on7.20
「はー……」
「部長、そんな怒んなくてもさァ」
「なに?」
「なんでもない」
真面目なときのトーンに起伏がないのは純丘榎のお喋りの特徴だ。しかし本日はいつにも増して声には温度がない。
軽くおちゃらけて場を和ませようとしていた万次郎、すぐさま両手を挙げた。
白旗降伏、戦略的撤退、余計なことは言いません。木造りの椅子の背もたれに、背ではなく腹から寄りかかる形で、やり取りを見守ることにした。
on7.20
現在地佐野家、ダイニング。刺々しい空気の対象は、珍しく、エマだった。肩を狭めて、きゅっと唇を結んで、純丘の顔を窺っている。
ダイニングの椅子に(こちらはおおよそ普遍的に想定される向きで)腰掛けて、てのひらで顔を覆って、苦く深々と溜息をついた男を、恐々とうかがっている。
「……あの、」
「……一応言っておくけど、怒ってはいねえ」
「それはウソじゃん……」
「……本当に怒ってない。つか、俺が怒るとこじゃないし、怒っちゃいけねえだろうし」
「もう怒ってるよ……」
「……あのなあ、エマ」
純丘はてのひらで顔を覆ったままだ。目を合わせないコミュニケーションは、表情などから読み取れる感情を伝えにくいので、彼はあまり好んでいない。
ただ、今顔を上げると、いよいよ怒っていると勘違いされかねなかった。
「俺は……というか誰であれ、君がどこの誰と付き合おうが別れようがなにをしようが、口を出す立場にはねえんだよ。だから怒るってのはほんとに筋違いだ。……それが通りすがりの誰かさんを引っ掛けてヤるとかでも個人の自由なんだからいいわけでさすがに病気と避妊には気をつけろよと思うがいや待てなんで俺がこんな講義してんだ」
「部長が言い始めてんだよなァ」
「こういう話どっかで絶対必要だけど、君ら学校のそういう講義ろくに受けてないだろうし、万作さんは言わないだろ……!」
「合ってる合ってる」
余計なお世話と言えばそう。どう足掻いても世話焼き気質と言われてもそう。
アルバイトで来ているお兄さんというよりは、仲の良い親戚や、家族ぐるみの付き合いの歳の離れた幼馴染とか、そういうレベルの距離感だ。
純丘本人にも自覚はある。実際佐野家からも似たような位置づけで扱われている。
しかし、純丘榎は確かに二十歳にはなったが、成人すれば即座に精神が成熟するわけでもなし。結局経験こそがものを言う。
小学生の頃ならいざ知らず、佐野兄妹も思春期の頃合いで、ある程度の分別も知識も身に着いた。
付き合いが長いだけにやりづらいことは多々あるわけだ。
「ただエマ、君、俺の記憶が正しければ、ドラケンくんが好きなんだろ。それとも諦めたのか?」
「……だってドラケン、ウチのこと全然見てくんないから、処女じゃダメなんじゃないかって」
「これは俺の感想だがそういうことを言うやつはできる限りオススメはしねえ」
「ドラケンが言ってたわけじゃないの! 勘違いしないで!」
「ケンチンが言うわけねーじゃんよ」
「ドラケンくんが言ったとは思ってねえよ俺も」
そしてなまじ——好意の種類はさておき、どちらも——龍宮寺大好き兄妹を相手にしているので、話の腰が折れまくる。
己の額を何度かてのひらで撫でて「怒ってないが、言いたいことは……四つある」「多ッ」「許せよ」純丘は苦くつぶやいた。
「まず……ドラケンくん本人がどう思ってるかも知らないまま、彼を理由に据えるのは、正直ドラケンくんに失礼だと俺は思う」
「……」
「二つめ、引っ掛けた子にも、ちょっと失礼だと俺は思う」
「乗ってんだし別に良くね?」
「まあ応じた時点でそのへん大して重く考えてないだろってのは察せられるがな。そんで三つめ。カラオケ店はヤる場所じゃねえ店が迷惑するからマジでやめろ二度とするな」
「ご、ごめんなさい……」
さすがにエマも気まずげに頷いた。
個室が確保できてフードやドリンクが頼める、という点で、カラオケ店ほど利便性の高い施設は実は少ない。必然、多様な目的で使用されやさい。
ただ性行為をする場所ではない。カラオケルームには鍵もかけられない。
店員や部屋を間違えた他の客あたりがうっかり出くわしたら、とりあえずはとても気まずいでしょうとも。
「最後の四つめ。……その前に万次郎、
「あー。昨日集会で話したし、その前にエマには……部長知ってたん?」
「春樹から聞いた」
「……あー」
林田春樹。馴染みの面々には、ぱーちん、パーと愛称で呼ばれている。
純丘にとっては家庭教師アルバイトの生徒。東京卍會の創設メンバーで、参番隊の隊長。
先日——林田の親友が
林田が親友と呼んだ少年は、現在、甚振られた負傷をもとに入院している。彼女もまたPTSDを患った。彼らの親御さんには双方共々、元凶ともいえる林田には二度と関わるなと告げている。
少なくとも、何事もなかった頃には戻れまい。
「襲うやつが悪い。つうか加害者が悪い。先に傷つけた方が悪い。それはマジだ」
前提の被害を蔑ろにできる話ではない。まず純丘はそのように断言する。
誤解してほしくはなく、誤解されたくもない。被害者と加害者がその場にいたとして、彼らにどのような背景事情があっても、加害者が悪い。
「ただ、エマ」
——それを踏まえた上で。
「君、普段から隊員の護衛つけられてんのその日に限って撒いて振り切ったってな? これは武藤くんが愚痴ってたのを聞いた」
「……部長、
「そういう話が出る程度にはな」
ふと投げられた万次郎の問いに純丘は簡潔に答えた。
エマは、眉を寄せて、純丘を見つめている。
「……だってさすがに、見られたくないし、身内に言いたくないし」
「それは、だろうな。ただ、誰でも簡単に入ってこれるカラオケで、初対面の人間と二人きり、下手に良からぬ相手だったら仲間を呼ばれてた可能性もある」
「タケミッチはそんなやつじゃねえよ」
「君の知り合いだったのは幸運だが……」
エマの内心はさざなみ立っていた。不快感がじわじわと、心臓を柔らかく食んでいる。
——確かに。確かによくないことしたけど。
——そんな、言わなきゃわからないみたいに、思われてるの?
——なんで、ウチが考えなしみたいに言われなきゃいけないの。
彼女も、純丘が言わんとすることはわかっている。そろそろ〝無敵のマイキーの妹〟として遠巻きに見られることにも慣れきった。
危険性を把握した上で、セーフラインで遊んでいる。彼女にはそういう自負がある。
危機感がないように扱われるのは不快だ。言わなきゃわからないかの如く、過保護に扱われるのは、不快だ。
危険なことであれば、それこそ、彼女の兄や幼馴染の方が、いくつもとんでもないことをしている。そも純丘が挙げた傷害および強姦事件も、東京卍會のネームバリューが引き起こしたものである。
正しいことを、わかりきったことを言われているから、尚更、不快な気持ちが湧き立っていく。
訳知り顔で自分だけ諭されるのは、嫌だ。わかっていることを丁寧に淡々と述べられると、理解力のない子ども扱いを受けたように思う。責められている気分が湧き上がる。
マイキーには言わないくせに、と、思う。
たぶん怒っているというよりは悲しかった。
「俺が言いたいのは……いや、」
そこで純丘は言葉を切った。エマの表情にさっと視線を走らせて「……ごめん。さすがに俺が出しゃばり過ぎだわ」トーンが少しだけ変わる。
「ただ、護衛の子は悪くねえだろうし、もうちょい上手く言い訳したり、せめてなにか連絡つけられるようにしてあげろよ。武藤くんきちんとそのへんヤキ入れたらしいからな」
「ふーん。そーすれば文句ない? 話終わり?」
「うん終わり。時間取らせて悪かったな」
「べつに」
素っ気なく頷いて、エマは身を翻す。ばたばたと廊下をスリッパで足早に歩く。いつもより、少しだけ荒い足音が自室へと去っていく。
さすがに首突っ込みすぎたな、純丘は内心反省した。
あれこれ口うるさく言い過ぎないよう、純丘も普段は自制している。普段は、あれでも。
「……部長さー」
頬杖をついた万次郎が、間延びした声色で尋ねる。〝エマが引っ掛けた男、タケミッチだったらしくてさァ〟と一から十まで初耳の話を暴露した身として、さすがに砂粒ぐらいの罪悪感はあった。
「心配なんだって言わねえの?」
「……俺が心配する権利はあるけど、それを理由にして首突っ込んで良いことと悪いこと、言うべきこと言わなくていいことってのもあるだろ」
「……なんかいつもめんどいことばっか考えてるよな」
「マジでな」
純丘は鼻で笑って同意した。ぐしゃぐしゃと自分の髪の毛をかき回した。
「……万次郎、君も気をつけろよ。ほんとに」
「んー。まァ
「……左様で。あと巻き込まれた方々に詫び行くときは、相手は被害者だってこと忘れんなよ」
万次郎は片眉を上げた。
純丘はふーと息を吐き出して、顔をあげる。勢いをつけて椅子から立ち上がった。かたんと椅子が音を立てた。
「……俺らも、べつに犯人でもねえんだけど」
棘を潜ませた言葉。ちらと視線がひらめいたのち、知ってる、と短く答えが返る。
「そして君らがそうだとしても、傷ついた人々は何を言うかわからないし、君はきっと、受け止める準備はしておいたほうがいい」
「……意味わかんねえ」
「会えばわかる」
「会ったのかよ、そー言う部長は」
「会ったよ」
万次郎は、今度はぱちぱちと目を瞬かせた。てのひらから、ずり、と顎がすべった。
意味をなくした頬杖を畳んで、腕はそのままテーブルに置く。
「まあ俺はただの立会人みたいなモンだったし、結局面会謝絶で、会話できたのは親御さんとだけだが」
純丘は無感情に付け足した。
彼は、林田春樹から
繋げてみれば答えも出る。
「パーちん、一人で頭下げてきたんだ」
「あいつなりに思うところがあったんだろうな。俺は知らねえが」
知らない。把握していない。理解していない。
説明されたところで、真に共感できる経験を、感情を、純丘は体験したことはない。
本来、謝罪に誰かを同伴するとして、当事者か、百歩譲って保護者だろう。知人だが他人に等しい家庭教師もどきを呼ぶなど、ふつう、ない。
さすがに躊躇った純丘に、間違ったことしてたら言うだろ、と、林田は言った。
叱るだろ、怒るだろ、間違いじゃないやり方教えてくれるだろ——純丘本人にその自覚はない。あらゆることを間違えてばかりだ。事実として。
それでも教え子がそう言うので、そのように努めてみた。
涙ながらに叩きつけられる怒声を、割って入れる位置から聞いていた。ただただ謝る林田の言葉を聞いていた。その動作を少し離れたところから眺めていた。
一通りの話が済んだところを見計らって、迎えとして出向けば、ちくりと嫌味を刺された。純丘榎は大人びた様相をしている。おそらく、家が雇った小間使いか、親族あたりに思われたのだろう。
言い訳する理由もないので当たり障りなく応対した。林田の背中を軽く叩いて帰りを促した。
その程度だ。
その程度しか経験もせず、しかし、心はうすく削られた。
その程度でも、とも言える。
「……まー。気ぃつけるよ」
「存分にな」
「よくわかんねえけど」
「だろうなー」
ぺろっと言った万次郎に、純丘もサクッと頷いた。
これだけでわかっていただけるのなら、おそらく、世にはそこかしこに標識・標語・警告・注意書きなんざ散らばってもいない。
人は百回言われてようやくイチのことを理解する、かもしれない。わからないことの方が多い。覚えないことも少なくない。覚えたことですら、実感のリアリティに流されやすい。
結局はそんなものだ。純丘榎もそういう人間のうち一人だ。
誰もがいつもシステマティックに記憶して判断していたら、おそらく皆々、もっと疲弊している。
「考えたこともないのと、わかんなくても一度でも考えたことがあるのは、違うからな」
「ふーん……」
廊下から玄関へと歩く純丘を万次郎も追いかける。「帰んの」「うん。道場の手伝いも終わったし。……なんだよ、帰ってほしくねえの?」振り返った純丘がぐしゃぐしゃと万次郎の髪の毛を掻き回す。
「早く帰っとけよ、もー」
「言われなくても帰るよ」
煩わしげに振り払った万次郎に、純丘は柔く笑った。毎度見送りには来るよなァこいつ。
個人の自由
:とはいえ十八歳未満×十八歳以上だと場合によっては青少年保護育成条例に引っかかる
自由というのは自分が責任を取れる範囲、という注釈がつきます
カラオケ
:さすがに掃除する人が可哀想
PTSD
:Post Traumatic Stress Disorderの略称
和訳は心的外傷後ストレス障害
いわゆるトラウマと呼ばれるもの
原作内で言及はない
ただなっていても不思議はないと思う