【完結】罪状記録   作:初弦

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on9.1

『もしもし純丘くん、君なら慣れてると思うから聞くね』

「はァどーぞ堤さん」

『十代ぐらいの男の子がたぶん喧嘩? 全身怪我して四〇℃ちょっとの熱出してるの。身動き取れないぐらいしんどそうで、私もさすがに運べないぐらい体格が良くて……二mは確実かなこれ、この場合私の家でできる治療はどんなかんじかな』

「救急車を呼べ」

 

 九月一日午前零時ぴったりのこと。

 夜の自室に響いたコール音、昔馴染が開口一番並べた状況と求められた回答に、純丘榎は間髪入れずに即答した。

 

 対処法として限りなく正解だ。他の誰が連絡しても彼はこのように返答したことだろう。

 患者が自力で歩けなくて誰かが運び出すこともできなくて容態ヤバそうならもう潔く救急車を呼べ。

 

 なぜ慣れていると思われたのか、といえば思い浮かぶ顔がふたつほど。愚問なのでその質問は省略するとして。

 

『呼ぶなって言われちゃったの。灰谷くんたちぐらいの刺青あるし、全身の怪我って言っても、たぶん車に撥ねられたとかじゃなくて、喧嘩の弾みのひどい感じっぽいから、そのせいかもね』

「十代っつったよな? そいつの保護者といえる人間を呼べ」

『この子の名前もわからないから連絡つけようがないかな』

「氏名不明なレベルで素性を知らねえ体格で明らかに敵わねえ現在進行形でカタギでもなさそうな野郎を家に上げんな危機管理意識死んでんのか俺でもやらねえぞ今からでも蹴り出せ」

 

 さすがに正論である。身長二mが確実で素行もよろしくなさそうな赤の他人、三点セットで性差がどうこう以前の問題だ。

 自衛を強いられる世の中には改善点が見出だせるが、それはそれとして君子危うきに近寄らずという言葉もある。

 

 ちなみに。

 

 成人済みの人間が未成年者を家に連れ込むのは、下手を打つと誘拐として訴えられる可能性もある、という点も危惧するべきだろう。

 説教混じりに一息で言い切った元副部長に、元部長は『正しいね』とまず肯定した。

 

『ところで純丘くんあと二、三日私の下僕だったよね』

「堤いま、こないだの俺の比じゃない無茶振りした自覚あるか? ああもうわかった行くから電話繋いでろよ!」

 

 下手な取引はしないに限るワケ。

 

 既にひとっ風呂浴びていた純丘は、渋々ながらも迅速に外出準備をしたのち自転車をかっ飛ばす羽目と相成った。

 俺こんなんばっかだな。

 

 

 

  on9.1

 

 

 

「ウワまじでいやがる……」

 

 腐れ縁の体格に合わせた布団からゆうゆうはみ出る手足に、純丘がまず漏らしたコメントである。

 

「純丘くん、失礼だよ」

 

 寝室のふすまを隔てて覗き込む堤の一言。

 

「確かに初対面へやる態度じゃなかったな、そこは俺が悪い。君が言うことじゃない」

「ごめんね。あなたしか頼れなかったから」

「それで騙せるのは君の家族ぐらいだぜ」

「かわいいでしょう」

「あーあーそうだな」

 

 純丘は適当にあしらった。電話一本で呼びつけた身としても、堤はそれ以上追及しなかった。

 

 立派な刺青は、確かに、灰谷兄弟のそれと同レベルに広範囲。そしてその刺青と区別がつきにくいぐらいに痣、痣、痣。顔は腫れ上がり熱を持っている箇所も多々。手首の腫れは捻挫だろうか。

 確かに肌の張りと顔つきから、成人はしていない可能性が高い、とも読み取れる。あるいは、本人から聞き取ったのかもしれないが。

 

 ……淡い色素と体格、目鼻立ちの作りからして、日本人ではない可能性が高い。外観で国籍が完璧に判断できるわけではないにしても、この国であまり見ない特徴を有している。

 日本の国籍があればいいが、ビザだのパスポートだのの問題とかかかってくると面倒だな、純丘は内心つぶやいた。

 

 日本の医療がなぜ安いか、といえばそれは保険適用に由来する。純丘も堤も保険証は持っているが、今回の患者は眼前の、どこの誰ともしれない少年だ。

 あまり考えたくもないが、素性次第では領事館も出てくる。

 

「四〇℃?」

「四〇.三」

「いつどこで拾った?」

「今日……もう昨日だね、昼ぐらいにうちの裏手で見つけた」

「ああ、堤んとこだと昨日が週休か」

「そうそう。そのときは受け答えと、ちょっともの食べるとか、自分で歩くぐらいはできたんだけどね」

「言語は?」

「日本語で通じたよ。訛りはあったけど」

 

 二〇〇五年八月三十一日、朝方から午前中といえる時間帯において、東京二十三区では雨が降った地域もあった。

 怪我による炎症が、身体が冷えて悪化したか——純丘の推察はあくまで推察でしかないが、そう外れてもいないだろう。

 

「おい、起きろ」

 

 諸々踏まえて、純丘はまず少年を起こすことにした。薬を飲ませるにも、情報を聞き取るにも、相手が寝ていればどうしようもない。

 視診だけでも怪我だらけに加えて、ろくな生活を送っていない場合、身体的な接触を毛嫌いする可能性もある。身体には触れずに、何度か呼びかけた。

 

 やがて瞼が幾度か痙攣して、うっすらと瞬きをした少年に——瞳は淡い灰色にも、黄金にも見えた——純丘を捉えて、それから、堤に視線が移る。

 高熱なだけあって、動作のひとつひとつが至極億劫そうだ。

 

「私の知り合い」

「こいつの知り合い」

 

 ほとんど同じ内容を各々述べた。

 

「俺は、警察でも医者でもない」

 

 素気なく付け加えて、純丘は、開けてない鎮痛剤の箱を軽く振って見せる。

 

「これは、痛み止めの薬。熱を下げる効果もある。飲んでくれ」

「……■■■■■■……アー……くすりは、いらねえ」

 

 純丘も堤も聞き取れなかった部分は、日本語ではない発音のように感じられた。

 事前情報通りで、いくらかの訛りはあるが、コミュニケーションに問題はない。

 

「熱が高いと、死ぬかもしれない。この家で人が死ぬと困る。飲んでくれ」

 

 さておき最低限必要な要求は通させていただきたいところ。

 純丘は、今度は自分都合の理由もつけて、もう一度繰り返した。敢えて平易な語彙を選んだのは一応気を遣ったつもりだ。

 

 静かに息を吐く音——それから、上体を持ち上げようとして、少年がぐうとうめき声を漏らす。

 堤からバケツリレーの要領で回されてきたクッションを、背中の隙間に積んで、うまいこと寄りかかる場所を作れば「Valeu」と少年が短くつぶやいた。

 

「どういたしまして」

 

 言葉の意味はわからなかったが、純丘はとりあえずそう言った。たとえ悪口であったとしても、最初から悪意を想定する必要はない。

 

 透明なプラスチックのコップを片手に持たせて、道中で買ってきた天然水をその場で開けて、そそぐ。

 痛み止めの箱を開けて、ぺきっと薬を開けるところまで、すべて眼前で行う徹底ぶり。

 

「保護者は?」

「……」

「……家族とか、今住んでるところの人とか、連絡すれば迎えに来てもらえるか?」

「うごけるようになったらでていく。あんしんしろ」

「ダメそうだな」

 

 純丘が堤に視線を向ければ、昔馴染の女は軽く肩をすくめた。

 

「通帳盗まれなきゃなんでもいい。通帳は仕事場に持ってけばいい」

「アそう。ところで俺今日泊まっていいか? ガッコの用意は一応持ってきてんだけど」

「純丘くんわかりやすく心配するね。ソファしかないよ」

「最悪そのへんで座って寝る」

「腰悪くなるよ、それ」

 

 クッションの中にしれっとアイスノンも積んだ。あとは本人の体力次第だが、体格と、しなやかに張り付く筋肉からして、最悪の事態は早々訪れないと純丘は踏んだ。それに若いので回復力は高い。はずだ。

 

「ちなみに君、名前は?」

「……みなみ」

「ミナミ?」

「みなみ、てらの……てらの、みなみ」

「南国みたいな名前だな」

 

 そして想定よりもしっかり日本名だった。

 東洋系によく見られる顔立ちおよび体格が特に多いこの日本国内で、自分の容姿が目立つことぐらいは、自覚しているだろう。

 その上で吐かれた名前。おそらくは偽名ではなく、本名。日本国内をあたるだけで素性を掴める可能性が高い。

 

 現時点で取れる情報としては上出来だ。

 

「食べたいものはあるか?」

「……。シュラスコ」

「それあれだよね、ブラジルのバーベキュー」

「めちゃくちゃ元気そうだな〜やっぱ放り出すか?」

「純丘くん」

「冗談。さすがに四〇℃とわかってて追い出したらこっちが罪に問われそうだ。うどんでも作るかね」

 

 けろっと言い放って、そして純丘は膝を伸ばして立ち上がる。「私月見で」「……君も食うのかよ」「月見で」「うーっす……」二人の会話を聞きながら、寺野は何度か、緩慢に、瞬きをした。

 

「……ウドン?」

 

 うどん初チャレンジだった寺野南、お出しされた代物は気に入ったようである。

 

 ソファ寝で案の定バッキバキになった身体をなんとか誤魔化しつつ、純丘は本日も学校なり。

 堤とは行き先が違うので途中で別れ、大きくあくびをこぼす。どうしても睡眠の質が悪い。

 

 肩に鞄をかけ直したところで、着信音が響いた。メールだ。

 しぱしぱと目を瞬かせながらも、純丘は内容を確認した。ぱちんとケータイを閉じた。

 

 メールの主に会ったのは放課後の話だ。

 

 S.S.MOTORの跡地で、九井はソファに腰をおろして、両手を組んでいた。ずいぶんさまになっている。

 

「お久しぶりです。要件をどうぞ」

「メールでも言った通りだ。ここ数日内に、品川区内かその付近で起きた大きめの諍いとその関係者を知りたい。五日前から今日のぶんまで、できるだけ即時に」

 

 簡潔に要件を述べた純丘に、九井はちょっと眉を上げた。

 

「大きめの諍いの定義は」

「複数人病院送りになってるか下手すれば死んでるレベルで頼む」

「……そうですね。とりあえず五十万で」

「ところでここにT.AK本人のアカペラ音源があるんだが、君ならマニアに対してどれぐらいで売れる?」

「……。マジで本物?」

「俺の学生時代の知人。裏取ってもらっても構わねえけど、知人の個人情報を悪用したら君のお友達を少年刑務所送りにするからな」

「品川区内なら二つありましたね」

 

 九井はすぐさま口火を切った。カタカタとキーボードを打って、ノートパソコンをくるっと回転させる。

 ディスプレイには数枚の写真が並べられていた。

 

 順に、なんらかの集合写真がメンバーを変えて三枚。内輪で撮ったらしきツーショットやスリーショットの写真が五、六枚。隠し撮りらしき写真が一枚。

 

「先月の二十八日に泥壊門禁愚(デーモンキング)伝臾羅犯(デュラハン)と全面抗争して後者の勝利。二十人いた泥壊門禁愚(デーモンキング)は解散状態で、うち半数が入院沙汰。総長は一時ICUに突っ込まれたし、今は容態は安定したが、ただ半身不随を危ぶまれてる」

「この集合写真か?」

「そう。それが泥壊門禁愚(デーモンキング)

 

 写真の中で、皆一様に厳しく表情を作った少年たちが、赤い生地に【泥壊門禁愚】と刺繍された旗を掲げている。

 純丘の問いに、九井も頷いた。

 

「で、こっからここの四枚がそれぞれ伝臾羅犯(デュラハン)のメンバー。こっちは十人ちょいぐらいだな」

「ナルホド。もうひとつの諍いは?」

夜魔禍牙死(ヤマカガシ)が壊滅した件。これは先月三十日のこと。総勢三十人のチームだが、抗争じゃなく、ほとんど一人の男によって叩き潰されたらしい。残りの写真のほとんどが夜魔禍牙死(ヤマカガシ)のメンバー……まァ五体満足でも心叩き折られて、もう不良やる気もねえやつのが多いが」

「一人の男ってのは」

「コレ」

 

 九井が指し示したのは、唯一の、隠し撮りらしきアングルの写真だった。

 

 大柄の男——少年——が、血まみれの人を今まさに殴りつけようと、拳を振り上げるさま。上半身には刺青が走っていて、髪を振り乱し、瞳は爛々と輝いている。

 たった一枚の写真が、それだけで凄絶な雰囲気を伝えてくる。

 

「寺野南、通称暴君サウス。数年前に渡来した日系ブラジル人。母国でギャングの真似事でもやってたんじゃねえかと噂ですよ。今は東卍(トーマン)黒龍(ブラックドラゴン)で冷戦してっからか渋谷への手出しはねえけど、正直うちのボスも警戒している」

「なるほどなるほど。……九井くん、ここで追加の取引のお知らせだ」

「ハ?」

 

 九井は頓狂な声を上げた。

 腕を組んだ純丘が、軽く顎を引いて、九井を見下ろした。

 

 物理的な高低差は交渉においても重要だ。人間がどれだけ理性と知性のもとに生きようと、根っこが生物な事実に変わりはない。

 本能で不利だとわかる体勢は、心理的な負荷を齎す。

 

「俺の知人が今、自宅に寺野南くんを匿っている。これはおそらく、寺野南本人と俺と知人当人を除けば、現時点では君しか知らない情報だ。ところで九井くん、君がこの情報を徹底して隠蔽するには加えてどれだけ積めばいい?」

 

 意訳。

 面倒事に全力で巻き込もうと思います。

 

「そ……れは本来アンタが頼み込む側だろ……!」

「イヤ今の聞いて、これ別ルートから聞かせるよりさっさと握らせて情報売った形にして抱き込むのが確実だなと思った。今こっちにつけば暴君の命の恩人になれるぜ、九井くん」

「クソッやりにくい……黒龍(ブラックドラゴン)に所属している俺が下手に肩入れすると、チームまで巻き込んだ抗争になりかねません。上に確認と相談をしたい」

「どうぞお好きに。どんな結論を出すにしても取引相手として俺を尊重してくれるならそれ以上の要求はない。ああ、ただできるだけ早めの回答をくれると助かるな」

「マジでやりにくい」

 

 根拠に基づいた強気は状況を有利にさせる。

 

 そも常々述べているとおり、純丘は人並みの倫理観があるために普段は法に反しないだけで、善人かというとわりとそうでもない。

 ノータイムで弱味を利用する挙動を見せ、警戒を促し思考を分散、抑制。破格の条件の報酬をつけて初めの取引を飲ませ、続いて大きな要求を突きつける段階的要請法。相手の誠意を信じるような言い様による誘導と言外の含み。

 

 行動心理学って悪用しちゃいけないんですよの典型例ですね。

 

「……ろくでもねえ話を」

「どうも、君が九井くんの()かな。純丘榎です」

「……柴大寿だ」

 

 廃業したバイク屋から場所を変えて、こちらは柴家のリビングである。

 溜息とともに、大寿は低く述べた。

 

 交渉役は交代、九井はボスの背後で背筋を伸ばして立つだけに努める。

 

「よろしく」

 

 人好きのする笑顔を浮かべる純丘。

 友好的な態度はいつであれ重要だ。誠意を示す意志はある。

 

 場合によってはそれを撤回する、かもしれないにしても。

 

「決して寺野くんの保護を頼みたいわけじゃないが、知人が巻き込まれるのは煩わしい。知人のところを出たならそれこそ好きにしてくれても構わないが」

「サウスが潜伏している場所を抑えたい」

「承諾してくれるなら当然渡すよ。ただ、その周辺での暴力行為は原則禁止。また情報が流出したときには俺は真っ先に君らを疑う」

「それでいい。……もう一つぐらい情報が欲しいところだが」

「彼は一週間は動けないと俺は見ている」

「は、あの恐竜が」

 

 皮肉げに笑った大寿が膝頭を何度か叩いた。恐竜扱いかよ、純丘はやや呆れた。

 とはいえそれも順当かもしれない。

 

 発熱からくる汗により、べたべたの服をひっぺがした上体には、刺傷や、弾痕らしき古傷すら残っていた。九井が言った元ギャングもどきというのも——むしろ、もっと性質の悪いことをしでかしていた可能性すらある。

 

「正直あれほどの大怪我だと、命の危険もありえる。内臓まで傷いってそうだ。……充分な情報だろ」

「充分だな。充分すぎる」

 

 大寿は意味ありげに言い換えて、繰り返した。純丘は眉を上げた。

 ……上に立つだけあって、彼は、こと厄介さだけでいうならおそらく九井に勝る。空気を掌握するのが上手い。

 

 斜視が混じっているのか、金色の瞳を奇妙に歪めて、彼は純丘を見つめる。

 

九井(コイツ)の話じゃ、灰谷兄弟の知己って聞いてるけどな。あっちに話を持ってかねえのは何故だ?」

「あいつらは情報の拡散や撹乱、陽動には適切だが、統制と隠蔽には向かねえよ」

「それだけか?」

「……逆に聞くけれど、愉快犯じみた性格の奴らを、わざわざ首突っ込ませてろくなことになると思うか? 本当に?」

 

 純丘の表情はわりと死んでいた。「……まあそうだな」大寿は肩をすくめた。

 

 暴虐を尽くした極悪の世代でも、特に、灰谷兄弟は未だに六本木の頂点に君臨している。

 彼らの悪辣さは現在進行形であまりに有名だ。

 

「主旨は理解した。乗ってやってもいい」

「ン、ありがとう」

「せっかく教会に来た迷子だしな」

「……その節はお世話になりました」

 

 契約締結。ついでの思い出話を少々。

 っぱコイツどういう人脈してんだ? 一人傍らで見ていた九井は、内心強く思った。

 

 こればかりは人脈というより単なる偶然だ。

 お互いに記憶力が悪ければ、脳裏を過ぎりもしなかっただろう。

 

 情報統制と隠蔽は界隈に詳しいプロに任せるとして。

 勝手知ったる様相で、純丘は再び、昔馴染みの自宅に上がる。

 

 リビングの椅子に寄りかかる形でちんまりと鎮座した寺野が、ぼんやりと虚空を見つめていたので、ちょっとビビった。

 ウワ起きてら。

 

「起きてるほうが楽か?」

 

 純丘の問いかけに、寺野は無言で頷いた。動作は相変わらずとろく、未ださして動ける状態でもないようだ。

 

「そ。なにか食べたか?」

「Não」

「食ってねえのな……あー、なるほど、君がたまになんか言ってんの、ポルトガル語か」

 

 純丘は、日本語以外は大学受験勉強で使う程度の英語しか話せず、母語人口の多い言語も、せいぜいハイとイイエや挨拶、数字ぐらいしか覚えていない。

 しかし彼の優等生的立ち回りの一環として、地理の知識は一通り脳に叩き込んであり、日系ブラジル人とのヒントがあれば見当はつく。

 

 鍋に水を入れる。コンロに乗せてスイッチをかちん、と押せば、チッチチチと音を立てて火がついた。

 

 寺野は純丘の行う作業を大人しく眺めている。人参の端っこを切り落とし、強めに洗って、細切りを意識して刻む。鍋の中に落とす。白菜を一枚剥がして、これはざっくりと刻んだ。

 

「見回りがいるな。三人だ」

 

 出し抜けに寺野は言った。純丘は刹那、考えた。

 

 とりあえず、沸騰したお湯には、凍らせていた油揚げと、刻んだ白菜を放り込んだ。

 

「見回りは、俺を探していない。だが、俺がいることを知っていて、家の周りを見張っている。三人とも俺ぐらいの年の男だ。あいつらを呼んだのは、オマエか? あの女か?」

「俺だよ」

 

 純丘は答えた。顔には出さないものの、気づくの早すぎるだろ、げんなりとそうも思った。

 直感にしたって限度がある。

 

 食事を取らせて、十二分にリラックスさせたところで切り出す予定が大幅に狂った。

 

「渋谷をシマにしてる黒龍(ブラックドラゴン)に、君の現在地と〝一週間はろくに動けないレベルの怪我だ〟という情報を教えた。代わりに、情報の統制と、ついでにここの護衛を頼んだ」

「ハハハ……正直だな。嘘つきなくせに」

 

 寺野は肩を揺らして笑って、少し咳き込んだ。純丘はうどんを二パック開けて鍋の中に放り込んだ。

 

「……どこが嘘でどこが正直だと思った?」

「オマエは、俺が一週間はろくに動けない、なんて、思ってないだろう。その通りだ。三日もすればここを出られる。五日もすれば喧嘩くらいできる。だが俺に言った言葉はすべて本当だ。ブラックドラゴンには、一週間は動けないと伝えたな」

「……ええ……君、なに、テレパシーでも使えるのか?」

「俺は、聞けばわかる。わからない奴らが不思議だ」

 

 菜箸でうどんをほぐしつつ、純丘は溜息をこぼす。

 話が早いのはなによりだ。なによりだが下手な挙動ができないという意味でもある。今更ながら後輩たちにとって自分がどれだけ厄介か、客観的に噛みしめてしまった。

 

 こめかみをぐりぐりと押さえて、それから寺野を振り返った。

 きゅっと口角を上げた少年は、体躯と顔立ちのせいで迫力こそあるものの、どうも幼く見える。

 

「そうだな。ちょっとあいつらには嘘ついた。まあ彼らもわざわざ君を殺そうだの潰そうだのは思ってないだろうが、保険がてら」

「ホケン」

「念の為、一応、万が一に備えて、大事を取って。今のはそういう意味合い」

 

 再び鍋に視線を落とす。鍋の中にめんつゆを軽く入れて、ぐるっと回して味見、問題はなさそうだ。

 火を止めたのち、どんぶりに盛り付ける。

 

「うどんできた」

「肉がない」

「肉はない」

 

 買うのを忘れたので入れなかった。

 いただきます、純丘は手を合わせる。いただきます、寺野も意外にも真似をした。

 

 フォークを握った寺野が、うどんをパスタでも食べるようにくるくると巻いていく。初めにうどんを食べさせたときに判明したが、どうも彼は箸は苦手らしい。

 

「先に傷付けられなきゃこっちも君を傷付けねえよ」

「なら。……俺が、オマエか、あの女を傷つければ、そうじゃないか?」

 

 純丘はどんぶりから視線を上げる。うどんを食む寺野を、しばし見つめた。

 

「……マジで厄介な拾い物したな、あいつ……」

「どうなんだ?」

 

 爛々とした瞳は嘘を許さない。「確かに、先に傷付けられればその限りじゃないが」純丘はあくまでも淡白に述べた。

 

「俺の場合、本気で報復するなら社会的に制裁する。具体的には刑務所に終身刑で叩き込む。死刑にしない匙加減で、檻から二度と出られないようにする」

 

 声のトーンは淡々としていた。

 ふざけているそれではなく、すなわち本気かつ真面目の声色で、実際その状況になれば確実に遂行するだろう。

 

 純丘榎はそういう人間だ。

 

「おそらく君が期待するような反応は返さないだろうな」

「……残念だ」

 

 本当に至極残念そうな口振りだった。不満げに眉をひそめるさまばかりは年相応だが、匂わせる事柄には可愛げの欠片もない。

 

 純丘はもう一度、小さく息を吐き出した。

 彼が知り合う年下たちは、大抵の場合物騒が過ぎる。

 

「いーな、うどん」

 

 その直後のタイミングで帰宅した堤は、こちらも不満げにつぶやいた。ごちそうさまでした、再び手を合わせた純丘は、そのまま立ち上がる。

 

「純丘くん」

「うどんな。作る作る」

「次は肉を」

「一人分じゃ足りなかったか……」

 

 なぜ堤が寺野を拾ったのか、その理由を純丘は最後まで聞かなかった。

 

 ちょっかいをかけても望む反応はないと既に判明している。最悪なにかが起きても、黒龍(ブラックドラゴン)のメンバーが然るべき対処を下すだろう。

 自分は目を離しても問題はない、純丘はそう判断した。

 

 寺野南という少年は、普通に過ごしていればまず再会することもないだろう。

 二度と会わないならそれでいい。灰谷兄弟とも繋いでいないので、堤はもちろん、純丘が会う確率もまた限りなく低い。

 

 自宅にて、室内には消したはずの電灯が点いていた。

 純丘は半目になったのち、玄関を開ける。

 

「ただいまー」

「めしー。おかえりー」

「おかえりー。めしー」

 

 でろんとベッドに寝転がって呻く蘭。卓袱台に寄りかかってぴこぴこゲームをする竜胆。「飯は作らなきゃねえなあ」純丘はのんびりつぶやいた。

 

 ところでおかえりより飯が先だったのどっちだ、蘭?

 

「じゃあ作って」

 

 ごく当然と言わんばかりの竜胆の一言。あまりに澄んだ目をする。

 

「俺今日飯食ってきたから」

「はー!? ずる」

「ズルもなにも、君らいつもアポもねえくせに……」

「まァしょうがねえよなあ。俺ら腹空かせて待ってたけどなあ。フクブが一人で飯食ってきたってなら仕方ねえよなあ。きっとお優しい副部長なら部員の空腹を無視しねえと思ったけどなあ。そーいうこともあるよなあ」

 

 ベッドから顔を上げた蘭は、ニコニコと笑みを浮かべている。

 ニコニコと笑みを浮かべて、瞳孔は完全に開いていて、視線はガッチリと純丘を捉えている。

 

 言外の圧力に耐えることたっぷり一分。

 

「……こいつら、俺が気ぃ回してリスクから遠ざけんでもよかったんじゃというきもちがヒシヒシと」

「ナニ?」

「作りゃあいいんだろ、作りゃあ。なにが食いてーの」

 

 投げやりに言い放った元副部長に「ビーフシチュー」「唐揚げ定食」全く違うリクエストが即座に二つ。相変わらず事前に要望を擦り合わせない兄弟だ。

 

 意見が一致してから——純丘が口にする前に、灰谷兄弟は顔を見合わせた。

 各々捲り上げる袖に、ものすごく嫌な予感。

 

「よお竜胆、そろそろ灰谷兄弟の勝者を決めるときが来たらしいな」

「一年先に生まれたからっていつまでも仕切ってんじゃねーよ。二度とデケェ口叩けねえようにしてやる」

「ハハッ兄ちゃん油断してたわ〜よっぽど躾が足りなかったみてェだな」

「夜十時に他人(ヒト)んちで取っ組み合いの喧嘩して夜食のメニューを決めようとするなら、よっぽど帰っていただきたいところだが」

 

 純丘の声はわりと疲労していた。

 彼は本日、日付変更直後の零時から丸一日、学業の本分以外では誰かの使い走りと後始末ばかりしていたし、なんならそれしかしていない。疲れていて当然。

 

 ただほとんどの人間が知る由もない事実なのも、そう。

 

 灰谷兄弟の勝者を決める突発的ハイタニ夕飯紛争(第n次)の顛末は、ここに記すには些か余白が狭すぎる。

 少なくとも彼らの夜食がビーフシチューでも唐揚げ定食でもなく、醤油ラーメン三つになったことだけは記録しておこう。

 

   You've got mail♪

 

 メールの受信音が響いたのは、ラーメンを完食し、洗い物に手を付けるタイミング。日付が変わる直前だ。

 誰のケータイかといえば、蘭も竜胆も着メロはカスタムしているので残りは一人しかいない。

 

「……蘭ちょっと皿洗っといて」

「割ってもいーなら」

「良くねえが? なら軽く水かけて表面の汚れ落としてくれるだけでいいよ」

 

━━━━━━━━━━━━━━

From:マタタビ

To:自分

Title:ごめん、部長

━━━━━━━━━━━━━━

しばらく教室やめる

いろいろありがと

またこんどベンキョおしえて

 -End-

━━━━━━━━━━━━━━

 

 猫に気に入られがちな少年を、純丘はマタタビで登録している。

 受信内容を黙読。何度か瞬きをする。

 

 確かに最近、場地はいつにもまして勉強に身が入らない様子だった。単に飽きたというよりは、なにかに気を取られている、そういうふうに読み取れた。

 

━━━━━━━━━━━━━━

From:自分

To:マタタビ

Title:Re:ごめん、部長

━━━━━━━━━━━━━━

わかった

言ってくれればまたおしえる

 -End-

━━━━━━━━━━━━━━

 

 文末に「なんかあったら言えよ」まで打ち込んで、そこで純丘は指を止めた。

 

「……お節介か?」

 

 余計な文面は消して、二行のメールを送信。

 

 顔を上げれば流しどころかキッチン全体水浸しになっていて、彼は無言で頭を抱えた。

 一瞬目を離した隙に大惨事。さすがのカリスマ兄弟とて気まずげなご様子だ。

 

「……なんでそうなった」

「竜胆が」

「兄ちゃんが」




誘拐
:刑法二二四条から二二九条を参照
 親告罪だが、保護者が訴えることも可能
 虐待親から逃げ出してきた子が保護された場合等にこの法律を根拠に揉めたりもする

Valeu
:ポルトガル語の若者言葉で「ありがとう」

T.AK
:一部の人に人気なシンガーソングライター
 声で若い女だとわかる以外の素性不明
 堤の副業

教会に来た迷子
:「許しきれない」2 months ago編参照

Não
:ポルトガル語で「いいえ」
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