、なんとか押し上げる。
『ねみーの?』
「正直眠いなあ。君眠くないのか」
『全然』
「まあ実際聞いてても全く眠そうな声じゃないな。今日は土曜だからもうちょい付き合えるが、返事来なくなったら寝たと思ってくれ」
『大声出せば起きる?』
「ははは。そのときはフツーに寝かせてくださいわりと真面目に」
『そんなんつまんねーじゃん』
「諦めて大人しくつまんなくなっててくれ。今は起きてるんだから許せよ」
もちろん、まだ、と注釈はつく。
しょうがねえなあ部長は、鷹揚に上から許してくるので「別に俺は今すぐ切って寝てもいいんだが?」『ゴメンって!』ちくりと刺せば途端に慌てる様子。
純丘に万次郎の我儘に付き合う義務はない。
だいたい純丘が眠い理由はひとえに時間帯が原因だ。深夜だか明け方だか、ともかくA.M.だの午前だのと頭につく方の四時に、執拗な電話で叩き起こされたのが今である。
電話がかかってきた時点で、ケータイの電源を切ってしまえばさぞ快適に眠れたことだろう。
ただ、純丘はちゃんと佐野家の電話番号を電話帳に登録している。
眠い目をなんとか抉じ開けて視認した着信名は〝雇い主の孫〟——要は万次郎個人のケータイだった。
暴走族のチームを作り上げるほど好き勝手やってる孫を、万作はほぼほぼ放任しているが、連絡だけはつくようにと彼自身の名義でケータイを持たせている。
が、万次郎のケータイからかかってくることはない。どうせ道場のアルバイトで顔を見せるときにでも、まとめて話してくるからだ。本人曰く、顔を合わせて喋ったほうが楽。
その点エマも兄妹なだけあってか、電話はかけるにはかけてくるが、せいぜいが〝部長来て!〟と要求する際に活用されるくらい。どこでもパシリじみた扱いなのはこの際脇に置いといて。
かかってくることは、ない。
なかった。本当に。
「今日、どうした? 寂しくなったか?」
『……なわけねーだろ。ガキじゃねえんだからさ』
「そう? 俺はたまに寂しいときあるけど。君みたいなチビスケに言われるとはなあ」
『背伸びたけど』
「悪い。言い方間違えた」
『てか、部長は……違ェじゃん』
「違ェんだ」
『うん。違ェよ。全然』
「へえ」
相槌を打つがてら、もうひとつ、純丘はこらえきれないあくびをこぼす。
純丘榎は、寝る前にヒーターを切るタイプだ。ゆえに室内は寒々しく冷え込んでいる。
頬に触れる室温の冷たさと、布団の中のぬるま湯のような暖かさが、眠気を加速させる。
『俺は無敵のマイキーだから』
「無敵でも寂しくなるぐらい、あるんじゃね」
『ねえよ』
「んー。そっか。じゃあまあ、俺は暇潰しで叩き起こされたわけ」
『……うん。そう』
「俺さあ、あふ……怒っていいだろ」
『ゴメンって』
「いーけど……」
睡魔に気を取られていると、怒るまでの気力も湧かないところがある。一度決壊したのが悪かったのか、あくびの間隔も狭まっている。
あくびとは、脳に酸素を回して覚醒させようとしているとも、動作そのものが覚醒に紐づいているのでむりやり起こす効果があるとも言われ、すなわち眠いものは眠いのだ。
もうひとつあくびをこぼして、純丘はぼんやりとつぶやいた。
「万次郎」
『ウン?』
「寝られるか?」
『……だから、眠くねえんだってば』
「あー、うん、そうだったな。じゃあ、うん、もうちょっと話すか」
しかし〝話すか〟と言っても、ほとんど寝落ち寸前の頭が、まともに働くわけもない。
『部長マジで寝そうな声してっけど』
「まじ? ……まあ眠いよ、本当に。たぶんまじでそろそろ落ちる」
『部長寝たらエマ起こしてくる』
「妹に優しくしてやれよ……」
『じゃあ起きててよ』
「無茶言うな」
エマの安眠は死守したものの、睡魔に抗うすべがそろそろ尽きてきた。
純丘はほとんど諦めて目をつむる。
二月の頭、四時を回っても明け方はまだ遠い。カーテンを挟んで、窓の外も未だ暗がりの中にある。
『ってさァ、いやオマエまじ? てなるじゃん? 場地もケンチンも三ツ谷もビックリした顔してて、めちゃくちゃ面白ぇんだけど、さすがに面白がってるわけにもいかねえし』
「うん、」
『だから俺言ってやったわけ。俺が総長なんだから、締めるとこ締めなきゃだろ』
「……うん」
『したらさ——……部長?』
すよぴ……
お返事は至極穏やかな寝息です。
寝落ちると言ったら本当に寝落ちるのが純丘榎。これでも粘った方だった。『部長? 部長〜?』と何度か呼ぶ声こそイヤホンから響くものの、無論、返事はない。
応答がないと悟って、万次郎はしばらく黙った。通話は切られないままだ。
朝が近く、マンションの窓の外を鳥の声が横切っていった。
『部長さあ』
かなり長い沈黙を挟んで、万次郎が再び喋った。
『たぶん、部長のが間違ってねえんだろ。頭良いし。ジイちゃんもいっつも褒めてるし。たまにケーサツでも部長のこと知ってるやついるし……部長がなんであんなウケ良いのかはわかんねえけど、だって良いやつだけど良い人じゃねえじゃん?』
再び、しばらく黙った。
純丘は完全に眠りに落ちていて、軽口じみた悪口を吐かれても、いつものような反論はない。
万次郎にも、それは理解できた。
『頭良いから、わかんだろ。正しくなくても賢く使えって、賢く使うやり方わかってるし、正解じゃなくても、間違いじゃねえの、わかるんだろ。……わかンだろうけど」
度々挟まる沈黙は、電話向こうの様子を窺っているようである。
起きてはいないか。確かに寝ているのか。
今喋っている言葉は
『俺強くなるんだ。強くなって全部守るんだ、守ってやるんだ。強くなって、俺より強いやつより強くなって、倒して、
言葉の羅列に一見脈絡はない。もし聞いている人間がいたら、思いついた順に並べ立てているようにも聞こえたかもしれない。
もちろん誰も聞いておらず——純丘は寝ている——なにより、万次郎にとってすべては繋がったひとつの話である。
『無敵でも寂しくなっていいって、俺には、意味わかんねえけど。部長ならわかんのかな。どういう意味で、どういうやり方でって、わかって、できんのかな。俺は……俺は、でも、泣かねえし、寂しくもねえよ』
そして通話は切れた。
イヤホン
:コード付きの代物を寝落ち間際に使うな
今川焼き
:自宅では今川焼きとも大判焼きとも呼ばれていた
今川焼き派です
呪華武
:純丘榎は暴走族のチームを呪華武と黒龍と東京卍會しか知らない
偏りが激しい